ナカナカピエロ おきらくごくらく

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さようなら、20Ten!

2010-12-31 11:59:24 | 日記
さようなら、20Ten!

ついに2010年も最後を迎えることになった。
一年を振り返ってみたが、別段何もなく年を過ごしたような気がする。

今年の夏は異常に暑かったと言われているが、私は夏が好きなので、それ程までに暑いとは思わなかった。また社会では、異常気象による被害や円高・デフレによる経済の冷え込み、尖閣諸島や北朝鮮による軍事的緊張、雇用崩壊等、あらゆる事態が発生したが、何故か私には災いは起こらなかった。これだけ世の中が騒いでいる中で、平穏無事に過ごせたのは奇跡ではないかと思うほどである。

ひとつだけ言うならば、生きているのが面倒になったことだろうか。。

休職前、仕事で連日連夜、残業し、深夜に帰宅途中、私は死にかけた。帰り道、頭痛持ちの私は何時になく割れそうに頭が痛かった。とにかく頭蓋骨を突き破って脳みそが破裂しそうだった。心臓の動悸が早くなり、かろうじて意識を保って歩く中、脳裏で”ザッザッ!”と音がし始め、その音が鳴ると左足が痙攣・麻痺し、私は左足を引きずるように歩かなければならなかった。

その時、「あれっ、俺ってもしかしてここで死んじゃうのかな。」と思った。そして、どうせ死ぬならシャワーを浴びて身体をきれいにしてから死にたいなと思い、とにかく家をめざして歩いた。そして家に辿りつき、シャワーを浴び、転がるように寝た。そして私は死なずに済んだのである。今まで、死にたいと思ったことは何度もあるが、死ぬかもしれないという体験は初めてだったような気がする。ここまで死を身近に感じたことはなかった。そしてこの体験は、私の人生観に少しながら影響を与えたのである。

それまでは、定年になるまで働いて、引退したら自由気ままに生きようと思い、頑張って働いてきたが、「もういいんじゃないか。もう十分に生きたよな。」と思い始めた。そして「我が人生に一遍の悔いなし」と世辞を残して、自決しようかとも考えた。しかし母より先に逝く訳にはいかない。自決は思いとどまった。それから私の残りの人生はただの執行猶予であるように感じた。

とりあえず、今年は終わる。そして明日から新しい年が始まる。私は歩き出すだろう。何に向かって? それを考えるのは明日になってからでも遅くはない。

今日は姉夫婦の宅で、母と甥を含め家族全員で年越しそばを食べることになっている。
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アルコール

2010-12-30 10:59:58 | 日記
アルコール

現在、私は禁酒中の身である。

やめたいとかいう訳ではなく、抗うつ剤を飲んでいる為ドクターストップがかかっているからだ。よって、会社の飲み会は常に欠席。

唯一、居酒屋に行くのは、高校時代の親友と遊ぶときだけ。それでも私はアルコールは飲まず、ウーロン茶で済ます。親友は昼間からビールを飲み、夜は日本酒や焼酎を毎日欠かさず食しているそうだ。この親友と馬鹿話しながら飲んでいると、お酒を飲んでいないにも関わらず、こっちも酔っ払ったような気になるから、不思議なもんだ。

昔、私が小学生の頃、理科室にアルコールランプがあった。夏の暑い日、先生の目を盗みながら、アルコールランプを取り出し、腕にさらっとぬらす。そうすると気化熱で、腕が涼しくなる。ぬりすぎるとヒリヒリするので、量は加減する必要がある。

そのアルコールが飲み物に変わったのは、もちろん成人してからのことである。大学のゼミの飲み会で飲みすぎ、帰りの電車を途中下車して、トイレで嘔吐したのが、最初の飲酒体験。

入社して工場実習に行かされたときの工場の人たちとの飲み会は忘れない。べろべろに酔わされて、カラオケパブで嘔吐。もうお前は帰れと言われ、タクシーに乗せられ寮まで送ってもらった。そのとき、初めて自分の適量値を知ったのである。以後、吐くまで飲むことはなくなった。

配属後、新入社員の私は飲み会の幹事だった。仕切り役の私は周りの気配りに終始し、ゆっくり飲むなんてことはできなかった。でもみんなが楽しかったと言ってくれると幹事としては冥利尽きる。

毎日ビールを飲んだくれるようになったのは、会社のストレスが原因。夜11時ぐらいに帰宅し、食事とお風呂を済ませた後、眠ろうとしても眠れない。そしてビールを浴びるように飲んで、朝の4時ぐらいになって、ようやく就寝。8時頃には起きて出社。出社すると若いやつから、「酒臭いっす!」と言われるほど、お酒を飲んでいた。

そして発狂。後は前述の通りである。

アルコールに関して、唯一、後悔しているのは、父と酒を飲み交わすことができなかったことである。父は大の酒好きで、ヘビースモーカーだった。晩酌は毎日欠かさず、駅のホームで電車が来るまでの待ち時間、ワンカップ大関を買っては飲んでいた。昭和一桁生まれの父は頑固で、子供の頃の私には少し近寄りがたい存在だった。めったに叱らない父が一言言えば、何故か反抗できなかった。お酒とタバコが嫌いな母は、父といつも喧嘩していた。

就職して家を後にし、寮住まいで忙しい日々を送っていた私は、なかなか家族と会って話す機会がなかった。そんな時、父が胃がんで手術することになった。7時間に及ぶ手術で胃の半分を切除した。とりあえず手術には成功したものの、カーネルサンダースのようだった体はみるみる痩せていった。当然アルコールは医師から禁じられていたが、それでも父は飲酒をやめようとしなかった。私が実家に寄ったとき、父は梅酒を買って飲んでいた。アルコール度数が15度もあったにも関わらず、「これは健康にいいから。」と言って飲んでいた。私は父から酒を取り上げ、すぐさま台所の流しに捨てた。そのとき父は何も言わず、ただ黙っていた。

最後に会ったとき、父はロッキングチェアに座って、ただぼんやりしていた。この世の何もかもが、もうどうでもいい、といった感じだった。何もしゃべらなかった父が帰り際、「どうもありがとな。」と声をかけた。私は「また来るよ」といって家を後にした。

一週間後、姉から会社に電話がかかってきた。そこで私は父の訃報を聞いた。


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シチリア!シチリア!

2010-12-29 21:34:45 | 日記
シチリア!シチリア!

今日になって突然、映画を見に行くからと、母親から言われ、姉夫婦と川崎チネチッタで、「シチリア!シチリア!」を見てきました。

題目から分かると思いますが、イタリア映画です。南イタリア特有のレンガ色の家並に青い空。一見するとにぎやかな街に見えるが、何かしら虚しさを抱え、そして何よりファミリを大切にする人たちの生活。

このところ、日本映画ばかり見ていたので、ヨーロッパ系の映画は久しぶり。昔は関内アカデミーという小さなシネマ館で、良くこの手の映画を見ていましたが、閉館して久しい。ちっちゃなシネマ館が次々と閉館してしまい、残念な限りです。

姉はイタリア語を毎週習っており、今年の秋に一週間ほどイタリアに一人旅してきて、現地のおばさんにほめられたぐらいの実力の持ち主。英語はダメだけど、イタリア語ならOKだそうだ。姉曰く、結構シチリアの方言があったとのこと。私には馬の耳に念仏。うっ!(By Princeみたいな。。)
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ドラッカー

2010-12-28 13:26:23 | 日記
ドラッカー

私は一応コンピュータの技術者である。

技術者としての私は、これを誇りと思っている。

元来、人嫌いである私は、政治的な力学で物事が決まるような仕事には興味がなく、技術力と理詰めで物事が決められる仕事につきたかった。技術と論理に勝るものなし。たとえ、どんなに偉い人でも、技術と論理に裏打ちされた説明ができれば、自論の意見が採用される。この白黒が明確に分けられる仕事に満足し、日々、技術と論理の研鑽に努めてきた。上司から次々に仕事を丸投げされても、技術と論理を駆使してミッションを遂行し実績を重ねてきた。いわゆるナンバー2の黒子としての役を入社以来ずっと演じてきたのである。

しかしプロジェクトのチームリーダーに選ばれ、ナンバー1として働かざるを得なかった時、壁にぶち当たった。こいつなら信頼して仕事を丸投げできる、ナンバー2となりうるメンバが一人もいなかったのである。部下は私が期待した成果を上げられず、最終的には何もかも全てを一人で抱えてこんでしまうはめになったのだ。そして結局破綻。ウルトラセブンにはなれなかったのである。

こうなることはチームリーダーに選ばれた時、すぐに予測できたので、私ははじめからこの役職に強く抗議した。私がナンバー1になることなど所詮無理なのだと訴えた。

しかしチームが実際に破綻して、そら見ろ!俺の言った通りではないか!って言ったとき、部長から諭された。部長とはお互い担当者の時から一緒にお仕事をさせて頂いた人であり、当時から何でもできる非常に優れた技術者だった。その部長から、俺だってウルトラセブンになんかにはなれないんだよって言われた時に、私は、はっ!っと気が付いたのである。部長も同じ経験をしていたのだ。とても優秀な部長が!である。

我々は会社の中で組織として仕事をしている。そしてその組織を自分の意に沿って如何に動かすか考えろ!っと言われたのである。そのとき私は強い自責の念にかられた。私は、人のマネジメントの仕方をこれまで全く考えてこなかったばかりか、軽視していたのである。

そして私はようやく、ドラッカーの本を読み始めた。
「マネジメント」(エッセンシャル版)を読みかけたが途中で挫折。「もしドラ」を読んだが、果たしてこんな具合にうまくことが運ぶのだろうかと疑心暗鬼。一番、分かりやすかったのは「別冊宝島1710 まんがと図解でわかるドラッカー」だった。「マネジメント」(エッセンシャル版)は、またの機会に読むとして、とりあえず、その本に書かれていることを実践してみようと思っている。

高校時代の親友からは、社会に絶対なじめないし、なじもうともしないあんたには絶対無理だ!と言われているが。。。確かにそうなんだけどさ。へへ。
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コンピュータ

2010-12-27 14:38:39 | 日記
コンピュータ

私は、今、他社ベンダのUNIX系OSを搭載したサーバ、スーパーコンピュータのソフトウェア・サポートサービスのお仕事をしている。前の部署では、C++コンパイラの開発に従事していた。現部署では、コンパイラ製品(C/C++/Fortran)に加え、OS、Java、仮想化、クラスタ系ソフトウェア製品のサポート・サービスを手がけている。

私が入社したときは、Windowsもなかったし、インターネットや今のような携帯電話やメールもなかった。せいぜいMacが使い物になるぐらいだった。その当時、今のようなデジタル時代を一体、誰が予想しただろうか。あまりに速い時代の変化についていくのが精一杯だ。しかし逆に捉えれば、デジタル時代の変遷期を体験してきた貴重な存在とも言える。

私は大学で数学を学んだ。それも理工学部ではなく、理学部の。必要なのは、紙とえんぴつだけ。コンピュータの知識なんてものはゼロだった。OS、CPUという言葉すら知らなかった。今を思えば、よくこの仕事を選んだものだと不思議に思う。

配属当時は「使えねーやつが入ってきた」と言われ、誰も面倒など見てはくれなかった。「何か仕事は。」と言っても「おまえは本、読んでればいいんだっ!」と足蹴りされ、そんな状態が半年ばかり続いた。しかし、なめられるのがくやしい私は、一生懸命、勉強した。OS、シェル、コンパイラ、プログラミング言語、コンピュータ・アーキテクチャ、片っ端から本を読み倒した。ここで、私は数学魂を発揮したのだ。

大学では、微分幾何が専攻だった。理由はゼミの教授の中で一番面白くて、授業が楽しそうだったから。当時は、アインシュタインの相対性理論が流行しており、その理論の記述言語というべきものが微分幾何だった。しかし懇意になったゼミの教授からは、位相幾何学や数学基礎論(ゲーテルの不完全性定理等)などの本も紹介してもらい、独学で勉強した。毎日、本を開き、定理の証明ばかり読んでいた。難解な記号が並ぶページに頭を抱えながら読み進めていく。そんな生活を毎日送っていた私にとって、コンピュータの本を理解することは、そんなに難しいことではなかったのだ。

今、コンピュータの技術は多様化しており、湧き水のように止め処なく、様々な形をとって世の中で活躍している。きっと、これからもどんどん新しい技術が出てくることだろう。今や、単独で用いられる「コンピュータ」という言葉は、死語に近いのではないかと、そんな気がする。

その中で紀元前500年前に発見されたピタゴラスの定理は、今でも学校で教えられ、その美しさは今でも変わらず、みずみずしいままだ。今、私は数学の凄さをまざまざと感じるのである。(数学については別途記載予定。)
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overdose

2010-12-26 11:22:21 | 日記
overdose

私は鬱病患者である。
正確には躁鬱病と言うべきかもしれない。

2004年に発狂して以来、現在まで治療中の状態である。
会社に復職しては何度も失敗し、やっとこの一年間、鬱になる前の状態に戻れたと安心していたが、3ヶ月前に再び発狂。現在休職中で、来年また復職する。

overdose。
友人から言われた言葉。確かに私は全10種類ぐらいの薬を朝・昼・晩・就寝前に分けて飲んでいる。それでも何年も苦しい時をかけて薬を変えては調合してもらい、最小限度に留めて”これ”なのだ。ここまでくる過程で、私は様々な副作用に悩まされた。舌が乾く、便秘する、視力が落ちる、健忘症になる。でももっとも苦しかったのは、手足の震え。アルコール中毒者のように手足が震えて、キーボードが打てない。階段が下りられない。自分の名前すら書けず、私は何度も自分の名前を書く練習を毎日した。
ようやく副作用が消えたとき、雲が晴れるように私の頭は覚醒し、元に戻ったのである。
それでも病は完治せず、2010年に再び発狂し、休職の事態となり、静養を余儀なくされた。多分、一生、私はこの病と付き合っていかなければならないのだろう。

そこで、私はこの病と対峙することにしたのである。

まず私は内面的な観点から、この心象風景を捉えたいと思った。世の中には、鬱病に対する数多の本が存在しているが、その殆どが外側から見た精神病理的な症状の説明に終始し、内面的な”鬱”という現象の本質が見過ごされていると感じたからだ。私は、この心象風景を詩に託した。「屋上の幻想」に収録されている「雑記」がそれだ。多分これを読んだことのある人は、誰もが不愉快な体験をするだろう。まさしくそれが狙いなのだ。この詩によって誰もが鬱に直面している精神的鬱の描写を読者の内部で体験する。”鬱”の疑似体験なのである。

そしてもうひとつは、人生のライフワークとなるであろう人間の精神構造の追究を掲げたい。それには哲学的なアプローチが必要だ。発狂するということはどういうことなのか。そこでは、まず存在そのものを追究するところから始めなけえばならない。学生時代、ハイデガー、ラカン、ニーチェ、ビィトゲンシュタイン等の原書や解説本等を好んで読んでいたが、再び手に取る日が来たのである。

私はここである本と出会う。
その本は、NHKの「私の1冊 日本の100冊」という番組で、玄侑宗久という作家が紹介していた「時間と自己」(著者:木村敏)である。そこに記載されている「鬱病者の時間」の節には、見事なまでに的確な表現で内部的な”鬱”の深層を紐解いている。

そして私の探究は今日も続くのである。
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オロチョンラーメン

2010-12-25 09:06:42 | 日記
関内に来来軒というお店がある。

北海道ラーメンのお店で、かれこれもう15年くらい通っている。店員のおじさんにも顔見知りになった。

ここの味噌オロチョンが超うまい。辛さも4倍が通常の辛さで、2倍から10倍まで選べる。もちろん普通のラーメンもある。

私はいつも4倍を頼む。それにトウバンジャンをたっぷり入れる。辛さは増すが、味がまろやかになるのだ。

麺はちじれ麺で、スープが絡みやすくおいしく頂ける。

辛いのが好きな方は、ぜひ試して頂きたい。
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コンビニの店員

2010-12-24 19:28:38 | 日記
ID変更で再投稿します。

マンションの近くのコンビニで働いている女の子がいる。

ネーム・プレートで、名前は知っている。僕がマンションを購入してから、ずっと働いている子だ。小柄で、年は10代後半か20代前半ぐらいだと思う。午前中に立ち寄ると必ず店にいる。

なぜ、覚えているのかというと、最初にコンビニに立ち寄った時、髪がぼさぼさで、無表情。笑ったところを見た事がなかったからだ。そして低く暗い声ででてくる”いらっしゃいませ”と愛想のない応対。今時、こんな女の子はめずらしいと思った。

その後、他のコンビニに行くようになり、その女の子に会うことはなかったが、数カ月前に久しぶりにそのコンビニに寄ったら、髪が肩まできれいに揃って、かわいくなっていた。同じ店員に諭され美容院に行ったのか、好きな男の子ができたのか、訳は知らない。数日前、コンビニに行ったら、さらにショートヘアになっていた。変われば変わるもんだと思ったが、無表情で、笑顔がなく、愛想のない応対だけは変わらなかった。
何故か、行く末を案じてしまう。
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