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最近、通勤の音楽として、マーラーの「子供の不思議な角笛」を繰り返して聴いておりました。また、先の週末の上京時には、電車の中でも携帯CDプレイヤーで楽しみました。演奏は、ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(Bar.)とエリザベート・シュワルツコップ(Sop.)が歌う、EMIの有名な録音で、LP時代から長く親しんできたものです。
第1曲「死んだ鼓手」。始まりのオーケストラの響きとリズムの的確さがすばらしく、またフィッシャー=ディースカウの明瞭な歌唱発音に感嘆します。
第2曲「うき世の暮らし」。シュワルツコップの母親が、と腹をすかせた子供に、「もうちょっと待っててね」"Warte nur! Warte nur!"と答えるときの、半音階的な弦の表情が絶妙です。
第3曲「無駄な骨折り」。眠い人にのどが渇いたと訴えても無駄だ、ということでしょうか。熱心に誘う娘と、いっこうに関心を示さない男の対照を、二人がユーモラスに歌います。
第4曲「ラインの伝説」。シュワルツコップの歌で。ラインに指輪を流す伝説や習慣があったのなら、R.シューマンの指から救助のどさくさで指輪をくすねた人がいてもおかしくない。
第5曲「少年鼓手」。脱走して処刑されようとする少年鼓手の別れの挨拶でしょうか。フィッシャー=ディースカウの歌唱は抑え気味ですが効果的で、オーケストラの沈痛な音楽もまた素晴らしい。
第6曲「歩哨の夜の歌」。戦場の現実の中で、男が幻想的な女の声を聞きます。フィッシャー=ディースカウの緊張感のある歌唱と、シュワルツコップの幻想的な歌声とが、シュールな対比。オーケストラも、シンバルやティンパニなどの鳴り物で、対比を強調します。
第7曲「この歌をひねり出したのはだれ?」。フィッシャー=ディースカウがユーモアをまじえて歌います。短い曲です。
第8曲「高遠なる知性のおほめの言葉」。カッコウとナイチンゲール(夜鶯)の「のどくらべ・歌くらべ」に審判をつとめる、調子はずれのロバの判定を、なんとシュワルツコップが歌います。なんともシニカルでユーモラスな歌です。
第9曲「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」。民謡風の旋律を、フィッシャー=ディースカウが歌います。お説教は心にしみるようですが、魚たちはやっぱり元のまま、という歌詞は皮肉ですが、見る眼はリアルです。
第10曲「塔の中の囚人の歌」。とらわれの囚人と、彼を慕う娘の歌。精神的自由のために囚われの身を嘆かない不屈の男と、いつも傍らにいたいと嘆く娘の心情とが、対比して歌われます。
第11曲「不幸の中の慰め」。どっちもどっちの男と女、軽騎兵と娘が、互いに幻滅して別れる場面を歌う、短い曲です。
第12曲「美しいトランペットが鳴り渡るところ」。戦場の緑の下に埋もれている戦死者の幻が、最愛の恋人のもとへ訪れます。美しく甘美ですが、間違いなく娘に対する死の誘惑です。シュワルツコップとフィッシャー=ディースカウの2人の抑制された歌声と、よく統御されたロンドン交響楽団の響きのバランスが、なんとも美しい最終曲です。
フィッシャー=ディースカウとシュワルツコップという名歌手2人の歌唱が抜群に素晴らしいうえに、オーケストラが、時に歌手に寄り添い、時に鋭いリズムと響きでコントラストを示しながら、あまりグロテスクにならずに踏みとどまって表現しているようです。ジョージ・セルの音楽の気品というものを感じます。
1969年3月、セル死去のおよそ1年と少し前、ロンドンのキングズウェイ・ホールで録音されています。プロデューサーはウォルター・レッグ。シュワルツコップの夫君です。こういう優れた演奏が録音として残されたことに、心から感謝したいと思います。
第1曲「死んだ鼓手」。始まりのオーケストラの響きとリズムの的確さがすばらしく、またフィッシャー=ディースカウの明瞭な歌唱発音に感嘆します。
第2曲「うき世の暮らし」。シュワルツコップの母親が、と腹をすかせた子供に、「もうちょっと待っててね」"Warte nur! Warte nur!"と答えるときの、半音階的な弦の表情が絶妙です。
第3曲「無駄な骨折り」。眠い人にのどが渇いたと訴えても無駄だ、ということでしょうか。熱心に誘う娘と、いっこうに関心を示さない男の対照を、二人がユーモラスに歌います。
第4曲「ラインの伝説」。シュワルツコップの歌で。ラインに指輪を流す伝説や習慣があったのなら、R.シューマンの指から救助のどさくさで指輪をくすねた人がいてもおかしくない。
第5曲「少年鼓手」。脱走して処刑されようとする少年鼓手の別れの挨拶でしょうか。フィッシャー=ディースカウの歌唱は抑え気味ですが効果的で、オーケストラの沈痛な音楽もまた素晴らしい。
第6曲「歩哨の夜の歌」。戦場の現実の中で、男が幻想的な女の声を聞きます。フィッシャー=ディースカウの緊張感のある歌唱と、シュワルツコップの幻想的な歌声とが、シュールな対比。オーケストラも、シンバルやティンパニなどの鳴り物で、対比を強調します。
第7曲「この歌をひねり出したのはだれ?」。フィッシャー=ディースカウがユーモアをまじえて歌います。短い曲です。
第8曲「高遠なる知性のおほめの言葉」。カッコウとナイチンゲール(夜鶯)の「のどくらべ・歌くらべ」に審判をつとめる、調子はずれのロバの判定を、なんとシュワルツコップが歌います。なんともシニカルでユーモラスな歌です。
第9曲「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」。民謡風の旋律を、フィッシャー=ディースカウが歌います。お説教は心にしみるようですが、魚たちはやっぱり元のまま、という歌詞は皮肉ですが、見る眼はリアルです。
第10曲「塔の中の囚人の歌」。とらわれの囚人と、彼を慕う娘の歌。精神的自由のために囚われの身を嘆かない不屈の男と、いつも傍らにいたいと嘆く娘の心情とが、対比して歌われます。
第11曲「不幸の中の慰め」。どっちもどっちの男と女、軽騎兵と娘が、互いに幻滅して別れる場面を歌う、短い曲です。
第12曲「美しいトランペットが鳴り渡るところ」。戦場の緑の下に埋もれている戦死者の幻が、最愛の恋人のもとへ訪れます。美しく甘美ですが、間違いなく娘に対する死の誘惑です。シュワルツコップとフィッシャー=ディースカウの2人の抑制された歌声と、よく統御されたロンドン交響楽団の響きのバランスが、なんとも美しい最終曲です。
フィッシャー=ディースカウとシュワルツコップという名歌手2人の歌唱が抜群に素晴らしいうえに、オーケストラが、時に歌手に寄り添い、時に鋭いリズムと響きでコントラストを示しながら、あまりグロテスクにならずに踏みとどまって表現しているようです。ジョージ・セルの音楽の気品というものを感じます。
1969年3月、セル死去のおよそ1年と少し前、ロンドンのキングズウェイ・ホールで録音されています。プロデューサーはウォルター・レッグ。シュワルツコップの夫君です。こういう優れた演奏が録音として残されたことに、心から感謝したいと思います。
今日の記事に、慶応大学発の作曲家占いを付けました。
NARKEJPさんは、歴代作曲家のいったい、誰か、試してみてくださいね。
そして、結果を教えてください。
私は、チャイコフスキーと出ました。(なぜ?)
「自然体で人生を楽しめる」ところは、当方のモットーでもありますので、うれしい指摘ですが、「知的作業は苦手で、読書もあまり好きではない」というのはどうでしょうか。はずれではないかと思います。相性のよい作曲家がヴィヴァルディで、相性の悪い作曲家がベートーヴェンというのも、屈託のなさに関連しているのだと思いますが、若い時代のベートーヴェンは大好きで、好んで聴いていますので、半分あたりで半分はずれかも。
いずれにしろ、「占いのしくみ」に解説されている基本的な性格分類が9つだそうですので、はずれてくるのはやむを得ませんね。
とクールな分析をするのは、ほんとにドヴォルザーク型なのかなぁ?
そんなところが、似ているのかも。
でも、シューマンやラヴェルがまだないので、将来的に、もう1度チャレンジしてみてくださいね。
相性は、ベートーヴェンの曲が好きとかではなく、もし、ベートーヴェンと友達になったとしたら、なのかもしれません。ベートーヴェンの性質は、激しすぎて、付き合えないかもしれませんから。
今度、これを機会にドヴォルザークについて調べてみますね。
ここには、私のURLではなく、その占いのURLを貼りました。私も、やり直してみようかな?
性格の指標を数値化(ベクトル化)して結果と照合するという仕組みは共通ですが、それを作曲家にあてはめる、というところが面白いですね。
シューマンがまだ入っていないのがちょっと残念(^o^;)
なお、この「全集」の「交響曲」はアムステルダム・コンセルトヘボウの他、ウィーン・フィル、ニューヨーク・フィルハーモニックとオケが混合しています。マーラーと同じく、ユダヤ人の血が入ったバーンスタインが晩年に力を入れています。