学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

知恵と工夫の居場所

2022-01-28 16:57:47 | 日記
 大学共通テストに関係して二つの事件が。東大門の前での傷害事件に次いでなんと試験問題の流出事件、どのような決着を見るのだろうか。徐々に明らかになりつつある背景にますます驚きを隠せない。僕は現役の頃、大学で行われた共通テストの試験監督に何度もかかわっった。試験実施時間の受験生の不審な行動に対しては特別な注意を払うことはもちろん、トイレに試験場の教室を退出しなければならない学生にも必ずトイレまでお付き合いをする。試験開始や終了も秒単位で実行される。テスト問題を撮影して外に漏らすなどという行為はとてもではないけれど不可能だと思っていたら…なんと多分転学希望なのだろう、19才女子大生が出頭してきた。
 厳しい受験戦争や勉強に対する姿勢を語る時、必ず思い出すのがジョン・スチュワート・ミルだ。僕がアメリカの大学の卒業に際して挑戦した卒業論文はミルの生涯と勉学に関するものだった。胸を張って立派な論文とは言えないものだが慣れない英語で出典の重要性などを学びながら大学の図書館で必死になって取り組んだ。ミルは教育には厳しい父親に躾けられ幼少の頃からラテン語やギリシャ語をマスターしたほどの人物だ。イギリスの歴史上有名な東インド会社に奉職した父ジェームス・ミルは彼の信じる功利主義(幸福と利益を社会や人生の最大目的とする思想)などの影響を受けながらジョンに教育を施していく。ジョンは同年齢の子どもたちと遊ぶことも禁じられ子供の時代を過ごした。ジョンの生涯についての詳細はまたの機会にということで割愛するとして、若かりしころ勉強に明け暮れたジョンの残した名言は「困難のないところに知恵と工夫の居場所はない」、本当の知恵と工夫とは勉強の仕方や努力に対して向けられるべきものだ。受験場で知恵を絞ってズルをして"得"をしようとするようなことではない。

「気にしない」の精神

2022-01-25 17:56:08 | 日記
 新聞の人生相談記事で’他人の目’が気になるという人の相談を読んでいて気がついたことがある。不平や不満、そして心配事など人を悩ます諸々の事柄を知るにつけ僕はいつも幸せとは何だろうと考えてしまう。日常生活の中でちょっとした嬉しい出来事を集めるだけでも気持ちが変わってくる。僕は新聞記事を切り取って整理収集したりするのを趣味にしている。考えを整理して新しい発見ができたりした時にはすっきりした気分を味わうことができる。例えばスポーツの優勝に関するものを切り抜きすると気分が晴れてくる。
 先日の大相撲の千秋楽で御嶽海が横綱照ノ富士を破って大関昇進につながる優勝を果たした。彼が長野県の出身でずいぶん昔に名を成した大関雷電(昔は横綱ではなく大関が最高位)というお相撲さん以来だと昨日の新聞に出ていた。そんな話を女房にすると「雷電為右衛門やな」と女房が呟いた。「うそっ!そんな名前が口をついて出てくるなどは君も古い人間やな」と大笑い。雷電とは(1767〜1825年)生涯の成績が254勝10敗、体格1m97、169kgの大男、古今最強の力士で相撲好きの人なら知らない人がいないお相撲さんだ。大きな優勝杯を抱かえる満面の笑みの御嶽海の写真が写っている。人が喜んでいる姿をみているとその喜びは伝染する。女房とのこんな日常のたわいもない会話にも喜びや笑いを見つけることは簡単にできる。幸せとはなんだろう。ちょっとした日常に喜びを見つけようとすることだ。
 他人の目や批判が気になって、それが悩みの種だと相談する人には自分も他人も喜ばせたり楽しませたり嬉しくさせることは難しい。“周りの人間に自分の生き方を決めさせるな。人は人、世間は世間、”自分自身であれ!Be yourself!” と声をかけてあげたい気がする。ちょっとおせっかいかな…。

寒中ノスタルジー

2022-01-21 16:30:04 | 日記
 年末から連続して寒い日が続いて今年は厳冬などと人々は口を揃えていうけれど、僕の日記の気温の記録を調べてみると昨年1月にも寒いマイナス気温の記録が数日あった。ほんの去年のことでも記憶とは曖昧なものだと再認識させられる。とは言え今日は大阪でも雪がちらついた。
 僕の寒い日の記憶は焚き火だ。庭で枯れ葉などを集めて焚き火をしてはサツマイモの焼き芋を楽しんだのはそんなに昔のことではないように思っていたけれど、もうずいぶん昔のことで環境汚染やスモッグなどが問題になって焚き火などは庭でできなくなってしまった。子供たちといえば自分に向かってくる焚き火の煙にキャーキャーと逃げまどったりしていた光景が目に浮かぶ。煙が自分に向かってくるのはなぜだろうかと調べた日があった。人の立ち位置で焚き火に巻き込まれる空気の流れが邪魔されることが原因だと知って納得したのを思い出す。
 東大寺大仏殿の前の大きい香炉の線香の煙を浴びると邪気が払われ願い事が叶うと言われている。そう言う意味では毎年行われる「どんど焼き」も家内安全や無病息災、豊作や子孫繁栄を願って正月のお飾りのしめ縄を燃やす行事だ。近所の人が集まって、つきたてのお餅やぜんざいを食べて親交をあたためる。しかしこれも僕の住む地域では去年に続き今年も中止になった。都会を離れて焚き火のできる田舎に移住して自然に帰るという人々が増えているという。煙霞痼疾(えんかこしつ)という熟語がある。自然を愛する心が強く持病のように心から離れない、などと言う心情を、煙や霞という字を使って表現したものだ。コロナ禍で家で過ごす時間が増えると共にコンクリートジャングルの都会での生活を省みて焚き火だの煙だのと自然がが恋しくなってきた人が増えてきたという。そういえば我々はちょっと便利さを追求しすぎてきたのかも。

若者へ、老教師から

2022-01-18 16:16:16 | 日記
 大阪の北新地の放火事件がまだ冷めやらずという中でまた東京で死傷事件。電車の車内で放火したり他人を巻き込む自殺(拡大自殺と呼ぶらしい)などという重苦しい話には胸が痛くなる。”太陽に向かって歩くこと、後ろを振り返れば影しか見えない”、と三重苦(見えない、聞こえない、話せない)を抱えたヘレンケラーはそんなことを信じていた。今回の拡大自殺をほのめかす事件を起こしたのは前途揚々と未来を持つ17歳の高校2年の少年だ。俯瞰的な視点で人生を見ることができなかった少年のある意味では悲劇だ。なぜ…?心が痛む。
 人生は右か左の選択の繰り返しだ。選ばねばならない時は、明るい方を、神に向かって正しいと思う道を選ぶこと。時にはのんびり1日中テレビを見ていてもいい。少し距離を置いてテレビを見るといろんな人の生き方を知ることもできる。人生は自分の道を探す旅、ダンスに侵食を忘れた人、五輪に人生を賭けた人、野球に、また外国語の勉強を通して世界を見る人、田舎で自然と共に生きることを選んだ人、などなど世界には様々な人がいる。勉強が好きな人もいればそうでない人も。人生は一度きり、なぜ自分が没頭できる道を探そうとしない人がいるのだろうか。世間体を気にしたり、東大に入って医者になることだけが人生ではない。自分に向いていることと向かないことがある。右の道がダメなら左の道がある。自分がしていて楽しいこと、打ち込めること、寝食を忘れて打ち込める自分の好きなことを探すことだ。「全ての責任は自分にある」と自覚したら自分が本当にしたいこと、していて楽しいことを選べるようになる。我々が学校に行くことは他人と共に生きることを学ぶこと。学校は単に自分が知らないことを知る一つの機会と捉えてほしい。テストの点を上げることが「学ぶ」という意味ではないことに気付いてほしい。

本当の年齢とは

2022-01-14 16:25:52 | 日記
 「年寄りに同い年なし」とはよく言ったものだ。トボトボと歩く83歳のお年寄りは何度もお目にかかってきたけれど83歳でヨットでの太平洋横断を考えている人がいる。その海洋冒険家といえばもちろん堀江謙一さん、新聞に新たな彼の挑戦の記事を見つけた。その挑戦とは太平洋単独無寄港横断、なんと御歳83歳というから驚きだ。今回はアメリカのサンフランシスコから兵庫県西宮市までの太平洋横断の旅だ。体力は大丈夫だろうかとの心配をよそに相変わらずやる気満々の堀江さんだ。僕が想像する太平洋横断とは山のような大波や荒波に小さなヨットが翻弄される姿だ。遠洋航海用の計器を備えたヨットだというがなんとも心もとない姿しか想像できない。
 “山があるから登るんだ” “海があるから漕ぎ出すんだ” という冒険家の姿勢だろうが高年齢で試練に立ち向かう意味を考えさせられた。”挑戦とは人生を面白くさせるもの Challenges are what make life interesting” が堀江さんや他の冒険家の心意気を的確に表現しているのだろう。20才であっても80才であっても学び続けようとする人や何かに挑戦しようとする人は若い心を持っている人と言えるだろう。自分が考える年齢がその人の本当の年齢であるということをよく耳にする。まだ若いと思うことが若くいれる秘訣なのか。今日は僕の誕生日、昔のアメリカの友人や教え子の人たち、いろんな人からいろんなお祝いの言葉を頂戴した。僕には特に挑戦したいような大事はない。でも明るく、楽しく、周りに元気を振りまけるような年寄りにはなりたいと思う。「79歳になりましたでんねん。これからも明るく楽しくいきまんねん」(大阪弁)。