水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

みみずのたはごと(8)有たぬ者

2008-06-30 09:21:19 | 三鷹・文学
 先週、なんとなく閉塞感を覚える今、なんて書いた。なんでこんな世になったのか?

蘆花著、標記文庫版下、P72から、ヒントを与えられた。明治45年7月に書かれたもので、小文のタイトルは、「有たぬ者」。「有」を「も」と読ませる。つまり、「有たぬ者」は「持たぬ者」のことだ。文頭は次で始まる。

「新宿八王子間の電車線路工事が始まって、大勢の土方が入り込み、村は連日戒厳令の下にでも住むように恐恐として居る」

 京王線の敷設工事に動員された作業員達の傍若無人振りは、他のページでも言及されている。確かに子供のころでも、彼ら達の荒々しい雰囲気は、残っていたような気がする。
 上の小文、中段で彼らのことを次ぎのように述べている。

「失うものがないから、彼らは恐るることを知らぬ。生存競争の戦闘に於いて、彼らは常に寄せ手である。唯進んで撃ち而して取ればよいのである。守るというは、有つ者のことである。守るというは、己に其第一歩に於いて敗北である。」

 そう、今の世、老人が増え、全体が守りの態勢に入っているのだ。
都知事が声高に、オリンピック招致の旗を振るのは、このような閉塞的守りの現状を憂い、打破させようとしているからか。

そして、毎度のことだが、蘆花の小文、文末に唸る。

「有たずに強い彼らも、有てば弱くなるおそれがある。世にも恐ろしい者は、其生命さえも惜しまぬのみか、如何なる条件をもって往っても妥協の望みがない人々である。ーーーーーーーーー。其一切を獲ん為には、有てる一切を捨てて了う位は何でもない。耶蘇も仏陀も其恐ろしい人達である。」



 

みみずのたはごと(7)美的百姓

2008-06-25 11:02:15 | 三鷹・文学
 蘆花著、標記の名による文庫上P235の、美的百姓、なる小文は、「彼は美的百姓である」ではじまる。「彼」は蘆花のことで、自分を三人称で表現している。文のつづきは、

「彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。然し趣味に生活する者の趣味の為の仕事だから、生活の為と云うてもよい。」

 素人芸であって決してプロではない、という意を「美的」という言葉に込めたようだ。中段や後段の文に次のようなくだりがある。

「稀に来る都人士には、彼の甲斐甲斐しい百姓姿を見て、一廉其道の巧者になったと思う者もあろう。村の者は最早彼の正体を看破して居る。田圃向うのお琴婆さんの曰くだ、旦那は外にお職がおありなすって、お銭は土用干なさる程おありなさるから、と。」

「彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をしている。真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である」


 蘆花は本来好奇心旺盛で、いろんなことに手を出したようだ。
 
 今の世、減反に次ぐ減反で、田畑の荒廃が目立ってきた。定年後、田舎暮らしを志す人々の中には、本気でプロ百姓化を考えている人も沢山おられることだろう。
なんとなく閉塞感に満ちた今の世では、蘆花のような、好奇心旺盛な人が貴重で大切にしなければならぬ。壁の打破は、彼らによる未知への挑戦によってのみ可能だからだ。


メジロ

2008-06-23 07:04:21 | 雑感(1)日常
 昨日、このところの雨でモサモサになった庭木を、サッパリさせててやろうと、めったにやらぬ、へたくそな剪定を試みた。
 
 アメリカハナミズキに取り掛かったところ、小さな鳥がやたらにチッチ、チッチと小うるさく、つきまとう。こちらの視界に必ず入ってきて、派手に飛び回るのだ。
これが警告であることを、彼らの見事な巣を見つけ、やっと気づいた。

 こちらの鈍さを申し訳なく思い、彼らの健気な行動に敬意を表し、かつ作業終了のうまい口実になるので、剪定をやめた。
 
 
 これから卵を産むのか、もう雛がかえったのか。ウィキペディアで確認したら、メジロだった。
青虫を咥えていたときもあったが、蜜も好むらしい。果物でも置いて、観察してみようと思う。鳥本体を写せるか?挑戦じゃ。

みみずのたはごと(6)不浄

2008-06-20 11:47:25 | 三鷹・文学
 下水道が完備し、便所が水洗式になったのはいつだったか?
御茶ノ水駅から下を眺め、「あの船はなにか?」と父に問うたら、「お前の○○○を東京湾の沖に捨てに行くのだ」との返事が返ってきたのは小学生のころだったか?役所が糞尿回収をするようになったのはいつごろだったのだろうか?

 江戸時代の近郊農家にとって、江戸市民の糞尿は畑の肥やしであった。明治・大正時代もそうだった。
蘆花著、標記文庫上p229、不浄と題された項に、以下の記述がある。

「この辺の若者は皆東京行をする。この辺の東京行は直ちに不浄取りを意味する。----荷車を引いて、日帰りが出来る距離である」

そして、この項の末文、p234、次は秀逸だ。

「神は一大農夫である。彼は一切の汚カイを捨てず、之を摂取し、之を利用する。神ほど吝嗇爺は無い。而して神程太腹の爺もない。彼に於いては、一切の不潔は、生命を造る原料である。いわゆる不垢不浄、「神の清めたるものをなんじ浄からずとするなかれ」一切のものは土に入りて浄まる。自然は一大浄化場である。自ずから神心に叶う農の不浄観について我らは学ぶ所なくてはならぬ。
生命は共通である。潔癖は我儘者の嗇吝(ケチ)な高慢である」

 今の、異常にキレイズキな世の中について、考えさせられる。


みみずのたはごと(5)食う事

2008-06-19 10:48:09 | 三鷹・文学
 蘆花著、標記文庫版p141に以下の記述がある。

「此辺では米を非常、挽割麦を常食にして、よくよくの家でなければ純稗の飯は食わぬ。下肥ひきの弁当に稗の飯でも持って行けば、冷たい稗はザラザラして咽を通らぬ。湯でも水でもぶっかけてざぶざぶ流し込むのである。若い者の楽しみの一は食う事である。主人は麦を食って、自分に稗を食わした、と怒って飛び出した作代もある」

 
 今朝の新聞に、米の家庭消費量が45年間で1/4になった、とあった。06年の一人当たりの消費量は年間61kgだそうだ。
45年前、すなわち、1960年頃の一人当たりの消費量は年間200kgを越えていたのだろう。

 
 江戸時代の武家の給料に扶持米というのがある。今で言えば、家族手当のことで、一日当たり男五合・女三合、360日、および人数で計算される。
例えば、二人扶持、の場合、年間2.88石((5+3)*360)が家族手当として支給される。

 言いたいことはこれからだ。

1 一人当たりの扶持米は216kg(((5+3)/2)*360*1.5)と計算できる。
2 これは、1960年頃の一人当たり年間消費量200kgとシンクロする。
3 つまり、食生活は江戸時代から1960頃まで、ほとんど変化しなかった、といえるのではないだろうか。変化したのは、最近のたった半世紀の間だ。

 
 外交通商上の立場から、小麦を輸入せざるを得ない立場だとはいえ、半世紀でこれほでまでの飽食食文化に急変させたことは問題かもしれぬ、と思う。

 しかしその一方、ほんの100年で、蘆花が書いた上の食生活から、全体をほぼ完全に脱却させた(しかも完膚なきまでの敗戦を経てまで)、この国の凄さに今さらながら驚嘆もする。 

みみずのたはごと(4)三鷹

2008-06-18 09:40:51 | 三鷹・文学
 蘆花著、標記の文章中に一回だけ「三鷹」が出てくる(正確には、ひとつ見つけた、というべきか。もっとあるかもしれぬ)。

 p193、低い丘から、二、より。
「三鷹村の方から千歳村を経て世田谷の方に流るる大田圃の一の小さな枝が、入り江の如く彼が家の下を東から西へ入り込んでいる。其の西の行き止まりは築き上げた品川堀の堤の藪だたみになって、其上から遠村近落の樫の森や松原を根占にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没しておる」

 三鷹市内を水源とする烏山川支流、および現さくら通りの下に暗渠下水路にされた品川用水路(玉川上水からの分水)、の下流における景観描写だ。

 蘆花は、親交があった独歩と同様、「武蔵野」に対する思い入れも深かったようだ。「低い丘から」の冒頭は次。

「彼は毎に武蔵野の住民と称している。然し実を言えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末で、景が小さく、豪宕な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当たって居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。」

 たぶん蘆花は、今の駅名でいえば西武線井荻あたりを、真の武蔵野エリアと思っていたのだろう。今では、当時の茫漠とした原野・樹林景観を想像することさえ不可能だ。

 考えてみれば、我々人間は、最近のたった百年間で、武蔵野台地のほぼ全域を、住宅地(土地利用図の色でいえば、赤)に変えたしまったのだ。さぞや、ヤオヨロズの神々は「何をいまさらエコだ!」とお怒りのことだろう。


三鷹市長メルマガ(9)

2008-06-17 10:12:03 | 三鷹・市政
 三鷹市長メルマガ109号で、市長は太宰治・桜桃忌に係わる諸行事を紹介している。

 昨年10月に、太宰の書簡集についての記事を書いた。没後60年ということもあるのだろう、多くの人々が三鷹に来てくださっているようだ。結構結構。

 部課長コラムでは、秋田県北部(大館市か?)を郷里となさる課長さんが、38豪雪や学校生活の中での雪、についてお書きになっている。

 三鷹でも、忘れられないほどの大雪が過去にあった。確か小学校のころだ。
気象庁のHPで東京の大雪をチェックしてみたところ、「1954/1/24、33cm」のようだ。1969/3/12と並んで、今なお、一位の記録だ。
感覚的には1メートルは積もったような気がする。とにかく、友人たちと作った「カマクラ」が一週間持ったのだから。

 
 それはともかく、今回の地震、その怖さが倍増した。マスコミが騒いでいる「地すべり」に対してではない。4000ガルを越える最大垂直加速度を観測したらしい、ということに対してだ。まだ、本当かいな、と半信半疑ではある。

 
 市長さんの、アジサイについての冒頭感想に刺激を受け、一句。

 庭の隅 紫陽花変化 独壇場(にわのすみ あじさいへんげ どくだんじょう)

オソマツ!


みみずのたはごと(3)関東大震災

2008-06-13 09:37:51 | 三鷹・文学
 大正12年12月に出版された、みみずのたはごと108版には「読者に」と題した一文が加えられた。その中に、関東大震災についての見聞が書かれていて(下巻p142~147)、興味深いので、整理してみる。

1 建物被災は、壊滅的ではなかった。
「(地元では)、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰りに立ち寄って、廊下の壁の大破を片付けたり、地蔵様を抱き起こしたりしてくれました」
「地震後一月あまり私は毎日鎚と鋸と釘抜と釘とを持って、壁の大崩に板や古障子を打ちつけ、妻や女中が古新聞で張って、兎や角凌いでいます」

2 余震や火災、デマの怖さは想像を超える。
「九月一日、二日、三日と三宵に渉り、庭の大椎を黒く染め抜いて、東に東京、南に横浜、真っ赤に天を焦がす焔は私どもの心胆を慄かせました。頻繁な余震も頭を狂わせます」
「強そうなことを言うていて、まさかの時は腰がぬけます。真っ暗に逆上します。鮮人騒ぎはどうでした?」

3 避難者の状況は深刻だ。
「東京の焼け出されが、続々都落ちしてきます。甲州街道は大部分包帯した都落ちの人々でさながら縁日のようでした。途中で根尽きて首をくくったり、倒れて死んだ者もあります」

4 人間、飢えると恥も外聞もない。
「東京のあるお屋敷の旦那は、平生権高で、出入りの百姓などにめったに顔見せたこともありませんでした。----見舞いに来た百姓に旦那がお辞儀の百遍もして、何でもよいから食うものを、と拝むように頼んだものです」
「「働く人の食料を分けてもらうのは気の毒」と私が申すと、「働くから上げられるのです」とI君が昂然と応えました」


平常心を失わないために、常時、最低十日ぐらいは食いつなげるよう準備しておくべきかもしれぬ。
そしてなによりも、国の自給率をもっと上げていただくべきだ。


  

みみずのたはごと(2)水車問答

2008-06-12 10:47:22 | 三鷹・文学
 「田川の流れをひいて、水車が回っている」。
徳富蘆花著、みみずのたはごと、上巻P207、「水車問答」の冒頭である。

 田川は烏山川のことだ。古い地形図(明治前期測量2万分1フランス式彩色地図、たしか、昨年5月にさんざん書いた)を見ると、蘆花恒春園(明治40年居住開始だから、もちろん、この地図上には存在しない)から、4~5km下流の烏山川沿いに4っつの水車記号を見つけることができた(図幅名:東京府武蔵国東多摩郡和泉村荏原群上北沢村)。

蘆花は、この辺の水車を眺めたに違いない。

 「水車問答」は短文だが、極めて示唆に富む。水車と樫の木の問答で、その要約は次のとおり。

 毎日目の回るような忙しさで働いている、と自認する水車が、樫の木、に向かって、「年が年中そこにぬうと立ちぽかんと立っていて、而して一体お前は何をするんだい?」と問うと、樫の木は、(おずおずと)、
「ーーーー。成長が仕事なのだ。----。俺は自分の運命を知らぬ。いずれどうにかなるであろう。唯その時が来るまでは、俺は黙って成長するばかりだ。君は折角眼ざましく活動したまえ。俺は黙って成長する」

 我々は物事の皮相にしか眼がいかぬが、世の中は極めて複雑で、どんなことにも表と裏がある。だから、二者択一で正解に到達できるなんて考えないほうがよい。読後感として、ゆるみ、というか、あそび、というか、そんなものの大切さを、感じた。
蘆花が言いたかったことは何なのか。 

みみずのたはごと

2008-06-11 15:28:59 | 三鷹・文学
 5/22の記事で、徳富蘆花が気になる、と書いた。

 標記は彼の書の名である。岩波文庫上下二冊。なかなか読みでがあり、内容も面白いので、これからしばらくの間、引用しながら、己の思うところを書く。

 大層な覚悟と、その前提となる動機を持って、都心から世田谷の田舎に引っ越したはず、と思っている。果たして、その証拠を見つけられるか?ちょっと心配。なぜなら、P51には次の記述さえあるから。

「彼は自己のために田園生活をやっているのか、そもそもまた、人のために田園生活の芝居をやっているのかわからぬ日があった。ーーーーーー
趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずることと而してそれを報告することのあることを(シュユ)も忘れ得なかった」

 下巻巻末の解説(中野好夫)によれば(P226)、大正12年の初版から、かなりの長期にわたってベストセラーを続けた。大正13年には108版が出た。

 ということは、徳富の田舎生活が当時の人々にも支持されたいた、ということだろう。今、彼の言う「田園生活のスケッチ」を熟読してみる価値は十分にあると思う。


 しかし今回は、図書館で借りたもので間に合わせず、買うことにしたほうがよさそうだ。読みでがある。

解説者冥利

2008-06-04 09:09:20 | 水車解説関連
 4/11の記事に新聞リポーターに採用されたことを書いた。
驚くなかれ、提出した原稿が本日の朝刊に掲載された(東京STORYという名の囲み記事)。
恥ずかしくもあり、うれしくもあり。

下に、全文を書きとめておく。
プロの手が入いり、ピリッとしまった文章になった。たいしたものだ。
担当記者(そして、おそらく整理部記者も)に対し、心より敬意を表します。


解説者冥利

 二年前、三鷹市教育委員会の水車ボランティア養成講座を受講し、約五十人いる市民解説員に認定された。
 担当は「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」を見学者に説明すること。この施設は、十九世紀初頭に建造され、約百六十年間稼動した、水車を動力源とする精米・精麦・製粉工場で都有形民俗文化財にもなっている。
 見学者は多種多様で、製粉会社の技術者などプロ中のプロもいれば就学前の子どもさんもいる。外国人も珍しくない。だから、想定外の質問を受けることを覚悟していないといけない。
 話が装置の仕組みから、近藤勇、戦闘機飛燕、機織りなど地域の歴史や習俗になることもある。大いに緊張はするが、別れ際、「ありがとう。楽しかった」との声を聞く快感はなんともたとえようがない。まさに解説者冥利だ。
 改修工事で今月から半年間休館する。来年一月の再開を楽しみにしている。

三鷹市長メルマガ(8)

2008-06-02 09:25:11 | 三鷹・市政
 三鷹市長メルマガ108で、市長は、三鷹特産品のひとつ、キウイワインは、市内の農家と酒屋との協働の成果だ、と述べている。

 今年のワイン生産量は8000本(720ml)だったそうだ。愛媛・福岡・和歌山などの生産先進地に比べ、三鷹からのキウイの出荷量は微々たるものだろう。しかし、それを逆手にとって、希少価値をウリにしようとする戦略はうまい。

 今は一本1300円だが、そのうちプレミアムがつくようになればしめてものだ。始めて22年目だそうだが、これからが楽しみだ。


 部課長コラムは、総務部の、ある課長が、ご自身の旅好き、奈良好き、を紹介している。

 
 先月、家人と奈良に行った。今回は奈良見物が目的ではなく、宿を奈良に取り、「伊賀越え」を数日繰り返した。今なお、細く、くねくねした難路で、明智に追われた家康の苦労がわかったような気がした。

 この難路の両脇に迫る山は見事な茶畑で、ここがあの宇治茶の中心産地であることも知った。谷間の日差し、霧、冷気などが、銘茶を生み出すのだろう。

 奈良では、課長も述べている春日大社の森に感激した。よくぞここまで残してくれたものだ、と。そして、日本では神社が環境保護を担ってきたのではないか、とも強く思った。ヤオヨロズの神々を信仰した、先人たちを尊敬する。