学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

天に広げられた網(あみ)

2021-04-30 17:48:43 | 日記
 今年もはや4月の最終日、本当に毎日があっという間に過ぎていくと感じるのは歳のせいだろうか。もうほとんど忘れかけていた事件、“紀州のドンファン”こと資産家の不審死からすでに3年がすぎた。元妻が逮捕されたという記事(22歳だった元妻と77歳だった夫の資産家の死)が再び新聞に取り上げられた。この種の事件が起きる度に僕は思い出す中国の格言がある。
 「天網恢々疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」—— 僕はどこでこの格言を知ったのか定かでない。アメリカに行く前にすでに知っていて、向こうでも何かの折に思い出したものだ。きっと中学かどこかで教わったものだろうと思う。「天の網は目が粗いように見えるけれど決して悪事は見落とさない」といった意味である。人間誰しも悪事とはいわないまでも間違った行動をすることがある。そんな行動を自制してくれるのがこの格言だ。良いことも悪いことも天上の誰かに見られていると思えば意識が変わる。仕事であれなんであれ、できる限り誠実な言動をと自分に語りかける不思議な格言である。“悪いことをすれば必ず天罰が下る(You will eventually pay for the injustice.) ” 神は見通しだ。ところが「天網」という言葉を使って人々の行動や言論の監視に使っている現状が中国にあるという。天網恢々…と中国で始まった戒めの言葉が人々の自由を奪う ’監視カメラ’ に変化しているというのは本当に驚きだ。
 一方で、「天網」は善行もまた見逃すことはないと肯定的な方向にも注意を向けてくれる。人の目につかなくても良い徳行を積んでいるとまた良い報いがあるというのもこの格言に付随したものだという。子供の頃に覚えたインパクトのある言葉は頭に焼き付いて忘れない。何かつまらない言い争いでさえ、’天が見ているよ’ と逆に僕を締め付けたりしたことがあったのもこの格言だ。「誰も完全な人間はいない(Nobody is perfect.) 」の方が僕を気楽にさせてくれる機会が多かったように思う。それだけ僕は不完全人間だったのだろうか?単に性格?

駆け込み宴会

2021-04-27 15:39:25 | 日記

 “機会を逃さないように大急ぎで事を行うこと”は「駆け込み」の定義である。日曜日から緊急事態宣言が発出されることが決定して土曜日には最後の「駆け込み宴会」と銘打って大阪のいろんな場所で若者を中心に人が集まったという。有名なところでは梅田阪急東通、飲み街、居酒屋系の飲食店がたくさん並んでいる。夕方から20〜30代の人たちで溢れかえったという。またもう一件、淀川河川公園ではバーベキュウを楽しむ人たちの姿が。「屋外での宴会なら風通しも良く密にならない」との持論を展開しての大騒ぎとはいわないにしても小騒ぎ(?)、若い人が家に閉じ込められる時の独特の閉塞感は理解できる。“自分もいつか通った道”とはいうもののやっぱり大人数での宴会は控えるのが常識だとは思うのだが。人と人の交流にはお酒が付きまとう。そこで酒にまつわる名言や迷言を主題にすることを思い立った。きっと何かの学びがあるだろう。
 酒の席では遅れてきた人に「駆けつけ3杯」や「駆けつけ一杯」という言葉がある。もじって「駆け込み一杯」などと言われて遅れて席につくと一杯飲まされてまた宴席が盛り上がるといった経験を何度もしたものだ。僕が若い頃はコロナなどは心配せずに、せいぜいインフルエンザが気になった程度だろうか。みんなで楽しく盛り上がって「冷酒と親の言うことは後で効く」などを実感しながら二日酔いに苦しんだ当時が懐かしい。「勘定は酔っているときに払え。素面(しらふ)の時に払わされる勘定ほどバカらしいものはない」と年長のおじさんに教えられて変に納得したのもまた懐かしい。アメリカの歌手、フランク・シナトラが言った。「アルコールは人にとっては最悪の敵かもしれない、でも聖書には敵を愛せよと書かれている (Alcohol may be man’s worst enemy, but the bible says love your enemy.)」古今東西、お酒は人と人を結びつける最高の機会を提供してくれる。新型コロナから始まって、今は変異ウイルスや変異株などという言葉が行き交っている。あ〜ぁ、外出の罪悪感やマスクからの解放はいつのことになるのやら。

或る滑稽な出来事

2021-04-23 16:48:00 | 日記
 商売の浮沈はコロナ感染者数の増減に伴う人々の行動が鍵となることを本当に実感することができる今日この頃である。街には閉店の張り紙がちらほらと目につくようになってきた。高齢に差し掛かっている人たちが最近口にする言葉は「えらい時代に遭遇したものだ」という。年金生活に入り人生の残りの年数を数え始めた人達がいざその残りの人生を楽しもうと思ったら旅行に行けないだけでなく家の外に出ることさえ躊躇しなければならない日常だ。そんな中、駅前で若い女性の6人の集団が大声で談笑するのを目撃した。「感染しない、させない」のあのお互いへの気遣い注意はどうなったのだろうか。テレビでは心斎橋の上でインタビューを受けた男女のカップル、「感染は怖くないですか」との質問に「その時はその時」とうそぶいていた。人々が緊張感を失いつつあるという現実を突きつけられる中、いよいよ3回目の緊急事態発令が迫っている。
 そんなコロナ自粛でウンザリの世の中になんとか明るいニュースはと探していたら先日新聞に報道された火星探査車「パーシビアランス」とそれに搭載されていたヘリコプター「インジェニュイティ」の飛行テスト成功の話に目が止まった。あまりにも遠い話でおまけに日本の話題ではないのだけれどちょっとしたプラス思考の言葉が隠されている。「パーシビアランス perseverance」とは忍耐、辛抱、根気、などという意味だ。そして「インジェニュイティ ingenuity」は創意工夫の意味。この話はこれだけでは終わらない。これから先の宇宙探査の有人飛行のためには欠かせない酸素を火星で作ることができるという二ユースに続くのである。僕はもうこの世にいないだろうが、それでもコロナを乗り越えた未来や宇宙に目を向けたい。今の世界の現状を見ると明日を肯定的に見たいという気が強くなる。「人生とは墓場へ行く途中で起きた或る滑稽な出来事であった」とクリスティン・クリスプという変わり種の俳優が言ったという。コロナ禍を超えていつか“或る滑稽な出来事”と言える日が来るのを楽しみにしている。

余寒の後の暖かさ

2021-04-20 16:41:52 | 日記
 僕は毎日の出来事やその日の行動、そして気温などを記録する日記を何年も続けている。去年から東京と大阪のコロナの感染者数の記録をその日の余白に書き加えるようになった。 
 まずはコロナ問題。大阪では新規感染者の数がドンドン増えて1000人を超えたのが今月の13日、この日曜日にはついに1220人に達した。看護師さんや医者などその他医療関係者への誹謗中傷が問題化してきたという新聞記事も目にした。いやー、それにしても人の世はまったく住みにくい。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。(夏目漱石『草枕』)」例のまん延防止措置と寒さのせいで散歩がてらの公園散歩もままならなくなってきて家で文字通り巣篭もり状態である。スマホに入れた「お散歩アプリ」の歩数計も僕がほとんど運動どころか身体を動かしていないことを数字が示している。
 続いては気温の変化。ここ二、三日のこの寒さ。冬に逆戻り?と思わせる寒さが土曜、日曜日と続いた。4月中頃に起こる ’寒(かん)の戻り’、気象学的には気象擾乱(きしょうじょうらん)ということになるらしい。地球の大気圏で起こる対流の乱れがこの擾乱と呼ばれる現象を生むという。そういえば昔から桜の花の咲く頃に「花冷え」などと人々が言っていた寒さの戻りがあったように思う。今年もそれが戻ってきたということだ。とにかくえらい寒い!(なぜか急に大阪弁) I can’t believe this midwinter cold. Now, in April?.(なぜか急に英語)… 急ぎ冬のセーターやジャケット、そして電気ストーブまで引っ張り出して暖を取りながら新聞を読んだりパソコンの前に座って書き物をする始末。この逆境を乗り越えるべく、僕の小さな書斎の本棚を整理していたら昔アメリカの大学で学んだ「アメリカ文学」の教科書のウオルト(ウオルター)・ホイットマンの項に付箋があった。いろんな文学的な背景はさておいて彼の有名な名言がある。“寒さに震えた者ほど太陽を暖かく感じる Those who tremble in the cold feel the Sun warmer.” 本当は苦労をした人ほど暖かさがわかる、という意味。今日はいよいよその暖かさが戻ってきたようだ。

当たり外れ

2021-04-16 16:04:10 | 日記
 IT技術がますます発達して「痒いところに手が届く」と言われるようにさまざまな分野での情報が本当に一瞬のうちに手に入るようになってきた。便利な世の中になったものだと感心していたら、最近は時々天気予報が外れることが不思議になってきた。スパーコンピューターの『富嶽』が活躍してきっと天気予報も正確無比と思っているのに外れるのだ。4月3日の水曜日は大阪では1日中雨の予報が別に特に雨は降らずに曇り状態がずっと続いて夕方遅くから雨がポツリポツリという天気である。4月4日(水)は一日中晴れたり曇ったりの予報で最高気温20度と暖かそうな予報だったのがなんと冷たく強い風が吹き、街歩きや公園散歩に出掛けたけれど空の雲行きが今にも雨が降りそうになってきて寒くて風邪をひきそうで慌てて帰る羽目になった。
 気圧の変化などを天気予報は100%当てることはできないと僕は思っているのだが、それにしても夜まで続いた水曜日の寒さにはまいった。たかだか天気予報、目くじら立てて不満を言うことはないとは思いつつ「当たり外れ」とはこのようなことを言うのだなと変な納得をしている自分がいた。「神色自若(しんしょくじじゃく)」という四字熟語があって物事に動じず精神と顔色も自若(じじゃく)、どっしりと動じないという意味だ。慌てない、慌てない、少々雨に濡れてもイイではないかと考えながら、それでもやっぱり半分急いで家路についたのが水曜日だ。
 『くまのプーさん』の作者はアラン・アレクサンダー・ミルン。名言を残している。「川は知っている。急ぐな。いつかはそこに着けるのだRivers know this. There is no hurry. We shall get there some day.」。“そこ”って“どこ?”となるのだが、どこでもイイのだろうと僕は思っている。どんなんことをするにしても一歩一歩と足を踏み出すことは前に進んでいることを意味するのだから。焦るな、慌てるな、時間は川の流れのように止まることなく確実に過ぎてゆく。たかが天気予報、人生は当たり外れの繰り返し、ゆっくり行こう人生は、などと考えながら歩いていた。