インマヌエル沼津キリスト教会

神の「永遠」の発信教会
沼津市今沢34番地

1月1日元旦礼拝プログラム

2014-12-31 07:54:11 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

1月1日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

1月 元旦礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖なる 聖なる 聖なるかな   1
 交  読  詩篇96篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  天において 主をたたえよ  204
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  マルコ9:2~8
 説  教  『彼の言うことを聞きなさい』 小島牧師
 讃 美 ④  私を祝して         463
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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主と共に食事の席に着く(2014.12.28 礼拝)

2014-12-29 06:43:55 | 礼拝メッセージ
2014年12月28日年末感謝礼拝メッセージ
『主と共に食事の席に着く』
【ヨハネ13:1~7】

はじめに
 早いもので、今日が今年最後の聖日礼拝になります。きょう、この年末感謝礼拝の場に皆さんと集うことができましたことを、心より主に感謝したく思います。
 きょうのメッセージの構成は、始めに今日の聖書箇所を短く見て心を整えて、それから、この1年間の出来事を皆さんと共に振り返り、最後にまた聖書を開いて、来たる年に備えたいと思います。
 きょうは先ず、ヨハネの福音書の13章の始めのほうを見ることにします。ここから、最後の晩餐の場面が始まります。きょう私たちも、この礼拝の後で愛餐会を行います。この食事の場には主イエスも共にいて下さいますから、きょうの聖書箇所はイエスさまと弟子たちとの食事の場面から選びました。
 ヨハネの福音書の最後の晩餐の場面は13章から17章までの、5章に亘る非常に長いものです。ヨハネの福音書は全部で21章ですから、章で言えば全体の約4分の1が最後の晩餐の場面ということになります。ページ数で言えば13章から17章までで10ページ半あります。ヨハネの福音書は全体で55ページありますから、ページ数で言っても全体の5分の1ということになります。ちなみにマタイの最後の晩餐の場面は1ページの4分の3、マルコが1ページ弱、ルカの最後の晩餐の場面が2ページ弱ですから、ヨハネの10ページ半がいかに長いかということが良くわかると思います。

誰に対しても注がれるキリストの大きな愛
 では13章の1節から見て行きます。

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

 イエスさまが残るところなく示された愛とは、一体どれくらいの愛なのでしょうか。去年から今年に掛けて何度も説明して来ましたが、ヨハネの福音書の1章から11章までは、「旧約聖書の時代」と「福音書のイエスさまの時代」と「使徒の働きの時代」の三つの時代が三段に重なった重厚な構造になっています。その1章から11章までの三つの時代が12章で一つに合流して、ここで三つの時代の神の愛がぎゅっと濃縮されます。そして、その重厚で濃厚な神の愛がこの13章から弟子たちに対して注ぎ出されます。その象徴となる場面が、イエスさまが弟子たちの足を洗った場面であると言えるでしょう。2節から4節、

13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

 2節ではイスカリオテのユダの裏切りについて言及しています。そして4節でイエスさまが弟子たちの足を洗うために夕食の席から立ち上がってことが書かれています。ということは、イエスさまはユダの足もまた洗ったということです。イエス・キリストの大きな愛は誰に対しても分け隔てなく注がれます。5節、

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

 イエスさまは弟子たちの前にひざまずいて、弟子たちの汚れた足を洗いました。外を歩いて汚れた足を洗うのは奴隷の役割であったと言われています。6節と7節、

13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

 7節のイエスさまが言った、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」。これは何を意味するのでしょうか。これは、ピリピ人への手紙2章を見ればわかると思います。ピリピ2章6節から8節までを交代で読みましょう。8節はご一緒に読みます。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 イエスさまが弟子たちの足を洗った出来事は、パウロがピリピ2章のこの箇所で書いたことを象徴していると言って良いでしょう。
 イエスさまがこのようにご自分を卑しくして私たちのために働いて下さっていますから、私たちは守られています。この1年、私たちの一人一人にとっても、また教会にとっても様々なことがありましたが、イエスさまが共にいて下さり、守って下さったことに心から感謝したく思います。

一年間の歩みを振り返る
 さて、これから暫くの間、教会のこの1年間の歩みを振り返ってみたいと思います。
 今年の1月、私たちの教会は週報の1ページ目にも掲げてある、ヨハネ6:27の「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」のみことばと伴に、この1年の歩みを始めました。来年からは新しいみことばを掲げますが、永遠のいのちに至る食物のために働くことは、私たちがこの世にいる限り終わることはありませんから、これからもこのために働いて行きたいと思います。
 そして1月の終わりには教会総会がありました。この時に申し上げたことは、もし私たちが2017年に新会堂の献堂をしたいと本気で思っているなら、2015年には具体的な動きをしなければならない。そのためには2014年には目に見える形で変化がなければならないということでした。私の頭の中にあった変化とは、教勢と財勢が増えることでした。教勢のほうは残念ながら増えることはありませんでしたが、財勢のほうは祝されたと思います。そして主は別の面から私たちに変化を見せて下さり、私たちの背中を押して下さったと思います。それは、この会堂の屋根の腐食がもはや限界に近い状態にあるということですね。このことについては、また後で話します。
 2月からは会堂祈祷会を始めました。教会の皆さんが交代で司会の御労を担って下さっていますから、とても感謝に思います。様々な方が司会をして下さることで、違う視点から会堂問題を考えることができていることもまた感謝です。まだ司会を担当していない方で、もし司会をしても良いという方がいらっしゃいましたら、是非おっしゃっていただけるとありがたく思います。
 3月にあった大きな出来事としては私たちの教会から送り出した廣瀬いずみ先生が聖宣神学院を卒業して、下関教会の主任牧師に着任したということですね。3月の第2聖日には、この教会に来ていただき歓送礼拝をすることができました。献身者を送り出すことは教会にとっては痛みを伴うことです。しかし神様は、その痛みに優る恵みを教会に与えて下さいます。献身者を送り出す教会は必ず祝福されます。ですから献身者を送り出したこの沼津教会が祝福されない筈がありません。このことは新会堂に向かって行く上で、私たちの心の大きな支えになっていますから、廣瀬いずみ先生を喜びを持って送り出すことができたことは本当に幸いなことであったと思います。私たちはこれからも、廣瀬いずみ先生のためにお祈りする教会でありたいと思います。
 4月の聖日は聖餐式をもって始めることができました。聖宣神学院の院長の河村従彦先生をお迎えして幸いなメッセージを聞き、聖餐式を執り行っていただいた後で愛餐会も祝されて、とても感謝でした。そして、この4月からは幹事会をスタートさせました。これまでの役員会と伝道委員会とを合流させて、さらには教会の様々なご奉仕の重荷を負って下さっている方々も加えて多くの方々と話し合いながら教会を運営する形に持って行くことができるようになったこともまた感謝でした。
 また、この4月は悲しい出来事があった月でもありました。先ず4月10日の朝に、片浜駅の近くの松長の交差点で、登校中の小学5年生の男の子が交通事故で死亡するという悲しい事故がありました。私もこの事故の現場に行って祈りを捧げて来ましたが、私はこの教会の祈祷会で地域の子供達の安全のために祈って来なかったことを悔やみました。前任地の姫路教会にいた時に、京都で登校中の小学生が死亡するという痛ましい交通事故がありました。その事故以来、私は姫路教会の祈祷会では毎週、地域の子供達の交通安全のために祈るようにしていました。それが沼津に来てからは祈らなくなっていましたから、本当に悔やんだことでした。私たちは地域の方々のため、特に地域の子供達やお年寄りのために祈る教会でありたいと思います。
 4月にはまた27日にK兄が天に召され、29日に前夜式、30日に告別式を原の葬祭場で行いました。私自身が葬儀の司式は初めてという不慣れな中でしたが、主の御守りによって全て滞りなく葬儀を行うことができ、また良い伝道の機会にもなったことは、とても感謝なことでした。教会の皆さんにはご奉仕や参列をいただいたことに感謝いたします。私たちはK姉のためにもお祈りして行かなければならないと思います。
 次の5月は、会堂問題にとって大きな動きがあった月でした。5月の下旬に、梅雨入りを前にして屋根の点検と補修のために屋根に上がったところ、屋根の鋼板の腐食が思っていた以上に深刻であることがわかりました。それで、このことを5月の幹事会で幹事の皆さんに報告し、さらに教団のブロックアドバイザーと静岡教区の主事にも報告しました。そうして6月は、屋根の葺き替えを行うのか、或いは屋根の葺き替えにお金を使うことはしないで新会堂の実現に向かって新たな一歩を踏み出すことにするのかを、考える期間となりました。
 そうして教会では7月の第2聖日に会堂建設委員会を招集して、屋根の葺き替えは行わずに新会堂の建設へと向かうことを確認しました。そして、この会堂建設委員会の決定は、教会の皆さんにお伝えするとともに、教団の代表と教団の会堂委員会の委員長の先生にも報告しました。また、この7月に実施した上半期感謝献金では目標金額の半額を会堂積立金に充当することとして目標額を上げたところ、皆さんそれまでよりも多く捧げて下さって目標額が満たされましたから、これもまた感謝なことでした。こうして私たちは新会堂の建設に向けて新たな一歩を踏み出し、8月には会堂問題勉強会をスタートさせ、またこの8月には会堂献金として多額の献金が捧げられて新会堂へ向けての前進に弾みがつきましたから感謝でした。
 8月にはまた礼拝でF兄に証をしていただきました。10月にはT姉にも証をしていただきました。この礼拝での証は続けて行きたいと思いますから、この方の証を聞きたいというようなご要望がありましたら、お寄せいただきたいと思います。
 9月には特別伝道会を千本プラザで行うことができました。12月のクリスマスの集いも千本プラザで行う予定でしたが、あいにく会場の予約が既に入っていましたから、千本では行うことができませんでした。来年の伝道会をどのように行うか、これから考えて行かなければなりませんから、ご意見がありましたら、お寄せいただきたいと思います。そして9月の第3聖日にはシオン教会の荻野倍弘先生をお迎えして聖餐式礼拝を行うことができました。愛餐会ではシオン教会が新会堂の建設に取り組んだ時の貴重な証を聞くことができましたから、これもまた感謝なことでした。
 10月の前半には2週続けて大きな台風の通過がありました。特に台風18号ではJR東海道線が土砂崩れで普通になったり、原の方の広い地域が冠水したりする大雨が降り、この教会でも私が着任して初めて雨漏りがありました。こうして神様は私たちの背中を押して下さっているように思います。
 10月の第4聖日には召天者記念礼拝を行い、N姉とK兄、そしてKさんのご一家がそろって礼拝に参加して下さり感謝でした。愛餐会ではT兄の幸いなお証しを聞くことができたこともうれしいことでした。
 11月の出来事としては、私は個人的には教会のブログの訪問者数が3万人を越えたことがうれしいことでした。インターネットは上手く用いるなら伝道のツールとして、とても有効だと思いますから、教会の皆さんのご協力も是非いただきたいと思います。ブログに掲載している教会員の証にも、ぜひ原稿を寄せていただけたらと思います。そして11月の第5聖日からアドベントに入りましたね。今年はハンドベルを行うことが難しいということで、会衆賛美をコーラスで行う形式にしました。これはこれで良かったと思いますが、やはり少し物足りない感じがしたのも事実ですから、来年はどうするか、また考えて行けたらと思います。
 そして12月の第1聖日のアドベント第2礼拝には高津教会との交換講壇があって、沼津教会でも高津教会でも共に祝されて感謝でした。先ほど3月に廣瀬いずみ先生をこの教会から送り出したことが感謝であると言いましたが、今回私は私を送り出して下さった高津教会に短い間でしたが戻ることができて、私自身もとても感謝に思いました。教会が献身者を出すということは、送り出す側も送り出される側も共に多くの恵みをいただけるのだと思いました。そうしてキリスト教会は2千年間続いて来ることができたのだと思います。ですから先ほども言いましたが、献身者を送り出した私たちの沼津教会が祝福されないはずがありませんから、私たちは新会堂に向かって力強く進んで行きたいと思います。
 そして12月の第2聖日の午後のクリスマスの集いと24日のキャンドルサービスには両方とも新しい方が来て下さり感謝だったと思います。新しい方が来て下さって思いましたが、私たちはやはり、この教会の内観・外観をもう少し教会らしい雰囲気になるように努めるべきではないかなと思いました。きょうの愛餐会では、そんなことも少しご相談できたらと思っています。
 この1年は、とても早く過ぎてしまったように思いますが、このように1年を振り返ってみると、いろいろなことがあった1年であったと思います。悲しいこともありましたが、その大部分が感謝なことであったことは主の御守りであるがゆえですから、御名を崇めます。きょうの愛餐会ではこれらのことにも感謝しながら、主と共に食事を楽しみたいと思います。

私たちが一つとなるために
 最後に、この最後の晩餐の終わりのほうの17章をご一緒に見て、メッセージを閉じたいと思います。13章でイエスさまが弟子たちの足を洗った場面から始まった最後の晩餐は、イエスさまの天の父へのお祈りで終わります。
 17章の20節を見て下さい。17章20節、

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

 彼らのことばによってわたしを信じる人々というのは私たちのことですね。イエスさまは私たちのためにも天の父にお願いして下さっています。それは、私たちが一つになるということのためです。イエスさまは私たちが一つになることができるよう、天のお父様にお願いして下さいました。
 新会堂に向かって前進する私たちが来年、一つになって進んで行くことができますよう、願いながら21節から23節までを交代で読みましょう。23節はご一緒に読みます。

17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 お祈りいたしましょう。
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羊飼いたちの感動(2014.12.24 キャンドルサービス)

2014-12-25 20:45:26 | 特集
2014年12月24日キャンドルサービス・メッセージ
『羊飼いたちの感動』
【ルカ2:8~20】

はじめに
 こんばんは。教会にようこそいらして下さいました。
 この教会のクリスマス・イブの集いで、皆さんと共にイエス・キリストの誕生をお祝いできることを、心から感謝したいと思います。これから10分少々、聖書の話をさせていただきます。
 いま読んだ聖書の箇所は、クリスマスには、とても良く開かれる箇所です。イエス・キリストが生まれた夜、羊の番をしていた羊飼いたちの所に御使い(天使)が現れて、救い主が誕生したことを告げました。それを聞いた羊飼いたちはベツレヘムの町に出掛けて行き、飼葉おけに寝ている赤ちゃんのイエスさまを捜し当てたという記事です。きょうは、この羊飼いたちが味わった喜びと感動を、私たちもまた共に味わうことができたらと願っています。

ひどく恐れた羊飼いたち
 きょうの聖書箇所の前のところには、ベツレヘムというダビデの町で赤ちゃんのイエスさまが生まれるまでのことが記されています。イエスさまの両親のヨセフとマリヤは、住民登録のために、ヨセフの祖先のダビデの町に来ていましたが、宿屋に泊まることができませんでした。ちょうどその頃に身重だったマリヤが産気づいたので、家畜小屋でイエスさまを産んで飼葉おけに寝かせたのでした。御使いはこのことを羊飼いたちに知らせに来ました。
 御使いが羊飼いたちのところに来た時、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れたとあります。それは夜中のことでしたから、暗い場所が急に明るい光で照らされたら、それは驚くでしょう。私もつい最近、暗い所で強い光を見てドキッとする経験をしました。何日か前の夜、ふと窓の外を見たら星がとてもきれいだったので、海岸の堤防で星空を見たいと思って、少し厚着をして堤防の上に行きました。その時、いくつか流れ星が見えました。あまり明るくない流れ星なら別に驚くことはないのですが、この時は短い時間の間に二つも、とても明るい流れ星が流れました。周りがとても暗い中で急にとても明るい強い光の流れ星が出現すると、ドキッとします。このルカの福音書の羊飼いたちの場合は、真っ暗な牧場が急に明るくなって御使いが現れたのですから、さぞ驚いたことでしょうね。恐れる羊飼いたちに、御使いは言いました。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10,11)

 御使いは、「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と言いました。御使いは、ユダヤの民全体のための素晴らしい喜びを、貧しい羊飼いたちに、まず教えに来てくれたんですね。裕福な人々ではなく、まず貧しい羊飼いたちに知らされました。これは、素晴らしい恵みでした。そして、まず羊飼いたちに喜びが伝えられたことは、他にも、いろいろな意味が込められていると思います。

羊飼いの大先輩のダビデ王
 例えばダビデの町のダビデというのは羊飼いと大変に深い関係にありました。ダビデというのは、ヨセフの祖先ですが、この国の王様だった人物です。しかしダビデが王様になる前は、ダビデは羊飼いをしていました。ですから、羊飼いたちにとっては、大先輩だったんですね。
 ダビデは、とても勇敢な王様で多くの戦いに勝利しましたが、羊飼いだった時にも非常に勇敢で、熊やライオンが羊を食べに来た時、ライオンや熊とも戦ってやっつけたと聖書には書かれています。
 そして、ダビデは単に勇敢なだけではなく、竪琴の名手でもあり、ダビデが弾く竪琴は人の心を慰めていました。また、ダビデは詩人でもあり、たくさんの詩を書いて残しました。詩篇の第23篇という有名な詩で、ダビデは次のように書いています。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 かつてダビデは羊飼いとして、羊たちの命を危険から守っていました。そして、羊たちが安心してノンビリと緑の牧場で暮らすことができるよう、いつも見守っていました。
 私たち人間もまた、とても弱い者たちです。そんな弱い私たちを神様は、いつも守って下さり、平安を与えて下さると、ダビデは、この詩に書いて詩いました。もう一度、今の詩をお読みします。この詩の「主」というのは、神様のことです。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 ダビデは神様への信仰が篤かったので、神様のことを全面的に信頼していました。それで神様もダビデの王国を祝福して繁栄させて下さいました。

暗い心を明るく照らした救い主の誕生
 ところがダビデの子孫たちは、神様から段々離れて行ってしまい、神様との契約、約束も守らなくなって行ってしまいました。それで、神様は、もうダビデの子孫たちの王国を見放してしまいました。そのためにユダヤの王国は滅んでしまって、ペルシャやギリシャやローマに支配されるようになってしまいました。もしユダヤが大国に支配されずに、ダビデの王国が続いていたなら、ヨセフはダビデの子孫ですから、ヨセフも王様になっていたはずです。しかし、ヨセフは貧しい大工でした。国が弱い時というのは、特に貧しい人々の暮らしはとても大変です。羊飼いたちもまた、貧しい者たちでした。しかも夜中も寝ずに羊の番をしなければならない、とても大変な仕事です。ユダヤがローマに支配されていてユダヤ人の全体がなかなか希望を持てないでいた中、貧しい羊飼いたちは、なおさら希望を持てないでいたのではないでしょうか。
 そんな暗い生活をしていた羊飼いたちの目の前が突然明るくなり、御使いがこう言ったんですね。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:10-12)

 そうして天の軍勢が現れて、神を賛美して言いました。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

 これを聞いた羊飼いの心の中は、どんなにか明るく照らされたことでしょうか。羊飼いたちは、喜んで、このことをベツレヘムの町まで確かめに行き、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ているみどりごのイエスさまを捜し当てました。
 そして、きょうの最後に読んだ箇所の20節にあるように、羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。この時の羊飼いたちの喜びと感動は、本当に大きなものであったことでしょう。

魂に安らぎを与えて下さる救い主
 そしてイエス・キリストは、単にユダヤ人のための救い主になっただけでなく、世界中の人々の救い主になりましたから、世界中の教会が、毎年クリスマスに、イエスさまの誕生をお祝いするようになりました。
 クリスマスのチラシにも書きましたが、イエス・キリストは永遠の中を生きていますから、イエス・キリストは二千年前の人々だけではなく、現代の私たちのための救い主でもあります。聖書のマタイの福音書には、イエスさまが次のようにおっしゃったことが記されています。

 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 こうして、イエスさまは現代においても、世界中の人々の魂に安らぎを与えて下さっています。西洋人も東洋人も区別なく安らぎを与えて下さいますから、日本人の私たちも、その恵みをいただくことができます。このように私たちを救うために、この世に生まれて下さったイエスさまに心から感謝したいと思います。

おわりに
 きょうのこのクリスマスイブの集いの後半は、是非このことに感謝しながら、賛美を楽しみたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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12月28日年末感謝礼拝プログラム

2014-12-25 18:33:10 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

12月28日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

12月 年末感謝礼拝順序

 司  会                矢崎兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉(2回)   253
 交  読  詩篇75篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  確かなもとい ただ主に置き  83
 讃 美 ③  われらはキリストのもの   232
 聖  書  ヨハネ13:1~7
 説  教  『主と共に食事の席に着く』 小島牧師
 讃 美 ④  主よ、おわりまで      459
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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2014クリスマス行事のご案内

2014-12-25 18:29:41 | 特集
12月14日(日)クリスマスの集い 午後1時半~
12月21日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月24日(水)キャンドル・サービス 午後7時~

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世界の救い主(2014.12.21 クリスマス礼拝)

2014-12-21 14:41:15 | 礼拝メッセージ
2014年12月21日クリスマス礼拝メッセージ
『世界の救い主』
【マタイ2:1~12】

はじめに
 きょうはクリスマス礼拝です。私たちのために救い主イエス・キリストが、この世に生まれて下さったことを、心一杯お祝いしたいと思います。
 きょうのこのクリスマス礼拝のメッセージのタイトルは『世界の救い主』です。イエス・キリストはユダヤ人のヨセフとマリヤの子としてユダヤのベツレヘムで生まれ、そしてユダヤのエルサレムで十字架に掛かって死にました。ですからイエス・キリストはユダヤ人のための救い主ではないかと思う人も世の中にはいるでしょう。或いはまた、日本人の多くはイエス・キリストは西洋人のための救い主だと思っています。しかし実際は、ユダヤ人や西洋人のためだけの救い主ではありませんね。イエス・キリストは世界中の人々のための救い主です。東方の博士たちが誕生した幼子のキリストを遠路はるばる拝みに来たことは、そのことを物語っています。きょうは先ずこの東方の博士たちに注目して、イエス・キリストが世界の救い主であることを見たいと思います。
 また、それと同時に、当時の科学文明がいかに発達していたかということも、併せて見ることができたらと願っています。二千年前というと日本では弥生時代ですし、イエス・キリストの生誕物語では家畜小屋とか羊飼いたちが登場しますから、科学的な文明など全く無かった時代ではないかと、つい思ってしまうかもしれませんが、この当時には既に高度に発達した科学文明がありました。そんなことも一緒に学びつつ、クリスマスのお祝いをしたいと思います。

星観測の専門家だけが見た星
 きょうのマタイ2章の東方の博士の箇所は、おなじみの箇所ですから、ほとんどの皆さんは良くご存知のことと思います。まず1節と2節、

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

 イエス・キリストが生まれたのは二千年前のヘロデ王の時代のことでした。この時、東の国から博士たちがエルサレムのヘロデの所にやって来ました。この博士たちは東のほうで、ユダヤで王が生まれたことを示す星を見たので、拝みに来たということでした。
 この星がどんな星だったのか、そして博士たちとはどんな人々だったのかを想像することは楽しいことです。想像を楽しみながら、博士たちがどんな博士たちだったのかを、もう少しハッキリさせてみたいと思います。
 まず、この星の出現は誰が見てもわかる、というようなものでは無かったと言えると思います。誰が見てもわかるものであれば、その地域一帯で騒ぎになっていたことでしょう。新しい星の出現は、現代でもあることですね。特に彗星については話題になります。彗星と言えばハレー彗星が有名です。ハレー彗星が1986年に接近した時は、あまり大きくは見えませんでしたが、その前の1910年に大接近した時には、世界中で大騒ぎになったのだそうですね。彗星の尾には猛毒が含まれているという噂や、彗星の尾が地球を通過する時には地球の空気が一時的に無くなるという噂が流れたそうです。それで日本では金持ちが自転車のチューブを買い占めて、チューブ内の空気を吸って彗星の尾をやり過ごそうとしたり、水を張った桶で息を止める訓練をする者などもいたそうです。或いはまた、どうせ死ぬのだから死ぬ前に金を遊びで使ってしまおうという者が増えて、歓楽街が非常に賑わい、かつてない盛況を見せたそうです。これは100年前の1910年の話ですが、2000年前でも、もし博士たちが見た新しい星の出現が誰にでもがわかるようなものだったなら、この1910年ほどではないにしても、人々の間で話題になり、ヘロデ王もまた気付いたことでしょう。しかし、博士たちがヘロデの所に行くまでヘロデはこのことを知らなかったのですから、この星の出現は素人にはわからない、星の観測を毎日のように行っている専門家でなければわからないものだったのですね。2000年前の天文学は、既に相当に高度に発達していたと思いますから、東方の博士たちもまた、そのような高度の天文学を身に付けた者たちであったことでしょう。東方の東の国がどこであったのかをマタイは明らかにしていませんからわかりませんが、かつてバビロンがあったチグリス・ユーフラテス川の流域は文明が発達していた地域ですから、バビロンの方から来たのかもしれません。

高度に発達していた天文観測技術
 2000年前の天文学がどれぐらい発達していたかは、プトレマイオスの天動説を考えてみると、だいたい想像できると思います。プトレマイオスは1世紀の末から2世紀の中頃までを生きた人ですから博士たちよりは100年ぐらい後の人ですが、当時の天文学のレベルを見る分には、同じぐらいの時代と言って良いでしょう。週報の中に図(出典 http://www008.upp.so-net.ne.jp/takemoto/chidousetsu.htm)を描いた紙を挟み込んでおきましたが、単純な天動説では、上の図のように地球を中心にして、全ての天体が単純な円軌道で地球の周りを回るというものです。



 しかし、プトレマイオスの天動説では、地球の周りの円軌道上に、もう一つの円軌道を周回させて惑星の運動を表現しています。ということは、当時もう既に、火星や木星などの惑星が非常に複雑な動きをすることがかなり正確にわかっていたのですね。現代の私たちは地動説を知っていますから、地球も他の惑星と同じように太陽の周りを回っていることを知っています。地球から見た惑星の動きが複雑なのはそのためであることを私たちは知っています。しかし当時は、まさか自分たちの側が動いているとは思いませんから、プトレマイオスはこのような、しくみを考え出しました。そして実際に、この図で実際の惑星の動きをかなり上手く説明できていました。コペルニクスの地動説が現れるのは、このプトレマイオスよりも遥かに後で西暦1500年代の前半のことです。プトレマイオスよりも1400年も後のことです。ですから、東方の博士たちより少しだけ後のプトレマイオスの時代には既に、天動説による天文学はほぼ完成の域に達していたことになります。恐らく東方の博士たちもまた、プトレマイオスの時代とそれほど変わらない天体観測技術を持っていたのだろうと私は思います。
 そのようにマタイの福音書に登場する東方の博士たちというのは、非科学的な怪しげな占星術を操る者たちなどではなく、当時の最先端の天体観測技術を持ったハイレベルの科学者であったのだろうと思います。また昔の博士というのは、今と違って一つの専門分野しか持たないということはありませんでしたから、様々な分野において優れた知識と技術を持っていたのだろうと思います。

早くから確立されていた製鉄技術
 天文観測以外の技術で私が興味を持つのは、この地域では早くから鉄を利用して武器や農具を作る技術を持っていたということです。イザヤ書の2章を開いてみましょう。2節、

2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

 これは主が諸国に平和をもたらすという幸いな預言です。イザヤが預言していた時代は紀元前700年代で、それは北王国がアッシリヤ帝国に攻められ、やがて滅亡した頃のことです。このイザヤ書2章4節には、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し」とありますから、当時、紀元前700年代には既に武器の剣や槍も、農具の鋤や鎌も鉄で作られていたということですね。鉄は硬くて丈夫ですから、武器や農具として用いるのに、とても適していました。しかし、鉄は鉄だけで天然に存在するわけではありません。そこらへんに鉄骨が転がっているわけではなく、自然界の中では鉄は隕石や鉄鉱石として存在しています。隕石や鉄鉱石は岩石です。そのような岩石を高温に熱して製鉄し、武器や農具などの鉄器を作る技術が既に紀元前700年代のイザヤの時代には確立していたなんて、本当に凄いことだなあと思います。
 私たちは聖書の時代というと何となく科学技術がほとんど発達していない、文明的にはかなり劣った時代と考えてしまいがちかもしれませんが、いま話した天文観測技術や製鉄の技術を見ても、相当に高度な技術を持っていたのだという認識を持つ必要があるだろうと私は思います。そして東方の博士たちというのは、当時の最先端の知識と技術を持った人たちであったと言えるでしょう。最近の話題で言えば、ノーベル賞の授賞式があったばかりですから、東方の博士たちのレベルというのは、ノーベル物理学賞を受賞した科学者たちに匹敵すると言っても決して間違ってはいないだろうと思います。
 少し話は脱線しますが、今年のノーベル物理学賞は青色LEDを製造する技術を開発した3人に与えられましたね。私は古代に鉄鉱石から鉄を作る製鉄の技術を開発した人々の功績は、ノーベル賞よりも、もっともっと凄い功績だと思います。また2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんは、超新星爆発で発生したニュートリノを観測した功績が評価されました。小柴先生はまさに新しい星の出現を観測したわけですから、東方の博士たちと同じだというわけですね。東方の博士たちというのは、今で言えばそれぐらいのノーベル賞級の科学者たちと言って良いのだろうと私は思います。

世界の全ての人々のための救い主
 マタイの福音書に戻ります。きょうはヘロデ王については飛ばして、9節から11節までをお読みします。

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 黄金、乳香、没薬は宝の箱に入っていて、どれもとても高価なものでした。これらのものを贈り物としてささげることができた博士たちは、やはり身分的にもかなり高い人々だったのでしょう。
 イエス・キリストが生まれた時、幼子のイエスさまは羊飼いの訪問を受け、祝福されました。羊飼いというのは当時のユダヤ人の社会では身分の低い者たちでした。そうして、今度は東の方の外国にいる身分の高い博士たちからも拝まれ、祝福されました。それは、イエス・キリストが全ての人々のための世界の救い主であるからですね。ユダヤ人も異邦人も区別なく、身分が低い者も身分が高い者も区別なく、イエス・キリストは世界の全ての人々のための救い主です。
 イザヤ書には、主がすべての国の人々に救いをもたらすことを示す記述があちこちにあります。きょうは最後にイザヤ書の61章をご一緒に読みたいと思います。なぜ61章を選んだかというと、このイザヤ61章は、成長した主イエスが宣教を開始した時に、会堂で巻物を手に取って読んだ箇所だからです。ですから、まずルカの4章をご一緒に見ましょう。ルカの福音書4章の16節から21節までを、交代で読みましょう。このルカ4章の前の方には、主イエスが荒野で四十日間、悪魔の試みに会ったことが書かれています。そうして主イエスはご自分が育ったガリラヤに戻って来ました。16節から21節までを、交代で読みます。

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 21節で、イエスさまは、聖書のこのみことばが実現しましたとおっしゃいました。「このみことば」とは、18節にある、「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。」というみことばですね。このみことばは、イザヤ書61章のみことばです。最後に、イザヤ61章をご一緒にみましょう。
 イザヤ61章の1節にあるのが、今ご一緒に読んだルカの福音書にあったみことばですね。

61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

 この1節から始まるイザヤ61章の最後の2節を読んで、きょうのクリスマス礼拝を閉じたいと思います。特にじっくりと味わいたいのが11節です。「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ」とあります。主がすべての国の前に義と賛美とを芽ばえさせて下さいましたから、日本人の私たちにも神の義が与えられ、また神を賛美する恵みが与えられたのですね。

おわりに
 クリスマス礼拝のきょう、このことを心一杯感謝しながら、10節と11節を交代で読みたいと思います。

61:10 わたしは【主】によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
61:11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ。

 お祈りいたしましょう。
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ヨセフの信仰(2014.12.17 祈り会)

2014-12-18 12:38:28 | 祈り会メッセージ
2014年12月17日祈り会メッセージ
『ヨセフの信仰』
【マタイ1:18~25】

はじめに
 アドベント第3週の祈祷会のきょうのメッセージは、ヨセフの信仰を見たいと思います。アドベントには良く開かれる箇所で、皆さんもよくご存知のことと思いますが、この時期、改めてヨセフの信仰に思いを巡らしたいと思います。

正しい人ヨセフ
 まず1章の18節と19節、
 
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 19節に、ヨセフは彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めたとあります。この時点では、ヨセフもマリヤが身重になった事情をわかっていませんでしたから、律法の規定通りに彼女を裁くべきか悩んだ末に、内密に去らせようと決めました。このような件に関する律法は申命記22章23節からの箇所に書いてあります。少し長いですが、23節から27節までをお読みします。

22:23 ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、
22:24 あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
22:25 もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。
22:26 その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。
22:27 この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。

 この律法の規定によれば、もしマリヤが「町」で男と寝た場合には、マリヤと男の両方が石打ちの刑で死ななければなりません。もしマリヤが「野」で男と寝たのだったら、マリヤには死刑に当たる罪はないことになります。しかし仮に「野」であったとしても、死刑にならずには済みますが、いずれにしてもマリヤはさらし者になってしまいます。ヨセフはマリヤをさらし者にしたくなかったので、マリヤを内密に去らせようと決めました。
 興味深いのは、この19節には、「ヨセフは正しい人であって」とあることです。「正しい人」とは、本来は律法を守る人のことであるはずです。しかしここでマタイは、マリヤを律法の規定通りには裁かないことにしたヨセフを「正しい人」としました。これは、イエスさまが安息日について、

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:27)

とおっしゃったのと通じるところがありますね。律法を何でもかんでも杓子定規で適用するのではなく、ヨセフには、このような柔軟なところがありました。このようなヨセフをマタイが「正しい人」としたことは、とても興味深いと思います。

信仰と柔軟性
 信仰にも、そのような柔軟さが必要だと思います。聖霊によって身重になるなどということは、世の中の常識から考えるなら、有り得ないことです。しかし、それを柔軟に受け入れることが信仰なのだろうと思います。
 少し話が脱線しますが、科学者で神を信じる人が少なくないのも、柔軟性と関係があるのではないかと思います。一般の人から見ると、なぜ科学者が神を信じるのか不思議に思われるかもしれませんが、科学の世界は不思議なことに満ちていますから、その不思議さを受け入れることと神を信じることとは関係があるのだろうと思います。
 今年2月のクリスチャン・トゥデェイの記事に、こんな記事がありました。
 
 米国科学振興協会が(2月)16日発表した調査によると、米国の科学者の内36%は、神の存在について全くの疑いを持っていないことが分かった。
 同協会は16日、米シカゴで年次会合を開催し、この中でテキサス州ライス大学の研究チームが、科学者とプロテスタント福音派の信者ら1万人を対象に実施したアンケート調査の結果を発表した。研究発表は、キリスト教信仰が根付くアメリカでは、科学と宗教が互いに対立するのではなく、協調できる可能性が高いことを示した。
 一方、今回の調査では、米国の科学者と一般人の宗教活動についての比較も行われ、それほど違いがないことも明らかになった。また、科学者の36%は神の存在について全く疑いを持っていないと回答しており、3人に1人の科学者が神の存在を確かに信じていることが分かった。
 同調査結果によると、科学者の内、1日に数回祈る人は19%(一般人は26%)、毎週礼拝に出席する人は18%(同20%)、自身を敬虔な信仰の持ち主だと考えている人は15%(同19%)、宗教に関する文章を毎週読む人は13.5%(同17%)と、いずれも一般人よりは少なくなるが、それほど大きな違いはなかった。

 一概には言えないかもしれませんが、私が受けている感じでは、神を信じる科学者は柔軟性に富んでいるのではないかという気がしています。

柔軟性に富んだヨセフ
 マタイの福音書のヨセフに戻ります。このヨセフは本当に柔軟性に富んだ人であったのだろうと思います。20節と21節、

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によ
るのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 そして24節と25節、

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

 マリヤの場合には御使いのガブリエルがマリヤの前に現れたことがルカの福音書に書かれています。しかし、ヨセフの場合は夢の中でのお告げだったのですね。この夢のお告げを受け入れたヨセフは、やはり相当に柔軟性に富んだ人だったのだろうなと思うことです。だからこそ、妻のマリヤと子のイエスを守り通すことができたのだろうと思います。
 身重になったマリヤを、世間の目からどのように守ったのか、このようなヨセフだからこそできたのだろうと思います。また、家畜小屋で出産しなければならなかったことや、東方の博士たちが来た後で、エジプトへ逃げなければならなかったことなど、困難の連続でした。そのような困難を切り抜けることができたのは、ヨセフが機転が利く人物であったことを物語っていると思います。もしヨセフが杓子定規の通りにしか行動できない人であったなら、妻と子を守り通すことができなかったのではないかと思います。それゆえ、ヨセフもまた神に用いられた器でした。

聖霊がとどまっていたであろうヨセフ
 先日の礼拝で、シメオンを見ました。ルカの福音書には、シメオンは正しい、敬虔な人で、聖霊が彼の上にとどまっておられたと書いてあります(ルカ2:25)。シメオンの上に聖霊がとどまっていたのですから、私はヨセフの上にも聖霊がとどまっていたのではないかなと思います。そうしてヨセフが聖霊の守りと導きの中にあったから、ヨセフはマリヤと幼子のイエスを柔軟性に富んだ方法で守ることができたのだろうと思います。
 ヨセフが福音書で最後に登場するのは、イエスが12歳だった時のルカの福音書の記事です。イエスがおよそ30歳でガリラヤで宣教を始めた時、母のマリヤは登場しますが、ヨセフは登場しません。それゆえヨセフは早くに亡くなったのかもしれませんし、別の事情があったのかもしれません。いずれにしてもヨセフの信仰がマリヤとイエスを守ったのだと言えると思います。

おわりに
 クリスマスに向けて、このヨセフの信仰にも思いを巡らしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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12月21日クリスマス礼拝プログラム

2014-12-18 09:08:06 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

12月21日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

12月 クリスマス礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  もろびとこぞりて       76
 交  読  イザヤ9:1~7
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  マリヤに抱かれ        83
 讃 美 ③  あら野のはてに        87
 聖  書  マタイ2:1~12
 説  教  『世界の救い主』 小島牧師
 讃 美 ④  静かに眠れるベツレヘムよ   75
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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幼子イエスを抱く恵み(2014.12.14 クリスマスの集い)

2014-12-17 19:26:24 | 特集
2014年12月14日クリスマスの集い
『幼子イエスを抱く恵み』
【ルカ2:25~33】

はじめに
 クリスマスの集いにようこそいらして下さいました。毎年、今の時期には、クリスチャンではない日本人も多くの方々がクリスマスをお祝いします。街にはクリスマスの飾り付けがされてクリスマスソングが流れ、人々はクリスマスプレゼントを買い求めます。
 私はキリスト教会の牧師として、このことを、とてもうれしく思います。クリスマスがイエス・キリストの誕生を祝う行事であることを、多くの日本人は知っていて、その上で祝っているのですから、やはり、これはうれしいことです。そして、このクリスマスをきっかけにして、聖書のことをもっと知っていただけたなら、さらに喜ばしいことだと思います。

幼子イエスがわかったシメオン
 きょうのメッセージでは、イエス・キリストが生まれてしばらく経ってから、シメオンという年老いた敬虔な信仰者が、幼子のイエス・キリストを抱いた記事を、共に味わってみたいと思います。
 この日、イエスの両親のヨセフとマリヤは、幼子のイエスを連れてエルサレムの神殿に来ていました。この時はまだイエス・キリストは幼子であってキリスト教は始まっていませんでした。ですから、これは宗教的な儀式が旧約聖書のしきたりに則って行われていた時のことです。
 ヨセフとマリヤが旧約聖書のしきたりに従って幼子のイエスを連れてエルサレムの神殿に来た時、そこにシメオンも来ていました。このシメオンは正しい敬虔な人で、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、神様からのお告げを受けていました。
 そしてシメオンは、幼子のイエスを見た時に、この幼子こそがキリストであることがわかったのですね。これは驚くべきことではないでしょうか。なぜならイエスの両親のヨセフとマリヤはエルサレムの住人ではありませんでしたから、エルサレムに住んでいたシメオンとは全く面識がありませんでした。さらに言うなら、この時点では、恐らくユダヤの王のヘロデ王でさえ、幼子が生まれたことを知らなかったのではないかと思います。ヘロデ王は東方の博士の訪問を受けて初めて幼子の誕生のことを知りました。東方の博士たちが星を見て幼子の誕生を知り、ヘロデのもとに行くまでには、それなりの時間が掛かったと思いますから、シメオンが幼子を抱いたのは、ヘロデ王が幼子の誕生を知る前だったのではないかと思います。シメオンはヨセフとマリヤと面識もないのに幼子の誕生を知り、さらには二人が連れていた幼子がキリストであることがわかったのですね。シメオンは、神の霊の聖霊に満たされていたので、そのようなことがわかったのでしょう。
 そうしてシメオンは、この幼子を自分の腕に抱きました。

私たちの心に安らぎを与えるイエスのことば
 きょう話したいことは、この幼子を抱いたシメオンとは、私たちのことでもあるということです。どういうことかというと、シメオンは私たちを代表して幼子を抱いてくれたということです。
 21世紀にいる私たちは、1世紀に人として生まれたイエス・キリストに直接会うことはできませんが、聖書のことばを通して会うことができます。しかし、ことばを通して会うことができるイエス・キリストは30歳ぐらいのイエス・キリストです。イエスさまは30歳ぐらいまでは目立った伝道活動はしておらず、30歳になった頃に、神の教えを宣べ伝え始めました。そして聖書には、その30歳ぐらいのイエスさまが人々に話したことばが記録されていますから、私たちは聖書のことばを通してイエス・キリストと出会うことができます。
 ことばは時間と空間を越えて私たちに届きます。ことばには、そのような不思議な働きがあります。旧約聖書のイザヤ書は、ことばについて、次のように書いてあります。

 「草は枯れ、花はしぼむ。
  だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

 草花は元気な時はシャキッと立っていても、時間が経てばやがてしおれて、うなだれてしまいます。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ、とイザヤは言いました。私たちの神のことばは永遠にしおれることがなく、力強く私たちの心に迫り、励ましを与えてくれます。ことばには、そのような不思議な力があります。
 ですから私たちは聖書を通してイエスさまのことばを聞き、励ましを受けることができます。聖書にはイエスさまのことばが数多く記されていますが、たとえばマタイの福音書には、このようなイエスさまのことばがあります。

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 イエスさまは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃいました。そして私たちの魂に安らぎを与えて下さいます。単に心や体に安らぎを与えて下さるだけでなく、もっと心の奥深い所にある魂に安らぎを与えて下さいます。
 このように、イエス・キリストのことばは、時間を越えて21世紀の私たちにも届きます。そうして私たちの魂には安らぎが与えられます。
 では、幼子のイエスさまは、私たちにどのような恵みを与えてくれるでしょうか。幼子のイエスさまは、まだ話すことができません。話すことができないイエスさまからは、私たちはことばを聞くことができません。

無言の幼子イエスも私たちに安らぎを与える
 そうであるからこそ、私たちを代表して幼子のイエスさまを抱いてくれたシメオンの役割はとても重要です。私たちはイエスさまの両親のヨセフとマリヤとは面識がありません。シメオンもまた、ヨセフとマリヤとは面識がありませんでした。しかし、聖霊に導かれてシメオンはヨセフとマリヤに近付き、幼子のイエスさまを抱く恵みに与ることができました。このようにシメオンが私たちを代表してイエスさまを抱いてくれましたから、私たちもまた、幼子のイエスさまを抱く恵みに与ることができます。
 そうして幼子のイエスさまを抱くことで私たちは、魂に安らぎを得ることができます。幼子のイエスさまはことばを話すことができませんが、私たちは幼子のイエスさまを抱くことで魂の安らぎを感じることができます。
 私たちは幼子のイエスさまではない、普通の幼子であっても、幼子を抱くとき、安らぎを感じることができます。それは、どうしてでしょうか。いろいろなことが考えられると思いますが、一つには、幼子には罪汚れが無いということが挙げられるでしょう。私たち大人は成長するに連れて、心にいろいろと汚いものを付けてしまい、そのドロドロの中で時にくたびれ果ててしまいます。しかし、生まれたばかりの幼子はまだ、何の汚れもありません。そのことが私たちの心に安らぎを与えてくれるのでしょう。
 ましてイエスさまは神の御子であり、成長してからも罪を持たないお方でした。それゆえ、私たちの罪を背負い、十字架に付いて私たちの罪を処罰して下さることができました。こうして私たちは罪の奴隷状態から解放されましたから、これは素晴らしい救いの恵みです。幼子のイエスさまの誕生は、その素晴らしい救いの恵みを約束するものでした。

互いに愛し合うべき私たち
 幼子を抱いたシメオンは言いました。

2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 シメオンは自分の目で約束の御救いを見ることができたので、安心して、この世を去ることができると言いました。そしてシメオンはさらに、

2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。

と言いました。救いは神様がすべての人のために備えて下さったものです。それゆえ、ユダヤ人だけではなく、世界中の人々がその救いの恵みに与ることができます。
 そのことを約束する神の御子を、シメオンは自分の腕に抱きました。それゆえ私たちもまた幼子のイエスさまを腕に抱くことができ、私たちの魂には安らぎが与えられます。
 成長したイエスさまは十字架に付く前の日、最後の晩餐で弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。
 しかし、私たちは、どうでしょうか。私たちは、なかなか互いに愛し合うことができず、争い事の中で疲れ果てることを繰り返しているのではないでしょうか。
 そんな時は、私たちの腕の中には幼子のイエス・キリストがいることを思いたいと思います。幼子を腕に抱いたままで私たちは、人と争い事をするでしょうか。多くの場合、私たちは自重するでしょう。まして、それが幼子のイエスさまであるなら、私たちの魂に安らぎを与えて下さる方ですから、きっと心に平安を与えて下さり、互いに愛し合う心を与えて下さるでしょう。

おわりに
 このように幼子のイエスさまを抱く恵みを私たちにも分け与えてくれたシメオンに心から感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。

2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
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恐怖から歓喜へ(2014.12.14 礼拝)

2014-12-17 19:04:36 | 礼拝プログラム
2014年12月14日礼拝メッセージ
『恐怖から歓喜へ』
【ルカ1:59~69】

はじめに
 アドベント第3週のきょうのメッセージのタイトルは、『恐怖から歓喜へ』です。このタイトルのもと、ルカの福音書のザカリヤに注目してみたいと思います。
 このザカリヤの「恐怖から歓喜へ」の体験は、私自身もザカリヤとは違った形で経験していますし、皆さんもまた違った形で経験したことがあるかもしれません。少し言い方が悪いかもしれませんが、それは「主に目を付けられる」ということです。「主に目を付けられる」ことは恐ろしいことです。しかし、主が私たちに目を付けるのは、私たちを用いるためです。ですから、それは恐ろしいことではなく、喜ぶべきことです。そして実際に大きな喜びを得ることができます。きょうは、そのことをザカリヤの体験を通して、ご一緒に学びたいと思います。

恐怖に襲われたザカリヤ
 まず、ルカの福音書の1章から見て行きましょう。聖書を読んで行きます。
 1章5節から7節、

1:5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。
1:7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。

 祭司のザカリヤとエリサベツは子供がない、年老いた夫婦でした。8節と9節、

1:8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、
1:9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

 時代はまだ、旧約の時代でした。このザカリヤの記事は新約聖書に書かれていますから、うっかりすると新約の時代の出来事と思ってしまいますが、まだイエス・キリストが十字架で新しい契約の血を流される前のことですから、旧約の時代の出来事です。ですから祭司のザカリヤは旧約の律法のおきてに則って祭司の働きを神殿でしています。そうして、聖所に入って香をたくことになりました。

1:10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。
1:11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、

 ザカリヤは、どうして恐怖に襲われたのでしょうか。聖所の中で何か失敗をして、神に打たれると思ったのかもしれません。或いは御使いのことを神ご自身と思い、神の顔を見てしまったので、生きていられないと思ったのかもしれません。そのような命が奪われる恐怖を感じたのかもしれませんし、そうではなくても、自分の他には誰もいないはずの聖所に誰かが現れれば誰でも恐怖を感じることでしょう。

二重に有り得ないこと
 御使いはザカリヤに言いました。13節から17節までを、お読みします。

1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

 御使いはザカリヤの妻のエリサベツが子を産み、その子はエリヤの霊と力で主の前ぶれをするとザカリヤに言いました。これは、ザカリヤにとっては二重に有り得ないことですね。まず年老いた自分たちに子を授かるということが有り得ないことですし、その子がエリヤの霊と力で主の前ぶれをするということも有り得ないことです。なぜならザカリヤは、ごく平凡な祭司だったからです。大祭司や祭司長などの身分の高い祭司ではなく、普通のありふれた祭司でした。そんな平凡な祭司の家庭の子に、エリヤの役割を担うなどという大役が与えられるでしょうか。
 この17節のエリヤというのは、マラキ書に出てくるエリヤのことですね。旧約聖書の一番おしまいのページをご一緒に見ましょう(旧約聖書p.1568)。マラキ書4章の5節と6節を交代で読みましょう。

4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 5節で主は、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わすと仰せられました。御使いがザカリヤに言ったエリヤとは、このマラキ書で預言されたエリヤのことです。聖書はこのマラキの預言で閉じられて、以降、400年間にわたって沈黙の時代が続いていました。この400年間の沈黙の間、ユダヤの人々はずっとエリヤが現れるのを待ち焦がれていました。そのようなエリヤの大役を、平凡な祭司の、しかも年老いた夫婦の自分たちの間に、これから生まれる子供が担う、などということは二重に有り得ないことでした。それでザカリヤは御使いに言いました。

話ができなくても主と共に歩んだザカリヤ
 ルカの福音書1章に戻ります。1章18節から20節、

1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」

 こうして、ザカリヤは子が生まれるまで話をすることができなくなってしまいました。これはザカリヤにとっては少々気の毒な気がします。御使いのガブリエルはザカリヤが自分のことばを信じなかったからザカリヤがものを言えないようにしてしまいましたが、御使いがザカリヤに言ったことは普通に考えたら二重に有り得ないことですから、ザカリヤが御使いのことばをにわかには信じられなかったのは、無理もないことだったと思います。
 ことばを話すことができないでいる間のザカリヤの心境がどのようなものであったのか、それは本人にしかわからないことですが、真面目なザカリヤのことですから、御使いを恨むようなことはなく、御使いのことばを信じなかった自分が悪かったのだと思い、益々信仰を深めて行ったのではないかなと思います。それが、エリサベツが無事に子を産み、話ができるようになった時に大きな喜びとなって溢れ出たのではないかと思います。
 1章の途中を飛ばして、64節をお読みします。

1:64 すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

 ザカリヤは、ものが言えるようになった時、「ひどい目に遭った」などとは言わずに、神をほめたたえました。ザカリヤは話ができなくなっていた間も、神と共に歩んでいました。それは、自分に子供ができたという喜びもあったと思いますし、その子がエリヤとして用いられるということで、その子の父親である自分もまた神に用いられているという喜びがあったのだろうと思います。

神に用いられる喜び
 神に用いられるということは、大きな喜びです。67節にあるように、ザカリヤは聖霊に満たされて、預言して言いました。68節と69節、

1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

 このように主に用いられたザカリヤの体験は決して特殊なものではありません。新約の時代には誰もが聖霊が注がれて、イエス・キリストの証人となるよう、神様は私たちを召していますから、私たちもまた、ザカリヤのような大きな喜びを味わうことができます。主に用いられようとする時、始めは恐怖を感じるかもしれません。しかし、それはやがて喜びへと変わります。
 私も、主が私を用いようとしていることを感じた時には、恐ろしさを感じました。キリスト教の宣教には迫害が伴います。今の日本では迫害はありませんが、戦前にはありましたし、この先、戦前に回帰して行くような動きがあれば、再び迫害が起こることも有り得ないことではないでしょう。そして海外では今でも実際に激しい迫害が起きている地域があります。そのような迫害のことを思うと、私は恐怖を感じました。或いはまた、ヨハネの福音書を深く理解できるようになってからは、サタンの攻撃への恐怖も感じるようになりました。サタンは用いられている器に、より激しい攻撃をしますから、これはとても恐ろしいことです。しかし、私にとって聖書の真理を今までよりも深く理解できるようになったことの喜びは、恐怖を遥かに上回るものでした。
 先週の7日、私は交換講壇で高津教会の礼拝で説教のご奉仕をして来ました。その礼拝の中で、私は藤本栄造先生からガウンを引き継ぐ恵みに与りました。藤本満先生の計らいで、それは礼拝の中で行われ、まず栄造先生のガウンが教会の皆さんの前で礼拝の司会者によって私の肩に掛けられ、そして栄造先生に激励の言葉をいただき、お祈りしていただくという、大変光栄なガウンの引継式をしていただきました。藤本栄造先生は誰もが認める主に用いられた器です。その栄造先生のガウンを高津教会の皆さんの前で引き継ぐなどということは、私にとっては全く思い掛けない光栄な出来事でした。私は以前、主に用いられようとしていることを感じた時には恐怖を感じた時期もありましたが、それを受け入れるなら、このように祝福される喜びをいただけるのだということを味わせていただいたところです。
 そして、皆さんのお一人お一人も、それぞれ違う形で、きっと主の祝福を受けておられることでしょう。そうであれば、この沼津教会の会堂問題も、主は必ず祝福を与えて下さるはずだと今私は思っています。
 ただし、会堂問題は私たち一人一人の個人のことではなくて、教会のことです。ですから私たちは一つになって会堂問題に取り組んで行かなければなりません。そうして、この沼津の地で、バプテスマのヨハネのように、主の道を備えて行かなければならないと思います。この主の道を備える働きを私たちが一つになって行うなら、主は私たちの教会を必ず祝福して下さることと思います。

おわりに
 ザカリヤの賛歌の76節から79節までを交代で読んで、礼拝を閉じたいと思います。

1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出が、いと高き所からわれらを訪れ、
1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。

 ザカリヤとエリサベツの間に生まれたバプテスマのヨハネが、主の道を備えたように、私たちの沼津教会もまた、主イエス・キリストの道を備える働きをすることができますよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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律法の恵みの上の聖霊の恵み(2014.12.10 祈り会)

2014-12-11 10:47:08 | 祈り会メッセージ
2014年12月10日祈り会メッセージ
『律法の恵みの上の聖霊の恵み』
【ヨハネ1:16~17、ガラテヤ2:16、ローマ7:7~14】

はじめに
 先週の祈祷会では、ルカの福音書の1章と2章に登場する人物たちには聖霊が注がれて、主の道をまっすぐにする役割が与えられたという話をしました。ザカリヤ、マリヤ、エリサベツ、エリサベツのお腹の中のバプテスマのヨハネ、シメオン、アンナと、短い時間の中でたくさんの人物たちを見ました。そうして今日と来週の祈祷会では、もう少し個々の人物に注目しようと思い、今日はザカリヤを予定していました。しかし、考えているうちに、ザカリヤの話は礼拝でしたほうが良いように思えて来ましたから、ザカリヤの話は次の14日の礼拝ですることにします。それで、きょうの祈祷会では14日の礼拝で予定していた話をすることにします。この話は律法についての話で少し難しいかもしれませんので、礼拝よりは祈祷会で話すほうがふさわしいでしょう。

律法の恵みの上の聖霊の恵み
 まずヨハネの福音書1章の16節と17節を交代で読みましょう。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス・キリストは14節にあるように、人となって私たちの間に住まわれました。それは恵みとまことを実現するためでした。
 そうして恵みとまことがイエス・キリストによって実現したことによって、私たちは16節にあるように、恵みの上にさらに恵みを受けました。この「恵みの上にさらに恵みを受けた」というのは、これまでに何度も話して来ましたが、「律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みを受けた」ということです。律法は恵みです。律法は恵みですから、その上に聖霊の恵みが増し加わることで、神の恵みは素晴らしく重厚なものになります。もし律法が恵みでないなら、いくら聖霊の恵みが素晴らしいものであっても、恵みの上の恵みではありませんから、私たちが受ける恵みは薄いものになってしまいます。しかし、律法は恵みですから、私たちには分厚い重厚な恵みが与えられています。ヨハネの福音書は、その重厚な恵みに溢れています。それゆえ私たちはヨハネの福音書を読むと恵まれます。

律法は悪者?
 ただ残念ながら私たちは恐らくアウグスティヌスやルターらによるパウロ解釈の影響によって、律法は恵みではないと思い込んでいるようなところがあると思います。そのために、ヨハネの福音書の重厚な恵みを部分的にしか受け取れていないのではないかと思います。では、パウロ自身は律法について、どのように考えているのでしょうか。ガラテヤ人への手紙を読むと、何だか律法が悪者にされているように見えますが、ローマ人への手紙からは、パウロが律法を悪者にしているのではないことがわかります。悪いのは罪であって律法ではありません。きょうはそのことをローマ人への手紙を読んで確認したいと思います。
 ローマ人への手紙を見る前に、まずガラテヤ人への手紙を見ておきましょう。ガラテヤ2:16です。

2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

 ここだけを読むと、パウロは律法を悪者にしているように見えるかもしれません。ガラテヤ人への手紙の主要なテーマは異邦人クリスチャンも割礼を受ける必要があるのか、異邦人クリスチャンも割礼を受けなければ義と認められないのかということです。そんなことはありませんから、どう書いても律法はどうしても悪者のようになってしまうでしょう。
しかし、ローマ人への手紙を読むなら、パウロが律法を悪者扱いしていないことがわかります。

律法は良いもの
 去年の4月に、私がこの沼津教会に着任したばかりの頃、岩上先生が東京でローマ人への手紙をギリシャ語で学ぶ会を開くことになったことを知りました。東京への交通費がそれなりに掛かりますから、私は参加しようかしまいか迷いましたが、パウロが律法のことをどう考えているのか、もっと良く知りたいと思い、参加することにしました。私はレビ記1章を読んで涙を流した聖霊体験とその後にヨハネの福音書の理解が深まった経験を通じて、律法は恵みであるという確信を持っています。しかし、パウロが律法のことをどう考えているのかが今ひとつわかりませんでした。それで、岩上先生の勉強会に出れば、そのことがわかるようになると期待して東京へ行くようになりました。そして、期待通りにパウロの律法に対する考えが段々わかって来ましたから、とても感謝に思っています。
 では、ローマ人への手紙の7章7節から14節までを交代で読みましょう。

7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
7:11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

 いま読んだ箇所を、私はこれまでは、上手く把握することができないでいました。しかし、お茶の水での学びの会で岩上先生から、この箇所ではパウロはアダムのことを念頭において書いたのだろうということを聞き、だいぶわかるようになって来ました。
 パウロはローマ5章からアダムについて語り始めます。ローマ5章12節、

5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。

 そして14節にアダムの名前が出ますね。7章も、この5章から始まるアダムの話の流れの中にありますから、いま交代で読んだ7章7節から14節までも、アダムがエデンの園で「食べてはならない」と神から言われていた木の実を食べてしまったことを重ねると、とてもわかりやすくなります。
 7節の、律法が「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう、と言うのをアダムに当てはめると、神がアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と言わなかったら、食べなかっただろうということになりますね。このようにアダムを念頭に置くと、8節以降もよくわかります。10節と11節をもう一度読みましょう。

7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
7:11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。

 そして、きょう一番注目したいのは、12節です。

7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。

 律法は神様が与えて下さったものですから、聖なるものです。戒めも同様です。パウロは律法の戒めが正しく、良いものであると言っています。このように、パウロは律法を悪者にはしておらず、良いものであると考えていることが、ここから良くわかります。悪いのは罪であって律法ではないのですね。

おわりに
 最後にもう一度、ヨハネの福音書の1章に戻ります。16節、

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

 きょうローマ人への手紙の7章で見たように、パウロもまた律法を良いものであると考えていました。ですから私たちはヨハネの福音書1章16節の、「恵みの上にさらに恵みを受けたのである」についても、安心して「律法の恵みの上にさらに聖霊恵みを受けたのである」と解釈しても良いということです。
 人となって私たちの間に住んで下さったイエス・キリストが私たちに与えて下さった恵みは、旧約の恵みの上に新約の恵みが積み重なった、分厚い重厚な恵みです。このような素晴らしい恵みを与えて下さったイエス・キリストに感謝しながら、クリスマスに向けて、さらにアドベントの歩みを進めて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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12月14日アドベント第3礼拝プログラム

2014-12-11 09:23:18 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

12月14日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

12月 アドベント第3礼拝順序

 司  会                矢崎兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  ベツレヘムに生まれて    103
 交  読  詩篇68:1~18
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  もろびとこぞりて       76
 讃 美 ③  あら野のはてに        87
 聖  書  ルカ1:59~69
 説  教  『恐怖から歓喜へ』 小島牧師
 讃 美 ④  野に伏す羊を見まもる牧人   80
 献  金
 感謝祈祷                矢崎姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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聖霊が注がれた者たちの役割(2014.12.3 祈り会)

2014-12-04 10:32:20 | 祈り会メッセージ
2014年12月3日祈り会メッセージ
『聖霊が注がれた者たちの役割』
【ルカ1:35、他】

はじめに
 今週からアドベントに入りました。アドベントの期間中の祈り会のメッセージでは、ルカの福音書の1章と2章に登場する人物に目を留めたいと思います。ルカの福音書の1章と2章に登場する主要人物としては、ザカリヤ、エリサベツ、エリサベツのお腹の中にいるバプテスマのヨハネ、マリヤ、シメオンなどがいます。これらの人物たちには聖霊が注がれたことが書かれていますから、神の働きを託された人々でした。そしてイエス・キリストを信じる私たちにもまた聖霊が注がれていますから、私たちもまた伝道の働きを神様から託されています。このアドベントの期間の祈り会では、そのことを覚えながら聖書を学んでみたいと思わされています。

聖霊が注がれた者たち
 まず、ルカ1章と2章に登場する人物たちに聖霊が注がれた場面を確認しておきたいと思います。

マリヤ
 はじめに1章35節、

1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 これは御使いがマリヤに対して言ったことばです。ここにある動詞の「臨み」、「おおい」と「呼ばれます」は、【新改訳】の日本語訳では現在形で書かれていますが、ギリシャ語ではすべて未来形で書かれています。ですから、これは将来起きることで、この時点ではまだマリヤに聖霊は臨んでおらず、未来に起きることが、ここには書かれています。
 少し余談になりますが、2016年に発行予定の新しい【新改訳】の聖書でギリシャ語の翻訳を担当している一人の先生が、日本語には未来形がないので翻訳が難しいということを話しておられました。たとえば、このルカ1章35節を【口語訳】では、次のように訳しています。

1:35【口語訳】 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。

 【口語訳】では、動詞が未来形であることをはっきりさせるために、「~でしょう」という形にしています。すると日本語の場合、「~でしょう」には推量の意味も微妙に含まれてきてしまいます。神が推量で物事を言うはずがありませんから、【口語訳】の「~でしょう」はケシカランという批判があるのだそうです。【口語訳】は未来を表現したかっただけで、別に推量を表現するつもりは無かったのに、日本語だとそういう問題が発生します。それで【新改訳】では現在形を採用していますが、そうすると、今度は現在形なのか未来形なのかがわからなくなるという問題が生じます。聖書の翻訳を担当している先生方は、そういう問題と格闘しながら私たちに翻訳聖書を届けて下さっているのですね。そういうことへの感謝も私たちは忘れないようにしたいと思います。

エリサベツとバプテスマのヨハネ
 次に、エリサベツが聖霊に満たされた箇所を読みたいと思います。ルカ1章の41節から44節まで、ここは少し長いので、交代で読むことにしたいと思います。

1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

 ここから、エリサベツが聖霊に満たされるとともに、エリサベツのお腹の中にいたバプテスマのヨハネもまた、聖霊に満たされたことがわかります。
 ルカの福音書は、バプテスマのヨハネの働きがイザヤ書で預言されていたことであることだということを書いています。ルカの福音書3章の、2節から6節までも、交代で読みましょう。

3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

 このように、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする」役割を担ったバプテスマのヨハネの存在は非常に重要ですから、その両親のザカリヤとエリサベツの果たした役割もまた非常に重要なものでした。

ザカリヤ
 そのザカリヤが聖霊に満たされたことは、ルカ1章の67節に記されています。

1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

 ザカリヤについては、次の祈祷会のメッセージでまた改めて触れたいと思います。

シメオンとアンナ
 そして、シメオンと女預言者のアンナについても見ておきましょう。シメオンはヨセフとマリヤが幼子のイエスさまをエルサレムの神殿に連れて行った時に、幼子のイエスさまを抱いた人物です。そのシメオンが聖霊に満たされた場面は、ルカ2章に書かれています。ルカ2章の25節から28節までも、交代で読みたいと思います。

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

 このシメオンについては、14日の午後のクリスマスの集いのメッセージで話そうかなと思っています。最後に、女預言者のアンナについても見ておきましょう。ルカ2章の36節から38節です。ここも交代で読みましょう。

2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

 ここには、アンナが聖霊に満たされたとは書いてありませんが、預言者は神の言葉を預かる者ですから、普通は聖霊が注がれています。ですからアンナにも聖霊が注がれていたと考えて良いでしょう。聖霊が注がれていなかったら偽預言者になってしまいます。

私たちにも注がれている聖霊
 ここまで、ルカの福音書の1章と2章の聖霊が注がれた人物たちを見て来ました。ルカは使徒の働きで、聖霊が注がれた者たちの働きについて書きましたが、それに先立つ福音書でも、このように聖霊が注がれた者たちの重要な働きについて記していたのですね。イエス・キリストが生まれる前後に聖霊が注がれた者たちには、バプテスマのヨハネと同様に、主の道をまっすぐにする役割、すなわちイエス・キリストの宣教に備える役割が与えられていました。そして、ペンテコステの日以降に、聖霊が注がれた者たちには、イエス・キリストの証人になる役割が与えられました。
 有名な使徒1章8節も見ましょう。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 私たちにはイエス・キリストの証人となる役割が与えられています。ですから、ヨハネの福音書の最後に書かれている、イエスについてあかしした者、すなわちイエスの愛弟子も私たちのことであると言えます。

おわりに
 聖霊が注がれた者たち、すなわち私たちには、イエス・キリストの証人になるという重要な役割が与えられているのだということもまた噛み締めながら、クリスマスに向かってアドベントの歩みを進めて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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12月7日アドベント第2礼拝プログラム

2014-12-04 09:18:05 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

12月7日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

12月 アドベント第2礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  いざ歌え、いざ祝え      77
 交  読  詩篇67篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  もろびとこぞりて       76
 讃 美 ③  あら野のはてに        87
 聖  書  ルカ19:1~6
 説  教  『降りてきなさい』       藤本牧師
 讃 美 ④  天なる神には         90
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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肉となったことば(2014.11.30 礼拝)

2014-12-01 01:42:53 | 礼拝メッセージ
2014年11月30日礼拝メッセージ
『肉となったことば』
【ヨハネ1:14~15/ローマ8:3】

はじめに
 きょうはアドベントの第1礼拝です。これからクリスマスに向けて、心を整えて行きたいと思います。
 アドベントは、「到来」の意味のラテン語のadventusが語源だそうです。「冒険」の意味のadventureも、このadventusが語源だそうですから、このアドベントの期間は、冒険をする時のようにワクワク、ドキドキしながら主の御降誕を待ち望むのだ、ということを聞きます。或いはまた、「冒険」というのは私たちの冒険ではなく、神の側の冒険なのだという説明もインターネット上にはあります。神が人になるということは、神にとっては大いなる冒険なのだという説明があります。なるほど、それも有りかなと思わされます。神の側の冒険なのか、私たちの側の冒険なのか、私はその両方を考えても良いのではないかなと思います。神様はいつも私たちと共にいて下さいますから、神様と私たちとは一つです。神様と一つになっている私たちは、このアドベントの期間を神様と共にワクワクドキドキしながらクリスマスに向かって歩んで行けば良いのだろうと思います。

ことばは肉となって私たちの間で幕屋に住んだ
 さてアドベントの第1週の今日はヨハネの福音書の1章14節について、思いを巡らしてみたいと思いますが、その前に、冒頭の有名な1章1節を見ましょう。

 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この1章1節には、星印(*)が付いていて、下に注があります。注には、【「ことば」はキリストのこと。したがって、「初めに」はキリストの永遠的存在を意味する】、と書いてあります。ですから、この「ことば」とはキリストのことです。そして14節、

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。イエス・キリストは人として母のマリヤから生まれて、私たちの間に住んで下さいました。このことを私たちは毎年クリスマスにお祝いします。今日は「ことばが人となって私たちの間に住まわれた」ことの意味をもう少し深く思い巡らしてみたいと願っています。
 まず「ことばは人となって」の「人」の所にも星印(*)が付いていますから、下の注を見ると、【別訳(肉)】とあります。ギリシャ語を直訳するなら、実はここは「ことばは肉となって」という訳になります。そして、注にはありませんが、「住む」という単語には、新約聖書には全部で5回しか現れない、特殊な動詞が使われています。その動詞とは、「σκηνοω(スケーノオー)」という動詞で、週報のp.3にこの動詞が現れる聖書箇所と聖句を記しておきました。
 新約聖書で使われている一般的な意味での「住む」のギリシャ語は「κατοικεω(カトイケオー)」で、新約聖書には全部で44回現れます。例えば週報のp.3に示したようにマタイ4:13で使われています。これはイエスさまのことですが、

 マタイ4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた

とあります。イエスさまがカペナウムに住んだことを説明する、この箇所では一般的な「カトイケオー」が使われています。
 一方、特殊な「住む」の「スケーノオー」は新約聖書では5回しか使われていません。そのうちの1回がヨハネ1:14で、あとの4回はすべて黙示録で使われています。それらの4回を、すべて見てみましょう(週報p.3)。
 
・黙7:15「・・・御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる」
・黙12:12「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい」
・黙13:6「その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった」
・黙21:3「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」

 ここから何が読み取れるでしょうか。この「スケーノオー」という動詞は「σκηνη(スケーネー)」という名詞から来ているようです。名詞の「スケーネー」は「天幕」または「幕屋」のことです。この「スケーネー」、すなわち「幕屋」という言葉は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書では、イエスさまが変貌山でモーセとエリヤと話し合っている場面でペテロが言った言葉の中に現れます。
 この変貌山の出来事の記事はご一緒に見ておきましょう。同じ様な記述がマタイ・マルコ・ルカのいずれの共観福音書にもありますが、マタイを見ましょう。マタイの福音書17章1節から6節までを交代で読みましょう。

17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。

 ここでは、イエスさまが高い山の上で御姿が変わったので、この山は「変貌山」と言われたりしています。ここでペテロは4節にあるように、「幕屋を造ります」と言いました。この「幕屋」が、「スケーネー」という名詞で、いま私たちが問題にしているヨハネ1:14の「住む」という動詞の「スケーノオー」は、この名詞から来ています。
 このマタイの変貌山の記事と、週報p.3にある黙示録の4つの箇所を眺めるなら、この「住む」という動詞の「スケーノオー」は、高い所におられる非常に神聖なお方が「住む」という時に使われているように思います。一方、マタイ4:13のような一般的に使われている「住む」の「カトイケオー」の場合は、ナザレの大工の人間イエスが「住む」という感じですね。
 ですから、ヨハネ1:14は非常に神聖なお方が私たちの間に住まわれたと捉えるべきなのだろうと思います。1章1節には、「ことばは神であった」とありますから、神である「ことば」が私たちの間に住まわれました。そして神である「ことば」は、「人」となったというよりは、「肉」になったのでした。非常に神聖な神であるお方が「肉」になった。この落差を私たちはもっと感じるべきなのだろうと思います。

肉において罪を処罰されたキリスト
 では、神であるイエス・キリストは、何のために肉となって私たちの間に住まわれたのでしょうか。一言で言えば、私たちを救うためということなのでしょうが、私たちは色々なことに縛られていますから、今度はそれを、もう少し丁寧に見ることにしたいと思います。そのために、先ず、今日のもう一つの聖句のローマ8章3節を見ましょう。

8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 この8章3節の1つ目の文は、ローマ7章と8章1節2節からの流れがあるので、また次の機会に見ることにして、今日は2つめの文の方に注目したいと思います。3節の2つめの文には、

「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

とあります。ことばであり神であるイエス・キリストが、肉となって私たちの間に住まわれたのは、肉において私たちの罪を処罰するためなのですね。
 では、私たちの罪とはどのような罪なのでしょうか。罪をわかりやすくリストアップしてくれているのは、マルコ7章とガラテヤ5章ですが、ここではガラテヤ5章をご一緒に見ることにしましょう。ガラテヤ5章19節を見て下さい(新約聖書p.371)。

5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

 そしてパウロはさらに24節で、このように書いています。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

 先ほどローマ8:3で見たように、イエスさまが十字架について、肉において罪が処罰して下さったので、キリスト・イエスにつく私たちは今やガラテヤ5:19,20,21節にあるような罪からは自由になっているとパウロは教えてくれています。
 ガラテヤ5:19から21までにリストアップされている罪から私たちが離れるべきことは、とても大事なことですから、多くの教会で言われていることです。そして、もちろん沼津教会の私たちも、これらの肉の行いから離れることを大事にしなければなりません。しかし、この罪のリストには、いつも私が言っていることが抜けているということを、きょうは強調しておきたいと思います。

時間に縛られている罪
 このリストに抜けている罪とは、私たちが時間に縛られていて、時間から自由になることができていないということです。パウロはガラテヤ5:22,23で御霊の実について書いていますが、これらの御霊の実は、時間の束縛から自由になることと密接に関連しています。ガラテヤ5章22節と23節、

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 私たちが時間の束縛から自由になれていないなら、これらの御霊の実を持つことは難しいことです。逆に私たちが時間の束縛から自由になれているなら、私たちは、愛や喜びや平安を得ることができるでしょう。ですから、罪のリストに「時間に縛られること」も含まれるなら、罪のこと、そして聖霊の恵みのことが、もっと理解しやすくなるだろうと私は思います。
 私たちが時間に縛られている間は、生命の起源と信仰とを結び付けて考えることは、なかなか難しいことです。
 私たちが神の戒めを守らなければならないのは、神が私たちの命を造ったからです。もし私たちの命が偶然によって出来たなら、私は別に神の戒めを守る必要はないと思います。聖書を読んだことがない日本人と信仰について話をする時に、私がとてももどかしく思うのは、多くの人が生命の起源について、自分の考えを曖昧にしていることです。生命が誕生したのは、遥か昔のことですから、現在の自分に結び付けて考えることはないようです。生命は偶然に誕生したかもしれないし、絶対的な存在が誕生させたかもしれない、それがどちらであろうと今の自分とは関係ないと考えているようです。しかし、これは関係ないで済ますことができる話ではないのですね。それは聖書を信じるか信じないかに関わって来る、大きな問題です。もし神が生命を造ったのでなければ、神には生命を造り出す力が無いということですから、死んだ病人を生き返らせることもできませんし、十字架で死んだイエス・キリストをよみがえらせることも不可能です。
 私自身はヨハネの永遠観を身に付けているおかげで、今の自分と二千年前のイエス・キリストの復活と結び付けることはもちろん、もっと以前の遥か太古の生命の誕生とを結び付けて考えることができます。しかし、時間に縛られている人は、今の自分と二千年前のイエス・キリストの復活を結び付けて考えることは難しいですし、まして遥か太古の昔の生命の誕生と今の自分とは、ほとんど結び付かないようです。
 イエス・キリストが処女(おとめ)のマリヤから生まれたことについても、同様ですね。時間に縛られずに今の自分とキリストの復活と生命の誕生を一つに結び付けて考えることができる者にとっては、神が処女(おとめ)を身ごもらせたということを容易に信じることができますが、時間に縛られていて、生命の誕生の頃のことを遥か太古の昔のことと感じている者にとっては、処女(おとめ)が身ごもることなどは不可能であると考えることでしょう。
 ですから時間に縛られているか縛られていないかは、信仰の根幹に関わる、とても大事なことです。ですから私は、ガラテヤ5章の罪のリストには、「時間に縛られている」ことも含まれると良いと考えます。

1世紀に閉じ込められている愛弟子
 ここで、もう一度、ヨハネ1章に戻りたいと思います。1章15節をお読みします。

1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」

 ここでヨハネは、「私のあとから来る方は、・・・私より先におられた」と言っています。時間に縛られている者がこの言葉を聞いたなら、これは全く理解不能な言葉です。「私の後から来る方は、・・・私より先におられた」という言葉を理解できるのは、時間の縛りから開放された者だけです。そういう意味で、イエス・キリストがこの世に来て下さった目的の中には、私たちを時間の縛りから解放することも含まれることを、ヨハネはここで宣言していると言っても良いと思います。
 私たちが余りにも時間に縛られていることは、ヨハネの福音書の13章以降に登場する「愛弟子」のことからもわかります。最後に、ヨハネの福音書の最後の箇所の21章24節と、25節を見て、終わることにしたいと思います。21章の24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 今年の礼拝説教の中で何度か説明したと思いますが、この24章の弟子というのはイエスが愛した弟子、すなわち「愛弟子」のことで、その「愛弟子」とは、この福音書の読者である私たちのことです。しかし、これまでのところ、私たちはこの「愛弟子」のことを紀元1世紀の人物であると思い込んでしまっていました。つまり、読者である私たちが時間に縛られているために、私たちは「愛弟子」を紀元1世紀に閉じ込めてしまっています。私たちは、この「愛弟子」を紀元1世紀から現代の21世紀に救出しなければならないと思います。

おわりに
 「ことば」であり神であるイエス・キリストは時間を越えることができますが、肉である私たちは時間を越えることはできません。それゆえ時間に縛られています。しかし、イエス・キリストは肉となって私たちの間に住んで下さり、十字架に掛かって肉にある私たちの罪を処罰して下さいました。時間に縛られていることは罪ですが、イエス・キリストはこの罪を処罰して下さったのですから、私たちは御霊に満たされて時間の縛りから解放されなければなりません。
 そうすることで私たちは御霊の実を得て互いに愛し合うことができるようになり、平和をつくることができるようになります。
 そのためにイエス・キリストが肉となって私たちの間に住まわれたことを思いつつ、アドベントを歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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