平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

不思議な助言者の役割(2013.10.23 祈り会)

2013-10-23 19:27:04 | 祈り会メッセージ
2013年10月23日祈り会メッセージ
『不思議な助言者の役割』
【イザヤ9:1~7】

はじめに
 祈祷会では前々回からイザヤ書を開いています。きょうはイザヤ書9章です。イザヤ書9章と言うと、クリスマスの時に良く6節が読まれますね。きょうも、後で6節に注目しますが、せっかくですから、9章の始めのほうも見ておきたいと思います。イザヤ書9章ではイエス・キリストの姿が6節と7節だけではなく、既に1節の段階から、ちゃんと見えているのですね。

1.ガリラヤのイエスの姿が見えるイザヤ9章
 では、1節から見て行きましょう。1節、

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 「先にはゼブルンの地とナフタリの地ははずかしめを受けた」というのは、サマリヤが陥落して北王国が滅びた年の10年ほど前のことです。北王国滅亡の約10年前、当時のアッシリヤの王のティグラテ・ピレセルが来て、このゼブルンとナフタリの地を占領して、その住民をアッシリヤへ捕え移したことが列王記第二に記されています(Ⅱ列王15:29)。
 ゼブルンとナフタリの地がどこにあるのか、聖書の後ろの地図で確認してみましょう。後ろの地図の2ページ目の、「12部族に分割されたカナン」という地図を見ると、ゼブルンとナフタリが、ちょうどガリラヤ地方に当たることがわかります。その後ろの地図の「キリスト時代のパレスチナ」のページを見ると、ガリラヤ地方とだいたい重なっていて、ナザレやカナやカペナウムなどの福音書でおなじみの町が、このゼブルンとナフタリがあった地域に存在していることがわかります。
 イザヤ書に戻って、9章1節の冒頭に、「苦しみのあった所に、やみがなくなる」とあります。ゼブルンとナフタリは苦しみを受け、はずかしめを受けましたが、このガリラヤの地は後に光栄を受けました。この1節の記述は、イエス・キリストがこのガリラヤの地で宣教を開始したことと、良く重なりますね。9章2節には、次のようにあります。

9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 このイザヤ9章2節は、ヨハネの福音書のプロローグを思い起こさせます。ヨハネの福音書のプロローグでヨハネは、

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)

と書いています。イザヤ9章とヨハネ1章との重なりを感じます。この重なりは、預言者が語る神のことばは、永遠の中を生きるイエス・キリストのことばでもあるのだ、神のことばはイエスのことばだ、ということの良き証しであると言えると思います。
 そしてイザヤ9章3節、

9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。

 この3節の人々の喜ぶ様子では私は、ヨハネ2章のガリラヤのカナの婚礼の場面を思い起こします。このヨハネ2章のカナの婚礼の場面は、「使徒の時代」にガリラヤ人たちに最初に聖霊が降ったペンテコステの日と重ねられていることを既に何度か説明していますね。ペンテコステの日に聖霊が与えられたことの大きな喜びは、婚礼の場の喜びととても良く合っていると思いますが、このイザヤ9章3節の喜びもまた、良く合っているように感じることです。
 そして4節と5節では、この光によって人々が苦しみから解放される様子が描かれています。
 私たちはヨハネの福音書の学びを通して、イエス・キリストが永遠の中を生きていることを学んでいます。そして、そのイエス・キリストを信じるなら、御父と御子との交わりの中に入れられて、私たちもまた永遠の中に入れられます。その永遠の中にいてイザヤ書9章を読むなら、「旧約の時代」だけでなく、「イエスの時代」、そして「使徒の時代」のペンテコステの日の出来事にまで、私たちの思い巡らしの範囲はどんどん広がって行きます。このように思い巡らしの範囲が聖書の中で広がって行くことが、霊的に成長することだと言えると思います。霊的な思い巡らしでは、【過去→現在→未来】という人間的な時間観には縛られず、永遠の中を自由に行き来することができます。永遠の中を生きるそイエス・キリストを信じれば私たちもまた永遠の中に入れられ、霊的に成長して行くことができることは、本当に素晴らしい恵みだと思います。

2.三位一体の神を預言したイザヤ
 さて、それでは有名な6節に進みましょう。このイザヤ9章6節は、ご一緒に読みたいと思います。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 「ひとりのみどりご」とは、言うまでもなく、イエス・キリストのことですね。そして、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるとあります。ここには、三位一体の神のことが書かれていると私は感じます。「不思議な助言者」とは、聖霊のことです。「力ある神」とは、私たちに力を与えて下さる聖霊のことと考えても良いと思いますし、三位一体の神全体と考えても良いと思います。「永遠の父」とは天の御父のことですね、そして「平和の君」とは御子のことです。「平和の君」の「君」はヘブル語では「sar」で、聖書の英語訳のほとんどは、この「sar」を「prince」と訳しています(NIV, TEV, KJV, NKJV)。「prince」とは日本語では「王子」ですから、「御子」ということになりますね。
 こうして、イエス・キリストは三位一体の神であることをイザヤは預言しています。私たちは、「不思議な助言者」である聖霊のおかげで、霊的なことがわかるようになり、霊的に成長できますから、感謝です。

3.不思議な助言者の役割
 きょうの残りの時間は、私たちの霊的な成長のために、この「不思議な助言者」としての聖霊の役割について、少し聖書の
何箇所かを見てみたいと思います。「不思議な助言者」は、何を助言して下さるのでしょうか。まず、思い浮かぶのは、ヨハネ14章26節ですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

「不思議な助言者」である聖霊は、「助け主」であり、私たちにすべてのことを教えて下さいます。すべてのこと、と言うとあまりに漠然としていますから、他の書も開いてみましょう。
 ヨハネの手紙第一4章13節でヨハネは次のように書いています。

4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 どうして、それが分かるかというと、「神は愛」だからですね。14節から16節、

4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 御霊が与えられた私たちは、神の愛を感じていますから、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。この神の愛を感じることは、十字架の愛を感じることももちろん重要ですが、旧約聖書で神がイスラエルの民に注いでいる愛を感じることも、欠かせないことです。それが永遠の中を生きるということでしょう。
 新約聖書の十字架の神の愛だけでも永遠を感じることはできますが、やはりそれだけでは十分ではありません。旧約聖書と新約聖書の両方から神の愛がわかるなら、永遠の時間をさらに豊かに感じることができるようになります。そしてそのことで信仰が揺るぎないものになるのだと思います。新約聖書だけで信仰が育まれた人は、いつか教会から離れて行ってしまう危険をはらんでいると私は感じています。

おわりに
 では最後にまた、イザヤ書9章に戻って、7節をご一緒に読みましょう。

9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

 永遠の時間観の中でこの7節を読むなら、これは、これからのことが書いてあるのだと読み取りたいと思います。永遠の時間の中では、イザヤのこの預言は、いま為されたものであり、このことが成就するのもまた、今です。ヨハネの福音書の永遠の時間観を多くの方々が感じ、霊的に理解できるようになるなら、今まさにこの7節の預言が成就するのだと私は感じています。そうして私たちに平和がもたらされます。そのための働きに私たちの教会が用いられることを願い、今週もまた共に進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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