事のなりゆき

日々のなりゆきを語ります

ニュースバリュー・・・

2012-01-31 17:54:36 | Weblog
寒い日が続いている。山沿いの地域では豪雪になっている。きょうもかなりの雪が降った

のだろう。事故も相次いでいる。屋根から転落しそのまま生き埋めになって亡くなるとい

う悲惨な事故も起きている。雪国で暮らすことの大変さはそこで暮らしてみなければわか

らない苦労がある。

 小生が報道の責任者をやっていた時に津南が大雪で大騒ぎになったことがあった。連日

東京から記者やカメラマンがやってくる。すごいすごいの大合唱。街にいる人たち誰でも

マイクを向ける。すごいととにかく言わせたがる。大変だと言わせたがる。ところが地元

に人たちからみると、それほどでもない。東京から見れば大変だけど地元の人たちからみ

ればこんな年もなる、そんな程度しか思っていない。津南の旅館を貸し切り状態で取材本

部を作った。毎日かならず生中継を入れてその日の雪の状態をリポートする。2~3日は

それで済むが、毎日やっていると目が慣れてきて、2M程度の雪では満足しなくなる。最

初は電話ボックスが埋まるような積雪にスタジオからもスゲーの声が上がるが、3日目か

らはその風景が当たり前になる。街の人たちも特に悲壮な面持ちではない。淡々と毎日暮

らしている。かえって怖いのが、取材陣の事故だ。特に東京からの取材陣は雪に不慣れ

だ。しかも無理を強いる。もっともっとすごい映像を撮りたがる、見たがる。そこで小生

は取材ルールを決めた。一人では取材に行かない。危険な場所への立ち入りをしない。屋

根からの落雪など雪には十分注意する、などを決めた。笑い話のようだが、雪の取材は危

険だらけで、路地に入ってもどこまでが道でどこからががけなのかわからないような場所

もある。車の駐車もなかなかスペースが無い。いいかげんな場所に駐車すると除雪の邪魔

になったり、昼夜止めておくと翌日が雪ですごいことになり身動きが取れないような時が

ある。一晩で1Mも降るような場所な野田。中継車の除雪だけで1時間や2時間かかれば

仕事にならない。地元の人に地形を聞いておかないととんでもない事故になることもあ

る。雪ですべてが覆われているので、本当にあぶない。

 生活道路の除雪が間に合わず、孤立集落ができた。昼はなんとか通れるが夜は雪崩の危

険があって通れない。東京の取材班から地元人の家に泊めてもらって、雪国の暮らしを取

材したいと申し出があった。その家のある食物を食べないなど迷惑をかけないという取材

ルールを決めて許可を出した。コンビニで2食分を買い込んでその集落まで入り、取材さ

せてくれる家に取材班は泊まった。雪国で暮らす大変さなどを取材したようだが、テープ

を見て小生吹き出したのは、取材班がこうした暮らしがどんなに大変かと同情心いっぱい

でインタビューするも、一向に「たしたことはない」とまったく意に沿わない返事を繰り

返すばかりだった場面だ。さぞかし集落が孤立することがたいへんですねと聞いても「冬

は街にはどうせいかないし、一週間くらい通れなくてもどうってことねえ」とあっさりか

わす。家の中にはすごい量の備蓄食糧があった。ちょっと歩いてコンビニがあるような場

所ではない。それを東京の人たちは不便と決めつける。しかし地元に人たちからすれば、

2Mでも3Mでも雪は毎年降る。しかたのない自然なのだ。それを大変と騒ぐのは東京の人

たちの方が奇異にうつる。

しわだらけのじいちゃんがなにげなく話す「どうってことねえ」の言葉こそ、そこで生き

抜いてきた人の重たい言葉に小生は感じた。
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1968・・・

2012-01-30 17:07:26 | Weblog
NHKのSONGSという番組で由紀さおりを特集した。いま全米で由紀さおりは大ブレークして

いる。代表曲、「夜明けのスキャット」が流行った時小生は10歳だった。でもすごくよく

覚えている。ビートルズよりも鮮明に覚えている。街中にあの歌が流れていたような気さ

えする。だからなんだかすごく懐かしい。なぜかわからないが、なにかこみ上げてくるも

のを感じる。

 記憶に間違いがなければだが、歌謡曲番組がすごく多かった。ゴールデンタイムなどは

必ずあった。それを家族全員で見た。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」なんて言葉がある

がまさにあの頃の歌謡曲は歌ばかりではなく、時代を引きずって歌が流れ、音楽と出来事

がセットになって記憶が形成されている。歌は時代のBGMだった。そんな感じがする。

 1969年.夜明けのスキャットが大流行した。東大安田講堂を学生が占拠、立てこもっ

た。機動隊が講堂に向けて放水した。ヘルメットにタオルを巻いた学生が次々と逮捕され

ていく。そんなシーンをテレビで見た。そのバックにはなぜか「夜明けのスキャット」が

流れている。そのなんとも神秘的な歌とメロディがその現実的な光景を映し出している。

夜明けなのか、それとも終期なのか、10歳の子どもには想像もつかない世の中の大きなう

ねりを感じて、すごく怖かったイメージがある。今残るのはその神秘さだ。夜明けのスキ

ャットからかもし出すその神秘さが、こみ上げてくるものを促すのだろう。逮捕されてい

く学生はみんなうつむき敗北した顔だ。なぜそこまでやらなければいけないのか、10歳の

子どもには到底わからない。日本が荒れていたと感じるだけだった。親に聞いても納得す

るような返事が返ってこなかった。そこにまたあの「夜明けのスキャット」が流れる。宇

宙を飛んでいるようなそんな感じがした。

 前から気になっている本がある。それが「1968」という本だ。1000ページ上下という大

作で、6800円×2なのでとても買えない。しかも読破する自信もないので、図書館で借り

てきた。まさに「夜明けのスキャット」が流れる中だ。小説ではなく、社会学の論文的な

本だ。学生運動の盛んだった時代を検証するために書かれた。著者は1962年生まれの小熊

英二さんだ。詳細は読んで欲しいが、なぜ若者たちは叛乱を起したのか、その背景には何

があったのかを非常に詳しく丁寧に当時のインタビューや雑誌に掲載された文章を基に書

いている。まだ100ページ足らずなので何年読み終わるまでかかるかわからないが、一行

一行すごく丁寧に書いているので、読み応えもあるしまたその時代が蘇ってくるようで、

小生がまったく学生運動世代ではないにもかかわらずすごく懐かしさを感じる。

1968年は一つの大きな日本の戦後の足跡にちがいない。
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四半世紀前の祝電・・・

2012-01-29 11:27:03 | Weblog
先日、昔の記者仲間2人が激励会を開いてくれた。もっとも激励会というのは、名前だけ

でまったく激励する言葉は一切なかった。ただの飲み会だった。県庁がまだ今の市役所に

あった。電鉄線の駅がいまは噴水になっている場所にあった。その駅に小生は夕方になる

とやきそばを食べにいくのを日課にしていた。酔っ払って雪で転び、電鉄線を止めたこと

が何回もあった。昔話で酒が進んだ。もう28年も付き合っている。ライバルであり、いっ

しょに現場を歩いた仲間であり、新潟の歴史を記者という職業でいっしょに見てきた友人

もある。お互い顔を見ればずいぶん齢を重ねたと思う。

結婚式の電報話が毎回出る。もう何十回とその話は聞いているが、彼は今でも忘れること

の出来ないエピソードらしい。小生のあの電報を忘れないらしい。今回もその話題にな

り、大いに笑った。

彼が結婚することになり、お祝い電報を小生が打つことになった。彼とは同じ年、クラブ

の中でも仲がよかった。早稲田を出てN新聞に就職した彼だが、おしゃれには興味が無

く。いつも小汚い。肩には山盛りのふけが積もっている。紺のスーツにも関わらずいつも

肩は白い。正体はふけだ。それを小生はいつもからかっていた。でも結婚すればそのふけ

もきっと消えるだろう、その願いを電報の文面に載せた。電報と言えば普通は一言の10

字か長くても20字くらいのものだが、その小生が打った電報が1200字くらいの長文電報

だった。初めはそんな気もなかったが、書いている内に面白くなってもっともっとと思っ

ている内に長くなってしまった。あきれたのは電報を受け付けていた女性だ。まだ書きま

すかと何回も言われた。もちろんその電報は結婚式で披露された。読んでも読んでも終わ

らない祝電に会場内は騒然とし、爆笑の渦だったらしい。小生も会場でその場面を見たっ

た。その話は彼と逢う度に話題になる。もう10回以上聴いているが、今回も聴いた。よ

ほど印象に残っているらしい。そして今でも彼は親戚などの結婚式に夫婦で出席ごとに奥

さんから長文祝電の話が出るらしい。四半世紀経前に話なのだが。いまでも語り草だ。


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雪がとければ・・・

2012-01-27 16:52:41 | Weblog
窓から西日が差し込んでいる。屋根に積もった雪がオレンジ色に反射している。新潟市内

の雪もきょうは小康状態のようだ。しかし気温が低いため路面の雪が解けないで凍ってい

る。まるで雪のアスファルトだ。すこし斜めになっているようなところはすごく歩きにく

い。転ぶのはまだいい、転ばぬようにして体に力を入れた時にぎっくり腰をやりそうでむ

しろ怖い。そんなこんなできのうは車を駐車場から出すのに大変だった。来週火曜日から

また大雪になるという予報が出ているので今のうちと、車周辺を除雪した。スコップも新

調した。もうとっくに売り切れていると思っていたが、大きなスコップが1つだけ残って

いた。やり始めたのはいいが、腰が痛い、首が痛い、足が痛いと上に下に大騒ぎ。ゆっく

り少しずつやればいいものを力任せに目一杯やるものだから余計にあっとこっちが痛くな

る。今朝起きるとモモの裏側が痛い。案の定除雪筋肉痛だ。おそらく明日の方がもっと痛

いだろう。雪は痛いものである。

それでも以前乗っていたクラウンより今のアリオンの方が雪に強いので助かっている。ク

ラウンは極端に言えば5センチの雪でだめだ。車体が重たい上に後輪駆動なためだ。夏に

あれほど威厳のあったクラウンも雪の前にはどうすることもできず、ただの鉄の塊でしか

ない。去年は業を煮やして1万円もするゴムチェーンを買ってきた。雪の中スーツ姿で寝

滑りながら巻いた。さすがに威力はすごい。悔しいから駐車場内を一周、それでも飽き足

りずに雪の深いところをわざと走った。まるで除雪車きどりだ。その点アリオンは、車体

は軽いし、前輪駆動なので雪の中を諸共せずに疾走する。なんとも心強い。

 今日選抜高校野球の出場校が決まった。さきほどインターネットニュースを見て知っ

た。今年新潟はまったく関係がないので、忘れていた。去年を思い出す。雪の中の佐渡高

校。今でも思い出す。今年もあの感激を出場した高校ナインは味わっていることだろう。

被災地からは石巻工業が21世紀枠、一般選考では光星学院(青森)、聖光学院(福

島)、花巻東(岩手)と東北地区からは4校が選ばれた。復興のシンボルとして各校とも


注目されることだろう。臆することなく精一杯のプレーを見せて欲しい。開幕は3月21

日と発表されている。

 今は雪の中だが、選抜高校野球開幕の頃はすっかり春の装いになることだろう。

雪がとけてなにになる?春になる、ってか!!
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あの時があったから・・・

2012-01-26 12:02:47 | Weblog
錦織は勝てなかった。NHKで試合を放送したので、少し見た。テニスは、やったことはあ

るが、技術的にはほとんど素人だ。東京にいた時に時計メーカー主催の国際試合を見に行

ったことがあった。当時はマッケンロー全盛時でその時も接戦の末マッケンローが優勝し

た。テニスは紳士のスポーツと言われていたが、マッケンローは審判に暴言を吐いたり、

必要以上に判定に抗議をするなどのパフォーマンスにも人気があった。もう30年近く昔

の話だ。テニスの試合をテレビといえども観戦すること事態久しぶりだ。

 1セットを取られた時に彼の顔が変わったように見えた。「やっぱり勝てない」そんな

顔つきに見えた。そのままズルズルと一方的な試合になるのかと思った。そうではなかっ

た。精一杯のプレーで応戦したように見えた。あきらめてはいなかった。この場合の「あ

きらめない」という意味は今戦っている試合のことではない。今後の自分に対してのあき

らめという意味だ。もっと強くなりたければ、目の前の相手をいつかは倒さなければいけ

ない日がくると思っているはずだ。であればどうするか。今どんな試合をするのかと考え

るべきだ。そう気持ちを切り替えていくべきと思った。もし小生がコーチで錦織にアドバ

イスができれば、今の経験が必ずどこかで役に立つに日が来る。ここまで選手で終わりた

くなかったなら、今こそいろんな可能性を試し、精一杯自分の力を徹底的にぶつけていく

べきではないのか。その結果は必ず、どこかで表れる。経験はうそをつかない。今いる時

間を無駄にせずにがんばれと励ますだろう。

始めから強い選手はいない。どこかでなにかのきっかけをつかんで上に上がっていく。そ

のきっかけを感じて、作るのは、自分でしかない。他人からみれば些細なことでも、その

人にとっては大きなチャンスであり、きっかけかもしれない。丁寧に一つ一つを拾うよう

に経験を積み重ねていくことが一番大事だとあの試合を見て思った。

錦織は記者会見で反省ばかりを口にした。課題も多く見つかった試合だったようだ。それ

こそベスト8に入った成果だろう。勝つ以上に大きな財産をあの試合で手に入れたと思

う。「あの時があったから」と彼の口から出るのもそれほど遠くはないと小生は思った。



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ブルースが聞こえてくる・・・

2012-01-25 17:45:12 | Weblog
最近ブルースにはまっている。聞いていてなんだか落ち着く。きっかけは先日見た内田勘

太郎のギター物語だった。小生恥ずかしながら内田勘太郎の顔は知っていたが、ブルース

のギターリストと知らなかった。物語は子どもの頃から始まってギターブルースを弾くこ

とになったことなどを面白く語った。その話の合間に彼のギター奏法による曲が入る。こ

れがなんだかすごくよかった。以前からクラプトンのブルースは好きだが、内田勘太郎の

ブルースもどこか田舎チックのような歌謡曲チックすっと入ってきた。

 週末東京で友人と食事をした。ブログの話になった。みんなからこのブログについての

ご意見をいただく。ありがたい。無理を言われても無理と断るが、もう少しで手が届くよ

うなリクエストならばやってみたいと思う。最近は以前とちがってすぐにブログを書ける

環境にないので苦労が絶えない。おまけに隔週でリポートを書いている。字数はだいたい

4,000字くらい。書くのは2日もあれば書けるがその書くまでの下調べに時間がかかる。楽

しい時間ではあるが、どうしても文献を探して読み解き、そして理論構築まで2日間くら

いはかかってしまう。

 友人からは文体が変わったとの指摘があった。変えたつもりはないが、変わったという

認識はある。会社を辞めてからゆったりと生活をするようになった。きょうのような大雪

の日でも会社にいた時は朝から大騒ぎだった。それが世の中の関心事かどうかは別にして

も、大変だった。しかし今は違う。これまでとはちがう感覚で雪を眺め、空を見る。読み

飛ばしていた本もじっくりと読み分析をするようになった。文体変化でデメリットもあ

る。緊迫が以前ほどなくなったというご指摘もいただいた。おっしゃるとおり。緊迫感の

あるような生活をしていないものが緊迫あるものが書けるわけがない。いつまでもこのま

まではないとは思うが、今緊迫はない。自分の力を出せればそれでいいと思うくらいでし

かない。会社にいた時もこんな気持ちでいればよかったのかもしれないと思う時もある。

こればかりは性分だから仕方が無い。

 だからあのゆったりとゆらゆらとするようなブルースがいいのかもしれない。
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思えば遠くへ来たもんだ・・・

2012-01-24 19:42:11 | Weblog
昨夜から今朝にかけて関東地方に雪が降った。朝からテレビは大騒ぎ、いたるところに中

継を出して街の様子を伝えていた。

小生が子どもの頃にもよく雪が降った。今でも鮮明に覚えている。台所にある勝手口のド

アガラスの上に2センチくらいの隙間があった。そこから外をのぞくと、街灯に反射して

オレンジ色の雪が落ちていくのが見える。これは積もりそうだとなんだかわくわくしなが

ら、床につく。雪のことをすっかり忘れ、目を覚ますと音が消えている。普段ならば車の

通過音やガタガタと遠くから聞こえて来る東北本線の赤羽根鉄橋の通過音がするのだが、

その日に限って聞こえない。耳をすませてもなにも聞こえない。雪を思い出した。まだ降

っているのか、と思って耳をもっとそばだてる。「スー、スー」という無音が聞こえる。

音は無いがスーと聞こえるような気がする。雪はすべての音を吸収して落ちてくる。だか

らすごく静かだ。飛び起きて窓から外見ると、一面の雪世界。気持ちがいいほど寒い。支

度も早々に出かける。いろんな雪景色が見たいからだ。いの一番でみたい。だれにも荒ら

されない真っ白な景色を見たいと思う。学校に行けば校庭は雪原だった。まだ誰も踏み荒

らされていない。でもなんだかすごく広く見える。校舎がすごく遠く見える。いつも校舎

ではないような気がする。雪は景色を変える。

 まさか自分が雪の多い地域で暮らすようになるとは思わなかった。雪は、今は憂鬱なも

のに変わっているが、眺めるのは今でも嫌いじゃない。小生の住むマンションからしばら

く雪景色を眺めていた。通勤ラッシュが始まる。バスにはいつもより多くの乗客が乗って

いる。雪を見込んで早めに家を出る人たちだ。きょうは道路がつるつるだ。車はノロノロ

運転で渋滞している。凍結すればスタッドレスといえども効かない。去年、一昨年に比べ

れば雪は多くない。でも今が一番寒い時期だ。これからが本番かもしれない。それでも3

月になれば雪は落ち着く。あと1ヵ月あまり。憂鬱でありながらどこか子どもの頃を思い

出しながら雪景色を眺めつつ中継の喧騒と見比べながら、思えば遠くへ来たもんだと感慨

にひたる。
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国技館では違和感がない・・・

2012-01-23 15:06:45 | Weblog
きょうも朝からJapanTimesと格闘している。去年から比べればかなりのスピードで理解で

きるようになった。しかし単語能力はまだまだ超低レベル、だから知っている時事問題や

聞いたことのある記事のみ理解が可能だ。それでも進歩をしている実感がある。それはな

ぜか。慣れもある。多少勉強の成果もある。一番の原因は英語という言語システムを理解

できるようになったことだと思っている。いま言語学を専攻している人といっしょに授業

を受けている。彼は言語学の中のメディアを研究している。どんな研究と何回聞いても人

の説明ができないだからここでも説明はできない。そんな研究だ。想像で勘弁願いたい。

そんなある時に英語のことが話題になった。何気なく彼が「英語は日本語と言語システム

がちがうから」と漏らした。いわゆる文法がちがうということだが、なぜか小生にぴんと

くるものがあった。それから英文がやっかいな難文でなくなった。例えば「営業中」とあ

る。では英語ではどうか。ほとんどが「We are open」だ。しかしこの「We」が日本語

にはない。だから英訳が難しい。英語はかならず主語が存在する。日本語は主語がなくて

も通じる言語だ。英語は訳す必要はないものの、必ず主語を書かなければいけない。新聞

も必ず情報源がある。最初か最後に「~said」がつく。日本語で言えば「だれだれが言っ

た、もしくは~によりますと」だろう。主語を訳してしまえば意味がわからない難文も英

語にはある。それがなかなか慣れないとわからない。仮主語の存在がわかると意味が通

る。例で上げた「We」も「私たち」と訳すよりも省略した方がいい。看板を掲げている場

所が「We」に決まっているからだ。

 言語はその国の文化だ。日本語の主語を使わないのも文化だといえる。おそらく昔があ

ったのだろうが、省略して使う内に意味が通じるならばということで省略するようになっ

たのかもしれない。先日アメリカ人の屏風画家をテレビで見た。東京・上野の谷中で工房

を開いている。彼はアメリカの大学で美術を学んでいたが、ある時日本の屏風に出会っ

た。そこで道が開けたと話す。東京芸大院に進学し日本画を学んだ。インタビューに答え

るその日本語のうまさにびっくりする。画を学ぶ前に日本文化を学ぶという姿勢だ。技法

ではなく、画を文化と捉えている。だから屏風が書けるのかもしれない。テクニックだけ

に走れば屏風のもつ神秘さはおそらく描くことは出来ないだろう。それともう一つ感じる

のは相撲の世界だ。昨日までの幕内40人のうち、モンゴルやロシア、グルジア、ブルガ

リア、エストニアなど外人が15人いる。全員の話を聞いたことがあるわけではないが、

日本語は全員が出来る。しかも危なかったしい日本語ではなく、流暢な日本語だ。他のス

ポーツはどうだろう。野球、サッカーなど選手、監督、コーチとして在籍している外人は

ほとんど日本語ができない。できる人は少数だろう。覚えようとしない人も多い。それで

いいということになっている。相撲はそうではないらしい。食べ物から自由がない。みん

なでちゃんこだ。技術よりも日本の文化を徹底的に教え込んでいく。

 きのうの優勝インタビューで把瑠都は「いつもありがとう」と観客席の妻に声を掛け

た。もちろん日本語だ。でもなぜか奇異に聞こえない。国技館はそんな場所だ。


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54年目の春⑩・・・人生観

2012-01-20 17:35:23 | Weblog
友人に相談してみると、辞退を見込んで内々定を出しているからあまり気にする必要はな

いとあっさり言われた。せっかくもらった内々定だし、と思って10月1日会社に指定され

た場所に行った。30人くらいいたと記憶している。全員紺のスーツだ。小生も買ったばか

りの紺のスーツ、そして胸にはエンジのネクタイをしめた。みんな同じようなスーツにネ

クタイを締めている。なんだか制服のようだ。すっかり社会人気取りだ。

世間的にみれば10月1日は会社訪問解禁日だが、実質的には内定式だ。入社式のようでも

あった。小生もなんだかホッとした。意外と簡単に就職活動をクリアしたと思った。これ

でいいのかという気持ちもあった。あっけなく感じた。会社側からは会社概要などの説明

があった。また就職担当役員からはこれから業績を伸ばしていきたので即戦力として期待

しているとの挨拶があった。午前中でセレモニーが終了した。帰り際すっかり顔見知りに

なった仲間と喫茶店に行った。4~5くらいいたと記憶している。この日から同僚という

わけだ。みんなほっとしたというよりも晴れ晴れとした顔をしている。就職活動からこれ

で逃れられる。そんな気持ちが表れた顔だ。話は就職活動が中心だった。小生ここで余計

なことは言わない方がいいと黙ってみんな話を聞いていた。ほとんどの人が営業希望だっ

た。事前の会社訪問で感触をつかみながら会社を探していたようだ。私もみんなに口を合

わせた。会話からは具体的な会社名も飛び出した。その中で新聞記者の希望者が一人だけ

いた。途中からその彼が話の輪の中心になった。マスコミ試験の模擬試験を受けたけれ

ど、受かりそうにないこと、所詮自分には無理と思った。新聞記者は休みのないし、仕事

は大変らしいなどとまくし立てた。周囲にいた人たちも同調した。マスコミ職へのバッシ

ングの意見も聞かれた。やめてよかったよとみんなが彼を励ました。小生は黙っていた。

ほぼ全員が彼に応援した。これから仲良くやっていこうと誰かが声を掛けた。小生は黙っ

ていた。余計なことは言えない。といってうそはつきたくなかった。みんなの話を聞いて

いるうちに小生はちょっとちがうなと思い始めた。朝日新聞の先輩の言葉がよみがえって

きた。なりたいのならば必ずなれる。そこに向かって努力をすれば必ずなれる。だからが

んばれ。入社してみるとそんなやつばかりだ。就職は執念だ。そんな言葉が私の頭の中で

リフレインする。

彼は本当になりたかったのか。小生が純粋すぎるのか。なれたらいいという程度だったの

ではないのか。小生はそんなことを考えているうちに思った。私の居場所はここではな

い。能力の問題ではなく、彼らとは人生観がちがう。強く感じた。もしかすると人生観が

一番大事ではないのか。そう思うと彼らの話が急に聞こえなくなった。小生はここにいて

はいけない。

一人立ち上がった。「じゃ俺はここで。また」と言ってその場を辞した。それまで内定を

もらい浮ついた気持ちになっていた自分を恥じた。そしてファイトが沸いてきた。とこと

んやってやる・・・(続)

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54年目の春⑨・・・文房具の商社マンか

2012-01-19 18:15:07 | Weblog
小生が生まれた時、家は中学校の正門前でパン屋をやっていた。当時中学校に給食はなか

った。弁当を持ってくるか、パンを買うしかなかったようだ。もちろん今のようにコンビ

ニなどがあるわけがなく、カップラーメンもあるわけもない。パンも今のようにいろんな

種類はなく、あんぱんやメロンパン、クリームパン、ジャムパン、コッペパンなどの4~

5種類しかなかったような記憶しかない。ついでというわけではないが文房具も売ってい

た。どういうわけか小生はパンの匂いよりも小生はノートに匂いの方が印象深い。子ども

の頃の家の匂いがノートのような匂いだったように今では覚えている。だからというわけ

ではないが、文房具のにおいは今でも染み付いている。好きなにおいだ。ロフトなど文房

具売り場に行けばまるで子どもがおもちゃ売り場に解き放たれたような、しあわせ感を感

じる。不必要とわかっていてもなんとなく気に入ったボールペンやノートには今でもつい

て手が出る。学生時代は勉強に飽きると、自分を奮い立たせるためにボールペンを買いに

行ったりした。筆記用具を変えることで勉強の気分転換をはかっていた。今もその癖は抜

け切れていないかもしれない。どこか書きやすいボールペンをいつも追い求めている。

 文房具メーカーはK社が代表的だ。鉛筆はT社。と決まっていた。偶然説明会兼面接会に

電話をしたのは、当時カラフルな文房具を発売しK社に追いつこうとしていた文房具商社

だった。その会社はクリップやホッチキスなどをカラフルな色にして新しい文房具として

テレビなどにもコマーシャルをやっていた。売り上げも伸ばしており、人を増やして業績

を伸ばそうとしていた時期だったのかもしれない。マスコミにならないという選択肢は小

生の頭に中にはなかったが、文房具を扱う仕事ならばまだ許せると考え、会社の門を叩い

た。説明会の後にすぐに面接ということで面食らったが、小生の子どもの頃文房具屋の子

どもだった頃の話や文房具のにおいが好きで生涯の仕事にしてもいいと思っていると、自

分でもびっくりするくらい立て板に水のように言葉が飛び出した。文房具に対する気持ち

はうそではないが、「生涯の仕事にしようと」という件は、まったくのうそだ。罪悪感が

無いといえばうそになる。連絡先を書いて帰ると、翌日に電話があった。日にちを指定し

てきて欲しいという電話だった。もしやこれは一次面接に合格して、二次面接に進んだと

いうことかと思った。これは入社しなければいけないのかと少し不安になった。

 指定された日に行って見ると、役員面接だった。今度は一人だった。先日の文房具に対

する気持ちを事細かく聞かれた。そして今後の文房具業界に対する意見も聞かれた。もっ

とカラフルにもっと鮮やかに机の上が色とりどりになるような遊び心一杯の文房具商品を

作ってみたいと発言した。これは受けた。相手は小生の目を見ながら頷いている。これは

やばい。好印象を持っている。これで決まりか。マスコミをあきらめ文房具商社マンか。

それも悪くないかもしれない。案の定、面接の後待たされた挙句にもう一度担当に人に呼

ばれて、内々定をもらった。正式な内定ではない。条件がついた。10月1日の午前10時に

来て欲しいと。つまり縛りだ。10月1日は会社訪問解禁日だ。どこの企業でも会社訪問を

解禁する。その会社でも表向きの解禁日となっていた。縛りをかけて学生を逃がさないよ

うにするために1日しかも10時に呼び出しをかけているのだ。行かなければ内定は取り消

すと言われた。

どうしようか。文房具の商社マンか・・・(続)
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54年目の春⑧・・・青田狩りか

2012-01-18 17:24:41 | Weblog
本屋には毎日行った。暇つぶしではない。就職試験対策だ。どんな本が売れているのか、

一番売れている本の著者はだれなのかを調べるためだ。その中でどうしても目についてし

まうのが文章の書き方本だ。読むとうまく書けるような気がしてしまう。作文の試験対策

で暗礁に乗り上げている小生にとってはその本が魅力的だった。いまでもその癖は残って

いる。「文章のうまい書き方」このタイトルにすごく弱い。しかしどの本も10ページも

読めばすぐに飽きる。それはなぜか。どの本も同じことが書いてあるからだ。違うのはタ

イトルと作者だけだ。時間をかけなければいけないものと時間よりも効率を求めて学習し

なければいけないものがある。作文と英語はどうしても時間をかけなければ習得は難しい

と小生は感じる。文章を覚える近道はない。自分で何回も何回も書いて、極論すれば体で

覚えていくしかないようだ。

 作文の添削通信講座を受けることにした。レベルを自分なりに認識するためだ。毎月一

回与えられて課題を2000字書いて送り、詳細な添削をしてもらえる。最初はこれほど

直すところがあるかと思うほど真っ赤になって戻ってきた。しかし指摘する内容はどれも

納得がいった。それと指摘するばかりでなく、どのように書いたらいいのかという指導も

書いてある。小生、これは本で覚えた手法だが、課題はどうあれ書く内容はすべて野球の

ことを書くことに決めていた。例えば課題テーマが「あめ」であっても雨で中止になった

野球試合の思い出を書く。どんなテーマであっても野球のことを書いていた。そう思うと

意外と気は楽だ。あとは想像範囲をどこまでするかの問題だからだ。この講座で思った以

上に力がついた。毎回というわけにはいかないが、真っ赤だらけだった原稿用紙が少しず

つ赤の部分が消えていった。必ず指摘されるのが、具体的に書くことだった。わかりやす

い原稿はとにかく具体的だということを教えられた。今では学生に教える時は具体的に書

けと言っている。具体的に書くことで読み手にリアリティが伝わり、ストーリーの中に入

り込みやすくするのだ。たった半年の講座だったが、全国で一番を2回も取った。さすが

にうれしかった。しかしテーマによってはバラつきがあった。

 小生のときは10月1日が就職活動の解禁日だった。マスコミ試験はほとんどが11月

3日だ。会社訪問はまったく意味がなく、一発試験で点を取るしかなくその後に面接があ

る。とにかく試験を通るしかない。その前に滑り止めの会社を決めておきたかった。8月

末ごろから会社要覧のような本がたくさん送られてきた。どんな基準でどんな会社を選べ

ばいいのか、マスコミ以外まったく無知だった。興味もなかった。その中に一つの会社に

目が留まった。思い立ったらというのですぐに電話をすると、あす希望を集めて会社説明

会をやるから来れますかと言われた。

 行ってみるとびっくり。説明会の後に4~5人で面接をするというのだ。まだ9月に入

ったばかりだった。ここで内々定をもらえるのか・・・面接では入社を前提に色々聞かれ

た。なぜうちの会社を選んだのかなど・・・。これは青田刈りか?・・・(続)
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54年目の春⑦・・・焦り

2012-01-17 18:11:42 | Weblog
大学4年になってゼミ長になった。ゼミの専門は民法だ。独協大学はゼミが必修で3年か

らゼミに入る。法学部には、憲法、刑法、刑事訴訟法、民法、商法など様々なゼミがあ

る。ゼミスタイルも様々だ。がっちり勉強をさせられるゼミやスポーツクラブみたいなゼ

ミ、出席さえしていれば単位をくれるゼミなど。また入るときも成績重視で選考するゼミ

や申し込み順で入れるゼミなど選考基準も千差万別だ。小生のゼミはいわゆる勉強ゼミ

で、ゼミ生が面接を行う。実は先輩ゼミ生は小生の同級だ。一年遅れたためにゼミでは先

輩になってしまった。だからといってやりにくかった覚えはない。

 小生のゼミは勉強ゼミという異名をとっていたが、教授から一方的に教えを請うのでは

なく、ゼミ生みんなでよく勉強した。様々なケースをもとに条文を検討しながらみんなで

解いていく。それが主な授業だった。小生の拙い法律知識からすると条文は覚えるもので

はなく、使いこなしていくものと思った。使いこなす数を増やしていくことで、その条文

の存在意義というものがわかってくる。そんなことを当事は考えていた。今でも覚えてい

るのは教授の言葉に「法律家は社会学者」だ。つまり法律だけが一人歩きするのではな

く、社会情勢というものも判断の中にあるべきということだ。公害裁判で公共の福祉優先

という言葉を聞くことがあるが、そういうことからなのだろう。記者になるとまず警察取

材にいかされる。もちろん刑法や刑事訴訟法を知らないと取材にならない。小生刑法や刑

事訴訟法は専門ではなかったが、覚えるのに苦にはならなかった。法律の存在意義や意味

を理解できればそれほど難しくはない。それはこのゼミに覚えた。

 ゼミは毎年夏に合宿を行う。単なる旅行をするのではなく勉強をするための合宿だ。小

生ゼミ長なので、模擬裁判を企画した。軽井沢の民宿で朝10時から夕方6時くらいまで

昼食をはさんでびっしりやった。やりすぎというクレームがあったほどだ。中には模擬裁

判中に寝てしまう奴もいた。なにが題材だったかは思い出せないが、原告被告に分かれて

六法全書にひっくり返しながら徹底的に議論を繰り返した。小生が大学生活の中で一番楽

しかった時期だった。大学に入ったとき一時中退を考えた時もあった。特に目標があって

入ったわけでもなく、法学部も経済よりはいいという程度でしかなく、野球も途中でやめ

てしまって、燃え尽き症候群というほど大袈裟ではないが、自分を支えるものを失ってい

た時期があった。しかしゼミに入って法律と出会って息を吹き返した。法律を使いこなす

のが、おもしろくて仕方がなかった。事例を分析し、当てはまる条文を探してそこに意味

を加えていく。その作業に夢中になった。

 ゼミ活動は楽しかったが、記者職に就くための勉強も効率よくしていなかなければいけ

ない時期になっていた。新聞とにらめっこする日は相変わらず続けていた。ノートに言葉

を書いていく勉強も続けていた。それなりに成果が見え始めていた。しかし問題が一番肝

心の作文力に不安があった。毎日書いているが、それがどの程度のレベルなのかが自分に

はわからない。就職試験を突破できるレベルなのか、なにをどう書けば力をつけられるの

か。そんな迷いがあった。同業を目指す友人はいなかった。相談相手もいない。日が経つ

ばかり、徐々に焦りが出始めた・・・(続)
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54年目の春⑥・・・経済の壁

2012-01-16 15:36:45 | Weblog
小生留年したために、同級生の就職活動を傍観することになった。真新しいスーツで会社

訪問をする仲間は正直うらやましかった。たった1年だったが、なんかすごく損をしたよ

うな世の中からなんだかすごく遅れたような気分だった。今となっては1年くらいどうで

もいいことだが、あの時の1年は途方もなく尊いものに感じた。就職活動は甘くはないよ

うだった。あの当事の人気企業は銀行や生保や損保といった金融業界だったと記憶してい

る。小生の大学はまだ新しく、先輩も少ないことから中々企業に食い込めない。自らが切

り開いていくしかなかった。入りたい企業や業種に挑戦するというより入れてもらえそう

な企業を選ぶという輩が多かったように思う。しかたがない現実なのだろうが、しかし小

生はやはりあの使命感に燃え、世の中の最前線で働き、モチベーションの高い記者の人た

ちが脳裏にあった。難関だろうがどうせ働くならば、なんとしてもなりたいと思いは増す

ばかりだった。

 同じゼミにY君がいた。彼とはもう25年近く会っていない。彼は就職せず、大学院へ進

学しその後税理士試験を受ける予定をたてていた。なぜか彼とうまがあった。お互い浮き

離れしたところもあったからかもしれない。毎晩のように彼の家を訪ねた。話すことは政

治や経済のことばかりだった。酒も飲まずにコーヒーを何十杯と飲みながら、時には朝ま

で話し合った。俗言う学生の国家天下論だ。話すために小生は新聞を読んだ。ネタを仕入

れては議論した。今でも小生は居酒屋で幕末やら政治やら経済やらと論議している。30年

前とちっともかわっていないことに時々あきれる。しかしこの天下国家論が非常に小生の

就職活動に役にたった。小生の弱点は経済だった。そのため毎日、経済新聞を読んだ。し

かしどの記事も「風が吹くと桶屋が儲かる」だった。そんな論理展開についていけなかっ

た。小学生にもわかるという新聞記事であるはずなのに小生はまったく理解できなかっ

た。そこで掲載されている重要な言葉を調べ、その言葉をノートに書き写すことを始め

た。極めて幼稚のような感じがしたが、これ以上に近道はないと思った。とにかく一から

やるしかなく、やらないよりかいくぶんかましだろうと開き直った。覚えたての言葉をこ

のY君のところに行って使ってみる。そして彼の知識でその言葉からさらに広げていっ

た。オイルマネーやらスタグフレーションやら金融政策やら公定歩合の引き下げやら、景

気動向調査やらA4のノートにびっしりと書いていった。知識というのはおもしろいもの

で、わかるようになると扇状に広がっていく。一つを覚えるとどんどん広がり、またそこ

に自分なりの想像やなぜという疑問を加えていくごとに、一つ二つと知識が積み重なり、

二乗三乗になった。経済は毎日めまぐるしく変わる。おもしろくてしょうがなくなった。

新聞を読むのが楽しくなり、ニュースを見るのが楽しくてしょうがなかった。もっと経済

を知りたくなった。なぜ経済学者や専門家が先が読めるのか。そこも知りたくなった。そ

こで本屋でサミュエルソンの近代経済学の本を買ってきた。大学の教養程度の本だ。数式

がたくさん並んでなんだか、新聞を読むのとは勝手が違うがそれでも興味深く読みこなし

た。ようやくなぜ風が吹くと桶屋が儲かるのかというからくりがわかるようになった。就

職試験に明るい兆しが見えてきた・・・(続)

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54年目の春⑤・・・意志のあるところに道あり

2012-01-13 18:34:02 | Weblog
選挙取材で地域の人脈を覚え、事件で人間を知る。小生駆け出しの頃は先輩からそう教わ

った。地域で誰と誰がつながっているのか。家柄はどうなっているのかなど選挙取材は非

常にこまかく立候補者周辺を取材する。家族取材も欠かせない。奥さんの影響も大きい。

小生が取材した経験では、候補者本人よりも奥さんのあいさつで票を取れると指摘する人

もいた。宣伝カーで名前を連呼するのは選挙運動の1割にも満たない。人脈や団体を頼り

に票を集めるのが本来の選挙運動だ。その人脈を探らないと票は読めない。地域人脈や団

体に入り込んで票を読むのは普段からの人付き合いをしていないとなかなかわからない。

 票読みは記者が足で稼いだ情勢取材と世論調査、それに出口調査の3つの要素をあわせ

て行う。今ではゼロ票で当選を打つことがあるが、この3つの要素からまちがいないと選

挙担当者が判断すれば投票箱がしまった段階で当選を打つというわけだ。誰とは言えない

が、小生が経験した中では取材と世論調査では問題なく当選圏内と言われたある候補者だ

ったが、出口調査の結果が僅差という結果になり、ゼロ票を予定していたが終盤で相手候

補が激しく追い上げたため、その相手候補から急遽中継するということがあった。結局僅

差ながら当選したのだが、最後の最後までわからないというのが本来の選挙だ。

 先輩から指示のあったデスク補助はクレーム処理や現住所にはいない場合にその調査す

る人を探すなどする。世論調査員が泥棒にまちがわれたりするハプミングもある。クレー

ム電話もある。調査する人が病院に入院している場合はデスク補助員が病院にまで足を運

んで調査する場合もある。この時小生は現実に体験した。現地から依頼があり、病院に入

院しているので調査をお願いしたいと調査員から依頼があった。小生が先輩に呼ばれて出

かけていった。痴呆性のおじいちゃんだった。病院では医師から面会を許されたが、調査

はできないと言われた。黙って帰るわけにはいかず逢ってみることにした。病室に入り、

年齢を聞くと大昔のことだからわからないと言われた。これで気が済んだ。

 東京に帰ってNHKに出勤する。こちらも世論調査が出揃っていた。小生が担当した福島

をみるとほぼ同じような結果になっていた。もちろん朝日新聞の世論調査アルバイトをし

てきたなどとは口が裂けても言えない。アルバイトを始めた頃はのんびりとしていた選挙

班も日を追うごとに熱気を帯びてきた。投票日が近づくと情勢会議がある。小生も班長か

ら会議出席を許された。北から全国の選挙区ごとに情勢分析が行われる。非常に細かく情

勢について担当地区の記者から報告がある。NHKの心臓部を目の当たりにしているような

だった。アルバイトの初日に政治部長から言われたことがよみがえってきた。もし小生が

今持っている資料を外に出してしまえば、大変なことになるという実感があった。

 NHKと朝日新聞で選挙取材をつぶさに見ることが出来た。現場を見ることが出来たのは

小生にとって大きな収穫だったが、それ以上の収穫はなによりも現場で働いている記者と

接することが出来たことだった。仕事に対するモチベーションと使命感は思った以上だっ

た。就職を相談すると一様に口をそろえるのは「意志のあるところに道あり」だった。(続)
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54年目の春④・・・デスク補助

2012-01-12 18:09:14 | Weblog
忙しいにも関わらず、土日休みをもらった。いわきにもう一度朝日の先輩を訪ねた。世論

調査のアルバイトが足りないから来て欲しいと電話が先輩からあった。もちろんNHKには

内緒だ。先輩のところで世論調査のアルバイトをするのは2回目だ。あの時の記憶が今で

もよみがえる。

 当時の世論調査は、面接方式で行っていた。選挙人名簿からアトランダムに抽出した人

を実際に訪問して支持政党や投票する人を決めたかどうかを聞いてくる。小生はその時は

今では有名になってしまった飯館村に行くことになった。飯館村では5人が割り当てられ

ていた。5人とも高齢者だったと記憶している。3人までは思った以上にスムーズに終わ

った。みなさんよい人でご苦労様と声を小生に掛け、労をねぎらってくれ、中にはあがっ

てお茶でもと誘ってくれる人もいた。もちろん上がるわけにはいかず、丁寧に断って辞し

た。またある人とは政治談議になった。自民党をどう思う。立候補者をどう思う。小生を

朝日新聞記者とまちがっているようだった。小生も調子に乗って適当に答えていたが、今

考えてみると世論調査員が政治談議するというのはしてはならないことだったかもしれな

い。残った2人はてこずった。名簿に書かれた住所に2人ともいなかった。最終的には2

人とも病院に入院していることがわかった。この調査はその人に逢えなくても、なぜ逢え

なかったのかなどをきちんと記入しなければいけない。いわゆるフェースシートを作らな

ければいけない。調査場所は山間地で家が点在しており、目当ての人がいないとその人を

探すのは大変だった。田んぼや畑も見て回った。しかし苦しいのは世論調査に来たという

ことが言えない。なぜその人を探しているかを言えないため、すごく警戒される。2人う

ち一人は奥さんを亡くし、その一ヵ月後に倒れたことがわかった。そこまでたどり着くま

でが大変だった。いろんな人に聞いて回った。が、誰も知らないと口をそろえる。知らな

いというよりも言いたくないという口調だった。このまま調査人を行方不明で帰ることは

できないので、手当たり次第にとにかく聞いて回った。またそれが1~2時間くらいで集

落内で評判になってしまった。君か○○さんを追いかけているのはと言われた。顔が怒っ

ていた。小生がここは仕方なく、選挙のための世論調査に来たことを告げた。決して怪し

いものではないことを理解してもらった。そしてやっと2人とも福島市内の病院に入院し

ていることを教えてくれた。わかって安心したが、へとへとになった。たかがと言えば、

たかがだが病院に入院しているということを聞きだすのに、すごい時間がかかった。しか

しどこか充実感があった。

支局に帰ってこのエピソードを先輩に聞いてもらった。記者はそうやって足で稼ぐ仕事

だ。それにしても根気強くよくがんばったと褒めてもらった。

 さて今回はどこに行かされるのかと楽しみでもあり不安でもあった。支局着くと先輩か

らは今回は支局でデスク補助をやってくれと指示された。デスク補助?

 そう、デスク補助だ。いやな予感がする・・・・(続)
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