インマヌエル沼津キリスト教会

十字架から二千年の2033年までに平和を
沼津市今沢34番地 Tel.055-966-2612

11月1日礼拝プログラム

2015-10-29 19:34:11 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月1日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 第1聖日 聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  朝つゆの園を        378
 交  読  詩篇51篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  雨をふりそそぎ       308
 讃 美 ③  恵みの高き嶺        414
 聖  書  ローマ5:12~15
 説  教  『アダムの違反と罪』小島牧師
 讃 美 ④  けがれ果てた身に      306
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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イエスの問い掛けに応答し続ける(2015.10.28 祈り会)

2015-10-29 08:05:36 | 祈り会メッセージ
2015年10月28日祈り会メッセージ
『イエスの問い掛けに応答し続ける』
【ヨハネ1:35~40】

はじめに
 先週の祈祷会では、イエス・キリストと私との交わりがどのようにして深められて行ったかを、いくつかの段階に分けて考えてみました。簡単に振り返っておきます。

 ①教会の会堂の中の雰囲気や教会員との交わりを通してイエスを感じる(※無意識)。
 ②教会の説教を聞いてイエスを感じる。自分で聖書を読んでも今一つわからない。
 ③聖書の共観福音書を読んで、福音書の時代のイエスとの交わりを感じる
 ④ヨハネの福音書を読んで、イエスが今の自分に語り掛けていることを感じる
 ⑤ヨハネの福音書のイエスは「旧約の時代」の預言者たちと共にいることを知る
 ⑥ヨハネの福音書のイエスは「使徒の時代」の使徒たちとも共にいることを知る
 ⑦ステレオ写真の立体視のように「旧約の時代」と「使徒の時代」の霊的イエスを同時
  に見ることで永遠の中にいるイエスとの交わりを、よりリアルに感じるようになる。
 ⑧ヨハネの福音書の「イエスの愛弟子」とは、実は自分のことであると知る。

 きょうは④の段階、すなわちヨハネの福音書を読んで、イエス・キリストが今の自分に語り掛けていることを感じることについて、もう少し深めてみたいと思います。

今の私に語り掛けるイエス
 私自身の経験を振り返って考えみると、イエスさまが今の私に語り掛けて下さっていることを十分に感じていないなら、イエスさまが「旧約の時代」の人々にも「使徒の時代」の人々にも語り掛けていることには非常に気付きにくいだろうと思います。それゆえ、先ずはイエスさまが今の自分に語り掛けて下さっていることを、繰り返し深く味わうことが格段に大事であろうと思います。
 ヨハネの福音書のイエス・キリストのことばの中で、私が最も身近に感じ、イエスさまが自分に語り掛けていると感じる箇所は、これまでにも何度も開いてきた箇所ですが、1章38節の、
「あなたがたは何を求めているのですか」
と39節の、
「来なさい。そうすればわかります。」
です。
 この二つのことばは、ヨハネの福音書におけるイエスさまの第一声と第二声です。この第一声の後には、「ラビ。今どこにお泊りですか」という二人の弟子の質問が入り、第二声の後には「そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った・・・」という説明があります。イエスさまの「あなたがたは何を求めているのですか」が自分に向けられていると感じない間は、二人の弟子の質問や、その後の状況説明が、とても気になりますが、不思議なことに、「あなたがたは何を求めているのですか」が自分に向けられていることを意識するようになると、イエスさまがどこの宿に泊まるのかということは、ほとんど気にならなくなります。それは、イエスさまが自分のうちに住み始めるということなのかもしれません。
 そして、「あなたがたは何を求めているのですか」というイエスさまの問い掛けが気になるようになると、「自分は何を求めているのか」を考えるようになります。すなわち、イエスさまの問い掛けに応答するようになります。そして、いろいろと考えてみるのですが、これは、すぐにわかるような問い掛けではないということが、わかって来ます。そこで、自分が何を求めているのかはイエスさまに付いて行けばわかる、それが「来なさい。そうすればわかります」なのだということがわかって来ます。

イエスの問い掛けに応答し続ける
 ここが、まずヨハネの福音書の理解の大きな分岐点になります。イエスさまの問い掛けが紀元30年頃の弟子たちに向けられたものか、2015年の自分に向けられたものなのか。これは、どちらが正しいかとう問題ではないでしょう。読者の霊性の整えられ方によって、どちらとも取れますから、どちらも正しいと言えるでしょう。しかし望ましいのは、イエスさまが2015年の自分に向けて問い掛けているのだと理解することでしょう。
 そして、このイエスさまの「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」は一回だけ応答すれば良いのではなく、常に応答し続けるべきものなのだと思います。なぜなら私たち一人一人の人生や教会のことなどは、刻々と情勢が変化して行くからです。これらの情勢に変化が生じた時に、自分で答を出すのではなく、常にイエスさまの問い掛けに応答することで答を探って行くべきです。
 例えば私たちの教会の会堂問題で言えば、当初は今回の土地のことなど一切、考えていませんでした。次に、今回の土地の一部を買う案が浮上して来ましたが、その段階では地主さんに関する情報を私たちは持っていませんでした。そして法務局で登記簿を取得したことで地主さんが誰かはわかりましたが、地主さんがどのような意向を持っているかは一切わかりませんでした。それが町内会の懇親会を経て地主さんの意向がわかり、教団の年会を経て教団も反対ではないことがわかりました。そうして、教会内で検討を始めたわけですが、臨時教会総会での承認に漕ぎ着けるまでには実に様々なことがありました。このように、会堂問題一つ取っても、情勢は常に変化し続けて来ましたし、これからも変化し続けて行きます。このような時に、私たちは何を求めているのか、そしてイエスさまは私たちにどう動いて欲しいとお考えなのか、御心を求めることが常に必要です。それが「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」に応答し続けることだと言えるでしょう。

思い掛けない場にもいるイエス
 こうして常にイエスさまの問い掛けに応答し続けていると、思い掛けない場にもイエスさまの姿があることを感じることがあります。たとえば以前話したことがありますが、私がちょっと疲れた状態でJRの東海道線に乗っていた時、向かいに座っていたご婦人が野田秀先生の『教会生活のこころえ』を熱心に読んでいるのを見ました。この時に私は、このご婦人の中に住んでおられるイエスさまが、疲れていた私を励まして下さったのだと感じました。聖霊が注がれた者の中にはイエスさまが住んでおられますから、聖霊が注がれた者を通してイエスさまが人に語り掛けるということがあるのですね。
 このことを霊的に実感できるなら、旧約の時代の預言者の中にもイエスさまがいることを感じることができるだろうと思います。私がよく例に挙げる、ヨハネ4章のサマリヤの女にイエスさまが水を所望する場面(ヨハネ4:7)は、旧約の時代の預言者エリヤがやもめに水を所望する場面(Ⅰ列王17:10)と重ねてあるというのは、そういうことです。預言者エリヤには聖霊が注がれていましたから、エリヤの中にはイエスさまが住んでいました。そのイエスさまがエリヤを通して、やもめに「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませて下さい」(Ⅰ列王17:10)と言ったのですね。
 このことを理解するためには、先ずは私自身の中にイエスさまが住んで下さっていて、常に「あなたは何を求めているのですか」と問い掛けられていることを意識している必要があったのだなと、私はこの頃になって、ようやくわかって来ました。「旧約の時代」にも「使徒の時代」にもイエスさまがいることを多くの方々に理解していただくには、先ずは自分自身の中にイエスさまがいて下さり、常に応答している必要があるのだろうと思います。

おわりに
 さてしかし、こんなことを語ると、いかにも私の霊性が整えられているように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。私自身もそんなに整えられた者ではありません。だからこそ、私は霊的に整えられやすい雰囲気を持つ、聖別された礼拝堂が是非とも必要だと思っています。
 祈祷会では、これからもしばらく、イエスさまと出会うことについて、考えて行きたいと思います。
 私たちの一人一人がいつも、イエスさまとの深い交わりを持つことができますよう、お祈りしたいと思います。
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初代への祝福の約束(2015.10.25 教団創立記念礼拝)

2015-10-26 10:45:18 | 礼拝メッセージ
2015年10月25日教団創立記念礼拝メッセージ
『初代への祝福の約束』
【創世記15:6~10、17~21】

はじめに
 先週の10月21日は私たちの教団のイムマヌエル綜合伝道団の創立記念日でした。今年は創立70周年の節目の年であるため、3月の年会ではこの70周年を記念する合同礼拝が行われましたし、教団の各教区での夏や秋の聖会では、70年の歩みについて共に分かち合う時を持つことになっています。静岡教区の静岡聖会は11月3日に行われますが、磐田教会の竿代忠一先生が話をして下さって教団の70周年について分かち合う時間を持つことになっています。

教団への主の豊かな祝福
 私たちの教団は終戦の年の1945年に設立されましたから今年で70周年になります。今年は戦後70年ということで、戦争と平和の問題、そして国会の安保法制の問題で、とにかく「70年」という数字を格別に意識した年であったと思います。そして、この度、教団の70回目の創立記念日を迎えて、この教団が戦後の日本と共に歩んで来たのだということを改めて思います。神様は私たちの教団の働きを豊かに祝福して下さいました。
 私が特に驚くのは、神学校の働きです。もちろん教団の目覚しい働きで驚くことは他にもたくさんありますが、それらについては大概は人づてに聞いたり、書かれたものを読んだりして知ったことですから、その凄さを今一つ実感できていないように思います。しかし、神学校は私自身が神学生として横浜のキャンパスで3年間身を置いた場所ですから、その凄さがわかります。いま既にある神学校を運営するだけでも大変なことなのに、何も無かった所から新たに神学校を設立して運営を軌道に乗せ、多くの献身者を育てて世に送り出したことは、本当に凄いことだと思います。私も3年半前の2012年3月の聖宣神学院の卒業式で卒業証書をいただきました。私たちの代は第60期の卒業生ということで切れ目の良い数字であり、しかも私の卒業証書は第500号となっていましたから、私が500人目の卒業生です。500人以上の伝道者を世に送り出しという、この聖宣神学院の働き一つを取っても、神様がいかに豊かにこの教団を祝福して下さったかが、良くわかります。そうして教団の総理の働きは初代の蔦田二雄先生から福田約翰先生、朝比奈寛先生へと引き継がれて行き、今の代表の藤本満先生は八代目に当ります。
 初代総理から二代目、三代目へと続いて行く様子は、イスラエルの信仰の父と言われるアブラハムを初代として二代目のイサク、三代目のヤコブへと引き継がれて行った様子と少し似ている気もします。というわけで、(少しこじつけ気味ではありますが、)ここからは、先々週の説教で触れた、アブラハムが信仰によって義とされたことの話の続きをすることにしたいと思います。

不思議な契約の儀式
 先々週の説教の中で私は、アブラハムの信仰を義と認めた神が、アブラハムと不思議な契約の儀式を行ったことに触れ、この不思議な儀式については後日説明すると話しました。きょうは、神様がアブラハムと結んだ、この不思議な契約の儀式について説明します。
 聖書朗読で司会者に読んでいただいた、創世記15章を開いて下さい。時間の関係で6節から読みましたが、その前に神様はアブラハムを外に連れ出して、5節のように仰せられました。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」
 そして、さらに仰せられました。
「あなたの子孫はこのようになる。」
 神様はアブラハムの子孫が星の数のように増えると仰せられました。そして6節、

15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラハムが神様の仰せられたことを信じたので、神様はこのアブラハムの信仰を義と認めました。そして7節と8節、

15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。」
15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」

 アブラハムがこのように言うのを聞いた神様は、9節と10節でアブラハムに契約の儀式の準備をさせました。つまり、神様の約束は単なる口約束ではなくて、契約に基づいた約束であるということです。ここで現代の私たちが結ぶ契約について、考えてみましょう。契約を結ぶ時には、多くの場合、契約を破るとどうなるかが、契約書に書かれています。例えば賃貸のアパートの部屋を借りる時など、家賃は前の月までに支払うこと、もし支払わなければ、厳しい場合には退居すること、などの事柄が書かれていたりします(例えばの話ですから、書かれていないこともあります)。
 この創世記15章の不思議な契約の儀式も、そのようなものでした。これは当時のメソポタミア地域で行われていた契約の儀式だそうです。どうして、このような異教の儀式で契約が結ばれたのか、律法がまだ授けられていなかったからでしょうか、その理由ははっきりしませんが、それはともかく行われた儀式は9節以下のようなものでした。9節と10節、

15:9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。

 神様はアブラハムに三歳の雌牛と雌やぎと雄羊を持って来させて、さらにその動物たちを真っ二つに切り裂くように命じました。そして、それらを並べさせました。これが、どのような並べ方か、抽象化した図を週報の3ページに載せておきました。インターネットには、もっとリアルな画像もありましたが、少々気味が悪くて週報にはそぐわないものですので、このような簡単な図にとどめておきます。
 ご覧のように切り裂いた動物たちは二列に並べられて、その間には通路が設けられます。そして、契約者は、この間の通路を通るのだそうです。その意味するところは、もし契約を破ったら、私はこのように切り裂かれても構いませんということなのだそうです。
 ここで17節に飛びます。

15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

 これは、神様がここを通ったことを表わしているのだそうです。そして18節から21節、

15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、
15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

 これは、アブラハムの子孫のイスラエルの民がエジプトを脱出してカナンの地に入り、その後に、これらの地が与えられる約束ですね。実際、モーセに率いられたイスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから脱出し、その後ヨシュアに率いられてカナンの地に入り、そうしてダビデ・ソロモンの父子の時代にイスラエルの王国が繁栄しましたから、神様の約束は成就したのでした。しかし、実はここにある主の約束には、それ以上の意味が隠されています。

神の側からの一方的な契約
 もう一度、17節をお読みします。

15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

 この、切り裂かれた動物たちの間を通って契約を結んだ者は、先ほども話したように、もし契約を破ったら、このように切り裂かれても構わないということを示すために、ここを通るのだそうです。そして17節は神がこの通路を通ったことを記しています。しかし、創世記15章にはアブラハムがここを通ったことは書かれていません。この時、アブラハムは12節のように深い眠りに襲われていましたから、アブラハムは幻の中で、このたいまつの光景を見ていたのかもしれません。いずれにしてもアブラハムがこの通路を通ることはありませんでした。つまり、この契約は神様の側からの一方的な契約でした。それは神様からの一方的な愛と言っても良いでしょう。もし人間であるアブラハムがこの通路を通っていたら、早い段階で切り裂かれてしまったことでしょう。人間は神さまとの約束をしっかりと守れないことを私たちは旧約聖書から知っています。一方、神様は約束に忠実なお方です。しかし、十字架で肉が切り裂かれたのは神の側でした。罪を犯さない神様が罪を犯した人間に代わって十字架に掛かり、肉が切り裂かれました。
 この創世記15章の契約の儀式は、イエス・キリストの十字架の予表でもあるのですね。神様は一方的な契約によって十字架の救いを約束して下さいました。これが神様の契約に対する真実さ、すなわち神の義です。

契約に対して真実な神様
 これまでに何度か見たローマ書1章の16節と17節を、もう一度見ましょう。交代で読みましょう。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 17節に、福音のうちには「神の義」が啓示されていると記されています。この「神の義」とは、契約への神の真実さです。契約に関して真実である神様はアブラハムへの約束を守ってアブラハムの子孫であるイスラエルの民族を祝福しました。そしてまた、イエス・キリストをこの地上に送り、すべての人類の祝福を約束して下さいました。神様は契約に真実なお方ですから、約束は必ず守ります。そして、この祝福の約束を信じる者には永遠の命が与えられます。
 神様は、まずイスラエルの民を祝福して、そして全人類を祝福して下さいます。ここで注意したいのは、神様のイスラエルへの祝福は、決して過ぎ去った過去のことではないということです。神様がイスラエルを祝福したのは旧約聖書の時代の古い時代のことだと考えるべきではありません。まして、旧約聖書は古い書物だから旧約聖書を熱心に読む必要はないと考えるとしたら、それは大きな誤りです。旧約聖書は現代の私たちにとっても非常に重要な書物であり、必要不可欠な書物です。なぜなら私たち異邦人のクリスチャンはイスラエルに接ぎ木された野生種だからです。

私たちは接ぎ木された野生種
 ローマ書の11章を見ましょう。お読みします。

11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。

 17節にある野生種のオリーブとは、私たち異邦人のクリスチャンのことです。私たちはイスラエルのオリーブに接ぎ木されて、そこから豊かな養分が供給されています。大事なことは、過去に養分の供給を受けたのではなく、現在も養分の供給を受けているということです。
 このことを私たちは、つい忘れがちになってしまうのではないかと思います。旧約聖書は古い書物だから、そこから受ける養分は無いということはありません。旧約聖書からこそ、私たちは豊かな養分を受けています。

おわりに
 きょうは教団創立記念礼拝です。毎年、教団創立記念日の10月21日の前後に、教団創立記念礼拝を持つように教団から通達があります。それは、教団の創立時から豊かな養分を吸収するようにということだと思います。70年前の教団創立時と現代とでは、いろいろと違って来ている面もありますが、私たちは今でも教団創立時の信仰から、豊かな養分を受けています。それは、この沼津教会も同じです。先週の召天者記念礼拝では、この教会の48年間の歴史を簡単に振り返りました。私たちは、この沼津教会の設立当時の信仰からも、豊かな養分を吸収したいと思います。時代の変化に合わせて行かなければならない点もありますが、変わらずに保って行かなければならない点も多くあります。その信仰を受け継いで行くことができますように、お祈りしましょう。
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10月25日教団創立記念礼拝プログラム

2015-10-22 04:51:07 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

10月25日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

10月 第4聖日 教団創立記念礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  主イエスのみそばに     441
 交  読  ローマ4:9~25
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主にまかせよ        386
 讃 美 ③  日ごと主イエスを      393
 聖  書  創世記15:6~10、17~21
 説  教  『初代への祝福の約束』小島牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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聖と宣(2015.10.21 祈り会)

2015-10-22 04:46:51 | 祈り会メッセージ
2015年10月21日祈り会メッセージ
『聖と宣 ~教団創立記念日に当って』
【使徒1:8】

はじめに
 きょうの10月21日は教団の創立記念日です。次の聖日礼拝は教団創立記念礼拝を予定していますが、きょうは正に創立記念日の当日ですので、きょうは教団の旗印である「聖と宣」について心に浮かんで来ていることを話すことにしたいと思います。
 教団の旗印である「聖と宣」とは何かを、ほとんどの皆さんはご承知の方のことと思いますが、「聖」は聖書と聖化の聖であり、宣は宣教の宣、つまり宣べ伝えることです。きょうは先ず、この「聖」と「宣」は密接に関連しているということを、お話ししたいと思います。

宣べ伝えることが聖書の学びを深める
 最近私はよく、私自身がどのように聖書の学びを深めて行ったのか、その過程についてよく考えます。私は多くの方々と聖書の恵みを分かち合いと願っています。聖書の奥深さを知れば知るほど、この奥深い世界を多くの皆さんと分かち合いたいものだと思います。それで、私がどのようなプロセスを経て、今に至っているかを思い返してみています。すると、私の聖書理解のほとんどは神学校に入ってから深められたのであり、一般の信徒であった時は、あまり深められていなかったことに、今さらのように気付かされています。
 神学校に入ったら、どうして聖書の理解が深められたかというと、それは授業を受けたりチャペルで多くの説教を聞いたということもありますが、もっと大きかったのは寮の祈祷会で説教をしなければならなかったということです。説教をするためには聖書を深く学ばなければなりませんから、自発的に学んだというよりは、やむを得ず深く学ばなければならなくなった、ということになります。私は神学校に入る前に教会学校で教えた経験がありませんでしたから、このようなことになりました。沼津教会の祈祷会のメンバーの皆さんは、かつて教会学校で教えていたり、今現在教えて下さったりしていますから、教えるための学びができています。人に聖書について教えるには、先ず自分が学ばなければなりません。教会学校の教師や説教の御用がなくても学びが深まれば良いのですが、なかなかそうはいきませんね。ですから教会の皆さんの聖書理解のレベルを高めるには、多くの皆さんに教会学校の教師をしていただくのも良いのだろうなと思うことです。そういう意味でも教会学校の働きは本当に大切だと感じます。教会学校は単に子供たちの学びのために必要なだけでなく、教会員の聖書理解のレベルを上げるためにも、教会学校の働きはとても大事だと思います。すぐ近くには幼稚園もありますから、私たちがこれから建てる新会堂は、子供たちにも教会の中に入ってみたいと思ってもらえるような建物になると良いなと思います。礼拝堂と牧師館とが別々になることは、その点では良いのではないかなという気がします。
 このように、人に教えること、宣べ伝えることで聖書の理解が深まりますから、「聖」と「宣」は本当に密接に関連していると思います。そして聖書の理解が深まるなら聖化、すなわち聖霊による聖めへの理解も深まります。きょうの祈祷会では教会学校の働きのためにも、お祈りしたいと思います。

イエスとの交わりが深まる過程
 さて、ここから話が若干飛びますが、聖書の恵みをどのように宣べ伝えるべきか、いま私が考えていることを話させていただきます。それは、私たちとイエス・キリストとの交わりを、どのようにして深めて行ったら良いだろうかということです。これまで私は、どうしたらヨハネの福音書の奥深い世界を多くの方々と分かち合うことができるのか、そちらの方面からいろいろ考えて来ましたが、少しアプローチの仕方を変えてみることにしようと思っています。それでわかって来たことは、イエスさまとの霊的な交わりを深めて行くためには、私の経験から言っても、いくつかの段階を踏んで行かなければならず、いきなり深めようとしても無理なのだろうということです。
 私のイエス・キリストとの交わりの経験を段階的に書くと、次のようなものになります。

 ①教会の会堂の中の雰囲気や教会員との交わりを通してイエスを感じる(※無意識)。
 ②教会の説教を聞いてイエスを感じる(自分で聖書を読んでも今一つわからない)。
  霊想書の助けを借りてイエスを感じる。

 ・・・・・・(以下は神学校に入って以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ③聖書の共観福音書を読んで、福音書の時代のイエスとの交わりを感じる
 ④ヨハネの福音書を読んで、イエスが今の自分に語り掛けていることを感じる

 ・・・・・・(多くの人々は、④までの段階にとどまっているのではないか)・・・

 ⑤ヨハネの福音書のイエスは「旧約の時代」の預言者たちと共にいることを知る
 ⑥ヨハネの福音書のイエスは「使徒の時代」の使徒たちとも共にいることを知る

 ・・・・・・(次の⑦と⑧の恵みを味わうために、⑤と⑥を知る必要があるが、
       ⑦と⑧の恵みを知らなければ、⑤と⑥を説明しても、「だから何なの?」
       で終わってしまう。これがクリアすべき最大の難問である)・・・・・

 ⑦ステレオ写真の立体視のように「旧約の時代」と「使徒の時代」の霊的イエスを同時
  に見ることで永遠の中にいるイエスとの交わりを、よりリアルに感じるようになる。
 ⑧ヨハネの福音書の「イエスの愛弟子」とは、実は自分のことであると知る。

 上記の⑦と⑧の恵みを多くの人と分かち合うことができるようになれば、私たちは一つになり、世界の平和の実現に向けて歩んで行くことができると私は信じています。
 しかし、上述したように、⑦と⑧の恵みを知る前に、⑤と⑥の段階で「だから何なの?」ということになると、⑦と⑧に進んでもらうことはできません。
 ですから、これからの私の課題は、⑦と⑧の恵みを十分に知らない段階でも、多少は⑦と⑧の恵みについて意識してもらって、⑤と⑥を理解してもらえるように工夫することだろうと思っています。

おわりに
 最後に、もう一度、使徒1:8をご一緒に読みましょう。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 私たちはイエス・キリストの証人として、人々にイエス・キリストを宣べ伝えて行きます。そのためにはイエスさまとの交わりを、もっともっと深めて行きたいと思います。そのことをイエスさまご自身が助けて下さいますよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りしましょう。
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魂の本来の居場所(2015.10.18 召天者記念礼拝)

2015-10-19 07:38:55 | 礼拝メッセージ
2015年10月18日召天者記念礼拝メッセージ
『魂の本来の居場所』
【ルカ15:11~24】

はじめに
 インマヌエル沼津教会の召天者記念礼拝に、ようこそいらして下さいました。
 私がこの教会に着任してから、私にとっては3回目の召天者記念礼拝です。おととし、初めて召天者記念礼拝に臨んだ時は、着任してからまだ半年後のことで、ご遺族にお会いするのも初めてでしたし、この教会の主だった行事、例えばクリスマスの諸行事や元旦礼拝、教会総会などもこれからという時期でしたから、正直言って、まだこの教会のことを、ほとんどわかっていない状態でした。そういう中でご遺族をお迎えして、この講壇からどのような話をしたら良いのか、よくわからないままで、この召天者記念礼拝に臨んだというのが、正直なところでした。しかし、あれから2年が経ち、この教会で私も様々なことを経験し、教会の皆さんとの一体感を感じるようになって来ました。きょうは先ず、その一体感ということから話を始めます。
 私は、最近、教会員同士の一体感というものを、ものすごく大切に考えるようになって来ました。一体感とはキリスト教の言葉で言うと、「御霊による一致」、すなわち神の霊によって一つになっていることを感じることです。そして、ご遺族との交わりは、この教会員同士の一体感が先ず核としてあって、その核を母体として為されるものです。教会員同士の一体感とは、現役の教会員同士だけではなく、先に亡くなられて天に召された信仰の先輩方との一体感もあります。その教会員の一体感が母体となってご遺族の皆さんと交わることになります。既に亡くなられて天に召された信仰の先輩方、それは週報の3ページ目にお名前を記した方々です。そのような既に亡くなられた方々と一体感を感じることができるのだろうかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それはできます。なぜなら、これは「御霊による一致」だからです。肉の体の肉的な一致ではなく霊的な一致ですから、できるんですね。このことは、後でまた話します。

近況の報告
 さて、おととしの召天者記念礼拝の時の私はまだ、この教会のクリスマスも経験していませんでしたから、現役の教会員の皆さんとの一体感もまだまだという段階でした。ですから、先に天に召された先輩の方々との一体感を感じることは、もっと難しいことでした。しかし、あれから2年が経ち、私もこの教会でいろいろなことを経験させていただいて、現役の教会員の皆さんだけでなく、先に天に召された先輩方との一体感も感じるようになって来ています。
 私が現役の教会員の皆さんと先に天に召された先輩方との一体感を感じるようになったのは、この2年間でこの教会の会堂の問題が大きく進展したことによります。もっと細かく言うと、会堂問題が大きく進展したのは、この1年あまりのことで、さらに言えば今年の3月以降に劇的に進展しました。そうしてご遺族の皆様には今回の礼拝の案内状の中でお知らせした通り、先月の9月6日に私たちの教会は、新たに土地を購入する計画を教会総会で承認し、翌々日の9月8日には教団による承認も得ることができました。その土地の地主さんとは近々、仮契約を結ぶ予定であり、年内にその土地のアパートの従人が退去して、その後にアパートが取り壊され、更地になった後で正式に売買契約を行うことになっています。そして設計に一年ぐらいを掛けて2017年に着工できたらと願っています。2017年はこの教会の設立50周年の年ですから、この年に献堂式を執り行うことができるなら、最高に感謝であると考えています。

沼津教会の48年の歩み
 今話した通り、沼津教会は再来年の2017年に設立50周年を迎えます。ここで、これまでの48年間の教会と教会の会堂の歩みを簡単に振り返っておきたいと思います。週報に「沼津教会の足跡」という半ページの紙を挟み込んでおきましたので、そちらをご覧になって下さい。この歴代牧師と会堂の足跡の表は、私がこちらに着任したばかりの頃にいただいたものです。
 1967年より前には静岡教会の松村導男先生が静岡からバイクに乗ってM兄のお宅まで来て下さっていたのだそうですね。そして1967年に専任の牧師として小田先生が教団から派遣されて沼津教会が正式に発足しました。そして、ご覧のとおりの先生方が、この沼津教会の代々の牧師を務めて来ました。教会の会堂はM兄のお宅から始まって、その後、4つの借家時代を経て、1983年にこの今沢の物件を取得して移って来ました。当初、この建物と土地の所有権は銀行から融資を受けていた関係で前任の牧師の廣瀬先生にありましたが、ローンを完済し、2013年には廣瀬先生が転任になりましたので、私のほうで所有権移転の手続きをさせていただいて、今現在のこの教会の土地と建物の所有権は、宗教法人としての沼津基督教会にあります。
 きょういらして下さっているご遺族の関係では、KM姉が召されたのが昭和46年の11月ということですから、ちょうど真砂町の借家から東間門の借家に移った頃のことでしょうか。また、翌年に召されたお父様のKI兄は病床で洗礼を受けられたと伺っています。この病床での洗礼を授けたのは、昨年天に召された高島俊夫牧師です。この高島牧師の時代に東間門から五月町に移り、さらにまた高沢町に移っています。
 W兄のお父様のWK兄が教会に来ておられたのは真砂町の借家の時代だそうですね。恐らくM兄のお宅にも通っておられたのでしょうね。お父様のK兄は今年の2月に天に召されたということですが、W兄はご両親と共に教会に通っていたそうで、先週、40年以上ぶりで教会を訪れて下さり、本当に感謝なことでした。記録によればW兄はN姉と同じ日に洗礼を受けているのですね。お二人とも昭和45年に洗礼を受けておられます。
 KS兄が天に召されたのは昭和61年、1986年ということですから、この今沢の会堂に移ってから3年後ということになります。そしてM兄とM姉が召されたのがそれぞれ平成7年と12年ということですから、この今沢の会堂に移ってからそれぞれ12年後と15年後ということになります。K兄、M兄姉もこの会堂におられたことを思うと感慨深いものがあります。
 今年天に召された方には、WK兄の他に、WS姉がおられます。WS姉は十和田教会員として天に召されましたから、沼津教会員として召されたわけではありませんが、2年半前まではこの教会の教会員でしたから、召天者のリストに入れさせていただきました。そこの壁にW姉のお写真があり、この沼津教会の50周年記念事業のために、お祈り下さっていましたから、本当に感謝に思います。

霊的に一つにされるとは
 さて、32年前にこの会堂に移った時、この会堂は築5年の物件でしたから、今年で築37年になり、特に屋根の老朽化が進んでいます。今年の7月から私は屋根の雨漏り対策の修繕の作業を根本的にやり直しています。前任の廣瀬先生が独自のやり方で屋根の修繕を全面に亘って施して下さっていましたが、もはやそれでは雨漏りを防げなくなってしまいましたので、全部やり直しています。少しずつ丁寧にやらないと、やり直した場所でまた雨漏りがするために、一日の作業ではそんなに多くの面積はできません。そんなわけで、今年の7月からこの10月に掛けて、私はもう数え切れないくらいの日数、屋根に上がっています。一昨日の金曜日と、その前の日の木曜日も屋根に上がっていました。まだまだこれからも、年内いっぱいは何度も屋根に上がります。それほど私は、この会堂の屋根の修繕に手間ひまを掛けていますから、今や私はすっかり、この会堂に愛着を感じています。それで、この会堂の取得に尽力され、またこの会堂で教会の活動をして来られた教会の皆さん、それは既に天に召された方々と現役の皆さんとの両方ですが、両方の皆さんとの一体感を以前に増して感じるようになっています。それに連れて、借家時代やM兄姉のご家庭で礼拝を捧げていた時代のことにも、同じ沼津教会の者として親しみを感じるようになっています。私は借家時代のことやM兄姉のお宅のことは直接には経験していませんが、御霊がその頃のことをも私にも感じさせて下さいますから、御霊にあって一つとされていることを感じます。
 キリスト教の教会では、霊的に一つであるということを非常に大切にします。肉的には離れていても、霊的には一つです。例えば私はこの今沢の教会に住んでいますが、皆さんは、この教会からは離れた所に住んでいますね。ですから、私たちは肉的には離れています。しかし、霊的には一つとされています。十和田の廣瀬邦男先生・善子先生方や下関の廣瀬いずみ先生、そしてそれぞれの教会の皆さんとも、教会は異なりますが、キリストにあって霊的に一つとされています。

私たちは未来の教会員とも一つ
 霊的なことにおいては、いま話したように場所的に離れていても私たちは一つにされていますし、時間的にも私たちは一つにされています。時間的に私たちは過去にこの教会に通っていて既に天に召された方とも一つにされています。そして私たちは未来の教会員とも一つにされています。
 ここで私が初めて教会を訪れた頃のお証をさせていただきます。私は川崎市の高津教会の出身で、この高津教会を初めて訪れたのは14年前の2001年のことでした。先週、私は東京で関東聖化大会という大きな集会が開かれていましたのから、月曜日と火曜日に一泊二日で東京に行って来ました。それで月曜の晩は、高津教会の近くのホテルに泊まりました。その高津教会の近くの地域は、以前私が住んでいた場所ですから、今でも愛着を感じています。それで私は東京方面で一泊以上の用事がある時は、高津教会の近くのホテルによく泊まります。先日の月曜日の夜に聖化大会の会場から高津のホテルに向かう時には、高津教会の牧師の藤本先生とも偶然に一緒になりましたから話をすることができて感謝でした。
 そしてその晩、私はホテルに入ってから高津教会を初めて訪れた時のことを思い返していました。私が初めて高津教会を訪れた時、そこにとても落ち着くものを感じて、また来ようと思いました。そして何回か高津教会に通ううちに、私はこここそが私が探し求めていた自分の本来の居場所だったのだ、ということに気付きました。そして私は、ここに導かれるために高津の地に住み始めたのだと思いました。私が高津教会の近くのアパートに住み始めたのは、本当に偶然でした。それは私が初めて高津教会を訪れた2001年より6年前の1995年のことでしたが、私は東京で働くことが決まってアパート探しをしました。その東京の職場に通勤できる距離の場所なら、どこに住んでも良く、結局決めたのが高津駅の近くのアパートでした。そのアパートに決めた時は近くに教会があるとは全然知りませんでしたし、キリスト教にも全く関心がありませんでした。しかし、不思議な導きで6年後の2001年に高津教会を初めて訪れ、そして間もなくして、こここそが自分の本来の居場所だったのだということに気付きました。
 すると私は、肉的には2001年に初めて教会を訪れたわけですが、霊的には既に1995年に高津教会の皆さんと一つになっていたと言ってよく、もっと遡るなら、私が生まれた時から一つにされていたのかもしれません。私は2001年よりも前から、未来の高津教会員として高津教会の皆さんと既に一つにされていたのですね。いまの私は沼津教会員ですから高津教会員ではありませんが、同じイエス・キリストを主と仰ぐキリスト教会の教会員として、高津の皆さんとも変わらずに一つとされています。

もともと私たちは一つ
 このように私たちの魂は、時間によらず過去や未来の区別なく霊的に一つにされます。きょうの聖書の箇所にも、そのことが書いてあります。ルカの福音書15章の11節以降に、有名な「放蕩息子の帰郷」の記事があります。これは霊的な魂の話であると読むべきでしょう。私たちの魂はもともと父親の家にいます。その父親の家から私たちの魂は離れてしまい、遠い外国に行ってしまいますが、再びまた戻って来ます。これは魂の話です。ただし、いきなり魂の話をすると難しいので、その前に魂ではない、羊と銀貨の話をイエスさまはして下さっているのだと読み取りたいと思います。
 まず、きょうの礼拝の最初の聖書交読で読んだ、羊と銀貨の話を簡単に見ておきましょう。時間がありませんから飛ばし飛ばしで読みます。4節を見て下さい。お読みします。

15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 ここで大事なことは、いなくなった羊はもともと一つにされていた百匹の中の一匹であるということです。もともと一つでしたが一匹が迷い出てしまいました。そして、その迷い出た羊を見つけたら、大喜びでその羊をかついで帰って来て、友だちや近所の人たちと一緒に喜び合います。
 次に8節をお読みします。

15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

 ここでも、なくなった銀貨が、もともと十枚で一つにされていたことが書かれています。その十枚の中からなくなってしまったので、女の人は一生懸命に探します。そして、9節にあるように、見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、いっしょに喜びます。

 この羊と銀貨の話の場合は霊的にではなくて肉的な話です。そして、三つ目の放蕩息子の話は霊的な話です。羊と銀貨の話は、人間の私たちの肉的な目で見た肉的な話です。例えば銀貨の場合、床に落ちるとコロコロと転がり、とんでもない所に入り込みます。ですから見つけた時には、どうしてそんな所に入ってしまったの?と思います。その転がる過程を私たちは知りません。羊も同様です。どうしてそんな所に迷い込んでしまったの?という場所から見つかります。私たちは羊がどのような過程を経てそこに迷い込んだは一切わかりません。聖書のこの記事にも途中のことは一切書かれておらず、ただ見つかったことだけが書かれています。

もともとの本来の居場所に気付く
 しかし、放蕩息子の場合は、神様の霊的な目で見た霊的な話です。ですから放蕩息子が父親の家を出てから、どこで何をしていたのかが、全部書いてあります。神様の目には、人がどこで何をしているかが、全部見えているのですね。肉的な私たちの目には途中経過はわからなくても神様の目には見えています。
 そうして、もう一つ放蕩息子が羊や銀貨の場合と違うのは、羊の場合は探している人が5節にあるように、かついで連れ戻しているということです。或いはまた銀貨の場合は8節にあるようにあかりを付け、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜すということです。しかし放蕩息子の場合、父親は放蕩息子の居場所を知っているにも関わらず、その場所には行かないということです。しかし、実は霊的にはそばにいて、常に声を掛け続けていると言って良いでしょう。だからこそ、放蕩息子は我に返ったのだと思います。17節に「我に返った」とありますね。そして我に返った放蕩息子は、もともとの自分の居場所である父親の家に戻ることにしました。そして20節、

15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

 羊の場合と違って、父親は息子を捜しに外国まで行ってかついで帰って来ることはしませんでした。父親は家でずっと待っていました。でも心配でしたから、遠くの方をいつも見ていたのですね。では、そんなに心配なら、どうして外国まで行って、かついで帰って来なかったのでしょうか。それは、そんな風に強制的に連れ戻しても、放蕩息子は結局はまた出て行ってしまうからでしょうね。大切なことは、我に返って自分で気付くことです。父親の家こそが本来の自分の居場所なのだと気付くなら、再び出て行くことはありません。しかし、自分で気付かずに強制的に連れ戻されたのなら、きっとまた出て行ってしまうことでしょう。
 私自身の話をもう一度するなら、2001年に高津教会を初めて訪れた私は、こここそが私の本来の居場所だと自分で気付きましたから、その時に我に返ったのだと言えるでしょう。しかし、それ以前から私は既に高津教会の一員とされていたのでした。私は本来の私の居場所に戻っただけなのでした。

おわりに
 教会とは、そういう不思議な所です。過去・現在・未来の教会員が霊的に一つになっている不思議な場所です。そんな風に時間の区別が無いのでキリスト教会は2千年もの間、受け継がれて来ることができたのでしょう。この沼津教会も48年の時を刻み、まもなく50周年を迎えようとしているこの時に、神様の不思議な働きによって、隣の土地に新しい会堂を建てる準備が整えられています。そうして沼津教会もまた受け継がれて行きます。本当に感謝なことです。
 きょう私たちがここで一つとされて召天者記念礼拝を捧げることができたことを、心から感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
(ルカ15:20)
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10月18日召天者記念礼拝プログラム

2015-10-15 20:44:13 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

10月18日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

10月 第3聖日 召天者記念聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  いつくしみ深き       432
 交  読  ルカ15:1~10
 祈  祷
 主の祈り
 讃 美 ②  私たちは一つ        450  
 讃 美 ③  主よ、みもとに近づかん   407
 聖  書  ルカ15:11~24
 説  教  『魂の本来の居場所』   小島牧師
 讃 美 ④  人生の海の嵐に       443
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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内臓されている神との通信装置(2015.10.14 祈り会)

2015-10-15 08:18:33 | 祈り会メッセージ
2015年10月14日祈り会メッセージ
『人に内臓されている神との通信装置』
【イザヤ53:1~12】

はじめに
 一昨日の月曜日の午後から東京に行き、一昨日と昨日、中目黒教会で開かれていた聖化大会に出席して来ました。中目黒教会の会堂の中がどのような作りになっているのか、今までは気にしたことはありませんでしたが、いま私たちの教会が会堂設計に取り掛かろうとしている時期だけに、自然と中目黒教会の中の作りに目が行きました。それで初めて気が付いたのですが、3階の礼拝堂の中の作りは対称形になっていないのですね。正面の右側に聖歌隊が立つ場所があり、講壇は左寄りにあることに初めて気付きました。これまで中目黒教会の礼拝堂には、少なくとも10回は入ったことがあると思うのですが、これまでは全然気付きませんでした。またオズワルト先生の聖会のメッセージにも恵まれ、翌日のイザヤ書についての講義も良い学びになりましたから感謝でした。

神の語り掛け
 さて今日は、今回私が東京に行った時に神様に新たに語りかけられたことがありましたから、そのお証をさせていただこうと思います。
 月曜日の夜、私は高津教会の近くの溝の口のホテルに泊まりました。東急線で中目黒から溝の口に向かう時、乗換駅の二子玉川駅で藤本先生と偶然にお会いしましたので、再開発で劇的に変わった二子玉川駅周辺の姿を二人でホームから見ながら、その変わりようについて藤本先生から聞きました。
 それで私は翌日の昨日、溝の口から中目黒に向かう時に二子玉川駅で途中下車して、その変貌ぶりを見ることにしました。そして本当にびっくりしました。先ず、二子玉川に新しく109シネマズが出来たと聞いていましたので、見に行きました。二子玉川は私がかつて住んでいた高津のマンションから歩いてでも行ける距離にあります。こんな近くに映画のシネコンができるなんて、私が住んでいた頃に出来ていたら、どんなに良かったかと思いました。
 そして驚いたのは109シネマズが入っているビルは再開発された二子玉川地区の中のビル群のほんの一部で、他にも商業施設が入った大きなビルがたくさんありました。そしてその商業ビル群のエリアを通り抜けるとタワーマンションが何棟もニョキニョキと建っているエリアがありました。そのタワーマンション・エリアのふもとには公園があり、恐らくマンションの住人であろう親子がたくさんいました。また、タワーマンションと商業施設方面との間でも人々が行き来していました。
 そして、マンションの住人が行き来する様子をベンチに座りながら見ている私はと言えば、雨の日には教会の二階の床にバケツや洗面器を並べて、雨漏りに備える生活をしているわけです。今年の夏は、雨漏りの修繕を試行錯誤でやり直し始めていましたから、やり直したら却って悪くなってしまった時期もあり(今は万全の方法を見出したので大丈夫ですが)、豪雨の時には1時間でバケツに水が半分以上たまるくらいに、ひどい雨漏りがしていました。こういう雨漏りがする家に住んでいる私とタワーマンションに住んでいる人とでは、何と違う暮らしをしていることかと、しばし私は呆然としていました。
 そうして呆然としている私に主が語り掛けて下さったように感じました。それは私が何のために伝道者の職に召されたのかということです。そして現代的な生活をしている人々にも届くメッセージを発信することが私の役割なのではないかと示されました。それで、きのうからきょうに掛けて考えたことを、少し話させていただきます。

高性能通信装置のスマホ
 現代的な生活のツールと言えば、スマホやタブレットですね。思い返してみると、私が東京の大学の留学生センターに職を得て高津に住み始めた1995年は学内で有線によるインターネットが使われ始めていた時期です。私が着任した正にその時期に留学生センターの天井裏にイエローケーブルが引かれました。工学部や理学部には、もっと早くにケーブルが引かれていましたが、留学生センターは少し遅れていて私が着任した1995年にインターネット用のイエローケーブルが引かれました。
 しかし、イエローケーブルだけがあってもインターネットに接続はできません。そのイエローケーブルにトランシーバーという通信装置を噛み付かせて、そこからまたケーブルを垂らしてハブにつなぎ、ハブからパソコンにつなぐ必要があります。それで私は教官室と教室の天井裏にあるイエローケーブルにトランシーバーを噛み付かせる作業を、時に学生に手伝ってもらったこともありましたが、ほとんどは一人で行いました。1階の各教室と2階の教官室を合わせると、全部で15前後の部屋にトランシーバーを取り付けたと思います。そして教官の先生方のパソコンにインターネットの設定をして差し上げました。
 しかし、やがてこのイエローケーブルは数年の間でもっと高速のケーブルに置き換えられ、その後はパソコンの無線機能を使ってケーブル無しで通信ができるようになりました。このパソコンによるインターネットは大学が先行していましたが、すぐに各家庭でも使われるようになり、今はパソコンと同じようなことがスマホやタブレットでもできます。最初のスマホであるiPhoneが米国で発売されたのが2007年、日本は2008年ですが、2008年は私が高津教会から献身した年です。それで今、私はスマホの例えで聖霊の働きを語ることを示されています。

スマホより高性能の通信装置が内臓されている人類
 スマホを得た人類は2007年以降、いつでもどこでも(正確には「どこでも」ではありませんが)高性能の通信ができるようになりました。さてしかし、人類には元々スマホよりもっと優れた通信装置が内臓されています。それは神との通信装置ですが、アダムが善悪の知識の木の実を食べた時に故障してしまいました。その故障は聖霊が注がれることで回復します。旧約の時代は預言者には聖霊が注がれていましたから、この通信装置を使うことができました。
 そしてペンテコステの日以降はイエス・キリストを信じるなら誰でも通信装置が回復して神との通信ができるようになりました。ところが人類はこの通信の性質をしっかりと理解できていないので、使いこなせていません。それゆえ神の平和のメッセージが十分に届かずにいて争い事が絶えないのだと思います。
 理解できていない性質の一つに、電磁波のような波で例えるなら2つのスリットを通った波が干渉を起こすように、聖書の言葉は旧約と新約の間で干渉を起こしていることです。干渉を起こしているゆえに私たちは先ほどご一緒に読んだイザヤ書53章に十字架のイエスの姿を見、また出エジプトの時にイスラエル人の家のかもいと門柱に塗られた過越の羊の血にも十字架のイエスの姿を見ることができるのですね。
 そして旧約聖書の記事の中にイエスの時代の様子を見ることができるのと同様に、福音書の中にも旧約の時代とさらには聖霊が注がれた後の使徒の時代の様子を見ることができます。このように旧約と新約の二つのスリットを通る神のメッセージが干渉を起こすために、聖霊を通して現代の私たちもこのメッセージを干渉した状態で受信することができます。
 しかし量子力学の二重スリットの問題に例えるなら私たちは神のメッセージの多くを、旧約か新約の片方のスリットにしか注目していないために、干渉を起こさないメッセージを受信しているようです。イザヤ53章や出エジプト記以外でも、旧約と新約の間では干渉を起こしているのに、それを見落としているようです。昨年から私が話している、ヨハネの福音書の愛弟子とは実は私たちのことであるということも、私たちに元々内臓されている通信装置がスマホを遥かに上回る高機能を持ち、時間を越えた通信ができるのだということを知るなら、理解していただけるだろうと思います。

おわりに
 以上、限られた時間内ですので、わかりづらかったかもしれませんが、きのう二子玉川で愕然として以来、今朝までに考えたことを話させていただきました。今後はこの話をさらにわかりやすくして、現代的な生活をしている方々に届くメッセージとして行きたいと思います。沼津は二子玉川とは違うではないかと思われる方もおられるかもしれませんが、沼津でも現代の無線通信技術の恩恵を受けていない人は誰もいないだろうと思います。また、自分でスマホを持っていなくてもスマホを見たことがない人は、恐らくいないだろうと思います。それほどスマホは巷に溢れています。歩きスマホをしている人などを見ると、それは病的とも言えます。ですからスマホも良いけれど、私たちに元々内臓されている神との通信装置の故障を直すことの大切さを訴えて行きたいと思います。
 お祈り致しましょう。
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アブラハムとイエスと私の信仰(2015.10.11 礼拝)

2015-10-12 04:49:04 | 礼拝メッセージ
2015年10月11日礼拝メッセージ
『アブラハムとイエスと私の信仰』
【ローマ1:16~17、3:21~28】

はじめに
 ローマ人への手紙の学びを続けます。きょうは「神の義」に、ある程度踏み込んで行くことにしたいと思います。これまでは「神の義」の周辺を歩き回っていただけで、「神の義」の領域には踏み込んでいませんでしたが、きょうは少し踏み込んで行くことにしています。とは言え、「神の義」の奥深さは容易にわかるものではありませんから、きょうのメッセージを聞けば「神の義」がすべてわかるようになる、というわけにはいかないでしょう。「神の義」とは何だろうかということは、私たちが信仰生涯を通じて常に学び続けて行かなければならないことであろうと思います。

霊的な解釈とは
 もう一つ言っておきたいことは、「神の義」は霊的に読み取るべきものであるということです。神は霊的な存在ですから、「神の義」も当然、霊的に読み取らなければなりません。では、霊的な解釈とは、どのようなものでしょうか。霊的であるとか霊的でないとか言いますが、「霊的である事」と「霊的でない事」との違いは一体どこにあるのでしょうか。霊性に関することは、とても漠然としていますから答えるのが難しいと言わざるを得ません。しかし、それでも何とかして私はこの違いを言葉で上手く説明できるようにならなければならないと感じています。私はヨハネの福音書を多くの人々が霊的に読み取ることができるようになるなら、この世界はもっと良い方向へと向かって行くだろうと信じています。しかし、今のところ私は霊的なことについてわかりやすく説明する方法を見出すことができていません。ですから今回私は、ローマ人への手紙の学びを通じて、聖書を霊的に読み取るとはどういうことかについてわかりやすく説明できるようになりたいと願っています。そうしてここまで学びを進めて来て、幸いなことに以前よりはわかりやすく説明できそうな気がして来ています。
 いま私は、こんな風に考えています。聖書を霊的に読み取るとは、離れた事柄でも「離れている」と読み取らないで「一つである」として読み取るということです。「離れている」とは色々な意味においてであり、「時間的」に離れているとか「空間的」に離れているということはもちろん、「言語的」にも「人物的」にも様々に離れている物事です。
 肉としての私たち人間は、皆バラバラです。私たちは肉的にはこの会堂にいる兄弟姉妹方とでさえ、バラバラです。同じ時代に生き、同じ教会に集う私たちでさえ肉的にはバラバラなのですから、ましてペテロやパウロやダビデやモーセと私たちは、肉的には何の関係もありません。しかし、神様は一つであるお方です。霊的な存在である神様は時間も空間も超越している一つの存在です。それ故にイエス・キリストを信じて聖霊が注がれている私たちは御霊によって霊的に一つになることができるのですね。肉的にはバラバラであっても霊的には主にあって一つになることができます。そして一つになることができるのは同じ時代を生きる私たち同士だけではなく、ペテロやパウロやダビデやモーセとも私たちは主にあって霊的に一つになることができます。

違う言語の人々とも一つ
 ですから私たちは違う言語を使用している人々とも一つです。私たちは日本語を使用していますが、神である主とつながっている人々となら英語、中国語、韓国語を話す人々とも一つですし、聖書の時代のギリシャ語・ヘブル語で話す人々とも一つです。1世紀のギリシャ語を話す人々も、たとえヘブル語がわからなくてもギリシャ語訳の旧約聖書がありましたから、ギリシャ語で旧約聖書を読んだり、朗読を聞いたりすることができました。
 ヨハネの福音書1章1節の出だしの「初めに、ことばがあった」の「初めに」は、創世記1章1節の有名な出だしの「初めに、神が天と地を創造した」の「初めに」と同じですね。これは英語でもギリシャ語でも同様です。英語でもヨハネ1章1節と創世記1章1節は同じ「In the beginning」で始まり、ギリシャ語でもヨハネ1章1節と創世記1章1節はどちらも「エン アルケー」で始まります。ですから旧約聖書と新約聖書とを同じ言語で読むことができるなら創世記1章1節とヨハネ1章1節とは一つのことを言っているのだということを、どの言語を使っている人でも気付くことができます。創世記が書かれた時代とヨハネの福音書が書かれた時代とは遠く離れていますが、私たちは一つのこととして読み取ることができます。これが霊的に聖書を読むことの代表的な例と言えるでしょう。
 そして今日は、ローマ人の手紙を見ながら、いくつかの離れた箇所を一つのこととして読み取るということを、してみたいと思います。このことによって私たちの霊性が少しでも整えられるなら感謝だと思っています。具体的には、きょうのメッセージのタイトルは『アブラハムとイエスと私の信仰』ですから、アブラハムの信仰とイエスの信仰と私の信仰を一つのこととして見てみたいと思っています。

神の義とは
 まず、アブラハムの信仰から見て行きたいと思います。ここで重要になるのが「神の義」です。いま私はe-ラーニングでローマ人への手紙を学んでいますが、この学びの中で講師の岩上先生は、この「神の義」を「契約関係における神の真実さ」と解釈する学説があることを紹介しています。きょうは、この解釈に沿って説明をしますが、では「契約関係における神の真実さ」とは一体どういうことでしょうか。これを説明するのには神がアブラハムと結んだ契約の実例を見るのが良いと思います。ですから後で創世記のアブラハムの箇所を見ることにしますが、その前にきょうの聖書交読でご一緒に読んだ、ローマ4章を少し見ておきたいと思います。ここでパウロは、神がアブラハムの信仰を義と認めたことについて書いています。ローマ4章の19節から22節までを交代で読みましょう。

4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

 パウロが書いたように神様はアブラハムの信仰を義としました。そして創世記には神様がアブラハムに子孫の祝福を約束したことが書かれています。今度は創世記15章を見ましょう。まず15章の5節と6節をお読みします。ここで主は、アブラハムを外に連れ出して仰せられました。5節と6節、
 
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 そしてアブラハムの信仰を義と認めた主は、9節以降で契約の儀式の準備をアブラハムに命じます。この契約の儀式は何とも不思議で興味深いものです。ですから、この契約の儀式については、じっくりと味わってみたいのですが、きょうはその時間がありませんから、別の日に時間を取って説明することにします。
 ですから、この儀式の箇所は飛ばして12節から14節までをお読みします。

15:12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。

 ここにはアブラハムの子孫であるイスラエルの民がエジプトで奴隷になり、そしてそこから脱出することが告げられていますね。そして18節から21節、

15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、
15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

 ここにはヨシュアに率いられたイスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入り、その地が神によって与えられたことが書かれていますね。つまり、アブラハムの子孫であるイスラエルの民の祝福が約束されています。神様は契約によって祝福を約束して下さいました。

イエス・キリストの信仰
 さて、今ここで見たアブラハム個人の信仰がイスラエル民族全体の祝福をもたらしたことを、今度はイエス・キリストお一人の十字架が人類全体の祝福をもたらしたことと一つにして考えたいと思います。どちらの祝福も、神様は契約の形で示されました。それは神様が契約関係において真実なお方だからです。神様はイスラエル民族全体の祝福と人類全体の祝福を契約の形で約束されました。そして神様は契約関係に真実なお方ですから約束は必ず実現します。この神の契約関係における真実さが「神の義」であるということを、きょう私たちは覚えたいと思います。
 きょうの聖書箇所はローマ1章の他に、もう1箇所ローマ3章があります。ここにも「神の義」のことが書かれ、またイエス・キリストのことが書かれています。ローマ3章の21節と22節を、今度は交代で読みましょう。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 いま読んだ21節と22節の両方に「神の義」が出て来ます。この「神の義」とは先ほど言ったように「契約関係における神の真実さ」と解釈することを今日は学んでいます。神様は契約に真実なお方ですから、私たちの祝福は約束されています。そして、この祝福はアブラハム個人の信仰、そしてイエス・キリストの信仰によってもたらされました。ここで細かいことですが、元のギリシャ語では22節に何が書かれているかを見ておきたいと思います。22節の「イエス・キリストを信じる信仰」と書いてある箇所には、元のギリシャ語を直訳すると「イエス・キリストの信仰」と書かれています。この「イエス・キリストの信仰」を新改訳聖書では「イエス・キリストを信じる信仰」としているわけですが、私はアブラハムの信仰と一つに並べて考えるなら「イエス・キリストの信仰」と直訳のままの方が良いのではないかと思っています。ですから、きょうは「イエス・キリストの信仰」で進めて行きます。

私たちは元々一つであることへの気付き
 さて、きょうのメッセージのタイトルをもう一度見ていただくと「アブラハムとイエスと私の信仰」としています。ここまでアブラハム個人の信仰がイスラエル民族全体の祝福をもたらし、イエスさま個人の信仰が人類全体の祝福をもたらしたことを話しました。そして、このようにして個人の信仰が全体の祝福をもたらすのなら、私たち一人一人の信仰もまた、全体の祝福をもたらすのだということを、きょう私は言いたいと思います。私たちはイエス・キリストの十字架によって一つとされた者たちです。ですからイエス・キリストを信じるなら、私たちには聖霊が注がれて私たちが霊的に一つとされた者たちであることに気付くことができます。私の信仰によって私が全体の中の一人であったということに気付くことができるのは全体にとって大きな祝福です。なぜなら私が全体の中の一人であることに気付くことで霊の一致が保たれるからです。
 ここで私が何を言いたいのかと言うと、私たちは元々一つであるように造られているのだということです。そして聖霊が注がれるなら、そのことに気付く筈です。ところが実際は私たちはなかなかそのことに気付かずにいて一つになることができません。それは教会においてもそうですし、世界の平和の問題においてもそうです。私たちは元々バラバラであった者たちが救われた後に一つとなるのだと考えがちだと思います。しかし、そうではなくて神様は私たちを一つであるようにお造りになりました。神様は人間をお造りになった時に鼻にいのちの息を吹き込まれました(創世記2:7)。この時点で私たちは一つになるように造られているのですね。私たちは元々霊的に一つになるように造られているのだということに気付くべきです。このことに気付くことが信仰であるとも言えるでしょう。
 パウロは教会はキリストの体であり、私たちは各器官であると書きました。このパウロの言葉も、私たちが元々一つであることを物語っています。

おわりに
 最後にこのパウロの言葉を見て終わることにしたいと思います。ローマ12章の4節と5節を交代で読みましょう。

12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 体は各器官が一つ一つ段々と付け加わっていって体になるのではなく、もともと各器官が一つになっているものが体です。教会も同じでしょう。救われた者が一人一人加わっていって教会が形成されるのではなく、私たちは元々一つとされている全体の中の一人なのですね。私たちの一人一人が自分は元々全体の中の一人なのだと気付きたいと思います。このことに一人一人が気付くなら教会は一致を保つことができ、教会は大きな祝福を受けることができるでしょう。
 お祈りいたしましょう。
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認定トライと信仰義認(2015.10.7 祈り会)

2015-10-09 06:18:28 | 祈り会メッセージ
2015年10月7日祈り会メッセージ
『認定トライと信仰義認』
【ローマ3:21~28】

はじめに
 いまe-ラーニングでローマ人への手紙を学び、インターネット上で意見を交換する中で私が感じていることは、やはり皆さんが当たり前のように普通の時間感覚で物事を考えていることです。つまり旧約の時代があって、その次に新約の時代があるという時間の流れの通りの時間感覚です。
 もちろん、人間はこの時間の流れに縛られていますから、人間の側はこの通りの時間で良いわけです。これは全く問題ありません。しかし、私が問題に感じるのは、多くの人が神様もまた人間と同じ時間の流れの中にいると考えているようであるということです。神様はそうではなく、もっと自在に過去と未来の中を行き来しているというのがヨハネの福音書を通して私たちが学んでいることです。契約も義認(義と認めること)も神様の側で行う行為です。その神様は人間とは異なる時間の中にいることを、もう少し考慮すべきではないかとローマ人への手紙の学びの中で感じています。
 そこで今日は、神様の時間を考慮した上での信仰義認について少し考えてみたいと思います。義と認めるのは神様ですから、人間の私がとやかく言う問題ではないかもしれませんが、Aさんのこともあり、Aさんのことを気にされている方もおられますから、信仰義認について考えてみたいと思わされています。つまりAさんのことを神様は義と認めたであろうかということです。もちろん、これは神様の側が決めることですから、私たちにはわからないことです。わからないということが大前提ですが、その上で少し考えてみたいと思っています。なお、聖書箇所は信仰義認のことが多く書かれているということでローマ3章を選びましたが、きょうはこの箇所について特に学ぶことはしません。

ラグビーの認定トライと信仰義認
 さて、信仰義認について考えるヒントとして、いったん聖書を離れて、ラグビーの認定トライを考えましょう。いまラグビーのワールドカップがイギリスで開催されていますね。日本代表が予選リーグで大健闘していてニュースでも大きく取り上げられていますから、テレビでニュースをご覧になった方も多いことと思いますし、中には私のように試合の中継をテレビ観戦した方もおられるかもしれません。先日は日本代表とサモアの試合があり、日本は前半に認定トライで得点を取るという場面がありました。ラグビーのトライというのは、相手陣地のゴールの領域にボールを接地させることです。普段よく見るのは、選手が走って行って相手のゴール領域に飛び込んでボールを接地させる姿です。その他にもスクラムトライというトライがあります。スクラムの中にボールをキープしたままで押し込んで行き、相手のゴールラインを越えた所までボールを運べればスクラムトライになります。先日の日本とサモアの試合では、日本がスクラムで押し込んで行き、ゴールラインの近くまで行きましたが、サモアのスクラムがつぶれてしまったためにゴールラインを割ることはできませんでした。しかし、審判が日本のスクラムの圧力が圧倒的に強かったことを認め、もしスクラムがつぶれなければトライできていたとして認定トライの判定を出しました。つまり、実際にはトライしていなくても審判の目にはトライした姿が見えていたということです。
 これを信仰義認に置き換えるなら、実際に信仰告白に至らなくても神様の目に信仰告白する姿が見えているのなら義と認定して下さるのではないかと思うのです。では、信仰告白していなくても、どのような状態であれば神様には信仰告白の姿が見えているのでしょうか。

個人の信仰による全体の祝福
 次の聖日の礼拝ではローマ人への手紙を見ながらアブラハムの信仰とイエスさまの十字架を並べて考えてみたいと思っています。パウロは神様がアブラハムの信仰を義と認めたことをローマ人への手紙に書いています。創世記15章にそのことが書いてありますから、次の礼拝では創世記15章も開くことを予定していますが、ここにはアブラハムの信仰によってイスラエルの民族の祝福が約束されたことが書かれています。ここから分かることは、アブラハム個人の信仰がイスラエル民族全体の祝福をもたらしたということです。また、イエス・キリストお一人の十字架は異邦人をも含む人類全体の祝福をもたらしました。そして私は、この個人と全体の関係は私たちの一人一人と教会全体との関係においても同様であるのではないかと思うようになりました。つまり私たち一人一人の信仰が教会全体の祝福をもたらすということです。そこから私は、もしある人が教会に自分の居場所があることを感じたなら、将来いずれは洗礼に至ると認定して、その人を義と認めて下さることがあっても良いのではないかと思い至りました。それは私自身の経験によります。
 私が高津教会に通うようになってから、間もなく私は教会こそが私が心の奥底で求めていた自分の居場所であったことに気付きました。無意識のレベルでは、多分一回目に高津教会に行った時から、そのことを感じていたのだと思います。それは8月のことでしたが、そうして私はクリスマスまで一回も礼拝を欠席することなく教会に通い、受洗に至りました。一回目に高津教会を訪れて会衆席に座り、教会の皆さんと一緒に礼拝に参加している中で、私は何となく居心地の良いものを感じ、そうして私はこの教会の一員になりたいと思って洗礼を受けたいと願い、主牧の先生は洗礼を授けて下さいました。罪のことはまだほとんど分かっていなかったのですが、教会の家族の一員となりたいと願い、そのことが認められたのですね。そして一人の受洗が教会全体の祝福であることは皆さんご存知の通りです。

自分が神の家族の一員という気付き
 この私の経験とアブラハムの信仰、そしてイエス・キリストの十字架という個人と全体との関係から、信仰とは自分がこの神の家族の一員とされていることに気付くことではないかと思うようになりました。それは無意識であっても良いわけです。無意識であっても、このことを感じているのなら教会から離れずに、いずれは洗礼に至ります。すると認定トライのことを考えるなら、自分が教会に居場所を見つけたなら、たとえ実際に洗礼に至らなくても神様は義と認めて下さることがあるのではないかと思うのです。
 人間の時間の中では、信仰告白をした時点が義と認められた時となるのだと思いますが、神様の時間の中では、もっと早くに認定されているかもしれない、そのように私は感じています。
 そこでAさんのことですが、Aさんはご自分の聖書を買い求め、私の説教にも耳を傾けて下さっていました。祈祷会が主(おも)でしたが、礼拝にも来て下さいました。それは誘われたから来ていたのかもしれませんが、何度も来て下さいましたから、きっとこの教会をご自分の居場所の一つとして思って下さっていたことと思います。私はそのことで神様が義と認めて下さったのではないかという希望を持っています。
 教会は、救われた者たちが集まって形成される場所と考えがちだと思いますが、もともと私たちはイエスさまの十字架によって一つとされている筈なんですね。ですから教会を訪れる人も、それが初めて教会を訪れるように見えても、実はもともと教会の一員であったのだということです。ルカの15章で100匹のうちの1匹がいなくなり、そして見つかった時に皆は大喜びしました。10枚の銀貨の1枚がなくなり見つかった時も皆で大喜びしました。それは、もともと一つとされていたのに、そこから迷い出てしまったものが見つかったから皆で大喜びしたのでした。
 放蕩息子もまた、もともとは家族の一員でしたが遠い外国に旅立ってしまいました。しかし放蕩息子は我にかえり、自分が父親の息子であり、家族の一員であったことを思い出して故郷に戻りました。そこで父親は祝宴を開き、こう言いました。

「いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」(ルカ15:32)

 Aさんもまた、もともと私たちの家族の一員であったのだと思います。そのことを、Aさんが無意識にでも感じて下さっていたのなら、神様は義と認めて下さっているのではないかと私は希望を持っています。
 信仰義認は神様が決めることですから、これ以上のことは私たちにはどうしようもないことであり、御手に委ねるしかありませんが、神様は時間を超越した中におられて私たち人間のようには時間に縛られているわけではないことは、覚えておきたいと思います。

おわりに
 きょうは認定トライと信仰義認の話をしました。ラグビーに認定トライがあるのですから、信仰義認にも認定による義認がもしかしたらあるのではないかという話をしました。
 繰り返しますが、これは神様が決めることですから、御手に委ねるしかありません。どのような判断が為されるとしても、神様は正しいお方ですから正しい判断を為さいます。この神様を信頼して私たちは神様に付き従って行きたいと思います。
 お祈りしましょう。
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10月11日礼拝プログラム

2015-10-09 06:11:50 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

10月11日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

10月 第2聖日 聖日礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  朝つゆの園を        378
 交  読  ローマ4:16~25
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  神なく望みなく       367
 讃 美 ③  主から受ける安らぎは    440
 聖  書  ローマ1:16~17、3:21~28
 説  教  『アブラハムとイエスと私の信仰』小島牧師
 讃 美 ④  たとえば私が        395
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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信仰から信仰へ(2015.10.4 礼拝)

2015-10-05 06:27:52 | 礼拝メッセージ
2015年10月4日礼拝メッセージ
『信仰から信仰へ』
【ローマ1:16,17】

はじめに
 きょうの礼拝後には会堂問題勉強会を予定していますから、メッセージは少し短めのものを準備しています。
 きょうの聖書箇所のローマ1章の16節と17節は前回の聖書箇所にも含まれていました。実は来週の礼拝メッセージも、この箇所からにしたいと考えています。3回連続で取り上げて、すこしじっくりとこの箇所を味わいたいと願っています。
 この16節と17節を見る前に、前回と前々回もご一緒に読んだ11節を、今日もまたご一緒に読みたいと思います。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
 
 パウロは地上生涯のイエス・キリストからの教えを受けたことはありませんでしたが、復活したイエス・キリストにダマスコ途上で出会ってからは、聖霊を通して霊的なイエス・キリストから霊的な教えを直接受けていました。そうしてパウロの霊性は高いレベルに達して、それを保っていました。そのように高い霊性を持つパウロから見ると、ローマの教会員の霊性のレベルは何とも物足りないものでした。パウロはローマの教会に行ったことがありませんでしたが、ローマの教会の内情については仲間からの報告を聞いただけで、これは何とかしなければならないと思ったぐらいにローマの教会員の霊性のレベルは問題があったことが伺えます。

いつの時代でも困難であった深い信仰の伝道
 この霊性の問題は、当時のローマ教会だけではなく現代のクリスチャンの問題でもあります。欧米のクリスチャンも、日本のクリスチャンも、世界中のクリスチャンが同じ問題を抱えていると思います。ですからローマ人への手紙を書いたパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせた聖霊は、当時のローマの教会員に対してはもちろんのこと、現代の世界中のクリスチャンに対しても、もっと霊的に成長してもらいたいと願っているのだと私は受け留めます。それが霊的に聖書を読むことだと私は考えます。霊的に聖書を読むとは、現代を生きる私たちに向けて聖霊がどのようなメッセージを発しているのかを感じながら読むことと言えるでしょう。
 現代を生きる私たちは、伝道が困難な時代の中にいると言われています。しかし、本当に霊的に深いレベルの信仰を多くの人々が持つための伝道という意味では、いつの時代にあっても困難であったのだと私は思います。日本は70年前の終戦直後から、しばらくの間はキリスト教ブームの中にあったと言われています。多くの人々が教会に押し掛けたそうです。私の父も、その一人でした。しかし、私の父がそうであったように、その当時教会に押し掛けた人々の多くは、やがて教会から離れて行きました。そのように教会から離れた人々は深い霊性が養われることがなかった人々でしょう。すると、戦後のキリスト教ブームの頃というのは、表面的には伝道がしやすい時代であったと言えるのかもしれませんが、本当の意味での信仰の伝道という点では、やはり伝道が困難な時代であったのだと言えるでしょう。深いレベルの霊性を養うための伝道は、今も昔も困難であると言えるのだと思います。
 いま私は「伝道」という言葉を使っています。この「伝道」は信仰の初心者を導くための活動の言葉として私たちは用いています。しかし、このいわゆる「伝道」によって導かれた人々の多くが、深い霊性が育たずにやがて教会を離れてしまうとしたら、果たしてそれを「伝道」と呼んで良いのかという気がします。伝道という言葉は、もっと深い霊性にまで導くための言葉として用いるべきだという気がします。その深い霊性へと導く伝道のために私たちは工夫を重ねて行かなければならないのだと思います。
 これから新しい会堂を建設する私たちは、是非とも、人々を深い霊性へと導くことができる伝道活動を行いたいと思います。そのためには、まず私たちの霊性が深められなければなりません。そのために、このローマ人への手紙の学びが祝されることを願っています。

霊的に聖書を読むとは
 さて、先ほど私は、ローマ人への手紙を書いたパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせた聖霊は、当時のローマの教会員に対してはもちろんのこと、現代の世界中のクリスチャンに対しても、もっと霊的に成長してもらいたいと願っていると私は受け留めると言い、そのように聖霊が現代の私たちに向けて発しているメッセージを感じ取ることが、霊的に聖書を読むことなのだと言いました。このことについて、もう少し説明しておきたいと思います。
 皆さん、よくご存知の聖句だと思いますが、第二テモテの3章16節と17節(新約聖書p.416)をご一緒に読みたいと思います。

3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 16節に「聖書はすべて、神の霊感によるもの」とあります。パウロがテモテに宛ててこの手紙を書いた当時、「聖書」とは旧約聖書のことでしたが、新約聖書も同様です。旧約聖書も新約聖書も、すべて神の霊感によるもので、神が聖書の記者に霊感を与え、聖書の記者はその霊感を感じて、それぞれの書や手紙を、それぞれの時代に書きました。モーセ五書を書いたと言われるモーセは約3500年前に、詩篇の詩の多くを書いたと言われるダビデは約3000年前に、パウロの手紙は約2000年前にというように、それぞれの記者が聖書の書を書いた時代は異なります。しかし、それぞれの記者に霊感を与えた聖霊は一つであり、永遠の中におられますから現代の私たちとも共にいて下さり、聖書を読む時には霊的な導きを与えて下さいます。モーセやダビデやパウロに霊感を与えた聖霊は私たちにも霊感を与えて下さっているのですから、聖書の書物は当時の人々に向けられて書かれただけでなく、現代の私たちに向けても書かれているということを読み取らなければならないと思います。

浅い信仰から深い信仰へ
 そして、きょうの聖書箇所からも私たちは聖霊によって現代の私たちに宛てられたメッセージを読み取りたいと思います。ローマ1章の16節と17節を交代で読みましょう。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 きょう注目したいのは、17節の「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」という言葉です。「その義」というのは「神の義」のことです。神の義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とパウロは書いています。この「神の義」については、来週学ぶことをしています。その前に、きょうはこの「信仰に始まり信仰に進ませる」について、見ておきたいと思います。
 この「信仰に始まり信仰に進ませる」の箇所は、ギリシャ語では「信仰から信仰へ」となっています。このように単に「信仰から信仰へ」だけですと、わかりにくいので新改訳聖書では「信仰に始まり信仰に進ませる」というように訳しています。
 この「信仰から信仰へ」を現代のクリスチャンである私たちは、どう受け留めるべきかということに関して私は、「浅い信仰から深い信仰へ」と受け留めたいと思います。「浅い信仰から深い信仰へ」とは、「霊的に浅い信仰から霊的に深い信仰へ」ということです。先ほど言った戦後のキリスト教ブームの頃のことで言えば、多くの人は浅い信仰にとどまっていました。そうではなくて、もっと深い信仰へと進んで行かなければならないということです。
 浅い信仰であっても救われているのですから大きな恵みではありますが、しかし、浅いレベルの信仰にとどまるのなら、極端な言い方をすれば、それは神社の神を信仰しているのと、あまり変わらないレベルと言えるでしょう。もちろんキリスト教の聖書の神を信仰の対象とするのと神社の神を信仰するのとでは根本的に違いますから両者は大きく異なります。しかし信仰のレベルということで言うなら、たとえキリスト教の聖書の神を信仰していても浅いレベルにとどまって礼拝を捧げているのなら、レベル的には神社に参拝しているのと、あまり変わらないと言っても過言ではないでしょう。イエス・キリストを信じるなら誰にでも聖霊が注がれます。しかし、せっかく聖霊が注がれているのに、その聖霊の恵みに気付かないでいるなら、信仰のレベルとしては神社に参拝するのと大きくは変わりません。神社には何万回お参りしても聖霊が注がれることはありません。ですから聖霊の恵みに気付くことなく礼拝を捧げているとしたら、神社への参拝と同じレベルにとどまっているということになります。しかし自分に聖霊が注がれていることの恵みに気付き、それを感じながら礼拝を捧げるなら、霊性は礼拝を捧げる度に深まって行き、さらに大きな恵みをいただくことができるようになります。私たちが伝道する時には、この素晴らしい恵みをも、お伝えできるようになりたいと思います。それを、どのようにお伝えしたら良いのか、私自身も模索している中にありますが、様々に工夫を重ねて行きたいと思います。

旧約の信仰から新約の信仰へ
 ここまで現代に向けられたメッセージの観点から考えました。ここからは聖書の時代に戻りたいと思います。この「浅い信仰から深い信仰へ」について、パウロの時代で言えば、旧約の信仰から新約の信仰へ、ということになるでしょう。このように旧約から新約への移行を示すみことばは、聖書の中では、いくつもの箇所で見出すことができます。
 きょうは2箇所を挙げて、礼拝メッセージを閉じることにします。先ず、ヨハネの福音書1章の16節と17節です。交代で読みましょう。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 この恵みの上にさらに恵みを受けたというのは旧約の律法の恵みの上に、さらに新約の聖霊の恵みを受けたということです。ヨハネの福音書には、この聖霊の恵みのことが書かれています。律法を守る信仰だけでは残念ながら信仰は浅いレベルにしか達することができませんでした。深いレベルの信仰は、すべての人に聖霊が注がれることによって実現しました。
 そして、もう一つの箇所は、これまでに何度も開いて来た箇所ですが、エレミヤ書の31章です(旧約聖書p.1302)。エレミヤ書31章の31節から34節までを、交代で読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 主はエレミヤを通して33節で仰せられました。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」これは聖霊の恵みのことを言っていますね。この聖霊の恵みをいただいていることを霊的によく理解できていないら、私たちの信仰は浅いレベルにとどまったものになってしまいます。

おわりに
 ですから聖書を読む時、私たちは聖霊の恵みを意識しながら読むことができるようになりたいと思います。
 そうして私たちが霊的に整えられて、いつも霊的な礼拝を捧げることができるよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りしましょう。 
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X線的聖霊論(2015.9.30 祈り会)

2015-10-01 13:13:51 | 祈り会メッセージ
2015年9月30日祈り会説教
『X線的聖霊論 ~聖霊による人心と聖書の透視』
【ガラテヤ5:18-23、ヨハネ8:25-30】

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは「X線的聖霊論」で、サブタイトルは「聖霊による人心と聖書の透視」です。
 「X線的聖霊論」などと言うと、私がまたしても変なことを言い始めたと思われるかもしれませんね。しかしこれは、私の霊的な目に見えていることを、何とかして皆さんと分かち合いたいという私の強い願いによって様々に模索している中の一環ですから、ご容赦願いたいと思います。試行錯誤で模索していますから、ダメなら取り下げて、また別のことを考えますが、今度の例えはかなり良い線を行っているのではないかという気がしています。とは言え、かなり良い線と感じるのはいつものことであり、自分ではかなり良いと思ってもあまり理解されないのが常ですから、今度もどうなるかはわかりません。しかしこれまでの繰り返しで少しずつ前進している気がしますので、どうか忍耐をもってお付き合い願いたいと思います。

人心の透視
 今回の例えは、聖霊をX線に例えるものです。ご承知のようにX線は透過力が強いので、人体や物質の内部を透視して見るのに利用されています。特に医療の分野においては、胸部のレントゲン撮影やCTスキャンなどでガン等の病変の発見に役立っています。そうしてガンを早期に発見できれば治療によって命を救うことができますから、人の命を救うこと、すなわち「救命」に役立っています。
 一方、聖霊は人の魂を救うこと、すなわち「救霊」の役に立ちます(魂を救うのですから「救魂」なのかもしれませんが、「救霊」という言葉が使われます)。聖霊にはいろいろな働きがありますが、今回は人の心の中や聖書の中を透視する働きを指摘したいと思います。
 まず、分かりやすい例としてガラテヤ5章の「御霊の実」の箇所を挙げたいと思います。ガラテヤ5章の18節から23節までを交代で読みましょう。

5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 胸部のレントゲン撮影では病変があると影が写ります。そして人の心を聖霊のX線で透視した時に、もし19節から21節に掛けて書いてあるような汚いものが心の中にあるなら、これらが写ることになります。その反対に22節から23節のような御霊の実ができているなら、これらの実が写ります。或いは、御霊の実を持つことはイエスさまのような心を持つことでもありますから、心の中にイエスさまがいるのが写るとも言えるでしょう。

エリヤとエリシャの中にいる霊的イエス
 また聖霊には人の心だけでなく、聖書も透視して見せる働きがあります。聖書の表面の字面だけ見ていてもわからないことが、聖霊の光で透視するなら中身の深い部分が見えて来ます。例えば旧約の時代の預言者の中には霊的なイエスさまがいることが透けて見えて来ます。このことをヨハネの福音書が教えていることは、これまで話して来た通りです。
 例えば、ヨハネ4章でイエスさまがサマリヤの女に水を所望している場面(ヨハネ4:7)では、旧約の時代のやもめに水を所望している預言者エリヤ(Ⅰ列王17:10)の中に霊的なイエスさまがいることが透けて見えます。また、ヨハネ6章の「五千人の給食」の場面では、パン20個と新穀1袋で百人を賄った預言者エリシャ(Ⅱ列王4:42-44)の中には霊的なイエスさまがいることが透けて見えます。旧約の預言者たちには聖霊が注がれていましたから、三位一体の神であるイエスさまもまた預言者の中にいます。
 旧約の預言者の中にはイエスさまがいたということは、ヨハネ8章のイエスさまの言葉からも伺い知ることができます。今度はヨハネ8章の25節から27節までを交代で読みましょう。

8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。
8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
8:27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。

 イエスさまは26節で、「わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです」と言っています。「その方」とは父のことですから、イエスさまは御父から聞いたことをそのまま世に告げています。旧約の預言者も父のことばをそのまま世に告げていますから、預言者の預言はイエスさまが話しているのと同じことだと言えます。例えばエレミヤ書には「主の御告げ」という言葉が繰り返し出て来ます。ですからエレミヤによる預言は、イエスさまが話しているのと同じことです。これが聖霊のX線を聖書に当てると見えて来ることです。

エレミヤの中にいる霊的イエス
 エレミヤ23章を開いて下さい。1節から6節までを交代で読みましょう。ここで注目したいのは「牧者」という言葉です。この「牧者」という言葉は、ヨハネの福音書ではヨハネ10章でイエスさまが「わたしは良い牧者です」という時に使っています。後でヨハネ10章も開きますが、まずエレミヤ23章の1節から6節までを交代で読みましょう。ここには先ず「悪い牧者」のことが書いてあり、次いで「良い牧者」のことが書いてあります。

23:1 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。──【主】の御告げ──」
23:2 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行いを罰する。──【主】の御告げ──
23:3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。
23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。──【主】の御告げ──
23:5 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。
23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『【主】は私たちの正義』と呼ばれよう。

 このようにエレミヤは「主の御告げ」という言葉を繰り返し使い、悪い牧者と良い牧者について預言しました。このエレミヤの中にはイエスさまがいました。そして、そのことはヨハネ10章の記述からも透けて見えます。ヨハネ10章の10節から14節までを交代で読みましょう。

10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

 このヨハネ10章は、預言者エレミヤの中には霊的なイエスさまがいて「主の御告げ」の預言をしていたことを教えてくれています。

エゼキエルとハガイの中にいる霊的イエス
 そうして、これまで何度も繰り返し話していますが、ヨハネ10章40節でイエスさまがヨルダン川を渡った箇所は滅亡寸前のエルサレムから人々が捕囚としてバビロンに引かれて行ったことと重ねられています。ですから、捕囚として人々と共に引かれて行った預言者エゼキエルの中に霊的なイエスさまがいたことが透けて見えます。そしてヨハネ11章の死んだラザロは滅亡したエルサレムのことであり、イエスさまが再びユダヤに戻ってラザロをよみがえらせた箇所は、捕囚から帰還した人々を励ましてエルサレムの神殿の再建を促した預言者ハガイの中に、イエスさまがいたことを示しています。

私たちの中にもいる霊的イエス
 このように聖霊が注がれた預言者たちの中にはイエスさまがいたことを、聖霊のX線は透けて見えるようにしてくれています。そしてイエスさまを信じて聖霊が注がれた私たちの中にもイエスさまがいます。ただし私たちの中にまだ多くの汚いもの、すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興がまだまだ残っているなら、私たちの中にいるイエスさまの姿が透けて見えることはないでしょう。
 しかし私たちの心を聖霊に明け渡してきよめていただくなら私たちの中に御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が形成されて、私たちの中にイエスさまがいることが透けて見えるようになって来ます。

おわりに
 X線には人の体を透過する力があることを用いて人の命が救われているように、私たちは聖霊の力をもっと良く理解して、救霊の働きに用いられたいと思います。そのために聖霊について、もっと良く理解できるようになりたいと思います。そうして、この教会の救霊の働きが進むなら、神様は私たちの教会をますます祝福して下さるでしょう。
 そのために、お祈りしたいと思います。
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10月4日礼拝プログラム

2015-10-01 10:07:17 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

10月4日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

10月 第1聖日 聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  ここにいます主は      375
 交  読  詩篇116篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  けがれ果てた身に      306
 讃 美 ③  雨をふりそそぎ       308
 聖  書  ローマ1:16、17
 説  教  『信仰から信仰へ』小島牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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