1879年から1945年まで66年間、近代化の波の中で同化を強いられ自ら同化していった琉球・沖縄の民衆?(3月28日、東京へ、初めてANAの二階席の窓際に坐した、春休みで満席)生きるために時勢の波に乗るため人は必至に生きる。それが現実だけれども、でもね、そう...
巨大中国の中のウィーグル地域やチベット地域の問題も含め、世界の各地のマンジョリティーとマイノリティーの葛藤、そのより民主的な施策が常に人権、機会均等など、表現の自由を含め大きな課題になる。
システムとしての公平さが要求されているわけだが、数を拠り所にする民主主義の中でマイノリティーは埋没せざるをえないところがある。最大多数の最大幸福が常に犠牲を伴うという構図である。システムのより開かれた可能性とは何か、模索が続く。同化と異化も変わらない。同化と異化は普遍性と固有性にもつながる。しかし何に同化し、何に異化するのか?複眼の二字も語り継がれてきた概念だが、スーパーカルチャーとローカルカルチャー、グローバルとローカル、巨大資本とマイナーな資本、地球資源の争奪戦は海に矛先が向けられ、宇宙にも飛び出す。常に力を誇示する勢力が淘汰してきた現在、21世紀の混沌も希望も懐疑的にならざるを得ないのかどうか、限界と野心ーー。
研究発表対象の「The Teahouse of the August Moon」の中でFISBY大尉がなかなかいい事を言っている。
I don't be a world leader. I' m making peace with myserf somewhwere between my ambitons and my limitation.
Well, I'm not so sure who's the conqueror and who the conqured.