鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<802> 240123 「好き」と「愛してる」と「ありがとう」と

2024-01-23 19:20:48 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 今回の話は「好き」と「愛してる」と「ありがとう」。愛しさと切なさと心強さと、ではない。

 「好き」はものすごく自分勝手な独占欲から出てくる言葉、だと思う。
 相手の事情を一切考慮しないで自分の都合から発せられる言葉のような気がする。
 往々にして若い男性・女性が他人のアイデンティティを独占したい時に相手に伝える。かく言う私も何千回も言った記憶がある。

 「愛してる」は一方的な感情が趣くままに発せられた「好き」とは異なり、自分と相手の全てに責任を持つ覚悟が出来て初めて使える。
 両親にご飯を食べさせてもらっている上杉達也が「浅倉南を愛しています」、というのは間違った使い方。高校生の分際で相手の全てを受け止め、その人生に責任など取れるわけがないのだ。彼女の人生を受け止められるようになったら出直してこい!と思ったらいつか結婚するらしい。
 脇道に逸れたが、「愛してる」なんて言葉は「結婚」という契約(またはそれに準ずるものでも良い)がなされるまでおいそれと使ってはいけないのだ。

 さて、「ありがとう」。「好き」「愛してる」に比べていささか拍子抜けする感があるが、一番難しい言葉ではないか。なんだか気恥ずかしくて、面と向かっては言いにくい。
 だが、長年連れ添った妻に対する最もふさわしい言葉は「ありがとう」という感謝の言葉ではないか、と思うようになっている。
 恐らく私の汚れた下着を洗濯機で洗ってくれるのは世界中でお袋と妻だけだと思う。お袋が亡くなった今、彼女だけである。会社から戻ると料理をしてくれているのも彼女だけだ。(その分洗い物など後始末は率先してやっているし、出来る時は料理だってしている、念のため。)

 やはりふさわしい言葉は「ありがとう」だと思う。互いにありがとうが沢山言える夫婦は、全く言えない夫婦に比べると、上手く言えないがなんだか良い。何がどう良いのか分からないが、とにかく良いのだ。
 日本人の男はシャイなのか、奥さんが色々してくれるのを当たり前だと思っているのか、私がこういう話をすると一様に驚く。普段奥さんに対して「ありがとう」などと言わないらしい。全くもって可哀そうな連中だ。

 私はこういった連中と話をする機会があると、必ず同じ話をする。

 もし、今日あなたが呑気に酒を飲んで酔っ払っている瞬間に、奥さんが買い物途中に車にはねられて亡くなってたら、その時あなたはきっと後悔するだろう、もっと「ありがとう」という感謝の言葉を言っておけばよかった、と必ず思うだろう、と。
 ちなみに私は奥さんにたくさん「ありがとう」と言うようにしている。それでも感謝の気持ちの全ては伝わりきっていないように思う。

 もっと感謝の気持ちが伝えられる言葉があれば良いのに。

 じゃ、また。


<801> 240115 古い枕を持ち帰った話

2024-01-15 19:37:42 | 日記
 毎度!ねずみだ。

 私は家での睡眠時、10代の頃から今に至るまでずっと同じ蕎麦殻枕を使っている。自分の思い通りの形にできるので重宝しているが、さすがに40年以上も使っているとあちこちほつれ蕎麦殻が外にぽろぽろとこぼれてきて辟易していた。なにしろ掃除が大変である。

 そこで実家から古い枕を持ってくる事に。住む者もいない家の中でひんやりと冷やされた枕を車に積み込み持って帰る。シミだらけの古い枕を見て、妻が眉をひそめるが、「以前使っていた枕だから大丈夫」と訳の分からない言い訳をして使おうとする。「せめて一日太陽にあててちょうだい。」と妻に怒られる。

 干し柿のように一日冬の太陽と寒風にさらされて、枕はさらに冷たくなった。今使っている枕カバーをかぶせて早速その夜から使う事に。

 夜中にふと目が覚める。定かではないが目が覚めたような気がする。
 すぐ隣で人の息というか気配というか、そんなものが感じられる。気配を感じたから目が覚めたのか、目が覚めて気配を感じたのかはよく分からない。
 とにかくそんなものの気配が寝ている左の耳越しに感じられたのだ。まあとなりで妻が寝ているのだから当然だと思いなおすが、どうも人の気配は妻の他にもう一人いるような感じがしてならない。

 さらに。

 妻は私の右側で寝ているのだ。

 私の布団の左側、妻の布団と反対側には本棚があるのだが、気配はどうも本棚の隣あたりの空間から感じられる。ちょうど誰かが枕元に座って私の顔をじっと見ているような、そんな感じである。眠さのせいだろうか、不思議と恐怖は感じなかった。
 私は目を開けてそちらを見るが当然誰もおらず、いつもの壁と本棚が見える。右側からは妻の寝息が聞こえるばかりである。妻の方を見やると、うすぼんやりと彼女が布団にくるまって寝息をたてているのが見える。もう一度左を見ると、もう気配はなかった。しばらく起きていたが、いつの間にか再び寝入ってしまったようで次に目を覚ましたのは朝だった。

 久しぶりに枕を変えたので不思議な夢を見たのだろうか。本当は全て夢の中の出来事で、夜中に目など覚ましていないのだろうか。

 妻には言っていないが、実はこの枕はお袋が実家で長い間使用していたものであった。亡くなる間際までお袋の頭を支えていた枕である。枕についているシミは私が付けたものではなく、お袋が付けたよだれなのかこぼした薬か何かの類によるものなのだ。
 
 お袋が亡くなって一年が経つが、もしかしたら自分で使っていた枕を息子が使い始めたので、懐かしくなってあの世から会いに来たのだろうか、と考えてみたりする。枕元に座って息子が自分の枕で寝ているのを見に来たのかもしれない。
 妻にこの話をしようかどうか逡巡したが、どうせ信じてはくれないのでやめておく。お袋が亡くなって一年経つが、私は相変わらず両親の夢をよく見る。これからはさらにその頻度が増えるかもしれない。

 お袋はゆっくりと死に至る途中、施設のベッドの上、浅い眠りの中で息子の夢を何度も見ただろうか。

 じゃ、また。



<800> 240109 いくつになっても親に心配をかける話2編(夢十夜の七)

2024-01-09 18:41:04 | 短編小説
1)
 こんな夢を見た。

 私は会社で片づけをしている。机の中から何冊もノートが出てくる。普段メモ代わりに使っているノートで数十冊にもなっている。定期的に廃棄しているのだが、それが不思議とごっそりと机の中から出てくる。
 私はびっしりと書き込まれたノートを見返しながら、必要のなくなった古いノートを捨てている。
 
 手持ちの未使用のノートが切れたので、文房具屋に買いに行くことに。確か会社は都会の真ん中にあるはずなのに、会社から一歩出ると見覚えのある郊外の小さな商店街である。
 見覚えがあるのは当然で私が数十年前まで生活していた実家の近くの駅前商店街である。文房具屋は私の同級生だった山本さんの実家である。もしかしたら山本さんがいるやもしれぬ、などと思いながらその文具店でノートを買い求めることにする。
 手元にまだ数冊の使用済みノートが手元にある。確かに会社を出る時には全て不要のノートは捨ててきたはずなのに。

 文房具屋に入ろうとしていた私はふと足を止める。
 その中の一冊に「ジャポニカ学習帳」と書いてある。会社でこのように子供が使うノートを使っていたのだろうか、といぶかりながらページを繰ってみると、どうも子供の字である。ノートの裏には私の名前が。唐突に、お袋が書いた文字であると思いだす。
 それは太いマジックで書かれた私の名前で、達筆な文字は紛れもなく母親のものだ。

 私は文房具屋から引き返し、ページをさらにめくってみる。ノートの前半はわたしの文字で埋まっていたが、後半はまだ使っていないのだろう、空白だった。
 さらにページを繰っていた私の手が止まる。最後のページに「いっぱい勉強して立派な人間になってください。」と、やはり達筆で母親の
メッセージがある。
 その文字を読んで私は突き飛ばされたように座り込み号泣する。夢の中で滂沱した挙句、夜中に目を醒ましてしまった。布団の中でまだ涙が止まらなかった。

 そういえばお袋が亡くなってちょうど1年が過ぎたのだが、いまだにお袋はあの世で二男の事を心配しているようである。
 
 2)
 翌日、こんな夢を見た。

 会社の仕事の都合なのだろう、私はどこぞの国に出張している。
 なんでもずい分暑い国のようで、現地の人たちはターバンのようなものを頭に巻いている。ここはインドだったか、とも思う。しかし不思議と彼らの話しているのは日本語のようだ。ビルの外をゾウが歩いている所を見るとやはりここはインドだと思う。

 わたしが商談を済ませて帰ろうとすると、唐突に親父が現れた。私より一回り位若い体裁で、アロハを着てずいぶん日焼けしている。実際に親父はツアーコンダクターをやっていたので、ハワイあたりを回って来たのだろう、などと私は考えている。

 どうしたのだ、親父よ、こんなところで何をしているのだ、と私が聞くと親父はニコニコしながら、おまえに就職先をあっせんしにきたのだという。
 私はあと何年かで定年なので、今の会社でこのままお世話になるから転職はしないと断ったが、親父はまあとりあえず話だけでも聞いてくれせっかくお前に紹介するのだから、と後にひかない。

 わたしはあまりに親父が勧めるので無下にするのもどうかと思ったのか、まあ話だけでも聞くよ、と曖昧に答える。商談先の会社内にあるレストランに入り冷たい飲み物をズルズルと飲み始める。

 親父が示した書類にはたった2行、会社名だけ書いてあった。どんな会社かも書いてない。ずいぶんと乱暴な話である。親父にその旨文句を言うと、まあまあこれから話を聞かせようと横柄な態度で話し始める。

 1社目はテレビ会社であった。どうも現地のテレビ会社のようでこれから日本に帰るのになんで現地のテレビ局で働かなければならないのだ、と私は憤慨する。
 親父はそれには全く頓着せず、ではこちらはどうだ、という。良く分からない事を言い出したが、要は芸人にならないかというものである。こちらは日本で働くようだがこの歳で芸人になっても売れないだろうというと、何しろ破格の給料だと言い出した。

 その給料の額は月に100万円を超えるもので、わたしはその金額なら芸人になろうかしらんとも思い始める。その一方でもうすぐ定年を迎えるのに転職は厳しいなどと至極現実的な事を考えたりもしている。

 今の会社に入ってとりあえず親を安心させたかと思ったのだが、定年をあと何年かに控えてなお、親父は私の事が心配なのだろう。

(了)

<799> 240109 年の初めに思う事

2024-01-09 18:35:58 | 日記

 毎度!ねずみだ。
 
 押し出されたところてんのように、また一年新しい年を迎えてしまった。2001年ころに始めたこのサイト「鼠丼」も今年で23年目に。1,001回更新したらさっさとやめてしまおうと思って始めたのだが、忙しいのも手伝って更新頻度が極端に遅く、まだまだやめられそうにない。

 親父をあの世に送り出してから3年が、お袋を送り出してから1年が経った。(二人とも苦しまずにあの世に旅立ったので、送り出したという表現は相応しいと思う。)本当に月日の過ぎるのは早い。光陰矢の如しとは本当である。

 年始早々大地震で被害を受けた方も多いのだが、なんとか歯を食いしばって乗り越えて欲しい。

 悲惨な状況がテレビの画面を通して映し出されているのを目の当たりにすると毎回思う事がある。
 今回の大震災に限らず、真面目に生きていても、天災というものは星一徹がいきなりちゃぶ台をひっくり返すように唐突にやってくるということである。
 いい加減に生きていて何か酷い目に合っても「ばちが当たった」と思うかもしれない。一生懸命真面目に毎日を送っている人間が、それにも関わらず理不尽な不幸に巻き込まれる場合、「彼らがいったい何をしたって言うのか」となんともやるせない思いに駆られる。
 受け入れがたい事ではあるが、現実は厳しい。

 立ち返って自分の事を考える。

 額に入れて飾っておきたくなるほど褒められた人生ではではないにしろ、そこそこ真面目に生きてきたつもりである。
「人は生まれながらにして不公平である」のは言うまでもないが、それを受け入れたうえで、少しでもささやかな幸せを願い、真面目に生きてきた。周囲で困っている方がいればできる範囲で親切にしてきたりもした。
 自分も含め、自分が関わる周囲の人たちに不幸が降りかからなければ良い、と毎日考えている。(冗談ではなく)毎日無事に終わって夕食のテーブルにつけるとホッとするとともに、妻と「今日も一日なんとか乗り切ったね」と話す。

 風にふかれて左右に揺れるタイトロープの上、我々は危ういバランスを取りながら少しずつ前に進んでいる。足を止めて左右を見ると、みな不安そうな面持ちで同じように少しずつ進んでいる。
 慎重に進んでいても、強風が吹きあっという間にバランスを崩して足を踏み外す事もある。そんな毎日である。

 なんとか理不尽な不幸に見舞われないよう、今年も一年真面目に生きていくしかない。
  
 同様に私の周囲の皆にも不幸が起きないような一年になれば良い、とも思う。