平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

天よ、聞け(2013.10.9 祈り会)

2013-10-10 02:53:22 | 祈り会メッセージ
2013年10月9日祈り会メッセージ
『天よ、聞け』
【イザヤ1:1~9】

はじめに
 祈祷会ではモーセ、エリヤ、エレミヤ、エゼキエルの各預言者を見て来ています。イザヤを飛ばしていましたので、きょうはイザヤ書を開くことにしました。
 イザヤ1章の冒頭の部分について思いを巡らしたことを、きょうは語りたいと思います。
 まず1章1節で、イザヤがどの王の時代の預言者であったかを確認しておきましょう。

1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

 ここに4名のユダの王の名前が記されていますが、ウジヤ、ヨタム、アハズの頃はまだ、北王国が存在していた頃で、北王国はヒゼキヤの第6年にアッシリヤによって攻め取られたことが列王記に記されています(Ⅱ列王18:10)。北王国は終始一貫して不信仰でした。列王記を読むと、南王国のほうは、北王国よりは若干はマシだったかなと思うのですが、イザヤ書を読むと、主はそうは思っておられなかったようです。イザヤ書では早くも1章2節から、不信仰なユダの民への主の怒りが伝わって来ます。

1:2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。【主】が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
1:3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

 今回、まず私の目にとまったのは、2節の「天よ、聞け。地も耳を傾けよ」でした。きょうは、ここから語ることにします。

1.旧約の預言者たちの壮大な呼び掛け
 「天よ、聞け。地も耳を傾けよ」とは、何と壮大な呼び掛けでしょうか。イザヤ書は、このような壮大な呼び掛けから預言を始めています。
 旧約聖書では、人に呼び掛ける場合でも、まず天地に呼び掛ける場合が、いろいろとあるのですね。モーセは、「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。」(申命記32:1)と言っています。詩篇にも、天地を含めて呼び掛けているものが、いくつもあります。詩篇96篇は「新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。」(詩篇96:1)と呼び掛け、「天は喜び、地はこおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」(詩篇96:11,12)と詩っています。
 今回、私はこれら旧約の預言者や詩人たちが天地に呼び掛けていることが、とても心に響いて来ました。
 少し前の礼拝で私は、満月の時は夕陽が西に沈むのとほぼ同時に東から満月が昇るのだという話をしましたね。これまで私は月の動きと太陽の動きの関係、そしてそれに伴う月の満ち欠けのことを、あまり意識したことはありませんでした。しかし、沼津に来てから海岸の堤防の上を夕方にジョギングするようになって、建物にさえぎられることなく広い空を見ることができるようになりましたから、太陽と月の関係が段々わかるようになって来ました。おとといは月齢が2ぐらいの月(これを三日月というのだそうですね)が良く見えていたので、昨日は月齢が3ぐらいの月を見ながら走るのを楽しみにしていましたが、あいにく雲があって見えませんでした。それで残念な思いをしましたが、太陽と月の位置関係がだいぶわかって来ましたから、日没の頃には月齢がいくつの月がどの辺りに見えるはずなのか、雲で見えなくても、およその位置がわかるようになりました。そんな風に、天体の動きが少し分かって来たところでしたので、イザヤ書1章で「天よ。聞け。地も耳を傾けよ。」(イザヤ1:2)を見た時に、ビビビと来たんですね。

2.ちりに息が吹き込まれて生まれた人間
 そうして思ったことは、天も地も、私たちも、所詮は被造物に過ぎないのだなということです。創世記2章によれば、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)とあります。ですから、私たち人間は命の息を吹き込まれた存在ではありますが、このことを除けば、他の物質とあまり変わらないことになります。息を吹き込まれていることは特別なことなのかもしれませんが、このことを除けば、他とあまり変わらないという観点から観るなら、そんなに特別ではないとも言えるかもしれません。
 私たちは天や地や他の動植物と同じで、神の被造物に過ぎません。神の御前では、何の誇れる物も持ち合わせていません。しかし、私たちには命の息が吹き込まれています。旧約の預言者たちや詩人たちは、このことの意味がよくわかっているから、「天よ。聞け。地も耳も傾けよ。」(1:2)と言ったのだろうか。それに比べて私たちは命の息が吹き込まれていることの意味をあまりに知らな過ぎるのではないだろうか。そんな思い巡らしを私は昨晩していました。
 そして、昨日はちょうどノーベル物理学賞の受賞者の発表がありましたね。ヒッグス粒子の存在を理論的に予想した二人の研究者に与えられるということでした。私はヒッグス粒子がどのようなものなのか、もちろん素人レベルの知識しか持っていません。なんでも、ビッグバンの直後に、この火の玉が冷却して行く過程でヒッグスの海が生成して、これによって物質に質量が生じたとかいうことですね。
 ビッグバンというと、クリスチャンは創世記1章3節で神が「光があれ」と仰せられたことと重ねる人が多いと思います。私もそうです。創世記の記述を、どこまで忠実に信じるべきかということに関しては、人それぞれだと思いますが、私は神が創造主として万物を創造し、創造の過程に神の意志が働いていたということさえしっかりと信じていれば、現代の科学で定説になっていることは、そのまま受け入れるべきだろうと考えています。物質が生成して、そして生命が誕生する過程において、神を信じない人はそれらの過程は偶然に進行したと考えるでしょうし、神を信じる私は、それらの一つ一つの過程に神の意志が介在していると考えます。
 昨年、加速器の実験でヒッグス粒子が存在することは間違いないとの結論に達して、今年、ヒッグス博士らにノーベル賞が授与されることになるという、現代物理学の世界で着々と新しい発見が為されて行くことは素晴らしいことだと思います。

3.霊の解明への期待
 こうして、天と地、そして私たちの体を構成している物質のことがどんどんわかって来るなら、やがて霊についても、かなりわかってくるかもしれません。私は、理性では解明しきれない部分が霊の世界であろうと思うからです。先ほども言ったように、創世記2章に、神はちりで人を形造り、息を吹き込んだとあります(創世記2:7)。昔は、このちりの正体もわかっていませんでしたから、いろいろなことがゴチャゴチャになってしまっていました。しかし、今はかなりの部分がわかって来ました。私たちは、このチリは原子から成り、原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成り、これらの素粒子はクオークから成り、そしてヒッグス粒子により質量が与えられているということまでわかるようになりました。そうして、霊でしか説明できないであろう部分は、どんどん狭められて来ています。ただ、物質で解明されているのはまだ5%だけで、あとの95%は暗黒物質と暗黒エネルギーだなどと言われると、霊のことがはっきりするのは、まだまだ先かなという気はします。それでも、科学の進歩は霊の解明にも寄与するだろうと私は考えます。科学が進歩すればするほど神は信じるべき存在ではなくなると考える人も多くいるようですが、ぜんぜん、そんなことはないんですね。そういうことを考える人は霊的な経験が無い人で、霊的な経験がある人なら、科学がどんなに進歩しても神が信じるべき存在であることに揺るぎはないと考えるでしょう。

4.三枚におろした魚のたとえ
 いま私はヨハネの福音書についての本を書いています。そして、このことが、私たちが霊についてもっと良く知るためのきっかけ作りとならなければならないと強く感じています。霊を解明する上で私が進めて行かなければならないと考えていることは、クリスチャンが地上生涯のイエスにこだわり過ぎる傾向を改めて、もっと地上生涯以外のイエスに目を向けるように訴えることだろうと思っています。
 このことを進めるに当たって、私は一つの例えを思い付きました。ヨハネの福音書を、そして引いてはキリスト教の信仰を魚に例えることです。もともと魚はキリスト教のシンボルのようなものになっていますね。それは、魚のイクスス(ΙΧΘΥΣ)というギリシャ語の5文字が、イエス・キリスト・神・息子・救い主のギリシャ語の頭文字になっていることから、魚がキリスト教のシンボルになっているのですね。
 私はこの魚をヨハネの福音書に当てはめてみたら、どうだろうかと今考え始めています。魚を三枚におろすと身の部分が2枚と骨の部分になりますね。この三枚におろした魚の骨の部分が「イエスの地上生涯の時代」で、2枚の身の部分が「旧約の時代」と「使徒の時代」です。骨は大事ですが、私たちが味わうべきは身の部分です。私たちは御父と聖霊の働きにも、もっと目を向けるために「旧約の時代」と「使徒の時代」に、もっと、しっかりと目を向けなければならないと思います。そうすることで、今も生きておられる三位一体の神の働きをしっかりと理解できるようになるのだと思います。それなのに、大部分のクリスチャンは骨の部分ばかり、ありがたがっているのではないでしょうか。

おわりに
 どんな事でも骨格がしっかりしていなければ全体が成り立ちません。キリスト教もイエスの地上生涯あってのことですから、この骨格の部分が最も大切であることは言うまでもありません。しかし、そうであっても骨だけでなく、身の部分も含めてトータルに大事にすることで、神の霊のことがもっと良くわかるようになるのだと思います。多くのクリスチャンが、もっともっと地上生涯以外のイエスに目を向けるなら、私たちは、きっと、神さまのことをもっと良く理解できるようになるだろうと私は期待しています。
 お祈りいたしましょう。
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