鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<679>

2016-04-13 18:32:36 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 久しぶりに有給休暇をとって、妻と2泊3日の小旅行に出かけた。
 大分空港で降りる。別府温泉、黒川温泉と泊まり、高千穂を経由して熊本空港から戻ってきた。

 夫婦共に普段忙しくなかなか休みが取れなかったのだが、今回は無理をして休みを合わせた。
 実に充実した旅行だった。帰りの飛行機の中、はるかかなたに沈む夕日を見ながらぼんやりこんな事を考える。

 人生は(今まで500万回くらい語ってきたが)メスシリンダーに似ている、ような気がする。(毎回言っていることが違うがそこはドンマイ。)

 我々は空っぽのメスシリンダーを1本抱えて生まれてきた。普段生活している中で日々地味な色の砂粒を投じている。今回のように素晴らしい経験をすると、キラキラした色のやや大きめの砂粒を放り込むことがある。またもとの生活に戻り地味な色の砂を重ねることになるだろう。砂粒の大きさや色は人によっても違うし、見る人によっても異なるが、私の中では今回の旅行はとびきり美しく大きな砂粒になった。他人が見た場合どう映るかは判らないが、いつまでも色あせる事がない、大切な思い出になるであろうことは想像に難くなかった。

 何もせず無為に生活していると、メスシリンダーは同じような地味な色に染まる。地味な色でもシリンダーが埋まっていればまだ良いほうで、人によってはほとんど空の状態のものもある。どうせ私の人生なんか、とふてくされて生きていると多分こうなってしまう。自分の人生がつまらないのを誰かの(ほとんどが親の)せいにして駄々っ子のように床に寝転んでバタバタ騒いで。誰かが手を差し伸べてくれるのを待っている。誰も手を差し伸べないと判っているのに。
 限られた人生を少しでも愛おしい物にしたいのなら、前向きにメスシリンダーに向きあうべきだ。たとえどんな色の砂で満たされていようと、自分で見つめたときに誇らしく思えるなら、それで十分だ。

 羽田空港からの帰り道、妻は早くも次の旅の話を持ち出す。


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