学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

静寂の音

2020-12-29 16:22:03 | 日記
いよいよ年の瀬が迫ってきて、今日が今年最後のブログとなった。コロナ、コロナで明け暮れて振り回されて一年が暮れようとしている、26日の土曜日の夜に盲目のピアニスト、辻井伸行さんの“音楽で世界を繋ぐ”という番組を楽しんだ。辻井さんは世界の旅を続けながら音楽を通して人と人の交流を続ける。その番組の中で一瞬だったが「沈黙の中には音がある」という言葉が字幕に出されてなぜか頭から消えなくなった。世界にはなんと雑音が多いことか。それが人の心のざわつきを生み出してストレスという名の悩みや苦しみを生み出していく。
「沈黙」という言葉ですぐに思い出したのが「静寂の音」、日本語ではよく「シ〜ん」と記されることが多い。誰もが一度は聞いたことがあると思う「サウンド・オブ・サイレンス Sound of Silence 」という曲、大学にいる時、この曲の歌詞の翻訳を授業で試みたことがあった。学生によって、静寂の音を様々に理解して翻訳することを期待しての意図があった。学校の構内であれ、自分の家の部屋の中であれ、目を閉じてじっと耳を済ませてみると、本当にいろんな音が聞こえてくる。目をつむった暗闇の中になんと複雑な音の共鳴があることか。私たちの脳は不思議なもので、音に付随して自分の声が聞こえてくるように思うことがある。
“やぁ、暗闇さん、古くからの友よ (Hollo darkness, my old friend) / また君と話したくて来てしまった (I’ve come to talk to you again)/ “ で始まって聞く人を暗闇の中の静寂のなかに引き込んでいく出だしである。続いて、“なぜって或る予感が忍び寄り/ 僕が寝ている間にその種(たね)を撒いていったんだ…” と眠っている間に見る夢が何かの予感を感じさせる。
31日の年越しの夜には庭に出て久しぶりに除夜の鐘に耳をかたむけてみよう。遠くで響く「ゴ〜ン」という音に自分は何を感じるかに耳をすましてみようと思う。
        皆さん、どうぞ良いお年をお迎えください。

朝活動は三文の得

2020-12-25 17:02:36 | 日記
年賀状を書き終えてポストに入れて一息ついたら今日はもうクリスマス、本当に年の暮れが足音を立てて迫ってくる感がする。LINEでつながっている友人達も年始のお正月の家族一堂に集まってのお祝いを自粛するという人が多い。日本の家族の構成員がいかに全国に広がっているかを示すものだと思う。ま、家族のことは各家庭に任せるとして、とにかく否応なしに時間が過ぎてあっという間に2021年が始まることだろう。年賀書きをしている間に再認識、また気付かされたことがあった。年賀書き、買い物、家の片付けなどなど午前中にいろんな雑事を済ませると午後はゆっくり自分の個人的な趣味などを楽しんだり1日が思いのほか充実して過ごせるのだ。
“午前中の1時間は午後の2時間に相当する(An hour in the morning is worth two in the afternoon.) ”という格言が英語にあるということはアメリカやイギリスでも同じことに気付いている人達がいたということだ。1日をだらだらと始めるのではなくて、さっさと仕事に取り掛かれという教えなのだろう。朝にその気になって活動すれば効率が良くて気分も爽快だ。
私事と言っていいと思うのだが、大阪の高槻市に住む僕の弟(高齢者)、朝は5時に起きて朝の運動を開始する。近くに由緒ある上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう:階段が急なので老人は普通側道を車で上がってお参りするらしい)があってそのお宮の階段を登って降りてを繰り返す足の運動と体操が彼の日課である。冬は寒いだけでなく外はまだ暗いというがなんと他にもそんな習慣を大切にしている人が大勢いるという。(そりゃ、みんなB型人種やろ!B型はじっとしていられない性格だ、などと冗談で偏見を笑いにする)そんなことは横に置いておいて、朝の活動は周りの人々をますますプラス思考に変えて、気分が良い、友人を作ることができる、神社にもお詣りできる、など朝が爽快だと彼は得意満面。絶対そうや!これこそ1日を始めるプラス思考の姿勢だ。分かっていてもなかなか僕にはできないことだ。なぜって…僕はB型ではないからか???

知恵は経験の娘

2020-12-22 16:31:11 | 日記
年の瀬の足音がすぐそばに聞こえるようになって、僕の今年の“プラス思考ノート”を整理していたら、テレビの「カンブリヤ宮殿」に登場したユニクロの柳井正社長の話のメモを見つけた。柳井さんと言えば現代経営学(マネジメント)の主唱者ピーター・ドラッカー氏(Peter F Drucker)の信奉者である。柳井社長は「僕の基礎はピーター・ドラッカーです」と言ってはばからない。先人の成功者をお手本にして自分の成功を手に入れた人は数多い。経験に基づく困難を乗り越えて成功への道を歩む姿には説得力がある。つまり社会で名を残した人の心構えを学ぶこと、真似ることは必ず自分の生き方にプラスの形となって跳ね返ってくるのだと僕は信じている。
先人を模するという意味を理解した最初のきっかけは、かつて義理の兄に囲碁を教わっていた頃に定石(じょうせき)の大切さを学んだ時にあるような気がする。囲碁の定石とは先人が考え実験を重ねてたどり着いた碁石の盤上での配石である。藤井聡太くんで注目された将棋だって同じこと、羽生善治さんの有名な言葉、「将棋は1%のひらめき。99%の法則」に通ずるものがある。日本の茶道、花道、書道などにも学ばなければ上達しない法則がお手本の中に存在するのだ。
僕は小学生の頃から偉人の自叙伝なるものに惹かれて、その種の本を親にねだって買ってもらっていたのを思い出す。大人になってからは偉人賢人の残したプラス思考や名言を彼らの生きた時代の歴史的背景を調べながらひも解いていくという作業が楽しいと思うようになった。楽しいと思う理由は簡単だ、学びがあるからだ。発見があるからだ。自分の人生と重ね合わせて考えると「なるほど」という納得に至るものが必ず見つかるという楽しさがあるからだ。僕が書くこのブログ、「学びのプラスあるふぁ」の柱となる考え方は学校の外にある“真の学びのプラスアルファ”である。日常身近にある「気付き、観察、学び、工夫」の一連の生き様を先を生きた偉人賢人と言われる人達の名言を振り返りながら自分なりにまとめていこうとするものだ。経験の積み重ねによって知恵は生まれる。レオナルド・ダ・ヴィンチは言った。「知恵は経験の娘である」と…

♪もういくつ寝ると...

2020-12-18 16:04:03 | 日記
年賀状の宛名書きをしていたら僕らが子供であった昔は時間がゆったりと経過したのだなぁ、とふと思った。「♪もういくつ寝るとお正月〜♬」などと悠長に唱っていた頃を思い出したのだ。そんな折、女房が何を思ったか高さ1m半ほどのクリスマスツリーを引っ張り出して来て玄関に飾った。僕の娘達が子供の頃に我が家のリビングに飾ったものだ。電飾をつけるとクリスマスの雰囲気になった。アメリカで生活していた頃のクリスマスが思い出される。僕の友人の子供達がプレゼントにワクワクしながらサンタの来る日の朝を待ちわびていた光景を思い出した。
「もういくつ寝ると…」で思い出したものがもう一つある。数日前にBSテレビであの伝説のボクサー、モハメッド・アリを振り返る番組を放送していた。“日を数えるな、日々を意味のあるものにしろ Don’t count the days. Make the days count.”という言葉を残している。(count という単語には意味が二つある。「数える、価値のあるものにする」の二つだ)アリはこの言葉をどのような状況の時に言ったのかは定かではないが多分ボクシングの試合を間近に、あと何日で、などと日をカウントする暇があったら当日までしっかり練習して意味ある日々を送れということだと思う。コロナで行動が制限されつつある今日この頃、毎日を価値あるものにするためには、年末、そして年始、いや来年に向かって前向きな計画や行動を考えるために使いたいものだ。
コロナでお正月が来ても今回は家族が一堂に会することもはばかられる雰囲気になってきた。家族でコロナ感染者が出た人の話が新聞に載っている。家族間でもディスタンスを取らねばならないし相変わらず風評も考えなければならない。僕の姉の家では正月の家族が集まって新年を祝う毎年の行事を取りやめたという。弟の家も年初の初詣を取りやめると聞く。僕の家族も全員が集まれないとなると…やれやれ、この歳で感染症に怯える日々が来るなどと考えてもみなかった。

初詣は分散参拝?

2020-12-15 16:05:29 | 日記
師走と呼ばれる12月もとうとう半ばを迎えた。新型コロナで振り回されて一年が終わりを迎えている。三密だのソーシャルディスタンスだのといろんな新しい言葉が使われるようになって新たに
「分散参拝」などという言葉が巷を駆け巡っている。大晦日から元旦へと日の出を拝む人の群れや神社への初詣で賑わう例年の人出に赤信号が灯った。
東大阪市の枚岡神社は僕は子供の頃から身近な参拝の場である。七五三などいろんな行事に参加した。今年の初詣にはどのようなコロナ対策がとられているのだろうか興味がある。そこで話題の分散参拝について調べて見ると大阪にある大抵の神社は参拝の新しい取り組みに知恵を絞っているという。マスク使用はまず最低絶対条件で、次いで人の集団を避けることと言われている。殆どの神社では参道の脇に出る露店は出ないだろうし、長時間ディスタンスをとりながら参拝の順を待って、たとえ本殿の前に立てたとしても鈴緒の使用禁止、つまり賽銭箱の前の例のガランガラン、我々が親近感を持って呼ぶ本坪鈴(ほんつぼすず)を鳴らして神さんの注意を引くこともままならない状態になるという。参拝のための自身の浄めの水を使う柄杓すらも片付けられている状況になるらしい。QRコードを使っておみくじを手に入れるなどが考えられているとなると今回の参拝は少なくとも正月の三ヶ日にはやめようという気になる。神に使える神司(かんづさ)さんさえ「お正月にこだわらず三密を避けて自分の都合で参拝いただければ」との提言である。
初詣とは新しい年を迎えて家族や自分に関わる人の平穏などお願いしたりして心爽やかに参拝するものだ。でも今年はどうやら取りやめする可能性が大である。「お〜神様、事情はわかってくださいね」などと弁解しながら少なくとも gratitude(感謝)の心で新年を迎えようと考えている。そんな折、今朝の新聞ではGoToの年末年始の取りやめが決まったとある。東京や大阪の出入りの自粛ならまだしも全国一斉となると日本人にとってはかなり厳しい年明けとなるだろう。