学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

良いことは癖になるまで繰り返せ

2021-02-26 16:39:53 | 日記
最近はマスクを装着していない人は探してもいない。ただ外の生活に慣れていない人とそうでない人はすぐに見分けがつくように思う。先日午前中に出かけて電車に乗った。通路を挟んで僕の向いの優先座席に陣取った二人の初老の婦人、ペチャクチャととにかく周りに聞こえる程度の音量で会話を始めた。(実際の光景で別に女性を揶揄しているのではないことを断っておくが)黙乗を叫ばれている車内でひときわ目立った会話だった。話の内容は“癖”。やっとスーパーへのマイバックに慣れたけれどマスクをつける癖が付いていないので忘れがちだという話。電車に乗るまでの序章があるのだとは思うが、何が面白いのか詳細はわからないがとにかくよく笑う。失敗談が自嘲的になって笑いを生んでいるのだろう。マスクの鼻の隙間からの飛沫の飛び交っているのが見えるようで何となくウサンくさそうな周りの人の視線の変化すら感じていた。
考えてみれば他人事ではない。僕はコンビニに入るときにマスクもマイバックも忘れる傾向にあるのだ。車の中にちゃんと用意をしているのに外に出てドアを閉めた途端にマスクをしていないことやマイバックを持っていないことに気がつく。「良いことは癖になるまで繰り返せ」などと勉強や読書の習慣化の大切さなどを学生に説いていたのに。「癖」とは無意識のうちに身につけてしまった言行、習慣になっている行動のことだ。マスクやマイバックは特に癖になるまでしっかりと意識しなければ、と自分に言い聞かせている。そういえば癖という言葉を使った表現はたくさんある。口癖、髪の毛の癖、癖のある文章、甘やかすと癖になる、などなど。同じことを繰り返しているうちにそれが癖になってその人自身を作り上げていることがわかる。
もう一つ思い出した。「怠惰とは疲れないうちに休む癖のこと(フランス人小説家「ジュール・ルナール)Laziness is nothing more than the habit of resting before you get tired.」これは分かっていても歳をとると疲れる前についつい休んでしまう癖がついてくる。ダメだなぁ〜。

黙走?

2021-02-23 16:10:09 | 日記
今朝は少し風があって冷たく感じたけれど、暖かい日がここ数日続いて季節が春に向かって急速に巡っていることを肌で感じるようになった。大阪の日の出が6:35と早くなり、日の入りは17:38と遅くなってきた。太陽が朝の早いうちに顔を出し、徐々に夕刻の日没が遅くなってきたのはいよいよ寒い冬が終わりに向かっているということだ。朝に新聞を取りに外に出る時の肌に感じる太陽の熱が明らかに冬のそれとは違って心地よい温かさに変わってきた。
コロナ禍の「黙食」「黙乗」の話はすでに触れたが今回は「黙走」が日常の気づきである。昨日は僕の住む地域の家庭ゴミの収集の日だ。「環境事業所」と書かれたゴミ収集車が11時にごろにやってくる。寒い日も暑い日も若い人が車に付いて走り続けて道の両側から家庭ゴミの詰まった袋を集めながらトラックに放り込んでいく。一台の収集車につき3人体制であるらしい。運転している人は少し年長で車の両脇を走り続けている二人は若者だ。ただ黙々とゴミ袋の収集に専念する「黙走」の姿を追いながら見ているのが僕はなぜか好きだ。黙走する若い二人がこの仕事をすることになったきっかけを自分勝手な想像で色々物語を作ってみるようになったからだ。コロナ禍で大学にも行けずバイトも無くなった学生さんなのか、どこかで人生につまづいたのか、いや自粛からくる運動不足の解消のためか、陸上の選手などが趣味と実益を兼ねて走るのか、いやいやもっと素直に社会の役に立つことに人生の一時期を、と考えている人かもしれない。
黙走のこの仕事は若いときにしかできない仕事。どこかで必ずこれを辞める時がくる。走りながら黙々と自分に課せられたことに専念することで仕事が終われば今度は黙考が始まることを想像する。この仕事を辞めた時、彼らはどの方向を向いているのだろうか。「人生には必要なことしか起こらない…」’ヤポンスキーこばやし画伯’という名のかつてのお笑いタレントの名言だ。沢山の名言と絵本的な絵を書いていて僕が最近気になる人の一人である。

体感温度は人それぞれ

2021-02-19 16:44:37 | 日記
数日前の暖かさからの気温の急激な変化には戸惑い気味である。水曜日の夕刻は冷たい風が強く吹きつけて庭のゴミ箱も何度も飛ばされた。周りはどうだろうかと道路に出る僕とぶつかりそうになった男性(近所の人だろうが僕は知らない人)が「寒いなー」と声をかけてくれた。寒いと言いながらなんと長袖のTーシャツの上にカーディガンを引っ掛けただけの出立でズボンのポケットに手をつっこみ背中をかがめて足早に通り過ぎて行った。薄着の彼は近くの自販機へタバコでも買いに行くのだろうか。人の体感温度は皆それぞれ違うということは知っていたけれど厚着の上にジャンパーなどを身につけている僕にはとてもじゃないが真似ができない服装だ。
体感温度の計算式があると聞いて驚いた。温度や湿度と風速から割り出す数式があるということを知ってなんと暇な人がいるものだと思った。だって体感温度などは男性、女性、年齢差、身につけている衣服など変数となる要素が多すぎることを考えると公式などの存在は僕には考えられない。でも実際にその計算式は存在するのだ。まぁ難しい計算式はさておいて一般には風速が秒速1m増すごとに体感温度は1℃下がると言われている。その程度で十分だ。アメリカでも “wind chill”, 風が影響を及ぼす体感の寒さとでもいうのだろうか日常の挨拶の中でよく使われる言葉である。“Wind chill is killing me. 風が冷たくて死にそう”とでも訳すのかな。人はそれぞれ違っていて当たり前ということを表現するにはこの体感温度を例にするのが手っ取り早い。
人と人の摩擦を生むのは“人は皆それぞれ”ということを忘れた時だ。お互いが自分の意見を言い張るときに摩擦が起こる。お互いが接点を探しながら生きていくのが人間の社会だ。コロナ禍の下、マスク警察や黙乗警察をはじめとして、この頃は人々の意見の違いが表出しだしたように思う時がある。それでもマスクはちゃんと装着して公共の場での大声の会話など控えながら飛沫を飛ばすような議論を避ける努力は必要だ。いろんな事象を分析しながら冷静な自分の意見を持つことが大切だ。「みんなが同じになるとき自分が消える」という考え方もあることを忘れずに。

昔の人々からの伝言

2021-02-16 18:09:05 | 日記
先週末の土曜日にまた地震があった。福島県沖が震源地であるという。夜まさに寝ようとするその時の地震だ。東日本大震災のような規模ではないとしても被害を被った人々のことを考えると本当に胸が痛む。今回もまた夜中に余震に怯えながら暗闇の中を避難した人もいたと聞く。南海トラフ大地震が近い未来にやってくると騒がれる今日、関西に住む僕も地震が誘発されないか、などと考えていると眠りが浅くなって何度も目を覚ました。ところで、阪神大震災、東日本大地震、を経験しても相変わらず地震につきもののマグニチュードと震度の違いを言えない人が若者の中に多く存在するのという事実に驚いた。マグニチュードは地震の規模の大小を表す。震度は我々が地上で感じる揺れの度合いを示す数値で震源が近ければ大きな揺れを感じるが必ずしも地震の規模が大きいとは限らない。震源が遠くて揺れは小さくても地震の規模は大きいかもしれない。そんな話を授業中にちょっと触れたのを思い出す。
思い出しついでにもう一つ、僕がまだ幼少の頃、もう70年以上も昔、地震に何度も怯えたことを思い出した。地震が来たら竹藪に逃げ込め、大きな木の下に避難しろ、などと言われて地面に張った木の根が地割れなどの際に助けになることを祖母が話していたのを覚えている。はたまた南天の木のそばは難を転じるということで難を免れるなどと教えられたことなどを思い出す。昔の人の言い伝え、つまり伝言、申し送り、は民俗学(昔の生活文化や伝承を研究する学問)などを勉強すると色々面白いものがある。信憑性が疑わしいものも多々あるとはいうものの昔の人々の地震への対応が垣間見える気がする。大地震や大津波は何百年の周期だとしたらやっぱり人々の注意意識は遠ざかる。大阪にもある昔の大阪人の申し送り、津波被害のレベルを示す碑があるが崩し文字が読めなかったり言葉使いが当時とは異なるために一般人にはスッと理解できないという事実があるのは残念だ。時代とともに変化する言葉や漢字は今後も繰り返されて、次の時代に天変地異が起きたとき、その時代の人々に現代の我々の申し送りの言葉が伝わるのだろうかと余計なことかもしれないことを気にしたりしている自分がいた。

マスクは口にチャックの意味?

2021-02-12 17:10:49 | 日記
三寒四温という言葉があるけれど、それに近い気温の変化が2月の半ばの今まさに繰り返されている。庭に出たり外に出る度に春の兆しを探すのであるが、たまに黄色い菜の花を目にすることもできるが、注意してみると木々に葉芽(葉になる前のつぼみ状のもの)が目立って増えてきた。花の蕾の花芽や木の蕾の葉芽を観察していると、それらは本当にじっと春の到来を我慢して黙って待っているように見えてくる。変なものと結びつけるようだがこの“黙って何かをする”ということが最近は流行っているらしい。新聞を読んでいると盛んに黙食や黙乗などという新語が増えてきている。先日は初めてバスの窓に黙乗をお願いするポスターを目にした。狭いバスの室内での飛沫を抑えるためだ。乗客の皆が(全員年寄り)全く押だまってじっと前を向いて座っているようすは本当に異常な光景であった。「バスが完全に止まってから席をお立ちください」というアナウンスだけが騒々しく室内に響き渡っていた。喋ってはいけないということでなんとなく気まずい沈黙(an awkward silence )や居心地の悪い沈黙( an uncomfortable silence)というのはこのような状況を言うのだろうとボーと考えていた。
会話を控えめに、という暗黙の礼儀のようなものが世間に行き渡り始めているように感じて、家に帰って早速「黙」の字の意味を国語辞典で調べてみた。“じっと黙る。見て見ぬ振りをする”などと言う定義を見つけて「へ〜そうなんだぁ」、’知らんぷり’をしていればいいのだ。続いて、「黙殺」は取り合わないこと、「黙視」は黙って見ていること、「黙止」は黙ってそのままにしておくこと、「黙認」とは言葉にしないで見逃すこと、などと続き、どうも肯定的な活力がないように思う。否定的とは言わないまでもどことなく消極的な雰囲気が支配しているように感じて仕方がなかった。本当に難儀なご時世だ。なんとか前を向いて(前とはどの方向かよくわからないけれど)黙々と仕事や勉強に勤しむことしか今はできない状況なのだ。