電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

いい文章だなあ~藤沢周平『蝉しぐれ』より

2009年10月31日 06時02分25秒 | -藤沢周平
「暗殺の年輪」との比較の関係で、再び『蝉しぐれ』を読みました。藤沢周平の文章のうまさについては、愛好者はすでに十分に承知のことでしょうが、三読・四読となると、単にストーリーを追うだけでなく、文章を味わうように読む楽しさがあります。
たとえば、最初の「朝の蛇」の章。起き抜けに川で顔を洗い、小川の向こうを眺める場面です。なお、ページ数は文春文庫版にて。

いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接するあたりには、まだ夜の名残の霧が残っていた。じっと動かない霧も、朝の光をうけてかすかに赤らんで見える。そしてこの早い時刻に、もう田圃を見回っている人間がいた。黒い人影は膝の上あたりまで稲に埋もれながら、ゆっくり遠ざかっていく。(p.12)

田舎暮らしで少年時代を送った者には、このあたりの描写が、なんともいえず味があります。

次は、「蟻のごとく」の章、父助左衛門の遺骸を受けとるために龍興寺に出かける直前、母・登世は文四郎を呼び止めます。でも、目は文四郎を見てはいないのです。

母がいま何をみているかが、文四郎にはわかった。母が目を向けているのは龍興寺の方角である。助左衛門は、いまはまだ生きていよう。しかし車をひくおれが寺につくころには、もうこの世のひとではないかもしれない。おれが寺を出るのを見送っているうちに、母はその思いに堪えられなくなったのだろうと、文四郎は思った。登世の顔は、一夜にして青白くやつれていた。おそらく昨夜は心痛のために、一睡も出来なかったのだろう。
文四郎は母の肩に手を置いた。
「暑いところは身体に毒です。お静かに、家の中でお待ちになっていてください」
登世をたのんだぞ、という助左衛門の声が、耳の奥にとどろいたのを文四郎は感じた。文四郎は母の肩を回し、抱くようにして門までみちびいた。
「父上は私が連れて参ります」
登世はうなずいた。そして突然に袂を引き上げると、溢れ出る涙を拭いた。事件が知らされてから、比較的落ち着いて事態を受け止めていたように見えた母が、はじめて取りみだしたのを文四郎は見た。(p.117)

夫が、今はまだ生きている。だが、息子が寺に到着する頃には、骸となっているだろう。生きている夫の姿を見ようと龍興寺の方角を見ている妻の眼に、夫の姿は、面影は、どんなふうに見えているのでしょうか。このあたりも、たいへん切ない場面です。登世の心情を説明するのではなく描写することで、情景をより鮮明にする手法は、どこか映画に通じるものがあります。しかし、うまい文章ですね!

「染川町」の章では、与之助にこんな俗謡を口ずさむ場面を与えています。

生まるるも育ちも知らぬ人の子を いとおしいは何の因果ぞ (p.249)

今は藩主の側妾となった隣家の娘の話を、文四郎がはじめてもらした切なさを、こんな俗謡に託した与之助も、どこかでそんな思いをし、共感するところがあったのでしょう。
しかし『蝉しぐれ』、実にいい文章です。名作です。

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6 コメント

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Unknown (さちこ)
2009-10-31 22:33:54
こんばんは。
ご無沙汰しております。
蝉しぐれ、いいですよね~。
いい文章は、何度もよんでかみしめたくなります。
自分も書いてみたいと思ったりします・・・書かないけれど。(笑)



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さちこ さん、 (narkejp)
2009-11-01 07:36:41
コメントありがとうございます。『蝉しぐれ』の文章は、ほんとに格調高く情感があって、いいですね~。小菅留治君は、鶴岡印刷で働きながら中学(現・鶴岡南高)の夜間部に通っていた頃は、どんな仕事をしていたのでしょうね。もしかすると、活字を拾っていたのかも。文字や文章に対する感度は、そんなところで養われたのかもしれませんね。
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蝉しぐれ (Mac Holic)
2010-03-02 11:51:17
名作「蝉しぐれ」小説、映画双方を比べてみると、いずれも小説でないと表現出来ない部分、また映画の映像でなければ表現出来ない部分があり双方とも私には興味尽きません 映画大好きの私にとっては最終章の最後の出会いのシーンが大好きです Mac Holicより
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Mac Holic さん、 (narkejp)
2010-03-02 22:20:31
コメントありがとうございます。当方も、『蝉しぐれ』の原作と映画、またテレビドラマ版と三種を楽しみにしております。原作であればこその表現、また映像ならではの表現、二時間枠の制限の有無など、それぞれの良さがありますね。藤沢周平カテゴリーで、過去にこんな記事も書いておりますので、よろしければ御覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/narkejp/e/d1a9d5fe0a804f758388f26559ecb349
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本当に (こに)
2013-03-11 21:58:51
良い文章でした。
特に繰り返される「蝉しぐれ」が頭にインプットされて海坂藩の風景が目に浮かぶようでした。

主人に「風の果て」を薦めましたら、早速キンドルで読み始めたようです。
ある程度社会経験をした男性には特にお薦めですね。
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こに さん、 (narkejp)
2013-03-12 20:02:06
コメント、トラックバックをありがとうございます。『蝉しぐれ』は、何度読み返しても、ほんとにいいですね。海坂藩の風景は、若い頃に鶴岡市民だった時期がありますので、格別にしみじみと風情が感じられます。
ご主人は『風の果て』ですか。キンドルで、というのが現代ですね~。
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