平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

主よ、いつまでですか(2013.10.16 祈り会)

2013-10-17 08:55:26 | 祈り会メッセージ
2013年10月16日祈り会メッセージ
『主よ、いつまでですか』
【イザヤ6:8~13】

はじめに
 イザヤ書6章には、イザヤが主からの召命を受けた時のことが記されています。きょうは、この6章の前半ではなくて後半のほうに注目します。

1.心をかたくなにするメッセージ
 8節でイザヤは、主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられるのを聞いて、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言いました。
 このようにイザヤが「私を遣わしてください」と言うのを聞いて、主はイザヤに9節と10節のように命じました。

 「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

 このメッセージのことを『新聖書注解』の注解者(鍋谷先生)は「心をかたくなにするメッセージ」と呼んでいます。預言者が預言する主のことばとは、民が主のことばを聞き、悟ることができるようにするはずのものです。そして霊的な目が開かれ、主のことをもっと知ることができるようにするはずのものです。しかし、主は全く逆のことを言いました。民に「悟るな。知るな。」と言え、とイザヤに命じたのでした。これは、イザヤにとって、全く意外なことでした。それゆえ、イザヤは、「主よ、いつまでですか」と主に聞きました。
 主は答えました。11節と12節です。

「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。」

 これは、普通に解釈すれば、ユダの王国がバビロン軍に攻め入られ、人々がバビロンに捕囚として引かれて行くまで、ということになりそうです。

2.新約聖書で引用されているメッセージ
 しかし、今回、皆さんとご一緒に思いを巡らしてみたいのは、イザヤ書6章の9節と10節が、新約聖書の多くの書に引用されている、ということです。9節の脚注の①を見て下さい。そこに多くの引照がありますね。マタイ13:14,15、マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40、使徒28:26,27、ローマ11:8、とあります。このうち、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書では、種まきのたとえのところで、このイザヤ6章の「心をかたくなにするメッセージ」が引用されています。どのように引用されているか、マルコの福音書の場合で見てみましょう。私たちは聖書を読む会でマルコの福音書の種まきのたとえの所を既に学んでいますから、一番理解しやすいだろうと思います。マルコの福音書4章の種まきのたとえの所をご一緒に見ましょう。2節から見ましょう。2節と3節、

4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

 そうして、イエスは種まきの例えを話しました。その内容は、きょうは省略します。そして、10節から14節、

4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

 この12節に、イザヤ6章の9節と10節が引用されていますね。すると、イザヤが「主よ、いつまでですか」と聞いたことの答は、バビロン捕囚の時までではなく、イエスの時代まで続いていたのでしょうか。
 次に、使徒の働きの一番最後の28章を見てみましょう。28章の23節から25節までを見ましょう。

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。

 こう言って、パウロは次の26節と27節でイザヤ書6章の9節と10節を引用しています。すると、先ほどのマルコの福音書での引用のところでは、「主よ、いつまでですか」はイエスの時代まで続いていたのでしょうかと言いましたが、イエスの時代を越えて、パウロの時代まで続いたのでしょうか。イエスの時代というのは、だいたい紀元30年頃で、パウロがローマに軟禁されていたのは紀元60年頃ですから、さらに30年は続いていたのでしょうか。
 或いはまた、ヨハネの福音書でも、このイザヤ6章の9節と10節は引用されています。ヨハネの福音書は1世紀の末ぐらいに書かれたと考えられます。そして、この頃の時代の雰囲気がヨハネの福音書には反映されていると考えられます。すると、ヨハネの福音書が書かれた年代をだいたい紀元90年とするなら、さらにもう30年は、主が人々の心をかたくなにする期間が続いていたのでしょうか。
 或いはさらに、現代に至るまで、主が人々の心をかたくなにする期間は続いているのでしょうか。私は、このことの答を知りたいと思い、これまで折に触れて考え続けて来ました。しかし、答は得られませんでした。

3.永遠の時間観の中で捉えるべきメッセージ
 今回、祈祷会でイザヤ書を開くことにしたこの機会に、いま一度考えてみることにしました。ちょうど昨晩は台風が接近して来ていて雨漏りの心配がありましたから、夜はずっと起きているつもりでいました。ですから、考えるには、ちょうど良いと思ったんですね。
 そうして、今朝になって、気付かされたことがあります。それは、イザヤの時代からバビロン捕囚までとか、イエスの時代や使徒の時代までとか、或いは現代までなどと考えるのは、時間が【過去→現在→未来】が一方通行の流れであるという時間観に基づいてしまった考え方である、ということです。そうではなくて、ヨハネの福音書を学んだ私たちは、【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観で、このイザヤ書6章の9節と10節を捉えなくてはならないであろう、ということです。
 もう一度、イザヤ書6章の11節と12節を見ます。

6:11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
6:12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。

 永遠の時間観の中でここを読むなら、まさに今という時代の霊的な状況が、荒れ果てた状態であると感じることができると思います。
 そして、主はまさに今、心がかたくな人々を救って下さるのだと考えるべきではないでしょうか。もし永遠ではない人間的な時間観で、主が、今、人々を救って下さると考えるなら、イザヤの時代から今までずっと、主の心をかたくなにするメッセージは続いていたことになります。しかし、これまでにもキリスト教が大きく広まった時代があったわけですから、それは何だかおかしいですね。ですから、私たちは、イザヤ書の心をかたくなにするメッセージを永遠の時間観で捉えるべきでしょう。そして、今のこの霊的に荒れ果てた時代の暗闇の中で光を見出せないでいる人々を、主は救い出して下さろうとしているのだと、永遠の時間観で考えるべきでしょう。

おわりに
 神にとっては旧約の時代も、イエスの時代も、使徒の時代も、そして現代も、すべて現在のことです。ですから、主はどの時代にあっても、その時代が霊的に荒れ果てた時代であるなら、いつでも救い出そうとしておられるのではないでしょうか。
 現代人の霊的な状況は言うまでもなく、荒れ果てています。マルタとマリヤの姉妹のマリヤのように、イエスさまの話にゆっくりと耳を傾けようとする人は本当に少ないです。多くの人々がマルタのようにバタバタと忙しく動き回り、或いは、片時もネットに接続した携帯端末から目を離せずにいて、落ち着かない日々を過ごしています。そんな人々を今、神さまは救い出して下さろうとしているのだと信じて、神さまの働きのお手伝いができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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