水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

論語(225)

2012-07-31 08:57:49 | 論語
三軍可奪帥也(子罕第九の26)

三軍はその帥(スイ)を奪うべし

三軍=中国周代の37500人の軍、すなわち大諸侯の軍

いかに大兵団であってもその統率者を捕獲することはできる。


この次にくる語が有名な、次、

匹夫不可奪志也

匹夫はその志を奪うべからざるなり

たとえ一人の人間であっても、その人の志を奪うことはできません。


つまり、人様によって左右されることのないような、確固とした志を持ちましょう、ということ。


ロンドン五輪の結果が気になり、暑さも加わって、寝不足が続く。

選手達個々、の志の確かさに脱帽。成績なんてどうでもいい。

論語(224)

2012-07-30 10:21:28 | 論語
主忠信、無友不如己者(子罕第九の25)

まことを貫く精神を堅持し、そうすることを嫌う人を友人にするな


む~ん。なんか見たことがある語なので、前をひっくり返したら、ありました。
「学而第一の8」とほぼ同じでした。
そのとき、なんと書いたでしょうか? 下に引用しました。

しかし、記憶とはいいかげんなものですな。約一年半前に書いたことを、ほとんど忘れてしまっているのですから。加齢が原因でしょうか?それとも生まれつきでしょうか。

********************
2011/1/18に書いた記事
人間、誠意ある、ウソイツワリのない生き方を求めるべきだが、(世の中にはそうではない人もいるのであって)そういう人に近寄ることは避けたほがいい。

 
 その通りだ。しかし、世の中には、忠信を主として生活している人を食い物にしようとする人も少なからずいるわけで、不如己者をどのように見分ければいいのだろうか?

見分けかたが甘ければ、悲しい思いをする機会が増すだろうし、厳しく見分けようとすれば、友人のない寂しい生活を送ることになる。
答えはない、ということか。


 この節の最後は、昨年の11/12の記事で使った、過即勿憚改、だ。

 論語は、内容の整理が吟味されていず、さまざまな意味合いをもつ言葉が、ほとんどランダムに並べられている。
だから、どこを切り取っても、どのように解釈するのも勝手、と言えなくもない。
聖書、コーランと同類とみなすべきなのだろうか。

論語(223)

2012-07-27 09:48:22 | 論語
法語之言、巽輿之言(子罕第九の24)

法語之言=厳正に説諭する言葉
巽輿(ソンヨ)之言=温和で人にさからわぬよういう語

この節全体の意味合いは次のとおり。

正論には従わなければならない。また、トゲのない言葉に喜ばぬ者はいない。
しかし大事なのは、正論に従って自分を改め、甘い言辞の意味するところを問いただすことをしないような人間はいけません。私(孔子)がおつきあいできる人間ではありません。


人様の評価に右往左往することなく、泰然自若としていたい。
もう誰も評価すらしてくれなくなった年齢ですが~~。




解説員として(118)

2012-07-26 18:27:13 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

しかし、見学者ゼロ。これで五回連続

ウェーン!
こうなったら、見学者ゼロの連続回数を増やすことを心がけようか。

この暑さではね~。それでも午前中は6人きたそうだ。


おかげさまで、図書館で借りた文庫を一冊読んだ。

高村薫 閑人生生 朝日文庫

アエラ連載の評論をまとめたもの(2009/8/3~2011/4/25)。

この人の思考は確かだと思う。このような人が居てくれて少々安心。


図書館といえば、武蔵野市のプレイス(武蔵境駅前)は図書館として最高。新しい、広い、きれい、開放的、そしてなにより、利用者を大事にしていることがよくわかる。

三鷹市図書館本館にはもう行く気もおこらない。もっぱらプレイスだ。

三鷹市本館は、もっと利用者の利便性を一義的に考えてほしい。

例えば、

・ 資料室の机配置は職員の席から目が届かない。これでは女性は使いにくいでしょう。男の年寄りでも気味が悪い。
・ 中高生用の自習用机をもっと増やすべきでしょう。特に夏場は、集会室を彼らの自習室に開放したらどうですか。図書館に集会室を置かねばならぬ理由がわからない。
・ 今日、帰りがけに立ち寄った。利用者の数が多い。ガードマンによる巡回を徹底し、利用者の快適性を確保すべき、と思った。死角が多すぎる。プレイスを見習ってほしい。


高村薫に触発されたわけではないが~~。文句タラシテしまった。

論語(222)

2012-07-22 15:02:05 | 論語
後生可畏也(子罕第九の23)

後生(コウセイ)畏(オソ)るべし


後生=ゴショウではなく、コウセイと読まねばならぬ。
後生(ゴショウ)=死んだ後の世界をいう仏教語。対する言葉、今生、前生。「後生大事」=死んだ後の世界での安楽を優先する考え
後生(コウセイ)=あとから生まれてくる人。対する言葉、先生。

したがって、上の意味は次。

若者は未知の部分を多く持っているので、おそれ、(敬意を持って接し)なければなりません。

この語に続く意味合いは次のとおり。

私(孔子)より若い人の知識が私より劣っている、なんて決して言えるものではありません。しかし、40才50才になっても人様から尊敬されるようなことがなければ、それはもう、「私と同じだ」といってしまうかもしれません。


若者が元気に未来を語ってくれないと、世の中さっぱりいけません。



論語(221)

2012-07-19 10:16:39 | 論語
苗而不秀者有矣夫、秀而不実者有矣夫(子罕第九の22)

苗にして秀でざる者有り、秀でて実らざる者有り

秀=花咲く。本来、この語の本義は花は立派ならざるも美しく実る義、だそうだ。


苗のままで花が咲かない人がいる。花が咲いても実らない人がいる。

努力を促す、叱咤激励。


同じ意味を表す語で、我々の知っているのは、

「少年老い易く学成り難し」でしょうか。

英語では、「Art is long, time is short.」
ちょっと心配なので辞書を引いたら、shortではなくfleetingでした。
「ぱっと過ぎ去る」てな意味合いでしょうか。


論語(220)

2012-07-18 08:55:58 | 論語
吾見其進也、未見其止也(子罕第九の21)

吾其の進むを見るも、未だ其の止まるを見ざる


これも、孔子が顔回について評した言葉。
顔回の死後、発した言葉らしい。

(顔回の)前に前にと努力している姿ばかり見ていました。彼が努力を怠るところをついぞ見たことがありませんでした。


若死にを言う、夭折(ヨウセツ)という言葉は、顔回のためにあったのかもしれない。
顔回有上智之才、而尚夭折(呉志)


長生きは恥多し。毎日の過ごし方が難しい。


論語(219)

2012-07-16 10:11:51 | 論語
語之而不惰者(子罕第九の20)

これに語って惰(オコタ)らざる者

私(孔子)の講義を聞いて、それに実践に励む人間、(それは顔回以外にいませんよ)

弟子、顔回、を絶賛している言葉。

顔回をほめる言葉はいままで何回か出てきた。

過去に書いたものから、暇に飽かせて、拾い出してみると、以下の二つがでてきた。

回也聞一以知十(公冶長第五の9)
有顔回者、学好、不遷怒、不弐過(擁也第六の3)

若死にしたそうだが、大変な人物だったようだ。

論語(218)

2012-07-13 09:11:44 | 論語
譬如為山、未成一簣、止吾止也
譬如平地、雖覆一簣、進吾往也(子罕第九の19)

譬(タト)えば山を為すごとく、未だ一簣(イッキ)成さざれば、止(ヤ)むは吾止むなり。
譬(タト)えば地を平にするごとく、一簣を覆(フク)すといえども、進むは吾往くなり。

簣=モッコ

山をつくることを考えましょう。最後に一籠の土を撒かなければ、やりとげたことにはなりません。
土地を均すことを考えましょう。最初に一籠の土を撒かなければ、始めたことにはなりません。


漢字の並び、音読みから受ける語感、内容、どれをとっても、超一級品。五感に響き、好きな節のひとつだ。

我々が教えられた、日本の語句でいえば、

百里の道は九十九里を半ばと思え
百里の道も一歩から

ということでしょうか。

解説員として(117)

2012-07-12 16:35:15 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

が、見学者ゼロ。これで、連続4回だ。

シクシク。


昨日からの強風が吹き、雨もちの荒れた天気であるから、野川沿いの散歩者もほとんどゼロ。
それでも、午前にはお二人の見学者があったそうだ。

ただただ、けやきのザワザワだけが、耳触りな半日であった。

木々騒ぐ 梅雨のあいまの 昼下がり


次回頑張るぞ!
なんじゃこりゃ

論語(217)

2012-07-10 09:10:33 | 論語
吾未見好徳如好色者也(子罕第九の18)

吾未だ色を好む如く徳を好む者を見ざるなり


いや~、孔子様だから、こういうことを言えるのでしょうか。

凡人には、あまりにもあたりまえすぎて、まじめな顔して、こんなこととても言えません。


昨日、図書館から借りた本がなかなか面白く、つい時を忘れた。1970年代後半に書かれた、論語をネタにした交遊録風随筆。

阿川弘之、論語知らずの論語読み、講談社文芸文庫

論語(216)

2012-07-09 09:30:19 | 論語
逝者如斯夫、不舎昼夜(子罕第九の17)

逝(ユ)く者はかくの如し、昼夜やまず


孔子が川の流れを見ながらもらした言葉。

この川の流れのように、私の前をさまざまな人やモノが、とだえることなく過ぎ去っていきます。


これには二つの解釈があるらしい。

① ご自身の不遇を嘆いたもの
② 今しか勉強する時はない。油断するとみんなパーだぞ。


自分の直感はどちらでもない。

どういうわけか、平家物語冒頭の文の中の、「盛者必衰の理をあらわす」を連想するのだ。

つまり、

③ 諸行無常、と解釈したいのです。

どうでしょうか?



論語(215)

2012-07-06 08:45:57 | 論語
何有於我哉(子罕第九の16)

何か我に有らんか


私としてはあたりまえのことです、と孔子が挙げた、当然やらねばならぬこと4項目が次、

① 宮仕え(出則事公卿)
② 家庭では父、兄に従うこと(入則事父兄)
③ 葬儀(喪事不敢不勉)
④ 酒のせいにしないこと(不為酒因)


ある時期から、飲める酒量が指数関数的に減じ、今ではもう、ほとんど飲まなくなった。

もっと早くこうなれば、全く異なる人生を過ごせたのに、と思う。

いやいや、たぶん、こういう言い方を、孔子は嫌ったのでしょう。

解説員として(116)

2012-07-05 18:13:21 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

が、見学者数ゼロ。

これで、確か、ゼロが三回立て続けだ。

しかも、である。惰眠をむさぶろうにも、路面工事の音が、ガリガリバタバタ。

たたりじゃ~。

氏神様にお願いしようかと、一瞬思ったが、普段不信心だし、身体極まれり。


しかし、今日は暑かった。

論語(214)

2012-07-04 09:52:38 | 論語
雅頌各得其所(子罕第九の15)

雅頌(ガショウ)おのおの其の所を得たり

雅頌=詩経に集められた、宮廷音楽(雅)と典礼音楽(頌)。ちなみに、民謡は「風」というらしい。


孔子が母国魯に帰国したとき、宮廷音楽や典礼音楽が詩経に述べられたとおりではなかった。それはよくない、と思った孔子は、正した。


謙虚なはずの、孔子が自慢話をしているのだが、雅頌を正すことが、なぜ重要なのか、よくわからない。


万葉集に出ている歌を、後世に人が誤まって解釈することがあってもいいと思う。

なぜ、孔子はシャカリキに正そうとしたのか?