事のなりゆき

日々のなりゆきを語ります

42の瞳・・・

2016-04-29 09:18:41 | Weblog
相変わらず、追われている。今朝になってゴールデンウィークがあったと気がついた。博士過程3年生にとっては、このゴールデンウィークは博士論文提出資格審査の時期である。資格審査は面接と筆記試験だ。この試験をパスしないと、論文の提出もできない。学内ではCandidate(キャンディデイト=候補)と呼び、試験をパスした学生を博士論文提出候補者という。試験は両方とも、2時間だ。別の日にそれぞれ行われる。特に筆記の2時間は、小生にとって体力、知力とも限界に近い。試験の中身はもちろん事前に知ることはできないが、経験者によれば自分の論文をテーマした論述試験だ。これまでやってきたことを2時間かけて書き上げる。普段はキーボードを使っているだけに、答案用紙に書くという作業は思った以上に体力を使う。
 博士論文ともう一つ、小生は授業を持っている。これも結構負担だ。その授業が昨日会った。以前にも話したが、21人まで絞りようやくスタートした。映像の授業だが、新聞の解説も行う。もうびっくりしなくなったが、あさ新聞を読む学生はゼロだ。でも就職希望を聞けば、半分程度がマスコミ関係と答える。きのうは少し就職のことを話した。なりたいという職種には必ず就ける。そう信じて行動して欲しい。絶対に最後まであきらめずに突き進めば、必ずなれる、と説いた。みんなそんな時はうなずく。しかし問題なのは、なるための道を自分でどう切り開いていくのかだ。意地悪な言い方をすれば、なりたいと思っている職業には、ほとんどの人はなれない。それはなぜか。行動が最後までとれないからだ。それにはいろんな理由がある。それは自分の中で考えていくしかない。それを克服したものだけが、夢をかなえることができる。
新聞を読むことだけがマスコミになれる近道ではない。小生の言いたいことは、人の言葉にはどこかにヒントがあるということだ。それをどう自分の中に取り入れていくのか。そしてどのように行動に移していくのか。まずそこに気がつくこと、そしてそれを行動に移すこと。それができるか出来ないで、大きな個人差が生まれる。新聞を読むということが少しばかりヒントにつもりで言ってみた。21人は小生の授業でどれだけ小生の言葉に反応してくれるのか、楽しみだ。
 42の瞳を見て、ふとそう思う。
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メディア別放送内容の必要性・・・

2016-04-16 08:59:07 | Weblog
「いつかまたどこかで起きるであろう、災害のために・・・」と小生はいま執筆中の博士論文には書いている。いつはいつであろうか、どこはどこであろうかはだれもが知らぬ、と思いながら書いていた。まさかそれが熊本であろうとは思わなかった。
 この5年間、東日本大震災を中心に被災地のラジオ局を主な研究テーマとして、学んできた。また調査をしてきた。災害直後にはどんな情報が放送されたのか。それは必要だったのか。それとも不必要だったのか。被災地のラジオ局以外のメディアは、どんな情報を放送したのか。それは必要だったのか、不必要だったのか。様々な事例から調査、放送内容の解析をやって行っている。非常に複雑で、地域によって異なるので、手間がかかる。しかし大雑把な種別ができる。この熊本地震の放送から感じたことを書いてみたい。
 こうした大きな災害が発生すると、大量の情報が発生する。メディアはその大量の情報を一気に放送する。しかし、その放送内容は誰に向けられたものなのか、なぜそうした放送がおこなわれるのか。混乱した現場であるので、所かまわずに見えたものすべてを放送する。無我夢中で放送する。そういったこともあるのかもしれない。小生も様々な災害放送をしてきたので、わかる。しかし情報を整理して放送することも被災を軽減する、救出活動、救援活動、支援活動には必要なことである。その一助となるための放送というものを少し整理してみる。大きく分けると、メディアには3種類ある。一つは全国放送をしているマス・メディア。もう一つはマス・メディアではあるが、県単位のマス・メディア、つまりこの場合は熊本県を放送域とするメディアである。三つ目は市町村単位のメディア、つまりコミュニティFMのようなそのメディアがそれに当たる。この3種のメディアは、放送する内容はちがう。それぞれの役割がある。全国放送では、被災地外に放送することで、国民、政府等に被災地の様子を知らせる。それによって、救援隊、救出隊、自衛隊の要請等の検討材料になる。いわゆる一般的な被害状況情報の放送である。県単位のマス・メディアは、被災地内の被災者等に今何が起きているのか、今後はどうなるのか、避難した方がいいのか、避難するならばどこに避難するのか、またとどまった方がいいのか、それはいつまでなのかという行動指針等について放送する。全国放送よりも地域限定の地域情報となる。さらに市町村単位とするメディアは、詳細な地名での行動指針情報が放送内容になる。○○小学校が避難所になっている、どこどこの川が氾濫している。どこどこの道路が通れないなどの具体的な地名を取り上げての放送内容になる。またこの市町村単位のメディアは、小規模な所帯であるためにマス・メディアのように取材記者がほとんどいない。その時に重要なのが、被災者からの情報である。その地域がいまどうなっているのか、そうした細かい情報が、メールやツイッターやFacebookなど様々な経路から入ってきた場合に、その情報をそのまま放送する。安否情報は特に有効的である。安否情報は探している人、探されている人の両方の名前をフルネームで出す。その情報を出すことで、さらなる情報が発生する可能性がある。探している人は無事なのであるということはまちがいがないということも、放送していることになるのである。あそこで見かけたという情報が入ってくれば、「あそこにいたという情報がいま○○さんからいただきました」と放送すれば、その情報をくれた人の安否もそこで確認できたことになる。そうした情報の連鎖を生んでいくことが大切である。大事なのは、もし見つかった場合でもできる限り、無事見つかったというエスポンス情報も放送することである。安否情報は当事者間だけではなく、広がりを持つ情報であるので、レスポンス情報は重要である。
 少し長くなってしまったが、こうした情報の種別とメディア別が放送する内容を棲み分けしているのが、小生にはNHKが一番適格のような気がする。おそらく総合プロデューサーが方向性を見ながら、放送内容を決めているのではないかと思える。

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普通になっている異常さ・・・

2016-04-12 08:46:33 | Weblog
マスターズが終わった。松山英樹は7位タイだった。小生、松山が優勝できるなんて一度も思ったことがない。「優勝、優勝」と騒ぎすぎると小生は思っている。ベストアマをとって、プロに転向して、アメリカで2勝してそしてメジャーを取る。そんな、順風満帆すぎるでしょ。そんな甘くはないでしょ。それよりもなによりも、あの場で普通にお客さん扱いされずに、プレーできていることがすごくうれしい。小生が松山を見ていて思うことはいつもそのことだ。それまでは、正直やっぱりどこか、お客さんだった。普通じゃなかった。極端な例をあげれば、甲子園の新潟県代表みたいなものだ。いまは普通に強い弱いと話し合える。それは甲子園が普通になったからだ。それがうれしい。だから選手たちも、監督たちも変な気負いはない。変なエラーもしなくなった。だから優勝の可能性もあるかもしれない、一回戦負けもあるかもしれない。それは相手によって変わるだろうし、その時のチーム状態、コンディション状態によって変わる。新潟県チームだからという変な「冠」は、いまはもうない。それは文理のあの決勝の粘りや明訓のがんばりなどがあったからだ。中越が出ても、県立が出ても甲子園のファンは、普通に見るようになった。そんなことを感じる。マスターズを見ていても、同じようなことを松山に感じる。松山がバーディを取ろうが、ダボを叩こうが、それは一人のプレーヤーとしての結果がそこに普通にあるだけだ。日本人という特別な「冠」はそこにはもうない。あの場において普通の風景として、パトロンたちに受け入れられていること自体がすごい。マスターズに出ること自体が異常な状態であるにもかかわらず、普通にこなしていることが、スーパースターの証しだと思う。小生はそう思っている。今回中島常幸が解説していた中で、なるほどを思ったのは、松山は全く言っていいほど疲れていないということだ。それが彼にとっていかに「普通の場所」であることを証明している。「異常な場所、特別な場所」であるならば、緊張感やどこか落ち着かない雰囲気の中で疲労感が普通とはちがうはずだ。しかし普通であるために、松山は疲れない。今年は特にそう思った。極めて普通にやっている。それがすごい。だれもがなれなかった普通を手に入れた。ふとそう思った。
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自分のできることとは・・・

2016-04-07 09:19:45 | Weblog
最近またブログを書き始めている。理由は平易な文章が書けるようになったからだ。書けるとは、論文のことである。一年前に悩んでいたが、教授と相談して、平易な文章の平易なドキョメンタリー的な論文を書くことにした。そうした論文手法は文化人類学にある。エスノグラフィーやモノグラフと呼ばれている。きのうもその文体を勉強するためにタイの農村に2年余り住んで、書き上げたというエスノグラフィー論文を読んでいた。非常に細かく、綿密な調査がされている。言葉の使い分けの調査では、村内の人と村外の人、家族や親せきと友人、公的な場所と非行的な場所での言葉の使い分けなど様々なシュチュエーションにおける単語の使い分けなどが書かれていた。一見言語学的な要素があるように思えたが、その社会の中でどのように人は社会を形成し、地域を保ち、地域を守り、コミュニティを育んでいくのかというところまでつながっていた。難しい論文ではあるが、理論的な運び方が興味深かった。小生はまだまだそこまではいけないと思いながらも、大変勉強になった。
 もう一つ、平易な文章で思いついたことは、正解はないということだ。どこかで学術論文の文体は、平易で書いてはいけないという意識があった。どこか難しく、どこか回りくどくなければいけないという感覚があった。正解を探していた。確かにそういう文章が多いのは事実だが、それは正解ではない。それが優秀な論文という訳では当然ない。あくまでも内容だ。そういう文章しか書けないからそういう文章になっているだけなのだ。そう考えるとすごく楽になった。回りくどく書くこともやめた。ストレートな書き方に変えた。説得、納得してもらうための説明は必要だが、最初から理論をこねくり回すような書き方は、必要ないし性に合わない。できないことはやらない。
 それがわかるまで、時間がかかった。というよりも時間が必要だったと、いうべきかもしれない。ふとそう思う。
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色白、色黒、チビデブ・・・

2016-04-06 08:48:36 | Weblog
来週から非常勤講師の授業が始まる。2007年から2012年までの6年間にやっていたが、集中講義の授業だったので受講生の数はあまり多くはなかった。今回は選択必修授業なので、それなりに集まると思う。集まると、苦手なのが名前を覚えることだ。歳をとったせいか、特に女性は3種類くらいしか見分けがつかない。色白、色黒、チビデブ。この3種類だ。履修届けの用紙には顔写真がついているが、これがまた本人とまったくちがう。男はある程度似ているが、女性の場合は全くと言っていいほどちがう。だからほとんど名前を覚えられない。まちがって呼ぶのもかわいそうだと思って、名前を呼ばないようなシュチュエーションを作るようにする。
 さて授業内容は映像制作である。最後は5分間のドキュメンタリーを作らせ、発表会を行うというのが一連の流れだ。学生は最初たった5分というが、最後は5分は長いとなげく。いまは誰でもが撮影できるビデオカメラがあり、1時間や2時間は簡単に撮れる。しかし実際に物語を作って撮影し、編集するとなるとなかなかつながらない。物語にならない。5秒の適格な撮影さえままならない。この授業はそういう意味では、成功体験授業というよりも、いかに難しいかを教えるという失敗体験の授業という側面もある。
 今年の小生の授業テーマは、ドラマ撮影における照明の役割、近年のスポーツ中継における見えすぎの部分はここだ、という授業だ。この2つを座学で講義してみたい。中でも最近はスポーツ中継は見えすぎの部分が多い。本来はここまで見せてくれればいいという限界があるはずだと、小生は考えている。さて、小生の提案に学生はどんな反応を示すのか、楽しみでもある。
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千里の道を歩き始めた・・・

2016-04-05 08:25:08 | Weblog
博士論文にとりかかっている。春休みを利用して、あるラジオ局をドキュメント風に書いてみた。結局小生の博士論文は、社会学的な言い方でいうエスノグラフィーという、いわゆるドキュメンタリー風でいくことにした。この書き方は主に文化人類学が主流である。いまから理論研究はむりなので、この書き方が小生の一番のストロングポイントを稼げると思ったからだ。できないことをやる必要はなく、できることを徹底的にやることが最善なのだ。という結論に達した。
 春休み書いたのは、およそ6万字、75枚だ。とにかくすべて書くということで、書いているうちにそんな枚数になった。先週教授にみてもらったところ、思ったよりも評価が高かったが、直しが100ヶ所以上あった。まあそれでも考え方や道筋はどうやら間違っていないようなので安心した。千里の道をようやく歩き出した実感だ。肩こりと尾てい骨、ぎっくり腰に悩みながらも、目の前のことに集中している。きょうは入学式だ。
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