事のなりゆき

日々のなりゆきを語ります

本を聞く・・時代というフィルターを通せば・・

2009-02-27 19:01:30 | Weblog
弊社会議室の書棚にはずらりと企業の周年記念本が並んでいる。おそらく、だれも

開いてみた人はいないと思われる。作ることに意義のある本である。

 先日同業者から30周年記念DVDが贈られてきた。その会社の社長は、読んでも

らえない本を作るのは経費の無駄、見てもらえるものを作りたいとDVDを作成し

た。確かにそうだ。予算に厳しい中ならなおさらのことだ。さっそくみてみると

中々おもしろい。なによりも臨場感がある。会社の歴史よりも当時の着ていた洋服

であるとか、髪型などいろんな点で興味深く見た。中には既に亡くなっている方も

写っている。遺族にとっても貴重な映像になっているにちがいない。制作するのは

大変だったと思うが、自社にとっても貴重な資料になる。

 一時なんでも漫画化にするということが流行した。いまでは当たり前だが、歴史

小説やわかりにくい行政組織などが漫画化された。簡単にすることでむしろ味わい

がなくなったという声は聞かれ、反対する意見もあったがいつのまにか受け入れら

れた感じがする。むしろ今は一般的でさえある。より多くの人に理解をしてもら

い、読んでもらえるような形に変身した。時代の流れでもあった。

 今ではオーディオブックがズームになっている。私はまだ買っていないが、本を

読む時間の取れない人には人気のようだ。確かに車で長時間移動する時などは大変

便利で、音楽を聴いても飽きてしまうので、本を聞けるのはいい。最近バスに乗っ

ても新聞や本を読んでいる人をあまり見かけなくなった。その代わりに耳にイヤホ

ンをしている人がすごく多い。若い人ばかりではない。何を聞いているのかはわか

らないが、中にはおそらく本を聞いている人もいるのだろう。一つのメディアにと

留まらずに、いろんなメディアに形を変えている。それによって今まで見なかった

もの、読まなかったものも注目が集まる可能性が出てきた。時代というフィルター

を通せば、可能性は無限に広がる。
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英語からきっとやってくる・・?

2009-02-26 18:17:30 | Weblog
英語をなんとかものにしたいのだけれど、といって学校には行きたくないし。友達

も近くにはいないし、で未だに身につかない。チャンスらしきものはあった。新潟

の沖合いに天然ガス発掘のために多くのオーストラリア人やアメリカ人がいた。飲

み屋で知り合い、意気投合して英語を話している時があった。彼は日本語で私に話

しかけ、私は彼に英語で話かけるという変な会話になっていた。酔った上での語学

勉強だった。英語がうまくなったというより、話すことに抵抗がなくなったという

のが、本音で決して流暢ではなかった。さらにアメリカ取材に10日間ほど行って

いたことがあった。日本から行ったのは私一人。クルーはアメリカ人の通訳に、日

本人カメラ、まったく日本語ができないカメラマン助手の4人。不思議なのは、私

はこの日本語のできない助手と一番気があった。言葉ができないが、馬が合った。

夜は二人で飲みに行った。もちろん会話は英語。英語しかないとなんとかなるもの

で、なんとなく意思が通じた。馬が合ったからだろう。一番合わなかったのが、通

訳だった。人間言葉ではないことを実感した。気の合う助手と行くと、単語の使い

方を習った。カルチャーショックだった。考え方がちがう。例えば、時計が壊れて

止まる。日本人は英語で言うと、止まるをストップと言ってしまう。しかし、英語

ではドントワーク。つまり仕事をしないと表現をする。これだけで私は感嘆の声を

上げた。

いまでもそれなりに努力はしている。アメリカツアーのゴルフは出来るだけ英語で

聞く。もちろんなにを言っているのか皆目わからない。しかし、英語の発想に気が

つく時がある。前述のように単語の使い方を発見する時がある。芝目をきっちり読

んで、パットが入った時はナイスキャッチ。そうかキャッチかと。車の中でもなる

べく、最近はほとんど聞かなくなったが、英語のDVDを聞いている。正確に言う

と聞いていた。だんだん耳慣れしてくると聞こえなかったものが聞こえてくるのは

確かだ。しかし最大の難問は、おもしろくない。車に乗ることは私にとってはスト

レス解消の意味もある。それが英語のみだといやになってしまう。だからなんだよ

という感じだ。

 オバマ新大統領の演説集がベストセラーになった。恥ずかしながら私も買ってみ

た。しかし、自慢じゃないがまったくわからない。なんでこんなものが売れるの

か、理由がわからない。売れているというだけの好奇心で、衝動買いをした人が多

いのではないかと今でも疑っている。英語を話せる欲望を捨てたわけではない。い

つかしゃべるようになると気長に待つしかない。そのうち英語から話して欲しいと

やってくるにちがいないと思っている。馬が合うかどうかの問題もある。

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夫婦そろっての恩返し・・

2009-02-25 18:47:18 | Weblog
「自分がここまで来れたのは柔道のおかげです。今は恩返しです。苦労とは思いま

せん」。地元の高校で柔道を通じて、やればできるということを教えたいと、10

年前に自宅を改築して、合宿所を作った。新婚1年目でのことだった。嫁には柔道

あっての俺だからと説得した。毎日奥さんは合宿所のおかみさんに変身した。朝

食、昼弁当、夕食。自宅合宿所には3~4人が毎年泊まる。親元を離れるのはもち

ろん初めての子ばかり。朝のあいさつから箸の上げ下げまで面倒をみる。コミュニ

ケーションから得られものは侮れない。週末は自らバスを運転して部員を乗せ東奔

西走する。試合ができなければ、合同練習をしてもらう。正月もなければ、夏休み

もない。

生徒たちは落ちこぼれというレッテルを貼れてきた。子供たちだ。自分たちでもど

うせ俺はだめだから、そんなことを口にする。その壁をなんとか突破させたい。自

信を持たせて社会に出したい。それが目標だ。練習で身に付けた技でも試合になる

と、力を発揮することができずに簡単に負ける。特に学力上位校とあたると、試合

前から力が入らない状態になる。あと一歩のところなのだが。自分から力を抜いて

いるかのように負けてしまうことが多い。互角もしくはそれ以上なのだが。どうし

ても壁が破れない。技術の壁ではなく、精神的な壁、劣等感が彼らの気持ちに襲い

かかる。これは練習だけでは身につかない。四六時中いっしょにいて、考え方から

指導しなければと思い立ったのが、合宿所だった。学校は応援をしてくれないの

で、仕方か無く自宅を改造した。徹底的に鍛えることはもちろんだが、やれば出来

るということを熱心に説く。近道はない。一日一日を大切に一言一言を大切に説い

ていく。理屈ではなく、積み上げていくしかないと覚悟して指導にあたる。

体重100キロあったが、生徒といっしょに走るようになって1年で25キロ減量し

た。すると生徒たちの目が変わってきた。柔道に集中するようになってきた。勝ち

負けではなく、結果ではなく自分と戦えるようになってきた。試合でも結果を残せ

るようになってきた。いつしか生徒たちが口に出すようになった。「自分に勝て」

と。
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つらい電話・・

2009-02-24 18:55:17 | Weblog
「おくりびと」が外国語映画部門でアカデミー賞を受賞した。私は「納棺師」とい

う職業を知らなかった。きょうの読売新聞によれば、1954年、北海道で青函連

絡船「洞爺丸」など5隻が沈没、1430人野犠牲者を出した海難じこがきっかけ

で納棺師という仕事が生まれたと言われているらしい。当時北海道で生花店を営ん

でいた方が損傷の激しい遺体を一体ずつ清めて遺族に引き渡した。誰にでもできる

ことではない。アカデミー賞を受賞したことは映画関係者にとってはうれしいこと

と思うが、それ以上にこうした裏方の仕事にスポットが当たることに私は喜びを感

じる。主演の本木さんは20歳代の終わりに遺体をひつぎに収める仕事を記録した

青木新門さんの「納棺夫日記」を読んで、「死の世界をのぞくことで、生きるとは

どういうことか考えさせられた」と話している。映画を通して世界中で、あらため

て生きるということを見直すきかけになればと思う。ふとある警察官のことばを思

い出した。

 警察官の方とは仕事上付き合ってきた。今でも友人同様の付き合いをさせていた

だいている人も多い。最近警察官の不祥事が多いが、私の周りにはいない。むしろ

まじめで正義感にあふれている一が目立つ。就職もしかたがなくではなく、人のた

めに役に立ちたいからと選んだと話す。雑談の中で聞いたことがある。仕事上で何

が一番つらい?ほとんどの警察官が同じようなことを答える。その電話だけはした

くないと。

その日は泊まり勤務だった。事件や事故もなく、酔っ払いの珍客もなく平穏だっ

た。しかし、それも長くは続かなかった。乗用車が電柱に激突との一報が入った。

すぐに駆けつける。ひどい事故だった。電柱に車が巻きつくように折れ曲がってい

る。どれだけのスピードで衝突したのだろうか。乗っていた二人は即死だった。遺

体の損傷が激しかった。誰が運転しているのかもわからないほどだった。免許証と

車のナンバーから身元が判明した。

署に帰って受話器を取る。気が重い。できればしたくない。何でこの仕事を選んだ

のか。と思う瞬間だという。「もしもし、やぶん恐れいります。実は・・息子さん

が・・・。」「いや病院ではありません・・。署にいらっしゃいます・・。は

い・・・。来て・・いただけますか・・」。病院ではなく、警察署にいると告げら

れて初めてなんの電話かがわかる。一気に声が変わる。受話器から伝わる悲しみが

つらい。切った瞬間に全身から力が抜け、立てなくなる。なんでこんなことしなけ

ればいけないんだ。思わず一言出てしまう。


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路上の花束・・

2009-02-23 17:51:54 | Weblog
取材を終え、昼食の最中に携帯電話が鳴った。悪い予感がした。出てみると案の定

だった。帰る途中の高速道路で、交通事故があり多数の死傷者が出ているという。

詳細はまだわからないが、すぐに向かって欲しいとのことだった。まだ半分も食べ

てなかったが、しかたがない。店主にまずいからじゃないと冗談を言いながら出て

きた。カメラに社名が入っていたから、事情を察してくれたようだった。隣にいた

お客さんもなにか、あったんですかと我々の慌てる姿に関心を寄せていた。交通事

故です。一言言い残し、出てきた。向かうのは気が重かった。現場近くのインター

チェンジから通行止めになっていたが、取材ということで通してもらった。衝突し

たであろう、マイクロバスと乗用車は30Mあまり離れていたが、乗用車は車種が

判別できなかった。車高からワゴン車のように見えた。そして、ブルーシートに覆

われていたが、亡くなった方の遺体はまだ道路上にあった。こんな悲惨な現場を見

るのは初めだ。乗用車が居眠り運転をしていて、路肩でパンク修理していたマイク

ロバスに衝突したらしい。マイクロバスには10人あまりが乗っていた模様で、そ

のうち3人が即死。乗用車には4人が乗っていたが、そのうち2人が即死だという

ことが現場でわかった。怖さや現場のむごさからなのか、足がすくみ心臓の高まり

が収まらない。すぐにでも現場から逃げたい衝動に駆られる。そうはいかない。ビ

ニールシートを凝視した。数時間前まで元気であったろう人が意図も簡単にこうし

て路上に投げだされている。親類、家族にはとても見せることはできないと思っ

た。この人たちはどのようにして、生きてきたのだろうか。まさかここで命を落と

すとは夢にも思わなかったであろう。無念だったろうと、私は現場に立ち尽くし

た。そういえば忘れることの出来ない現場がある。

 もう10年以上も前のことだ。卒業式を直前に控えた高校生がバイクで死亡した。

即死だった。道路は左カーブでスピードを出しすぎていたために、ガードレールに

激突した。事故現場は私の通勤路だ。数日後現場に花が置かれていた。彼を悼んで

のことだ。さらに数日後、花束が筒のようなものに入れてあった。筒いっぱいに花

があった。車を走らせながらだからよく分からなかったが、何日後それが教室にあ

るゴミ箱ではないかと思った。そういえば、その筒のようなものを見たのが、学校

の卒業式後だった。推測でしかないが、クラスの友人がわざわざ自分たちの教室に

あったゴミ箱を持ち出し、悼んだのかもしれない。夜遅くタクシーで帰った時、運

転手さんにその花束のことを聞いてみた。知っていた。しかも早朝、毎日のように

中年女性がその現場で手を合わせているという。母親なのだろう。その運転手さん

はその光景をいつもこの現場を通るたびに思い出すという。そして、事故の怖さと

悲惨さを身にしみるという。どんな思い出死んでいったのか。母親はもちろん家族

や親戚はどんな思いだろうと思うと、言葉が出ないという。今でも私はそこを通る

時に、花束を思い出す。私だけではないだろう。彼はみんなの中に生きている。今

そこに花束はない。その代わりにカーブを示す大きな矢印が建てられた。以来そこ

での事故を見たことがない。
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コンビニと共存できない街・・

2009-02-21 21:12:19 | Weblog
どうしてもあのラーメンが食べたくて、喜多方まで車を走らせた。強い冬型の気圧

配置のため、県境はすごい雪だった。少雪だと勝手に思っているだけで、まだ2月

ということを忘れてはいけないということだ。油断は禁物だ。しかし県境の峠を過

ぎれば、雪は少なく安心した。田んぼにもほとんど雪はなかった。所々に土が出て

いる。

 目指すラーメン店はいつもの坂内食堂だ。着いたのは、午後3時ころだったので

並んでもたいしたことはないと思っていたのだが、店の前に列はなく店内に入って

みると席の三分の二が空席だった。空いていることもあるらしい、と思って食べて

いたところ6人ずつ2組が入ってきた。あっという間に席が埋まり、私が席を立っ

て帰ろうとしたときはすでに満席になっていた。私はタイミングよく入っただけに

過ぎなかったようだ。油断は禁物だ。

 時間があるので少し周辺を歩いてみた。坂内食堂についで私の好きな店、あべ食

堂にも行ってみたが、本日終了と看板が出されていた。やはり相変わらずの人気の

ようだ。ラーメン店が密集する地域は、古い商店も多い。私が子供頃にあった洋品

店や靴屋ではなくはきもの店という看板もある。のぞいて見ると高齢者が履きそう

な靴ばかりだ。珍しい看板も見つけた。鯉店とある。中をちょっぴりのぞくと魚を

下ろすような台がある。やっぱり読んで字ごとく、鯉の専門店なのだろうか。猪苗

代湖で取れる鯉の専門店なのだろうか。いろんな想像をしてみた。しかしそんなこ

とも知らない土地を歩くたのしみだ。そんな時電気屋の店先におもしろいものを見

つけた。昭和38年製の真空管式白黒テレビ、当時65,000円大卒初任給13,000円と

ある。まさに子供のころに見たテレビが飾ってある。売っているわけではないよう

だ。でもなんだか街の雰囲気にあっているところがなんともおかしい。まるで売っ

ているかのようだ。違和感がない。

 また駅に向かって歩いている時にふと気がついた。コンビニがない。喜多方駅の

中心地に入る国道沿いにはコンビニはあった。しかし、駅周辺の中心地には一切コ

ンビニが見当たらない。ひょっとすると建設規制をしているのか。ならばなぜ規制

をするのか。店の雰囲気が町並みと合わないのか、土地は余っているようにも見え

るし、喜多方独自の理由があるのか。駅で聞いてみた。数年前にはセブンイレブン

があったらしい。しかし、売れ行きが悪く閉店した。たしかに小さいがスーパーが

ある。そこで住民の人は買い物をするらしい。共存ができなかったわけだ。おもし

ろい現象だ。残念ながら住民の人に聞くチャンスはなかった。ラーメン以外に喜多

方へと駆り立てる理由がひとつ見つかった。
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知床の冬には様々な色がある

2009-02-20 18:10:31 | Weblog
なぜか学生時代は北海道に魅せられていた。まったく外国には興味がなかった。北

海道の中でも函館や札幌より特にオホーツク地方に興味を持っていた。人間を寄せ

付けない厳寒に興味があった。夏に一度行ってから次は必ず冬に行こうと決めてい

た。夏の旅スタイルは予定を立てずに、きょうはどこに行こう、あすはどこに行こ

うと気分次第で行き先を決めていた。あのころ宿泊施設はユースホステルを使って

いたので、夕食やその他ミーティングの時にどこがよかったかを聞き出して、行き

先を決めていた。まさに気ままな旅だった。もちろん車は一切使わずに国鉄の周遊

券での旅だった。今だから言えるが、周遊券の有効期限前に帰る人がいるので、そ

の人から周遊券を安く譲ってもらい旅を続けていた。大学3年の春休みに知床への

旅が実現した。上野から青森まで8時間。青函連絡船で4時間。函館から札幌まで

特急で3時間。もうここでクタクタ状態。夏ならまだいい。というのは、冬は暖房

が効きすぎていてなんだか疲れる。それに雪景色というのはどこをみても同じよう

で、すぐに飽きてしまう。しかし、まだ釧路まではまだ300キロもある。今は特急

しかないが、当時は急行があった。たしか5時間くらいかかったような覚えがあ

る。あと一息、釧路行きの急行に乗り込んだ。窓ガラスは水滴で外が見えず、ディ

ーゼルエンジンでうるさく、お尻も痛い、車内の暖房が効きすぎて熱いし、なんだ

か苦しくなってきた。釧路に降り立ったのは、夕方。ちょうど上野を出てから24

時間が経っていた。やはり遠い。雪はまったくなかった。ただ酷寒だった。身を切

る風が吹いていた。釧路で1泊し、翌日に目的地知床に入った。釧路からバスで1

時間くらいだった。天気がよかった。青空が出ていた。東京の青とはちがう。絵の

具でしか見たことのないすっきりとした青だった。青がまぶしく、高く感じた。寒

さは度を通り越していた。空気がぴんと張り詰め、凍っている感じだった。ウトロ

の港近くのユースホステルに泊まった。満員状態でほとんどが一人旅だった。冬の

北海道は一人旅をしたくなるのだろうか。みんな一人だからこそ、仲良くなった。

ユースホステルには個室はなく、すべてがベット部屋だ。部屋に入ると「ぬしで

す。よろしく」と声をかけてきた奴がいた。ぬしというくらいだからかなり泊まっ

ているのだろうと思っていたが、実は「塗師」という名前だった。顔は今でも覚え

ている。ひげをたくわえ、本当に知床の主みたいな感じだった。このユースに5日

間いたが、天気には恵まれた。知床半島は雪で閉ざされて行けないので、歩いて1

時間くらいのところにある「乙女の涙」が歩いて行ける観光名所だった。夏は滝だ

が、冬はその滝が凍り、ちょうどその姿は乙女が涙を流しているようなことからそ

の名がついたらしい。表面は銀箔を施したように雪がかぶり、中はエメラルドグリ

ーンに滝水が凍っていた。本当にきれいだった。ソリに荷物を入れてユースで知り

合った人と毎日通った。忘れられないのが、流氷の海に沈んだ夕日だった。天気に

恵まれたとはいえ、一日中晴れていることはさすがに少ない。しかし、その日は夕

方まで天気がよく、ユースのオーナーがきょうは夕日が見られるかもしれないと言

っていた。太陽が傾いてくると、流氷の白銀が徐々に色を変え始め、水平線の近く

から色が変わり始め、最後には白銀の海がオレンジ色に変わる。持っていたカメラ

で夢中でシャッターを切った。白黒フィルムだったのを忘れていたが。知床の冬に

はいろんな色がある。塗師はどうしているだろうか。あれ以来30年近く逢ってな

い。きのう網走で史上2番目に遅く流氷が接岸したらしい。
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ポケットの思い出

2009-02-19 16:34:40 | Weblog
ハワイに行った時、カヤックツアーに参加した。カヤックはカヌーみたいなもの

で、場所は全米でナンバーワンビーチに選ばれたことのあるアイルア・ビーチで、

ここでは丁寧に漕ぎ方から教えてくれる。漕ぎ方は海に入ってしまえば、すぐに慣

れる。すぐに海に出られるほどだ。ガイドの説明がほぼ終わり、控え室の前で黒人

の女の子が流暢な日本語で我々に「私は日本語を勉強していますから、なんでも聞

いてください」と言った直後、後ろからきた女性経営者がポケットに突っ込んでい

たその女の子の手を乱暴に引き抜いた。彼女はポケットに手を入れたままの姿勢で

我々に説明をしていたのだ。言葉遣いなど特に気になるところがなかったので、不

快には感じなかったが経営者からしてみると、日本人の礼儀を教えたのかもしれな

い。黒人の女の子は少し顔赤らめた。おそらく初めての注意ではないようだ。わざ

とではなく、照れくさい時の彼女の癖なのかもしれない。顔を赤らめたことで私

は、彼女なりに日本の礼節を、理解しようとしていることにむしろ私は好感がもて

た。なんだかそんなところを見てしまうと、自分も人前でそんな態度をとっていな

いだろうかと思ってしまった。考えてしまった。ポケットにはまたちがった思い出

がある。

その人は知事だ。ある時あれっと思った。その人のポケットが縫ってある。よく見

るとちゃんと縫ってある。これはわざと縫ったのだ。これでは手が入らない。では

なく手を入れないようにしてあるのだ。日銀出身で初めて県知事に当選した。知事

になるつもりはなかったが、自民党から候補者を選ぶことができずにこの人が担ぎ

出された。あれよあれよという間に知事になってしまったと本人は回想していた。

自分の運命を自分で決めわれないことってあるんですねとぼやいた。しかし、奥さ

んには一つ心配なことがあった。それは人前で話す時にポケットに手を入れてしま

う癖があるのだ。そんな態度をとれば、ひんしゅくを買うだろうと奥さんは心配し

た。しかも癖というのはやっかいなもので、無意識に出てしまうのが怖いところ

だ。というわけで思い切って縫ってしまったというわけだ。それでも何回か私は目

撃した。手を入れそうになっている。空振りする。そこではっとするようだ。たか

がポケット、されどポケット。ポケットに手を入れていたくらいではやめさせられ

ないとは思いますけど。あれはまずいでしょ.


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冷蔵庫の中にミミズ・・?風呂にウキ・・?

2009-02-18 18:30:57 | Weblog
最近つりの番組にはまっている。中でも芸能人や文化人が達人と言われる人から教

わりながらの釣り番組がおもしろい。私自身つりやらない。14年前に亡くなった

父がいわゆる釣りきちだったが、私はどうも好きになれなかった。もし今父がいれ

ばいっしょに糸を垂らして、なんてことがあったかもしれない。番組の中では特に

ゲストに教える達人の解説がおもしろい。魚しかわからないような習性を熟知して

いる。なかなか奥が深く、おもしろい。竿の動かし方、海底でのえさの揺さぶり

方。針がついていないかのように魚をだます。しかし素人がやると、えさだけ持っ

ていかれる。魚だってそう簡単には騙されない。そしてもっとも大事なのが合わせ

方だ。魚の種類によって口元や歯がちがうので、タイミングよく合わせないと針が

かからずに外れてしまうことがあるようだ。このタイミングこそが腕だ。そして醍

醐味はタイミングが合った後に手に伝わる感触だ。私もやったことがないわけでは

ないので、なんとなくわかる。ぶるぶると竿から伝わってくる感触は今でも手に残

っている。私の場合は釣堀で釣った金魚の感触だが。

 父はヘラブナ釣りが一番好きだった。川釣りの中でももっとも難しいといわれる

釣りらしい。川はヘラブナ釣りに始まり、ヘラブナ釣りに終わるという言葉がある

くらいだ。つり道具は毎日ように手入れをしていた。風呂を沸かして入ろうとして

ふたを取ると、浮きが浮いていることも間々あった。微妙な引きをするヘラブナな

ので、浮きはいつも最新のものを使っていたようだ。えさのミミズが冷蔵庫の中を

這っていることもあった。保存していたミミズが入れ物から脱出しまい、散歩中に

発見されたわけだ。さらにこれだけは我慢できなかった。釣ってきた魚を冷蔵庫に

入れるのである。毎年年末に鮒の甘露煮を作るために、一時的に冷蔵庫で保存をす

るのだ。冷蔵庫は全体が鮒臭く、生臭い。これには閉口した。今でも魚の生臭さは

だめだ。

 絶対に釣れない時がある。それは地震があった後だ。変調で食欲がなくなるから

なのだろうか。理由はわからない。全く食わない。知っていれば、すぐにあきらめ

るが知らないで釣り糸を垂れていると悲劇だ。えさを突っつきもしない。だからま

ったく釣れない時は、地震がどこかであったといつも疑っていた。私はいつも地震

の所為にする父を笑っていたが、今ほど地震計が細かく設置されていないころだっ

たので、本当に近くで地震があったのかもしれないと今思う。その逆で地震前は以

上に釣れる。理由はわからない。何か事前に察知しての行動なのだろうか。大量に

釣って帰ってくると地震があると怖がっていた母を思い出す。
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プロ仕事を知ること・・

2009-02-17 15:20:38 | Weblog
縁あって来年度も大学の集中講義を担当することになった。去年より今年。今年よ

り来年とさらに充実した講義を実現したいと今から力が入る。以前にも書いたが、

5分程度のドキュメント制作を教えているのだが、一口に5分程度とはいえやらな

ければいけないことやクリアしなければいけないことは無数ある。講義前のリポー

トと講義後のリポートでは別人のようにちがうことを書いてくる。またテレビの見

方もまったく変わる。ある学生は講義後のリポートで「映像の裏に、内包されたメ

ッセージが隠されていることを学んだ」と書いてきた学生もいた。隠されたメッセ

ージを表現できるのも映像のおもしろさだ。

普段の生活の中で1秒を意識することはほとんどないだろう。しかしプロはちが

う。プロは1秒どころか、コマ数まで意識し自身の中で刻む。今年は初めてCM素

材の映像分析をしてみた。テレビCMの基本枠は15秒だ。1秒をもっとこまかく

すれば30コマだ。つまりCM制作者は30コマ×15秒、450コマとして映像

を操る。私が映像分析したCMは変則の20秒CMだったが、一場面25コマとい

うカットがあった。25コマあれば十分認識できる。建物の外観は25コマあれば

十分だ。これがプロの技というものだし、そんな世界があることを教えてあげたい

と思う。主たる講義内容は、映像を作らせる実習だが、その中にプロと呼ばれるた

めの技術、素人とプロのちがい、見えないところでもきちんとした仕事が隠されて

いることなどを合間に入れながら講義する。この講義を受けたからといってテレビ

局や映画制作に携わる学生は多くはないだろう、というかその職に就ける学生は少

ない。私がこの講義を利用して教えたいのは、プロ仕事の細かさだ。細かいが大胆

でもある。そこに人の感動が生まれ、番組の評価が分かれる。番組ばかりではな

い。ほんのちょっとのことがそのものを活かせることが数多くある。それが分かっ

ているかいないかでずいぶんちがう。出来るか出来ないかを問うつもりはない。知

っているかいないかだ。見えない部分に気を使うことで見える部分が引き立つ。そ

んな法則が成り立つ瞬間がある。

私がどこかの番組の映像分析をする時は、このプロの技を解き明かす分析を目指

す。なぜなのか、どうしてこの音で、この明るさなのか。さらになぜこのカメラワ

ークなのかを丁寧に分かる範囲内で説明する。プロの仕事を理解することは、単に

映像勉強に終わらない。人を敬うことにもつながる。
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望むは天からの贈り物程度。

2009-02-16 16:45:33 | Weblog
また雪が降り出した。2月だからしかたがないが、一度春のような陽気を味わって

しまうと、余計に寒さが身に染みる。東京から新潟に来た冬は大雪になった。最初

雪降るのが楽しみだった。しかしそれも1ヵ月と続かなかった。そんな真っ只中の

2月9日、旧中里村の清津峡温泉で大規模な雪崩が発生した。入社1年目の出来事

だ。当時はまだ雪の状況がわからないので、長岡まで新幹線で行き、長岡からタク

シーで清津峡を目指した。途中の十日町商店街では雪が10Mほどオブジェのよう

に積み上げられていた。桁違いの積雪に驚かされた。さらに旧中里村に入った時、

夜中だというのに家の前で雪かきをしているお年寄りがいた。家には玄関しかな

く、巨大なかまくらのように見えた。すっぽり雪に家が埋まっているかのようだ。

それほどの積雪だった。なんとか清津峡の入り口までたどり着いた。地元消防団員

から「ここからは入れない。雪崩の危険性がある」と言われたが、雪崩の現場はま

だ先だ。静止を振り切り、「責任は持てない」という声を背中に山道を歩き始め

た。毎日新聞の人といっしょだった。彼は雪山の経験があった。縦に離れて歩こう

と言った。もし雪崩があっても誰かは助かるからだ。山肌にはとがったようなせっ

ぴのような雪が見えた。素人の私には分からなかったが、ほんとうに危ない状態だ

ったらしい。現場に到着してみると、家の柱がむき出しになっており、その下を警

察官や消防団らが懸命に掘り返し救出作業を行っていた。ブーン、ブーンというチ

ェーソーの音が山に鳴り響いていた。雪崩は対岸の山から発生し、川を越えてバウ

ンドするように押し寄せたらしい。それにしてもものすごい雪の量だ。私はうすっ

ぺらな防寒具しか着ておらず、万全な体制ではなかった。寒さが夜明けとともにや

ってきた。眠気や食欲が寒さを誘った。明け方、「生きてるぞー」というひときわ

大きな声が響いた。「救急車。救急車」。雪崩発生から十数時間ぶりに風呂場で見

つかったのは旅館のご主人だった。生存はしていたものの、衰弱が激しく病院に運

ばれる途中で息を引き取った。温泉の熱で雪が融け、空洞になっていた場所にいた

らしい。この雪崩で結局5人が死亡した。この他にも雪害は数多くあった。屋根の

雪を下ろしていて、雪といっしょに転落した人、車の中で寝ていて車が埋まり排ガ

ス中毒で無くなったスキーヤー、歩道を歩けずに車道を歩いて事故にあったお年寄

り。


今年は小雪だろうか油断は大敵。まだ2月。でも雪は天からの贈り物とロマンチッ

クに思える程度であることを祈っている。あすから冬季国体が始まる。もう少し雪

が欲しいそうだ。
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津軽弁が聞こえてきた

2009-02-15 17:11:37 | Weblog
両親の墓が東京にある。出張のついでに墓参りする。墓のある寺は私が通った幼稚

園でもある。今はすぐ裏に幼稚園は引越している。かつては境内が幼稚園の運動場

だった。よくこんな場所で運動会をやったものだとあらため思う。墓参りもさるこ

とながら、実家の周辺を歩くのが楽しみだ。鬼ごっこをしたところ、缶けりをした

ところ。ずいぶん変わった。その変化を墓参りしながら見てきた。バブルの頃は野

原だったところにもアパートが建てられ、出稼ぎ外国人がたくさん住んでいた。墓

に備える花を買いに行っても、黒人が買い物にきている姿をよく見た。それからバ

ブル崩壊とともに、アパートは廃れた。空き家になり、今はアパートに変わって建

売住宅が並んでいる。

母親は体が弱かったので、夕食を近所の人からよくもらっていた。覚えているメニ

ューはカレーくらいしかないが、裏の勝手口に久須美さんという人がお鍋ごともっ

て来ていた。まだ私は小学生の低学年でよくわからなかったが、久須美さんのしゃ

べっていることばが聞き取れなかった。「くしゅみです」と私はいつもまねして、

母親に怒られていた。いつかまねをしていて、すぐ後ろに久須美さんがいる時もあ

った。後で聞いた話だが、青森県出身で、津軽弁が東京に来ても取れなかったらし

い。訛っているのではなく、私には別の言語のように聞こえた。もちろんわかる部

分もあるけれども、たまに何を言っているのかわからないことがあった。今ならち

ゃんと聞き返せるのだろうが、小学生くらいではきょとんとするくらいが精一杯だ

った。久須美さんの家は実感から歩いて、5分ほどだった。遊んで帰る前、いつも

久須美さんの家の前を通った。ご飯のいいにおいがしていた。

 今久須美さんの家はない。おそらく亡くなったのだろう。いつか覚えていない

が、取り壊された。父や母が生きていれば、その後の消息もわかったのだろうが、

わからない。今でも久須美さんの家のあった場所を通る。ずっと更地だったが、最

近家が建った。きれいな今流行の設計スタイルで、和洋折衷の家だ。若夫婦が住ん

でいるのであろう、玄関先には三輪車が置かれている。ちょうど前を通りかかり、

私がゆっくり歩いて家を眺めていた。あの日のもどった。オレンジ色の裸電球がガ

ラス窓に映っている。ほんのちょっぴりすく間が開いている。そこからからジュー

ジューとフライパンで何かをいためる音がする。ソースのこげるにおいがする。や

きそばだろうか。「くしゅみです」ってまた持ってきてくれるのだろうか。その時

に玄関が偶然あいた。もちろん知っている人ではない。苗字を見ても、久須美では

ない。見ず知らずの人だろう。目が合う前に私はとっさに目をそむけた。もうそこ

に昔はなかった。急に今にもどった。なんとなく寂しく感じた。

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継続こそ力なり・・実感した

2009-02-13 18:02:38 | Weblog
小学5年生の時、赴任してすぐの高松先生という男の先生が担任になった。その先

生のことで覚えているのは、戦争の話と東海道五十三次マラソンだ。戦争の話は自

分自身の体験に基づくもので、上官に殴られたり訓練したりする様子を面白おかし

く、授業を中断して話をしてくれた。きょうの授業はこのくらいにして、戦争の話

をしますと言うと歓声が教室中に響き渡った。戦争の悲惨な場面は小学生相手だっ

たからだろうか、ほとんどなかった。

東海道五十三次マラソンは勉強になった。ある日大きなベニア板が教室に運び込ま

れてきた。紙が貼ってあり、そこには東京から京都までなど主要な宿場町と数字が

書かれてある。その数字の意味は校庭の周回数だ。横浜はたしか30くらいだった

と思うが、つまり校庭を30周すると横浜に到着というわけだ。クラス男子全員の

ピンが用意されて、ある日一斉に京都を目指してマラソンがスタートした。クラス

男子全員がその日を境に校庭を走り始めた。私は足が速かった。マラソンも得意だ

った。3人くらいで先頭を争っていた。品川や横浜はあっという間に駆け抜けた。

静岡までもあっという間に到着した。しかし、ここからがこの先生の狙いが徐々に

見えてくる。速いのはいいが、だんだん飽きてきた。単に校庭を回るだけだから

だ。1ヵ月あまり経ったころだろうか、必死になって走っていた生徒が少なくなっ

てきた。みんなそれぞれ今までやってきた遊びに戻っていた。みんな飽きたのだ。

私自身も毎日走らなくなった。遅れてもすぐに取り戻せるし、慌てて走る必要もな

いし。そんなことを考えていた。抜かれてもすぐに抜けるし。

このマラソンで二人を覚えている。白石と奥田。この二人は足が遅く、どちらかと

いえば運動音痴だ。いまだから言えるが、体育ではなにをやってもみんなについて

いけなかった。もちろんこの二人もマラソンに参加しているが、校庭を回るスピー

ドは私に比べれば三分の一から四分の一。だからなかなか地図の上のピンが進まな

い。ところがこの二人がなかなか粘り強い。私がとっくに校庭を回るのに飽きてい

るのに、彼ら二人は毎日もくもくと走り続けた。雨に日でも走れる範囲内で走る。

風邪をひいた時でもちょっと走る。とにかく毎日ちょっとずつ距離を重ねていっ

た。そしてとうとう校庭を回るのはこの二人だけになってしまった。ベニア板に貼

ってあるピンはほとんど静岡周辺で止まっている。そしてクラス全員がこの二人に

追い抜かれた。最後は白石が一人京都に着いた。走破した時、クラス全員で白石に

拍手した。継続することの大切さをクラス全員で学んだ。
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何で本読むの?

2009-02-12 18:32:10 | Weblog
本を読んでいると落とし穴が事前にわかる、と言った。これは私の中学校時代の国

語の先生が言った言葉だ。私は後輩に対し、本を読めと言ってきたし、今でも言っ

ている。そして先輩からは本を読めと言われてきた。子供の頃、私はとにかく文字

を読むのが苦手だった。根気が続かない。めんどうくさい。その程度の理由だっ

た。中学の時だった、今でも覚えているが、新任で来た林という先生と意気投合し

た。本の話を聞いた。毎日聞かされた。本の読むおもしろさは伝わってきたが、で

もなぜ本を読まなければいけないのか、なぜみんなそんなに本を読めというのか

が、私にはわからなかった。落とし穴が分かる?納得はできなかったが、それ以上

聞かず、それで記憶が途切れている。その後私は次第に本を読めるようになった。

でもふとその先生の事が思い出される。落とし穴が・・・。

 作家北方謙三氏は2月12日付の日本経済新聞「私と読書」でこんなことを書いてい

る。―心の街は、本を読むたびに広がっていく。最初は、同じような本ばかり読ん

で、似たような団地が立ち並ぶだけの街かもしれない。一軒家かもしれない。それ

でいい。それでも続ける。次第に道ができ、カフェや花屋が立ち並ぶ。心の中の街

で、いつしか豊かな生活が営まれていく。心の中に「アナザーワールド」を作ると

いうことだ。そこが自分のよりどころとなる。心の中の街が、あなたの「人間の

力」を大きくしてくれる。―中略― かつは僕は青年向けの雑誌の人生相談で「自

殺のことを考えています」という18歳の男性に、「本を読め」「50冊読むまで

死ぬな」とアドバイスしたことがある。豊かな街を持っている人間は、冗談でもそ

んなことは考えない。読書に消費するプラスのエネルギーは、人間を前向きにさせ

るのだ。本を読むということは自分と向き合うことでもある。そして、小説は、人

間の影に光を当ててくれるのだと、僕は思う―。噛みしめて読むとよく分かる。人

間力は抽象的な言葉だが、今の私には飲み込める。

 私自身、読書は人と言葉の出逢いの旅と思っている。いい人に逢いたい。いい場

面に出会いたい、いい言葉に出会いと本屋に足が向く。何かを追い求めてる時、何

かの言葉を探している時、たまたま偶然読んだ本にその答えが載っている時が多

い。その本が私を呼んだのだ。中学の先生が言った「落とし穴が事前にわかる」と

いう自分なりの答えは仮想経験に基づくことからのことを指したのかどうか。林先

生とは35年会っていない。今はなんと言うのか、聞いてみたい。
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歴史を残すことの難しさ・・

2009-02-11 19:55:28 | Weblog
先日新潟大学の人文学部で映像研究をしているグループが主催していた、地域映像

アーカイブシンポジウムが開かれた。去年新潟県のほぼ中央に位置する旧六日町の

旧家から昭和10年から20年ころ前後に撮影された写真が発見された。これがき

っかけとなり、大学内にプロジェクトを作り、まだ眠っている映像の発掘や保存を

どのように進めていくかなどが、シンポジウムで話し合われた。東京からも写真や

映像の専門家ら駆けつけ、予想以上の200近くが集まった。テレビ局にとって今

一番の悩みは映像の保存だ。何を捨て、何を保存するのか。保存メディアはどうす

るのか。世界中のテレビ局が頭を悩ませている。私のテレビ局は開局たった25年

しか経っていないが、それでも貴重なお宝映像はたくさんある。2000本はあ

る。毎日増えるばかりだ。そんな悩みを突破する知恵も探れればと思って行ってみ

た。中では写真専門家の話は興味深かった。一般の人にとって映像アーカイブとい

う言葉自体が、遠い存在で無関係という気にさせてしまうが、自分のこどもの頃の

写真ひとつとっても文化財になる可能性があるという。というのは、写っている人

はともかく、まわりに写っているものに貴重なものがある可能性があるというの

だ。なるほど。建物や車、着ている洋服、髪型などすべてが歴史になる。本人たち

にとってはごみと考えがちだが、何気ない写真の中に歴史が隠されていると話して

いた。

 一番私が興味を持ったのは、肖像権の問題である。肖像権が弊害になって公開に

踏み切れないものもある。シンポジウムではこの肖像権問題はほとんど話題に上ら

なかったが、一部の人の権利で歴史を振り返ることができないということが、いつ

までも続くとは思えないという意見が、専門家から出始めています。もちろん遺族

を含めた権利者を説得していく必要がある。しかし問題をクリアしていくために

も、地域で、大学で歴史が隠されている写真を保存していくことはもちろん、それ

ぞれのテレビ局で保存管理している映像を一括して、他機関が保存していく必要が

いつかくるのではないかという予感を感じさせた。

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