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「てんさぐの花」誕生の背景と魅力 & 「無法松」との類似と違い!

2010-07-17 12:44:11 | 日々の記録・備忘録

はじめに
「てんさぐの花」は、沖縄が米軍統治下にあった一九六三年、初めて那覇劇場で上演された「沖縄芝居」である。

「沖縄芝居」は、明治十二(一八九七)年の廃藩置県(琉球処分)以降、王府からの禄(給金)を断たれた宮廷芸能の担い手(士族層)らが、那覇の辻、仲島遊郭界隈を拠点として、当初はカマスで囲った芝居小屋を造り、そこで彼らが培った宮廷芸を切り売りして始まった。明治十五年に「遊劇興業取締令」が沖縄で発令され、やがて本式の芝居小屋ができ、商業演劇が花開いた。
「沖縄芝居」が、芝居としての様式性やその独特な口調(くーちょう)を伴う「口立て」(簡単な筋立てで役者のセリフに頼る)による沖縄語(ウチナーグチ)劇を完成させるのは、日本への同化の過程で、組踊や伝統古典舞踊・古典音楽、さらに村々の民俗芸能などを母胎にしながら、日本の芸能文化(歌舞伎、壮士芝居、新派)の受容(影響)を経た明治三十九(一九○六)年から四十五(一九一ニ)年の事である。日本文化の包摂と異化の中で沖縄芝居は独自の型を生み出した。それは主に沖縄語セリフ劇(時代劇、史劇、狂言)と琉球歌劇に分かれる。
その代表的な作品は史劇「今帰仁由来記」「大新城忠勇伝」、そして歌劇「泊阿嘉」「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小」である。昭和八(一九三○)年頃は「珊瑚座」「真楽座」の競合時代を迎え沖縄芝居は熟成の時代に至る。口立て芝居から脚本による芝居への転換期でもあった。その代表作が「首里城明渡し」や「那覇四町気質」だ。
「沖縄芝居」は、沖縄語で表現される琉球・沖縄の歴史・文化、さらに日々の情念のありかを結晶のように舞台に再現し、そこに生きる糧を見いだしてきた沖縄の演劇人と一般庶民が共同で生み出した大衆芸能である。「組踊」と肩を並べ、「沖縄芝居」も沖縄語、三八六のリズム(古典音曲・民謡)、琉球舞踊が主軸になっている。

「てんさぐの花」の作者・主演・演出の真喜志康忠氏は、大正一ニ(一九二三)年に那覇で生まれ、九歳にして珊瑚座に役者見習いとして入座し、戦前の沖縄芝居の熟成期に青春時代を「珊瑚座」や「真楽座」の座員として過ごした経験を持つ稀有な役者である。名優の誉高い玉城盛重、渡嘉敷守良、真境名由康、親泊興照、宮城能造、伊良波尹吉、島袋光裕、玉城盛義、平良良勝、比嘉正義、平安山英太郎、翁長小次郎の芸を身近で観賞し(見(みー)なり聞(ち)ちなりして)、共に舞台に立つ機会も得た。敗戦後三年に渡るシベリアでの拘留から帰沖後、若干ニ十六歳で「ときわ座」を一九四九年に旗揚げ、座長として沖縄本島、離島をくまなく巡業してきた。一九七○年に解散するまでのニ十一年間、戦後沖縄芝居を常に先導する役割を果たしてきた。「てんさぐの花」は、「くちなしの花」「首里子ユンタ」「多幸山」「復員者の土産」「按司と美女」(シェイクスピアの「オセロー」の翻案)と並び、氏が生み出した戦後「沖縄芝居」の傑作である。氏は、今年ユネスコの無形文化遺産に登録予定の国指定重要無形文化財「組踊」の保持者であり、沖縄県指定無形文化財琉球歌劇の保持者である。昨今では、シンガーソングライター Coccoの祖父として若者に認知されているようだ。

「てんさぐの花」の背景

「てんさぐの花」が一九六三年、六月ニ十七日から三十日までの四日間、那覇劇場で上演された時、「ときわ座」の異色時代劇の新作上演として、当時の琉球新報、沖縄タイムスは紙面で紹介した。両紙は、「てんさぐの花」が『無法松の一生』の脚色であることを踏まえて、筋や時代背景、一人の男が生涯をかけて、一人の女につくすテーマに言及している。特に新報の山猿氏は、真喜志氏の演出力と演技力のすばらしさを、「不思議な力」とほめそやし、沖縄タイムスのコラムニストは、「廃藩置県後にまで残る、農民と武士といった封建制度、当時の沖縄の人たちの権力に対する弱さといった風刺的な点を盛り込んである」と、指摘している。
「てんさぐの花」は、那覇劇場での初演当初から、その後、巡演を含め多くの舞台で、芝居愛好家の観衆を魅了したであろう事は、疑いようがない。その作品のもつ力の根拠は何だろうか。
真喜志氏が作品を舞台化するきっかけが、前年の一九六二年四月ニ十九日から五月中旬にかけての「ときわ座」の関西公演に起因すること、大阪新歌舞伎座で新国劇の「無法松」を観劇し、主人公の無法松を演じた辰巳柳太郎と真喜志氏の出合いがあった事は、新聞資料が明示している。真喜志氏は、一度見た新国劇の「無法松」を、新たに沖縄芝居として世に出したのである、

 新国劇の「無法松」は、昭和十四(一九三九)年に発表された岩下俊作の『無法松の一生』を、中江民夫が脚色・演出し、昭和三十年三月に開幕した。真喜志氏が見た舞台は、その再演で配役も同じである。新国劇の「無法松」の舞台に、感銘を受けた真喜志氏は、男の純情を沖縄芝居にしたいと決意したに違いない。関西公演から「ときわ座」が帰沖するのが五月十九日で、真喜志氏は一人、東京の歌舞伎座で市川団十郎の襲名披露興行などを見て、六月三日に帰沖している。その後、「ときわ座」は、十一月から翌年四月にかけて半年間、八重山で芝居の興行を続けているが、その八重山で「てんさぐの花」の創作は舞台化され、練り直されて、六月ニ十七日に新作として、那覇劇場で晴れの披露になったようだ。当時、那覇劇場は、各沖縄芝居一座にとって新作を披露しその人気を問う試金石の場だった。

「無法松」との比較

 「てんさぐの花」の作品分析を確かなものにするために新国劇の「無法松」の脚本は必要不可欠で、それは、一九九九年秋、新国劇の看板スターのお一人だった島田正吾氏の家族から入手することができた。

「無法松」と「てんさぐの花」の類似性は、劇の構成と配役、そして主題に見られる。「無法松」が宇和島屋の木賃宿と、吉岡家が主な場面展開であるのに対し、「てんさぐの花」は、ウサーハーメーの居酒屋と神山家(首里の御殿)が交互に場面を展開する。配役は無法松・松五郎に対する松ちゃ、吉岡大尉に対する神山家の当主(士族)、吉岡良子に対する神山真鶴、宇和島屋の女将・とよに対するナビー、車夫・虎吉に対する亀ぢゃー、吉岡家の長男・敏雄に対する神山亀寿と、主な登場人物がうまい具合に置換されている。
時代背景は、「無法松」が明治三七(一九○四)年から大正一三(一九ニ四)年にかけて、特に日露戦争が強調されているのに対し、「てんさぐの花」は、琉球王国から大和世への世替り(廃藩置県)の世相が描かれる。琉球処分直前の琉球の位相が物語の発端にあり、国破れて後の登場人物のその後の推移が時代の推移(日本への同化、近代化)と重なりながら描かれる。その点、今回あらためて脚本を読み直して迫ってきたのは、この作品が、「首里城明渡し」(山里永吉作)、「廃藩のアヤーメー」(大宜見小太郎作)、「世替りや世替りや」(大城立裕作)、また同じく大城の新作組踊「山原船」同様、優れて琉球の変動期(日本への併合)を描いている、という事である。

 台詞や登場人物の性格の類似など、詳しくここに例示できないが、繁雑に多い登場人物を、真喜志氏はそぎ落とし、対照性を如実に浮き出す手法で筋を完結させる。たとえば、不器用なまでに士族階層の未亡人真鶴への思いを貫く松ちゃの報われない愛に対して、松ちゃの弟分、田舎降りした亀ぢゃーは、子だくさんの一般庶民の幸せの象徴として描かれる。松ちゃの孤独が亀ぢゃー家族によってさらにあぶりだされる。そして明治一ニ年以降終戦にいたる沖縄の近代がまた階層社会であった事実も浮き彫りになる。士族、百姓、そして商人階層の垣根があり、その上に大和の支配階層が君臨していた。

所で、無法松・松五郎が美貌の女性吉岡良子に出会うきっかけが、子供の介在による「無法松」に対し、「てんさぐの花」は、神山真鶴の危機(薩摩の侍の暴行)を救う展開にしている。松ちゃは、真鶴にとって命(誇り)の恩人として登場する。そして、両作品の決定的な違いはその結末に象徴されている。松五郎は、愛する吉岡夫人に思い焦がれながら一生を終え、松ちゃは、一途に松ちゃを思い続けるナビーとの再会で幕がおりる。ナビーは義侠心のあるきっぷがいい那覇女である。

夫亡き後、新しい大和世の中、懸命に息子亀寿を育てる真鶴を無償の愛で慈しむ松ちゃに対し、しかし時勢は残酷だった。愛に敗れ、枯れたススキのような松ちゃを慕い続けていたナビーの存在は不自然にも思える。しかしそこが沖縄芝居の人情劇の良さであろうか。

 「てんさぐの花」には、「無法松」の見せ場、太鼓の乱打の場面がない。しかし、松ちゃや真鶴の心情(愛の葛藤)は、十分に台詞からにじみ出てくる。また、てんさぐの花の童謡は、主題歌として、人の道の大河を暗示させる。

「無法松」と異なる結末に関して真喜志氏は、琉球大学の「沖縄芝居講座」の中で次のように話した。「松ちゃが死んだら暗い影が、神山家や真鶴にいく。影を作りたくなかったから、あばずれだったけれども純情に松ちゃを思っていたナビーと結ばせた」と。それは、真喜志氏の作為である。その悲劇に終わらせない、作劇の背景をたどってみると、例えば組踊「大川敵討」の谷茶の按司の「…戀忍ぶ道のある間の浮世、つらさ身に受けて、思ひこがれやり、戀死なば酬(むくい)、誰(たる)にいきゆが……」や「泊阿嘉」の「露に袖濡らち、泣き明かす罪や、誰にいちゃびーが」に行き着くことがわかる。

 つまり、松ちゃが真鶴を思い焦がれて死ぬと、その報いや罪は、愛する女性のもとに行く事になる。ゆえに、真喜志氏は「てんさぐの花」を「無法松」と同じ悲劇的結末にすることができなかった、と推測できる。その心情は、沖縄の独特な死生観の表れであり、おそらく芝居の母胎「組踊」の結末のほとんどが、大団円で幕を閉じる伝統的な沖縄の一つの感性のありようもまたそこに見てとれる。

 一方で「てんさぐの花」が沖縄芝居の様式の中で近代的な自我(愛の葛藤)をうまく表出しているのも事実だ。琉球王府時代の枷、身分制度が取っ払われたものの、習俗・慣習から抜けきれない日本への同化・近代化の過程がまた男女の頑なな義理によって描写されている。自らの内面の声にそって素直に行動できない、世間の目(価値)を超えることのできない男女の愛とその潰えた夢は、しかし、また時に断念を懐に抱いて生きていかざるを得ない人間の無限の悲しみを湛えている。そこにこの沖縄芝居の魅力がまた潜んでいる。
真喜志氏は、ことわざを引用し、台詞の言い回しを工夫し、一つの時代を鮮やかに舞台に描いて見せたのである。

本公演への期待

今回あえて復帰記念日の五月十五日と十六日に「てんさぐの花」を演出する
国立劇場おきなわ芸術監督の幸喜良秀氏は、「この芝居の見どころは、松ちゃの報われない真鶴への思いと、愛や希望に破れ、落ちぶれた松ちゃを母の無償
の愛のように包みこむナビーの志(し)情(なさき)だ」と話した。また「時代の波にのって変化し、功成り名遂ぐ者(神山亀寿)と、同じ場に留まって取り残される者との対比もある」とさらに付け加えた。

 演技では、剛毅朴訥の松ちゃの一本気な思いを、すでに中堅としてその存在感が増している大田守邦(沖縄芝居実験劇場代表)がどう演じるか、真喜志康忠芸・味わいとも違う大田の松ちゃが見たい。またナビー役知花小百合が、どう那覇女の懐の深さを演じきるか、さらに、松ちゃへの思いを内に秘めながらも義理ゆえに成就しえない真鶴の複雑な役を、小嶺和佳子がどう演じるか、注目したい。彼らと対照的に、芝居の間の者たちを演じる亀ぢゃ役大湾三瑠や、その大きなお腹の妻カマル役呉屋かなめが、どう笑いを振りまくかも楽しみである。

 音曲の面で、今回の上演の目玉は、玉城正治氏による場面ごとの選曲と作詩である。古典二曲が新たに用いられている。劇全体の音楽のイメージが歌・三線、箏、笛、太鼓によって奏でられる。興趣深い「てんさぐの花」の歌詞とメロディーが響いてくるようだ。

(このエッセイは国立劇場おきなわのパンフ「華風」 2010 5号に掲載されたもので、一部手直しが必要だが、そのままUPしておく。沖縄バージョンの『無法松』である!)少し眼前の課題がおちついたら修正したい。写真もUPしたいがーー。



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