水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

論語(415)

2014-01-31 10:01:30 | 論語
未見蹈仁而死者也(衛霊公第十五の35)

未だ、仁を蹈(フ)みて死する者を見ざる

私(孔子)は、仁道(人間としてあるべき姿を求めること)を、命がけで追及した人を見たことはありません。


人間として生きていくには、仁道が、水火(日々の生活)よりも重要です。水火を求めて命を懸けることはよくあります。
しかるに、

となって、上に続く。


江戸時代における統治思想の基本のひとつがこれであったと思う。

支配階級(外様に対する幕閣、あるいは、農工商に対する武士)への清貧奨励や仁道教育を徹底させた。

この結果、武士は食わねど高楊枝、鷹は飢えても腐肉は食わぬ、などの思想が浸透し、そのおかげで、内戦の起こらぬ時代を長く続けることができた。


ひるがえって、今世界で起こっている、イスラム思想を中心とした勢力と他との、さまざまな軋轢はどのようは方向に行くのであろうか?
戦火に追われながら生きねばならぬ人々が、一体全体何億人いるのであろうか?
統治のベース思想・哲学がいかに大切か、しみじみ感じているところです。


論語(414)

2014-01-28 09:36:20 | 論語
小人不可大受、而可小知也(衛霊公第十五の34)

小人、大受すべからず、小知すべし

凡人は、大口をたたかず、(身の回りの)目立たないことを(完璧に)こなすよう心掛けなさい。


ここは少々独断がすぎるかもしれぬ。
というのは、「大受」、「小知」の意味がよくわかっていないのだ。
いくつか解説書をめくってみたが、互いに微妙に異なり、ピンとくる解釈に出会えなかった。
そこで、上のような勝手解釈をした次第。
ちなみに、この文の前段は次の通り、

君子不可小知、而可大受也(君子、小知すべからず、大受すべし)
((リーダーたるべき人間は小事にこだわらず、大局を動かすことを考えなさい))


大昔、吉葉山(宮城野部屋)の弟子に「大受」という力士がいて、応援していた。
同じ部屋の「明歩谷」と同様、強かったのに、惜しくも大関になり損ねた。
彼のしこ名が、論語からきていたとは知らなかった。

しかし凡人の悲しさは、なにが小知で、なにが大受か判断がつかないことだ。

論語(413)

2014-01-27 13:47:21 | 論語
知、仁、荘、礼(衛霊公第十五の33)

統治者が備えるべき条件

・ 知が備わっていても、仁に欠けると、人心はすぐに離れてしまう。
・ 知と仁が備わっていても、荘(=威厳、持って生まれた位取り)が欠けていると、敬われる人になりえない。
・ 知と仁と荘が備わっていても、礼を欠いてしまっては、善政などおよびもつかない。

某国において近年頻繁に行われてきた、首相の交代を見ていると、上の4条件の大切さがわかる。

知に欠ける、と思われてしまった方がいた。
思いやりに欠ける発言をなさって、顰蹙を買った方がいた。
他国のトップとの会見で、明らかに位負けしてしまい、失望された方がいた。
失礼と思わず失礼な発言をしてしまった方もいた。


一億を越える民を食わせねばならないのだから、某国首相のお立場もたいへんだ。

論語(412)

2014-01-24 09:58:12 | 論語
耕也餒在其中矣、学也禄在其中矣(衛霊公第十五の32)

耕すも餒(ウ)えはその中にあり、学ぶも禄はその中にあり

農耕にいそしんでいても(天災などにより)飢えることもある。(同様に)学んでいることによって給料が得られるようになることもある。


「学ぶ」ということは、富と直接的に関係することではないことを肝に銘じなさい、と言いたいのだと思う。

その理由は次のとおり、

この文の前は、君子は道を考え、腹を満たすことは考えない。(君子謀道、不謀食)
そして、この文の後ろは、君子は道を憂い、貧乏であることを憂うことはない。(君子憂道、不憂貧)

君子になろうと思ったら、飢えも貧窮も省みず、人としての生き方をつきつめなさい。
それほど、君子になるということは大変なことなのですよ。

この節については、「学べばおのずと富みが得られる」と読みがちだが、「学べば、いいこともあるかもしれぬ」の意と理解せねばならぬ。


どちらかといえば、「衣食足りて礼節を知る」を信じる者にとって、君子への道はとてつもなく険しい。

解説員として(161)

2014-01-23 16:51:26 | 論語
今日の午後、解説当番であった。

大寒とは思えない、春の日差しを思わせる陽気。快晴、無風、寒く無し。

見学者は市内在住の熟年男性おひとり、のみ。

「散歩途中、気になるので立ち寄りました」
「見学なさいませんか?」
「時間がないので、100円寄付します」
「お金をいただいたからには、見ていただかねばなりません」

「こういうのがある、と広報で知らせるべきですよ」
「昨年秋に特別公開があったのですが、そのときは随分おおきく載ったのですが」
「なかなか立派な施設だとわかりました。今度はゆっくり時間をつくってきます」
「よろしくお願いします。お友達にも声をかけてください」


今日は消防による査察であったようだ。
市職員の立ち会いのもと、消防官三名による定期的査察(?)が行われた。


大寒や 一息入れる 陽気かな

下町散策

2014-01-22 09:00:40 | 雑感(5)その他
昨日は、古い友人お二人と、深川を散策した。

大寒とは考えられないほどの陽気で、気持ちよかった。

七福神めぐりも、深川江戸資料館も、富岡八幡も隅田川も、みんなよかった。

なにより、まだまだ残っている街の、昭和の風情・面影になんともいえぬ感慨に浸れたことが、うれしかった。


写真は、清澄通り沿いの建物だが、この一角はかなり有名で、関東大震災後に建てられた、コンクリート造二階建て商店街があるところだ。

1923、1945、そして、1964年、これらの年を境に、東京は大変身した。
おそらく、2020年を境にまた大変身することだろう。

この商店街を含め、かすかに残っている下町風情はどうなるのであろうか?
今のうちに、じっくり見ておくべきかもしれぬ。

論語(411)

2014-01-20 16:49:52 | 論語
吾嘗終日不食、終夜不寝、以思、無益(衛霊公第十五の31)

吾、嘗(カツ)て終日食らわず、終夜寝ず、以て思う。益なし。

私(孔子)は、昔、食べることもせず、寝ることもしないで、もっぱら(人間とはどうあるべきか)考えたことがありました。
しかし(この方法では)、得るものはないもない(とわかりました)。

この文のあとに、不如学也(学ぶにしかず)ときて、それで終わり。


話半分、って感じの文だ。
率直に言って、この節の言い方はよくない。

為政第二の15(2011/02/25参照)の、「思」と「学」とは表裏一体の関係にあって不可分である、との言い方が正しい、と思う。
先人の教えを、本や先生から吸収し、すなわち学び、然る後、沈思黙考すべきである。
「思」に重点がおかれると、独断先行しがちだし、「学」に重点がおかれると成果がでることはない。


論語もここらあたりまでくると、少々気合抜け、の文章がでてくるようだ。
む~ん、ここまで言っていいか。読み手の思い上がりかもしれぬ。気をつけねば。

論語(410)

2014-01-16 13:11:29 | 論語
過而不改、是謂過矣(衛霊公第十五の30)

過(アヤマ)ちて改めざる、これを過ちと謂う

(同じ)過失を二度繰り返すことが、(本当の)過失である。


アヤマツと読ませる漢字がいくつかあるが、それぞれの意味は次の通り。

謬=証拠なく無暗なること
誤=書き損じ、し損じ
訛=ないことをつくり、言いふらすこと
錯=行き違い
愆=量見違い
過=気づかずに思わず悪いことをしてしまうこと


意図を持たずにしでかしてしまった失敗は、罰を受けることを免れることができる。ただし二度と同じ失敗はしない、という条件付きで、だ。
孔子は、そのようなことを言っている、と思う。

仮に、失敗が意図的に実行された場合、犯罪として認定され、法的罰を受けねばならぬ。

最近発生した、冷凍食品の農薬混入事件は不気味だ。意図的な過ちであってほしくない。

論語(409)

2014-01-14 09:33:04 | 論語
人能弘道、非道弘人也(衛霊公第十五の29)

人、能(ヨ)く道を弘む、道、人を弘むるにあらず。

道(=人間として、まっとうな生き方)を追及するのは人間。(道があったとしても)それを追及しなければ、(ただの反古)。


知識としての、もしくは机上の「道」の危うさを戒めている文章、だと思う。

日々の行動のすべてを、人間としてまっとうなものにしましょう、ということでしょう
(実践を強調する陽明学の原点ではないでしょうか)。
しかし凡人がそんなことをしたら、毎日緊張しきらねばならず、頭がおかしくなります。無理です。

時々、この文章を思い出すぐらいが関の山でしょう。

論語(408)

2014-01-13 11:53:10 | 論語
衆悪之必察焉、衆好之必察焉(衛霊公第十五の28)

衆これを悪(ニク)むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す。

察=丁寧に丁寧に調べること

多数の人々が嫌うものであっても、反対に好むものであっても、(自分で)徹底的に調べ考えなければならない。


とかく世の中というものは、長いものには巻かれろ、太きには呑まれよ、泣く子と地頭には勝てぬ、ものときめこみがちですが、人間であるからには自分で考えねばなりません。


それにしても、ACミランに入団したサッカー選手の記者会見は痛快でした。

アメリカに行っている野球選手達も、自分たちの通訳を従えての記者会見を恥ずかしい、と思うようになってほしい。
海外取材に出る記者達も、日本語だけしか会話ができないことを心の底から恥ずかしいと思うようになるでしょう。

そもそも、外交に携わる政界の人々のうち、日本語以外での記者会見に応じることのできる人の割合はどれほどなのでしょうか?


小学生のうちからの英語教育ではなく、自分で考える人間をつくる教育が大切なことを如実に示してくれた会見、とみました。


論語(407)

2014-01-10 09:39:03 | 論語
巧言乱徳、小不忍、則乱大謀(衛霊公第十五の27)

巧言は徳を乱し、小を忍ばざれば大謀を乱す

うわべだけのおべっかつかいは、本来持つべき人格を害するものです。また、小さなことに我慢できなければ、大きな計画を成就することはかないません。


前半はいいとして、後半が~~~。
我慢しなければならない「小」を見分けられず、大謀をなしえないのが凡人ではないでしょうか。
碁に例えれば、局地戦をうまくやってホクホウし勝負に負ける、というやつです。
将棋でいえば、飛車を逃げて詰み、というやつです。
しかし凡人にとってはは、相手の石をとる快感はなんともいえませんし、飛車はなによりも大切です。

孔子先生に質問。
忍ぶべき「小」をどのように見分ければいいのでしょうか?

解説員として(161)

2014-01-09 18:30:33 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

寒く、どんよりした空模様、北風も強い。そのうえ、雨になるかもしれないとの天気予報。
見学者ゼロと思っていた。ところがである。熟年ご夫婦一組おいでになった。

カレンダーの写真(富士山の遠景、頂上に太陽が沈む状景)が写された場所を見に来たついでに寄った、とのことであった。

最初、浮かぬお顔であったので、もしかしたら、ご主人が病後リハビリ中かも、と想像した。

しかし、大変気に入っていただき、お帰り時には、ニコニコ顔を見せてくださった。

案内者として、大いに満足。

このような天候の日に来てくださるなんて、神様じゃ。

それにしても、絵になる富士山を写せる場所があることを、もっと宣伝してもいい。


論語(406)

2014-01-08 10:01:27 | 論語
吾猶及史之闕文也、有馬者借人乗之、今則亡矣夫(衛霊公第十五の26)

((この節の文はお手上げです。読めません。意図が分からないので意訳もできません。したがって、下に示す、読みおよび解釈に自信がありません。あしからず!))

吾はなお、史の闕文(ケツブン)に及べり。馬あるもの人に貸し之に乗らしむ。今それはなし。

私(孔子)のような者でも歴史書に書かれていないようなことを知っています。(例えば)馬を持っている人が(それを気軽に)人に貸していました。今はそのようなことは行われません。


礼節心とか道徳心の荒廃、を嘆いている文、と理解したのですが、違っているかもしれません。


孔子を「いまどきの若者はなっていない」と嘆く老人、と考えてしまいそうな文です。

論語(405)

2014-01-07 09:02:29 | 論語
吾之於人也、誰毀誰誉(衛霊公第十五の25)

吾の人に於けるや、誰をか毀(ソシ)り誰をか誉めん

私(孔子)は人様について、(やたら)ああだこうだいうでしょうか(、いいえ、決して軽軽に人様を評価しません)。


上の文に続いて、次のようなことを言っている。

人様を誉める場合は、その理由を明確に確認します。
評価の対象になる人は、(私たちと同じように)歴史と伝統を重んじて生きてきたのですから(、いいかげんな情報をもとに判断してはならないのです)。


毎日垂れ流されるテレビ映像の毒気に犯されぬよう、一歩引き、冷めた目で世の中を眺めていたい、と思う。
今、世の中が大きく替わる節目に差し掛かったように思えてならない。
誰が、どんな顔をして、何を言うか。注意深くあらねばならぬ。

論語(404)

2014-01-03 16:36:57 | 論語
己所不欲、勿施於人也(衛霊公第十五の24)

己の欲せざる所を、人に施すことなかれ

自分が望まないことを、人にしむけてはなりません。


弟子の子貢が、まっとうな人間として生きていこうとするとき、座右の銘として、一語選ぶとすればどのような言葉でしょうか、と孔子に尋ねたときの答え。

孔子はまず、それは「恕」(ジョ、ゆるす)でしょう、と答え、上につなげた。

大字典によれば、
恕=己の欲するごとく他人に仁を施す心

この字典の説明はわかりづらい。
孔子の言いたいことは、恕=おもいやる心、と考えるといいのではないか。

確かに、いかにいっぱいいっぱい生きていたとしても、「他人を思いやる心」は失いたくはない。


閑話休題
あけましておめでとうございます。
今年も、ボケを気にしながら書き続ける所存ですので、どうかよろしくお願いします。