立候補している56人のうち、9人か10人ぐらいのポスターが貼られています。発明の人とかSFの人とかは、ポスター貼り、がんばってますねぇ。
報道されているような不愉快なものを見せつけられないのはありがたい限り。郊外だし、住宅地という立地もあるのでしょう。
とはいえ、これからまだ2週間あるので、いずれ変なのも貼られるかも。
立候補している56人のうち、9人か10人ぐらいのポスターが貼られています。発明の人とかSFの人とかは、ポスター貼り、がんばってますねぇ。
報道されているような不愉快なものを見せつけられないのはありがたい限り。郊外だし、住宅地という立地もあるのでしょう。
とはいえ、これからまだ2週間あるので、いずれ変なのも貼られるかも。
習近平主席がG20を欠席するようです(代わりに李強首相が出席)。その理由が気になっています。
不動産不況などの経済問題、新しい地図の境界線やウクライナでの戦争でのロシアとの関係などの外交問題などが理由として取りざたされていますが、日本経済新聞に「習氏が北戴河会議で激怒 G20欠席、発端は長老の諫言」という中沢克二編集委員の記事が出ました。
長老グループから「このままではマズい」と統治の現状を批判され、周囲に怒りをぶちまけているという情報があるというのです。
震え上がった側近は、面目を失った主席をこのままG20にいかせるわけにはいかない、身代わりに首相が行くべきだということになったというのですが……。
度を失った習近平主席がどのような言動をするのか、我々には知る由もありません。しかし、これまでにも外交の場面でかなりドスの効いたセリフを吐いたことは、記憶に強く残っています。
今回の欠席にそういったキャラクターが影響しているかどうか。注意して見守っていきたいものです。
夜になってロシアに関する重大なニュースが伝えられました。
気になってあちこち報道機関のサイトを見ています。
プリゴジンの率いる軍事組織ワグネルがロシア南部のロストフ・ナ・ドヌを占拠。モスクワへ向けて進行しているという報道もあります。
「反乱者」を糾弾するプーチンのビデオは怒りに満ちています。
どうなるのだろう?
推移を見守っています。
そうきたか、と感じました。
ロシアのプーチン大統領がウクライナをことさらに問題化しようとしているわけですが、侵攻の構えを見せてアメリカや西欧の出方をうかがった後、次の一手をどう打つのか、気になってしょうがなかったのです。
アメリカが盛んに「ロシアは侵攻の決定をした」と言っているのも、もしかしたらロシアが意図的に誤った情報を漏らしているのかもしれないと思ったりしたのですが、バイデン大統領が言っていたのがこのことだとしたら、アメリカの情報機関がつかんだ情報は正しかったことになるのか?
それも今の段階では判然としません。
自国の一部を独立国家に仕立てあげられては、ウクライナ政府も黙ってはいないでしょう。ロシアに対する態度がさらに硬化することは必至。ウクライナ国民の愛国意識は高まっているようです。
両国が衝突するようになれば、アメリカや西欧諸国も戦力を送ることになる。それはロシアも望んでいないはず。
プーチン大統領はここをどう乗りきろうというのでしょうか。
ワリエワ選手の問題と直接の関係はないとはいえ、どうにもロシアはやっかいな国だという気がします。国民や文化は素敵なんですけど、指導者の考え方がねえ……。
朝から晴れて最高気温 25.6℃(隣町アメダス)。この先数日はこんなお天気のようで、植え付けにはもってこいです。
ということで、ベランダのコンテナにクインシーメロンの苗を植えました。
数年前に市販の実を食べた際に種を採り、植え継いで3年目かな。良い苗が育つようになりました。
とりあえず2株植えたのですが、1株に1個実れば十分と割り切っています。
「孤独な人とは誰か」という問いが政府内で取りざたされているらしい。
今年2月、内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」が設置され、孤独や孤立による個人や社会の問題に取り組むことになっています。世界では英国に次いで2番目だとか。担当大臣は坂本哲志1億総活躍担当相が兼務。
毎日新聞の本日付朝刊によれば、年度内に全国調査を実施して、国内の孤独・孤立の実態を把握する予定だそうですが、その際、問題になるのが上記の問い。
つまり、「孤独」をどう捉えるかは人によってさまざまで、孤立無援の状態で途方に暮れる人もいれば、「おひとりさま」状態を楽しむ人もいる。問題となる「孤独」をどう定義するかが難しいというのです。
坂本担当相は「寂寥感を伴う主観的な感情」を「孤独」と位置づけており、また公衆衛生学などでは各人への調査をもとにした客観的指標もあるそうです。
むずかしい問題ですが、哲学や文学の分野では「孤独」は必ずしもネガティブな感情ではなく、向き合うべき必要なものだと捉えることも多いですね。つらいけれども、そこから生きることの意味を見出すことが可能だ、と。
一方、社会的、政治的な問題として対処しなければならない悲劇の源泉でもあるわけで、議論のしがいがあるテーマだと感じました。コロナ禍の今日ではなおさら、といっていいかもしれません。