インマヌエル沼津キリスト教会

十字架から二千年の2033年までに平和を
沼津市今沢34番地 Tel.055-966-2612

3月2日礼拝プログラム

2014-02-27 09:54:21 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月2日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

3月 第1聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  父の神の真実         40
 交  読  エレミヤ23:1~8
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  あなたの平和の       485
 讃 美 ③  神はひとり子を        26
 聖  書  ヨハネ8:26~30、10:26~30、12:49~50
 説  教  『わたしと父とは一つです』 小島牧師
 讃 美 ④  川のような平安が      438
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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礼拝堂建設の畏れ多さを感じる(2014.2.26 祈り会)

2014-02-27 08:44:37 | 祈り会メッセージ
2014年2月26日祈り会メッセージ
『礼拝堂建設の畏れ多さを感じる』
【歴代誌第二3章1~17節】

はじめに
 歴代誌第二の学びを続けます。この第3章でソロモンは、いよいよ神殿の建設に取り掛かります。1節と2節、

3:1 こうして、ソロモンは、【主】がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で【主】の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。
3:2 彼が建設に取りかかったのは、その治世の第四年、第二の月の二日であった。

 このエルサレムのモリヤ山というのは、かつてアブラハムが息子のイサクを捧げようとした場所であるという伝承があります。正確なことはわかりませんが、この、アブラハムがイサクを捧げようとした場所にソロモンによって神殿が造られていけにえが捧げられるようになり、そしてイエス・キリストが罪の贖いのいけにえとして十字架に付けられて死んだ時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことを考え合わせると、これは思い巡らしの良い種になることと思います。ぜひ、お一人お一人で思い巡らしをされてみたらどうかと思います。

神の箱が置かれる至聖所
 こうしてソロモンは神殿建設に取り掛かり3節以降には具体的な手順と各部分の寸法とが書かれています。その中で、きょう特に注目したいのは、8節と14節です。まず8節に至聖所が造られたことが書かれています。8節、

3:8 ついで、至聖所を造ったが、その長さはこの神殿の幅と同じ二十キュビト、その幅も二十キュビトとし、これに六百タラントに当たる良質の金を着せた。

 そして14節で垂れ幕が作られました。

3:14 それから彼は、青、紫、紅、および白亜麻布の垂れ幕を作り、その上にケルビムの模様を縫いつけた。

 このようにして至聖所が造られ、そして垂れ幕が取り付けられて、至聖所という聖別された空間ができました。至聖所というのは神の箱を置く場所ですから、この世においてはもっとも聖い神聖な空間です。神殿を造るのですから至聖所を造るのは当たり前のことですが、これがいかに畏れ多いことであるかを、きょう私たちは霊的に感じ取ることができる者たちでありたいと思います。
 この至聖所は、年に1回だけ、第七の月の十日の日に大祭司だけが入ることが許されている場所です。この至聖所に入った時、もし緊張で足がもつれてよろけたりして、うっかり神の箱に手を触れようものなら、大祭司であってもたちまち神に打たれて死んでしまいます。きよい神の箱に人が手を触れることなど、あってはならないことです。かつてダビデが、エルサレムの幕屋に神の箱を運び入れようとした時、牛が暴れて神の箱がひっくり返りそうになったために、それを手で押さえたウザが打たれて死んでしまいました(Ⅱサムエル6:6,7)。神の箱とは、それほど神聖なものです。ここでソロモンは、この神聖な神の箱を運び入れる至聖所を造ったのでした。ソロモンは、自身がそのような資格が無い者であることを、ちゃんとわかっていました。2章の6節で、ソロモンはこのように言っています。

2:6 天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。また、主のために宮を建てるというこの私は、いったい何者でしょう。ただ主の前に香をたくためだけの者です。

 造る資格の無いような者でも、造るとなったら、実際に至聖所を造ることになります。旧約の時代の神殿と、現代の私たちの教会の礼拝堂とは異なるものですが、このような畏れ多さを持って会堂の建設に取り組まなければならない点においては、全く同じであろうと思います。本当なら、気軽に会堂を建設するなどと言ってはいけないことなのかもしれません。しかし、私たちはイエス・キリストの十字架の血潮によってきよめられ、神の御前に大胆に近付くことがゆるされていることの故に、感謝に思います。

「贖罪の日」の儀式
 ここで学びのために、レビ記とへブル書をご一緒に見たいと思います。この「贖罪の日」の儀式については、レビ記16章の全体に書かれていますが、全部読むと時間が掛かりますから、中心的な部分だけを読みます。レビ記16章の11節から15節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.200)。15節は、ご一緒に読みます。ここに出て来るアロンは、モーセのお兄さんで、大祭司の役目を仰せつかっていました。

 16:11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。
16:12 【主】の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
16:13 その香を【主】の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
16:14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。
16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。

 旧約の時代、大祭司はこのレビ記16章に記されている手順に従って垂れ幕の内側の至聖所に入って、雄牛とやぎの血を「贖いのふた」に振りかけました。

イエスの血によって大胆に神に近付ける私たち
 次に、へブル書をご一緒に見ることにしましょう。まずへブル人への手紙9章の、11節から15節までを交代で読みましょう。15節は、ご一緒に読みます。

9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。

 最後に、へブル書10章の19節と20節を、交代で読みましょう。

10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

 ですから、新約の時代の私たちは会堂を建設すると言っても、旧約の時代のソロモンが神殿を建設したのとは違うわけです。しかし、神が聖いお方であることは、ソロモンの時代においても現代においても、全く変わりがありません。その聖いお方を礼拝する礼拝堂を私たちが建設したいと願う時、それは極めて畏れ多いことなのだということを、しっかりと認識しておきたいと思います。かつてダビデは神殿を建設したいという願いを持っていましたが、それを神は許しては下さいませんでした。

おわりに
 私たちが新しい会堂の建設を願っていることについて、神様はどのように思ってらっしゃるでしょうか。新しい礼拝堂を与えても良いと思って下さっているでしょうか。いくらイエス・キリストが大胆にまことの聖所に入ることができるようにして下さったとは言え、私たちは、あまりに無邪気に会堂の取得を願ってしまっているということはないでしょうか。そのようでないなら幸いだと思います。
 きょう、お開きした箇所を通して、私たちが新しい会堂、そして礼拝堂を建設したいということは、どういうことなのか、そのことの重大性を、しっかりと感じ取ることができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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三つの時代を同時に生きるイエス

2014-02-26 08:13:59 | 牧師のつぶやき
 何故か紀元2世紀以降の人類が気付いていない、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカのようなイエスの地上生涯を描いた書ではなくて、永遠の中を生きるイエスを描いた書であることのツイートを続けます。

  ヨハネの福音書が地上生涯のイエスではなく、永遠の中を生きるイエスを描いた書であることは、プロローグ前半(1章1~13節)からも分かります。
 まず冒頭の1章1節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」で、永遠の中を生きるイエスが提示されています。

 「初めに、ことばがあった」は旧約の時代のイエス、「ことばは神とともにあった」は地上生涯のイエス、「ことばは神であった」は使徒の時代のイエスと読み取れます。
 イエスはこの「旧約の時代」、「地上生涯のイエスの時代」、「使徒の時代」を同時に生きています。つまり永遠の中を生きています。

 次いでプロローグの2~8節も「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」の三つの時代が繰り返され、さらに9~13節でも三つの時代が繰り返されます。
 こうしてヨハネはプロローグ前半で三つの時代を三度繰り返すことで、この書が永遠の中を生きるイエスを描いていると宣言しています。
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イエスが永遠の中を生きていることを示す聖句

2014-02-25 09:40:49 | 牧師のつぶやき
 ヨハネの福音書のイエスが永遠の中を生きていることを、人になかなか理解していただくことができていません。何故かと考えて、まだちゃんと説明していないことがあると気付きました。イエスが永遠の中を生きていることを示す重要な聖句は、
「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
です。

 イエスは、また、
「わたしはその方(父)から聞いたことをそのまま世に告げる」(8:26)
「ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(8:28)
「わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話している」(12:50)
と言いました。

 ヨハネの福音書のイエスは以上のように、父と一つであり、且つ父が言う通りのことを話しています。これらの事柄と、背後に「旧約の時代」が重ねられている事とを考え合わせると、モーセやイザヤやエレミヤなどの預言者が聖霊の働きによって語った父のことばは、実はイエスが語ったということになります。

 永遠の中を生きる父と一つのイエスはエレミヤの口を通して、
「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼす牧者たち」(エレミヤ23:1)
と嘆くと同時に、
「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11)
と言っています。このようにイエスは父・御子・聖霊の三位一体の神として複数の時代を同時に生きています。
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人類は何故ヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?

2014-02-24 11:23:42 | 牧師のつぶやき
 今朝のtwitterでのつぶやきをまとめました。「人類は何故ヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?」の問題の重要性が広く認識されるようになるまで、粘り強く広報活動を続けたいと思います。


 ヨハネの福音書は「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」を重ねた多重時間構造を持つ。人類が何故この構造に気付かなかったのかの解明は平和実現に貢献すると思う。従って私一人が無い知恵を絞るのでなく、人類全体で考えるべきだ。この問題の重要性がわかってもらえるまで地道に頑張ろう。

 ヨハネの福音書の多重時間構造の例①:9章の「盲人の開眼」の背後には旧約の善王ヨシヤの時代の「律法の書の発見」と使徒の時代の「パウロの開眼」がある。例②:8章の「悪魔」(44節)の背後には旧約の悪王マナセ・アモンの時代の「悪行」と使徒の時代の「ステパノやイエス信者への迫害」がある。

 ヨハネの福音書の多重時間構造の例③:7章でイエスが大声で宣教したことの背後には旧約のヒゼキヤ王の時代のイザヤの預言と使徒の時代の五旬節の聖霊降臨がある。逆に並べたが、例①~③のように背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」は時間順に並んでいる。人類は何故この構造に気付かなかったのか?

 人類がなぜヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?要因の一つはマタイ・マルコ・ルカとヨハネは同類の書であるという強烈な思い込み。しかしマタイ・マルコ・ルカはイエスの地上生涯を描き、ヨハネは永遠の中を生きるイエスを描いたのだから全く違う。天動説と地動説ほどの大きな違いだ。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書は地球に、ヨハネの福音書は宇宙に例えることができる。マタイ・マルコ・ルカと同じ地球の視座からヨハネの宇宙を眺めるから天動説になってしまう。イエスがいる旧約の時代・イエスの時代・使徒の時代・現代が一体の永遠という広大な時空に私達読者も身を置く必要がある。

 宇宙サイズのヨハネの福音書を、マタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の地球サイズにしか捉えていなかったのは、人類の思考回路に何か重大な欠陥があるからではないか。だから人類は互いに愛せず戦争を繰り返すのではないか。この重大な欠陥の究明に人類が英知を結集するなら世界は平和に向かうだろう。
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永遠の神と共にいる者たち(2014.2.23 礼拝)

2014-02-23 23:22:19 | 礼拝メッセージ
2014年2月23日礼拝メッセージ
『永遠の神と共にいる者たち』
【マタイ25:14~30】

はじめに
 おとといの金曜日、私はCGNTVという放送局の「みことばに聞く」という番組の収録のために、沼津シオン・キリスト教会に行って来ました。CGNTVというのは、Christian Global Network Televisionの頭文字を取ったものです。この放送局は、衛星放送とインターネットを通じてキリスト教の番組を24時間放送しています。このCGNTVの「みことばに聞く」という番組では伝道者が約10分間のショート・メッセージを行いますが、開局以来この7年間で全国で1000名以上の牧師が参加して来たということです。今の時期は、静岡県にある教会の伝道者のメッセージの収録が行われていて、私にも声が掛かりました。それで、おとといはヨハネの福音書から、2本のメッセージを語らせていただきました。
 週報に、その収録風景の写真を載せました。この写真を載せたのは、収録風景を見ていただきたいというよりは、シオン教会の礼拝堂の写真を、この礼拝の場で皆さんとご一緒に見たいと思ったからです。荻野先生が牧会しておられる沼津シオン・キリスト教会は、主から本当に豊かに祝福されている教会で、このように素晴らしい礼拝堂が与えられています。先週から私たちの教会では会堂問題に特化した祈祷会を始めました。私たちにも、このような素敵な礼拝堂が与えられますように、御霊の一致を保って、お祈りして行きたいと思います。

神を感じるとは
 どのような礼拝堂を素敵な礼拝堂と言うのか、人によって感じることは、それぞれ異なると思いますが、私が感じる素敵な礼拝堂というのは、一歩足を踏み入れただけで、すぐに神様の臨在を感じる、そんな礼拝堂です。私たち信仰を持つ者は、どんな場所にいても、目をつむって心を整えれば、神様の臨在を感じることはできます。しかし、それには、まず心をしっかりと整える必要があります。それに対して、こういう素敵な礼拝堂は、入る前に特に心が整っていなくても、入った瞬間に心が整えられます。自分で意識的に心を整えようと努力しなくても、礼拝堂の雰囲気が心を瞬間的に整えてくれます。このような、神様の臨在を瞬間的に感じさせてくれるような素敵な礼拝堂は、教会は初めてという方をお連れした時に威力を発揮して、初めての方でも神様が感じ易くするのではないかと思います。私たちにも、このような素敵な礼拝堂を備えた会堂が与えられますよう、熱心に祈って行きたいと思います。
 さて、では神様を感じるとは、どういう状態のことを言うのでしょうか。神様は目には見えません。しかし、それでも私たちは神様の存在を感じることができます。この神様の感じ方も人によって異なるのかもしれませんが、私は、神様を感じるとは、永遠を感じることなのだろうと考えています。では、永遠を感じるというのはどのような状態なのか、という話になりますが、それは私がいつも話している、【過去・現在・未来】が渾然一体となった状態のことです。私たちの日常生活の中での感覚では、時間は【過去→現在→未来】と流れていると感じていますが、永遠の中では、このような時間の流れは感じません。そして、この時間の流れを感じないことが、絶大な心の安定をもたらします。この絶大な心の安定が、永遠の中にいる神を感じていることであると私は考えています。

漂流感と安定感
 私が母教会の高津教会を初めて訪れたのは、2001年のことで、もう13年前になります。その時までの私は、いつも時間の中を漂流しているような感覚を持っていました。漂流ですから、どこに向かって流されているのかわかりません。ですから、私はいつも漠然とした不安の中にいました。例として挙げるのは、少し不謹慎かもしれませんが、わかりやすい例だと思いますから挙げさせていただくと、最近のニュースで、バリ島の海で潜水を楽しんでいた女性グループが潮の流れに流されてしまうという事故がありました。生還した女性たちが発見された場所は、潜水地点から数十kmも離れていました。一昼夜以上、ただ潮の流れに流されるままでいて、そのように漂流している間は、本当に不安だったろうと思います。そして、潮の流れと同様に、時の流れに流されている時というのも、常に不安感が付きまといます。高津教会を訪れる前の私は、時の流れの中を漂流しながら、いつも漠然とした不安感の中にいました。しかし、教会の門をくぐり、神様にしっかりとつながれてからは、漂流感はピタリと納まり、驚くほどの心の安定を感じるようになりました。神様は永遠の中にいますから、神様につながっているなら、もはや時の流れの中を漂流することはなくなります。

漂流している悪いしもべと永遠の中にいる良いしもべ
 少し前置きが長くなりましたが、きょうの聖書箇所に移ります。きょうのマタイの福音書25章の5タラントと2タラントの良いしもべは、永遠の中にいる神様としっかりとつながっている者たちです。そして、もう一方の1タラントの悪いしもべは、時の流れの中を漂流している不安感で一杯の者であると言うことができるでしょう。私たちの教会の礼拝では今年に入ってからマタイとマルコの福音書を「ヨハネの永遠観」を通して見る説教のシリーズを続けていますが、きょうもまた、その続きです。マタイの福音書の5タラント、2タラント、1タラントのしもべの例え話を、「ヨハネの永遠観」を通して見ることにします。
 まず14節と、少し飛んで19節を、先に見ておくことにします。14節、

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

 次に、19節、

25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。

 この主人は、旅に出て行って、そして、よほどたってから帰って来ましたから、その間は長い時間が経過しています。しかし、時間が経過しているのは人間の側だけであって、この例え話の主人というのは神様のことですから永遠の中にいます。人間であるしもべにとっては時間が経過していますが、永遠の中にいる主人にとっては、時間は流れていません。そして、5タラントと2タラントの良いしもべは、その永遠の中にいる主人と、ちゃんと共にいることができました。しかし、1タラントの悪いしもべは、永遠の中にいる主人と共にいることができませんでした。このマタイの福音書の箇所を「ヨハネの永遠観」を通して見るなら、このように読み取ることができます。

公平には与えられていない能力
 では、もう少し詳しく見て行きましょう。15節、

25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 主人はしもべの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントを渡しました。このタラントというのは、才能の意味の英語の「タレント」とも通じると言われていますね。この才能は神様が私たちに与えて下さるものです。音楽の才能がたくさん与えられている人もいれば、スポーツの才能や料理の才能がたくさん与えられている人もいます。そして、与えられる量も、人によってそれぞれ異なります。この例え話では、商売の才能になっていますね。3人のしもべたちがいて、それぞれ能力が違いました。神様が人に与える能力が人によって違うことを、不公平だと感じる方もいらっしゃることでしょう。しかし、このほうが世の中は上手く行くのだろうと思います。仮に神様が全員に全く同じタラント、例えば3タラントの能力を与えたとしましょう。そして、全員が、ちゃんと商売をして、だいたい2倍の6タラントぐらいにまで増やすことができたとします。しかし、皆それぞれが微妙に異なる環境の中で商売をすれば、全員が6.0タラントになっているということは、まず有り得ないでしょう。3人いれば、主人が帰って来た時に、5.9タラントの者と、6.0タラントの者と、6.1タラントの者とに分かれてしまうことでしょう。初めが同じでも、結果が異なって来るなら、いろいろと複雑な人間感情が生じて、争い事の種になるのではないかなと思います。
 オリンピックではいろいろな成績の選手たちが、お互いを讃え合います。金メダルを取った選手も、銀や銅だった選手も、或いはメダルを取れなかった選手も、皆がお互いに讃え合うことができるのは、皆がもともと異なる量の能力が与えられていて、その能力の中で皆が精一杯の努力をしたからだろうと思います。
 次に16節から18節まで、

25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 5タラントのしもべと2タラントのしもべが、預かったタラントを2倍に増やすことができたのは、神様の祝福があったからです。神様は一見すると、旅に出てしもべから離れたように見えますが、実はいつも共におられます。5タラントと2タラントのしもべは、ちゃんと神様が共にいて下さっていることを感じて、自分の与えられた能力を最大限に使って神様のために働いたのだと思います。そんな二人のしもべを、神様は祝福して下さいました。
 この二人のしもべを、神様は全く同じ言葉でほめています。5タラントのしもべに対しては、21節、

25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 そして、2タラントのしもべに対しても、23節、

25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

というように、全く同じ言葉でほめています。ですから、神様が私たちに与えて下さる能力の量は一人一人で異なりますが、神様がいつも共にいて下さることを私たちが感じながら与えられた能力を最大限に用いるなら、神様は私たちに、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とおっしゃって下さいます。

神から離れていた悪いしもべ
 しかし、1タラントのしもべに対して神様は、26節のように、「悪いなまけ者のしもべだ」と言いました。
 以前、私がまだ「ヨハネの永遠観」に気付く前、私はこの箇所について、少しだけ不満に感じていました。1タラントのしもべは、確かになまけ者かもしれない。でもタラントを減らしたわけではないのだから、ここまで悪く言わなくても良いのではないか。というような感想を持っていました。しかし、「ヨハネの永遠観」を通して見るなら、この1タラントのしもべは、やっぱり悪いしもべなんですね。なぜなら、主人が旅に出ていた期間はずっと、このしもべの心は完全に主人から離れてしまっていたからです。悪いしもべは1タラントを土の中に埋めてしまっていましたから、主人が旅に出ていた期間が5年だったなら5年間、主人から心が離れていましたし、10年だったら10年間、もし20年間だったら、20年間も主人から心が離れていました。
 19節に、「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て」とありますから、この「よほどたってから」というのが、どれくらいの期間かはわかりません。わかりませんが、悪いしもべは、1タラントを土の中に埋めておいたのですから、もし主人が旅に出ていた期間が50年だったら、50年間も、離れていたことでしょうし、主人が帰って来る前に死んでしまえば、一生、心が離れていたことになります。これは、どう考えても悪いしもべですね。一方、5タラントと2タラントの良いしもべたちは、主人が旅に出ていた期間が10年でも、20年でも、50年でも、いつも主人と同じ永遠の時間の中にいて、主人と共にいました。そうして、主人の喜びを共に喜ぶことができました。
 きょう聖書交読で読んだ詩篇4篇の詩人は、「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにも、まさっています。」と、神様から与えられた喜びを表現しています。このように、5タラントと2タラントの良いしもべは、神様と共に喜びの中にいました。
 それに対して1タラントの悪いしもべがどのような中にいたかと言うと、それは、時間の流れの中で漂流しており、常に不安の中にいたと言うことができるでしょう。そして、時間の流れの中で漂流して不安になるだけでなく、その不安は神様に対する疑いの心を生みます。24節と25節で、1タラントのしもべは、このように言いました。

「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」

 神様から心が離れてしまい、神様との間に信頼関係を築くことができないと、この1タラントの悪いしもべのような残念なことになってしまいます。本当は、神様はいつでも身近な所にいらっしゃるのに、この1タラントのしもべは、神様が本当に旅に出てしまい、遠くに行ってしまったと感じていたのでした。ですから、旅に出ていたのは主人のほうではなくて、しもべの方であったとも言えるでしょう。それは、父親から遠く離れた所に旅に出た放蕩息子のようなものです。ルカの福音書の放蕩息子の場合は、我に返って、自分で父親の家に帰りましたから、父親が温かく迎えてくれました。この1タラントのしもべの場合も、途中で我に返って主人が帰ってくる前に1タラントで商売を始めていれば、きっと主人もほめてくれたことと思いますが、このしもべは我に返ることはありませんでした。それゆえ、主人は言いました。

「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」

 このしもべは、神様から心が離れてしまっていましたから、神様から「悪いなまけ者のしもべだ」と叱られてしまいました。一方、5タラントと2タラントのしもべは、永遠の中にいる神様といつも共にいて、神様から与えられた能力を最大限に用いてタラントを増やして神様にお返ししましたから、神様は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と祝福して下さいました。

知恵を絞りながら祈る
 先週から私たちは、会堂問題に特化した祈祷会を新たに始めました。私たちには、この今沢の会堂が30年前に与えられましたが、これは、神様が私たちに預けたタラントではないでしょうか。この会堂が何タラントなのかはわかりませんが、ずっと同じタラントのままであるなら、土を掘って埋めておいたのと同じことになってしまうのかもしれません。私たちは自分たちのことを決して悪いなまけ者のしもべだとは思っていませんが、もし私たちが私たちに与えられたものを最大限に用いていないのであれば、もしかしたら、悪いなまけ者のしもべなのかもしれません。
 先週の礼拝説教で私は、私たちはただ単に新しい会堂が与えられるように祈るだけでなくて、知恵も絞らなければならないという話をしました。知恵を絞りつつ祈るなら、神様が良い知恵を授けて下さるであろうという話をしました。5タラントと2タラントのしもべも、商売をするに当たっては、いろいろと知恵を絞ったことでしょう。ですから、私たちもまた知恵を絞らなければなりません。この会堂に、どうしたら地域の方々が来て下さるか。どうしたら入りやすい雰囲気にすることを考えることが、まず一つです。
 そして私は、「ヨハネの永遠観」を上手く活用して行く工夫もしなければならないと思います。このことについて積極果敢にあらゆる努力を惜しまずに、知恵を絞りながら粘り強く活動して行こうと思っています。その他にもいろいろと皆さんとご一緒に知恵を絞りながら歩んで行きたいと思います。

おわりに
 そうして私たちは、この今沢の会堂というタラントを2倍にも3倍にも何倍にも増やして、神様に献堂したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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2月23日礼拝プログラム

2014-02-20 09:07:14 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

2月23日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2月 第4聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  ベツレヘムに生まれて    103
 交  読  詩篇4篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  あなたの平和の       485
 讃 美 ③  目を上げて主のみ顔を    415
 聖  書  マタイ25:14~30
 説  教  『永遠の神と共にいる者たち』 小島牧師
 讃 美 ④  あなたの願いのままに    175
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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良き協力者の存在(2014.2.19)

2014-02-20 03:39:29 | 祈り会メッセージ
2014年2月19日祈り会メッセージ
『良き協力者の存在』
【歴代誌第二2:1~18】

はじめに
 祈り会では、歴代誌を開いて新会堂実現のための心備えをするシリーズを続けています。きょうは歴代誌第二の2章です。きょうの2章を読むと、ソロモンが神殿と宮殿とを建設するにあたっては、ツロの王フラムという良き協力者を得ることができたことがわかります。この良き協力者の存在は神殿の建設には欠かせないことでした。

良き協力者ツロの王フラム
 2章の3節から10節までにはソロモンがツロの王フラムに使者を送って伝えた言葉が書いてあり、11節から16節までにはツロの王フラムがソロモンに協力することを約束する文書の内容が書かれています。

 ソロモンがフラムに要請した内容は7節と8節に書いてあります。

2:7 そこで今、私のもとに、金、銀、青銅、鉄の細工に長じ、紫、紅、青などの製造に熟練した人で、各種の彫り物の技術を心得ている人を送ってください。私の父ダビデが備えておいたユダとエルサレムにいるこちらの熟練した者たちもいっしょに働きます。
2:8 それから、私のもとに、杉、もみ、びゃくだんの木材をレバノンから送ってください。私はあなたのしもべたちがレバノンの木を切ることに熟練していることを知っております。もちろん、私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。

 そして、ソロモンはツロの働き人たちのために、次のものを提供すると言いました。10節です。

2:10 お聞きください。私は、木を切り出し、材木を切る者たちのため、あなたのしもべたちのために食糧として小麦二万コル、大麦二万コル、ぶどう酒二万バテ、油二万バテを提供します。

 このソロモンの要請に対してツロの王フラムは快く協力に応じました。13節と16節をお読みします。13節、

2:13 今、私は才知に恵まれた熟練工、職人の長フラムを遣わします。

 そして16節、

2:16 私たちのほうでは、お入用なだけレバノンから木材を切り、これをいかだに組んで、海路をヤフォまであなたのもとにお届けします。そこからあなたがこれをエルサレムに運び上ってください。

 ソロモンがこのようにツロの王フラムからの協力を得ることができたのは、フラムがソロモンの父のダビデと良い関係を築いていたからですね。ダビデは、ソロモンのために大量の金や銀を残しただけでなく、ツロの王フラムという良き協力者も残してくれたのでした。そもそも、もし隣国のツロと戦争状態にあったりしたら、とても神殿を建設するどころではなかったでしょう。ソロモンの時代にはイスラエルだけでなく周辺諸国とも平和が保たれ、しかもツロの王フラムという良き協力者を得られたことが、立派な神殿を建設することを可能にした大きな要因と言えるでしょう。

私たちにも必要な良き協力者
 私たちが新会堂を建設するに当たっても、様々な協力者が必要だと思います。また新会堂の建設以前に、今のこの会堂の見栄えをもう少し良くするにしても、専門家のアドバイスがあると良いなという気がします。
 私が欠けを感じていることの一つに、看板や内装・外装、営繕の関係の専門知識や技能を持つ方がおられないことです。そういう方面で奉仕して下さる方や相談できる方がいませんから、どなたか、外部からアドバイスしていただける方が必要だろうと感じています。
 ソロモンもツロの王フラムに、杉材の提供を要請しただけでなく、熟練した職人を送ってくれるよう要請していますね。 
 7節です。

「そこで今、私のもとに、金、銀、青銅、鉄の細工に長じ、紫、紅、青などの製造に熟練した人で、各種の彫り物の技術を心得ている人を送ってください。」

 できればクリスチャンで、アドバイスをしていただける方が近隣にいらっしゃると良いなと思います。
 また、ソロモンの王国が周辺諸国と良い関係を築いていたことも見習いたいと思います。

(中略)

 私たちは、これらの良い働きをしている地域の教会とも良い協力関係を保って、私たちもまた、この地域で良い働きをしたいと思います。

おわりに
 先日の礼拝後の会堂祈祷会でも開きましたが、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)です。これは私たちの教会にとってだけではなく、すべてのキリスト教会にとって、そして全人類にとって「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」です。 
 「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」、私たちは御霊の一致を熱心に保って、主のために働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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永遠に入れない聖霊をけがす者(2014.2.16 礼拝)

2014-02-17 08:21:41 | 礼拝メッセージ
2014年2月16日礼拝メッセージ
『永遠に入れない聖霊をけがす者』
【マルコ3:20~30】

はじめに
 先月から、マタイの福音書をヨハネの永遠観を通して観ることで、ヨハネの永遠観をより深く理解することに取り組んでいます。このヨハネの永遠観の応用問題はマタイの福音書に限らず、聖書のすべての箇所に適用できるものです。きょうはマルコの福音書の「聖霊をけがす者」の箇所に、ヨハネの永遠観を適用してみたいと思います。
 きょうのマルコの福音書3章20節から30節までの箇所、中でも28節と29節、

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。

は、とてもわかりにくい箇所です。神をけがすことを言っても赦されるのに、聖霊をけがす者は永遠に赦されないとは、どういうことでしょうか。この箇所を紀元30年頃の人間イエスが話したことだと思って読むと、とても分かりづらい箇所になってしまいます。私は神学生だった時、この箇所をどう解釈したら良いのか、非常に悩んだ覚えがあります。しかし、この箇所を紀元30年頃の人間イエスとしてではなく、永遠の中を生きる三位一体の神であるイエスとして読むなら、俄然よくわかるようになります。つまり、ここは「ヨハネの永遠観」を適用して読むことで良くわかるようになる箇所であると言えると思います。
 永遠の中を生きるイエスは、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」、そして現代を同時に生きています。それはつまり、御父・御子イエス・聖霊の三位一体の神が、これらの時代を同時に生きているということです。「旧約の時代」で最も前面に出ている神は御父ですが、御子イエスと聖霊もまた「旧約の時代」の中にはいます。同様に、「使徒の時代」に最も前面に出ている神は聖霊ですが、やはり御父と御子イエスもまた「使徒の時代」の中にはいます。そして、きょうのマルコの福音書の時代である「イエスの時代」に最も前面に出ている神は御子イエスですが、やはり御父と聖霊もまた、「イエスの時代」にはいます。ですから、マルコの福音書のイエスは紀元30年頃だけでなく、「旧約の時代」も「使徒の時代」も、そして現代にも同時に存在しています。

悪霊が悪霊を追い出すのではない
 では、マルコの福音書3章の20節から順に読んで行きましょう。ここにいるイエスは永遠の中にいるイエスです。

3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

 この時のイエスは、ガリラヤ湖のすぐ近くにある町のカペナウムに住んでいました。ここに、病気を癒して欲しい人々が大ぜい押しかけて来ていました。それで、皆は食事する暇もありませんでした。皆というのは、イエスの弟子たちのことですね。この20節の直前に、イエスが十二弟子を任命したことが書かれています。
 さて、次の21節には、

3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

とあります。イエスの身内の者たちというのは、ページをめくって31節を見ていただくと、

3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

とありますから、イエスの母マリヤと兄弟たちがナザレから出て来て、イエスをナザレに連れ戻しに来たのでした。イエスの所には、病人や取税人や罪人たちが大勢集まっていましたから、そういう人々を軽蔑して遠ざけていた一般の人々から見ると、その光景は異様に見えて、イエスが本当に気が狂ったように見えたのでしょう。22節、

3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 ここで言われているベルゼブルとは、悪霊どもの頭のことですね。律法学者たちは、イエスが悪霊の頭に取りつかれていて、その悪霊の頭が悪霊を追い出していると言いました。
 悪霊というのは、非常に強力に人に取りつきます。ちょっとお祈りしたぐらいでは、悪霊は出て行きません。恐らく、それまでも祭司たちなどが、悪霊を追い出そうと試みたことが、きっとあったのでしょう。でも、うまくいったためしが無かったのではないでしょうか。それをイエスが、やってのけてしまいましたから、宗教家たちは驚いたことでしょう。しかし、まさかイエスが神だとは思いませんから、そんな悪霊を追い出す力を持つのは悪霊の頭しかいないと思い、イエスは悪霊の頭に取りつかれているのだと思ったのであろうと思います。
 これを聞いたイエスは、それはおかしいと言いました。23節から25節、

3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。
3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

 サタンがサタンを追い出すとしたら、それは国が内部分裂するのと同じだとイエスは言いました。国が内部分裂したら、その国は崩壊します。家が内輪もめをしたら、その家は崩壊します。日本の政党の例を挙げるなら、民主党のようなものですね。民主党は2009年の総選挙で自民党に圧勝して政権を取ったのに、小沢派と反小沢派とで内輪もめをした挙句に分裂してしまいました。そして2012年の総選挙では惨敗して崩壊したも同然のようなことになってしまいました。26節、
 
3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 サタンは依然として強い勢力を持っていて滅びてはいないから内部分裂はしていません。ですからイエスは、自分はサタンではないと言いました。

サタンの策略
 そして、続いて27節で言いました。

3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 この27節は、非常に味わい深いと思います。この27節の強い人の家というのは、サタンに支配されている人の家のことですね。サタンに支配されている人の中には物への執着心が強くて家財が多い人もたくさんいます。ここは、金持ちの青年のことを考えてみると、わかりやすいかもしれません。同じマルコの福音書の10章を見てみましょう(新約聖書p.86)。10章の17節から22節までを、交代で読みましょう。

10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
 
 財産をたくさん持っていると、どうしても心が財産の方ばかりに向いてしまって、なかなか神さまに心を向けることができなくなってしまいます。これはサタンの策略です。サタンは、このように様々な策略を使って、人々の心が神さまの方を向くのを妨げようとしています。この多くの財産を持つ金持ちの人は、心がサタンによって支配されていたと言えるでしょう。

聖霊が悪霊を追い出す
 ですから、この金持ちの人の心の中にいるサタンをイエスさまが縛り上げて下されば、この金持ちの人の心は、イエスさまが支配して下さいます。しかし、そのためには、金持ちの人の側からイエスさまに助けを求める必要があります。病人や貧しい人々はイエスさまに助けを求めやすいですが、金持ちは満ち足りた生活をしていますから、イエスさまに助けを求めることが簡単にはできません。
 マルコの3章に戻りましょう。もう一度、27節をお読みします。

3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 この強い人、すなわちサタンを縛り上げることができるのは、イエスさまだけです。三位一体の神のイエス・キリストは、サタンに支配されている人の心に入って、サタンを縛り上げることができます。ただし、実際にその働きをするのは聖霊なのですね。ですから、その聖霊をけがすようなことを言う者の心の中には聖霊は入って行っては下さいません。それゆえ28節から30節、

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
 
 以上が、この箇所の解き明かしです。イエスさまを信じる前の人の心は、皆、サタンに支配されていると言って良いでしょう。イエスさまを信じると、そのサタンは縛り上げられて追い出され、そして心がきよめられるのですが、実際に心の中に入って行ってサタンを縛り上げてきよめて下さるのは聖霊なのだということに気付かないと、この箇所をどう解釈して良いのか悩んでしまうことになります。聖霊は私たちの心の中に入って様々な働きをして下さいます。

聖霊の働き
 きょうの聖書交読では、ヨハネの手紙第一の1章をご一緒に読みました。ここにも、聖霊の働きのことが書かれています。このヨハネの手紙第一の1章には、聖霊とか御霊という言葉は使われていませんが、聖霊の働きがあるから私たちは御父と御子との交わりの中に入れられ、また私たちの心の中にある罪がきよめられます。ヨハネの手紙第一をご一緒に見てみましょう(新約聖書p.465)。
 1章の1節から3節までを交代で読みましょう。3節はご一緒に読みます。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 このように、私たちが御父および御子イエス・キリストとの交わりを持つことができるのは、聖霊の働きがあるからです。続いて、9節をご一緒に読みましょう。

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 この、すべての悪から私たちをきよめて下さるのも聖霊です。ですから、聖霊をけがす者の心には聖霊が入って下さいませんから、永遠の命を得ることができず、逆に永遠に赦されずに、とこしえの罪に定められることになってしまいます。しかし、イエス・キリストを信じるなら、私たちの内には聖霊が入って下さり、私たちの罪をきよめて下さり、私たちは御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つことができます。すなわち、神の家族とされます。

イエスの家族である私たち
 では、もう一度、マルコの福音書の3章に戻りましょう。29節をもう一度見ておきます。

3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。

 この「聖霊をけがす」という言い方は、マタイの福音書では「聖霊に逆らう」(マタイ12:32)となっています。聖霊を汚したり、聖霊に逆らったりする者は永遠のいのちを得ることができず、神の家族になることはできません。しかし、イエスを信じる者は誰でも、神の家族になることができます。そのことが31節以降に書いてあります。31節から35節までを交代で読みましょう。

3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。
3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 イエスさまは、ナザレから出て来た母マリヤや兄弟たちでなく、カペナウムの家に集まって来ていた人たちを見回して、34節のように、「わたしの母、わたしの兄弟たちです。」
と言いました。そして、「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言いました。すなわち、神のみこころを行う人はだれでも、イエス・キリストの家族です。
 私たち教会に集う者も、このように、イエス・キリストにあって家族とされています。私たちが兄弟・姉妹と呼び合うのも、イエス・キリストが中心にいて下さるからですね。
 イエス・キリストは永遠の中を生きているという「ヨハネの永遠観」を通して、この34節を読むなら、イエスさまは現代のこの教会の中心にもいて下さり、「ご覧なさい、わたしの母、わたしの兄弟姉妹たちです。」とおっしゃって下さっていることを感じます。私たちが永遠の中に入れられていないなら、このマルコ3章は2千年前の話ですが、私たちもまた永遠の中に入れられており、イエスさまがこの教会の中心にいて下さることを感じますから、感謝です。

おわりに
 私たちは、地域の多くの方々に、この神の家族に加わっていただきたいと願っています。それは、神のみこころでもあります。しかし、きょう私たちが学んだことは、いくら神さまや私たちが、この教会にもっと多くの人が集うことを望んだとしても、サタンの妨害に阻まれるなら、教会に人に来ていただくことは難しいということです。サタンは、なるべく、この教会に新しい人が来にくくなるよう、工夫をこらします。ですから、私たちは単に教勢が増えるようにお祈りするだけでなく、どうしたら、新しい方が教会に来やすい雰囲気になるか、いろいろと知恵を絞り出す必要があると思います。知恵を出しつつ、熱心に祈るなら、神さまがきっと良い知恵を与えて下さるでしょう。
 私たちのこの教会に神様の家族が一人でも多く加わっていただくことができるよう、祈り、そして、知恵を絞って行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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2月16日礼拝プログラム

2014-02-13 08:32:27 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

2月16日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2月 第3聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖霊よ 主のそばに     171
 交  読  Ⅰヨハネ1:1~10
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  スピリット・ソング      57
 讃 美 ③  天において 主をたたえよ  204
 聖  書  マルコ3:20~30
 説  教  『永遠に入れない聖霊をけがす者』 小島牧師
 讃 美 ④  とうとき主こそ私の     392
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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神から与えられる知恵と知識

2014-02-13 07:34:59 | 祈り会メッセージ
2014年2月12日祈り会メッセージ
『神から与えられる知恵と知識』
【Ⅱ歴代誌1:1~13】

はじめに
 先週は歴代誌の第一をおしまいまで見ました。歴代誌第一は29章までありますが、ダビデは23章で王位を息子のソロモンに譲り、29章で死にました。
 そして歴代誌の第二の1節は、

1:1 さて、ダビデの子ソロモンは、ますます王権を強固にした。彼の神、【主】は彼とともにおられ、彼を並みはずれて偉大な者とされた。

 主がソロモンを、どのように並みはずれて偉大な者とされたのかは、7節以降にあります。
 きょう私は、これから話すメッセージを神さまが与えて下さったことに、心から感謝しています。そして、きっと皆さんにとっても幸いなメッセージとなると思います。ただし、聖書のあちこちを開くことになりますから、そのことだけ、心の準備をしておいていただきたいと思います。きょうは、歴代誌を少し見た後で、列王記、創世記、箴言、そして伝道者の書を開きますので、予め予告しておきます。

知恵と知識を願ったソロモン
 さて、7節には、神がソロモンに現れて「あなたに何を与えようか。願え」と言ったことが書かれています。それでソロモンは、10節にあるように、「知恵と知識を私に下さい」と願いました。このソロモンの願いが神の御心にかなったので、神はソロモンに言いました。「その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、わたしはあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」
 このように、ソロモンには知恵と知識が与えられて、さらに富と財宝と誉れも与えられてソロモンは神によって大いに祝福されました。
 この記事を読んで、私は今まで、「知恵と知識」について少し誤解していたことに気付かされました。私はこれまで、「知恵と知識」というと理性面における頭の良さと思う傾向があったことに気付かされました。しかし、神が与える「知恵と知識」とは、理性面ももちろん含まれるでしょうが、霊的な事柄における「知恵と知識」も含むのだ、そして、この霊的な事柄のほうが重要なのだということに気付かされました。きょうは、このことを他の聖書箇所を見ながら、もっと深めて行けたらと願っています。
 この歴代誌と同様の記事は列王記にもありますから、そこを見てみましょう。列王記第一の3章(旧約聖書p.581)を開いて下さい。
 5節に、「主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」とあります、そこでソロモンは9節のことを願いました。9節、

3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。

 ここに書いてあるソロモンのことばは、歴代誌のことばとは、少し違いますね。歴代誌ではソロモンは「知恵と知識」を願いました。しかし、列王記では「善悪を判断する心」を願いました。歴代誌と列王記は、表現は違いますが、同じことを言っているでしょう。すると、「知恵と知識」がどういうものかが、わかって来ます。この9節の脚注を見ると、関連箇所として、サムエル記、詩篇、箴言、ヤコブ書が挙げられていますね。しかし、今回、私が示された関連箇所は、創世記の2章と3章です。

知恵と知識は神が与える
 そこには善悪の知識の木のことが書かれています。その創世記の箇所と、この列王記で、ソロモンが神に善悪を判断する心を願ったこととは、大いに関係がありそうです。創世記2章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.3)。9節をお読みします。

2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

 そして、16節と17節、

2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 しかし、皆さんがご存知のように、アダムとエバはこの善悪の知識の木の実を食べてしまいました。創世記3章の6節ですね。3章6節、

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 ここから今回、私が示されたことは、善悪の知識というのは、人が自分で獲得するものでなく、神が与えて下さるものだということです。アダムとエバにしても、人が二人しかいない間は、善悪の知識は必要なかったかもしれません。しかし、もっと人が増えたなら、いずれは必要になるでしょう。その時には神さまのほうから人に、「食べなさい」と言って善悪の知識の実を与えるつもりだったのではないかなと思います。しかし、アダムとエバは神さまが与える前に、自分たちで勝手に善悪の知識の実を食べてしまいました。これは、神を恐れぬ行為でした。

魂を楽しませる霊的な知恵と知識
 ソロモンの箴言には、「主を恐れることは知識の初めである」とありますね。今度は、箴言を開きましょう。箴言1章(p.1057)、1節から7節を交代で読みましょう。

1:1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
1:2 これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、
1:3 正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、
1:4 わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。
1:5 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。
1:6 これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。
1:7 【主】を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

続いて、2章の1節から10節までを交代で読みましょう。

2:1 わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、
2:2 あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、
2:3 もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、
2:4 銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、
2:5 そのとき、あなたは、【主】を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。
2:6 【主】が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。
2:7 彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり、
2:8 公義の小道を保ち、その聖徒たちの道を守る。
2:9 そのとき、あなたは正義と公義と公正と、すべての良い道筋を悟る。
2:10 知恵があなたの心に入り、知識があなたのたましいを楽しませるからだ。

 6節に、「【主】が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」とありますから、知恵や知識は自分で獲得するものでなく、主が与えて下さるものなのですね。そのような知恵や知識は私たちの魂を楽しませてくれます。ですから、これは霊的な知恵や知識です。具体的な例を挙げるなら、ヨハネの福音書のイエスは、「イエスの時代」だけではなく、「旧約の時代」も「使徒の時代」も現代も同時に生きる、永遠の中を生きているのだというような知識です。イエス・キリストが永遠の中を生きていることは、霊性が整えられていないと感じられないことですから、これは霊的な知識です。この知識は、私たちの魂を楽しませてくれます。

人間的な知恵ではわからない「ヨハネの永遠観」
 もう一箇所、3章の1節から5節までを読みましょう。

3:1 わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
3:2 そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
3:3 恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
3:4 神と人との前に好意と聡明を得よ。
3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

 「自分の悟りにたよるな」とあります。ヨハネの福音書のイエスは、北へ行ったり南へ行ったりします。3章で南にいたイエスは4章で北に行き、5章では南に行き、6章では北に行き、7章ではまた南に行きます。こんなに北へ行ったり南に行ったりするのは不自然だから、5章と6章が、写本が伝わる過程で誤って入れ替わってしまった(錯簡説)と考える聖書学者がたくさんいます。こういうのは、理性だけに頼った考え方です。イエスが北へ行ったり南へ行ったりするのは、背後の「旧約の時代」の舞台が北王国であったり、南王国であったりするからです。主から与えられた知恵や知識でなく、自分で獲得した知恵や知識だけで聖書を読もうとすると、このような残念な過ちを犯してしまいます。

神から離れると知恵も空しい
 そして、たとえ主から与えられた知恵や知識であっても、神から心が離れてしまうなら、それは空しいものになってしまいます。
 伝道者の書の伝道者が、そのような空しさの中に落ち込んでしまっていました。今度は、伝道者の書の1章を開きましょう。伝道者の書は、箴言の次にあります(p.1102)。1節から3節、

1:1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

そして、16節から18節、

1:16 私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
1:17 私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
1:18 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。

 神から離れてしまうなら、霊的な知恵や知識は、単なる人間的な知恵や知識に変貌してしまい、それは単に悩みや悲しみを増し加えるだけになってしまいます。
 ですから、まずは私たちは自分たちで知恵や知識を獲得するのではなく神さまに求め、そして、その知恵や知識は霊的なものでなければなりません。

おわりに
 私たちが霊的な知恵や知識を求めるなら、新会堂の実現を願い私たちに神さまは、きっと良い知恵を授けてくださることでしょう。最後に、もう一度、歴代誌第二を開きましょう。1章の10節から12節までを交代で読みましょう。12節は、ご一緒に読みます。

1:10 今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」
1:11 神はソロモンに仰せられた。「そのようなことがあなたの心にあり、あなたが富をも、財宝をも、誉れをも、あなたを憎む者たちのいのちをも求めず、さらに長寿をも求めず、むしろ、わたしがあなたを立ててわたしの民の王とした、その民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、
1:12 その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、わたしはあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。

 お祈りいたしましょう。
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旧約聖書を成就するために来たイエス(2014.2.9 礼拝)

2014-02-10 10:01:15 | 礼拝メッセージ
2014年2月9日礼拝メッセージ
『旧約聖書を成就するために来たイエス』
【マタイ5:17、18/ヨハネ1:16~18】

はじめに
 今年に入ってから、マタイの福音書を、「ヨハネの永遠観」を通して観ることをしています。「ヨハネの永遠観」は、まずはヨハネの福音書を通して、学ぶ必要がありますが、ある程度わかって来たら、今度はヨハネの福音書以外の書に適用してみることで、より一層、「ヨハネの永遠観」がわかるようになると思います。
 それはちょうど、学校の授業で練習問題を解くようなものでしょう。算数の授業などでは、理屈だけ教わっても、練習問題を解かなければ、なかなか身に付きません。例えば、三角形の面積は、「底辺の長さ×高さ÷2」と教わっただけでは、どういうことかわからなくても、実際にいろいろな形の三角形の面積を求める練習問題を解くうちに、「底辺の長さ×高さ÷2」がどういうことなのかが、わかるようになります。
 マタイの福音書を「ヨハネの永遠観」を通して観ることは、そのような練習問題のうちの応用問題と言えるでしょう。こうして応用問題を解くうちに「ヨハネの永遠観」のことが今までよりもわかるようになるなら、 聖書全体を、より一層豊かに味わうことができるようになることと思います。

圧倒的な存在感を持つ旧約聖書
 きょうのマタイの福音書の箇所は、5章の17節と18節、特に17節です。
 17節でイエスさまは先ず、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません」と言いました。「律法や預言者」とは旧約聖書のことです。律法とはモーセ五書、すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。そして預言者とは、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書と小預言書のことです。この旧約聖書をイエスさまは、廃棄するためにではなく、成就するために来たのだと言いました。
 このイエスさまのことばには、聖書の「永遠観」を理解する上でとても大事なことが含まれていると思います。「永遠観」はヨハネの福音書だけでなくマタイの福音書の中にも見られますし、聖書全体に見られることです。旧約聖書は役目を終えた過去の書物ではなく、今も圧倒的な存在感を持っています。
 それはイエス・キリストが旧約聖書の預言を成就するために、この世に来て下さったからです。【過去→現在→未来】の従来型の時間観で旧約聖書と新約聖書とを見ると、旧約聖書は新約聖書の過去に書かれた古い書であるというイメージがどうしてもついてまわりますが、ヨハネの永遠観で聖書を観るなら、旧約聖書はもっと圧倒的な存在感があります。
 きょうの聖書交読では、詩篇119篇を開きました。詩篇119篇は昨年の聖書交読でも11週間掛けて読みましたから、この詩篇119篇の詩人が律法の神のことばをどんなに愛していたかを、私たちは知っています。けさ開いた119篇の97節には、

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

とありますし、105節には、

119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

とあります。
 律法の神のことばはこんなにも愛されていました。この詩篇119篇からは、旧約聖書の圧倒的な存在感が伝わって来ます。
 しかし、旧約聖書を従来型の時間観に支配されたままで古い書であると考えるなら、この圧倒的な存在感が残念なことに、かなり弱まってしまうことになります。

なぜ旧約聖書の存在感が弱まっているのか
 どうして、そういう残念なことになってしまっているのか、今度はヨハネの福音書1章の16~18節を開いて、その辺りの事情を、もう少し探ってみることにしたいと思います。
16~18節を交代で読みましょう。18節はご一緒に読みます。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
 
 この箇所を、先ず「ヨハネの永遠観」で読み解きます。
 「ヨハネの永遠観」でこの箇所を読むなら、豊かな恵みを受け取ることができます。
しかし、従来型の時間観でこの箇所を読むなら、豊かな恵みではなく、痩せ細った恵みしか受け取ることができません。
 まず、16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」というのは、「旧約の恵み」の上に、さらに「新約の恵み」を受けたということです。もっと具体的に言うなら、「律法の恵み」の上に、「聖霊の恵み」も受けたということです。
 次に、17節よりも先に18節を見ておくと、「いまだかつて神を見た者はいない」とあります。誰も神を見た者がいなかったので、「律法の恵み」を人々は十分に理解することができませんでした。その「律法の恵み」を、父のふところにおられるひとり子の神が解き明かしたから、その恵みがイエス・キリストによって目に見える形で現われたのだと解釈すべきでしょう。
 17節で新改訳聖書が「実現した」と訳しているギリシャ語は、「エゲネト」で、これは「なる、生じる、現れる」の意味の「ギノマイ」の過去形(正確にはアオリスト)です。ですから私は、ここの訳は「恵みとまことはイエス・キリストによって現れた」のほうが良いであろうと考えます。
 「実現した」と訳すと、17節と18節との強い関係が切れてしまいます。ヨハネがここで言わんとしていることは、誰も神を見た者がいないので、モーセの律法の恵みも見えなかった、それをイエス・キリストが目に見える形で現して下さったのだ、ということだと思います。
 律法は恵みであり、それを私たちは聖霊によって霊的に知ることができますから、一層豊かな恵みを感じることができます。それが、「恵みの上にさらなる恵みを受けた」ということだと言えるでしょう。
 また律法とは、「父の愛」とも言い換えることができるでしょう。それが「律法の恵み」です。律法の一つ一つの細かい規定に注目してしまうと、父の愛が見えなくなってしまいます。
 それは「木を見て森を見ず」の状態であると言えるでしょう。豊かな森があっても、一本一本の木に注目し過ぎると森の豊かさは見えなくなってしまいます。
 詩篇119篇の詩人は、この森の豊かさ、すなわち神の愛が見えていましたが、例えばマラキ書に出て来るイスラエルの人々には、神の愛が見えていませんでした。マラキ書を開いてみましょう。
 小預言書のマラキ書は、旧約聖書の最後の書ですから、新約聖書のマタイの福音書の一つ手前にある書です。旧約聖書の1562ページです。マラキ書1章の1節と2節を交代で読みましょう。

1:1 宣告。マラキを通してイスラエルにあった【主】のことば。
1:2 「わたしはあなたがたを愛している」と【主】は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。──【主】の御告げ──わたしはヤコブを愛した。
 このように、マラキ書の時代の人々は、神がいかに人々を豊かに愛していたのか、感じる取ることができていませんでした。
 そのため、いちおう律法を守りはしていたものの、形式的な守り方しかできていませんでした。
 6節と7節を、私のほうでお読みします。

1:6 「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。
 もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。
──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。
1:7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚(けが)れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。
 『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。

 もし、律法から神の愛を感じることができていたなら、祭司たちが、こんな風に汚れたパンを捧げることはなかったでしょう。祭司たちは神殿の儀式を形式的にしか行っていませんでした。

アウグスティヌスの残念な律法解釈
 そして、大変に残念なことに、新約の時代の2世紀以降の人類も、神の愛を律法からは十分に感じ取ることができていませんでした。
 アウグスティヌスによる紀元400年ぐらいのヨハネの福音書の講解説教の、ヨハネ1:17の解説をしている箇所でアウグスティヌスは次のように言っています。

「古い契約においては、律法が人を脅して助けを与えなかったため、これらの〔恵みとまこと〕は存在しなかった。律法は命じるが、いやさなかった。それは弱さを示したが、取り除くことはしなかった。ただ、恵みとまことを携えて到着する医者のために準備したのである。ちょうど医者はいやそうと思った人のところへ、まず下僕を派遣し、自分が着いた時には病人は縛り付けられているようなものである。」(アウグスティヌス著作集 第23巻、教文館、p.52,53)

 これがアウグスティヌスの律法の解釈です。律法は恵みではなくて人を脅し、人を縛り付けるのものであったとアウグスティヌスは言っています。
 もう一度、今のアウグスティヌスの解釈を読みますね。ここではイエス・キリストが医者に例えられ、律法はイエスの下僕に例えられています。下僕である律法は医者であるイエスの先に派遣され、その下僕が人々を縛り付けたとアウグスティヌスは言っています。

「古い契約においては、律法が人を脅して助けを与えなかったため、これらの〔恵みとまこと〕は存在しなかった。律法は命じるが、いやさなかった。それは弱さを示したが、取り除くことはしなかった。ただ、恵みとまことを携えて到着する医者のために準備したのである。ちょうど医者はいやそうと思った人のところへ、まず下僕を派遣し、自分が着いた時には病人は縛り付けられているようなものである。」

 このようにアウグスティヌスは、律法は恵みではないと解釈していましたから、ヨハネ1:16の「恵みの上にさらに恵みを受けた」も、イエス・キリストの恵みを強調した表現であるとアウグスティヌスは解釈していました。「旧約の恵み」の上にさらに「新約の恵み」ではなく、「新約の恵み」の上に「新約の恵み」というように、「新約の恵み」を二重に強調する表現であると解釈していました。
 アウグスティヌスのように「旧約の時代」には恵みが無かったと解釈するなら、「ヨハネの永遠観」に気付くことは不可能です。アウグスティヌスの考え方ですと、時間は、恵みが無かった「旧約の時代」から、豊かな恵みが与えられる「新約の時代」に移ったということになり、従来型の直線的な時間の流れしか見えないことになります。
 「ヨハネの永遠観」で「旧約の時代」と「新約の時代」が重なっているのは、恵みが両方の時代にあったからです。二つの時代が重なっていることで、恵みは一層豊かなものとなって私たちにもたらされます。もし「旧約の時代」がマイナスの恵みしか持たないのであれば、「新約の時代」を重ねた時にプラスとマイナスでキャンセルされて恵みがゼロになってしまいます。それゆえ、アウグスティヌスのように律法を恵みと考えないのであれば、「ヨハネの永遠観」は決して見えて来ません。4世紀から5世紀に掛けての人物であるアウグスティヌスは、特に西方教会における教理の発展に多大な影響を与えた人物ですから、これは本当に残念なことでした。こうして人類は、ヨハネの福音書の豊かな恵みを、かなり割り引いた形でしか受けることができていませんでした。

アウグスティヌスの従来型の時間観
 もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、時間論に関しても、違った展開になっていたことでしょう。アウグスティヌスの有名な著作の一つに、『告白』という本があります。アウグスティヌスは、この本の前半では、もともとはキリスト教の信仰を持っていなかった自分が信仰を持つに至った経緯を書いています。その中では、母のモニカが息子の回心のために篤い祈りを捧げていたことも告白しています。そして、アウグスティヌスは、この『告白』の後半で様々なことに思いを巡らし、考察をしていますが、その中に時間に関する思い巡らしがあります。このアウグスティヌスの「時間論」の中に有名な一節があって、その一節は、20世紀以降に出版された現代の「時間論」の多くの本にも引用されています。私はここ何年かの間に「時間論」に関する本を、けっこう買い漁ったのですが、それらの本の導入部に、アウグスティヌスの『告白』の有名な一節が好まれて引用されています。アウグスティヌスは、このように告白しています。

「時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである」(岩波文庫、p.114)

 「時間とは何であるか」を、明瞭に説明するのは難しいものであるということを示すために、現代の「時間論」の本でも、このアウグスティヌスの告白は、好んで引用されています。そしてアウグスティヌスは、この有名な一節に続いて、次のように思いを巡らしています。

「しかもなお、わたしは確信をもって次のことを知っているということができる。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在という時間は存在しないであろう。わたしはそれだけのことは知っているということができる。しかし、それではかの二つの時間、すなわち過去と未来とは、過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しないのであるから、どのように存在するのであろうか。」(p.114)

 ここでアウグスティヌスは、「過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しない」と確信をもって書いています。これは、完全に従来型の時間観に縛られた考え方です。もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、決してこのような考え方はしなかったでしょう。なぜなら、「ヨハネの永遠観」においては、【過去・現在・未来】は一体となって同時に存在していますから、アウグスティヌスが書いたように存在していないのではないのです。

三位一体論にも関わる「ヨハネの永遠観」
 アウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていなかったことは、本当に残念なことだったと思います。もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、三位一体論に関しても、もっとしっかりとしたものが構築されていたことでしょう。ヨハネの福音書がどのような書かを深く理解するなら、三位一体の神についての理解も深めることができます。ヨハネの福音書の1章から11章では、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」が並んで存在しています。そして「旧約の時代」においては御父が前面に出ており、「イエスの時代」は御子が前面に出ており、「使徒の時代」においては聖霊が前面に出ています。ですから、ヨハネの福音書の構造を理解しているのとしていないのとでは、三位一体論の理解の深まり方が全く異なってきます。アウグスティヌスは三位一体論についての本も書いています。もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、当然のことながら、アウグスティヌスの三位一体論の考察も、もっとずっと深まっていたはずです。しかし、そうはならず、残念なことに三位一体論の解釈を巡ってキリスト教会は東方教会と西方教会とに分裂してしまいました。そして、西方教会はさらにカトリックとプロテスタントとに分裂し、プロテスタントはさらに細分化されて行きます。
 もし「ヨハネの永遠観」が2世紀以降の人類に気付かれていたのなら、キリスト教会がこんな風に分裂することはなかっただろうと私は思っています。そして、平和の実現のためにキリスト教会がもっともっと貢献できていただろうと思います。もしかしたら今頃は、戦争が無い平和な世界が実現していたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。これは本当に残念なことであったと思います。
 しかし、「ヨハネの永遠観」を知ったからには、私たちは、この「ヨハネの永遠観」を世界に広める働きに全力で取り組まなければならないと思います。それが、今年の私たちに与えられている聖句の、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)ということです。

おわりに
 最後に、もう一度、マタイの福音書の5章に戻りましょう。5章の17節と18節を、交代で読みましょう。


5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 ここで、18節の一点一画という所にとらわれ過ぎると、木を見て森を見ないことになってしまいます。私たちに大切なことは森を見ることであって、すなわち律法に込められている父の豊かな愛に気付くことです。この、モーセが与えた律法に込められた父の豊かな愛に気付くことができるなら、17節のイエスさまが旧約聖書を廃棄するために来たのではなく、成就するために来たのだということがわかるでしょう。イエス・キリストは十字架に掛かり、死んだ後によみがえり、天に上った後に私たちに聖霊を遣わして下さいました。この聖霊の恵みによって、私たちは父の愛を豊かに感じることができるようになりました。こうして、恵みとまことがイエス・キリストによって現されました。
 このイエスさまが私たちに与えて下さった恵みは本当に素晴らしい恵みです。ですから、私たちは、この恵みを残すところなく、味わい尽くしたいと思います。もし律法が恵みでないと考えてしまうと、この豊かな恵みは痩せ細った恵みにしかなりません。そうではなく、律法は恵みであるとしっかりと捉えて、恵みの上のさらなる恵みを残すところなく味わい尽くしたいと思います。そうして、この素晴らしい恵みを、この地域の多くの方々に宣べ伝えて行くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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身近にある永遠(2014.2.8 「潮風の中で」)

2014-02-08 20:28:35 | 牧師のつぶやき
「身近にある永遠」(沼津コーストFM76.7MHz「潮風の中で」2014年2月8日放送)

 今夜は「永遠」について、皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。
 「永遠」と聞くと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。現在から未来へと続く時間の先にある、「遠い未来」のことを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。あるいは「遠い過去」から「遠い未来」までの時間のつながりを感じる方もいらっしゃるかもしれません。いずれにしても、時間を一本の直線のようにイメージして、その遠い先にあるのが「永遠」であると考える方が多いのではないでしょうか。私自身も以前は、「永遠」とは現在から未来への時間の延長線上にある、「遠い未来」のことというイメージを持っていました。
 しかし聖書を深く学ぶようになり、また現代物理学に関する一般向けの本などをあれこれ読んで思いを巡らすうちに、実は時間とは一本の直線で表せるようなものではなく、また「永遠」も遠くにあるものではないのだと、私は考えるようになりました。「永遠」とは、実は私たちが考えているよりも、もっとずっと近くにあるもののようです。
 例えば、こんな風に考えてみたらどうでしょうか。良く晴れた夜に暗い開けた場所に立つと、たくさんの星を見ることができます。その時私たちは、いろいろな距離からのたくさんの光を浴びています。もし星だけでなく地上の光も見えているなら、一番近い距離にある光は地上の光です。次に遠いのは、もし夜空を飛行機が飛んでいるなら、飛行機からの光でしょう。そして月が出ていれば、月からの光も、比較的近くからの光です。次に遠いのは火星や木星などの惑星の光ですね。そして一番たくさん見える光は、私たちの銀河にある星からの光です。それらの光は、近い星からは数年前、遠い星からは数万年前に出た光です。また、私たちの銀河の外にあるアンドロメダ星雲からの光は約250万年前に出た光だそうです。このように私たちは、様々な距離にある遠い過去の光から比較的最近の光に至るまでの色々な光を同時に浴びています。それはつまり、私たちは色々な時間に包まれているということではないでしょうか。
 時間を、過去から未来へ向かって飛ぶ弓矢の矢で表現するなら、私たちは、矢が存在している「今」という瞬間にしかいないことになります。その場合、「過去」や「未来」は私たちが「今」いる所とは別のところにあります。しかし、たくさんの星の光を浴びている私たちは、実は飛んでいる矢の中にいるのではなくて、「過去」も「現在」も「未来」も渾然一体となった時間の中にいるのではないでしょうか。
 このことは、永遠の中を生きる神について書かれた聖書についても、同様のことが言えます。いま私の手元には一冊の聖書があります。聖書にはいろいろな時代についての記事が、ほぼ時代順に一冊の中に収められています。聖書のおしまいの方、つまり現代に近い方から簡単に説明して行くと、聖書の最後には、未来について書かれたヨハネの黙示録があります。その前にはペテロやヨハネやパウロなどの使徒たちの手紙の書簡集と彼らの働きについて書かれた使徒行伝があり、その前にはイエス・キリストの言動を記した福音書があります。ここまでが新約聖書です。これらの新約聖書の記事は紀元1世紀に書かれました。また、新約聖書より前の紀元前に書かれた旧約聖書も現代に近い方から見て行くと、イスラエルがペルシャ帝国やバビロニア帝国に支配されていた時代の記事があり、その前にはヒゼキヤ王やソロモン王、ダビデ王などのイスラエルの王たちの時代の記事があり、さらにその前には、モーセやアブラハムの時代のことが書かれています。このように聖書には様々な時代のことが書かれていますが、これらの時代の全てを支配しているのは唯一の神です。この唯一の神は永遠の中を生きていますから、旧約聖書の時代も新約聖書の時代も、そして現代も同時に生きています。そして、その神は聖書のことばを通して現代の私たちに語り掛けて来ます。この状況は、私たちが星の光を浴びているのと、とても良く似ていると思います。聖書の神のことばは、モーセやイザヤなど、様々な時代の預言者たちを通して語られ、それらを現代の私たちが受け取ります。ですから聖書のことばは、過去の人々に対してだけではなく、現代の私たちに対しても語られています。
 私たちが様々な時代からの星の光の中にいるように、私たちは様々な時代からの神のことばの中にいます。神は永遠の中にいますから、この神を信じるなら、私たちもまた永遠の中に入れられます。ですから、この永遠とは、遠い所にあるものではなく、もっとずっと身近にあるものです。私たちは聖書のことばを通して、永遠を身近に感じることができます。それゆえ聖書に親しむようになると2千年前のイエス・キリストの十字架の出来事も身近に感じますし、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した3千年以上も前の出来事も、とても身近な出来事として感じるようになります。
 時間が、飛んでいる矢のようなものだとすると2千年前の十字架は、遥か昔の出来事です。しかし、聖書に親しむようになると2千年前が昔ではなくなるということは、実は時間とは飛んでいる矢のようなものではなく、星の光のようなものであると言えるのではないでしょうか。私は今、54歳ですが、目をつむって私のこれまでの人生を振り返るなら、小学生の時代のことも昔のこととは感じずに、ついこの間のことのように感じます。時間とはそういうものではないでしょうか。自分の姿を鏡で見ると、年を取ったなあと感じ、昔には戻れないと思ってしまいますが、目をつむれば、すぐに昔に戻ることができます。目に見える世界と目に見えない世界とでは随分と違うのですね。実は物理学の量子力学の世界でも、目に見えない小さな粒子は、目に見える大きな物とは全く違う時間の中にいることがわかっています。ですから、目に見える世界が本当の世界ではなく、実は目に見えない世界の方が本当の世界なのかもしれません。人間の目に見える世界は、人間の脳が作り出す世界です。脳はいろいろな錯覚も起こしますから、目に見える世界が本当の世界かどうかは怪しいと思います。たとえば映画のフィルムの1コマ1コマは本当は止まっているのに、私たちの目には映像が動いているように見えます。本当は止まっているのに動いて見えるのですから、目に見える世界が必ずしも本当の世界ではありません。
 このコーストFMの放送もまた、目には見えない電波を利用していますね。電波はテレビや携帯電話や様々な通信に利用されていますから、現代の私たちの便利な暮らしに電波は欠かせません。X線や赤外線も目には見えませんが、私たちの生活の役に立っています。このように、私たちの生活の多くは、目に見えないものによって支えられています。
 そして聖書の世界もまた、目には見えない世界です。目には見えませんが世界中の多くの人々が聖書の神のことばに支えられて生きています。目に見えない神のことばは私たちを慰め、励まし、私たちに生きる希望と力を与えてくれます。
 ここで聖書のことばを一つお読みします。新約聖書のヨハネの福音書13章34節です。これはイエス・キリストが最後の晩餐の席で弟子たちに語ったことばです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 イエス・キリストは永遠の中を生きていますから、この弟子たちに対する「互いに愛し合いなさい」ということばは、現代の私たちに対することばでもあります。イエスは、私たちに「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言いました。しかし、私たちはどうでしょうか。私たちは争い事を繰り返してばかりいて、互いに愛し合うことができていないのではないでしょうか。
 どうして私たちは、互いに愛し合うことができないのでしょうか。それは、私たちが時間のことを飛んでいる矢のように考えているからではないでしょうか。そして、「永遠」を遠い所にあるものだと思い込んでいるからではないでしょうか。私たちの多くは過去に人から傷つけられた経験があるでしょう。それゆえ私たちは自分を傷つけた相手を恨み、今度は自分が加害者になって相手を傷つけたりします。そうして人は代わり番こに人を傷つけたり傷つけられたりします。相手が同じでなくても、人は自分がやられたことを今度は別の人に対して行って鬱憤を晴らしたりします。時間を飛んでいる矢のように考えてしまうと、どうしてもこのような争いを繰り返してしまうことになります。自分が相手を傷つける時、相手の痛みがなかなかわかりません。自分が傷つけられている時は痛みがわかりますが、相手を傷つけるとき、その痛みを忘れてしまいます。
 しかし時間が、星の光のように過去も現在も未来も渾然一体になっているなら、自分は人から傷つけられるだけではなく、人を傷つける罪深い存在であることもわかるのではないでしょうか。過去も未来も一体の時間の中にいるなら、自分の痛みが相手の痛みでもあることがわかります。こうして誰もが皆、被害者であると同時に加害者でもあるのだという共通認識を、多くの人々が共有するようになるなら、私たちは互いに赦し合うことができるようになり、そして互いに愛し合うことができるようになるのではないでしょうか。
 イエス・キリストの「互いに愛し合いなさい」ということばは、私たちが過去も現在も未来も渾然一体になった永遠の中にいることを前提にしたことばではないでしょうか。なぜなら、イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言ったからです。イエス・キリストは永遠の中にいます。永遠の中にいるイエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言ったのですから、私たちも永遠の中にいて、互いに愛し合わなければなりません。永遠とは、決して遠い所にあるものではなく、身近にあるものです。この過去・現在・未来が一体の永遠は、聖書に親しむようになると身近に感じることができるようになります。
 時間を飛ぶ矢のように考えている間は、私たちの生活は良くなったり悪くなったりを繰り返しますから、心がなかなか安定しません。安定しないから人を攻撃するようなことにもなるのでしょう。しかし、過去・現在・未来が渾然一体の永遠の中に身を置くことができるようになると、驚くほどの心の安定を得ることができます。聖書に親しみ、2千年前のイエス・キリストの十字架の出来事を身近に感じることができるようになるなら、この素晴らしい恵みを感じることができます。
 明日の日曜日は、是非お近くの教会にお出掛けになって、聖書のことばに触れる時をお持ちになってみませんか。皆さんが、永遠を感じる恵みを経験することができますように、お祈りしています。
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2月9日礼拝プログラム

2014-02-06 09:19:27 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

2月9日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2月 第2聖日礼拝順序

 司  会             小島牧師
 奏  楽             関 姉

 前  奏
 讃 美 ①  ガリラヤの風かおる丘で   183
 交  読  詩篇119:97~112
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  主よ 命のことばを     179
 讃 美 ③  天において 主をたたえよ  204
 聖  書  マタイ5:17、18/ヨハネ1:16~18
 説  教  『旧約聖書を成就するために来たイエス』 小島牧師
 讃 美 ④  いのちのみことば      180
 献  金
 感謝祈祷
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新会堂建設への心備え④(2014.2.5 祈り会)

2014-02-06 06:51:44 | 祈り会メッセージ
2014年2月5日祈り会メッセージ
『新会堂建設への心備え④』
【歴代誌第一29:10~30】

はじめに
 今週も、歴代誌の学びを続けて行きます。きょうは29章の30節まで読んで歴代誌の第一を終わらせてしまおうと思っています。

きよいダビデの信仰
 まずは19節までを、交代で読みましょう。

29:10 ダビデは全集団の目の前で【主】をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、【主】よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
29:11 【主】よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。【主】よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
29:12 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
29:15 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。
29:16 私たちの神、【主】よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。
29:17 私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。
29:18 私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。
29:19 わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」

 ダビデのこの主をほめたたえている言葉を読むと、心が洗われるような気持ちがします。ここでダビデは真にへりくだって、すべてを主に明け渡しています。この歴代誌に記されているダビデの信仰こそが、きよめの信仰が目指すべきところではないだろうかという気がします。
 14節でダビデは、「まことに、私は何者なのでしょう。」と言っています。ダビデはサウル王の側近になる前は羊飼いでしたから、金や銀を持っていたわけではありません。ダビデは、ちゃんとそのことが分かっていました。ダビデは主の宮の建設のために、たくさんの金や銀を捧げましたが、それらは皆、主が与えて下さったものであることを、ちゃんとわかっていました。
 また、ダビデは、「私の民は何者なのでしょう」とも言っています。イスラエルの民は、皆、アブラハムの子孫でした。アブラハムは、もともとはユーフラテス川の流域のウルの地に、父テラと共に住んでいました。それがある時、父テラと共にハランの地に移り住み、父テラの死後に神の声を聞いてハランの地を出立してカナンの地に入ったのでした。その後、ヤコブとヨセフの時代に一旦はカナンの地を離れてエジプトに移住しましたが、モーセの時代にエジプトを脱出し、モーセの後継者のヨシュアの時代に再び戻って来ることができたのでした。そうして、この地においてダビデの時代に繁栄の時代を築くことができたのは、すべて主の力であることを、ダビデは知っていました。ですから、ダビデは、このように言いました。

「このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」

 私たちも、もともとは何も持っていませんでしたが、今はそれぞれが、何がしかの物を持っています。それを、私などは、つい自分の力で獲得したような気になってしまう時があります。この14節を読んで、改めて反省させられました。皆さんは、いかがでしょうか。私たちは、いつでも、どんな時でも、この歴代誌のダビデの信仰を保っていることができたらと思います。

罪赦されたダビデが描かれている歴代誌
 さて、いま私は敢えて「歴代誌のダビデ」の信仰と言いました。実は皆さんもご存知の通り、「サムエル記のダビデ」は、もっといろいろな所を通り、時にはバテ・シェバ事件のようなことも起こしているのですね。歴代誌はダビデの良い面しか記していませんが、サムエル記は、もっとダビデのドロドロした面も描いています。歴代誌ではダビデが人口調査を行ったこともサタンのせいにしていますから、ダビデはそれほど悪者にはなっていません。また、ダビデの子のソロモンについても、悪いことは書いてありません。歴代誌のダビデとソロモンに関する記述は、ほとんどがおめでたいことばかりです。
 では、サムエル記のダビデや列王記のソロモンのことを知っている私たちは、この歴代誌のダビデとソロモンのおめでたい記事を、どのように観たら良いのでしょうか。少し割り引いて観たほうが良いのでしょうか。そんな必要はありませんね。私は、歴代誌の記事は、主がエレミヤを通して預言した、次の言葉を重ねて観たら良いのではないかと感じています。私が良く引用するエレミヤ31章の34節で、主はエレミヤを通して次のように告げています。

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」

 歴代誌のダビデとソロモンのきよい姿は、主が彼らの罪を二度と思い出さないことにした姿だと思って観れば良いのではないかと私は感じています。「ヨハネの永遠観」で聖書を読むなら、【過去・現在・未来】は渾然一体になっていますから、ダビデ・ソロモンの罪もまたイエス・キリストの十字架によって赦されるのです。そうして、十字架の血によってきよめられた歴代誌のダビデが主をほめ讃える言葉から、きよめの信仰を学び取ったら良いのだと思います。
 そしてサムエル記の苦悩するダビデからは、ダビデがバテ・シェバ事件以降、坂道をころがり落ちるようにして家庭の中がドロドロになって行った時期にあっても、ダビデは主から離れることなく信仰を持ち続けたことを学び取れば良いのだと思います。
 歴史には必ず主観が入り込むと思いますから、歴代誌からは「歴代誌のダビデ」の信仰を学び取り、サムエル記からは「サムエル記のダビデ」の信仰を学び取れば良いのだと思います。
 このように、歴史観には、どっちが正しいということは無いのだと思います。いま日本と中国・韓国との間では歴史認識の問題でいがみ合っていますが、どちらの歴史認識が正しいかで争うのでは不毛の争いが続くだけだと思います。私は、双方がお互いの歴史観をへりくだって学び、双方が反省すべき点を反省するようにすれば良いのにと思います。自分の側が正しいと主張するばかりでは、いつまで経っても解決しないだろうと思います。

罪赦された恵みを味わう
 歴代誌第一に戻りましょう。29章の20節から、30節までを、交代で読みましょう。読む時には「ヨハネの永遠観」の中に入って、エレミヤ書の「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」という主の言葉を意識しながら読むと、咎が赦され、罪が二度と思い出されないことが、いかに祝福された恵みであるかを感じることができるのではないかと思います。

29:20 そして、ダビデは全集団に向かって、「あなたがたの神、【主】をほめたたえなさい」と言った。すると全集団は、父祖の神、【主】をほめたたえ、ひざまずいて、【主】と王とを礼拝した。
29:21 その日の翌日、彼らは【主】にいけにえをささげ、全焼のいけにえをささげた。雄牛千頭、雄羊千頭、子羊千頭、これらに添える注ぎのぶどう酒、それに全イスラエルのためのおびただしいいけにえをささげた。
29:22 彼らはその日、大いに喜んで、【主】の前に食べたり飲んだりし、あらためてダビデの子ソロモンを王とし、油をそそいで、【主】のために、君主とし、ツァドクを祭司とした。
29:23 こうしてソロモンは、【主】の設けられた王座に着き、父ダビデに代わり、王となって、栄えた。全イスラエルは彼に聞き従った。
29:24 すべてのつかさたち、勇士たち、および、ダビデ王のすべての子たちまでも、ソロモン王に服した。
29:25 【主】はソロモンを全イスラエルの目の前に非常に大いなる者とし、彼より先にイスラエルを治めたどの王にも見られなかった王の尊厳を、彼に与えられた。
29:26 このようにして、エッサイの子ダビデは全イスラエルを治めた。
29:27 彼がイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、エルサレムで三十三年治めた。
29:28 彼は長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。
29:29 ダビデ王の業績は、最初から最後まで、予見者サムエルの言行録、預言者ナタンの言行録、先見者ガドの言行録にまさしくしるされている。
29:30 それには、彼のすべての統治、彼の力、また、彼およびイスラエル、それに各地の諸王国が過ごした時代についてしるされている。

おわりに
 私たちもまた、主から離れずに主と共に歩むなら、このダビデに与えられたような素晴らしい祝福が私たちにも与えられることを信じて、信仰の道を歩んで行きたく思います。
 そして、この地域の多くの方々と共に、ひと所に集って、主をほめ讃えることができる会堂を私たちが献堂することができますよう、きょうもお祈りしたいと思います。
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