「無聊(ぶりょう)を慰める」、という表現があるらしい。僕は一度も使ったことがないが、何もすることがなくて退屈な“無聊”を紛らしている、というような意味だ。特にすることがなくて暇な時は、徒然(つれづれ)という言葉は頭に浮かぶことはある。高校時代に覚えた吉田兼好『徒然草』の冒頭の文だ。“つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなごとを…”と展開していくのだが、要するに、何もすることがなくて暇なので、1日中、すずりに向かって頭に浮かんでくるあれやこれやを書つけていると…というような意味合いだ。
僕はこれがいつも頭に残っていて、何かをしていないと理由のない罪悪感に苛まれる。いわゆる世間で言う貧乏性ということだ。そこで、最近は暇さえあれば「足踏み体操」なるもので足の筋肉を鍛えて悦にいっている。先日、御堂筋でイチョウの木のそばのブロックの囲いにポツンと独り座って休んでいる高齢者の婦人に気がついた。腰が曲がっているので頭が胸のところにぶら下がっているように見える、そしてひどく疲れているようにも見える。徒然、などというような悠長な感はどこにもない。人生に疲れ切ったという風情だが…それでも時々頭をあげて、道ゆく人を目が追っている。どことなく孤独感が前面に出ている光景ではあるが、思い切って人通りの多いところに出てきて「”無聊”を慰める」ということだろうか、彼女なりに、何か諦めではなく、隠れた微かな意欲を注入しようとしているようにも感じた。御堂筋を颯爽と行く若者の皆さん、「いつか自分の通る道」、街にもっとベンチを設置して年寄りの座る場を作り、高齢者にやさしい街づくりをお願い…おっと、これは吉村知事さんに言う言葉だ。
僕はこれがいつも頭に残っていて、何かをしていないと理由のない罪悪感に苛まれる。いわゆる世間で言う貧乏性ということだ。そこで、最近は暇さえあれば「足踏み体操」なるもので足の筋肉を鍛えて悦にいっている。先日、御堂筋でイチョウの木のそばのブロックの囲いにポツンと独り座って休んでいる高齢者の婦人に気がついた。腰が曲がっているので頭が胸のところにぶら下がっているように見える、そしてひどく疲れているようにも見える。徒然、などというような悠長な感はどこにもない。人生に疲れ切ったという風情だが…それでも時々頭をあげて、道ゆく人を目が追っている。どことなく孤独感が前面に出ている光景ではあるが、思い切って人通りの多いところに出てきて「”無聊”を慰める」ということだろうか、彼女なりに、何か諦めではなく、隠れた微かな意欲を注入しようとしているようにも感じた。御堂筋を颯爽と行く若者の皆さん、「いつか自分の通る道」、街にもっとベンチを設置して年寄りの座る場を作り、高齢者にやさしい街づくりをお願い…おっと、これは吉村知事さんに言う言葉だ。