志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

かつて「能」は「乞食所行」歌舞伎は「河原者芸能」と呼ばれた。『日本民衆文化の源流』

2014-12-08 11:54:01 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

沖浦和光さんの御本を何冊か購入して読んでいるが、この書を改めて読んだ。春駒や万歳系の歌舞の芸が被差別を源郷とすることが、あきらかにされている。沖縄の京太郎や「万歳敵討」の高平良万歳の舞踊もどうも大和からの流れであることは否定できないようだ。春駒から京太郎そしてジュリ馬へと影響関係が見えるが、春駒と類似しても大和の春駒と万歳やジュリ馬の踊りが、根の部分でかなり差異がある事実は、島伝いに沖縄本島に伝ってきた芸が南国の土地の根の部分に接して、異化されたと、見ていいのだろう。沖縄には日本ほどの階層制度なり差別の歴史は深くなかったので、その表象の芸も謡もまた別のものになっていったのだと、わかる。明るい晴れやかさに原色の衣装に身を包んだ女性たちの芸とはかなり距離感がある。

口説節も、もともと大和から沖縄に入ってきたものである。沖浦さんによると、「平家琵琶や謡曲で、哀愁や懐旧の情をあらわす曲声をくどきという。それが民衆歌謡に入って、「口説節」になった。田里朝直の新作組踊に口説が登場する。18世紀半ばである。それまでには京太郎を通してかなり沖縄で浸透してきたリズムなのだろう。

「門毎に祝福を述べて歩く芸能者は、神や仏の姿をうしろに背負った「客人」(まれびと)として畏敬されたが、ウラでは門から門へと渡り歩く漂泊の≪異人≫(ことびと)として侮蔑の目でみられた。はっきり言えば、ハレの行事のさいには「祝言職」(ほがいしょく)として歓待されたが、日常的なヶの時間に戻れば、門口に立って金銭や職を乞う「乞食人」として賤視されたのである。お能や歌舞伎は、(略)ー中世から門付け芸や大道芸をひとつ母胎として形城されたのだ。それらは日本の文化の栄光の所産であり、過酷な差別と抑圧に耐えながら生き抜いていくための生業として形成されていったのである。」

遊郭は近代沖縄芸能の母胎である。と実証したいので、このお能や歌舞伎の母胎としての門付け芸や大道芸、の沖浦さんの定義はすっきりさせてくれる。日本の春を寿ぐ芸能の名称がまた琉球でもそのまま使用されていたことなどを含め、影響関係はもっと吟味される必要があろう。ジュリ馬を差別化したのは、戦後、政治運動に意識的だったの女性たちだけだったのだろうか?近代沖縄の差別のまなざしと芸能のありかはどうだったのだろうか?


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