自分の住んでいる家や土地、家族の将来や自分の残りの人生など気がかりなことがあるのは認めるが、具体的に何を“心配”しているのだろうか、最近はその筋の事が気になっているのだろう、眠りが浅いような気がする。そう言えば僕の両親は生前、「いろいろ考え事があって、ぐっすり眠れない」などと不満を言いながら、昼間にウトウト居眠りをしていたのを思い出す。当時は単に歳のせいなのだと思って気にも留めていなかったが、自分が昼間の眠気を気にするようになってきた。
今日は“Worrying gets you nowhere.” という英文の日本語訳で遊んでみようと考えた。
心配することで行き着ける場所はない
心配してみても何も始まらない(何も解決できない)
心配と心痛は別問題ということを教えられたことがあった。心配は心配りと書くことを考えてみると、“心痛”と“心配”を混同して間違って理解していることが多いと言われた。そういわれれば心を痛めることと心を配ることは漢字が伝えるニュアンス(微妙な意味の違い)が明らかに存在するように当時は思った。受験期を過ごす子供達に必要なことは周りの人の心配りである。親が“心配”と一般に言うことは“心痛”のことで、心を痛めている暇があったら心を配ってあげなさい、と教えられたのである。フン、フン、なるほど…。
さて、改めて辞書を調べてみると、日常、一般に使われている“心配”の使われ方は間違ってはいないようだ。心痛は「深く心を悩ますこと」。心配は「悪いことが起こらないかと気にかかること」とある。類語の表現には、気にかかる、胸を痛める、気を使う、気に病む、などとある。
細かい“心配”、“心痛”の分析はこの程度にしておいて、人が生きていく上で、いろんな物事に心配りができるということは社会生活には欠かせない能力の一つと言えるのかも。