平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

「星野富弘 花の詩画展」を観て(再掲)

2024-05-15 09:43:01 | 折々のつぶやき
 4月28日に星野富弘さんが亡くなられて天に帰られた後、このブログの2020年7月の記事に何件かのアクセスがありました。当時の原稿の内容は全く忘れていましたが、「なるほど、当時はこんなことを考えていたのか」と自分でも参考になる点がありましたから、修正せずに再掲させていただくことにします。

2020年7月23日祈り会メッセージ
『「星野富弘 花の詩画展」を観て』
【マタイ5:8】

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。


はじめに
 きょうは旧約聖書の女性のシリーズは一旦お休みにして、きのう私が浜松へ観に行った「星野富弘 花の詩画展」で感じたことのお証をしたいと思います。

 浜松ということで、どうしようかなと思いましたが、だいぶ前に星野富弘展を観た時と現在とで、自分の中で感じ方の変化があるかどうかを知りたくなって、行って来ました(コロナ対策には十分に注意しました)。そうして星野さんに対する感じ方が時期によって変化していると思いました。大きくは三つの時期に分けられると思います。

 1番目の時期は私が信仰を持ったばかりの頃の2000年代の前半、2番目の時期は少し信仰が深まった2000年代の後半、そして3番目の時期が牧師をしている現在です。

2000年代の私の星野富弘観
 1番目の時期は私が洗礼を受けたばかり2000年代前半の頃で、私は藤本満先生から星野さんの著書の『愛、深き淵より。』を受洗記念にいただきました。このとき初めて星野さんのことを知りました。また、星野さんのカレンダーを作って販売しているグロリア・アーツが高津教会の近くにあり、その関係かグロリア・アーツの社長さんが高津教会で講演をして下さったことがありました。そんな風にして私は星野さんの絵に親しみを感じるようになって行きました。但し、その頃の私の星野さんに対するイメージは、「口にくわえた絵筆で絵を上手に書くすごい人」という程度でした。ですから絵に添えてある詩から星野さんの心情に思いを巡らすというようなことはほとんど無かったと思います。

 2番目の時期は、もう少し信仰が深まった2000年代の後半です。このころ、私は横浜の赤レンガ倉庫で開かれた星野さんの詩画展を観に行きました。調べたら2006年でした。私は相変わらず星野さんのことを、「口にくわえた絵筆で絵を上手に書くすごい人」というイメージを持っていたと思います。ただ、それだけでなく絵に添えた詩へも多少は興味を抱くようになっていたと思います。しかし、やはりあまり深く思いを巡らすことはなかったように思います。

 どうしてそんなに鈍感だったのかな~と考えてみて、その頃の私は大学の教員として競争社会にどっぷりと浸かっていたからだろうなと思いました。大学では常に競争を強いられていて、競争的な外部資金を多く獲得する教員が良い教員という目で見られていました。ドロップアウトすれば出世の見込みはありませんから必死でした。そういう競争社会にどっぷりと浸かっていれば、星野さんの世界を理解できなかったことは当然だろうと思います。弱い人の中でも最も弱い立場にある星野さんの内面を想像することなど、研究で競争していた私には難しかっただろうと思います。

星野さんの内面に思いを巡らす
 そして今回、実に14年ぶりで星野さんの詩画展を訪れて、星野さんに対する見方が自分の中で大きく変わったことを知りました。そういう意味で、今回浜松まで行って星野さんの詩画展を観ることができて、とても良かったと思います。

 今回、「口にくわえた筆で絵を描く星野さんは凄い」という思いからは完全に卒業していて、私の関心は専ら詩から垣間見える星野さんの内面に向いていました。

 今回の詩画展で最も私の興味を引いた詩は、ヘクソカズラの詩でした。この詩をご存知の方もいらっしゃると思います。一般的にヘクソカズラというと、「可哀相な名前を付けられた植物」、というイメージが強いと思いますが、星野さんはこの「ヘクソカズラ」という名前をとても愛おしく感じているんですね。ヘクソカズラの絵に星野さんは次のような詩を添えています。

<へくそかずら>

町も人も 美しい名前が 多くなりました
でも 何だか 疲れます

ここに 小さな 花が あります
「へくそかずら」といいます

「へくそかずら」
呼べば 心が和みます

「へくそかずら へくそかずら」
「へくそかずら へくそかずら」

つぶやきながら 夕べは ぐっすり眠りました


 この詩を読んで、私はマタイ23:27のイエスさまの言葉を思い起こしました。

マタイ23:27「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」


 町も人も美しい名前が多くなったことを、星野さんは「何だか疲れます」と感じています。外側が美しく見えるように取り繕うパリサイ人のように感じるからでしょうか。そんな星野さんはヘクソカズラという名前を愛しています。まるで罪人を愛していたイエスさまのようだと思いました。そうして、この詩によって私の心も和みました。

「風」の詩と神様
 他にも心が惹かれる詩がたくさんありました。「母」や「妻」に関する詩にも心惹かれましたが、特に「風」に関する詩が、「神様にすべてを委ねる信仰」と重なって、とても感銘を受けました。それら「風」に関連した詩を三つ挙げたいと思います。

 黄色いタンポポの花の横に「綿毛」のタンポポも並べた絵に、星野さんは次のような詩を添えています。

<たんぽぽ>

いつだったか きみたちが 空をとんでゆくのを見たよ

風に吹かれて ただひとつのものを持って
旅する姿がうれしくてならなかったよ

人間だってどうしても必要なものはただひとつ
私も余分なものを捨てれば 空がとべるような気がしたよ


 この詩を読んで私はY兄が天に召された日のことを思い起こしました。Y兄は余分なものを一切捨てて、身軽になってイエスさまと一緒に天に昇って行きました。

 首から下が動かない星野さんほど多くのものを捨てて来た人はいないと思います。それでもなお、星野さんは自分の中には、いろいろ抱え込んでしまっているものがあることを感じているのでしょう。それが人間なのだと思います。星野さんはそんな人間の罪深さに失望することなく、むしろ温かく優しい目で見ているのだと思いました。だからこそ「へくそかずら」を愛おしく思っているのだろうと思いました。

 人間が完全に聖くなれるのはY兄のように天に昇って行く時でしょう。そういう最期の時への憧れもあるのでしょうか。次の「木の葉」という、紅葉の落ち葉を描いた絵に添えた詩から感じることができます。

<木の葉>

木にある時は 枝にゆだね
枝を離れれば 風にまかせ
地に落ちれば 土と眠る

神様にゆだねた人生なら
木の葉のように
一番美しくなって散れるだろう


 星野さんはすべてを神様に委ねて生きていこうとしています。そして最期は聖められて天に召されることを願っています。

 いま読んだ二つの詩は「風」に関係しています。たんぽぽの綿毛は風に運ばれ、木から離れた木の葉も風に舞います。綿毛も木の葉も自身を完全に風に自分を委ねています。星野さんは心が聖められているから、目に見えない「風」も良く見えるのでしょう。そんな星野さんの「風」の詩に私はとても心惹かれました。

 最後にもう一つ、「風」に関わる詩を紹介して終わることにします。コスモスの花の絵に添えられた詩です。

<コスモス>

風は見えない
だけど 木に吹けば緑の風になり
花に吹けば花の風になる

今、私を過ぎていった風は
どんな風になっただろう

 この詩を読んで私はヨハネ3章8節のイエスさまのことばを思い起こしました。新改訳第3版でお読みします。

ヨハネ3:8 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 よく知られているように、ギリシャ語では「風」も「霊」も同じ「プニューマ」という言葉が使われています。風と霊はとても似ているのですね。星野さんは「今、私を過ぎていった風はどんな風になったのだろう」と書きました。星野さんを過ぎていった風は聖霊だと思いました。聖められてイエスさまに似た者にされた星野さんを過ぎていった風は聖霊だろうと思いました。

 ひるがえって私を過ぎていった風は汚れた風であることを思います。ですから、この詩を読んで心を刺されました。星野さんのように聖められることは難しいかもしれませんが、少しでも近づくことができたらと思いました。

おわりに
 最後に、冒頭に読んだマタイ5:8をお読みしました。もう一度お読みしてメッセージを閉じます。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 イエスさまと出会って聖められた星野さんには、目に見えない風が見え、神様もまた見えるのでしょう。そうしてイエスさまに似た者とされた星野さんはとても優しい目で周囲を見ています。そういう者になりたいと思わされた詩画展でした。

 お祈りいたします。
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