事のなりゆき

日々のなりゆきを語ります

コミュニケーションの話の続き・・・

2017-07-20 09:54:33 | Weblog
 先日の話の続きだ。博士論文を書いている時に、注意を受けたのが、存在しないという存在だ。ニュースバリューで表現すれば、正常な状態のことを指し示す。ニュースは非日常を扱う。だから日常の状態であれば、ニュースで取り上げることはない。バリューがないからだ。しかしそこには省略されていることがある。それは日常という状態がどんな状態だということだ。なぜ省略させているのかといえば、みんな知っていることであり、あえて説明する必要がないからだ。小生はそういうことが染みついている。
 論文は比較することで、研究テーマを浮き彫りにする手法を使う。ここで例えるならば、日常の状態を論証しなければ、非日常の状態はわからないということになる。ニュースバリューを論証するには、ニュースバリューのないことを論証する必要があるということだ。ニュースは異常な状態ばかりを扱うから正常な状態はニュースには出ない。博論はそうはいかない。当たり前のことを当たり前という論証が必要になる。だから小生の論文審査で言われたことは、小生の論文は、いいことばかり、もしくあhわることばかりしか書いていない。こうしたことを論文で判断するとなると、バランスに欠けているので、いいことなのか、わるいことなのかという判断基準が示されていない、と批判された。「ばるほど」である。言っていることは理解できる。少し飛躍するかもしれないが、野球にこの話を例えてみると、ボールの動いていないところのコミュニケーションが大切であるといういことが解明できれば、ボールによるコミュニケーションの大切さが論証できる。つまり、野球の神髄を理解するには、ボールのないところのコミュニケーションを調査、分析することが必要ではないのかという理屈である。それであのブログを書いたのである。駅伝もしかりである。テレビをみていれば、野球はボールの行方がほとんどであり、駅伝であれば、タスキの受け渡しのところがほとんどである。当たり前だが、それ以外のところの動きやコミュニケーションがあって初めてその競技が成り立つという言い方もできる。確かにドキュメンタリーで取り上げるコミュニケーションはボール以外、タスキ以外のコミュニケーションを取り上げていることが多い。合点がいく点もある。また少し考えよう。
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