二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

思いの丈を刻みこむということ  ~司馬遼太郎「北海道の諸道」のフィナーレ

2022年07月24日 | ドキュメンタリー・ルポルタージュ・旅行記
■「北海道の諸道」街道をゆく15 朝日文庫 2008年刊(原本は1979年「週刊朝日」連載)

途中で何週間か中断してしまった。すでに書いたように、中里恒子「時雨の記」という、映画および原作を読んで、頭の一部が地殻変動を起こした。
短いもの(20枚程度の短編のような)は読めたのだが、持続力を必要とする長いものはだめ。
心のある部分が浸水してしまい、その水がなかなか引いてくれなかった・・・とでもいったらいいか? 
「時雨の記」のあちこちの場面が思い出され、放り出してつぎにすすむことができない。
読書を長年つづけていると、こういう現象はときどき起こる。

さて、「北海道の諸道」街道をゆく15である。

《道南の函館では『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛、この町で布教したロシア正教のニコライ神父の生涯を考える。江差港には、幕府海軍の主力艦で、沈没に榎本武揚が戦意を失った開陽丸が眠る。旅のクライマックスは道東の陸別。『胡蝶の夢』の主人公のひとり、関寛斎の終焉の地でもある。晩年に極寒の地を開拓、深く慕われつつ劇的に生涯を閉じた。今は妻と眠る寛斎への筆者の思いは深い。》BOOKデータベースより引用

本編は「菜の花の沖」や「胡蝶の夢」を読んでいる読者なら、なおいっそう興味深く読めたに違いない。
あいにくわたしはそれらを読んでいない。「菜の花の沖」「胡蝶の夢」は本が手許にないので、いずれ揃えねばならないだろう。
司馬さんの「街道をゆく」の諸編は、自作の舞台、探訪の旅・・・といったおもむきがある(ˊᗜˋ*)

関寛斎という人物は、わたしはその名すら知らなかった。
歴史的には、明治史の中でも、無名に近い人物といっていいであろう。この種の無名の人物にスポットライトをあびせ、ステージ中央に引っ張り出すのが、司馬さんの小説を読む人の愉しみである。
坂本龍馬(竜馬)や秋山真之も、司馬遼太郎が書くまで、無名とはいわないが、それほど史上有名な人物ではなかった。

高田屋嘉兵衛や“蝦夷錦”や開陽丸のことについて、ゆかりの地を訪ね、おもしろいトピックを重ねながら、司馬さん、須田さんの旅はつづく。
「街道をゆく」の中には「オホーツク街道」の一編があり、読者からすれば、いわば“二部構成”の北海道紀行となる。
最後の三章、
・屯田兵屋
・関寛斎のこと
・可憐な町

このフィナーレは、とても感動的だった。

出不精のわたしが、北海道へは3回出かけている。新婚旅行では、4泊5日で、札幌から道東まで足をのばしたので、このときの印象は鮮やか。
そのとき、石北峠をタクシーで下りて、温根湯温泉にわたしたち夫婦も泊まった。世間のことをろくすっぽ知らない、20代のおわりのころだった。

■関寛斎(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AF%9B%E6%96%8E
この人物について、「胡蝶の夢」で寛斎を、
《「高貴な単純さは神に近い」と評している》そうである。わたしなどがくだくだしく書くより、とりあえずは、ウィキペディアにあたってみるのがいいだろう。どういう人物のことを“神に近い”と呼んだのかわかるだろう。

司馬遼太郎の目尻に、涙のあとが光っているのが見える。
「北海道の諸道」を旅する人は、かつて小説家たらんとした、そのときのまなざしで、北海道の風光と、歴史をとらえている。
「みゝずのたはこと」の徳富蘆花もそうだというが、関寛斎・・・こういう人物に対する“思いの丈”を、この紀行の最後に司馬さんは深く刻みこんでいる。
本編を書いたときには、すでに吉村昭の「赤い人」が世に出ていた( -ω-)
そのことにもふれている。樺戸集治監についてはたくさんの資料を読みこんだうえで、司馬さんは百五十年二百年の時空を、いつもの手法で再構築しているわけだ。
「胡蝶の夢」を読んでいない人は、読みたくなる。

かくいうわたしもその一人、読んでみたくなりましたぞ!


    (徳島新聞に掲載された関寛斎の肖像)



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