インマヌエル沼津キリスト教会

十字架から二千年の2033年までに平和を
沼津市今沢34番地 Tel.055-966-2612

5月31日礼拝プログラム

2015-05-28 15:40:29 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月31日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第5聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  主イエスのみそばに     441
 交  読  詩篇122篇 全 
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  うたいつつあゆまん     402
 聖  書  イザヤ52:1~7 
 説  教  『平和を告げ知らせる日本』 小島牧師
 讃 美 ④  恵みの高き嶺        414
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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母の日礼拝での証し(T2姉)

2015-05-25 04:09:46 | 教会員の証し
母の日礼拝での証し(2015.5.10 T2姉)

 今日は母の日礼拝と言う事で、お証の機会を与えられて感謝です。
 この季節になると、いろいろな所に美しい花が咲き、緑も美しく、神様の御業の素晴らしさを感じ、「地には花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる」(雅歌2章12節)を思い起します。
 私は、2007年12月に洗礼を受け、7年が経ちました。それが長いのか、短いのかわかりませんが、やっぱり私にとって、7年も経ってしまったのに、こうして皆様の前に立って、お証し出来るような者にはなっていないと、反省ばかりです。
 私が、物心ついてから一番辛かった事は、高校1年生の時、1才下の弟が白血病で亡くなったことでした。その悲しみが癒えないうちに、高校3年生の大学受験も近くなった時、小学6年生から7年間、文通を続けていた友人が交通事故で亡くなりました。この二人の死は多感な年ごろの私にとって本当に辛く、ショックで、人の死について考えるようになりました。
 東京で大学生活を送り始めた頃、父親が保証人となった人が倒産して、父が借金を背負ってしまい、私は奨学金とアルバイトですごす貧しい生活に追い込まれました。青森出身の友人のところに送って来たりんごを貰い、それをかじって1日を過ごすような生活でした。
 お金が無いので、大学の寮に入りましたが、そこで創価学会の人と出会いました。皆さんすごく勉強していて、人間的にも素晴らしい方々で、私も一緒に勉強したのですが、なにか違和感を覚え、入信しませんでした。
 結婚して夫の郷里の宮城県の石巻で暮らすようになり、二人目の女の子が生まれましたが、その子には色々な障害がありました。同じ団地の人で、ものみの塔に入っている人と知り合いになり、エホバの証人の勉強をはじめました。
 間もなく、沼津に引っ越しましたが、こちらでもエホバの証人の勉強を続けました。でも、やっぱり、何かシックリ来ない感じがしていました。
 次女に障害がある事が判って、毎日死ぬ事ばかり考えていた時期に、イエス様と出会えていたなら、もっと楽に生きられたのではないかと思ったりしましたが、今、振り返って見て、この苦しい時期も神様の深いお考えによるものだったのではないかと考えるようになりました。
 沼津教会の近くに越して来て、三女が小学校に入る前、沼津教会の廣瀬善子先生から「これから厳しい社会の中で、障害を持ったお子さんを育てながら生きて行くのに、神様を知ることはとても良い事だと思うから、お子さん方を教会学校に参加させたら如何でしょう。」と進めて頂きました。三女は教会学校が好きになり、6年生まで休むことなく出席しました。本当に素晴らしい事でした。三女は私には言いませんでしたが、「お母さんが教会へ行きますように」とお祈りしていると教会の先生には言っていたそうです。
 私は、毎日の生活の中でなにか不安で、確かなものが欲しいと思っていました。しかし、私が生きて行くのには、自分が正しいと思う事を基準にして来ました。
 教会の先生と聖書の学びを始めて、ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」と言う聖句を知り、とても気持ちが楽になり、洗礼を受ける決心をしました。
 今日は母の日と言う事ですが、母親だれしも同じだと思いますが、子供は皆それぞれ可愛いのですが私の3人の娘にも夫々個性があり、話題も違います。教会の話題が通じる三女とはよく話します。ある時、高校生の時だったと思いますが、「お母さんが死んだ後、お姉チャンは施設に入るのかな」と話をした時、三女は「私が一緒に暮らすから」と言ってくれました。三女は大学もミッション系を選び、卒業して社会人になりました。現在は土日が出勤の業務なので教会出席は困難な様ですが、最近も「自分がお姉チャンと一緒に暮らす」と言ってくれました。小さい頃から教会学校に通い続け、聖書の言葉、神様が心の中に居て下さるのだと思っています。
 いま、障害をもつ次女は、私達夫婦、家族の生きる力になっています。この子の純粋な生き方は、イエス様に一番近いのではないかと思う事が有ります。
 4年前になりますが、3.11東日本大震災が起きた時、夫の実家があり、7年間暮らした石巻も大きな被害に遭いました。心配でしたから、1ヶ月程過ぎて、夫と三女と3人で車で行く事になりましたが、その時、教会の皆様から心温まるご支援の物資などを頂きました。私のまわりで、このようにして下さったのは教会の方々だけでした。
 自分の事だけで精一杯の今の世の中で、神様の教えを学び、聖書のみ言葉に従い、思い遣りの心を持った、教会の方々の様な人たちが増えていったら、とても素晴らしい社会になると思います。
 この様な証の機会、振りかって見る機会を与えられ、いろいろな場面で神様の導きが在った事を知らされました。大きな神様の摂理の中で生かして頂いて、ここまで来ることができました。これからもいろいろな事があるかも知れませんが、私を愛して十字架に架かって下さった神様の愛を信じて信仰の道を進んで行きたいと思います。そして、沼津教会の方々に出会えた事も、とても感謝です。まだまだ未熟な私ですが、これからもよろしくお願いいたします。
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時間を超越した天の祝宴(2015.5.24 ペンテコステ礼拝)

2015-05-24 16:57:16 | 礼拝メッセージ
2015年5月24日ペンテコステ礼拝メッセージ
『時間を超越した天の祝宴』
【ヨハネ2:1~11】

はじめに
 きょうはペンテコステの日です。礼拝の始めのほうで使徒の働き2章を交読しましたが、きょうはこの五旬節の日の出来事が起きたことを記念して、お祝いする日です。
 聖霊に様々な働きがあることは、これまで礼拝で何度かお話をして来ました。聖霊は私たちにイエス・キリストの証人になる力を与えて下さいます。私たちはこの力を得てイエスさまの証人となって伝道活動をします。イエス・キリストの弟子たちもまた、この力を得て力強く宣教の働きを行いました。
 或いはまた、御霊の賜物の話もして来ました。御霊の賜物は、私たちが教会を建て上げていくことができるように、神様が私たちに与えて下さるものです。与えられる御霊の賜物は人によって異なります。音楽の賜物、CS教師の賜物、料理の賜物、個人伝道の賜物など、教会運営に欠かせない奉仕の賜物を神様は一人一人に異なる形で与えて下さいます。
 或いはまた、御霊の実についても簡単に触れました。ガラテヤ書に書いてあるように御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらの御霊の実が与えられるなら、私たちはイエスさまに似た者にされて行きます。もし私たちがそのようにイエスさまに似た者にされるなら、私たちに接する人たちがとても好ましいものを感じて、自分も教会に行ってそのような者にされたいと思わせることができるようなものです。このような御霊の実を持つことは簡単なことではありませんが、私たちは、このことも目指さなければなりません。そのためには、自分の心をすべてイエスさまに明け渡して聖霊に満たされなければなりません。自分中心の考えを持ち続けるなら、自分をイエスさまに明け渡したことにはなりませんから、イエスさまに全面降伏しなければなりません。これがきよめの信仰ですね。きょうの午後にはシオン教会で野田秀先生による詩篇51篇からの、「きよい心」についてのメッセージが予定されていますから、午後は皆さんもシオン教会にお出掛けになることをお勧めしたいと思います。

時間を超越した天の祝宴
 さて、きょう私がお話したいと思っている聖霊のもう一つの働きとして、聖霊は私たちが時間を超越して神様と交わることができるようにして下さる、ということについて話したいと思います。これはヨハネの永遠観として、これまでも何度も話して来たことですが、今日のペンテコステ礼拝の機会に改めて、聖霊は私たちが時間を越えて神様と交わりができるように助けて下さるという、この働きについて話させていただきたいと思います。
 きょうの聖書箇所のヨハネ2章の前半の出来事には旧約の時代の出エジプトの出来事と、使徒の時代のペンテコステの日の出来事が重ねられていることは、これまでに何度か説明して来ましたが、簡単に復習しておきたいと思います。
 ヨハネ2章の前半には、先ほど司会者に読んでいただいたように、「カナの婚礼」の出来事が記されています。婚礼ですから、これは人が救われる時に開かれる「天の祝宴」と考えても良いでしょう。ルカの福音書には、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こると書いてあります(ルカ15:10)。そして放蕩息子が父親のもとに帰って来た時、父親は祝宴を始めました(ルカ15:24)。
 ヨハネ2章の「カナの婚礼」の背後にも、人が救われたことを祝う祝宴の意味があると考えられます。旧約の時代の出エジプトで出来事ではイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救い出されました。使徒の時代のペンテコステの日には聖霊がガリラヤ人の弟子たちの心に入って罪をきよめ、罪の奴隷状態から救いました。
 カナの婚礼では、イエスさまが水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。このぶどう酒とは血のことであり、背後の出エジプトの時代においては、モーセがナイル川の水を血に変えたことと考えても良いかもしれませんし、過越の出来事でイスラエルの人々が家の門柱とかもいに塗った羊の血と考えても良いでしょう。そして、使徒の時代においてはイエス・キリストが十字架で流した血です。聖霊が心の中に入る時、私たちの罪はきよめられますが、それはイエス・キリストの十字架で流した血の犠牲によるものです。私たちの神に対する反逆の罪は本来なら赦されるはずのない重い罪ですが、イエス・キリストが十字架で流した血によって私たちは赦されました。そして、天では祝宴が開かれます。以上のことについては、大筋においてはこれまでも何回か話して来たことです。

「過去」と「未来」を分断する「現在」
 さて、きょう私がお話したいと思っていることは、私たちがどうして、このヨハネの福音書の構造に気付くことができていなかったかということです。このことについても、これまでにしつこいぐらいに話して来ました。それは、私たちが、あまりにも「過去→現在→未来」という一方通行の時間の流れに縛られているからである、ということです。今日も、そのことについて話すことになるわけですが、最近、もう少し考察が進みましたので、今日はプロジェクターでの説明も交えて、その説明をしたいと思います。
 まず週報p.3の図式の(1)~(4)を見て下さい。



 私たちの多くは(1)の図式の「過去→現在→未来」という一方通行の時間の流れに縛られていますが、この時間の流れに縛られているということは、「現在」に縛られるということなのですね。そして、その結果として「現在」が「過去」と「未来」とを分断してしまいます。平和の問題に関して私たちは、(4)の図式のように「過去」の「戦争の惨禍」という過ちの上に立って、「未来」の「崇高な理想」を目指さなければなりません。つまり、「過去」の「戦争の惨禍」と「未来」の「崇高な理想」とは「現在」を挟んでワンセットになっていなければなりません。しかし、(1)の図式に縛られ、「現在」に縛られていると、「過去」の「戦争の惨禍」と「未来」の「崇高な理想」が「現在」によって分断されてしまいます。その結果、「現在」の現実ばかりに目がいってしまって、理想論を語るのではなく現実的な対応をしようという話になってしまいます。これはマルタとマリヤの姉妹の、姉のマルタになることです。そのように理想よりも現実を見ようとするなら、現行の平和憲法は理想論に偏り過ぎているように見えますから、憲法をもっと現実に合わせる方向で改正しようという動きになって行きます。

共観福音書の〈肉〉のイエスに縛られている私たち
 そして、ヨハネの福音書の構造が今まで気付かれて来なかったのも、私たちの多くが(1)の図式の時間観に縛られていて、つまり「現在」に縛られているために、聖書の読み方も(2)のようなものになっているのだろうと思います。私たちは、あまりにもマタイ・マルコ・ルカの共観福音書のイエス・キリストに縛られているように思います。共観福音書のイエスさまは地上生涯のイエスさまですから、〈肉〉のイエスさまです。そして、ヨハネの福音書のイエスさまのことも、共観福音書のイエスさまを見るのと同じ目で見ようとします。しかし、ヨハネの福音書に描かれているイエスさまは〈肉〉のイエスさまだけではありません。ヨハネ2章で言えば、旧約の時代の出エジプトの現場にいるイエスさまは〈霊〉のイエスさまであり、使徒の時代のペンテコステの日の現場にいるのも、やはり〈霊〉のイエスさまです。ヨハネの福音書は、この〈霊〉のイエスさまが見えるようにならないと霊的なメッセージを受け取り損ねてしまいます。
 ヨハネの福音書は(3)の図式のような形になります。ヨハネの福音書はこの枠の中にはなくて、枠の外にあります。そうしてヨハネの福音書以外の聖書のほぼ全体を眺めています。パウロの手紙やペテロの手紙なども「使徒の働き」の中に含めてよいでしょう。そして、〈霊〉のイエスさまから見れば、旧約聖書も共観福音書も使徒の働きも皆、「過去・現在・未来」が一体の一つの時間の中にあります。
 これまで私たちがこの時間構造に気付かなかったことについて私はこれまで、私たちがマルタとマリヤの姉妹の姉のマルタのように忙しくしていて「現在」に縛られてしまっているからだと話してきました。今回、このことに加えて、私は新たなことに気付きました。それは、〈肉〉のイエスさまの地上生涯を描いた共観福音書は地球のようなものであり、人類が宇宙に飛び出してから、まだ50年ぐらいしか経っていないのだから、私たちの聖書の読み方が共観福音書に縛られていたとしても、仕方のないことなのかな、ということです。

宇宙に飛び出してからまだ50年の人類
 ソ連のガガーリンが宇宙に飛び出したのは1961年のことですから、人類が大気圏外から地球を見てから、まだたかだか50年ちょっとしか経っていないのですね。私たち人類は54年前の1961年になって、ようやくヨハネの福音書を理解する準備ができたのではないかと思います。2015年の今年は、その時からまだ54年しか経っていないわけです。ガガーリン以降、多くの宇宙飛行士が地球と宇宙の間を行き来するようになり、21世紀に入ってからは国際宇宙ステーションに常時人が滞在していますから、現在の私たちは人が宇宙に行くことを当たり前のように思ってしまっていますが、わずか54年前までは、誰も宇宙に行ったことはありませんでした。
 ガガーリンが宇宙から戻った時、祝賀会が開かれたそうですが、そのガガーリン自らが親友のアレクセイ・レオーノフに話したという、こんな「笑い話」があります。これはそのレオーノフの本に書かれていることですが、次のように書かれています。

 ユーリ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行から帰還してすぐにおこなわれた歓迎パーティに、ロシア正教総主教のアレクシス一世が列席していた。「宇宙を飛んでいたとき、神の姿が見えただろうか?」と総主教はユーリにきいた。ユーリが「見えませんでした」と答えると、「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように」と総主教は言った。
 しばらくたって、ニキータ・フルシチョフもユーリに同じ質問をした。総主教の言葉に敬意を払って、こんどは「見えました」と答えると、フルシチョフは言った。「神の姿が見えたということはだれにも言わないように」(デイヴィッド・スコット、アレクセイ・レオーノフ『アポロとソユーズ』奥沢駿・鈴木律子・訳、ソニー・マガジンズ、p.295)

 上記の話を現代の私たちは「笑い話」と感じます。しかし、何しろそれまでは誰も大気圏外から宇宙を見たことがなかったのですから、当時の人々にとっては意外と真面目な話だったのではないかという気がします。今からわずか50年ほど前の人々が、宇宙に出れば神が見えるかどうかを、かなり真面目に気にしていたとしたら、新約聖書が書かれてから二千年後の現代でもなお私たちが聖書を共観福音書の〈肉〉のイエスに縛られた読み方をしていても、それほど不思議ではないのかもしれません。
 さて、いま私はガガーリンが宇宙に飛び出したと言いました。確かにガガーリンは大気圏外の宇宙空間に出ましたから、宇宙に飛び出しました。しかし地球を1周してすぐに戻って来ましたから、地球を離れたとまでは言えません。人類が初めて地球の重力圏を離れたと言えるのは1968年にアメリカのアポロ8号が月の軌道を周回して帰って来た時でした。その時にアポロ8号の乗組員が撮った有名な写真がありますから、それをプロジェクターでご一緒に見ましょう。



 この「地球の出(earthrise)」(著作権フリーのNASAのホームページより)という有名な写真は、人類の地球に対する考え方を大きく変えたと言われています。人類にとって地球は大きな存在ですが、宇宙から見れば小さな星のひとつに過ぎません。しかし、だからこそ私たちは地球をかけがえのない存在として愛し、大切にして行かなければなりません。そういう意識をこの写真は私たちに与えてくれました。
(ちなみにこの時、アポロ8号の乗組員たちも、この地球の姿に大変に感銘を受けて、宇宙から地球に向けて創世記1章の1節から10節までの朗読を添えてクリスマスのメッセージを送って来ました。)
 さて、ヨハネの福音書の読み方でこの「地球の出」の写真を見るなら、この地球はイエスさまの〈肉〉であり、それを包む宇宙全体がイエスさまの〈霊〉ということになります。〈肉〉のイエスさまは私たちにとって、とても大きな存在ですが、〈霊〉のイエスさまに比べると、とても小さな存在です。ガガーリンが宇宙に飛び出す54年前までは、すべての人類がこの地球から一歩も外へ出なかったわけですし、1968年にアポロ8号の乗組員がこの写真を撮ってからは、まだ47年しか経っておらず、50年経っていないわけですから、私たちがこれまでヨハネの福音書の霊的な読み方に気付いていなかったとしても仕方のないことだったのかなと私は感じています。

平和の実現に向けて
 そして私は、この「地球の出」の写真が私たちの地球に対する考え方を大きく変えたように、ヨハネの福音書の霊的な読み方も、平和に対する私たちの考え方を大きく変える筈だと思っています。それを(4)の図式で表しています。このように私たちが「過去」の「戦争の惨禍」と「未来」の「崇高な理想」とを「現在」を挟んでワンセットにして考えることができるようになるなら、私たちは平和の実現へと向かって行くことができるだろうと思います。しかし、私たちがいつまでも(1)の図式の時間観に縛られているなら、これからも平和が実現することはないだろうと思います。
 先週の礼拝で私は、安倍さんが日本を戦争ができる国にしようと着々と準備を進めていることを話しました。とても心配なことです。そして、昨日は別の心配事として、昨日まで国連本部で開催されていたNPT(核不拡散条約)の再検討会議で、最終文書案を採択できずに決裂して終わったというニュースがありました。この会議は4週間にわたって開かれていました。1週間ぐらい前のニュースでは、日本が提案していた、各国首脳は広島・長崎を訪問すべきだという文言を文書に入れるべきということに中国が反対して文書案から削除されたということが報じられていました。その後、いろいろやり取りがあって、広島・長崎という具体的な地名を入れないで「核兵器の被害を受けた国」というような文案で合意されたというニュースも流れていましたが、最終文書案が採択されなかったことで、このことも含めて全く何も決まらなかったことになってしまいました。この会議は5年に一回開かれているそうですから、次に開かれるのは2020年だそうです。核兵器廃絶に向けた動きは当面は進まないことになってしまいました。
 私たちは世界が平和の実現に向かって行くことができるように働いて行かなければなりません。
 もう一度、週報p.3の(4)の図式を見て下さい。この図を見ると、「平和憲法」は「崇高な理想」と「戦争の惨禍」が分断しないように接着剤の役割を果たしていることがわかります。もし平和憲法が改正されるなら新しい憲法には接着剤の働きはないでしょう。そうすれば、未来の「崇高な理想」は失われるでしょう。
 幸か不幸か、平和憲法が危うくなって来ている今、平和の活動はやり易くなっています。平和憲法を守る活動が、そのまま平和の活動になるからです。平和憲法が危うくなかった頃は平和の活動にも何か手詰まり感があったように思いますが、今や平和憲法を守ることが大きな平和の働きになります。「憲法9条を保持している日本人にノーベル平和賞を」という運動もそうですね。
 そしてキリスト教の伝道もやり易くなっているのだと思います。これまではキリスト教はあまり平和の役には立っていませんでした。クリスチャンの多いアメリカが戦争を繰り返しているからです。しかし、日本人のクリスチャンは違います。日本は70年間、戦争を行っていません。ですからイエス・キリストは平和を望んでおられるのだということを私たち日本人なら説得力をもって訴えて行くことができます。アメリカは(2)の図式で聖書を読んでいるから戦争ばかりしているのだと、日本人のクリスチャンなら訴えることができます。
 世論調査によれは半分以上の日本人は日本が再び戦争ができる国になることは望んでいません。ですから、平和はイエス・キリストも望んでおられるのだということを伝道する良い機会だと私は思います。

おわりに
 きょうはペンテコステの日です。来年のペンテコステの日を迎えるとき、日本はどうなっているでしょうか。聖霊はイエス・キリストの証人になる力を私たちに与えます。私たちは平和を望んでおられるイエス・キリストの証人になりたいと思います。
 最後に、使徒の働きの1章8節をご一緒に読んでメッセージを閉じたいと思います。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 お祈りいたしましょう。
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理屈抜きに主に付き従う信仰(2015.5.20 祈り会)

2015-05-21 18:13:03 | 祈り会メッセージ
2015年5月20日祈り会メッセージ
『理屈抜きに主に付き従う信仰』
【イザヤ9:1~7】

はじめに
 きょうはイザヤ書9章の6節と7節に注目します。この聖句もまたクリスマスの時期には良く引用される大変に有名な聖句ですから、飛ばすわけにはいきません。

イエス・キリストの到来の預言
 まず簡単に、1節からの流れを見ておきたいと思います。

 9章1節は、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる」とあります。ですから、これは祝福のメッセージであることがわかります。1節、

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 北方のゼブルンやナフタリがあったイスラエルはアッシリヤに攻められてはずかしめを受けましたが、後にガリラヤは光栄を受けました。イエス・キリストはガリラヤのナザレの町のヨセフとマリヤの子として生まれましたから、そのイエス生誕の出来事と重ねると、ピタリと一致します。2節、

9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 この2節も、新約聖書のメッセージと良く一致しますね。ヨハネの福音書には、

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)

とありますし、マタイの福音書は、このイザヤ書9章の1節と2節を、そのまま引用しています。ご一緒にマタイの福音書を読みましょう(p.5)。マタイの福音書4章の12節から17節までを交代で読みましょう。

4:12 ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
4:14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 

 いま読んだ15節と16節は、イザヤ書9章の1節と2節の引用です。イザヤ書に戻ります。祝福のメッセージは3節以降も続きます。3節から5節まで、

9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。

 そして、6節と7節は、交代で読みましょう。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

イエスは理屈抜きにひれ伏すべき存在
 私たち牧師は、折にふれて説教について学ぶ機会があります。説教においては何をどのように語るべきかという学びですが、その時によく言われることは、先ずは「みことばに聞く」ことが大切であるということです。説教箇所が決まったら、その箇所の時代背景などを注解書で調べることなども、ある程度は必要ですが、まずはみことばを思い巡らし、そこから何を語るべきか、主が語って下さることに耳を傾けることが大切であるということです。
 今日の祈祷会ではこのイザヤ書9章の6節と7節からのメッセージにすることは、1週間前に7章の学びを終えた時から決めていました。しかし、どのようなメッセージになるかはわからないでいました。きのうの夜も、まだわからないでいました。だいたい、いつもそんな感じです。しかし、夜、寝る前に説教で予定している箇所を読んでから寝ると、 だいたい明け方にはいつもメッセージが与えられますから、とても感謝に思っています。
 今回、この箇所から私は、マタイの福音書の東方の博士の箇所を皆さんと一緒に見ることを示されました。マタイの福音書には東方の博士たちが、生まれたばかりの幼子にひれ伏して拝んだことが書かれています。皆さんも良くご存知の箇所ですが、ご一緒に見てみましょう。マタイの福音書の2章です。
 9節から11節までを交代で読みましょう。

 2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 11節に博士たちが幼子を見て、ひれ伏して拝んだとあります。博士ですから様々な知識を持っていて、今の言葉で言えば学識経験者であり、国の為政者にアドバイスするような立場の人です。その博士たちが幼子を見てひれ伏して拝みました。イエス・キリストとは、そういう存在であるということです。ちょっと話を聞いてみて、いい話だったら信じてみようかなというような存在ではなく、博士たちが話を聞く前からひれ伏して拝むような存在です。
 ですから、理屈ではないんですね。理屈抜きでひれ伏して付き従って行くべき存在です。

自分を全面的に明け渡して主に従う
 先ほど、マタイの福音書の4章を開きました。その続きに、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネが登場します。今度はそこを交代で読みましょう。
 マタイ4章の18節から22節までです。

4:18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

 ペテロもアンデレもヤコブもヨハネも理屈抜きでイエスに付き従って行きました。
 パウロもまたそうでしたね。パウロはダマスコへの途上で復活したイエスと出会い、三日間の間、目が見えなくなりましたが、目からうろこのようなものが落ちてイエス・キリストに付き従うようになりました。
 私たちにも、そういう時が来ます。既に経験した方もおられると思いますし、これからという方もおられるでしょう。このように理屈抜きでイエス・キリストに付き従うようになることを、きよめの信仰と言ったり、第二の転機と言ったり、聖霊の満たしと言ったり、キリストとともに十字架に付けられたと言ったりもします。これはキリストに全面降伏して一切をキリストに委ねる信仰です。こういう信仰を持つに至ると、イエス・キリストは私たちに想像を越えた豊かな恵みを私たちに与えて下さるようになります。単に信じるだけでも素晴らしい恵みですが、自分のすべてをキリストに明け渡すなら、それまで想像もしていなかったような豊かな恵みをイエス・キリストは与えて下さいます。

おわりに
 キリスト教会というのは、そうやって建て上げられて来ました。32年前に、この今沢の地にこの会堂が与えられたのも、そういう信仰があったから与えられたのですね。いま私たちが取り組んでいる会堂問題にも、そのような信仰が求められています。理屈抜きでイエス・キリストに付き従って行く時、神様は私たちにイエス・キリストを宣べ伝えて行くための新しい会堂を与えて下さることでしょう。東方の博士やペテロやヨハネのように理屈抜きにイエスさまにひれ伏し、付き従うことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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5月24日ペンテコステ礼拝プログラム

2015-05-21 17:10:59 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月24日 ペンテコステ礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第4聖日ペンテコステ礼拝順序

 司  会                矢崎兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖霊よ 主のそばに     171
 交  読  使徒2:1~12
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  御霊は天より        173
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  ヨハネ2:1~11
 説  教  『時間を超越した天の祝宴』  小島牧師
 讃 美 ④  主よ、おわりまで      459
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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新しい事への期待(2015.5.17 礼拝)

2015-05-18 23:08:01 | 礼拝メッセージ
2015年5月17日礼拝メッセージ
『新しい事への期待』
【イザヤ43:1~7、14~21】

はじめに
 このところ祈祷会のほうでは、毎週イザヤ書の学びを続けています。祈祷会ではイザヤ書の1章と2章、それから6章と7章とを学びました。
 礼拝ではイザヤ書の40章を学び、少し間があきましたが、きょうはまたイザヤ書に戻りたいと思います。きょうは43章です。まず聖書交読で1節から7節を交代で読み、聖書朗読では14節から21節までを司会者に読んでいただきました。

水の中、火の中を通る私たち
 はじめに聖書交読で読んだ箇所のほうを見ておきたいと思います。1節、

43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

 ここで主はイザヤを通してイスラエルの民に語り掛けています。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。」
 この箇所からは、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を神が救い出した出来事が思い起こされます。2節、

43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

 いま私たちの教会は会堂問題に取り組んでいますから、この2節のことばは大変に心強く私たちの心に響いて来ますね。私も沼津教会に来て会堂問題に携わるようになってから、新会堂を建設するための闘いというのは、2節にあるように水の中を通ったり、火の中を通ったりするような闘いなのだなという気がしています。そして、教会に所属するキリスト者たちはこうやって信仰が鍛えられて来たのだなと思うことです。新会堂の建設を経験して来た牧師の先生と一対一で直接お話を伺うと、やはり腹のすわり方が全然違うなと感じます。それは言うなら120%の信仰と言えるかもしれません。苦しい中を通っても主が必ず守って下さることを100%確信して歩み、そうして実際に主が守って下さったことを経験すると、100%の信仰が120%の信仰になる、そんな気がします。無謀なことをしてはいけませんが、人間の目で見て100%安全な道だけを進むのでは、それは信仰ではありません。ですから私たちは人間的な目には多少無理に見えても信仰的には無理ではない道を進むべきでしょう。このような道を見極めて進むことは大変に難しいことだと思いますが、私たちはそれを見極めることができるように、いつも霊性を研ぎ澄ましていたいと思います。

わたしはあなたを愛している
 続いて3節、

43:3 わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。

 神様も私たちが沼津の地で救い主イエスの福音を力強く宣べ伝えることを期待していますから、私たちは神様の期待に応えたいと思います。それには、どの場所に新しい会堂を建てるのが良いのか、イエスさまの声をしっかりと聞くことができるようにしたいと思います。4節、

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 これは、とても有名な聖句ですから、皆さんもよくご存知のことと思います。印刷物でも、この聖句が引用されているのを良く目にしますし、説教でも頻繁に語られるのを耳にします。
 皆さんはこの聖句を見て、「ああ、主は本当に私のことを愛して下さっているんだな」と心の底から感じることができるでしょうか。感じることができるのでしたら、素晴らしいことですね。是非、その信仰を大切にしていただきたいと思います。
 実は私は、ある時まで、正確に言うなら神学生の3年生の時まででしたが、どうも今一つ、この聖句が自分にはしっくりと来ていませんでした。主が私を愛して下さっているということに、頭では確かにそうなのだろうなと思うのですが、実感として感じることができていませんでした。さらに言うなら、十字架のことでも同様でした。説教で、主はあなたの罪のために十字架に掛かって下さったんですよと言われても、頭では確かにそうなのだろうなと思うのですが、実感としてなかなか感じることができないでいました。そして、こんな私はどうやら罪のことをわかっていないようだから、こんなことでは牧師としてやって行けないだろうと真剣に悩みました。
 しかし、ある時、実習先の教会で300名近い信徒の皆さんが礼拝を捧げている様子を横から見ていて、主は確かに、この教会の皆さんを愛しておられるということを感じました。そして、その中に私も含まれているのだと感じました。そして、主はこの教会の人々だけでなく、すべての教会の人々を愛しておられるのだということを感じることができるようになり、教会以外の人々も愛しておられるのだと感じるようになり、その中に私も含まれるのだと感じることができるようになりました。今でもそうです。今でも43章4節の、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」が私一人に向けられたことばだと思おうとすると違和感を覚えますが、主がすべての人に向かってこのように仰せられ、その中に私も含まれているのだと思うと、ピタリと私の心に収まります。

各自で探るべき受け留め方
 十字架についても同様です。イエスさまはあなたのために十字架に掛かって下さったのですよ、と説教で聞くとき、それが私一人に向けられたことばだと思うと私には今一つ響いて来ませんが、イエスさまが私たちすべての者のために十字架に掛かって下さり、その中に私も含まれているのだと思うと、とてもピタリと収まります。
 これは、どちらが良いという問題ではなく、一人一人が与えられた使命によって、異なって来るのだと思います。私の場合は、平和を宣べ伝えるために召されましたから、私一人に向けられたメッセージと受け取るよりも私たち全員に向けたメッセージと受け留めたほうが平和のための活動に携わりやすいので、主がそのようにして下さっているのだと思います。しかし、皆が私のように平和のために召されているわけではなく、多くの場合は個人伝道に用いられるよう召されていると思いますから、主の「わたしはあなたを愛している」というメッセージが自分一人に向けられているのだと受け留めたほうが良いのですね。 このように同じみことばを、一人一人が異なる受け留め方をすることがあっても全く構いません。ですから、説教を聞いて共感できなくても、別の解釈をすれば心にピタリと収まることもあると思います。大事なことは、お一人お一人が一つ一つの聖句に対して一番ピタリと来る受け留め方を見つけ出して行くことだと思います。そうすると神様をいっそう身近に感じることができるようになると思いますから、日々聖書に接して、神様が自分に対してどのように語り掛けて下さっているのか探ることをしていただきたいと思います。

見よ。わたしは新しい事をする
 さて、聖書交読の箇所はこの辺りまでにして、次に聖書朗読をしていただいた箇所に進みたいと思います。14節、

43:14 あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、【主】はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。

 これは、バビロンで捕囚になっている民がペルシヤ人によって解放されるようになることの預言です。少し前にエズラ・ネヘミヤを学んだ時に、ペルシヤのクロス王がバビロンを倒して、捕囚になっていたユダの民がエルサレムに帰還して神殿を再建することを許したことを学びました。これは、その預言です。15節から18節、

 43:15 わたしは【主】、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」
43:16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、
43:17 戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した【主】はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

19節は、ご一緒に読みたいと思います。

43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

 この19節は、とてもワクワクするみことばですね。

43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

 神様は私たちに、どんな新しい事をして下さるのでしょうか。ワクワク期待しながら、新しい事を待ちたいと思います。

大きな推進力になるワクワク感
 さて、皆さんのお一人お一人は、どんなことにワクワクしているでしょうか。ワクワク感は、何か事を成し遂げる時の大きな推進力になりますから、できればワクワク感は、いつも持ち続けていたいものだと私は思います。
 私自身について言えば、私はこれまでにいろいろな事にワクワクして来ました。ただ、それらの多くはたいていは一時的なワクワク感で、すぐに消えてしまう場合が大半でした。
 しかし、いま私がヨハネの福音書に関して持っている強いワクワク感は、かれこれ4年になりますが、いまだに衰えていません。私は4年前よりももっと前からヨハネの福音書にワクワク感を感じていましたが、4年前からは、それ以前よりも遥かに強いワクワク感を持つようになりました。これは、もう何度もお証したことですが、4年前の2011年の6月、インターン実習生として姫路教会にいる時に、私は聖書通読でレビ記の1章を読んでいる時に突然、神様の大きな愛が旧約の時代の律法にも込められていることがわかって、それ以来、ヨハネの福音書の1章から11章に掛けては旧約聖書の時代が創世記から順番にきれいに重ねられていることに気付きました。
 これは、どういうわけか、それまで誰も気付いていなかったことでしたから、ものすごくワクワクしました。そうして、このワクワク感を多くの方々と分かち合いたいと思いました。しかし、なかなか分かち合うことができずにいて、萎えそうになったこともありました。けれども、伝え方を工夫すれば伝わるのではないかと思い、また新たな力を得て、今でも、その工夫は続いていて、私の強いワクワク感は衰えることはありません。それは、伝わらなければ伝わらないほど、このヨハネの福音書の独特の構造がそれほどまでに気付きにくい構造なのだということを私は学びましたから、これが伝わるようになった時のインパクトは本当に大きいことのだという期待が膨らみますから、ワクワク感は増して行きます。
 4年前にヨハネの福音書の構造に気付いた時には、すぐに分かち合えるものと思っていましたから、強いワクワク感はありましたが、今ほど強いものではありませんでした。しかし、今はさらに強くなって来ています。私はこのワクワク感を推進力にして、何とかヨハネの福音書について多くの方々と分かち合うことができるようになりたいと願っています。

理想の平和の実現に向けて
 今、首相の安倍さんが自衛隊を日本周辺だけでなく、世界中に派遣できるようにしようとしていますね。緊急を要する時には国会の事前承認なしで事後承認でも派遣できるようにもしたいようです。首相は自衛隊の最高指揮官ですから、いま安倍さんは、とってもワクワクしているだろうと思います。アメリカからの支持も取り付けてお墨付きをもらいました。アメリカが歓迎するのは当然ですね。日本が軍事貢献するようになれば、それだけアメリカの軍事負担が減るわけです。どの国も財政事情は厳しく、アメリカもその例外ではありませんから、アメリカは大喜びで安倍さんの訪問を国賓級の待遇で迎え入れました。
 アメリカから大歓迎された安倍さんは、これでいよいよ我が軍も世界中で展開できるようになるぞと思ってワクワクしていることでしょう。ワクワク感は行動する際の大きな推進力を生み出しますから、少しぐらい批判されても平気です。今年の夏にはこの憲法解釈を変更した法案を国会で可決して国民の頭を変更した憲法解釈に慣れさせておけば、来年の参議院選挙では議席の2/3以上を獲得できて、いよいよ自衛隊を国防軍にできるぞということで、本当にワクワクしていることだろうと思います。
 このように安倍さんが持っているであろう、とても大きなワクワク感に対抗するには、単に反対するだけでは、あまり大きな力にはならないだろうと私は思います。安倍さんのワクワク感に対抗するには、平和憲法の改正に反対する者たちが、安倍さんを上回るワクワク感を持つ必要があります。
 私は「理想の平和の実現」が、安倍さんを上回るワクワク感を私たちに与えるものだと確信しています。地球上の誰もが武力を用いずに争い事を解決できる理想の平和が、もし本当に実現可能だとしたら、こんなにワクワクすることはないと思います。でもきっと多くの人は、そんな理想の平和なんか実現するはずがないと思い、この理想の平和を夢見てワクワクすることなどないだろうと思います。
 しかし私は、もし多くの人々がヨハネの福音書の新しい読み方を共有できるようになるなら、理想の平和を実現することも不可能ではないと信じていますから、ワクワクしながら平和の活動に取り組んで行きたいと思います。私はこれが唯一、安倍さんを上回るワクワク感を私たちに与えてくれるものだろうと思っています。もし、これ以外にも安倍さんを上回るワクワク感を与えてくれるものがあるなら幸いですが、今のところ私に思い当たるものはありません。私はヨハネの福音書の新しい読み方こそが私たちに最高のワクワク感を与えてくれるものだと思っています。ただし、皆がこのヨハネの福音書の新しい読み方に馴染み、理想の平和が実現するには百年や二百年は掛かるのだろうと思います。それは、コペルニクスの地動説がそうであったように、百年以上掛かって、ようやく世界は変わって行くのだろうと思います。

ヨハネの福音書というきっかけ
 コペルニクスの地動説はケプラーやガリレオ・ガリレイの研究を経てニュートンが運動方程式によって数式化されたことによって初めて、科学技術への応用が可能になり、20世紀に入って人類は飛行機を飛ばし、ロケットも飛ばすことができるようになりました。飛行機やロケットはニュートン力学が無ければ飛ばすことができません。そしてニュートン力学もコペルニクスの地動説によってケプラーやガリレイが動かされなければ、できなかったことでしょう。人間の社会は何かきっかけがあると、大きく変わって行きます。ということは、きっかけが無ければ何も変わらないということです。コペルニクスがいなければ、もしかしたら私たちは未だに1500年頃とたいして変わらない生活をしていたかもしれません。
 そしてヨハネの福音書の読み方は、この書が書かれた1世紀の末頃から基本的には変わっていません。どういうわけか、ヨハネが仕込んだ重層的な時間構造に、読者は気付くことができていませんでした。私はヨハネの福音書の重層的な時間構造を多くの人々が分かち合うようになれば、皆が神様の重厚な愛に包まれて、互いに愛し合うことができるようになると信じています。
 いま私は新たな構想の下で、平和憲法と聖書とを絡めて論じる本の原稿を書いています。この原稿の中で新しい工夫として、ヨハネの福音書のイエスには二種類の表記を使い分けることにしました。その二つはとは、「イエス〈肉〉」と「イエス〈霊〉」です。ヨハネの福音書の1章から11章では、イエスの肉体は紀元30年頃にいますが、イエスの霊はあらゆる時代にいます。そうしてヨハネ1章で記者のヨハネは創世記の時代にいるイエスの霊に注目し、2章では出エジプトの時代にいるイエスの霊に注目しています。
 ヨハネ11章でイエス〈肉〉はラザロの墓の近くで涙を流しましたが、それは滅亡したエルサレムの荒廃した様子をイエス〈霊〉が御父と共に見て涙を流していたのでした。記者のヨハネは、このように肉のイエスを通して本来は見えない霊的な領域のことを可視化する表現手法を用いました。このことを「イエス〈肉〉」と「イエス〈霊〉」という表記によって、わかりやすくできるかもしれないと、私は今期待しているところです。
 そうしてイエスの霊が御父と共にあらゆる時代にいるのだということが、ヨハネの福音書を通じて多くの人がわかるようになるなら、神の存在をより身近に感じるようになって、イエスの「互いに愛し合いなさい」という戒めも、もっとリアルに実感できるようになるだろうと思います。

おわりに
 では、私たちは一体どうして、ヨハネの福音書のイエスの〈霊〉の存在にハッキリと気付くことができていなかったのでしょうか。それは次の聖日で話すことにしたいと思います。次の聖日はペンテコステ礼拝になります。ペンテコステ礼拝に向けて、私たちは心を整えて行きたいと思います。
 最後にもう一度、イザヤ43章19節を、ご一緒に読みたいと思います。

43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
 
 主が私たちの教会にどんな新しい事をして下さるのか、私たちはワクワクしながら、期待していたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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主から逃げていたアハズ(2015.5.13 祈り会)

2015-05-14 14:13:29 | 祈り会メッセージ
2015年5月13日祈り会メッセージ
『主から逃げていたアハズ』
【イザヤ7:1~14】

はじめに
 先週と先々週の祈祷会ではイザヤ6章を開きました。きょうは7章です。このイザヤ書を私は1章ずつ丁寧に見て行く予定にはしておらず、飛ばし飛ばしで行きたいと思っています。ただし、イザヤ7章の14節は飛ばすわけにはいかないと思いますので、今回は6章から7章へ飛ばさずに続けるという形になりました。
 イザヤ7章14節はアドベントとクリスマスの時期によく開く箇所ですし、何と言っても、私たちの教団の名前が入った箇所ですから、飛ばすわけには行きません。ただ、今回、私が注目したいと思っているのは、12節のほうです。14節の有名な預言が為されたのは、この12節のアハズ王のことばがあったからです。きょうは、このアハズ王の信仰について、ご一緒に考えてみたいと思います。

不信仰な王だったアハズ
 アハズ王はウジヤ王の孫でヒゼキヤ王の父親に当たります。アハズは12節のことばだけを見ると正しい信仰を持っているように見えますが、実は不信仰な王でした。
 アハズ王の信仰がどのようなものであったかは、イザヤ書のこの箇所よりも列王記と歴代誌を見た方がわかります。列王記第二の16章を見て下さい(旧約聖書p.662)。1節から4節までをお読みします。

16:1 レマルヤの子ペカの第十七年に、ユダの王ヨタムの子アハズが王となった。
16:2 アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、【主】の目にかなうことを行わず、
16:3 イスラエルの王たちの道に歩み、【主】がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。
16:4 さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたいた。

 このようにアハズ王は神から離れていたことがわかります。そして5節、

16:5 このとき、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに戦いに上って来てアハズを包囲したが、戦いに勝つことはできなかった。

 ここに書いてあることは、イザヤ書7章1節と同じことです。

アハズへの主の約束
 イザヤ書7章に戻ります。1節、

 7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。

 このようにしてエルサレムの危機は去ったかに見えました。ところが、2節、

7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

 エフライムというのは北王国のイスラエルのことです。こうして、またしてもイスラエルとアラムに攻められる危険があったので、ユダの王アハズとユダの民の心は大変に動揺しました。そこで、主はイザヤをアハズの所に行かせて、仰せられました。少し飛ばして、
7節、

7:7 神である主はこう仰せられる。「そのことは起こらないし、ありえない。」

 有り得ないというのは、その前の6節にある、イスラエルとアラムがユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとするということです。
 主はイザヤを通して、それは有り得ないことであり、却ってイスラエルは滅びるのだと預言しました。8節に、「六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。」とあります。これは北王国のイスラエルは滅亡するということです。そして、実際にイスラエルは間もなく滅亡してしまいました。それは65年も経たないうちのことでしたから、この65年が何を意味するのかは、学者によっていろいろな見解があるようです。いずれにしても、南王国のユダが再びアラムと北王国のイスラエルによって攻められてアハズ王が殺されるような事態にはなりませんでした。
 主はイザヤを通して、以上のことをアハズに約束しました。

「しるしを求めよ」
 そして主はアハズに、なおも次のようにも仰せられました。10節と11節、

7:10 【主】は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
7:11 「あなたの神、【主】から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」

 これに対するアハズの答が12節です。

7:12 するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」

 きょうは残りの時間で、この11節と12節を味わってみたいと思います。11節で、主の方からアハズに対して「しるしを求めよ」と仰せられたのは、一体どういうことなのでしょうか。
 しるしを求めるということは、主の約束は信じがたいからしるしを見せて下さいということです。つまり、しるしを求めるということは主を信じていないということにもなります。例えば、ルカの福音書1章のザカリヤを見てみましょう(新約聖書p.105)。1章13節、

1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

 それに対してザカリヤは言いました。18節、

1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

 このザカリヤの「私は何によってそれを知ることができましょう」というのは、何かしるしを見せて下さいと言っているのに等しいですね。19節と20節、

1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」

 こうしてザカリヤは、話をすることができなくなってしまいました。主のことばを素直に信じないと、こういうことになってしまいます。

逃げていたアハズ
 イザヤ書7章に戻ります。このザカリヤのことを考えると、イザヤ7章12節でアハズが「私は求めません。主を試みません。」と言ったことは、正しい信仰の表明のようにも見えます。しかし、どうもそうではないようです。13節と14節、

7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

 イザヤは、しるしを求めなかったアハズを咎めています。アハズがしるしを求めなかったので、14節で、主が自ら、しるしを与えることになりました。それがインマヌエルの預言です。
 では、アハズのどういうところが悪かったのでしょうか。私は、こう考えます。しるしを求めるということは、一見すると不信仰のように見えますが、モーセやギデオンの例を考えるなら、不信仰とまでは言えません。モーセもギデオンも、しるしを見ることができれば主にしっかりとお仕えしようという気持ちがありました。そうして実際にモーセとギデオンは主に立派にお仕えしました。しかし、アハズ王の場合は主が忌み嫌う異教の神々を拝むことをしていましたから、主に真面目にお仕えしようなどという気持ちは持っていなかったのですね。ですから、アハズの12節の「私は求めません。【主】を試みません。」ということばは、一見すると信仰的なことばに見えますが、実は逃げているのだということです。アハズは主と真正面からしっかりと向き合うことを拒否したのでした。一方、モーセやギデオンやザカリヤは主と真正面からしっかりと向き合っていました。

おわりに
 私たちの信仰はどうでしょうか。私たちは主としっかりと向き合っているでしょうか。アハズのように逃げていることはないでしょうか。主は私たちがしっかりと主と向き合うなら、いつでも私たちを祝福して下さろうとしています。ただし、いったん主と向き合ったら私たちはとことん主と向き合わなければなりません。都合の良い時にだけ向き合うというわけにはいきません。
 いま私たちは会堂問題と向き合っていますが、私たちには、主としっかりと向き合う覚悟があるのかということが問われているのだと私は感じています。
 主は、私たちにも7章11節のように「しるしを求めよ」とおっしゃっていると私は感じます。この招きに応えて主としっかり向き合うなら主は私たちに新しい会堂を与えて下さるのだと思います。しかし、「私は求めません。主を試みません」と言って逃げるなら、私たちに会堂が与えられるのは、遠い先のことになるでしょう。
 インマヌエルの預言が成就したのは、このイザヤの時代から700年後のことでした。私たちは700年も待つことはできません。
 アハズのように主から逃げるのではなく、主と正面からしっかりと向き合うことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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5月17日礼拝プログラム

2015-05-14 10:40:42 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月17日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第3聖日礼拝順序

 司  会               西村兄
 奏  楽               矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  シャロンの花         55
 交  読  イザヤ43:1~7
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  川辺をあゆめば       336
 讃 美 ③  人生の海の嵐に       443
 聖  書  イザヤ43:14~21
 説  教  『新しい事への期待』 小島牧師
 讃 美 ④  主がくださるこの平和を   442
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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竹鶴リタと村岡花子(2015.5.9 母の日礼拝)

2015-05-11 21:17:27 | 礼拝メッセージ
2015年5月10日母の日礼拝メッセージ
『竹鶴リタと村岡花子』
【ローマ16:1~4】

はじめに
 きょうは母の日招待礼拝で、メッセージのタイトルは『竹鶴リタと村岡花子』です。予めお断りしておくと、きょうはこの二人の女性以外にも何人かクリスチャンの女性の名前を挙げることにしています。竹鶴リタと村岡花子はその代表として、名前を挙げさせてもらいました。
 きょう母の日礼拝の案内のチラシには、『竹鶴リタと村岡花子』というメッセージのタイトルの下に次のような説明を加えました。

「激動の時代を自分らしく強く生きたリタと花子は共にクリスチャンでした。二人に共通する強さの秘訣を、聖書の言葉から探ってみることにしましょう。」

 このリタと花子のように、或いはそれ以上に強く生きた女性として、皆さんも良くご存知のマザー・テレサと、他にもう一人アフリカに単身で渡って原住民に伝道した女性宣教師のメリー・スレッサをきょうはご紹介したいと思います。さらにまた、もう二人、先ほどご一緒に読んだローマ人への手紙16章に出てくる女性のフィベとプリスカについても触れたいと思っています。これらの女性の生涯に触れつつ、彼女たちがどうして、そんなにも強く生きることができたのか、聖書を見ながら考えてみたいと思います。

教会で癒されていたであろうリタ
 では、竹鶴リタと村岡花子から見て行きます。まず竹鶴リタです。皆さんご存知のように、NHKの朝のドラマの『マッサン』のヒロインのエリーは、この竹鶴リタがモデルになっています。リタはスコットランドの女性です。そのリタが、スコットランドのグラスゴー大学に留学中だった竹鶴政孝と出会って結婚し、故郷を離れて日本にやって来ました。今から約100年前のことです。今ならともかく、100年前は国際結婚が大変に珍しい時であり、二人の結婚に関してはリタの実家も政孝の実家も両方とも大反対であったとのことです。ですから日本に来てからのリタは本当に大変であったことと思います。そして戦争になってリタは敵国の者という目で見られるようになりました。これらのことはドラマでも描かれていましたが、実際のリタが味わった苦労はドラマのエリーよりももっと大きなものであったことでしょう。ここに、いのちのことば社から出された、『リタと旅する。』という本があります。この本にはリタが通っていた教会のことが書かれています。教会はリタに大きな慰めを与えたことでしょう。戦時中は通うことができなかったと思いますが、北海道の余市に住んでいたリタは小樽の聖公会の教会に通っていたそうです。聖公会というのはイギリスの国教会の系統の教会ですから、リタにとっては本当に故郷のような存在ではなかったかと思います。
 私たち日本人も教会に入るとホッとするものを感じますから、スコットランドの故郷を離れていたリタにとって、教会は本当にホッとする場所であったことでしょう。きょうの礼拝の始めのほうで、詩篇23篇をご一緒に読みました。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

 小樽の聖公会の教会の中にいる時、リタは緑の牧場に伏す羊のように安らぎを感じていたのではないかなあと思います。教会はそのように、私たちの魂を生き返らせてくれる場所です。私たちの教会も、もし新しい会堂を建てることが許されるなら、そのように人々に安らぎを与える会堂にしたいなあと思います。

キリストの愛を注いだ女性宣教師たち
 次は村岡花子です。村岡花子は『赤毛のアン』の翻訳者として有名であり、NHKの『花子とアン』のヒロインの花子のモデルになった女性です。花子は幼い頃に洗礼を受けたクリスチャンでした。そして10歳の時に東洋英和女学校の給費生となって親元を離れ、寄宿舎に入りました。わずか10歳で親元を離れた生活をしなければならなかったこと、また給費生であったことから成績が悪ければ学業を続けられなくなること、さらには英語を習得しなければならなかったことなど、数々の困難を乗り越えて、無事に女学校を卒業しました。幼い女の子が、どうしてこんなにも大変なことを成し遂げることができたのか、それはドラマにもありましたが、カナダ人の校長先生と日本人の舎監の先生の大きな愛があったからだろうと思います。この女性の先生方はイエス・キリストに生涯を捧げたクリスチャンでしたから、イエス・キリストの愛がこの先生たちを通して花子に注がれ、花子もその愛によって慰めと励ましを受けて力を得たのだろうと思います。
 このカナダ人の校長先生は、ドラマではブラックバーン先生になっていましたが、実際にはブラックモーア先生というのだそうです。東洋英和女学校にはブラックモーア先生を始めとして何人かの独身の女性宣教師がいました。現代にも独身の女性宣教師はたくさんいて、私たちのインマヌエルの群れでもアンドレア宣教師が京都で、ミュールハイゼン宣教師が東京でご奉仕下さっています。イエス・キリストに生涯を捧げた女性宣教師は、故郷を離れて外国でキリスト教を伝道します。それは強くなければ到底できないことです。その彼女たちの強さはどこから来るものなのか。それはもちろん神様が与えて下さる強さですね。しかし、それにしても神様が与えて下さる強さというのは尋常ではない、凄い力であると思います。

予想外の大きな力を与えて下さる神
 神様を信じない人が良く言う言葉に、「宗教は弱い人がすがる者だ」というものがあります。それは当たっていますね。私たちは皆、弱い者たちです。しかし、この「宗教は弱い人がすがる者だ」と宗教を批判する人は、神様が与えて下さる力のすごさを軽く見ていると思います。これらの批判をする人は、宗教を信じる人は思い込みの力で強くなるのだろうと考えていることと思います。思い込みの力が自分を強くするのだと考えているのだと思います。しかし、それは間違っています。神様は天から力を与えて下さるんですね。それは、力を受ける本人も予想していなかったほどの大きな力です。この大きな力を受けて、本人も驚くほどの働きをすることができます。
 19世紀から20世紀に掛けてアフリカでキリスト教の伝道を行ったメリー・スレッサという女性宣教師をご存知でしょうか。アフリカの伝道と言えばスコットランド出身のリビングストンが有名ですが、メリー・スレッサは同じスコットランドの出身で、女性ながらリビングストンに憧れ、後に自身もアフリカの奥地に入って行って原住民にキリストの教えを説きました。私が読んだ彼女の伝記は少し古い本で表記も古く、アフリカの原住民のことを「土人」と書いています。彼らは文明が進んだスコットランド人から見ると野蛮で残酷な風習を持っており、常識的に考えれば女性が単身で彼らの住んでいる領域に入って行くことは無謀なことでした。しかし、彼女は彼らの中で生活をしながら溶け込んで行き、残酷な風習が間違っていることを説き、やめさせていったということです。その代表が、彼らが双子の赤ちゃんを悪魔のように恐れていて、双子が生まれると殺して、母親を部族から追放するということをしていました。或いは裁判で有罪か無罪かを決めるのに、鶏の頭を切り落として、その頭がどちら側に落ちるかで決めるなど、私たちには信じられないようなことも行われていたということです。そして、夜な夜な酔っ払って踊り騒いでいるというようなことも書いてあります。
 そのように原住民の社会の中に入って行くことは大変に危険なことですから、女性が単身で入って行くことなど本当に信じがたいことですが、強い信仰を持っていたメリー・スレッサは恐れることなく危険な中に入って行き、その毅然とした姿に原住民からも尊敬を集めるようになっていったということです。

危険から守って下さる神
 もう一人ふれておきたい女性は有名なマザー・テレサです。皆さんよくご存知のようにマザー・テレサはインドの貧しい人々の中に入って行き、見捨てられて誰にも看取られることなく死んで行く人々を憐れんで、死を待つ貧しい人々を看取る施設を作りました。このような奉仕を行ったこと自体が凄いことだと思いますが、もっと凄いことだと私が思うのは、彼女が有名になって世界的に注目されるようになり、多くの寄付金が集まるようになってからも、彼女は無名の時と変わらずに同じようにしていられたということです。世界中から注目されて、お金を持っている人々に囲まれるようになることは、原住民に囲まれていたメリー・スレッサとは別の意味で大変に危険なことです。マザー・テレサはイエス・キリストが荒野で悪魔から受けていた危険な誘惑(マタイ4:8~10)の中に、いつもさらされていました。しかしマザー・テレサには強い信仰がありましたから、神様は彼女を悪魔の誘惑から守って下さいました。
 このようなメリー・スレッサやマザー・テレサの信仰は、詩篇23篇で言えば、4節のような信仰と言えるでしょう。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

 死と隣合わせのような危険な中にいても、神様が共にいて下さると固く信じているなら、何も恐れることはないという信仰です。メリー・スレッサの場合には実際に命の危険がありましたし、マザー・テレサの場合には病気が移るという命の危険もあったかもしれませんが、それ以上に悪魔の誘惑という霊的な命の危険がありました。そのような危険の中にあっても神様は必ず守って下さるということをメリー・スレッサとマザー・テレサは証してくれています。

パウロを助けた女性たち
 最後に、今日の聖書箇所のローマ人への手紙16章に登場する女性にも短く触れたいと思います。このローマ16章には、手紙の差出人のパウロから、受取人のローマの教会の人々への挨拶が書かれています。1節、

16:1 ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。
16:2 どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。

 このケンクレヤの教会の執事のフィベという女性は、このパウロの手紙をローマまで届けてくれた人物です。当時は郵便の制度などはありませんでしたから、手紙は個人が運んでいました。後ろの地図を見ていただきますと、ケンクレヤはコリントのすぐ南にあります。パウロはローマ人への手紙をコリントで書いたと言われています。そうして、フィベがこの手紙をローマまで運びました。ご覧いただくとわかるように、コリントとローマとはだいぶ離れています。このように離れた距離にある教会への大事な手紙を女性が運んだというのは驚きです。危険を恐れない強い信仰が無ければできないことです。このフィベにはメリー・スレッサとマザー・テレサの両方の強さがあったのだろうと思います。長い距離を旅行する危険を恐れない強さと、教会の執事という高い地位にあっても奢らない謙虚さを貫けるという強さがあったからパウロは信頼し、安心して手紙を託すことができたのだと思います。例えば誘惑に陥り易い男性などでは、パウロ先生の手紙を託されたということだけで自分もまたパウロ先生のように偉くなった気分になってしまって、ローマの教会の人々に煙たがられるということにもなりかねません。女性執事のフィベには、少しもそういうところが無かったのだろうと思います。続いて3節と4節、

16:3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
16:4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

 プリスカとアクラの夫婦は、この時はローマにいましたが、パウロが夫婦に出会ったのはコリントにおいてでした。その後、パウロがエペソでの伝道をした時にはこのプリスカとアクラもエペソに移り住んで共に伝道をしました。このプリスカとアクラはプリスカが女性でアクラが男性です。プリスカの方を先に書いているのは、彼女のほうが教会では影響力が強かったからであろうと考えられています。プリスカは夫のアクラと共に、一箇所ではなく、広い地域にまたがってパウロの伝道を支援していました。このような夫婦の存在は、キリスト教会が一つにまとまる上で大変に大きな役割を果たしたと思います。現在のように通信手段が発達していなかった当時では、各地にある教会がそれぞれ独自に土着化した信仰を持ってしまってもおかしくないような状況であったと思いますが、プリスカとアクラやフィベのような人々がいたおかげで、キリスト教会が一つの信仰を保つことができたのだと思います。

おわりに
 このような奉仕は、まさに神様に用いられた奉仕であると言うことができます。信仰というのは、単に弱い自分を強くしてくれるだけのものではなく、自分でも人々のため、神様のために、役に立つ働きができるようにしてくれるものです。そして、このような働きは、当時の人々はもちろん、後世の私たちにも励ましを与えてくれるものです。フィベやプリスカはもちろん、メリー・スレッサやマザー・テレサの生き方は私たちに勇気と励ましを与えてくれます。そして竹鶴リタと村岡花子もまた、現代の私たちの多くをテレビのドラマを通して励ましてくれたという点で神様に用いられた女性たちであったと言えるでしょう。
 神様と共に生きるということは、単に弱い私たちが強くなれるというだけでなく、神様に用いられる生涯を送ることができるということです。神様のお役に立つことができることができることは、本当に素晴らしいことであり、これ以上のことはないと言えるでしょう。
 このことを教えてくれている女性たち、そして神様に感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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沼津コーストFM「潮風の中で」原稿(2015.5.9 放送)

2015-05-09 19:36:06 | 牧師のつぶやき
 先日の5月3日の日曜日は憲法記念日でした。そして明日の5月10日の日曜日は母の日です。今回の放送では、憲法記念日と母の日の、どちらに因んだメッセージにしようか、私は少し迷いました。そして思ったことは、母の日を巡る状況については今年も来年も再来年も、それほど大きくは変わらないであろう、ということです。一方、憲法を巡る状況については、今年と来年、そして再来年とでは状況が大きく変わっている可能性があります。一度変わってしまえば最早後戻りはできません。そこで今日は、日本の平和憲法について、キリスト教の聖書の立場から考えてみることにしたいと思います。
 日本国憲法の前文、前の文の中に、こんな一文があります。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 いま読んだ文の中では「崇高な理想」という言葉が使われています。そして、憲法の前文では、もう一度「崇高な理想」が使われて締めくくられます。この締めくくりの文もお読みします。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

 このように「崇高な理想」を掲げる現行の日本国憲法については、理想論に偏り過ぎていると考える人も少なくないようです。理想を追求するばかりでなく、現在の国際情勢に鑑みて現実に沿ったものにして行くべきだという意見も多く見聞きします。
 目の前の現実にきちんと向き合うことは、もちろん大切なことです。しかし、現実にばかり目を向けていると、大切なことを忘れてしまいます。このことについて、聖書は何を語っているでしょうか。新約聖書のルカの福音書に登場するマルタとマリヤの姉妹について見てみたいと思います。旅をしていたイエスの一行はマルタとマリヤの姉妹の家に泊まることになりました。その時の状況がルカの福音書10章の38節から42節に掛けて書かれています。お読みします。

38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 この時、姉のマルタはイエスの一行をもてなすという現実に追われて大変な忙しさの中にありました。しかし妹のマリヤはイエスの話に聞き入っていて少しも手伝おうとしないので、マルタはいらだっていました。そして遂にイエスにその不満をぶつけたのでした。するとイエスはマルタに言いました。もう一度お読みします。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 イエスは、目の前の現実に追われることよりも、イエスのことばに耳を傾けることのほうを、良しとしました。では、イエスのことばとは、どのようなものでしょうか。

(賛美歌を挟む)

 イエスがマルタとマリヤの家で説いていた教えは、旧約聖書に基づいた教えです。十字架で死ぬ前のイエスが人々に教えを説いていた時には、新約聖書はまだ書かれていませんでしたから、イエスは旧約聖書を引用しながら教えていました。
 では、旧約聖書には何が書かれているのでしょうか。実は、旧約聖書の記述の大半は、イスラエルの民が犯した悲惨な失敗と過ちについてです。神から離れがちであったイスラエルの民は多くの悲惨な失敗を経験しました。ダビデとソロモンの時代に繁栄したイスラエルの王国は北と南の二つの王国に分裂してしまい、その後、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南王国もバビロニヤ帝国に滅ぼされてしまいました。旧約聖書は、イスラエルがこのように悲惨なことになったのは人々が神から離れていたからであると書いています。
 イエスの教えは、このような旧約聖書の時代の悲惨な失敗の土台の上に立っています。イエスの「互いに愛し合いなさい」という教えや「平和をつくる者は幸いです」という教えは単なる理想論ではなく、悲惨な失敗という土台の上に立っているのだということを、私たちはしっかりと認識したいと思います。
 イエスの教えには、悲惨な失敗を二度と繰り返してはならないという思いが込められています。このことを見落とすと、私たちは何度でも同じ過ちを繰り返すことになります。マルタのように現実に追われてバタバタとした日々を送っていると、この大切なことを見落としてしまいます。聖書が平和を説いているのに、イエスの時代から二千年経っても人類が相変わらず戦争を繰り返しているのは、新約聖書のイエスの教えが旧約聖書の時代の悲惨な失敗という土台の上に立ったものであるということを、私たちが忘れがちであるからだろうと私は考えています。新約聖書だけを読むと理想論が書いてあるように見えますが、これは旧約聖書の時代の悲惨な失敗が土台になっているのだということを、私たちは見落とさないようにしたいと思います。
 日本国憲法も同じです。日本国憲法は戦争の惨禍という悲惨な失敗が土台になっています。第二次世界大戦は敗戦国だけでなく戦勝国にとっても悲惨な失敗です。戦争を始めた日本は周辺諸国の人々を侵略によって苦しめ、また降伏が遅れたことで日本の国民をも苦しめました。これは悲惨な失敗です。またアメリカは日本に対して民間人を巻き込んだ無差別攻撃を行いました。軍事施設ではない民間人の居住区域に二発の原爆と大量の焼夷弾を投下したことは過ちであり、悲惨な失敗です。ですから日本の平和憲法は、日本の失敗だけではなくアメリカの失敗をも土台にしています。
 このように日本の平和憲法と新約聖書とは、過去の悲惨な失敗が土台になっているという共通点を持っています。さらに言うなら土台になっているのは、悲惨な失敗だけではなく、安堵の気持ちや平和な気持ちもまた土台になっています。
 イエスのことばに聞き入っていた妹のマリヤは平和な気持ちに包まれていました。旧約聖書の時代の悲惨な失敗を土台にしたイエスの教えは聞く人々に平和な気持ちを与えるものでした。新約聖書はこれらを土台にしてイエスの弟子たちによって書かれた書物です。つまり新約聖書は旧約聖書の時代の悲惨な失敗という土台があり、さらにその上にイエスが人々に与えた平安という、もう一つの土台があります。新約聖書は、この二重の堅固な土台の上に立って書かれ、イエスが語った理想を追求しています。
 日本国憲法もまた、戦争が終わった時に人々が味わった安堵の気持ち、平和な気持ちがもう一つの土台になっています。戦争が終わった時の安堵感は日本人だけでなくアメリカ人も当然持っていました。日本人もアメリカ人も戦争が終わった時に安堵の気持ちを持ち、二度と戦争は繰り返すべきでないと思いました。そうして平和憲法はアメリカ人が草案を作成して、日本人が修正を加え、日本の議会が承認して公布されました。
 このように聖書も日本国憲法も、どちらも悲惨な失敗とその後に得られた平安という二重の土台の上に成り立っています。しかし、日々を忙しく過ごし、目先の現実に追われ、時流に流されて行ってしまうようになるなら、土台を流失してしまうことになります。土台を失ってしまうことは理想を失うことでもあります。何故なら理想は土台の上にあるからです。そうして理想と土台の両方を失うなら、あとは時流に流されて行くだけになってしまいます。それは姉のマルタのようになってしまうことです。イエス・キリストは、そんなマルタを戒めたのでした。理想の平和を追求する日本国憲法を改正して現実に合わせようという今の日本の動きは、この姉のマルタに良く似ていると私は感じています。
 日本人が愛してやまない富士山は、日本一の高さを誇ります。この日本一の高さはしばしば高い理想に例えられます。この富士山の高さは広大な裾野という土台によって支えられています。このように理想と土台とは一体になっています。私たちは富士山の広くゆったりとした裾野のように、広くゆったりとした心を持ちつつ、理想を追求して行きたいと思います。
 忙しい私たちが目先の現実に追われて時流に流される日々を過ごすなら、土台と理想の両方を失うことになります。私たちは姉のマルタのように目先のことばかりに追われるのではなく、時には妹のマリヤのように静かでゆったりとした時を持ちたいと思います。キリスト教会はそのような時を持つことができる場所の一つです。明日の日曜日はお近くのキリスト教会に行かれてみてはいかがでしょうか。
 最後にもう一度、姉のマルタに対するイエスのことばをお読みして、今夜のメッセージを閉じたいと思います。皆さんにイエス・キリストの平安が与えられますよう、お祈りしています。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

(以上)
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母の日招待礼拝のご案内

2015-05-07 16:23:47 | 特集
 母の日招待礼拝のご案内
 日時:5月10日(日)午前10時半~11時40分
 場所:インマヌエル沼津キリスト教会



5月 第2聖日 母の日招待礼拝順序

 司  会               矢崎兄
 奏  楽               関姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉     253
 交  読  詩篇23篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  若葉のもえるナザレの里  106
 証  し               丹野姉
 聖  書  ローマ16:1~4
 説  教  『竹鶴リタと村岡花子 』 小島牧師
 讃 美 ③  いつくしみ深き      432
 献  金
 感謝祈祷               矢崎姉
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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聞き続けよ。だが悟るな(2015.5.6 祈り会)

2015-05-07 14:06:08 | 祈り会メッセージ
2015年5月6日祈り会メッセージ
『聞き続けよ。だが悟るな』
【イザヤ6:8~13】

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
6:11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
6:12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。
6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

はじめに
 先週はイザヤ6:8から、主の「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」という御声に、私たちの一人一人が「ここに、私がおります。私を遣わせてください」と応答しなければならないのではないか、ということを語らせていただきました。世の中の動きが不穏になり、平和が脅かされている今、主は多くの働き人を必要とされていることと思います。私たちの一人一人で働き方は異なりますが、主の御声に耳を澄まして、それぞれの働き方で主の召しに応答したいと思います。
 さて今日は9節以降を見ることにしますが、8節からの流れで9節以降がありますから、8節も含めて、ご一緒に読みました。
 
新約聖書に多く引用されている箇所
 9節と10節は、新約聖書の非常に多くの箇所で引用されています。マタイ・マルコ・ルカの福音書では「種まきのたとえ」で引用されていますし、その他にもヨハネの福音書と使徒の働きとローマ人への手紙でも引用されています。それらの書のどの節で引用されているかは、下の脚注を見ていただくとわかるようになっています。9節についての脚注ですから、「9」の①を見ていただきますと、引照がたくさん書いてありますね。後でこの中の一つの使徒の働きをご一緒に読みたいと思いますが、その前に、11節から13節までを先に見ておきたいと思います。
 11節でイザヤは主に、「主よ、いつまでですか」と聞きました。この「いつまでですか」というのは、9節の主のイザヤへの命令の、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』と民に言うことを、いつまでするのですか?ということです。このイザヤの質問に対する主の答えは、11節の続きと12節の、

「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。」

でした。これは、まずは人々がバビロンに捕囚として引かれて行き、そこから解放されるまでと取ることができるでしょう。しかし、続きがあります。13節、

6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

 この「切り株」とは捕囚の残りの者ともメシヤとも、どちらの意味にも取れるとのことですが、私はメシヤの到来の預言と私は受け取りたいと思います。そのほうが、この箇所を引用している新約聖書の箇所ともよく整合すると思うからです。ですから、「切り株」がメシヤとすれば、「いつまでですか?」はイエス・キリストがこの世に来る時までということになるでしょう。しかし、ご存知の通り、ユダヤの人々はイエスがどのような存在であるかが、わかりませんでしたから、イエスを十字架に付けて殺してしまいました。

聞き続けよ。だが悟るな
 このことを念頭に置いて、改めてイザヤ6章の9節と10節が何を言わんとしているかを、ご一緒に考えてみたいと思います。9節と10節を交代で読みましょう。

6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

 私たちは自らの霊的な理解力を総動員して全力で、この箇所と向き合わなければならないと思います。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』とは、一体どういうことでしょうか。主はご自身の民が悟ることを望んではおられないのでしょうか。そんな筈はありませんね。主は、ご自身の民を愛しておられますから、民が悟ることを望んでおられるはずです。では何故、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』などとおっしゃるのでしょうか。
 それは、主のことばを本当に理解するには、結局は聖霊の助けが無ければできないからではないでしょうか。イザヤの時代には、聖霊が誰にでも注がれるわけではありませんでしたから、人々が主のことばを深く理解するのは無理なことでした。時が満ちてイエス・キリストが来られて、十字架の死の後に復活して天に上り、天から聖霊が注がれるようになるまでは主のことばを理解することは無理なのだ、イザヤ6章の9節と10節はそういうことを言っているのだと理解すべきではないでしょうか。
 ただし聖霊が注がれるためには、イエスが神の子キリストであることを本気で信じる必要があります。ですから、たとえペンテコステの日以降に誰にでも聖霊が注がれるようになっても、イエスを信じないのであれば、主のことばを理解することはできません。

パウロの嘆き
 このことについては、パウロの嘆きが使徒の働きに書いてあります。9節の脚注にもある使徒28章の26節と27節ですが、その前から見てみたいと思います。使徒の働き28章の16節を、まず見て下さい。ここにパウロやルカたちがローマに入り、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許されたことが書かれています。そして17節から、パウロがユダヤ人の主だった人たちを呼び集めて、パウロがどうしてローマに来ることになったのかを説明したことが書かれています。すると集まったユダヤ人たちは言いました。少し飛ばして22節、

28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。

 続いて23節と24節、

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。

 24節に、パウロから話をユダヤ人たちはイエスを信じた者たちもいたけれども信じようとしなかった者たちもいたことが記されています。そして25節、

28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。

 パウロはこう言ってイザヤ6章を引用します。26節と27節です。

28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 パウロはこう言ってから神の救いの御手が異邦人に向けられたことを告げます。28節、

28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 こうして現代に至るまで、多くの異邦人が救われました。

新たな問題
 しかし、新たな問題も生じています。それは現代のアメリカが抱えているような問題です。アメリカにはクリスチャンが多くいて、聖書に何が書いてあるかを知っている人々は大勢いますが、イエス・キリストを本気で信じて聖霊が注がれ、神のことばを霊的に理解できているアメリカ人がどれだけいるでしょうか。どれだけの割合なのかわかりませんが、そんなに多くはいないのではないかと思います。つまり、パウロが嘆いた状況は、現代においても未だ続いているということです。
 日本においては、もっと悲惨です。日本はただでさえクリスチャン人口が少ない上に、その数少ないクリスチャンの中でも、神のことばを霊的に理解できているクリスチャンがどれだけいるのかを考えるとき、本当に心もとなく思います。聖霊が注がれている人であっても、マルタとマリヤの姉妹の姉のマルタのように忙しく過ごしているなら、霊的なことは理解できないからです。
 けれども絶望しているわけには行きませんから、私たちは主の「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」ということばに「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と応答して、一人一人に与えられた役割を果たしたいと思います。そのためには、先ずはイエスさまの御声に耳を傾けたいと思います。

おわりに
 最後に、日曜日にも開いた箇所ですが、ルカ10章の38節から42節までを交代で読んで、メッセージを閉じたいと思います。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 お祈りいたしましょう。
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5月10日母の日招待礼拝プログラム

2015-05-07 10:08:30 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月10日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第2聖日 母の日招待礼拝順序

 司  会               矢崎兄
 奏  楽               関姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉     253
 交  読  詩篇23篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  若葉のもえるナザレの里  106
 証  し               丹野姉
 聖  書  ローマ16:1~4
 説  教  『竹鶴リタと村岡花子 』 小島牧師
 讃 美 ③  いつくしみ深き      432
 献  金
 感謝祈祷               矢崎姉
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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悲惨な過去の上に立つ崇高な理想(2015.5.3 憲法記念日礼拝)

2015-05-03 13:55:42 | 礼拝メッセージ
2015年5月3日憲法記念日礼拝メッセージ
『悲惨な過去の上に立つ崇高な理想』
【ルカ10:38~42】                   

はじめに
 きょうは憲法記念日です。2年半前に自民党が政権に復帰してから、憲法改正に関する論議がにわかに活発になって来ました。そこで今日の礼拝を「憲法記念日礼拝」と名付けて、憲法についてご一緒に考える時を持ちたいと思います。
 私が大学生だった頃、私は憲法には全く関心を持っていませんでした。大学の教養部の授業では「日本国憲法」という選択科目がありましたが、私は受講しませんでした。教員免許を取得するには、この「日本国憲法」の単位が必要ですから友人の多くは、この授業を受けていました。しかし私は教員になるつもりはありませんでしたから、受けなくてもいいやと思っていました。教員になるつもりはなくても、一般教養として受けておけば良かったのにと今私は、当時の自分のことを苦々しく思っています。それほどまでに以前の私は憲法に無関心でした。そんな私が、ここ一、二年ほどの間ににわかに憲法について関心を持つようになり、神聖な礼拝を「憲法記念日礼拝」と銘打つように霊的な促しを受けているのですから、今年の憲法記念日は、本当に大切な日であるということになります。

聖書の教えと合致している平和憲法
 「戦争の放棄」を明記した平和憲法は、イエスさまがペテロに対して「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と言い、無抵抗で十字架に付いたことを伝える聖書の教えと非常によく合致するものです。また、戦争では日本の民間人も多くの人々が命を落としました。沖縄の地上戦では多くの住民が巻き込まれ、全国各地の空襲では人口密集地を狙って大量の焼夷弾が投下され、広島と長崎では原爆によって膨大な数の住民が犠牲になりました。日本国憲法が、この犠牲の上に成り立っていることもまた、キリスト教がイエス・キリストの十字架の犠牲の上に成り立ったことと共通点があります。
 日本ではキリスト教は未だ根付いていませんが、平和憲法は根付いています。ということはキリスト教の平和の精神は根付いていると言えるのでしょう。このことはアメリカとは対照的です。アメリカはキリスト教が根付いていますが、キリスト教の平和の精神は根付いていません。
 これはとても不思議なことですが、キリスト教本来の平和の精神はアメリカよりも戦後の日本でよく根付いていると言えます。だからこそ、平和憲法は何としてでも守らなくてはならないと思います。そして、平和の精神が根付いていないアメリカのような国々に逆に伝えて行かなければなりません。これは日本のキリスト者に課せられた使命のように私は感じています。
 一昨日、私は次の放送原稿を世話役の先生に送信しました。きょうのメッセージでは、先ずその原稿の全文を読み、その後で補足説明を行います(これはフライングですから、本ブログに番組名は書きません)。

過去の悲惨な土台の上にある憲法と聖書
(ここから原稿)
 先日の5月3日の日曜日は憲法記念日でした。そして次の日曜日は母の日です。今回の放送では、憲法記念日と母の日の、どちらに因んだメッセージにしようか、私は少し迷いました。そして思ったことは、母の日を巡る状況については今年も来年も再来年も、それほど大きくは変わらないであろう、ということです。一方、憲法を巡る状況については、今年と来年、そして再来年とでは状況が大きく変わっている可能性があります。一度変わってしまえば最早後戻りはできません。そこで今日は、日本の平和憲法について、キリスト教の聖書の立場から考えてみることにしたいと思います。
 日本国憲法の前文、前の文の中に、こんな一文があります。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 いま読んだ文の中で「崇高な理想」という言葉が使われています。そして、憲法の前文では、もう一度「崇高な理想」が使われて締めくくられます。この締めくくりの文もお読みします。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

 このように「崇高な理想」を掲げる現行の日本国憲法については、理想論に偏り過ぎていると考える人も少なくないようです。理想を追求するばかりでなく、現在の国際情勢に鑑みて現実に沿ったものにして行くべきだという意見も多く見聞きします。
 目の前の現実にきちんと向き合うことは、もちろん大切なことです。しかし、現実にばかり目を向けていると、大切なことを忘れてしまいます。このことについて、聖書は何を語っているでしょうか。新約聖書のルカの福音書に登場するマルタとマリヤの姉妹について見てみたいと思います。旅をしていたイエスの一行はマルタとマリヤの姉妹の家に泊まることになりました。その時の状況がルカの福音書10章の38節から42節に掛けて書かれています。お読みします。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 この時、姉のマルタはイエスの一行をもてなすという現実に追われて大変な忙しさの中にありました。しかし妹のマリヤはイエスの話に聞き入っていて少しも手伝おうとしないので、マルタはいらだっていました。そして遂にイエスにその不満をぶつけたのでした。するとイエスはマルタに言いました。もう一度お読みします。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 イエスは、目の前の現実に追われることよりも、イエスのことばに耳を傾けることのほうを、良しとしました。では、イエスのことばとは、どのようなものでしょうか。

(賛美歌を挟む)

 イエスがマルタとマリヤの家で説いていた教えは、旧約聖書に基づいた教えです。十字架で死ぬ前のイエスが人々に教えを説いていた時には、新約聖書はまだ書かれていませんでしたから、イエスは旧約聖書を引用しながら教えていました。
 では、旧約聖書には何が書かれているのでしょうか。実は、旧約聖書の記述の大半は、イスラエルの民が犯した悲惨な失敗と過ちについてです。神から離れがちであったイスラエルの民は多くの悲惨な失敗を経験しました。ダビデとソロモンの時代に繁栄したイスラエルの王国は北と南の二つの王国に分裂してしまい、その後、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南王国もバビロニヤ帝国に滅ぼされてしまいました。旧約聖書は、イスラエルがこのように悲惨なことになったのは人々が神から離れていたからであると書いています。
 イエスの教えは、このような旧約聖書の時代の悲惨な失敗の土台の上に立っています。イエスの「互いに愛し合いなさい」という教えや「平和をつくる者は幸いです」という教えは単なる理想論ではなく、悲惨な失敗という土台の上に立っているのだということを、私たちはしっかりと認識したいと思います。
 イエスの教えには、悲惨な失敗を二度と繰り返してはならないという思いが込められています。このことを見落とすと、私たちは何度でも同じ過ちを繰り返すことになります。マルタのように現実に追われてバタバタとした日々を送っていると、この大切なことを見落としてしまいます。聖書が平和を説いているのに、イエスの時代から二千年経っても人類が相変わらず戦争を繰り返しているのは、新約聖書のイエスの教えが旧約聖書の時代の悲惨な失敗という土台の上に立ったものであるということを、私たちが忘れがちであるからだろうと私は考えています。新約聖書だけを読むと理想論が書いてあるように見えますが、これは旧約聖書の時代の悲惨な失敗が土台になっているのだということを、私たちは見落とさないようにしたいと思います。
 日本国憲法も同じです。日本国憲法は戦争の惨禍という悲惨な失敗が土台になっています。第二次世界大戦は敗戦国だけでなく戦勝国にとっても悲惨な失敗です。戦争を始めた日本は周辺諸国の人々を侵略によって苦しめ、また降伏が遅れたことで日本の国民をも苦しめました。これは悲惨な失敗です。またアメリカは日本に対して民間人を巻き込んだ無差別攻撃を行いました。軍事施設ではない民間人の居住区域に二発の原爆と大量の焼夷弾を投下したことは過ちであり、悲惨な失敗です。ですから日本の平和憲法は、日本の失敗だけではなくアメリカの失敗をも土台にしています。
 このように日本の平和憲法と新約聖書とは、過去の悲惨な失敗が土台になっているという共通点を持っています。さらに言うなら土台になっているのは、悲惨な失敗だけではなく、安堵の気持ちや平和な気持ちもまた土台になっています。
 イエスのことばに聞き入っていた妹のマリヤは平和な気持ちに包まれていました。旧約聖書の時代の悲惨な失敗を土台にしたイエスの教えは聞く人々に平和な気持ちを与えるものでした。新約聖書はこれらを土台にしてイエスの弟子たちによって書かれた書物です。つまり新約聖書は旧約聖書の時代の悲惨な失敗という土台があり、さらにその上にイエスが人々に与えた平安という、もう一つの土台があります。新約聖書は、この二重の堅固な土台の上に立って書かれ、イエスが語った理想を追求しています。
 日本国憲法もまた、戦争が終わった時に人々が味わった安堵の気持ち、平和な気持ちがもう一つの土台になっています。戦争が終わった時の安堵感は日本人だけでなくアメリカ人も当然持っていました。日本人もアメリカ人も戦争が終わった時に安堵の気持ちを持ち、二度と戦争は繰り返すべきでないと思いました。そうして平和憲法はアメリカ人が草案を作成して、日本人が修正を加え、日本の議会が承認して公布されました。
 このように聖書も日本国憲法も、どちらも悲惨な失敗と、その後に得られた平安という二重の土台の上に成り立っています。しかし、日々を忙しく過ごし、目先の現実に追われ、時流に流されて行ってしまうようになるなら、土台を流失してしまうことになります。土台を失ってしまうことは理想を失うことでもあります。何故なら理想は土台の上に成り立っているからです。そうして理想と土台の両方を失うなら、あとは時流に流されて行くだけになってしまいます。それは姉のマルタのようになってしまうことです。イエス・キリストは、そんなマルタを戒めたのでした。理想の平和を追求する日本国憲法を改正して現実に合わせようという今の日本の動きは、この姉のマルタに良く似ていると私は感じています。
 日本人が愛してやまない富士山は、日本一の高さを誇ります。この日本一の高さはしばしば高い理想に例えられます。この富士山の高さは広大な裾野という土台によって支えられています。このように理想と土台とは一体になっています。私たちは富士山の広くゆったりとした裾野のように、広くゆったりとした心を持ちつつ、理想を追求して行きたいと思います。
 忙しい私たちが目先の現実に追われて時流に流される日々を過ごすなら、土台と理想の両方を失うことになります。私たちは姉のマルタのように目先のことばかりに追われるのではなく、時には妹のマリヤのように静かでゆったりとした時を持ちたいと思います。キリスト教会はそのような時を持つことができる場所の一つです。次の日曜日はお近くのキリスト教会に行かれてみてはいかがでしょうか。
 最後にもう一度、姉のマルタに対するイエスのことばをお読みして、今日のメッセージを閉じたいと思います。皆さんにイエス・キリストの平安が与えられますよう、お祈りしています。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
(原稿ここまで)

霊的な領域につながる話
 この放送原稿に補足したいことは、たくさんありますが、残り時間が少ない中で何か一つ補足するとしたら、これは極めて霊的な世界に通じる話であるということです。放送で霊的な話をしても理解していただけませんから、そういう話にはしていませんが、これは霊的な領域につながる話です。
 姉のマルタのように目先の忙しさに追われているようでは霊的なことは一切わかりません。妹のマリヤのように、神の領域のことに、じっと耳を傾けるのでなければ霊的なことはわかって来ません。平和を実現するためには、霊的に覚醒している私たちの働きがどうしても必要です。
 私は日本人には霊的な領域のことを理解する素質が十分に備わっていると考えています。だからこそ、キリスト教の平和の精神が戦後の平和憲法によって根付いたのだと思います。しかし日本人は和魂洋才を重んじますから、西洋的なキリスト教を魂で受け入れることを拒んでいるように思います。けれどもキリスト教が西洋の宗教であるというのは誤解ですね。ですから、この誤解が解ければキリスト教もやがては受け入れるようになるのではないかと思います。しかし、その前に平和憲法が改正されてしまえば、キリスト教の平和の精神が根付いていないアメリカと同じことになってしまいます。そうしてアメリカと同じように、戦争の繰り返しから抜け出せないという泥沼に入って行ってしまうことになります。

おわりに
 戦争の繰り返しの泥沼に引き込まれないよう、日本は平和憲法を守り、平和憲法の精神をアメリカなどの国々に伝えて行かなければなりません。それが日本のキリスト者の責務であると私は考えます。
 それゆえ、今年の憲法記念日は極めて大切であることを重ねて強調したいと思います。平和の実現のために共に働いて行くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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