インマヌエル沼津キリスト教会

十字架から二千年の2033年までに平和を
沼津市今沢34番地 Tel.055-966-2612

1月1日 元旦礼拝プログラム

2013-12-30 05:38:59 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
1月1日 元旦礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

1月 元旦礼拝順序

 司  会             小島牧師
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖なる 聖なる 聖なる      1
 交  読  詩篇150篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  確かなもとい ただ主に置き 230
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  ヨハネ6:22~27
 説  教  『永遠のいのちに至る食物のために働く』 小島牧師
 讃 美 ④  私を祝して         463
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
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今、この世を支配する者を追い出す(2013.12.29 年末感謝礼拝)

2013-12-30 05:28:19 | 礼拝メッセージ
2013年12月29日年末感謝礼拝メッセージ
『今、この世を支配する者を追い出す』
【ヨハネ12:27~33】

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

はじめに
 きょうの礼拝は年末感謝礼拝です。いよいよ2013年の最後の礼拝となりました。欠けだらけの私の奉仕を皆さんが補い、支えて下さったことに心より感謝いたします。手漕ぎのボートに例えるなら、全員がオールを持って、ここまで漕いで来て、この年末感謝礼拝に辿り着くことができたと感じています。それは、もちろん私たちの主イエス・キリストが私たちに力を与えて下さったからこそ、できたことです。きょうは、このことを神様に心から感謝したく思います。お祈りいたしましょう。

「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
 主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。」(詩篇149:1,4)
(祈り)

 きょうのメッセージのタイトルは『今、この世を支配する者を追い出す』で、中心となる聖句は12章31節の二つ目の文の「今、この世を支配する者は追い出されるのです」です。「この世を支配する者」とは悪魔のことです。悪魔は様々な手を使って私たちが神への信仰を持たないようにします。多くの人々は、この悪魔の働きに妨げられて信仰を持つに至りません。それでも、幸いにも信仰を持つことができた者もいます。悪魔は、そのように信仰を持つに至った者に対しても執拗に攻撃を続けて、信仰から引き離そうとします。悪魔は、様々な汚い者を私たちの心に注入します。それらの例は、先週の礼拝でも言いましたが、イエス・キリストがマルコの福音書の中で言っているようなことですね。イエス・キリストは次のように言いました(マルコ7:20-23)。

7:20 「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 悪魔はこれらの汚いものを人の心の中に注入して、人が神の方を向くことを妨げます。まだ信仰を持っていない人は、それゆえに、なかなか神の存在を信じることができませんし、神を信じた人でも、これらのものが心の中を占拠するなら再び神が見えなくなって、神から離れて行きます。

創り主を信じることを妨げる悪魔
 悪魔はさらに、人が神を創り主であると信じることの邪魔もします。先週の説教では、神を創り主(造り主)であると信じることはキリスト教の根幹であり、極めて大切なことであるという話をしました。
 盗みや殺人が悪いことであることは、信仰を持っていなくてもわかります。社会通念でそのようになっています。しかし、社会通念だけだと突きつめて考えて行った時に、どうして盗んだり人を殺したりしてはいけないのか、そんなに明快ではありません。新聞や雑誌の相談コーナーのような所で、「どうして人を殺してはいけないのですか」という質問をたまに見ることがあります。命の大切さや、周囲の人が悲しむことや、社会秩序のことなど、回答者はいろいろことばを尽くして答えますが、それらの答にも、さらに「どうして?」と突っ込むことができる突っ込み所が満載なように思います。
 しかし、聖書信仰を持つ私たちの場合は、どうして盗んだり人を殺したりしてはいけないかの理由は単純明快です。それは、神が「盗んではならない」(出エジプト20:15)、「殺してはならない」(出エジプト20:13)と言っているからです。 私たちは、この神の戒めを守らなければなりません。なぜなら、神が私たちの創り主だからです。神が私たちに命を与えて下さったのですから、私たちは神の戒めを守らなければなりません。
 この、神が私たちの創り主であるという信仰がしっかりとあるなら、信仰は揺るぎないものになると思います。逆に、この神が私たちの創り主であることを、しっかりと信じることができていないと信仰は揺らぎ易く、神から離れて行き易いと思います。また、神が私たちの創り主であることを信じることができないから信仰を持つに至らないという人も多いでしょう。悪魔は巧妙ですから、私たちが神を創り主として考えることを妨げようとします。

永遠の時間観を持つことを妨げる悪魔
 その悪魔の巧妙な戦略の一つが、私たちが永遠の時間観を持たないようにしていることでしょう。この悪魔の戦略は非常に上手く行っていて、私たちは未だに永遠の時間観を持つに至っていません。私たちが永遠の時間観を持っていないために、神が万物を創造した「初めの時」を遠い過去のことと感じてしまい、信じることを難しくさせています。もし私たちが【過去・現在・未来】が混然一体となった永遠の時間観を持っているなら、神が万物を創造した「初めの時」も、身近な出来事として感じることができますから、神が創り主であることを信じることは難しいことではありません。
 私たちが永遠の時間観を持つに至っていないのは、私たちが【過去→現在→未来】という従来型の直線的な時間観に強力に支配されているからです。人類がこの従来型の時間観の支配から脱出して【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観を持つに至るなら、世の中は相当に上手く行くはずです。報復の連鎖によって戦争を繰り返す世界から脱出して、平和な世界を実現することができるでしょう。しかし、今の所、人類は従来型の時間観にがっちりと支配されています。悪魔の戦略は非常に上手く行っているのですね。ですから、私は、従来型の直線的な時間観が悪魔そのものだとさえ言えるのではないかと思っています。ヨハネ12:31の「今、この世を支配する者は追い出されるのです」の追い出されるべきものは、従来型の直線的な時間観であると私は言いたいと思います。この悪魔の時間観さえ追い出すことができたなら、悪魔そのものを追い出したと言えるほどに、世界は相当に良い方に変わるだろうと思います。

父が既に現した栄光とは何か
 きょうの聖書箇所の中には、私たちがいかに従来型の時間観に支配されているか、が良くわかる箇所が含まれています。従来型の直線的な時間観の悪い所は、過去のことを必要以上に遠い過去にしてしまうことです。永遠の時間観を持つなら何千年・何万年・何億年もの過去や未来のことでも身近に感じることができるはずなのに、私たちは従来型の時間観に支配されていますから、たかが何千年か前の出来事であっても、遠く離れた時代の出来事としてしまっています。その、私たちがいかに従来型の時間観に支配されているかが分かる箇所とは、12章の28節です。私が27節を読みますから、皆さんで28節を読んで下さい。ここは、イエスが人々に向かって話している時に天から父の声が聞こえた箇所です。

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

 28節で天の父は、「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」と言いました。この28節の前半の「わたしは栄光をすでに現した」の「すでに現した栄光」とは、どの栄光のことを指しているでしょうか。皆さんはどの栄光のことだと思いますか。このヨハネ12章の28節の天の父の声の箇所は、イエスが既にエルサレムに入京していて(13節)、十字架に掛かる直前の箇所ですから、ここまでにイエスは弟子たちと宣教の長い旅を続けて来ました。すると、どうしても、父が既に現した栄光を、イエスの地上生涯の出来事から探そうとしてしまいます。それは、当然そうなりますね。このヨハネの福音書の中だけでもイエスは12章に至るまで長い旅をして来ましたし、しかも、このヨハネの福音書は新約聖書の中では四番目の福音書ですから、マタイ・マルコ・ルカの福音書でそれまでに3回、イエスの地上生涯が繰り返されています。また、マタイの福音書の前のマラキ書との間には、400年以上もの空白の期間がありますし、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネはギリシャ語で書いてありますが、その前の旧約聖書はへブル語で書いてあります。ですから、私たちは、この空白の期間を必要以上に長く感じてしまっているようです。
 実は、この28節で父が言った「すでに現した栄光」とは「旧約の時代」の栄光のことなのですが、私たちは皆、「すでに現した栄光」をイエスの地上生涯の中に見出そうとします。12章に至るまでも、ヨハネの福音書のイエスは様々な奇跡を行って見せていますから、その中から「すでに現した栄光」を見出そうとします。12章に近い箇所から順におさらいしておくと、11章ではラザロをよみがえらせ、9章では盲人の目を開き、6章では五千人の給食の奇跡を行い、5章では38年間病気であった人を立って歩かせ、4章では離れた所にいる王室の役人の息子の病気を直し、2章ではきよめの水を良いぶどう酒に変えました。父が既に現した栄光は、これらの奇跡の中のどれのことだろうかと、どうしても考えてしまうでしょう。しかし、実は父が既に現した栄光とは「旧約の時代」の栄光のことです。
 従来型の直線的な時間観だと、「旧約の時代」の出来事は遠い過去の話になってしまうので、「すでに現した栄光」は何かと考えた時、どうしてもイエスの地上生涯の中という非常に近い出来事の中から探そうとしてしまうのですね。しかし、永遠の時間の中にいるなら、「旧約の時代」も身近な出来事として感じられます。

ヨハネ12:28はブレイクスルーの起点
 実は、このヨハネ12章28節は、私がヨハネの福音書の独特の時間構造に気付くというブレイクスルーがあった起点の箇所です。これまでの礼拝説教の中で私は、ヨハネの福音書の永遠の時間観のことを繰り返し、しつこく語って来ましたが、この永遠の時間観に気付くようになった経緯については、まとまった形では話していなかったと思いますから、今日のこの2013年の最後の礼拝という機会に話しておくことにします。
 ヨハネの福音書の背後に「旧約の時代」が隠されていることに私が最初に気付いたのは2011年の6月で、それは私が神学生の4年生で関西の教会にインターン実習生として遣わされていた時のことでしたが、私はそれ以前から、ヨハネの福音書のことが大好きでした。2009年の秋、神学生の2年生の時に、神学院の男子寮での祈祷会の説教でヨハネの福音書からの連講をすることにして、それ以来、この福音書の魅力に魅せられ続けています。翌年の神学生の3年生だった2010年の夏、夏期実習で2ヶ月間、関西の教会に遣わされた時には、私は祈祷会の説教を8回、礼拝の説教を2回担当したと思いますが、全ての説教をヨハネの福音書からしました。それぐらい、私はヨハネの福音書のことが好きでした。しかし、その時にはまだ私も、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同じ、イエスの地上生涯だけを描いた福音書だと思っていました。
 そうして、神学生の4年生になってインターン実習で関西の教会に滞在している時に、これは既に話したことですが、朝、聖書通読でレビ記1章を読み始めて間もなく、涙が溢れて来て止まらなくなるという経験をしました。レビ記は律法のおきての「~しなければならない」、「~しなければならない」ということばが延々と続きますから、それまでの私にとってレビ記は、ただひたすら退屈な書でした。高津教会の一般信徒だった時には、このレビ記のせいで聖書通読に2度失敗していました。レビ記の前の出エジプト記の後半の幕屋の作り方で既に「~しなければならない」のオンパレードが始まっていますから、出エジプト記の段階で既に退屈しています。そして、ようやく出エジプト記の「~しなければならない」が終わったかと思ったら、レビ記でまだ「~しなければならない」が続くので、それ以上読み進める気力が無くなってしまうのですね。私にとって、レビ記とはそれぐらい退屈な書でした。しかし、2011年の6月17日の朝にレビ記を読み始めた時には、そこから父の深い愛が感じられて、涙がボロボロ出て来てしまいました。これは間違いなく聖霊体験であると言えます。私がレビ記で涙するなど、それまでの経緯から考えると考えられないことだからです。これは間違いなく聖霊によって魂が揺さぶられた聖霊体験でした。そうして、私は律法には父の愛がたっぷりと詰まっていることが分かり、律法は恵みなのだということが分かりました。
 このようにして律法は恵みなのだということを聖霊によって教えられたことで私は、それまでヨハネの福音書の中で、どう解釈して良いか分からないでいた箇所が分かり始めました。最初に分かったのは、ヨハネの福音書1章の16節と17節です。お読みします。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 この16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」の、さらに恵みを受ける前の恵みがモーセの律法の恵みだということに確信を持てたのですね。もし律法が恵みではないのなら、16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」は、新約のイエスの恵みを強調する表現として「恵み」を2回繰り返していることになります。しかし、律法が恵みであるなら、モーセの律法の恵みの上に、さらにイエスの恵みを受けたということになります。それで私はレビ記で涙したことによって律法は恵みなのだと聖霊に教えられましたから、16節は、モーセの律法の恵みの上にイエスの恵みを受けたのだと確信しました。
 そして遂に、12章28節の解釈というブレイクスルーのポイントの所に思いが至りました。ブレイクスルーというのは、突き破るという意味で、研究の世界では良く使われることばです。そこを突き破ることで新しい世界が開けた時に、ブレイクスルーがあったという言い方がされます。12章28節の父が「既に現した栄光」については、どの注解書を見ても、それが「旧約の時代」の栄光であると解説している書を私はまだ見たことがありません。しかし、この父が「既に現した栄光」とは「旧約の時代」のことなのだと聖霊体験を通して確信が与えられました。レビ記で涙して天の父の愛を霊的に深く理解したことで永遠の時間観が与えられたのでしょうね。私にとって「旧約の時代」は身近な時代になっていましたらから、父が「既に現した栄光」は「旧約の時代」のことだと確信しました。
 そこまで分かったら、後は芋づる式に次々と、背後に隠された「旧約の時代」のことが見えるようになりました。本当に次々と新しい発見があったので、まさにこういうことを、ブレイクスルーがあったと言うんだな、と実感した幸せな時でした。

従来型の時間観に強く支配されている私たち
 しかし、私は幸せな気分に浸る一方で、人に話しても分かってもらえないことで失望も味わいました。背後の「旧約の時代」の存在理由を上手く説明できなかったので、人にも分かってもらえませんでした。私としては、「旧約の時代」が存在すること自体は、人にも問題なくすぐに分かってもらえると思っていました。そうして、「旧約の時代」が存在するという事実を皆に分かってもらった上で、「旧約の時代」の存在理由については私一人が無い知恵を絞るより、皆で考えるべきだと思っていました。しかし、「旧約の時代」の存在をなかなか人に理解してもらえなかったので、存在理由も自分で考えなければならなくなりました。ただし、その時はまだ私も「使徒の時代」の存在にまでは気付いていませんでしたから、「永遠の時間観」という考え方に辿り着くのは、もっとずっと後のことです。この「永遠の時間観」というキーワードに辿り着くまで私は悶々と悩み続けました。この悶々と悩んだ期間がありますから私は、人がいかに従来型の「直線的な時間観」に縛られているかが、ものすごく良くわかります。私たちは従来型の時間観に支配されていますから、私たちは「永遠の時間観」に気付くことができていません。「直線的な時間観」を私が「悪魔の時間観」であると考えるのは、こういう経緯があるからです。

今が悪魔の時間観を追い出す時
 この「悪魔の時間観」は本当に人々を強力に支配しています。今話して来たように、私が人にヨハネの福音書の背後の「旧約の時代」のことを少し話したぐらいでは全然分かってもらえません。それで、私は少し長めの説明もするようにしたのですが、それでも分かってもらえません。そうして私は、これは本を一冊書かなければダメだなと思うようになり、最近になって、ようやく本一冊分の文章を書き上げました。いろいろと修正しなければならない箇所がありますから、まだ完成とは言えませんが、もう少しで、人に読んでもらえる所まで来ています。来年の1月の後半か2月には人に読んでもらい、コメントをもらって修正を加えることで、何とか出版できるレベルにまで引き上げて、世に出すことができたらと願っています。来年の中頃までには、何とか出版できるところまで辿り着けないだろうかと思っています。そうして、このヨハネの永遠の時間観について書いた本が出版に至るなら、その時が、ヨハネ12章31節の、「今、この世を支配する者は追い出されるのです」とイエス・キリストが言った時になるのだと思いますし、この教会にとっては、今がその時です。

永遠の時間の中を生きている私たち
 私たちは見かけ上は【過去→現在→未来】の直線的な流れの時間の中を生きていますが、実際は【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間の中を生きているのだということを、私自身は強烈に感じています。というのは、今ちょうど私のヨハネの永遠の時間観の本が完成しつつある時に、日本の情勢が急速に悪くなって、今や日本の平和が脅かされているからです。
 私が伝道者となるよう召し出された2008年の春は、今と比べれば、まだ平和な時代でした。与党の自民党もそんなに強くありませんでしたから今のような強引な政治はできませんでしたし、野党の民主党も、まだ政権交代ができる所までは行っていませんでした。しかし、私が神学生になった翌年の2009年に民主党への政権交代があり、今にして思えば、これが却って今の自民党の一強時代を作ることになってしまいました。今の政権は平和を脅かすことを次々と行い、その結果として東アジアでは緊張が高まり、今や偶発的な軍事衝突が起こりかねない状況になっています。
 いま私は、世界が平和を実現するための切り札は、ヨハネの永遠の時間観に皆が慣れ親しむようになることしか無いであろうと考えます。人類はこれまで延々と戦争を繰り返して来て、これからも、やはり延々と戦争を繰り返すことでしょう。しかし、1世紀の聖書の時代にヨハネが提示していた永遠の時間観に皆が気付き、皆がこの永遠の時間観を深く理解することができるようになるなら、平和を実現できる可能性が大いにあります。
 これまでも話して来たように、永遠の時間の中を生きるなら、人は誰でも被害者でもあると同時に加害者でもあります。この誰もが被害者であると同時に加害者でもあるという認識を皆が共有するなら、人は互いに赦し合い、互いに愛し合うことができるようになるでしょう。それによって直ちに平和が実現できるとは私も思っていませんが、少なくとも平和実現へのスタートラインには立つことができるでしょう。従来型の時間観のままではスタートラインにすら立てないのですから、大きな違いです。スタートラインに立ってから本格的な平和の実現までに100年は掛かるとしても、今まで二千年掛かってもできなかったことなのですから、100年で出来るなら感謝なことです。今の子供たちの世代に、この重要な役割を託し、今の子供たちがまた次の世代にこの役割を引き継ぐなら、やがて必ずや世界の平和を実現することができるでしょう。

今が永遠の時間観を宣べ伝えるスタートの時
 今の緊張が高まっている時代は、平和を実現する永遠の時間観のことについて人々に耳を傾けてもらうには、むしろ良い時代なのかもしれません。私が2008年の春に召し出されたのは、今の危険な時代に合わせて、平和の時間観を訴えるためだったのだと、いま私は感じています。神には今のことが見えていて、2008年から、それに向かって備えられていたのだという気がします。永遠の中を生きるとは、そのようなことなのだと今、私は実感しています。また、さらに遡るならば、私が、かつて大学の留学生センターで外国人留学生たちと親しく交わっていたことや、その前には理工系の研究者であったことも、全部、今に至るまでの準備の期間であったのだと思います。
 留学生センターで私は韓国人留学生の教育プログラムに携わっていましたから、韓国人の考え方も多少知ることができました。韓国人にとって、日本人の悪者と言えば朝鮮に出兵した豊臣秀吉と、日露戦争後にできた朝鮮統監府の初代の統監の伊藤博文で、韓国の二大英雄と言えば、豊臣軍を撃退した将軍の李瞬臣と、伊藤博文を暗殺した安重根なのだそうです。日本人としては、豊臣秀吉の時代のことを持ち出されても困ってしまうのですが、韓国の人々にとっては、根深い恨みがあるようです。そのような韓国人と比べると、日本人はどういうわけか淡泊というか、お人好しというか、何故だか良く分からないのですが、例えば原爆投下について考えてみると、原爆という核兵器のことは強く憎んでいますが、原爆を投下したアメリカ人のことはそんなに激しく恨んでいるわけではありませんね。ですから、私は神がヨハネの永遠の時間観を発信する発信地として日本を選んだのは、それなりの理由があるのではないかと考えます。日本人は民族全体で何百年も前のことについて他の民族に対して恨みを持ち続けることはないように思いますから、従来型の時間観から脱しやすいのではないかという気がします。悪魔の時間観を追い出して、永遠の時間観を持つためのスタートを切るのに、日本という場が最もふさわしいと神様は考えていらっしゃるのではないか、いま私はそのように感じています。

おわりに
 まもなく2013年が終わって2014年になります。2014年は人類が永遠の時間観に慣れ親しむためのスタートラインに立つ年であると私は考えます。永遠の時間の中を生きるイエス・キリストは、「今、この世を支配する者は追い出されるのです」(ヨハネ12:31)とおっしゃっています。私たちはその最前線に立つのだという覚悟を持って2013年を終えて2014年を迎えることができたらと思います。
 そのためにお祈りさせていただきます。
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12月29日年末感謝礼拝プログラム

2013-12-26 09:41:34 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
12月29日 年末感謝礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

12月年末感謝礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  とうとき主のみ救いよ     14
 交  読  詩篇149篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  威光・尊厳・栄誉(2回)   253
 聖  書  ヨハネ12:27~33
 説  教  『今、この世を支配する者を追い出す』 小島牧師
 讃 美 ④  つきぬ喜びを注がれる主よ   11
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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信仰の「カーリングのたとえ」(2013.12.25)

2013-12-25 20:53:15 | 牧師のつぶやき
信仰の「カーリングのたとえ」
 信仰はカーリングにたとえることができます。
 カーリングの重要なポイントとして、①石をカール(回転)させることと、②氷をブラシでスイープする(こする)こととがあります。この二つのポイントを、信仰における①神は【過去・現在・未来】が混然一体となった永遠の時間の中にいると考えることと、②その永遠の時間観の中で祈ること、の二つのことの必要性を説明するのに用いることができます。
 カーリングの石をカールさせないなら直進しかしません。カールしない石の前の氷をいくらスイープしても進路を変えることはできません。カールさせるからこそ、スイープによって石が曲がるタイミングを調整することで目標の地点に持って行くことができます。私たちが信仰生活において祈るのは、この目標地点に到達したいからです。そのためにカーリングの選手が氷を一生懸命にスイープするように、私たちも一生懸命に祈ります。
 しかし、もし私たちが祈る時に【過去→現在→未来】という直線的な一方通行の時間観しか持たないなら、それはカーリングの石をカールさせないのと同じで、過去に投げた石の方向にそのまま未来に向かって直線的に進むだけです。私たちが祈るのは、そのまま直進したのでは願っている地点に到達できないから進路が変わって欲しいと願って祈るのです。その進路を変えるために石をカールさせることに相当するのが、【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の時間観を持つことです。祈り手は、過去と未来とが絡み合う現在の中で一生懸命に祈ります。祈りに力があるのは神が【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の中にいるからです。神が永遠の中にいるからこそ、祈りによって状況が変わって行きます。私たちが永遠の中にいる神に心を寄せて過去と未来の絡み合いの中でタイミング良く祈る時、今は目標の地点に向かっていなくても、やがて進路が変わって目標に向かって進んで行くようになります。
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目に見えない世界の祝祭(2013.12.24 クリスマス・イブ)

2013-12-24 15:51:58 | 特集
2013年12月24日クリスマス・イブのメッセージ
『目に見えない世界の祝祭』
【ルカの福音書2:8~16】

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

はじめに
 きょうはクリスマス・イブです。このように教会で皆さんと共にイエス・キリストのご降誕をお祝いすることができる恵みを、心一杯感謝したく思います。

目には見えない御使いたちと天の軍勢
 いま読まれた聖書の箇所には、野宿をしていた羊飼いたちの所に、天から天使たちが降りて来て、救い主のキリストが誕生したことを告げて行ったことが書かれています。
 プログラムに書かれている聖書のことばを、見てください。8節に、

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

とありますから、これは夜の出来事です。夜番をしていた羊飼いたちの所に天から御使いたちが降りて来て、告げました。御使いとは、天使のことです。少し飛ばして読んでいきます。11節、

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 こうして、羊飼いたちに、キリストが誕生したことが告げられました。そして、13節と14節、

2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 このように、御使いたちも、天の軍勢も、イエス・キリストの誕生を祝っていました。この様子を、どのように想像したら良いでしょうか。私は、ベートーベンの交響曲第9番の合唱の様子を思い浮かべたら良いのではないかと思います。大編成の天の合唱隊がベートーベンの第九を合唱するようにして、キリストの誕生を祝っています。
 ただし、これは目に見えない世界の話です。御使いたちは羊飼いたちだけに見え、天の軍勢の賛美も、羊飼いたちだけに聞こえました。天の軍勢がすべての人に見える形で降りて来たなら、たとえ羊飼いたちのいた場所が人里離れた所であったとしても、誰かがきっと目撃して、ダビデの町は大騒ぎになっていたことでしょう。それゆえ、この御使いたちと天の軍勢による賛美は、目に見えない世界の話です。

目に見えないものから受ける恩恵
 そんな目に見えない世界のことは信じられない、という人がいるかもしれませんが、私たちの周りには目に見えないものが一杯あって、私たちは、その目に見えないものから多くの恩恵を受けています。
 目に見えない物の例として、たとえばガラスがあります。ガラスは表面に汚れが付いていると見えますが、汚れが無いと、そこにガラスがあることに気付きません。新しい家を建てている現場に行くと、窓ガラスに「ガラス注意」と書いた赤い張り紙がしてあるのを見ますね。新しいガラスは汚れが付いていませんから、非常に見えづらいです。それでうっかり物をぶつけて壊したりしないように、「ガラス注意」という張り紙を張ります。
 私たちに欠かせない空気も、目には見えません。或いはまた光も、赤や紫の光は見えますが、赤外線や紫外線は見えません。でも、赤外線があるから私たちは温まることができ、紫外線があるから、布団を外に乾せば、殺菌をしてくれます。電波もそうですね。ラジオやテレビや携帯電話の電波も目には見えませんが、電波があるから私たちはラジオを聞いたりテレビを見たり、携帯電話で話をすることができます。
 きょうのメッセージの目に見えない世界の話は、そういう電波のこととは違う話ですが、それでも私たちの周りにあるものは、必ずしも目に見えるものばかりではないということは、今の電波などの話でわかっていただけたことと思います。

大切なことは目に見えない
 フランス人のサン=テグジュペリという作家が書いた『星の王子さま』という絵本がありますね。この『星の王子さま』の中に出て来るキツネが王子に言った有名なセリフがあります。キツネは王子に、

「心で見るんだよ。大切なことは目には見えないんだよ。」

と言いました。キツネは王子に大切なことを色々と教えました。それらの大切なことは皆、目に見えないことでした。
 たとえばキツネは「仲良くなる」とは、どういうことかを王子に教えました。「仲良くなる」前は、キツネにとっての王子は、10万人もいる他の男の子と変わらない存在です。また王子にとってのキツネも、他の10万匹もいるキツネと変わりません。しかし、仲良くなると、他の男の子やキツネとは違う、特別な関係になります。キツネから、このことを教わった王子は、自分がいた小さな星に残して来たバラのことを思い出しました。地球に来る前、王子は自分の星にいたバラの世話をすることが面倒になって、ちょっと鬱陶しく思っていました。そのバラはプライドが高くて、自分のようなきれいな花は世界に一つしかないような顔をして、王子にいろいろと自分の世話をさせました。しかし、王子は地球に来てから、たくさんのバラを見たので、なんだ、あのバラはたくさんある同じバラの中の一つに過ぎないじゃないかと思っていました。しかし、キツネから「仲良くなる」とはどういうことかを聞いて、あのバラは、たくさんあるバラの一つではなく、自分にとっては特別なバラであったのだということに気付きました。
 こういう、特別な関係というのは目には見えませんね。この教会に集っている私たちも同じですね。私たちは、目に見えない何かで確かにつながっています。沼津の駅の方に行くと、人がたくさんいます。それらのたくさんの人々は、知らない人ばかりです。でも、それらの人の中に教会の人がいれば、気付きますね。私たちは、他にたくさんいる人たちとは違って、特別な関係で結ばれています。その特別な関係は、目には見えませんが、確かに存在するものです。

目に見えることで争う私たち
 私たちの世界の争い事は、目に見える世界のことで争うことが多いのではないでしょうか。たとえば、隣の国との領土問題などがそうです。目に見える島という領土を巡って、「この島はオラっちの国のモノだ」、「いんや違う、オラっちの国のモンだべ」という争いをします。お隣の国とは、たくさんの交流があり、目に見えないつながりがたくさんあるのに、目に見えるもののことで、争い、やがて戦争に発展したりします。私たちが目に見えない大切なことの大切さに気付くなら、私たちはもっと仲良くなれるはずです。
 2006年に日本で公開されたヨーロッパの映画で、『戦場のアリア』という映画がありました。この映画は実話が基になっていて、第一次世界大戦でスコットランドとフランスの連合軍がドイツと闘っていた時の話です。この時、戦場では過酷な戦いが続いていました。しかし、せめてクリスマスの時ぐらいは休戦しようということになり、その戦場では、両軍が向かい合う最前線において、ある声楽家の女性が歌を歌いました。それをきっかけにして、クリスマスを祝う気分が高まり、何と、少し前まで銃撃し合っていた敵同士が杯を酌み交わすようにもなりました。戦争を鼓舞するのは、安全な場所にいる国の為政者たちであって、最前線で戦う兵士たちは別に戦いたいと思っているわけではないのですね。これらのヨーロッパの国々は、みなキリスト教国ですから、クリスマスに休戦をして、共にイエス・キリストの誕生を祝うことができました。しかし、クリスマスを過ぎると、また戦いが始まりました。イエス・キリストを信じるという目に見えない世界のことでは一つになれたのに、目に見える世界のことで、またしても争いを繰り返すのです。
 目に見える世界では、どうしても時間の順番が問題になります。「以前は、その島はオラっちの国のモノだった」と片方が言えば、「いんや、その前の前はオラっちの国のモンだった」ともう片方が言い、そうすると今度はまた、「その前の前の前はオラっちの祖先がそこにいたんじゃ」、という話になります。

目に見えない世界では昔も今も同じ
 このように、目に見える世界では、どうしても時間の順番が関係して来ます。鏡で自分の顔を見ると、年とともに髪の毛がだんだん無くなり、また髪の毛が残っている部分でも黒かったのが白髪になり、皮膚もたるんでシワが増えて行くのがわかります。しかし私は鏡を見なければ、年を取ったことを鏡を見た時ほどには感じません。鏡を見ない私は、昔も今も同じ時間の中を生きています。或いは同様のことは、自分の姿だけでなく、町の姿についても言えます。昔はもっとビルが少なくて自然が多かったのにと、今の町の姿を目で見れば思います。しかし、目をつむって昔を思い出すなら、私の心は昔の町に戻って、その中にとどまることができます。
 目に見えない世界では、そのように時間に縛られることはありません。自分が生まれてから以降の時代だけでなく、聖書の時代にも自由に行き来することができます。イエス・キリストが生まれたのは二千年前だという考え方は、目に見える世界に支配されている人の考え方です。目をつむって聖書の時代のことを思い巡らすなら、私たちは二千年前にも自由に行き来することができます。神であるイエス・キリストにとっては昔も今も同じですから、私たちもまたイエス・キリストに心を寄せるなら、何千年前の昔であろうと、今の事柄として思い巡らすことができます。

二千年前ではなく現代に生まれたキリスト
 キツネは星の王子さまに言いました。

「心で見るんだよ。大切なことは目には見えないんだよ。」

 大切なのは目に見えるものではありません。心に見えることこそが大切なことです。野宿をしていた羊飼いたちの前に現れた御使いたちは、とても大切なことを、告げています。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 キリストは、私たちが一つになることができるように、この世に来て下さいました。それは、二千年前の事柄ではなく、現代の事柄として私たちは受けとめるべきです。私たちの世界では、今も争い事が絶えませんが、それは私たちが目に見える事柄に囚われ、支配されているからです。私たちのために生まれたイエス・キリストを心の中に迎え入れるなら、過去の経緯に囚われることなく、昔も今も同じ時間の中にあります。皆が昔も今も同じ時間の中にいる時、ここは私たちの国の領土だという考え方も存在しません。昔は誰の領土でもなかったのですから。そうして私たちは一つになることができるでしょう。

おわりに
「心で見るんだよ。大切なことは目には見えないんだよ。」

このことを噛みしめるなら、天の軍勢が、

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

と賛美したように、私たちの世界には平和が訪れます。
 今夜のクリスマス・イブ、そして明日のクリスマス、私たちに平和をもたらすために、この世に生まれて下さったイエス・キリストに心を寄せつつ、この素晴らしいクリスマスの恵みに心一杯、感謝したく思います。
 お祈りいたしましょう。
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クリスマスは教会へ

2013-12-24 10:30:41 | 特集
クリスマスのこの期間、ぜひ教会へお出掛け下さい。→チラシを見る

12月15日(日) クリスマスさんびの集い(会場:千本プラザ)午後2時~
12月22日(日) クリスマス礼拝(会場:インマヌエル沼津教会)午前10時半~
12月24日(火) キャンドル・サービス(会場:インマヌエル沼津教会)午後7時~
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闇の支配からの救い(2013.12.22 クリスマス礼拝)

2013-12-22 14:58:41 | 礼拝メッセージ
2013年12月22日クリスマス礼拝メッセージ
『闇の支配からの救い』
【ヨハネ1:1~13】

はじめに
 イエス・キリストのご降誕をお祝いする今日のクリスマス礼拝のメッセージのタイトルは『闇の支配からの救い』です。「闇」とは言うまでもなく「心の闇」のことです。私たちの心は闇に支配されています。
 いま私は「私たちの心は闇に支配されています」と言いましたが、イエス・キリストを信じる者の中にも、まだまだ心の闇は存在すると言っても良いと思います。ただしイエス・キリストを信じない人は真っ暗闇ですが、イエス・キリストを信じる者の場合は真っ暗闇ではありません。それでも、まだまだ闇に支配されているように思います。
 では、私たちの心を支配している「闇」とは何なのでしょうか。きょうのメッセージでは、この「心の闇」とは何かを明らかにすることができたらと願っています。

心の闇の根幹に迫る必要性
 「心の闇」とは何でしょうか。それは「罪」と言い換えても良いものですが、比較的思い浮かべやすいのが、例えばマルコの福音書でイエス・キリストが言っているようなことですね。マルコの福音書でイエス・キリストは次のように言っています。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)

 これらの汚いものは、「心の闇」の中でうごめいています。ですから、これらは確かに「心の闇」の一部を形成している「罪」と言えるでしょう。しかし、今日のメッセージでは、私はもっと「心の闇」の根幹的な部分に迫って行きたいと思っています。これらの「悪い考え、不品行、盗み、…」などなどの罪は、普段の礼拝で語られることです。私は普段の礼拝でも、こういう「悪い考え、不品行、云々」については、あまり語らないほうですが、多くの教会では、これらのことについて普段、語られているのではないかと思います。しかし、いずれにせよ、これらは普段の礼拝で語られるべきことであり、クリスマスとイースターという横綱クラスの礼拝においては、もっとキリスト教の根幹的な部分に迫って行かなければならないと私は思っています。クリスマス礼拝とイースター礼拝は教会の礼拝の中でも東西の横綱であると言えるでしょう。その他にも重要な礼拝として新年礼拝やペンテコステ礼拝、召天者記念礼拝などがありますが、それらは横綱というよりは張出横綱か大関クラスではないかなと思います。
 さてクリスマス礼拝は横綱級の礼拝です。相撲では「心技体」ということが言われ、この「心技体」が充実していなければ横綱にはなれません。「心技体」の「心」は「こころ」、「技」は「わざ」、「体」は「からだ」ですね。この三つが充実していないと横綱にはなれません。「技」は上手いけれど「心」または「体」が今ひとつなので、横綱になれない力士はたくさんいますね。「技」だけが上手くても横綱にはなれません。さきほど挙げた、心の闇の中でうごめいている「悪い考え、不品行、盗み、…」などをテーマにしたメッセージは、相撲で言えば、これらの事柄は「技」に相当する部分ではないかと思います。キリスト教の教会の説教では、このような「技」の部分だけではなく、もっと根幹的な「心」と「体」の部分についても、語られる必要があるだろうと思います。特に横綱級の礼拝であるクリスマス礼拝とイースター礼拝においては、根幹的な部分について語られなければならないであろうと私は考えます。しかし、日本のキリスト教の教会のどれくらいの教会が、根幹的な部分について語っているだろうかと考える時、私は少々不安を覚えます。案外、語られていないのではないか、という気がしています。

きよい生活の勧めだけでは不十分
 私がここで、敢えて日本の他の教会のメッセージについて批判なコメントをするのには理由があって、実は、私は後で「仏教」について批判的なコメントをするつもりでいるからです。私は説教を全部ブログ上で公開していますから、説教で他の宗教の批判はあまりしないことにしています。しかし、きょうは話をわかりやすくするために「仏教」について批判的なことを言うことにしています。そこでバランス上、身内のキリスト教についても批判的なコメントをしておいたほうが良いと思うわけです。そういうわけで、身内のキリスト教の中でも、最も身内である「きよめ派」についての批判的なコメントを、先ずはしておくことにしたいと思います。
 プロテスタントの教会にもいろいろありますが、その中には「福音派」という群れがあり、また福音派の中でも「きよめ派」と言われるグループがあって、私たちのインマヌエルの群れは、その「きよめ派」に属します。「きよめ派」についての細かい説明は今日は省略しますが、思いっきり簡単に言うなら、「きよめ派」は心がきよいことを、とりわけ重視する群れであると言えると思います。
 すると、陥りやすいのが、先ほど挙げた汚いもののリストを挙げて、そうではない生活をすることを勧め、そこの所でとどまってしまうことです。「悪い考えを持たず、不品行でなく、盗まず、欺かず、ねたまず、そしらず、高ぶらず、…」、そういう生活を勧めるところでとどまってしまうことです。これらの「ねたまず、そしらず、高ぶらず」は、もちろん大切なことです。しかし、ここでとどまってしまっては、これらの生き方は宗教とは無関係の道徳教育においても勧められていることですから、特にキリスト教で無くても言われることです。ただし、「きよめ派」の場合は、さらに十字架を強調して、イエス・キリストが十字架に掛かって血を流し、その血によって私たちのこれらの罪をきよめて下さったということも語られます。ですから無宗教の道徳教育とは異なることは分かります。しかし、私は、それでも、それでキリスト教の根幹的な部分がしっかりと押さえられているのだろうかと少々疑問に思っています。汚い心を持たないことが強調されて、もっと根幹的な部分について語ることがおろそかになってはいないだろうかという気がしています。
 その根幹的な部分とは、神が万物を創造した創り主であるということです。考えてみると、私自身もこの沼津教会においては、まだ創り主としての神については、ほとんど語っていないように思います。それは多分、もう一つの横綱クラスのイースター礼拝を越えてから着任したために、その機会を逸していたようです。これからは折々に創り主である神についても語って行くことにしたいと思います。

創り主を認識することの重要性
 キリスト教の根幹には、先ずは神が万物を創造したのだということが第一にあります。そして、そのことをイエスの十字架の死からの復活によって証明し、さらに私たちに聖霊が注がれて、私たちがそれらを霊的に理解できるようになっています。神が万物を創造したことをあまり語らないで罪のことやイエス・キリストの十字架の話ばかりしても、それは不十分です。なぜなら、神が私たちを造ったのでなければ、必ずしも神の戒めに聞き従わなくても良いからです。私たちを造った神が聖書を通して私たちがどう生きるべきかを教えているのですから、私たちは教えを守らなければなりません。もし生命が偶然によって誕生したのであれば、私たちは必ずしも聖書の教えを守る必要はありません。しかし、神が生命を誕生させたのですから、私たちは聖書の教えを守らなければなりません。それゆえ、神が万物を創造した創り主であることを認識することは、極めて大切なことです。神が生命を造ったと言っても、別に神が実験室みたいな所で何かを混ぜ合わせている様子を想像する必要はありません。科学者たちが考えている通りのメカニズムを想像すれば良いと思います。そのメカニズムの中に神の意志が入っているかどうかが重要です。神の意志によって、生命の基となった細胞が組み立てられたのであれば神が造ったことになり、偶然によって生命ができたのであれば、神は関与していなかったことになります。それだけの違いです。
 もちろんキリスト教だけではなく、ユダヤ教やイスラム教もヘブル語聖書(旧約聖書)を正典としていますから、神が万物を創造したことを語ります。しかし、神が万物を創造したことの証明は、しっかりとは為されていないように見えます。キリスト教の場合は十字架で死んだイエスがよみがえったことで、神が万物を創造したことを証明しています。聖書を虚心坦懐に丹念に読むなら、十字架で死んだはずのイエスがよみがえったことは、事実として認めざるを得ません。そうして死んだイエスに再び命を与えることができる神なら万物を創造することができるでしょう。このように神が万物を創造したことと十字架で死んだイエスがよみがえったこととは分かちがたい関係にあります。ですから、十字架のことばかり語るのでは不十分であり、神が万物を創造したことはしっかりと語られなければなりません。

道徳教育の道具としてキリスト教
 神が万物を創造したことを語らないで、きよい心を持つべきことを強調するだけでは、キリスト教は単なる道徳教育の道具になってしまいます。キリスト教を単なる道徳教育の道具にしている人はたくさんいます。特にキリスト教国と言われる国では、そのような傾向があるのだと思います。私は以前、親しくしていたことがあるアメリカ人の友人と、キリスト教の信仰について話したことがあります。私はアメリカの研究所で研究員をしていたことがあります。アメリカ滞在中は信仰を持っていませんでしたが、その後、私は高津教会で洗礼を受けました。そうして私がキリスト教の信仰を持った後、出張で日本に来ていたそのアメリカの友人と会って話す機会があったので、私は自分がキリスト教の信仰を持つようになったことを話しました。そして、信仰の話を始めてしばらくして、私はその友人は教会に通ってはいるけれども、そんなに深い信仰は持っていないことに気付きました。その友人も、教会に通っていましたが、それは子供のためだと話していました。つまり、子供のしつけのためには聖書を教えるのが良いという考え方なんですね。深い信仰は持っていないけれども子供が健全に育つには聖書について教える教会に通わせるのが良いと私のアメリカの友人は考えていました。
 いま私は剣道から離れてしまっていますが、日本では子供を剣道の道場に通わせる親が結構います。今は減っているかもしれませんが、昔はたくさんいました。剣道を習えば礼儀正しい子供に育つからと考えて、子供を剣道の道場に通わせる親がけっこういたのですね。剣道場が子供のしつけの場として見られているわけです。アメリカでは教会も剣道場のような見方がされているのだなと思いました。
 教会は確かに道徳教育の場として、とても良い所でしょう。しかし、神が私たちを造った創り主であるということを抜きにして道徳的なことだけを教えても、あまり意味が無いでしょう。私たちが神の戒めを大切にしなければならないのは、神が私たちを造ったからです。私たちを造った神が、命令することだから、私たちは聞かなければなりません。
 キリスト教は、信じたい人が信じれば良いのではありません。世界中の皆が信じなければなりません。なぜなら神が私たちを造ったことはイエスが十字架の死からよみがえったことによって証明されているからです。その私たちを造った神が、神を信じなさいと言っているのなら信じなければなりません。それを信じるか信じないかは個人の自由かもしれませんが、信じない者は滅びます。なぜなら、私たちを造った神が信じない者は滅びると言っているからです。ですから、神が万物を創造し、私たちの命を造った創り主であることを認識しておくことは、極めて大切なことです。神が私たちを造ったと言っても神が実験室で分子を合成したのではなく、科学者たちが考えるメカニズムの中に神の意志が関与しているのだと考えるだけで良いのですから、神が生命を造ったと考えることはそんなに難しいことではないと思います。むしろ、私たちの生命という複雑な仕組みが全て偶然によって作られたと考えるほうが非現実的だと私は考えます。神が生命を造ったと考えることは非科学的だと考える人は多いと思いますが、複雑な生命の仕組みが全て偶然によって出来たと考えることが科学的な態度であるとは私には思えません。

創り主の存在を前提としない考え方の奇妙さ
 創り主の存在を前提としない考え方は、私にはとても奇妙に見えます。今言ったような、複雑な生命の仕組みが全て偶然によって組み上げられるという考え方は、とても奇妙です。百歩譲って生命の基本単位である細胞が偶然によって出来ることがあったとしても、霊や魂も偶然によってできるのでしょうか。霊の存在は一般に認められていることです。霊を慰める慰霊ということばは一般に定着しており、戦没者や震災で亡くなった方々の慰霊の事業は税金を使って行われますから、霊は存在すると多くの人が考えています。その霊や魂も偶然によってできるのでしょうか。霊は神が人に吹き込むものであって、決して偶然によってできるものではないでしょう。
 さて、ここから少しの間、仏教の話をします。年末になると、お寺では仏像のスス払いをするということがニュースになります。そのスス払いをする前に、まずお経を唱えて仏像から魂を抜くというのですね。このことが私にとっては何とも奇妙で仕方がありません。仏像に魂が入ったままでハタキやホウキで仏像をはたいたら失礼であると考えて魂を抜くのかもしれませんが、人間がお経を唱えることで仏像から魂を抜くことができるなら、人間は仏像よりも偉いことになります。人間の方が偉いのに、なぜ仏像を拝むのでしょうか。全く奇妙なことだと私は思います。それとも、仏像に魂を入れたり抜いたりするのは、仏像よりももっと大きな存在なのでしょうか。だとすれば、そっちの大きな存在の方を直接に拝めば良いのであって、何故わざわざ魂を入れたり出したりするのでしょうか。いろいろ奇妙なことだらけです。
 万物を創造した創り主が存在するのだという前提が無いと、このような奇妙なことになります。霊や魂は偶然によって出来たことになります。また、人間の都合で魂を抜いたり入れたりすることができることになってしまいます。魂とは、そんなに人間の都合で出したり入れたりすることができるものではないでしょう。霊や魂を入れたり抜いたりすることができるのは、神だけです。しかし、人間は自己中心的に考えてしまいがちですから、人間が自分の都合で霊や魂を抜いたり入れたりできると考えてしまいます。

人間の考えを反射させる偶像
 私は神学生の4年生になったばかりの2011年の4月の1ヵ月間、インマヌエルの京都西教会に派遣されて礼拝や祈祷会の説教の御用をしました。4月から新たに京都西教会に着任する予定だった先生が、東日本大震災のために、すぐに京都に引っ越すことができなくなってしまったためでした。私は京都滞在が1,2か月の短期間であることが最初から分かっていましたから、滞在中に京都のお寺をできるだけ訪れてみたいと思いました。特に、仏像を見て回りたいと思い、そのようにしました。その時の私の興味は、人はどうして仏像に引き付けられるのか、ということでした。木や金属に過ぎない仏像が、どうして人を引き付けるのか、それを見極めたいと思っていました。私自身も信仰を持ったのが40歳を過ぎてからでしたから、信仰を持つ以前には仏像に大きな魅力を感じていました。いったい仏像の何がそんなに人を引き付けるのか、せっかく京都の教会に派遣されたのだから、それを見極めることができたらと思いました。そうして、いくつかのお寺を巡り、仏像と向き合っているうちに気付いたことは、人は先ず自分の思いを、人間の側から仏像に向かって送り、その自分の思いをあたかも仏像が自分に語り掛けているように感じているのではないかということです。自分の思い入れが単に仏像から反射して戻って来ているだけなのに、それを、あたかも仏像が自分に向かって語り掛けているように感じているのではないかと思いました。それゆえ仏像には魂が入っているとも感じてしまうようになるのではないかとも思います。
 しかし、考えてみれば、クリスチャンも聖書に対して同じようなことをしているようです。自分の思いを聖書にまず送り、そこから跳ね返って来るものを、あたかも聖書が自分に語り掛けているように思い込もうとします。それは聖書を偶像化していると言えるでしょう。牧師も気を付けていないと、そのようになってしまいがちです。そうして聖書のみことばを自分たちの都合の良いように利用しようとします。その場合は、まず始めに自分のことばがあります。神のことばが初めにあるのではなく自分のことばが始めにあります。これを自己中心と言いますが、それは、神が万物を創造したのだということを心の奥深いレベルで納得していないから、そのようなことが起きるのではないかと思います。聖書に書いてあることは全部信じるべきだと教えられたから、そのように信じるのではなく、自分の心の奥深いところで、しっかりと納得する必要があるだろうと思います。

永遠の時間観に慣れ親しむことの重要性
 では、私たちは、どうしたら心の深いレベルで神が万物を創造したのだということを信じることができるでしょうか。そのためにも、私たちは、永遠の時間観に慣れ親しむ必要があるだろうと思います。もし、永遠の時間観を持たずに、従来型の【過去→現在→未来】の直線的な時間観にとどまるなら、神が宇宙を創造し、また生命を創造した時は、気が遠くなるぐらいに遠い過去のことです。そんなに遥か彼方の遠い過去に神がしたことを信じろというほうが無理な話のような気もします。しかし、永遠の時間観を持つなら、神が宇宙を創造し、生命を創造した時代も、そんなに遠い昔のことではありません。御霊が与えられているクリスチャンは、無意識のレベルでは永遠を理解していますから、神が万物を創造したことを信じている人は多いでしょう。しかし、表面的な意識のレベルでは、相変わらず従来型の直線的な時間観に縛られています。だから時に信仰が揺らいでしまうことがあるのだと思います。悪魔はそれを利用して、私たちを信仰から引き離そうとします。それゆえ、私たちは永遠の時間観に慣れ親しみ、神が万物を創造したのだという揺るぎない信仰を確立しなければならないと思います。私たちが永遠の時間観をしっかりと持ち、神が万物を創造したのだということを心の奥深いレベルでしっかりと納得していない間は、私たちは心は暗闇に支配されているということができるでしょう。

創り主を最初に明言したヨハネ
 ここまで、聖書を開かずに語って来ましたが、ここで聖書を見ることにしましょう。ヨハネの福音書の1章です。1章1節、

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 初めに人間の自分のことばがあって、聖書を自分の都合の良いように解釈するのではなく、初めに、ことばがありました。ことばとはイエス・キリストのことであり、イエス・キリストが私たちに聖書のことばについて教えて下さいます。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 万物は神によって創造されました。ヨハネの福音書は、初めに、このことをきっちりと書いています。この神が万物を創造したということが、キリスト教の根幹にあります。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 神が万物を創造したのだという揺るぎない信仰が無いと、そこは暗闇に支配されています。教会を単なる子供の道徳教育のためのしつけの場であると考える人々や、木や金属で作ったものに人が魂を出し入れできると考える人々は、暗闇に支配されています。神が万物を創造したのだということを心の奥深いレベルでしっかりと納得することができた時に、私たちは暗闇の支配から救い出されます。
 少し飛んで、

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 イエス・キリストを受け入れることができなかった人々は、暗闇に支配されたままでいます。しかし、イエスを受け入れた人は違います。12節と13節、

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 イエス・キリストを信じた人は、聖霊が与えられますから、新しく生まれて霊的に救われます。しかし、救われた人の多くも表面的な意識のレベルでは、まだまだ従来型の【過去→現在→未来】の直線的な時間観に支配されています。この直線的な時間観に支配されている限り、まだまだ心の中には闇が残っています。それは、この直線的な時間観では、神が万物を創造した時が遠い過去にあるからです。私たちが永遠の時間観に慣れ親しむことができて初めて、神が万物を創造した時代を身近に感じることができ、それによって、創り主の存在を揺るぎなく確信することができるでしょう。

おわりに
 神が万物を創造したことは、キリスト教の根幹です。このことを私たちにしっかりと教えるためにイエス・キリストは2千年前のクリスマスに私たちの世に生まれて下さり、そして十字架に掛かって死んだ後によみがえり、聖霊を遣わして下さいました。
 神は私たちの創り主ですから、私たちに惜しみなく愛を注いで下さいます。この素晴らしい恵みをしっかりと思い巡らし、噛みしめることのできるクリスマスを過ごすことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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12月22日クリスマス礼拝プログラム

2013-12-19 10:20:32 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
12月22日クリスマス礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

 24日(火)の夜7時からはキャンドル・サービスを行います。
 そちらにも、是非お出掛け下さい。

12月クリスマス礼拝順序

 司  会              矢崎兄
 奏  楽              矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  もろびとこぞりて     76
 交  読  ルカ2:1~14
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  あら野のはてに      87
 ハンドベル
 聖  書  ヨハネ1:1~13
 説  教  『闇の支配からの救い』 小島牧師
 讃 美 ③  野に伏す羊を見まもる牧人 80
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の     271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
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時が満ちて(2013.12.18 祈り会)

2013-12-19 09:05:16 | 祈り会メッセージ
2013年12月18日祈り会メッセージ
『時が満ちて』
【マラキ4:1-6/マルコ1:1-4、14,15】

はじめに
 先日の15日は午前の礼拝と午後の千本プラザでのクリスマスの集いが祝されて感謝でした。15日は、私にとって、もう一つ感謝なことがありました。正確には15日ではなくて、日付が変わった後の16日の未明ですが、カーリングの日本女子がオリンピックの最終予選でノルウェーに勝って、ソチオリンピックへの出場を決めました。私はこれをBS放送の生中継で観ていました。

奇跡の第8エンド
 16日の未明のカーリング女子の日本対ノルウェーの試合では、日本チームは今ひとつ波に乗れずにいて、私は観戦しながら負けも覚悟していました。その前の2試合、日本は中国に2連敗していました。中国はほとんどミスをしないので、日本が勝てなかったのは仕方が無かったのですが、ノルウェーの選手は結構ミスをしていました。せっかく相手がミスをしてくれているのに、日本はそのミスに乗じて複数得点することができずにいたので、これはオリンピック出場は難しいかなと私は思っていました。そうして私は半分は負けを覚悟しながら観ていた第8エンドに奇跡が起きました。この第8エンドは、日本は相手のミスに乗じて次々にハウスの中に自分たちの石をため込んで行きました。そして、何と6点の大量得点をあげて勝利し、オリンピック出場を決めました。それまで形勢が悪かったのを第8エンドの大量得点で一気に覆しましたから、まさに「奇跡の第8エンド」でした。
 このカーリングの試合を観て、私は、日本のキリスト教にも近い将来、「奇跡の第8エンド」が起きるであろうという気がして来ました。つまり、日本のキリスト教の形勢は今は悪いですが、その形勢が一気に逆転するような奇跡が近い将来、起きるのではないか、そんな予感がしています。何故そのような予感がするかというと、「時が満ちて」来ているのを、感じるからです。今の日本の中でどのように「時が満ちて」来ているのか、それは今日のメッセージの最後のほうでまた話すことにして、聖書を見ることにしましょう。きょうのメッセージのタイトルは「時が満ちて」です。

時が満ちたときに誕生したイエス
 まずマラキ書の4章を見ましょう。マラキ書は旧約聖書の最後にある書で、4章はこの書の最後の章ですから、マラキ書の4章は旧約聖書の最後の章であることになります。
 そのマラキ4章の中でもまた最後の方の、5節と6節を交代で読みましょう。

4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 この記述を最後に、聖書は沈黙の期間に入ります。マラキ書が書かれた正確な年代はわかっていませんが、おおよそ紀元前400年~450年ぐらいの間であろうというのが通説のようです。そうすると、新約聖書の時代に入るまでに400年以上の沈黙の期間があったことになります。マラキを通して主が「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と語られてから400年以上、この預言は成就されることなく、神の沈黙の期間が過ぎて行きました。
 15日のクリスマスの集いで私たちは「久しく待ちにし」という賛美歌を歌いましたね。ユダヤの人々は本当に長い間、エリヤが現れ、そしてメシヤが来ることを待ち望んでいました。しかし400年経っても、まだエリヤは現れませんでした。
 日本で今から400年前と言うと、1603年に徳川家康が江戸幕府を開きました。それから、1614年に大阪冬の陣、1615年に大阪夏の陣があって豊臣が滅び、1616年に徳川家康が死にました。ユダヤの人々がマラキが預言したことを信じて400年間待っていたということは、日本人の場合なら、400年間という期間だけで言うなら、徳川家康が言ったことを400年間信じて待つ、みたいな感じですね。400年間というのはそれぐらい長い期間です。
 そうして400年以上が経過して、遂にその時が来ました。きょうのもう一つの聖書箇所のマルコの福音書を見ましょう。1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 このバプテスマのヨハネこそがきたるべきエリヤである、とイエス・キリストは言っていますね。(マタイ11:14他)そしてマルコ1章の14節と15節を交代で読みましょう。

1:14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 いよいよ時が満ちたから、神は御子イエスをこの世に遣わしたのですね。ということは、イエス・キリストがこの世に来て宣教を開始するまでの400年あまりは、まだ時が満ちていなかったとうことです。それゆえ、時が満ちるまで、神は待っておられたということです。

十字架後に急速に広まったキリストの教え
 このイエス・キリストが宣教を開始した時代は、どのように時が満ちていたのでしょうか。ケアンズの『基督教会史』という本には、この「時が満ちた」状況について、やや詳しく書いてありますが、ここでは私が重要であると考える点を、簡潔に述べたいと思います。
 どう「時が満ちた」状況になったかと言うと、キリストの教えが地中海沿岸の広い地域一帯に短期間で一気に広まる状況が整ったんですね。この地中海沿岸一帯というのは北アフリカも含まれます。このユダヤの地は、アジアとヨーロッパとアフリカの三つの大陸が接する辺りの交通の要所にありましたから、もともと地理的に、エルサレムから発信された教えが広まりやすい場所にありました。先日の15日のクリスマスの集いのメッセージで私は、ユダヤは交通の要所にあったために外国から攻められやすくて不安定な状況にあったと話しました。ユダヤは、国の安定にとっては地理的に不利な場所にありましたが、キリストの教えが広まるためには、非常に有利な土地にあったのですね。それで、ステパノの迫害をきっかけにエルサレムから散らされた人々によって、キリストの教えは非常な勢いで広まって行きました。そのように急速に広まったのは、時が満ちていたからです。
 マラキの時代は、まだペルシャ帝国に支配されていた時代です。その後、このユダヤの地はギリシャに支配され、さらにイエスの時代にはローマに支配されていました。まず、ギリシャの支配により、ギリシャ語が広い地域で使われるようになりました。ペルシャ語が広い地域で使われることはありませんでしたが、なぜかギリシャ語は広範囲で使われるようになりました。このギリシャ語による媒介なしには、キリスト教が広範囲に広がることはなかったでしょう。
 そして、地中海沿岸一帯がローマ帝国に支配される時代になってからは、交通網が整備されて、人々は安全に広い地域を移動することができるようになりました。それで、ステパノの迫害で散らされた人々は遠くまで行くことができましたし、パウロも広い地域に亘って安全に伝道旅行をすることができました。またパウロのような伝道者だけでなくプリスカとアクラのような信徒も、ローマやコリント、エペソなど広い範囲を移動してキリストの教えが広まるのを助ける働きをしました。
 このようにしてキリストの教えが、イエスの十字架の死後のわずか30年ぐらいの間に一気に広まったのですから、神さまのご計画というのは本当にすごいなあと御名を崇めることです。イエスが日本で生まれても、2千年前の日本では、このように広範囲にキリストの教えが広まることはなかったでしょう。

時が満ちつつある日本
 しかし、2千年を経て、今度は日本発でイエスの教えを世界に広める時が満ちて来ているのではないか、私はそのように感じ始めています。少し前には、韓国発で、キリストの教えが世界に広まる働きがなされ、今も続いています。私も韓国人に教会に誘われて、教会に行くようになりました。
 そして、今や日本発でキリストの教えが広まって行くのではないかと私は思っています。飛行機やインターネットがありますから、いまや日本が地理的に不利である状況はありません。そして、いまの日本は時代の雰囲気としても神による救いが必要な時期になって来ています。いま日本は悪い方向に向かいつつあります。悪魔が働いているのでしょうか。しかし、こういう時は神の働きもまた活発になります。平和のために働くよう、神は先にイエスを信じた人々を促します。そして、私も平和のために働くよう、召し出されて、ヨハネの福音書の永遠の時間観を平和実現のために広めるように示されています。日本人の私がこのような役割を神様から与えられたということは、日本人は案外、「永遠の時間観」に慣れ親しみやすいのではないかという気が、今私はしています。それゆえ、日本のキリスト教は近い将来に「奇跡の第8エンド」が起きるのではないか、すなわち悪い形勢が一気に良くなるような奇跡が起きるのではないか、私はそんな予感がしています。
 日本人は案外、「永遠の時間観」に慣れ親しみやすいのではないか、という考えが与えられたのは、本当につい最近ですから、まだ考察が不十分ですが、例えば手塚治虫や宮崎駿のようなアニメーション作家は「永遠」に関する素晴らしい感受性を持っているように思います。

おわりに
 いま日本は悪い時代に向かっていますから、この悪いことだけを考えると暗い気持ちになりますが、日本発で永遠の時間観が世界に広まって行くとしたら、こんなに素晴らしいことはないと思います。そうしてキリストの教えが日本から世界へ広まって行くとしたら、これこそが全き喜びであると言えるでしょう。そのような働きを私たちの教会から始めて行くことができるとしたら、こんなに喜ばしいことはありません。
 クリスマスの日を目前にして、私たちはそのような夢を見ても良いのではないでしょうか。お祈りいたしましょう。
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永遠のいのちと滅び(2013.12.15 クリスマスの集い)

2013-12-16 10:13:15 | 特集
2013年12月15日クリスマスの集いメッセージ
『永遠のいのちと滅び』
【ヨハネの福音書3:16】

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

はじめに
 きょうは、このクリスマスの集いに、ようこそ、お出で下さいました。
 何日か前に沼津駅の南側にある仲見世のアーケード街を通ったら、クリスマスの飾り付けがしてあって、クリスマスの曲が流れていました。私はまだ沼津に来てから1年目で、沼津でクリスマスの時期を過ごすのは初めてですが、沼津の街もクリスマスの飾り付けがしてあるのを見て、とても楽しい気分になりました。

世界中で祝うべきクリスマス
 クリスマスはキリスト教の行事だから、クリスチャンではない日本人には関係が無いと言う人もいますが、私はそんなことはないと思います。クリスマスは世界中の人が祝うべきだと思います。
 きょうのプログラムには、英語でMerry Christmasと書いてありますね。クリスマスの英語のChristmasを分解すると、Christ とmasになります。Christというのはキリストですね。そしてmas(s)というのはミサのことです。
 キリストは救い主です。キリストは私たちを救うために、この世に来ました。救いの対象は世界中の人々です。ですから私たち日本人も、もちろん救いの対象として含まれています。それゆえ、救い主キリストの誕生をお祝いするクリスマスは、世界中のどんな人でも、お祝いするのが、ふさわしいことだと思います。キリストを信じるとか信じないとか難しいことは言わないで、キリストが私たちを救うために、この世に来て下さったことを、先ずはお祝いすれば良いのだと思います。とりあえず、よくわからないけど、とにかくお祝いするというのでも、先ずは良いと思います。神さまは祝宴が好きな方ですから、きっと喜んでくださることと思います。
 でも、せっかくお祝いをするのですから、キリストが私たちを、いったい全体何から救うために来て下さったのかを知ることができたなら、なお良いのではないかと思います。それで、これから15分ほど、お時間をいただいて、説明をさせていただくことにします。

大国に支配されていたユダヤの人々
 さきほど、「久しく待ちにし」という賛美歌を歌いました。「久しく待ちにし」の「久しく」は「長い間」という意味で、「待ちにし」は「待っていた」という意味です。二千年前、ユダヤの人々は救い主が来るのを、長い間、待っていました。キリストは、長い間、人々に待たれていたのですね。
 二千年前、当時のユダヤの地はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国の前には、ギリシャに支配されており、ギリシャの前にはペルシャに、ペルシャの前にはバビロニアに支配されていました。バビロニアに支配される前のユダヤは、一応は、独立していましたが、エジプトやアッシリヤという大国にいつ支配されてもおかしくない、不安定な状況の中にありました。
 これは地理的なことも影響していました。中東にあるパレスチナ地方は、アジアとヨーロッパとアフリカの三つの大陸が接している辺りにあり、西側には地中海がありますから、今も昔も多くの人々が行き交う場所です。そういう世界中の人々が行き交う場所で小さな国が独立を保つのは大変なことでした。
 これは日本とはだいぶ、事情が違いますね。日本も小さな国ですが、日本はアジアの東の端っこにある島国ですから、世界の人々が行き交う場所というわけでもなく、大きな国に攻められるということは、ほとんどありませんでした。鎌倉時代にモンゴルに攻められた元寇があったのと、その後は、先の大戦に敗戦して連合国軍に占領された時代があったことぐらいでしょうか。
 このように、外国から攻められることが少なかった日本とは違って、キリストが待たれていたユダヤ地方は絶えず外国から攻められ続け、支配されている中にありました。そのような中で待ち望まれていた救い主とは強い王様でした。外国に支配される心配のない強大な国家を作ることができる、王様としてのキリストでした。
 この地域では、かつてはダビデ王が、そのような強い国を作り上げたことがありました。特にダビデの子のソロモン王の時代には、さらに強大な国になりました。
 ですから、二千年前にキリストを待ち望んでいたユダヤの人々も、ダビデのような強い王様を望んでいたのですね。強い王様に、他の国に支配される心配のない強い国を、もう一度作って欲しかったのですね。

期待以上の素晴らしい贈り物
 そして、二千年前のクリスマスに救い主のキリストが、この世に生まれました。待ち望んでいたキリストの誕生ですから、当時の人々は、盛大にお祝いしたかのかというと、実は、幼子のキリストは、ほとんど人に知られることなく、ひっそりと家畜小屋で生まれ、飼葉おけの中に寝かせられました。当時の人々の大半は、キリストがこの世に生まれたことに気付いていませんでした。生まれてすぐに、お祝いに駆け付けたのは、羊飼いたちだけでした。そして、もう少し後に、東の方から来た博士たちが、お祝いに来ましたが、博士たちも、少しの間そこにいただけで、すぐに立ち去りましたから、大勢の人々にキリストの誕生のことが知られるようなことはありませんでした。
 人々が、ずっと待ち焦がれていたキリストが、遂に、この世に生まれたのですから、二千年前も盛大なお祝いがされたのではないか、私たちはつい、そんなことを考えてしまうかもしれませんが、実はキリストは、ひっそりと、この世に生まれたのでした。
 でもこれは、とても意味があることだったんですね。なぜなら、キリストは、人々が期待していた以上に、もっと大切なことのために、この世に来て下さったからです。自分では思いもよらなかったほどに大切なことというのは、だいたい自分が知らない間に、こっそりともたらされるものです。
 自分が期待して待っていたことは、来た時に、だいたいわかりますね。「お~、来た、来た。」とか、「来たぞ、来たぞ」などと言って、私たちは喜びます。それが期待以上であることもありますが、びっくりするぐらい期待以上に良いなどということは、そんなには無いのではないでしょうか。
 一方、ぜんぜん期待していなかったことで、びっくりするような贈り物をもらうことが私たちにはあります。そういう思いもよらない大きな贈り物というのは、ある時にこっそりと私たちの所に入って来るものです。
 サンタクロースもそうですね。サンタクロースというのは、私たちが寝ている間に、知らない間に来ることになっています。夜通しずっと起きて待っていたら、サンタクロースは来てくれないでしょう。大きな贈り物とは、ある時に、こっそりと私たちにもたらされるものです。
 キリストが生まれたことは、私たちにとっては、そういうびっくりするぐらいに大きな贈り物でした。イエス・キリストは人々が期待していたような、ダビデのように強い国を作る王様ではありませんでした。
 どこが、どう違うかと言うと、平和の作り方の順番がダビデとイエス・キリストとでは、全く逆です。ダビデ王の場合は、まず強い国を作りました。いろいろ苦労しましたから少し時間が掛かりましたが、強い国を作り上げることができました。すると、そういう強い国には、他の国は簡単には攻めて来なくなります。強い国を攻めても負けるだけですから、他の国は攻めて来ません。そうして戦争がなくなりますから、人々は平和に暮らすことができるようになり、人々の心には平安がもたらされます。人々は、平安に暮らしたかったので、そういう強い国を作ることができるダビデ王のような王様をキリストに求めていました。
 しかし、この世に生まれたイエス・キリストは、全く逆の順番で平和を作ろうとしていました。まず、人の心に平安を与えようとしたのですね。そうして、多くの人々の心が平安になるなら、人々は互いに愛し合うようになって、他の国に攻め入ろうとか、戦争をしようという気持ちにはならなくなります。そうすれば、国同士が争うことはなくなり、世界に平和がもたらされます。
 皆さん、これは素晴らしい贈り物だと思いませんか。まず、私たち一人一人の心に平安がもたらされます。ダビデ王の場合は、まず国を強くしました。一方、イエス・キリストは、まず私たちの一人一人に心の平安をもたらします。これは、当時の人々が全く予期していなかった新しい形の素晴らしい贈り物でした。この素晴らしい贈り物が、二千年前のクリスマスの日に、私たち人類に、こっそりともたらされました。

期待はずれのイエスを殺した人々
 そして、このキリストの誕生から30年がたち、大人になったイエス・キリストは、人々の前で、公然と教えを説き始めました。この時、人々は熱狂しました。遂に私たちの救い主が現れたのだと思って、大歓迎しました。エルサレムの町の人々は、「ホサナ、ホサナ」、「主よ、いま救って下さい、主よ、いま救って下さい」と熱狂的にイエスを迎え入れました。
 しかし、やがて人々は、どうやらイエスが自分たちの期待していたような王ではないようだ、ということに気付きました。どうもダビデ王のように強い国を作る王様ではないみたいです。人々はがっかりし、熱狂的に歓迎した反動で、今度は怒りました。期待していた王様とは、ぜんぜん違うじゃないか。こんな奴は殺してしまえ。そうして、人々はイエスを十字架に付けて殺してしまいました。
 キリストは人々を救うために、この世に来たはずなのに、イエスの教えは人々に理解されないで、殺されてしまいました。何だか話がおかしいような気もしますね。でも、実はこの話はおかしくはありません。
 きょうの聖書のことばのヨハネの福音書3章16節の前半には、このように書いてあります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」

 「ひとり子」というのは、イエス・キリストのことです。イエスは神のひとり子でした。神さまは、私たちを愛していたので、私たちを救うために一人子のイエスを私たちに与えて下さいました。与えるというのは、殺されることがわかっていて、この世に遣わすということでした。イエスは、十字架で殺されるために、この世に生まれて来ました。

弱さを誇る十字架
 なぜ、人々に殺されるのが、わかっていながら、わざわざ、神はこの世にひとり子を与えたのか。それは、人々の心を根本的に変えるためでした。人は、自分が間違っていたと心の底から思うのでなければ根本的に変わることはできません。中途半端な思いでは、変わることはありません。人が根本的に変わるためには、イエス・キリストの十字架での死が必要でした。
 そうして、イエス・キリストの十字架での死後に、まずイエスの周辺にいた人々が、自分たちが間違っていたことに気付きました。そして悔い改め、イエスの教えを理解するようになりました。こうして、イエスの教えを信じた者に心の平安が与えられて行きました。
 これこそが、神が人に望んでいたことでした。私たちの世界に平和がもたらされるためには、強さを誇ったり求めたりするのではなく、むしろ弱さを誇るべきです。しかし、人はどうしても強さを求めたがります。それゆえ、イエス・キリストの十字架が必要でした。十字架は弱さを誇るからです。しかし、弱さを誇ることの大切さに気付いた人々がいた一方で、理解できない人々も、たくさんいました。
 弱さを誇ることが理解しにくいことであることは、現代においても変わりません。それは現代においても相変わらず多くの人々が強さを求め、多くの国々が、強い国作りを目指していることからもわかるでしょう。日本も先の大戦の敗戦後には、武力を持たないという弱さを誇る憲法を持つことで平和な国作りを目指しましたが、今はまた、強い国作りを目指すようになっています。
 しかし、どんなに強い国を作ったとしても、いずれは滅び行くことは、これまでの世界の歴史が示しています。永遠に強い国であり続けることは不可能です。どんなに強い国でも、いずれは滅び、その国民もまた滅びます。神は、それとは180度逆の順序で、先ず人々の心に平安を与え、平和な世界を実現するために、ひとり子のイエスを私たちのこの世に遣わしました。十字架で死ぬことがわかっていながら、イエスをこの世に遣わしました。それは、神が私たちを愛しており、救いたいと願っているからです。

おわりに

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 強さを求めるのではなく、弱さを誇るキリストに救いを求めるなら、私たちは滅びることのない神の永遠の中へと導かれて行きます。これは私たちにとっては思い掛けない素晴らしい贈り物です。この素晴らしい贈り物を私たちにもたらすために、救い主のキリストはクリスマスの日にひっそりと生まれました。私たちがこの素晴らしい贈り物を受けることができますように、お祈りしたいと思います。
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平和の君(2013.12.15 礼拝)

2013-12-16 08:51:20 | 礼拝メッセージ
2013年12月15日礼拝メッセージ
『平和の君』
【イザヤ9:6,7】

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

はじめに
 きょうはアドベントの第3礼拝です。きょうは午後から千本プラザのクリスマスの集いでも20分弱のメッセージを予定していますから、この午前のメッセージの時間も、いつもの半分くらいとします。

三位一体の神であるキリスト
 きょうの聖書箇所のイザヤ9章の特に6節は、クリスマスの時に良く開かれる箇所ですね。この6節の、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」は、キリストの誕生をイザヤが預言した聖句として有名です。そしてイザヤは「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と続けます。
 
 ここからはキリストが三位一体の神であることが読み取れます。「不思議な助言者」とは聖霊のことですね。ヨハネの福音書の最後の晩餐でイエスは弟子たちに聖霊のことを「助け主」と呼んで、次のように教えています。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 助け主である聖霊は、このようにして私たちにすべてのことを教えて下さる助言者ですから、イザヤ9章6節の「不思議な助言者」とは聖霊のことでしょう。
 そして「永遠の父」とは、もちろん天の御父のことであり、「平和の君」とは御子イエス・キリストのことです。もう一つの「力ある神」は、この三位一体の神と私は捉えたいと思います。

「平和の君」である御子イエス
 さて、これらの呼び名の中で、きょうは「平和の君」に集中したいと思います。御子イエス・キリストは私たちに平和をもたらします。同じイザヤ書の53章でイザヤは次のように預言しました。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

 「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」とは、イエス・キリストの十字架によって私たちに平安がもたらされたということです。平安とは平和のことですね。
 また、マタイの福音書の有名な山上の説教では、イエスは次のように言いました。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)

「平和の君」であるイエス・キリストは、このように「平和をつくる者は幸いです」とおっしゃいました。マタイの福音書の山上の説教は、いろいろとわかりにくい点も多いのですが、「不思議な助言者」である助け主の聖霊が、私たちの理解を助けて下さいます。例えば、同じマタイ5章の、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)は、パウロの「弱さを誇る」という考え方が理解を助けてくれると思います。パウロは第二コリントで書きました。

「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)

 私たちの国は平和憲法という、弱さを誇る憲法を持っています。戦争放棄を明言した平和憲法は弱さを誇る憲法であると言えると思います。しかし、いま日本は弱さを誇ることをやめて、強い国作りを目指しています。私たちは「弱さを誇る」ことの大切さを、もう一度噛みしめなければならない重要な時期に立たされているのではないかと思います。この、弱さを誇ることに関しては、午後のクリスマスの集いでも、短く触れることにしています。
 そして、きょうの聖書交読の箇所のヨハネ20章では、イエス・キリストは19節、21節、26節で三度も、「平安があなたがたにあるように」、「平安があなたがたにあるように」、「平安があなたがたにあるように」と言っています。この「平安」は新共同訳では「平和」と訳されています。イエスがここで、「平安があなたがたにあるように」と三度も繰り返しているということは、このことばがよほど大切であるということです。まさにイエス・キリストはイザヤ9:6でイザヤが呼んだ通りの「平和の君」です。

「永遠」を感じるのが下手な私たち
 「平和の君」であるイエス・キリストは、私たちに「平安があなたがたにあるように」と三度も言いました。それなのに、二千年が経った今も、私たちの世界には平和はありません。世界的な大戦はそれほど頻繁にはないにしても、地域的な紛争なら絶えず世界中のどこかで起きています。それは、私たちが「永遠」を感じることが、とても下手だからだ、というのが、これまで私が語って来たことであり、これからもしつこく語って行きたいと思います。
 先週も話しましたが、これから私は「永遠」について、しつこく語り続けたいと思います。「十字架」を語るのと同じくらいの頻度で「永遠」についても語りたいと思います。
 なぜ、そんなに「永遠」にこだわるかと言うと、この頃わかって来たことなのですが、どうやら私は人よりも、たくさん「永遠」を感じることができるようなんですね。でも、どうして私が人よりも多く「永遠」を感じることができるのか、私にも良くわかっていません。それで、「永遠」を語り続けることによって、私がどのように「永遠」を感じているかが、もう少しきちんとわかって来るのではないか、と期待しています。「永遠」を感じることは「神」を感じることと、ほぼ等しいであろうと言っても良いと思います。ですから、どうしたら「永遠」をより多く感じることができるようになるのかがわかれば、まだ神を感じることができていない方々に対しても、どうしたら神を感じることができるようになるのかを、お伝えすることができるでしょう。
 そういうわけですから、皆さんには、ご忍耐をいただいて私が「永遠」について、しつこく語ることに、お付き合いを願えたらと思います。それが伝道にもつながり、この教会の成長にもつながり、長い目で見れば、世界の平和の実現にもつながって行くだろうと思います。

「永遠」と「平和」との関係
 さてそれで、今日は「永遠」と「平和」とが、どういう関係にあるのかについて、もう一度おさらいをしておきたいと思います。
 平和が実現しないのは、私たちが互いに赦し合い、愛し合うことができないからです。なぜ私たちが互いに赦し合い、愛し合うことができないかと言えば、それは私たちが「永遠」を感じるのが下手であるからだと思います。互いに赦し合うことができなければ、互いに愛し合うこともできません。そして、互いに赦し合うことは、永遠の時間の中にいるのでなければ不可能でしょう。なぜなら、【過去→現在→未来】という直線的な時間観の中では、ある瞬間においては、必ずどちらかが一方的な被害者になっている時があるからです。人は、その一方的に被害者であった瞬間に固執しがちです。そして、それが行き過ぎると恨みを抱き、報復しようとします。典型的な例が、ストーカー殺人ではないかと思います。ストーカー殺人の加害者というのは、要するに「振られた男」です。ストーカーの加害者は大部分の時間においては一方的な加害者ですが、振られた瞬間だけを見るなら一方的な被害者と言えるでしょう。その振られた瞬間のことだけを異常に膨らませて相手を恨み憎み、遂には殺人に至ると思われます。このように、瞬間・瞬間だけを切り出すなら、人は一方的に被害者になったり被害者になったりする瞬間があります。しかし、トータルの時間で考えるなら、誰でも被害者であり、加害者です。どんな人でも加害者になる瞬間はあるでしょう。ストーカーの被害者も、相手を振った瞬間だけを切り出すなら加害者です。ですから、トータルの時間の中では誰でも被害者でもあり加害者です。
 このトータルの時間が「永遠」です。それゆえ、「永遠」の時間の中では誰でも被害者でもあり加害者でもあります。私たちの皆が永遠の中では被害者でもあり加害者でもあるという共通の認識を持つことができるなら、私たちは互いに赦し合い、愛し合うことができるようになるのではないでしょうか。

直線的な時間観の奴隷である私たち
 では「永遠」は、どうすれば感じることができるでしょうか。それには、イエス・キリストが2000年前だけの存在ではなく、永遠の中を生きていることを感じれば良いのだと思います。イエスを信じる方々の多くは、今もイエスが生きておられるということは感じることができていると思います。イエス・キリストは今も生きておられます。これが「永遠」を感じる第一歩だろうと思います。そして第二歩、第三歩と進んで行くには、今だけでなく、「旧約の時代」も「使徒の時代」のあらゆる時代にも生きていることを感じることができるようになりたいと思います。また、聖書の時代だけでなく、さらに2世紀以降の現代にまで至る、あらゆる時代をイエスは生きておられるのだと感じることができるなら、より「永遠」を豊かに感じることができるのではないかと思います。
 しかし、人はかなり強烈に【過去→現在→未来】の直線的な時間観に支配されています。イエス・キリストを信じるクリスチャンでも、なかなか、この直線的な時間観の支配の束縛から自由になることができていないと私は感じています。ヨハネの福音書の時間構造が、これまで気付かれていなかったのは、直線的な時間観に支配されていたからだろうと思います。御霊が与えられているクリスチャンが、どうして直線的な時間観の奴隷になっているのか。それは多分、あまりに理性に頼り過ぎているからだと思うのですが、どうしたら、理性に頼り過ぎることをやめて、もっと霊的になることができるのでしょうか。これからも考え続けて行かなければなりません。

おわりに
 どうすれば、私たちが直線的な時間観の奴隷状態から自由になって永遠の時間観に親しむことができるようになるのか、これからも考え続けて行きたいと思いますから、皆さんにも忍耐強くお付き合い願えたらと思います。
 未来を見通すことができたイザヤは、永遠の時間の中にどっぷりと浸かり、永遠の時間観に親しむことができていた預言者だと思います。私たちもまた、イザヤのように永遠の時間の中を自由に行き来できる者になれたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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12月15日アドベント第3礼拝プログラム

2013-12-12 10:41:43 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
12月15日アドベント第3礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

 午後からは千本プラザにて「クリスマスの集い」を行います。
 そちらにも、是非お出掛け下さい。

12月アドベント第3礼拝順序

 司  会              西村兄
 奏  楽              矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  いざ歌え、いざ祝え    77
 交  読  ヨハネ20:19~31
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  静かに眠れるベツレヘムよ 75
 ハンドベル
 聖  書  イザヤ9:6、7
 説  教  『平和の君』     小島牧師
 讃 美 ③  主から受ける安らぎは  440
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の     271
 祝福の御言葉
 後  奏
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平和な世へのパラダイムシフトを目指して(2013.12.11 祈り会)

2013-12-11 21:21:59 | 祈り会メッセージ
2013年12月11日祈り会メッセージ
『平和な世へのパラダイムシフトを目指して』
【ヨハネの手紙第一4:13】

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(ヨハネの手紙第一4:13)

はじめに
 12月6日の特定秘密保護法の成立を受けて、12月8日付の朝日新聞の「天声人語」は次のように記しています。少し長いですが、全文引用します。
(ここから引用)
 作家の永井荷風は浅草のようすが気になり、足を延ばした。歓楽街の人出はいつもと変わりなく、芸人や踊り子のふるまいもまた同じ。〈無事平安なり〉と日記「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」に書き記した。1941年12月8日の日米開戦から3日後のことである▼やはり作家伊藤整(せい)の「太平洋戦争日記」は、開戦翌日の新宿を描いている。〈今日は人々みな喜色ありて明るい〉。世には祝祭気分すら漂ったらしい。日本軍による真珠湾奇襲の戦果に国中が「酔っている」と、戦後回想した学者もいる▼今から思えば、その明暗に驚く。開戦の日、北海道帝大生が軍事機密を漏らしたとしてスパイの濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた。旅の見聞を知人に話しただけだった。学生は獄中で病み、27歳で死去。後に「レーン・宮沢事件」と呼ばれ、当局による秘密独占の危うさをまざまざと物語る▼国の行く末がどうなるか、考えるよすがもないまま戦争に駆り立てられる。何の心当たりもないまま罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか。心配が杞憂(きゆう)に終わる保証はない。おととい、特定秘密保護法が成立した▼国家安全保障会議の設置と併せ、外交や軍事面で米国との連携を強めるための法律である。その先には武器輸出三原則の見直しや集団的自衛権の行使の解禁が控える。安倍政権の野望が成就すれば、平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる▼12・8の日付を忘れることはできない。今、忘れない日付のリストに12・6も加えなければならない。
(引用終わり)

 日本は再び戦争への道を歩み始めたようです。歴史は繰り返すのです。いったい私たちはいつまで、戦争を繰り返せば気が済むのでしょうか。

1.直線的な時間観では互いに愛し合えない私たち
 どうして私たちは戦争を繰り返す世界から脱却することができないのでしょうか。
 答はわかっています。私たちが互いに赦し合い、互いに愛し合うことができないからです。私たちが互いに赦し合い、互いに愛し合うことができないから、人類は延々と戦争を繰り返して来ました。イエス・キリストが二千年も前に「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言ったのに、人類はいまだに互いに愛し合うことができません。それは、「互いに愛し合いなさい」と言ったイエス・キリストを描いたヨハネの福音書が、永遠の中を生きるイエスを描いた書であることに人類が気付いていないからです。ヨハネの永遠の時間観に人類が気付いていないから、人類は永遠の時間の中に入ることができずに、【過去→現在→未来】という直線的な時間観に縛られています。この一次元の直線的な時間観の中で人類は過去の恨みを未来の報復で晴らすという愚かな繰り返しを延々と続けています。その報復の連鎖が小競り合いで終わるならまだしも、往々にしてその小競り合いは戦争へと発展して行きます。
 私たちは今こそ、この直線的な時間観を脱却して永遠の時間観へと移行して、平和な世界を実現しなければなりません。いわば「戦争の世」から「平和な世」へのパラダイムシフトです。この「戦争の世」から「平和な世」への移行には100年、200年掛かるかもしれません。しかし、今まで二千年掛けて出来なかったのですから、100年、200年を掛けてでも、何としても移行を果たさなければなりません。天動説から地動説への移行にも200年近くが掛かりました。地動説を唱えたコペルニクス(1473~1543)が西暦1500年ぐらいに生きていた人で、地動説のニュートン力学を完成させたニュートン(1642~1727)が西暦1700年ぐらいに生きていた人だからです。
 直線的な時間観から永遠の時間観への移行は人類にとっては天動説と地動説ぐらいの大転換ですから、すぐには移行が進まないかもしれません。しかし、今始めなければ、いつまで経っても私たちは互いに赦し合えず、互いに愛し合えない世界の中を生き続けることになってしまいます。ですから、私たちは何としてでも、永遠の時間観を感じることができるようにならなければならないと思います。

2.永遠の時間観を感じるために
 いま私は、私たちが永遠の時間観を「感じる」ことができるようにならなければならないと話しましたが、このように永遠の時間観とは「感じる」ものである、と言えるでしょう。頭で考えてわかるものではなく、感じるものです。一方、【過去→現在→未来】の直線的な時間観は、頭の中で作られ、頭で考えてわかるものです。この、【過去→現在→未来】の時間観は脳の中で作られるものであろうという話は7月15日の講演の『真の時間と人の時間』で話しました( http://blog.goo.ne.jp/numazu-c/e/29697254a595da4a09ac8616c0b3d67d )。
 この頭で考えてわかる直線的な時間観ではなく、永遠の時間観を感じることができるようになるには、どうしたら良いのか、その試みの一つとして、きょうはヨハネの手紙第一の4章13節の、

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(Ⅰヨハネ4:13)

について考えてみたいと思います。
 神は永遠の中を生きておられます、その永遠の中を生きている神を感じるのに、私たちが神のうちにおり、神もまた私たちのうちにおられるということを感じることが大事な鍵になるかもしれません。なぜなら、もし永遠を【過去→現在→未来】という直線的な時間の中で捉えていたら、神の永遠を十分に感じることができないからです。神の永遠とは、「永遠の過去」から「永遠の未来」までという直線で捉えるべきものではありません。
 この第一ヨハネ4:13の「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」を別のことばで言い換えると、「神は私たちの内側にも外側にもおられる」とも言えるでしょう。もっと別の言い方をすると、「神は私たちの小さな細胞の一つ一つを支配し、また宇宙をも支配している」とも言えますし、「神は私たちの命を創造し、宇宙も創造した」とも言えると思います。神は分子や原子や素粒子という小さな世界から、太陽系、銀河系、宇宙という大きな世界までのすべてを支配しています。それが第一ヨハネ4:13の「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」ということだと、私は感じています。このミクロからマクロへの空間的な変化は、生命の誕生から人間の誕生までの時間、或いはビッグバンから始まった原初の小さな宇宙から現在の大きな宇宙、そして未来の宇宙までのすべての時間を包含しているとも言えます。時間と空間とは一体になっています。永遠とは、このような立体感を持つものであると言えるでしょう。私たちは、そのような中に身を置いています。決して直線的なひょろ長い時間の流れの中に身を置いているわけではありません。永遠の時間とは、宇宙のような分厚い広がりを持ったものです。

3.ヨハネの福音書の【三一構造】と第一ヨハネ4:13との関係
 イエス・キリストはそのような永遠の中を生きています。そしてヨハネの福音書は独特の構造でイエスが永遠の中を生きていることを描いていることを、これまでの祈祷会と礼拝説教で、時間を掛けて説明して来ました。また、私がヨハネの福音書の独特の構造を【三一構造】と呼んでいることも話したことがあると思います。きょうは、その【三一構造】の図をまた、見ていただきたいと思います。



 この図が示すように、ヨハネの福音書の1章から11章までは、イエスが永遠の中を生きていることを描いています。ヨハネは「イエスの時代」の背後に「旧約の時代」と「使徒の時代」とを重ねて、イエスがこの三つの時代を同時に生きていることを描いています。この三つの時代は「イエスの時代」を【現在】とするならば「旧約の時代」が【過去】であり、「使徒の時代」が【未来】になります。こうしてヨハネの福音書は、イエスが【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間の中を生きていることを1~11章で描いています。そして、その三つの時代は12章において合流して一つになり、13章からの最後の晩餐において、「愛弟子」としてイエスの隣の特等席にいる私たち読者に、「互いに愛し合いなさい」とイエスは教えます。こうして、三つの時代の重なりという大きな宇宙は、イエスの教えを通して凝縮されて、私たちの内側にインプットされます。つまり私たちの外側にいる宇宙サイズの大きな神が、イエスのことばを通して私たちの内側に聖霊として入って来ます。こうして神は私たちの外側にいると同時に内側にもおられるようになります。それが第一ヨハネ4:13の、

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(第一ヨハネ4:13)

ということでしょう。図の【三一構造】は、その宇宙サイズの大きな神が1~11章にいて、12章でぎゅっと凝縮されて13章で私たちの内側に入って行く様子を表していると言っても良いでしょう。
 こうして考えてみると、ヨハネの【三一構造】は、御霊が与えられて初めて理解できるものなのでしょう。しかし、御霊が与えられた者は、無数にいた筈です。それなのに、ヨハネの福音書のこの立体的な時間構造が気付かれていなかったのは、人類が直線的な時間観に支配されて、縛られていたからでしょう。

おわりに
 私たちは平和を実現するために、直線的な時間から永遠の時間観への移行を進める働きを、今こそ始めなければなりません。私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかるようになるには、御霊が与えられ、霊的に研ぎ澄まされていなければなりません。たとえ御霊が与えられていても、霊的に鈍感であるなら、なかなか永遠の時間観は会得できないでしょう。平和のために働くことができる者として、しっかりと霊性を整え、神と共に歩む私たちでありたいと思います。
 この大きな働きを私たちが沼津の地から始めることができますように、お祈りしたく思います。
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主のふところで感じる神の愛と永遠(2013.12.8 礼拝)

2013-12-08 14:51:54 | 礼拝メッセージ
2013年12月8日アドベント第2礼拝メッセージ
『主のふところで感じる神の愛と永遠』
【ヨハネ1:14~18】(交読)、【ヨハネ13:23、19:25~27】(朗読)

はじめに
 教会はイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスへと向かっています。きょうはアドベントの第2礼拝です。きょうの礼拝の聖書交読では、ヨハネの福音書のプロローグの後半の、1章の14節から18節までを交代で読みました。有名な1章14節には、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)

とあります。ご承知の通り、この14節はイエス・キリストがヨセフとマリヤの子として、この世に生まれたことを示します。神の子であるイエス・キリストがこの世に来て下さったことで私たちにもたらされた恵みには様々なことがあります。その様々な恵みの中の一つに、18節に書かれていることがあります。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

 神がどのようなお方なのか、クリスマスにイエス・キリストがこの世に生まれたからこそ、私たちはイエス・キリストを通して、神について知ることができます。イエス・キリストは神のふところにおられる神の御子ですから、神のことを良くご存知です。

1.イエスのふところにいた愛弟子
 きょうは、まず、この「ふところ」という言葉に注目します。この「ふところ」は原語のギリシャ語では「コルポス(κολποs)」で、英語ではbosomと訳されることが多いです。つまり、「胸」ですね。赤ちゃんを抱っこすると、赤ちゃんの頭がちょうど胸の所に来ます。ヨハネ1:18の「父のふところにおられるひとり子」というのは、そんなイメージでしょうか。
 この「ふところ」或いは「胸」の意味のギリシャ語の「コルポス」は、新約聖書の中では、そんなに多くは使われていません。代表的な箇所としては、ルカの福音書の16章で死んだラザロがアブラハムのふところに連れて行かれた話で使われています。ちょっと見ておきましょうか。ルカの福音書16章の22節と23節で「ふところ」が使われています。交代で、19節から25節までを読みましょう。25節はご一緒に読みます。

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 このルカ16章のラザロがいたアブラハムのふところは、ラザロが死んでから行った所です。私たちイエスを信じる者も、この世での生涯を終えたら神のふところに入ることが約束されています。しかし、実は私たちは、この世にいながらにしてイエスのふところの中に入ることができているのだ、ということが、きょうの話の要点です。
 イエスは永遠の中にいますから、そのイエスを信じて御父と御子イエスとの交わりを持つようになるなら(Ⅰヨハネ1:3)、私たちもまた永遠の中に入れられて、この世にいながらにして、イエスのふところの中に入ることができます。
 そのように私たちが、イエスのふところに入ることが示されているのが、きょうの聖書箇所の一つのヨハネの福音書13章23節です。ここには最後の晩餐の席にいた、イエスが愛しておられた弟子、すなわち「愛弟子」のことが書かれています。13章23節には、

「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席についていた」

とあります。新改訳聖書をお持ちの方は、「右側で席についていた」という所に小さな星印(*)、アステリスクがあるのが見えると思います。これは、「下の注を見よ」という印ですから、下の注の「23」という所を見ると、*直訳「御胸のそばで、(食事のために)からだを横にしていた」とあります。この「御胸」のギリシャ語が、「ふところ」と同じ「コルポス(κολποs)」です。このように愛弟子は最後の晩餐の席でイエスの御胸のそばに座っていたのでした。

2.愛弟子は私たち
 では、この「愛弟子」とは誰か、という話になりますが、「イエスの時代」においては、このヨハネの福音書を書いた記者ですから使徒ヨハネでしょう。しかし、このヨハネの福音書は、これまで何度も語って来たように、イエスの地上生涯のみを描いた書ではありません。ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いた書です。そして、その永遠の中に私たち読者もまたいるのですから、このイエスが愛しておられた弟子の「愛弟子」とは私たち読者のことであるということになります。
 ヨハネは、この福音書とヨハネの手紙第一で神の愛について説いています。ヨハネは神がいかに私たちを愛しているかを福音書と手紙の中で書いています。そして、この福音書と手紙は私たちに宛てて書かれた書ですから、イエスが愛された愛弟子とは、当然、私たちのことでなければなりません。私たちは霊的にそれを感じなければなりません。有名なヨハネ3:16に書いてありますね。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 神は、これほどまでに私たちを愛して下さっています。このことをヨハネは、ヨハネの手紙第一でも、同じように書いています。ヨハネの手紙第一4章の7節から12節までを交代で読みましょう。

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 11節に、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」とあります。私たちは、これほどまで神に愛されているとヨハネは書いているのですから、ヨハネの福音書に登場するイエスが愛しておられた者とは私たちのことであることを、しっかりと感じ取ることができなければなりません。もし、感じ取れないとしたら、それは、ヨハネの福音書のイエスを永遠の中を生きるイエスではなく、2000年前の紀元1世紀のイエスであるとしか捉えていないことになります。ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いていますから、イエスを信じて永遠の中に入れられている私たちは、その永遠を感じ取り、私たちがイエスの御胸のそばにいることを感じることができるようにならなければなりません。

3.平和を実現する「永遠」の時間観
 これから私はこの沼津教会での説教では、「永遠」について、しつこいぐらいに繰り返し語って行きたいと思っています。キリスト教に「十字架」が欠かせないのと同じぐらいに「永遠」も欠かせないと私は、この頃ますます感じています。それは、「永遠」を感じることが、私たちが平和を実現するための切り札であると信じるからです。私たちの世界から戦争が無くならずに平和が実現できないのは、私たちが「永遠」を感じるのが苦手であるためだと私は考えます。私たちは「永遠」を感じるのが本当に下手です。もし「永遠」を上手に感じることができていたなら、ヨハネの福音書の永遠の時間観に私たち人類はもっと早くに気付いていたはずです。そのようにして人類が、もっと早くに「永遠」の時間観に慣れ親しんでいたなら、今頃は私たちは平和な世界を実現できていたかもしれません。なぜなら、永遠の中に身を置くなら、互いに赦し合い、愛し合うことができるようになるはずだからです。
 私たちの世の中にはいろいろな争い事がありますが、私たちは全てのことにおいて一方的に被害者であるわけではありません。罪深い私たちは時には加害者の側にいることもあります。それゆえ、永遠の中に身を置くなら、私たちは皆、被害者でもあり加害者でもあります。私たちの皆が被害者でもあり加害者でもあるのだという共通の認識があるなら、互いに赦し合い、愛し合うことができるでしょう。
 しかし、時間を【過去→現在→未来】の直線的な流れとして捉えるなら、ある瞬間には自分が一方的に被害者であった時間が存在します。人はその一方的に被害者になった瞬間を心の中で肥大させ、相手を恨み、憎さのあまりに報復を行ったりするから、いつまで経っても私たちに平和が訪れないのではないでしょうか。
 この永遠の時間観については、これから私は、来週も再来週も、ずっと話して行くことにしたいと思っています。「永遠」を語ることは、それぐらい大切なことだと思います。例えば、牧師が毎週のように「十字架」の話をしても、あの牧師は「十字架」の話ばかりしているなどと言う人はいませんね。私は「永遠」は「十字架」を語ることと同じくらい毎週のように語るべきことだと考えます。そうして私たちは永遠の時間観に慣れ親しんで行かなければならないと思っています。
 そのようにして「永遠」に慣れ親しんで平和を実現して行くのでなければ、私たちは、いずれはまた戦争をすることになるでしょう。いまの日本の政府は、現行の憲法のもとでも戦争ができるように、着々と準備を進めていますから、今のままなら、そんなに遠くない将来に、日本はまた戦争をするかもしれません。ヨハネの福音書が1900年も前に永遠の時間観を示しているのに、人類は未だにこの永遠の時間観を理解していないために、互いに赦し合い、互いに愛し合うことができずにいて延々と戦争を繰り返しています。

4.十字架を間近で見上げた愛弟子
 ヨハネは既に1900年も前に、福音書の読者の私たちのためにイエスの愛弟子の座という特等席を用意してくれました。そうして私たちがイエスを間近に感じることで私たちが神の愛を知り、互いに愛し合うことができるようにしてくれました。この「愛弟子」は、13章以降の何箇所かに登場しますが、中でも格別に重要なのが、この最後の晩餐の特等席でイエスからいろいろな教えを受けたことと、イエスが十字架に掛かった時にすぐそばにいて、イエスの十字架を見上げたことでしょう。
 今日のもう一つの聖書箇所のヨハネ19章の25節から27節までを交代で読みましょう。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 25節に、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパのマリヤとマグダラのマリヤが立っていた」とあり、26節に、その母のそばに愛する弟子、すなわち「愛弟子」がいたことが記されています。こうして「愛弟子」はイエスの十字架を、すぐそばから見上げていました。
 しかし、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書によれば、女たちは、十字架を離れた所から見ていましたし、ましてイエスの弟子はそこにはいませんでした。たとえば、ルカの福音書では、イエスが十字架で死んだ時のことを、次のように記しています(ルカ23:46-49)。

23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

 このルカの福音書の記述が示すことは、群衆はイエスの十字架を間近で見ていたけれども、イエスの知人たちと女たちとは群衆よりも遠く離れた所からイエスの十字架を見ていたということです。なぜ近くから見なかったのか、近くにいれば自分たちも逮捕されるかもしれないという恐怖もあったでしょうし、十字架刑があまりに残酷なために、近くから見ることができなかったということもあったでしょう。いずれにしても、実際にあったことを伝えているのはヨハネではなく、ルカのほうでしょう。では、なぜ、ヨハネは女たちと愛弟子とがイエスの十字架のそばにいたと書いたのでしょうか。それは、私たち読者をイエスが生きる永遠の中に招き、その上で私たちがイエスの愛弟子としてイエスの十字架を間近で見ることができるようにするためでしょう。私たちはイエスの十字架を間近で見ることで初めて、神がいかに私たちを愛して下さっているのかを知ることができます。先ほどご一緒に読んだ、ヨハネの手紙第一に書いてある通りです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 神は、私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

5.不信仰な私たちを怒る神
 神は私たちを愛して下さっていましたが、同時にまた、不信仰な私たちを怒っていました。そのため、なだめの供え物として御子を遣わされました。この私たちの不信仰の罪については、私たち一人一人の個人の罪ももちろんありますが、国民、あるいは民族の不信仰も考える必要があるでしょう。旧約聖書の時代に北王国のイスラエルと南王国のユダが滅亡したのは、イスラエルの国民とユダの国民が不信仰であったからです。その国民の不信仰に神は怒っておられました。エレミヤ書にはエレミヤが預言した神の怒りが随所に記されています。

「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『わたしはなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。」(エレミヤ8:5,6)

「エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう…おまえがわたしを捨てたのだ ― 主の御告げ― おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。(エレミヤ15:5,6)

 私は、今の日本が再び戦争ができるように着々と準備を整えていることを、神が怒って見ておられるのではないかと感じています。今の政権は、憲法9条を改正しなくても、現行の憲法のままでも集団的自衛権が行使できるように憲法解釈を変更しようとしています。そして、戦争準備を秘密裡に整えることができるように、特定秘密保護法も成立させました。原発ゼロに否定的なのも、核兵器を製造できる技術を保つためでしょう。このようにして戦争ができる準備を着々と整えている政権を選挙で選んだのは、日本の国民ですから、平和を愛していない日本の国民のことを神は怒りの目で見ておられるのではないかと私は感じています。それもこれも、既に1900年前にヨハネが提示した永遠の時間観を私たちが理解できずにいるために、互いに赦し合えず、互いに愛し合うことができていないからです。
 ですから私は、これからは、できる限り「永遠」について語り続けたいと思います。教会で「十字架」が語られるのが当たり前のように、教会で「永遠」が語られるのが当たり前のことになるまで「永遠」について語り続けなければならないと思っています。

6.平和を実現するために
 このヨハネの福音書の永遠の時間観を多くの人に知ってもらうことができるよう、いま私は本を書いています。年内には何とか書き上げたいと思っていましたが、年末年始はただでさえ忙しい時期ですから、微妙な情勢です。しかし、いずれにしても来年の中頃までには、この本を出版することができればと思っています。とは言え、実は今のところ出版できる当ては全くありません。とにかく先ずは原稿を書き上げて、その原稿を人に見せて、出版できそうかどうかを見てもらい、アドバイスをもらって修正し、出版できるレベルにまで引き上げたいと思っています。このために、是非とも皆さんにお祈りしていただきたいと思います。
 この本が出版できたなら、永遠の時間観について理解する人々が増えて行き、100年、200年は掛かるかもしれませんが、平和が実現されるという希望があります。そしてそれはもちろん、この沼津の地における伝道の働きにも貢献することになります。
 ヨハネの永遠の時間観は、1900年もの間、気付かれずにいました。それだけに、人々に理解してもらうのは難しいことだと思います。人は、これまでの【過去→現在→未来】の直線的な時間観に強く支配されていますから、そう簡単に【過去・現在・未来】が一体のヨハネの福音書の永遠の時間観に慣れ親しむことはできないでしょう。しかし、だからこそ大きな希望があります。これまで人類は直線的な時間観に強く支配されていたために平和を実現することができませんでした。だからこそ、もし私たちの多くが永遠の時間観を身に付けることができるなら平和を実現できるのだ、という大きな希望があります。

おわりに
 そのための第一歩として、先ずは私たちの教会がヨハネの永遠の時間観に慣れ親しむ必要があります。そのために私は、できる限り「永遠」について語り続けたいと思います。聖書のどこから語るにしても、できるだけ「永遠」の時間観について語るようにできたらと思います。それは、聖書のどこから語るにしても「十字架」について語らなければならないのと同じです。平和を実現するためには、「永遠」は「十字架」と同じぐらいに語り続けなければなりません。
 ヨハネは福音書の中に「愛弟子」の座という特等席を私たちのために用意して、私たちが永遠の中を生きるイエスのすぐそばにいることができるようにしてくれました。それは、私たちが、永遠の中を生きるイエスとの交わりを持ち、永遠に親しむことができるようになるためです。
 私たちもイエス・キリストとともに、永遠の中を生きることができるよう、お祈りいたしましょう。
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12月8日アドベント第2礼拝プログラム

2013-12-05 09:10:19 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
12月8日アドベント第2礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

12月アドベント第2礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  栄光とわに 王なる御子に    89
 交  読  ヨハネ1:14~18
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  天なる神には         90
 讃 美 ③  神の御子は今宵しも      91
 転 入 式
 聖  書  ヨハネ13:23、19:25~27
 説  教  『主のふところで感じる神の愛と永遠』 小島牧師
 讃 美 ④  主よ、おわりまで      459
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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