平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

霊的な存在のイエスとの出会い(2013.10.13 礼拝)

2013-10-13 15:34:26 | 礼拝メッセージ
2013年10月13日礼拝メッセージ
『霊的な存在のイエスとの出会い』
【ヨハネ4:28~42】

はじめに
 先週の礼拝ではヨハネの福音書には「わたしは世の光です」という御言葉が8章と9章の2箇所にあり、サンドイッチ構造になっているという話をしました。この2つの「世の光」に挟まれたサンドイッチ構造には、いろいろと面白い仕掛けが隠されていましたね。このようにヨハネの福音書にはいろいろな場所に、様々な面白いことが隠されています。私はこのヨハネの福音書を読む解くことの面白さを、ぜひ皆さんと共有したいと願っています。それで、きょうもそんな面白い箇所をご紹介したいと思っています。そして、皆さんと、「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」という思いを分かち合いたいと思います。
 きょうはヨハネ4章の後半です。このヨハネ4章後半の、サマリヤ人の救いの箇所は、祈祷会で一度取り上げていますが、祈祷会のメンバーは限られていますし、メッセージの時間も短めですから、この礼拝の場で多くの皆さんと一緒に、じっくりと見てみることにしたく思います。
 ヨハネの福音書4章28節から見て行きましょう。

4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。

 ここまでの経緯を簡単に話しておきますと、イエスはガリラヤへ行く途中で、サマリヤ地方を通って行きました。そしてスカルという町に来ました。この町のはずれに井戸があり、イエスはこの井戸に水をくみに来たサマリヤの女と話をしていたのでした。

1.イエスの所に来たサマリヤの人々
 そして25節で女はイエスに言いました。

「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 するとイエスは言いました。

「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 これを聞いて女は、28節で自分の水がめを置いて町へ駆けて行ったんですね。水がめを持って行ったのでは急いで知らせることができませんから、女の急いでいる様子がわかります。そして女は町の人々に言いました。29節です。

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

 「私のしたこと全部を私に言った」というのは、イエスが女に、「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」と言ったことですね。女はこのことを、町の人々に言いました。30節、

4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

 こうして町の人々は、井戸のかたわらにいたイエスのほうへやって来ました。町の人々は、女が少し説明しただけで、女の言うことに関心を持ち、イエスのいる所にやって来ました。実際には、女は29節で言ったこと以外にも、もう少し説明をしたかもしれません。それでも、そんなに、くどくどと長い時間を掛けて説明したわけではないでしょう。町の人々は女の短いことばを信じて、イエスの所にやって来ました。そして、41節にあるように、多くの人々が、イエスのことばによって信じました。
 とても不思議なことですが、イエス・キリストを信じる時というのは、このように、割とあっさりと信じるものなのですね。私もそうですが、その時が来るまでは、いくら信仰のことを言われても、全く耳に入らなかったのが、その時が来ると、不思議とイエス・キリストを宣べ伝える人の話がすんなりと耳に入ります。そこには聖霊の働きがあるのだろうと思いますが、本当に不思議な気がします。しかし、不思議ではありますが、このように、あっさりと信じる時が来るまでには、それ以前に、畑を耕して種まきをするという、地道な準備作業が必要なわけですから、私たちはその準備作業を怠りなく地道に続けて行かなければならないのだと思います。そうすれば、いつかは豊かな収穫の時を迎えることができる、と信じて進んで行くことができれば幸いだと思います。きょう、交読した詩篇126篇にも、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(5節)とありましたから、刈り入れの時を信じて進んで行けるお互いでありたいと思います。

2.刈り入れるばかりになっているサマリヤ人たち
 さて、そこには弟子たちも戻って来ていました。弟子たちは食べ物を買いに町へ行っていて、ちょうど戻ってきたところでした。31節、

4:31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。

 ここから、イエスの弟子たちに対する不思議な、やや謎めいた話が始まります。32節から34節、

4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 この32節から34節の部分の説明は、きょうのメッセージの最後の部分で行うことにします。この32節から34節までの部分の解説では、私はかなり重要なことを語るつもりでいますので、期待を持って聞いていただけたら感謝に思います。
 35節以降に進みましょう。この35節から38節までの部分は、交代で読みましょう。

4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 35節でイエスは弟子たちに、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言いました。色づいて刈り入れるばかりになっている麦の穂とは、弟子たちの目の前にいるサマリヤ人たちのことでした。彼らは、サマリヤの女が言った、短いことばを信じて、イエスのいる所に集まって来ている人々でした。もう、そうやってイエスに関心を持って来たということで、彼らの心はイエスを受け入れる準備が十分に整っていたのですね。ですから、イエスの目から見れば、もう色づいて、刈り入れるばかりになっていたということです。
 さてしかし、36節以降は何のことを言っているのでしょうか。36節でイエスは、「すでに刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる身を集めています」と言っています。「刈る者」というのは、弟子たちのことですね。しかし、「イエスの地上生涯の時代」には、まだ聖霊が注がれていませんでしたから、弟子たちはまだ、「永遠のいのちに入れられる実を集めて」いたわけではありません。
 ですから、ここでイエスが言っているのは、「イエスの地上生涯の時代」のことではなく、「使徒の時代」のことである、ということになります。そしてヨハネの福音書の背後にある「使徒の時代」のことは、使徒の働き(使徒行伝)の中に書いてあるということを、私たちはこれまでに学んでいますから、使徒の働きのどこに書いてあるのかを、これから見て行くことにしましょう。この使徒の働きの場面とヨハネの福音書との密接な関係がわかるなら、皆さんも、「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と思っていただけることだろうと思います。

3.サマリヤでのピリポの種まき
 使徒の働きの8章を開いてください(新約聖書p.242)。
 使徒の働きの7章にはステパノが迫害された場面が描かれていて、8章には、その後の様子が描かれています。1節のサウロというのは、後のパウロのことです。1節から4節までを読みます。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

 4節の「散らされた人たち」というのは、ギリシャ語では「ディアスポラ」と呼ばれる人たちです。これもまた、何とも不思議な神さまの働きと言えるでしょう。ステパノが宣教活動をしたのは、わずかな期間に過ぎませんでした。しかし、ステパノが迫害を受けて命を落とした後にイエスを信じる人々がエルサレム以外の地方に散らされたことで、キリスト教が広い地域に広まって行く、きっかけになったのですね。ステパノという「一粒の麦」が豊かな実を結んだのでした。
 さて、その散らされた人たちの中の一人にピリポがいました。このピリポは、12弟子のピリポではなくて、使徒たちが祈りとみことばに専念することができるように、食事のことや、その他のことなどを行うために選ばれた教会の奉仕者の一人でした。このピリポも散らされて、ピリポはサマリヤの町に下って行きました。5節から8節をお読みします。

8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。

 このピリポに与えられていた力は、イエスが地上生涯で宣教をしていた時に、ペテロやヨハネたちの弟子たちに与えていた力と同じのようですね。マタイ・マルコ・ルカの福音書には、イエスが12弟子を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになったとあります(マタイ10:1、マルコ6:7、ルカ9:1)。それと同等の力が教会の奉仕者のピリポには与えられていたようです。
 9 節から11節には魔術を使うシモンのことが書かれていますが、きょうはシモンについては、触れません。
 そして12節に、「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。」とあります。

4.ペテロとヨハネによる刈り入れ
 そして、14節、

8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

 さきほど読んだ1節に、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、散らされたことが書かれていました。使徒たちも当然、危険な状況にあったことと思いますが、使徒たちまでもがエルサレムを離れたら、教会が崩壊してしまいますから、何とか踏ん張っていたのでしょうね。ペテロとヨハネもエルサレムに残っていました。そのエルサレムに、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたという知らせが入って、ペテロとヨハネがサマリヤに行くことになりました。15節から17節、

8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 こうして、ペテロとヨハネがサマリヤに遣わされたことで、サマリヤの人々は、聖霊を受けることができました。つまり、ペテロとヨハネによって、豊かに実った麦を無事に刈り入れることができました。ピリポが種をまいたことにより、サマリヤの人々は色づいて刈り入れるばかりになっていました。
 これが、ヨハネの福音書の4章でイエスが言っていたことですね。ヨハネ4章に戻りましょう。37節と38節、

4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。

 使徒の働きによれば、まず労苦したのは散らされてサマリヤまで行ったピリポでした。ピリポはそこで種をまきました。そうして、そこにペテロとヨハネが遣わされて、豊かに実った麦を刈り取ることができたのですね。
 つまり、このヨハネ4章のこの箇所は使徒の働き8章のことが書いてあります。そのことを頭に入れておいていただいて、39節以降を見て行きましょう。

5.イエス自身による内からの語り掛け
 39節から41節を読みましょう。

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

 この箇所の記述を使徒の働き8章と照らし合わせるなら、サマリヤの女の証言は、ピリポの種まきに相当することになりますね。サマリヤの人々はピリポのことばを信じました。しかし、まだ聖霊が注がれるところまでは行きませんでした。ヨハネ4章のサマリヤの人々も同様です。彼らは女の言うことを信じましたが、その段階では、まだ色づいていただけで、刈り取られるところまでは行っていませんでした。しかし、イエスが来て、人々は、イエスのことばを直接聞きましたから、刈り取られることができました。42節でサマリヤの人々は女に言いました。

4:42 …「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っている」とは、彼らに聖霊が注がれて彼らの内に聖霊が入り、彼らの魂に聖霊が直接語り掛け、彼らはイエスが本当に世の救い主であることを、霊的に知ることができるようになりました。
 このようにして、サマリヤの人々は霊的に目が開かれました。
 この42節でサマリヤの人々が言っていることは、極めて重要です。

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 聖霊が注がれて内に入ると、私たちはイエスの声を直接聞くことができるようになります。教会に来て、牧師の話を聞く時、イエスを信じる前は、まだ牧師の話すことを聞いているに過ぎない、ということになります。そこには聖霊の働きがあることと思いますが、外側からの働きが主体であり、聖霊の内側からの働きは大きくはありません。しかし、牧師の話を通してイエスを信じるなら、聖霊が内に住むようになり、今度はイエスご自身の声を内側から直接に聞くことが出来るようになるのですね。ですから、まず信じることが必要です。「信じる者は救われる」ということばがありますが、本当にその通りなのですね。イエスを信じれば、聖霊が内に入り、イエスの声を内側から直接聞くことができるようになります。

6.霊的な存在のイエスと出会っている私たち
 こうして私たちは、今日の聖書箇所は、実は使徒の働き8章のことが書いてあるのだということを学ぶことができました。そこで、先ほどは説明することを飛ばした、32節から34節までを、もう一度見てみることにします。32節から34節までを、もう一度お読みします。

4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 ここでイエスが言っていることは、神の霊としてのイエスの働きのことを言っています。神の霊としてのイエスの働きとは、聖霊の働きのことです。つまり、この時点でもう、イエスは「イエスの地上生涯の時代」の話ではなくて、「使徒の時代」の話をしているのですね。ということは、ここにいるのは、地上生涯のイエスではなくて、「使徒の時代」の人々や現代の私たちが出会っている、霊的な存在としてのイエスである、ということになります。
 私たちは福音書でイエスの言動を読む時、だいたい共通のイエスのイメージを持っていると思います。30歳ぐらいの男性で、長髪で、髭を生やして、すその長い着物を着ている、だいたいそういうイメージを持って福音書を読んでいると思います。福音書にはイエスが長髪だったとか髭を生やしていたとか、容貌に関しては一切書いてないのですが、私たちのまわりにはイエスの聖画があふれていますから、そのようなイメージを持っていると思います。そして、ヨハネの福音書のイエスに対しても、そのような容貌のイエスのイメージを持って読んでいると思います。
 しかし、きょう読んだヨハネの福音書の箇所の主役であるイエスは、地上生涯の人の姿をしたイエスではなくて、使徒の時代の霊的な存在のイエスなのですね。ですから、実は、私たちはヨハネの福音書を読む時、霊的な存在であるイエス・キリストにちゃんと出会っているということになります。私たちは、ここにいるイエスは、地上生涯の人の姿をしたイエスだと思い込んでヨハネの福音書を読んでいますが、実はここにいるイエスは霊的な存在のイエスです。ヨハネの福音書を読む時、すごく霊的な気分になるのは、実際に霊的なイエスに出会っているからです。それは、無意識の中で行われていることですが、私たちはちゃんと霊的なイエスに出会っています。表側の意識では地上生涯のイエスのことを読んでいるつもりでいますが、実は霊的な存在のイエスに出会っているのですね。
 「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と思いませんか。

おわりに
 私たちはヨハネの福音書を通して、実際に霊的なイエス・キリストに出会っており、そうしてイエス・キリストから霊的な励ましと力をいただくことができているのですから、伝道がなかなか進まない中にあっても、めげることなく、堂々と自信を持って進んで行けば良いのですね。イエスさまは、そんな私たちを、必ず祝福して下さることと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖書とは(2013.10.13 ツイート)

2013-10-13 05:25:35 | 折々のつぶやき
 聖書とは、神に関する知識を人に与えることによって神の霊と交わる機会を人に与えている書であろう。
 これが正しく理解できていないと知識偏重になって神の霊との交わりが経験できなかったり、神の霊と交わっているつもりで実は得体の知れない霊と交わってしまったりすることになるのではないか。
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