学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

心配りと心配

2018-08-31 20:07:20 | 日記

自分の住んでいる家や土地、家族の将来や自分の残りの人生など気がかりなことがあるのは認めるが、具体的に何を“心配”しているのだろうか、最近はその筋の事が気になっているのだろう、眠りが浅いような気がする。そう言えば僕の両親は生前、「いろいろ考え事があって、ぐっすり眠れない」などと不満を言いながら、昼間にウトウト居眠りをしていたのを思い出す。当時は単に歳のせいなのだと思って気にも留めていなかったが、自分が昼間の眠気を気にするようになってきた。

今日は“Worrying gets you nowhere.” という英文の日本語訳で遊んでみようと考えた。
心配することで行き着ける場所はない
心配してみても何も始まらない(何も解決できない)

心配と心痛は別問題ということを教えられたことがあった。心配は心配りと書くことを考えてみると、“心痛”と“心配”を混同して間違って理解していることが多いと言われた。そういわれれば心を痛めることと心を配ることは漢字が伝えるニュアンス(微妙な意味の違い)が明らかに存在するように当時は思った。受験期を過ごす子供達に必要なことは周りの人の心配りである。親が“心配”と一般に言うことは“心痛”のことで、心を痛めている暇があったら心を配ってあげなさい、と教えられたのである。フン、フン、なるほど…。

さて、改めて辞書を調べてみると、日常、一般に使われている“心配”の使われ方は間違ってはいないようだ。心痛は「深く心を悩ますこと」。心配は「悪いことが起こらないかと気にかかること」とある。類語の表現には、気にかかる、胸を痛める、気を使う、気に病む、などとある。
細かい“心配”、“心痛”の分析はこの程度にしておいて、人が生きていく上で、いろんな物事に心配りができるということは社会生活には欠かせない能力の一つと言えるのかも。

何をしている時が幸せ?

2018-08-28 20:28:29 | 日記

If you could spend all of your time doing just one thing, what would you chose?
ひとつのことをして(与えられた)時間をすべて使えるとしたら、君は何をする?

もう何年も前の話しだが、パソコンをいじりながらブラウジングであれやこれやと検索していた時に出会ったのが上の英文である。積極思考についての話しの中の英文であったように覚えている。とにかくメモが残っていた。
なぜこの英文を思い出したかというと、定年退職して自分の時間を自由に使えるようになったからである。残りの人生が毎日、毎日、少なくなっていくようなことが時々、頭をよぎるのである。与えられたすべての時間を自分の自由に使えるなどということは、今の自分には可能なようにみえても、やっぱり何十何歳になってもあり得ないことであると思うのである。家庭内のいろんな雑事がその妨げになるし、経済力がなければ、すべての時間やエネルギーを何かに注入することなどは不可能である。一つの事に集中するにはいろんなバックアップが必要なのだ。

それでも、この英文の意味を黙って冷静にその意味を考えてみると、自分が何をしたいのかを探すにはもっとも手っ取り速い質問かも知れない。若くても、歳をとっていても、「おまえはなにをしたいの?」と自分自身に問うことは、自分を目覚めさせるきっかけになるような気がする。
“自分は何をしている時が一番気分よく、快適なのか”を考える時間を日常のどこかで見つけようとする努力は何をさて置き最も大切な人生の作業なのかもしれない。

“断捨離”を考える

2018-08-24 20:08:09 | 日記

歳をとって仲間が集うと“断捨離”が話題になることが多い。若い人は関係ないと思っていると大間違い、自分が独立して生活をはじめると、どれだけ多くの無駄を家の中に持ち込んでいて捨てることができなくなっているかという現状を知るべきである。物を増やし、溜めこむのが生活というものだ。家の中を見渡してみると、衣服をはじめ何年も使っていないものが山とあるのに気づくのである。それでも捨てるという作業には何か罪悪感がともなって、結局、捨てずにまた部屋の隅にため込んでいく。何年かこれを繰り返すと、もう手に負えなくなってくる。
さて、この断捨離をすべく、僕は相変わらず暇を見つけては物置や押し入れ、部屋の点検を続けている。50年も前のアメリカ留学時代のノートや教科書そして書物、日本に帰ってからのメモやちょっとした書き物を見つけては、それらを書いたころを思い出してまた心が躍るような興奮を覚えることがある。「なんということだ。捨てられない」。あまりにも思い出が詰まりすぎている。たいした量やかさが張るものではないから、ま、これらはよし。

英語にYoung at heart.(心の中では若さを)というのがある。よけいなことを言うようだが、割と好きな表現で、He is not a bad guy at heart.(彼は根は悪い奴ではない)などと使う表現だ。オッと英語表現の好き嫌いなどはさておいて、若い頃にとった写真や旅行のお土産、なぜか50年前の航空券やデスニーランドの入場券さえも捨てられないのである。それらを見ていると若かりし頃を思い出し、なんとなく元気が出てくるのである。Young at heart.を維持しようと思えば、生きている内はやっぱり捨てられないものもある。
でも、でも、僕が死んだらこれらの物は残された家族にとってはどういう意味があるのだろうか。

“やめる”を選択肢に入れるな

2018-08-22 20:08:38 | 日記

Take some deep breaths, and keep at it!
何度が深呼吸、(やっぱり)がんばれ!
しんどくて、「もう辞めたい」何度もやめようと思って、また気を取り直して頑張ってみた。
インタビューに高校野球の選手達がよく口にする言葉である。国民的行事になった高校野球、勝ったチームも負けたチームもいろんな高校生活の思い出を残して今年も幕を下ろした。目標に向かって一心不乱に努力して優勝旗を手にした大阪桐蔭高校の選手も素晴らしいし、雑草集団で頑張り通した金足農業高校の選手達は昔の“おらがチーム”的な懐かしさを蘇らせてくれた。

長い人生、時には「やめた!」とギブアップすることもあるのだが、本当にやめてしまった人は時間が経過すると続ければよかったのにと後悔する人が多い,ということを或る老人会で聞いた。努力という単語には“努める”という漢字があるのだから、大抵の場合しんどい作業なのだろう。ところが不思議なことに辞めずに続けることで最終的には何らかの価値を見出すことが多いというのだ。“やめる”ということを選択肢の中に入れないようにすることで何かが生まれるというのだ。
新聞の記事に、かなりの数の70歳代の老人が「学びの再入門」と呼ぶ学び直しを実行するというのがあった。これは何を意味しているのだろうか。彼らは大学へ、また資格を得るための学校へ歳をとってから通い始めるのである。パソコン教室は年寄りでどこもいっぱいである。彼らは何らかの理由で若い時に辞めたことを再入門で取り返そうとしている人と何か新しいことを学んで社会との関係を維持したいと思っている人達なのだ。

一度は諦めかけた挑戦に気を取り直して再挑戦するという経験は大なり小なり誰でも身に覚えのあることではないだろうか。野球に限らず、サッカーの練習、ピアノの練習など、何らかの練習といわれるものは、継続や努力が要求される。
その理由は人生というものが努力の過程で「自分を見つける旅」であるということを我々に伝えたいからだろうか。

英語で気合を入れる

2018-08-20 20:08:50 | 日記

腕まくりして、手にペッと軽く唾を吹きかけて、「よしやるぞ!」「やってやろうじゃないか」などと自分を鼓舞してその気になる時に使う英語の表現に Sock it to me! というのがある。
英和辞書にも熟語で出ているのでアメリカの俗語でもないらしいが、辞書の訳語では感覚が掴めない。(‘ソック イッ トゥ ミー’という発音を出来る限り素早く言う)。
僕は「さて、やるか」となんらかの庭仕事を始めるときに口にする言葉である。もちろんアメリカに住んでいた時に覚えた英語だが、むこうでは割と耳にする頻度の高い表現である。

お盆の15日を過ぎると、蝉(セミ)の声がパタッ聞こえなくなる。真夏の朝の騒々しい蝉の合唱が終わると確実に秋の気配を感じることになる。季節の移ろいを体で知る時期である。
外がチョットだけ涼しくなって過ごしやすくなる頃に、庭の道路沿いの数本の樫の木の剪定をすることを毎年のようにやる。この頃には樫の木はてっぺんが雑に伸びてみにくくなる。「さあ、やるぞ!」“Sock it to me.”と剪定の仕事に取り掛かる。威勢はいいのだが、翌日はやれ腰が痛いだの、腕の筋肉痛だの、手には数か所の擦り傷などと身体には何らかの勲章の傷ができている。

自分に気合を入れるというのは良い結果を生み出すことが多いと僕はおもっている。自分をその気にさせる言葉や儀式は無意味なものではない。日本でもこぶしを作って身体の前に突き出して、「よーし、やるぞ!」と気合を入れる動作がある。その時に英語で気合を入れるのも面白いのではと思うのだが。そんなことを面白いと思うのは僕だけかな。