学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

子供に学ぶ自立の心

2020-09-29 16:10:08 | 日記
他人に大きな顔をして見せられるような写真は撮れないのだが、なぜか僕はカメラが大好きである。旅行などで外に出ると特によちよち歩きの子供から5歳程度の子供の動作や言動を観察する癖があってカメラを向けてシャッターを押す。日常の外出で最近はスマホで写真を撮れるようになって重い一眼レフを持ち運ぶ必要がなくなったので子供のスナップなどは容易になった。アメリカへ個人的に旅行する時も重いカメラを肩から下げていたし、仕事で学生を引率してアメリカの大学での語学研修などの際にも周りの風景や看板(大学で看板英語を研究していた)などを写真に納めていて、撮影した一連の写真の中には必ず子供の公園での遊び姿や保育園の先生に引率された子供の公園散歩の様子などの写真がある。街に出てはいろんな場面で子供の様々な状況に出食わした。とにかく子供は可愛い。もちろん可愛いだけがその理由ではない。海外での子供の観察ではどこかに子育ての違いを感じさせるような文化比較ができる面白さがある。腕に色とりどりの紐を巻きつけて公園を散歩する保育園の子供達グループ散歩の風景は、なんとなく紐で拘束されているように見えてあまり好きではなかった。でもそれがアメリカでは当たり前なのだ。日本なら男の子と女の子が二人づつ手を繋いで行列している光景が常識である。
写真には撮れなかったが昨日の外出時には例によってつまづいた男の子が泣かずに立ち上がってズボンを払い、そして母親の方にかけて行く姿があった。この子の母親は手助けをしなかった。だだ、「すごい!泣かなかったね」と声をかけたのだ。僕は逆にこの母親が「よしよしかわいそうに」と子供に声をかけなかったことを褒めてあげたい気持ちでいっぱいだった。子供が転ぶことには国による違いはない。アメリカの親はあまり「よしよしかわいそうに」は言わないように思う。自立が大切なしつけの一つだからである。転ぶということは世界中の子供の専売特許なのだから転んだことぐらいでメソメソするな、という精神だ。
“さぁ立ち上がって、パタパタして(ホコリを払って)、出直そう! (Get up, dust yourself off, and begin anew! )” 歳をとっても自立の精神を大切にしようと思っている。

「敬老の日」に思ったこと

2020-09-25 16:22:47 | 日記
今週の初めにコロナ感染との関係で騒がれていた連休が ‘敬老の日’ を中心に成立していたものだったということを忘れていた。自分が後期高齢者であることも忘れているほどでなぜか敬老の日が他人事に思えるのは喜ぶべきことなのだとは思うのだが…お彼岸のお墓参りをしていても自分がいずれそこに入るということすら頭をよぎらない。自分が老人の範疇に居ないと思うのは痴呆のせいではないのでやっぱり喜ぶべきことなのだろう。(ところで、このように自慢したり喜びをストレートに表現したときに’復讐の女神’のタタリを恐れて身近にある木製品をコンコンとドアをノックするように叩くというおまじないがアメリカにある。“Knock(on)wood!” と口に出して机や椅子などなんでもコツコツとやるのである。本当は映画のシーンに何度も出ているのだがそれに気づいている人は日本では少ないと思う。)
話を元に戻して、歳をとってくると健康であることがどれほど重要な意味を持つのかを身をもって感じることが多い。朝、どのような気持ちや感覚でベッドを出るかがその日の幸不幸を決めるということを僕は信じている。プラス思考の勉強で特に最近大事にしている学びがある。それは「惨めな気持ちになる秘訣は自分が幸福であるかどうかを考える暇を持つことである」という文章だ。これは別に年寄りでなくても良い、若い人も目覚めは「よしっ」と声を自分にかけることで1日が変わるのである。幸せかどうかを考えていること自体がまず無駄の始まりだ。
もう一つ敬老の日に気づいたことは8月の特殊詐欺被害のうち65歳以上の高齢者が占める割合が80%に上ると新聞に出ていたことだ。この国でお年寄りに対する敬老の念が希薄になってきたのはいつからだろうか。我々年寄りが下手をすると煙たがられるというのはなんとか我慢できるとしても、残りの人生に不安を覚えながら生活している年寄りからお金を騙しとろうという輩が存在することをどのように理解すればいいのだろうか。まず、年寄りをお金を元に判断してはならない。どんな老人も一つや二つ、人に胸を張って教えられる学びを経験していることを若者は忘れてはいけない。

「日記」はジャーナル?

2020-09-22 15:03:19 | 日記
イベントの参加人数緩和でプロ野球を観戦する人が各球場の収容人数の50%以内で詰めかけた。制限された状態とはいえ久しぶりに賑やかな球場での試合が帰ってきた。それでも心のどこかで、「大丈夫かな?」と言う不安がある。コロナ感染者数を記入してその日の日記を閉じるのが僕のここ数ヶ月の習慣になったしまった。翌朝の新聞を見ればそんな統計のようなものは即座に分かるのに、なぜかその日の気温と東京と大阪の新規感染者の数を書き込むのだ。日々の数を比べながらなんとなく自分で外に出かけるタイミングを図っているような気もするし、コロナ情勢の中での“GoTo”に関する自分の判断を確認したいのだろうとも思っている。
ただ気になることは歳をとってきて自分の日常が退屈なものになってきていることに対する心情の現れだという見方が時々頭をかすめるのだ。毎日、頭のどこかで「今日は何をする?」と自問して退屈している僕がいるのである。それでも気温が身体を動かすのに適した季節がやってきて、頑張って庭の掃除や塀際にある樫の木の剪定などに挑戦したりしている。日記に対する様々な考え方があるだろうが、僕は自分の内面の苦悩などのようなものは書かない。単に自分が何をしたのかや首相が辞任しただのと世間の目立った出来事や身の回りで何が起こっているのかを列挙した記録である。退屈な記録であるともいえるが、4、5年経って見直すとその時の状況が蘇って面白いのだ。たったそれだけのために日記をつけているような気がする。
日記といえばもちろんあの有名な書き出しの『土佐日記』である。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。…師走の二十日あまり一日の日の戌(いぬ)の時に門出す…」の出だしの旅日記だ。紀貫之が女性に仮託して仮名文で書いたと言われている。「日記を英語にすると?」と聞けば日本ではダイアリーとすぐに返事が返ってくる。当然である。辞書にも個人的な性格のものはダイアリー(公的な性格のものはジャーナル)と解説がある。ところがアメリカにいるときに気づいたのはアメリカ人は日記をジャーナルと呼ぶ人が多いのだ。航海日誌や旅日記のように日常の記録といえどどこかしかっかりした記録的な性格を感じさせる。僕のこのブログもジャーナルに格上げ(?)するとするか。

運動を忘れていませんか

2020-09-18 17:35:33 | 日記
現役の頃は自分の専門分野の資料収集や研究に時間を取られて、周りのことを見過ごしていることが多かったように思う。現役を退くことで興味の範囲が広がって周りの何かを調べたり、観察することは僕の生活の活性化に大きな役割を演じてくれている。最近は新型コロナウイルスの影響を感じるような面白い発見を探して周りに注意を払うようになってきた。
例えばシェア(Share) という言葉を最近は特に耳にするようになった。以前からシェアという言葉は耳にしていて特に注目には値しないが今回の意味は少し違っているようだ。僕が以前から知っているのはシェアーマンション、カーシェアリング、などマンションや車を複数の人たちで共有することだった。最近はシェアーサイクリングという自転車の共用システムが特に人々の注目を集めているという。それはカーシェアリングと同じようなものなのだろうが、僕が新聞記事に目を留めて注目したのは “シェアースペース” だ。誰も使っていない余ったスペースをテレワーク、リモートワークしている人達に貸し出すというのだ。まさに時代の動きを利用した新しいビジネスである。カフェなどがこれを実践していたのは知っていたけれど、それが一般の普通の食堂やホテルまでもが空いたスペースを貸し出すということをやり始めたのである。考えてみれば広くてリッチな雰囲気を味わえるホテルのロビーはそれなりに高級感を生み出して重要な意味を持っていたのであるが最近はそれが使っていない無駄と捉えられるようになってきたのだ。人と人とのディスタンスが何よりも重要な意味を持ってくるとそのディスタンスを取ることを実現するためには広い空間を持つ場所を有効利用することが要求されているのだ。驚いたことにはお寺の本堂まで使われていないスペースを提供し始めたことである。いずれにしろその背景には人を呼ぶための機会を提供することと、その存在を人々に意識してもらうことだという。シェア(share)は二人以上の人が分担、共有、共用するという意味がある。「人と同じ気持ちを分かち合う」という意味もあってこの単語は本当は奥が深いのだ。コロナで分断されつつある人と人との関係を考える時、気づくことが一つある。“人は気持ちをシェアできる誰かを探している”というのが人生か。

気持ちのシェア

2020-09-15 17:29:11 | 日記
現役の頃は自分の専門分野の資料収集や研究に時間を取られて、周りのことを見過ごしていることが多かったように思う。現役を退くことで興味の範囲が広がって周りの何かを調べたり、観察することは僕の生活の活性化に大きな役割を演じてくれている。最近は新型コロナウイルスの影響を感じるような面白い発見を探して周りに注意を払うようになってきた。
例えばシェア(Share) という言葉を最近は特に耳にするようになった。以前からシェアという言葉は耳にしていて特に注目には値しないが今回の意味は少し違っているようだ。僕が以前から知っているのはシェアーマンション、カーシェアリング、などマンションや車を複数の人たちで共有することだった。最近はシェアーサイクリングという自転車の共用システムが特に人々の注目を集めているという。それはカーシェアリングと同じようなものなのだろうが、僕が新聞記事に目を留めて注目したのは “シェアースペース” だ。誰も使っていない余ったスペースをテレワーク、リモートワークしている人達に貸し出すというのだ。まさに時代の動きを利用した新しいビジネスである。カフェなどがこれを実践していたのは知っていたけれど、それが一般の普通の食堂やホテルまでもが空いたスペースを貸し出すということをやり始めたのである。考えてみれば広くてリッチな雰囲気を味わえるホテルのロビーはそれなりに高級感を生み出して重要な意味を持っていたのであるが最近はそれが使っていない無駄と捉えられるようになってきたのだ。人と人とのディスタンスが何よりも重要な意味を持ってくるとそのディスタンスを取ることを実現するためには広い空間を持つ場所を有効利用することが要求されているのだ。驚いたことにはお寺の本堂まで使われていないスペースを提供し始めたことである。いずれにしろその背景には人を呼ぶための機会を提供することと、その存在を人々に意識してもらうことだという。シェア(share)は二人以上の人が分担、共有、共用するという意味がある。「人と同じ気持ちを分かち合う」という意味もあってこの単語は本当は奥が深いのだ。コロナで分断されつつある人と人との関係を考える時、気づくことが一つある。“人は気持ちをシェアできる誰かを探している”というのが人生か。