平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

インマヌエルの広げた翼(2013.10.30 祈り会)

2013-10-30 20:07:55 | 祈り会メッセージ
2013年10月30日祈り会メッセージ
『インマヌエルの広げた翼』
【イザヤ8:6~10】

8:6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
8:7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8:8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」
8:9 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。
8:10 はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。

はじめに
 今日は、イザヤ書の8章を開きます。いま私はローマ人への手紙を学ぶ会に参加していますので、きょうのイザヤ8章の6~10節を解釈する手助けとして、ローマ人への手紙の「神の義」をここに取り入れて考えてみる、ということをしてみようと思います。

1.他国との複雑な関係に翻弄されるユダ
 まずイザヤ8章の6~10節を見てみましょう。
 ここには、四つの国が出て来ます。南王国のユダと北王国のイスラエル、それからアラムとアッシリヤです。王国が南北に分裂する前のソロモンの王国は強大な国であったと言えると思いますが、北王国と南王国に分裂してしまった後のイスラエルとユダは、二つとも弱小な国に成り下がってしまいました。ですから両国とも非常に不安定であり、いつ何時、他の国に滅ぼされてもおかしくない状態にあったと言えます。そのため、生き延びて行くためには、他の弱小国同士で同盟関係を結んだり、或いは強大な国には貢ぎ物を贈ってなるべく逆らわないようにするなどしていました。強大な国に貢ぎ物を贈ることは、他の国から攻められることから守ってもらえるという効果もありました。ただし、強大な国は一つではありませんから、どの国に貢ぎ物を贈るかは難しい問題です。
 このように、弱小の北王国と南王国は、綱渡り的な危ない橋を渡りながら、何とか生き延びていたものの、やがて、その外交政策で失敗して両国とも滅ぼされてしまいました。これを聖書的に言えば、不信仰の故であるということになります。
 イザヤ書のイザヤの預言は南王国ユダの王と民に対するものですから、イザヤ8章6~8節もユダに対するものです。ここには、南王国のユダが、ユダと同様の弱小国である北王国とアラム、そして強大な国であるアッシリヤとの複雑な関係に翻弄された末に、やがてアッシリヤの強大な勢力に飲み込まれて行くであろうことが預言されています。
 しかし、インマヌエルの神の広げた翼はユダを守ります。アッシリヤの攻撃によって北王国のイスラエルは滅ぼされますが、南王国のユダは滅亡の一歩手前で、滅亡を免れます。後に結局はバビロンによってユダは滅ぼされるのですが、この時のアッシリヤの攻撃からは守られます。ここから、どのような信仰上の教訓をくみ取ったら良いかと言えば、信仰があればインマヌエルの神が守って下さる、ということだと思いますが、それでは、あまりに漠然としています。そこで、前半のお証の時に開いた、ローマ人への手紙を当てはめてみたいと思います。

2.ロマ書の「神の義」
 まず、ローマ1章16節と17節です。交代で読みましょう。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 この16節と17節は、ローマ人への手紙における中心的な聖句と言われています。この16節と17節を説明するためにローマ人への手紙の全体が存在するのだ、ということです。ここに「神の義」とあります。この「神の義」の解釈も難しいのですが、今回私は、イザヤ書8章を開いていて、神がユダの民に対して行ったことと「神の義」が非常に良く重なることを感じています。それは、ローマ3:21と22を読むことで、さらに深まります。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 21節に、「預言者によってあかしされて、神の義が示された」とあります。私はここにイザヤ書8章を当てはめると、「神の義」とは何かのイメージが膨らむのを感じます。
 そして、22節に、「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とありますね。私は東京でのロマ書の学びに参加して本当に良かったなと感謝しているのですが、この新改訳第3版の訳は1つの訳であって、別の訳し方もあり得るのだということを学びました。ギリシャ語の文法について話し始めると話が難しくなりますので、ここでは最小限に留めようと思いますが、別の訳し方としては、「イエス・キリストの真実さ・誠実さを通して私たちに神の義がもたらされる」という訳もあるのだそうです。
 新改訳の場合は、「私たちがイエス・キリストを信じることによって神の義がもたらされる」となっています。文法的な説明としては、「イエス・キリスト」を主格として訳すか、目的格として訳すか、そのどちらも可能であるということです。私は個人的には新改訳の訳ではなくて、「イエス・キリストの真実さ・誠実さを通して私たちに神の義がもたらされる」と訳したほうが、神の大きな愛が感じられて断然良いように感じます。
 実は「神の義」についても、「神」を主格として訳すか目的格として訳すかの議論があります。「神が持つ義」なのか、「神に対する義」なのか、難しい議論があります。或いは、神の義の「義」というのは「正しさという正義の義」ではなくて、もっと広い意味での「救い」という意味を持つものであるという考え方もあるそうです。私は、そのほうが神の愛を一層大きく感じられて良いと感じます。

3.イザヤ書8章の「神の義」
 うまく説明できていなくて申し訳ありませんが、分かち合いたいのは、私たちはもっと「神の義」を「義」を正しい・正しくないを越えて、もっと広い「救い」と考えても良いであろうということです。
 すると、イザヤ書8章で国同士の敵対関係や同盟関係、または主従関係の中で翻弄されている人々がどうすれば良かったのか、ということも何となく見えて来ます。どこの国と手を結ぶのかという人間的なことにあくせくするのでなく、神の大きな愛に委ねなければなりません。神は大きな翼を広げて下さり、守って下さいます。神はともにおられますから、神の救いの力に、ただお委ねすれば良いのだと思います。

おわりに
 神が守って下さることを信じるとか信じないとかを言い始めると、人間的な力んだ信仰になってしまいます。神がともにおられることを、ごく自然に受け入れるなら、神は必ず私たちを守って下さいます。
 そんな大らかな信仰に身をゆだねることができたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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