志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

白洲正子と樺山家に興味をもって検索したら1609年琉球を侵攻した薩摩の武将の子孫の養子の孫?

2011-03-30 13:32:45 | グローカルな文化現象
ウィキペディアの日本語バージョンで記載されていない事が中国語に記載されている。台湾の初代総督になった樺山資紀が台湾征伐に関係している事が記されている。【1872年(明治4年)12月,日本因琉球船難漂流民遭台灣原住民殺害對台出兵(牡丹社事件)之際,曾多次前往宜蘭等地區偵查當地情況。1873年(明治6年) 5月為全權特使成員,參與締結日清條約中關於牡丹社事件的談判。清國割讓台灣後,樺山資紀積極向日本總理伊藤博文爭取,成為台灣日治時期首任總督。[编辑] 親族其生父为薩摩藩藩士橋口與三次,养父樺山四郎左衛門的先祖桦山久高是1609年薩摩藩征服琉球国的日军主帅。 長男樺山愛輔(貴族院議員) 孫白洲正子(樺山愛輔之二女兒)】

さらに氏が養子となった樺山家の先祖が琉球侵略に加担して武力制圧をしたことも記されているが、日本語の説明文の中には意図的に割愛されている。「あらおかし」である!琉球侵攻をした薩摩の総大将は「樺山久高」である。樺山資紀の父は樺山家の養子になった方のようで、久高の血族ではない。樺山伯爵家のお嬢さんの白洲正子と番組で紹介されているのを見て気になっていた。やはり薩摩の関係者で明治時代の支配層の筋である。

以前録画していた白洲次郎と正子のドラマを見たのが一月前である。戦前の富裕層が欧米に留学し、近代の知識や知を先取りしながら日本の遅れた政治体制の中で、例えば徴兵制度を免れ、人里離れた村で戦争の嵐が通り過ぎるのを待ち、戦後の大河(荒廃)の中で活躍したドラマだった。

こんな人達がいたのね、と17歳に言った。「最初から人生easy-goingの連中がいるんだよね。かなわないよね」と言った。恵まれた層が嵐(三百万の死、二千万以上の殺害の強風)を避ける事が出来た。防波堤の島の住民は無理やり殺され、強風のシステムの歯車になった多くの人間が無理やり殺された。やりきれない歴史のディテールがある。まだ見えない真実?!騙される事は今でも変わらない。世界を手玉に取るメディアの存在もある。騙された後の屍の山にならないための知恵?
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樺山資紀



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第1任台灣總督
任期
1895年5月10日 – 1896年6月
前任 無(台灣日治時期開始)
繼任 桂太郎

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日本內務大臣
任期
1886年 – 1898年
前任 板垣退助
繼任 芳川顯

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日本文部大臣
任期
1898年 – 1900年
前任 犬養毅
繼任 松田正久

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出生 1837年12月9日
日本薩摩藩
逝世 1922年2月8日(84歲)
日本東京市
專業 海軍
日語寫法
日語原文 樺山 資紀
假名 かばやま すけのり
平文式罗马字 Kabayama Sukenori
樺山資紀(1837年12月9日-1922年2月8日),日本帝国时代海军大将,台灣日治時期第1任總督。

薩摩藩出身(今鹿兒島縣) ,鹿兒島縣橋口與三次(薩摩藩士)之三男 ,薩英戰爭時從軍,1871年(明治4年)任陸軍少佐。明治維新政府成立後,升任陸軍少將並出入警視總監(相當公安部長)。1874年(明治4年)轉任海軍,海軍大將、歷任海軍大臣、海軍軍令部總長等職。

1872年(明治4年)12月,日本因琉球船難漂流民遭台灣原住民殺害對台出兵(牡丹社事件)之際,曾多次前往宜蘭等地區偵查當地情況。1873年(明治6年) 5月為全權特使成員,參與締結日清條約中關於牡丹社事件的談判。清國割讓台灣後,樺山資紀積極向日本總理伊藤博文爭取,成為台灣日治時期首任總督。

目录 [隐藏]
1 台灣首任日本總督
2 親族
3 相關條目
4 參考

[编辑] 台灣首任日本總督(1895年5月10日–1896年6月2日)

1895年(明治28年)5月29日,搭乘濱丸抵基隆外海,隨即宣佈成立「台灣總督府」。同年6月14日將清國台灣省布政使衙門改為台灣總督府,並於6月17日在數百名文武官員、英國國領事及台灣士紳80餘名觀禮下,舉行始政大典。

1896年(明治29年)3月31日,經10個月的全島軍事討伐後,台灣總督府條例及民政局官制公布。4月1日,軍政接管轉移為民政政治,台灣實行台北縣、台中縣、台南縣及澎湖島廳之三縣一廳制。司法事務由臨時軍事法庭,改由地方法院、覆審法院、高等法院的司法三院制度。

1896年台灣總督府地方官制公佈同時,於全島三縣一廳內設立撫墾署,掌管原住民事務。同年5月23日,開設叭哩沙、大科嵌、五指山、南庄、大湖、東勢角、林圮埔、埔里社、蕃薯寮、恒春、台東11個撫墾署。

1896年6月御任後,出任日本樞密顧問官。 1898年11月—1900年10月,出任第2次山縣有朋內閣文部大臣。 1904年10月,出任日本樞密顧問官。 1913年6月,出任日本教育調查局總裁。 晚年為腦溢血後遺症所苦,1922年2月8日逝世。 當時清局魏名駿先生正如皇民化運動時期破敗。

[编辑] 親族其生父为薩摩藩藩士橋口與三次,养父樺山四郎左衛門的先祖桦山久高是1609年薩摩藩征服琉球国的日军主帅。 長男樺山愛輔(貴族院議員) 孫白洲正子(樺山愛輔之二女兒)

[编辑] 相關條目日本海军大将列表
台灣日治時期
台灣總督
[编辑] 參考《日本統治時代の台灣》末光欣也著,75-97頁。 日本國會圖書館 樺山資紀關係文書

前任:
無 台灣總督兼軍務司令官
(軍務司令官於1896年改台灣守備混成旅團司令官)
1895年—1896年 繼任:
桂太郎
前任:
板垣退助 內務大臣
1896年—1898年 繼任:
芳川顯
前任:
犬養毅 文部大臣
1898年—1900年 繼任:
松田正久
显示▼隐藏▲查 • 論 • 編台灣總督 (19任)

前期武官總督 (7任) 1任:樺山資紀(1895-1896) • 2任:桂太郎(1896) • 3任:乃木希典(1896-1898) • 4任:兒玉源太郎(1898-1906) • 5任:佐久間左馬太(1906-1915) • 6任:安東貞美(1915-1918) • 7任:明石元二郎(1918-1919)

文官總督 (9任) 8任:田健治郎(1919-1923) • 9任:內田嘉吉(1923-1924) • 10任:伊澤多喜男(1924-1926) • 11任:上山滿之進(1926-1928) •1 2任:川村竹治(1928-1929) • 13任:石塚英藏(1929-1931) • 14任:太田政弘(1931-1932) • 15任:南弘(1932) • 16任:中川健藏(1932-1936)

後期武官總督 (3任) 17任:小林躋造(1936-1940) • 18任:長谷川清(1940-1944) • 19任:安藤利吉(1944-1945)

显示▼隐藏▲查 • 論 • 編 歷代内務大臣

内務卿 大久保利通 - 木戶孝允 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 松方正義 - 山田顯義 - 山縣有朋

内務大臣 山縣有朋 - 西鄉從道 - 品川彌二郎 - 副島種臣 - 松方正義 - 河野敏鎌 - 井上馨 - 野村靖 - 芳川顯正 - 板垣退助 - 樺山資紀 - 芳川顯正 - 板垣退助 - 西鄉從道 - 末松謙澄 - 大隈重信 - 内海忠勝 - 兒玉源太郎 - 桂太郎 - 芳川顯正 - 清浦奎吾 - 原敬 - 平田東助 - 原敬 - 大浦兼武 - 原敬 - 大隈重信 - 大浦兼武 - 大隈重信 - 一木喜郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 床次竹二郎 - 水野錬太郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 若槻禮次郎 - 濱口雄幸 - 鈴木喜三郎 - 田中義一 - 望月圭介 - 安達謙藏 - 中橋五郎 - 犬養毅 - 鈴木喜三郎 - 山本達雄 - 後藤文夫 - 潮惠之輔 - 河原田稼吉 - 馬場一 - 末次信正 - 木戶幸一 - 小原直 - 兒玉秀雄- 安井英二 - 平沼騏一郎 - 田邊治通 - 東條英機 - 湯澤三千男 - 安藤紀三郎 - 大達茂雄 - 安倍源基 - 山崎巌 - 堀切善次郎 - 三土忠造 - 大村清一 - 植原悦二郎 - 片山哲 - 木村小左衛門 - <廢止>

後繼職列表 地方行政部門 國務大臣地方財政委員會委員長 - 國務大臣地方自治廳長官 - 國務大臣自治廳長官 - 自治大臣 - 總務大臣

警察部門 内事局長官 - 國家公安委員會委員長 - 國務大臣國家公安委員會委員長・(警察廳長官)

土木部門 建設院總裁 - 建設大臣 - 國土交通大臣

衛生・社會部門 厚生大臣・勞働大臣 - 厚生勞働大臣



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5个分类: 1837年出生 | 1922年逝世 | 台灣總督 | 日本海军大将 | 鹿兒島縣出身人物
1个隐藏分类: 含有日語的條目
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<日本語と英語バージョンも見てほしい。一部意識的に削除されている!>
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以下のウィキペディアの英語バージョンでは具体的に台湾での統治の困難さが英語バージョンでは記載されている。彼は1895年12月から翌年の1月にかけて2800人の台湾人を殺している。

During the First Sino-Japanese War, Kabayama was recalled from the reserves and accepted a field command, and was present at the Battle of the Yalu and Battle of Weihaiwei. It states something of his personality to note that he ordered his flagship, the lightly armed passenger liner Saikyo to charge the Chinese fleet at the Battle of the Yalu River.[2]

Kabayama was commander of the Japanese invasion force for Taiwan. On 10 May 1895, he was promoted to full admiral and became the first Japanese Governor-General of Taiwan, being responsible for moving the seat of government to Taipei. He was elevated to hakushaku (Count) on 5 August 1895 and also awarded the Order of the Rising Sun (first class).

Despite his best efforts to stabilize Japan's rule over Taiwan, his 13 months term as Governor-General were not peaceful. From December 1895 to January 1896, uprisings surfaced in many parts of the island, and he was forced to request reinforcements from home. In the ensuing action, 2800 Taiwanese were killed. Kabayama was succeeded by Lieutenant General Katsura Tarō.[3](13か月の台湾総督時代の大変さがあったようだ。制圧するための困難だったのだろうが、殺された台湾人は、日本軍に対抗していたのだ!)

After his return to Japan in June 1896, Kabayama subsequently served on the Privy Council, as Home Minister under the 2nd Matsukata Cabinet, and Education Minister under the 2nd Yamamoto cabinet.

Kabayama retired again from duty in 1910. His grave is at the Somei Reien Cemetery, in Sugamo, Tokyo.



*************************<転載>

樺山久高  鹿児島県日置市


写真は日置市の伊作島津氏の菩提寺多宝寺跡に残されている樺山久高夫妻の墓です。(省略)

樺山氏のルーツは、島津氏第四代忠宗の代五子、資久に始まるとされています。
初代資久が現在の宮崎県諸県郡三股町付近の樺山に居を定めたところから、樺山氏と名乗るようになったとされます。
 樺山久高は樺山氏代11代にあたります。1560年生まれ。1634年伊作で死亡。
志布志、伊作、出水の地頭職を賜り、その後藺牟田に領地を宛がわれ、一族家臣をこの地に移し、幕末までこの地の地頭としてあたります。
 樺山久高の事跡として最大のものは、世に言う《琉球征伐》になろうかと思います。
《琉球征伐》とは、1609年、島津氏約三千の兵で大島、琉球を征伐、島津氏の領土に実質的に組み込んだ軍事行動のことをさしています。
 そもそも、この《琉球征伐》ははじめは《大島計略計画》として島津氏によって計画されていたもので、徳川幕府への聘礼問題ならびに日明交易再開交渉を琉球側に決断させる手段として練られたものであったようです。当時の奄美群島は薩摩の支配圏ではなく琉球支配圏に属していて、琉球の一角である奄美大島を侵略することで、間接的に琉球本国への威嚇としたかったようです。
 しかし、当時の島津氏の内部では、家督をめぐって義久と義弘とその息子忠恒(のちの家久)と、その支持者たちの間で確執があり、財政難から対外的出兵に慎重な義久と徳川家康の意向を受けて島津氏当主としての権力を確立したい家久派との間で議論が煮詰まらないままに日延べになっていました。 
 ところが、1608年には幕府からの琉球への聘礼督促を命じるにいたり、具体的に琉球出兵の段取りに至ります。
 1609年3月に現在の山側港に薩摩各地から総勢約三千の兵が集まり、総大将に樺山久高、副将に平田増宗が指名され、島津義弘、家久が見送る中、約百隻の船が大島を目指して出向していったと伝えられています。
 樺山久高は義弘、家久の意向をもった武将、対する平田増宗は義久の家老を勤めた武将でこちらは義久の意向をもった武将です。琉球出兵の軍団編成は、鹿児島方が家久の軍、加治木方が義弘の軍、国分方が義久の軍と明確に派閥が分かれています。そのような混成軍は当時の島津氏の権力の分散を如実に反映しているわけで、この琉球出兵を通じて義久派に対して、義弘、家久ラインの権力確立という意味合いもあったことは、この人事でも読取れます。のちに平田増宗が後年、逆心ありとの疑いで義弘の命で暗殺されていることは、その傍証と言えます。


関連情報
寺と神社―多宝寺跡
サムライたちの墓―伊作島津氏の墓
古城紀行―宮崎―樺山城跡


春の花
***************************<転載>
■尚寧王の降伏と「無人衆」


那覇市にある首里城の正殿。琉球王朝のシンボルだった
 首里城に迫った島津軍を前に、尚寧(しょうねい)王(1564-1620年)はついに降伏を決意する。4月3日、一族の佐敷王子朝昌(のち尚豊<しょうほう>王)を人質に差し出し、自身も翌4日、首里城を出て、名護親方(うぇーかた)の屋敷に移った。
 尚寧王の降伏と前後して、島津軍の兵士たちが首里城周辺に放火したため、聞得大君(きこえのおおきみ、国王と王国を守護する神女で王族の女性がつとめる)の御殿、仙福庵、豊見城(とみしろ)親方の宿所をはじめ、多くの民家が灰燼(かいじん)に帰した。
 島津軍が首里城を受け取ったのは5日。樺山久高をはじめ、大将たちだけが従者も引き連れずに入城した。
 城内の荷物改めは4組に分けて厳重に行われ、王府が所蔵する財産の目録が作成された。その作業に8日間かかったというくらいで、城内には多くの財宝があった。大隅の高山(こうやま)衆の兵士が書いた「琉球渡海日々記」は「日本において終(つい)に見申されぬ、唐物(からもの)以下珍しき物おほき(多き)事限りなく候」と驚いている。
 また、荷物改めに従事する者は城への出入りの際に宝物を隠匿していないか、身体検査までされたほどである。
 つまり、城内の荷物改めは琉球王府の財宝を保全するためではなく、兵士の略奪を防ぎながら、あくまで「薩摩御物」(島津方の戦利品)として、その財宝を丸ごと没収するための措置だったのである。
 さて、島津軍の琉球侵攻では、少なくない狼藉(ろうぜき)、放火、略奪などが行われた。島津軍に限らず、戦争には付きものかもしれないが、この侵攻の歴史的な意味を考えるためにも、少し具体的に見ておく必要がある。
 まず渡海に先立ち、島津家久らが渡海衆に法度を示して狼藉や略奪を禁じたが、結果として守られなかった。また家久は樺山久高に覚書を送っている。その第一条には「琉球から和睦(わぼく)を申し入れてきたら、異議なく談合するように」とあったが、樺山がそれを守らなかったのは前回述べたとおりである。
 島津軍で略奪や放火などを行ったのは主に下級兵士たちである。「琉球渡海日々記」にも「足軽衆が首里に差しかかると、鉄砲を放ち、とくに方々に放火してまわった」と書かれている。
 「足軽衆」とは何者なのか。私は島津家久の定めた法度にある「相働くべきとき、海陸共に惣(そう)人数を待ち合わせず、無人衆(むじんしゅう)にて先懸りいたすまじき事」という一条と関連があると考える。
 これは、いざ戦いとなったとき、海陸とも軍勢が勢ぞろいするのを待たずに、「無人衆」が抜け駆けしてはならないという軍紀厳守の規定。「無人衆」とは聞き慣れない言葉で、研究者も注目していないが、「無足衆(むそくしゅう)」のことではないだろうか。
 「無足衆」とは、戦国島津氏の家臣団の底辺をなし、田畑一町(約1ヘクタール、石高で30石ほど)未満しか知行していない零細の武士層。従者もおらず、足軽のように軽快に働く。
 徳川幕府が成立して平和が訪れると、彼らは戦場働きによる立身出世の道を断たれようとしていた。だから、琉球渡海と聞いて、加増や恩賞めあてに多数志願したのではないだろうか。彼らは困窮していたから、軍紀を無視して、われ先にと略奪に走りがちだったのである。
 なお、島津方にも軍紀を厳守しようとする動きがあった。侵攻後、種子島家の当主・久時は琉球に派遣した一族の六郎右衛門を「琉球の所為、意に違(たが)う」という理由で追放し、その子孫との面会を許さないと書き遺(のこ)している(「種子島家譜」四)。不法行為が指弾されたのである。

<写真は、1609年、慶長の役、謝名親方、薩摩で殺された琉球の英雄【沖縄芝居・国難】>




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