裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

ボランティアレポート・千葉、君津

2019年09月30日 08時10分00秒 | 被災地ルポルタージュ
鋸南町のお隣(かな?)である君津の宿でたっぷりと眠った翌朝。
この町のボランティアセンターに赴く。
ここもまた、強風による被害と、長期の停電で苦戦を強いられている町なのだ。
前日までの週末三連休が終わったため、ボランティアはかなり減っている。
その中で、屈強な男子のみの六人チームを組み、「桜の木が倒れてるので、そいつを伐採、解体、運搬せよ」という命を受ける。
はじめてのタイプの仕事で、なかなか興味深い。
現場に着くと、要請者である上品そうなお母さんが出迎えてくれた。
このひとがまた律儀なひとで、自分ちの瓦も落ち、屋根がブルーシートでパッチワークされているのに、「山のほこらをお助けいただきたいのです」と言う。
つまり、この家から少し山に入った場所に、小さな神さまを祀るほこらがあるのだが、その背後に立っていた立派な桜の木がほこらの小屋根に寄りかかって、潰れそうになっているのだった。
しかし、ギリギリ潰れなかった、という点がすごい。
そのお姿を見たら、不意にこの場に呼ばれたような気がしてくる。
がんばらねばならない。
が、この仕事が非常に難しい。
桜の木は、人間の背丈ほどのところで二股に分かれていて、それが風で根こそぎにされて倒れ込んでいる。
その片っぽがほこらの屋根にのしかかり、かろうじてバランスを保っているのだが、下手に切り倒すと、どこがどう動くかわからない。
先っちょの枝から少しずつ落としていき、まずは荷重を減らしていこう、ということになった。
このチームの若きリーダーは、自宅の裏山で枝打ちの真似事をしているという林業マニアで、チェーンソーから木登り用のハーネスまで持参という心強い人物だ。
われわれ素人軍団は、ノコギリを手に手に、三脚にのぼる。
こうして枝を落としていくわけだが、その下には、極めて心細いつくりの灯籠が二基、立っている。
しかも、あたりは一面、ぬかるみだ。
この水は、台風によるものではなく、近くでこんこんと湧いているものだという。
それを聞き、ますますこの地を守りたくなった。
ほこらにのっかった幹から先をすべて取り除くと、桜の根幹が人力でも動くようになった。
そこで、桜の幹の上部にロープをかけ、ほこらと逆方向に引っ張ろう、ということになった。
そうして張り詰めさせたまま、チェーンソーで徐々に切り刻んでいく。
ついに根っこの立ち上がりまできれいに伐採すると、ほこらに寄りかかっていた桜は、休憩にちょうどよろしい切り株となった。
ほこらのかたわらで成長したこの桜は、春になると、神さまの後光のように花を咲かせたのだという。
この子は、ただ台風の被害を受けただけで、悪さをしたわけではない。
なのに切り倒されてしまい、かわいそうなことだった。
しかし、無事に神さまをお救いすることができた。
上品なお母さんのところに戻り、遠慮遠慮の彼女の家の中も片づけさせてもらった。
帰り際、このひとがまた、ものすごく感謝してくれる。
泣きそうな勢いで拝み倒してくれるのだ。
いつもボランティア仕事の後には達成感があるけど、今回のはひとしおだった。
チームの仲間も最高だったし、清い湧き水もいただき、清々しい気持ちで現場を後にした。
夜は例によって、被災した町でふんだんにお金を落とすべく、がんばってお酒を飲むのだ。
宿に戻って湯船に浸かると、目の前に虹が立っていた。

おしまい

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボランティアレポート・千葉、鋸南町2

2019年09月28日 08時45分13秒 | 被災地ルポルタージュ
偶然に拾ってもらったバスに運ばれ、鋸南町の役場についた。
庁舎の外に「受付」が設けられていて、よその地域の役所から派遣された応援部隊が、ボランティア募集の対応に当たっている。
・・・かと思いきや、そこの係と思われるブスに声をかけてみると、「ボランティアの募集は12時で終了となりました」と言う。
時計を見ると、12時7分だ。
その場に並んでいたボランティア希望者数人も、帰れ、と言われて当惑している・・・というより、容赦のない対応にあきれ返っている。
クソ役人風情がっ!
・・・という言葉は飲み込み、「いやいや、いいじゃん~、おまけしてよ~」のトーンで手続きを促すと、しょうがないわね、の対応で受け入れてくださった(しねっ、ブス)。
さて、手続きを終えると、例の「マッチング」というやつだ。
被災者からいろいろな要望が届いているので、そのニーズに応じられる人員を束ね、現場に向かわせる作業だ。
被災者サイドは困窮しており、ボランティアサイドは助けたい気持ちに燃えている。
それを出会い系のようにマッチさせるのが、マッチング作業だ。
しかし、被災者の多様な要望に対して、ボランティアの手はまったく足りていない。
この状況を目にしていて、よく「12時でおしまいよ」とか言えるよなあ、やっぱ役人の根性ってすげえ。
さてオレだが、具合いよくそこにいた男子三人でチームを組み、吹っ飛ばされたトタン屋根の撤去、という現場をまかされた。
「日高屋(ラーメン屋)の工場で麵を打ってます」という、見るからに麵を打っていそうな気のいい兄ちゃんを相方に、ひたすらトタン片とガレキを軽トラまで運び、荷台がいっぱいになると、もうひとりのおっさんが処分場までピストン輸送する。
トタン屋根といっても、金属製の重厚なシロモノで、一枚がタタミ二畳分ほどもある。
それだけでなく、周囲に散乱した鉄骨やら看板やらも処分しなければならない。
集めたガレキは、金属と木材とプラ他に分別する(日本人はこのへんがエラい)。
次なる台風が列島に近づいていて、ものすごい強風吹きすさぶ中での重労働だ。
「海沿いのこのへんは、いつもこんな風だよ」と、なぜかお隣に住んでいるというチャラいおっさんが横にいる。
「だけどあの夜は、一晩中、竜巻の中にいるみたいだったよ」
このひとはさっきまで、洋館のような自分ちの屋根の修繕をしていたのだ。
軽トラを待つ手持ちぶさたの時間に、こっちから「手伝いますか?」と声をかけたところ、「いや、終わったんで、そっちを手伝うわ」と降りてきてくれたのだった。
この変人が、横倒しになった鉄柱を見て、よし、これを片付けよう、と言い出す。
いろんな電線がまだ地中につながっており、素人が手を出すのは危険極まりない。
「いや、鉄柱をこっちに振って揺すれば、引きちぎれるはずだ」などとのうのうとのたまう。
オレは電線を巨大ペンチで切ろうとして感電死しかけたことがあるので、必死に止めた。
そうこうするうちに、このおっさんもチームに紛れ込み、要望先の家屋(つまりお隣さん)のタタミ上げや家具の移動を手伝ってくれるようになった。
ボランティアとは、こうしたお節介焼きの集団なのだ。
困ってるひとを見ると、手伝わずにはいられないのだ。
なかなかいいチームが形成されたもんだ、とちょっと気分がよくなってくる。
いい働きもできたし、今夜はいい酒が飲めそうだ。
・・・と、帰りの電車に乗ろうと駅にたどり着くと、一時間半に一本の電車は、出たすぐ後なんであった。
無人駅でぼんやりと次の便を待つしかない。
すると、目の前に座ってるきれいなお姉ちゃんに話しかけられた。
文化放送の記者兼キャスターだという。
ヒマつぶしにインタビューを受けた(このひともヒマなのだ)。
「なぜボランティアを?」
「苦しんでるひとを見ると、こっちも苦しいし、うれしがってくれるひとを見ると、こっちもうれしいんで」
そんな一日目だった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボランティアレポート・千葉、鋸南町1

2019年09月26日 20時18分16秒 | 被災地ルポルタージュ
もはや趣味と言っていい感のある、災害ボランティア活動。
今回は、先日の首都圏直撃台風で大規模に被災した千葉に、緊急出動。
中でも、猛烈な強風で荒らされた君津と鋸南地区で働いてきた。
もちろん、こっそりとひとり行。
その模様をルポルタージュする。
さて、あらかじめ君津に宿を取り、新宿から内房線に乗って、現場に直行したのだった。
「ボランティア募集!ただし千葉県内在住者限定」というわけのわからない縛りがあるが、バカな行政の言うことなど聞く耳を持つ必要はない。
これまでの経験から、いけばなんとでもなるし。
つわけで、とにかく動くのだった。
初日は、いちばん手ひどく屋根を引っぱがされたと報道にのってる鋸南(きょなん)町がターゲット。
列車の車掌さんから被災情報を仕入れ、言われるままに、保田という特急の停まる駅で降りてみる。
毎度のことだが、こうした場所には人っ子ひとりいない。
そこで、道ゆく自衛隊員をつかまえ、さらなる情報収集を試みる。
ところがなんと、「ボランティアセンターは、ここからだと車でもだいぶかかる」らしい。
われわれ個人ボランティアは、ボラセンを通して仕事を獲得せねばならんのだ。
その手続きを経なければ、ボラ保険が効力を失うし(死亡時2000万円)、だいいち単独行動だと、詐欺か盗っ人かと怪しまれる。
かと言って、ボラセン方面に向かう電車は、一時間半に一本あるきり。
屋根にブルーシートを張るために出張ってきてる自衛隊(ひっきりなしに通りかかる)にヒッチハイクを頼むわけにもいかず、途方に暮れ、呆然とたたずむ。
と、そこへひとりのお母ちゃんが、やはり途方に暮れたように肩を落として歩いてきた。
訳を聞くと、「家が片づかん」のだという。
台風で屋根瓦を飛ばされ、びしょびしょの家の中をなんとかしたいのだが、駆けつけてくれた姪っ子と甥っ子だけでは手に負えないらしい。
待ってましたとばかりに、助太刀を申し出た。
闇営業は保険も利かないし、詐欺や盗っ人を疑われるかもしれないが、ここはやむを得まい。
しかし、そこは疑うことを知らない田舎のひとだ。
ありがとうありがとうと、手を引っ張られる。
連れていかれたのは、駅からすぐの大層な屋敷。
しかし、瓦が周辺に無残に散らかり、屋根にも窓にも、応急処置のブルーシートが張られている。
時あたかも、次なる台風の接近によって、ブルーシートまでめくりあげそうな強風が吹き荒れている。
作業を急がねばならない。
クツのまま上がっていいと言われ、長靴履きでお邪魔した家屋内は、凄絶な散乱っぷり。
ピアノ、桐ダンス、テーブル・・・部屋のあちこちにブルーシートが張りめぐらされ、雨露をしのいでいるが、畳はすでにぐしょぐしょだ。
こいつを剥がして、集積所まで運びたいのだという。
そこで、高校生のような甥っ子と姪っ子に指示を出し、まずはサイドボードやら飾り棚やら衣装タンスやらを畳の上からどかして、濡れ畳を引っぱがしにかかる。
じゅくじゅくに濡れそぼった畳の重さを知っとる?
津波で海水に浸かった石巻の畳は、六〜八人がかりでかつぎ上げ、やっと運び出せるくらいの重さだった。
だけどここのは、雨漏りがじわじわと染みたやつなんで、わりと無理なく持ち上がる。
若人たちと力を合わせて、もう使い物にならない10枚ばかりを、次々にめくっては運び出した。
それにしても、津波は下からの一瞬の水でやられてどうしようもないが、雨漏りってのもいつまでもいつまでもポツリポツリと攻め立ててきて、そのストレスときたら半端ないらしい。
湿気た畳は腐って臭いを放ちはじめるし、とにかく、一刻も早くなんとかせねばならんのだ。
つわけで、午前中いっぱいかけて、こちらの片づけをした。
「助かった、もう大丈夫」と言うので、心痛むが、家を後にする。
それでも、なかなかの仕事量をこなしたぞ。
さて、ここからボラセンまでの足をどうするか・・・考えあぐねる。
もう仕事を切り上げて飲んじゃおうかな・・・とくじけはじめた、しかしまさにそのときだ。
一台のバスが、目の前を通りかかるではないか。
あわてて飛びつくと、「ボラセンのある市役所方面までいきますよ」という。
なんということだろう。
一日に五本きりしか走っていないバスに、たまたま遭遇したのだった。
すぐさま乗り込み、運賃は?と訊くと、「こんな状況なんで、タダです」だって!
うあー。
こうしてオレは、次なる仕事を求め、鋸南町のボランティアセンターへと向かったのだった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

災害ボランティア

2016年06月06日 10時23分58秒 | 被災地ルポルタージュ
熊本で災害ボランティアをしてきた。
今回は、駅前のホテルに泊まって(移動も宿泊ももちろん自前)、熊本市が設営したボランティアセンターに出向き、仕事のマッチングをしてもらい、現場に派遣されるって形。
それにしても、自治体(公的な)運営のボランティア活動は、のんびりしてる。
基地内に人員がふんだんに配されてて、どう見ても人余りなんだけど、手持ち無沙汰な彼らはなにをしてるんだろ?
それに、時間はきっかりから、安全を最重視、もいいけど、柔軟さがない。
待ち時間とか、長すぎ。
長蛇の列ができてんだから、さっさと開門すればいいのに。
各地に配される人員も、なんとかの確認、かんとかの確認、で仕事量を相当にロスしてる印象。
も少しフレキシブルに動けんかね。
装備、器具や、食料、飲料などの物資はふんだんに用意されてて、まさにボランティアさんたちに対するサービスが行き届いてるけど、こっちとしてはもっとキビキビ動きたいんだけどな。
しかし確かに、ボランティア参加の敷居は下がって、誰もが飛び込める環境にはなってる。
小学生から、女性、ご老体まで、気軽に参加できる。
こうしてボランティア経験者が増えてくといいと思う。
一方、一面を荒野にされた東北で経験したのは、NPOや非営利の団体が運営する、民間のボランティア団体だった。
ここはすべてが自主性と自己判断に任されてて、そのおかげでものすごい機動力があった。
即断、即決、即行動。
装備や安全性に関しても自己責任。
一匹狼たちの集まりで、公営チームみたいなほんわか和やかムードとは大違いのギスギス感があったけど、きわめて高い充実感があった。
どっちがいいとは、もちろん言いきれない。
どっちも、被災地、被災者を想って、押しとどめようのない気持ちで活動してるんだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボラ紀行・番外編/盛岡

2011年10月11日 21時12分41秒 | 被災地ルポルタージュ
台風が列島に近づく中、岩手の盛岡にたどり着いた。
被災地でまともな仕事ができなかったんで、例によって「地元に金を落とす」経済活動にいそしむことにする。
陸前高田から出る早朝のバスに乗ったんで、盛岡着は午前11時ってとこ。
雨の中、宿を探すが、お決まりの「東横イン」に部屋を取ると、「チェックインは3時」という、当然の応対。
巨大な荷物だけは預かってもらい、街に出るとする。
4時間もの空き時間をつぶすため、まずは床屋(ヘアサロン、っつの?)に入った。
実はこの日のために、髪をぼーぼーに伸ばしてきたのだ。
オレは大学の頃からモヒカン or 丸ボーズだったんで、ずっと自分でバリカンを使って処理してきた。
こないだ同窓会のために(色気を出して)十何年かぶりに床屋に入ったけど、なかなかよいね。
つわけで、ホテルからいちばん近いサロンにひょいと飛び込んでみる。
「かっこいい海兵隊カットにしてくれ。ああ、そうだ、天頂部にハンバーグを乗っけたように髪を残し、刈り上げた下半分から徐々にグラデーションにするタイプのやつだ」 と説明したのだが、できあがったものを見て思わず「これじゃ、こぶ平じゃねーか」とつぶやいたところ、「襲名後は、正蔵師匠になりましたよ」と、切ってくれたワカモノに諭される。
師匠か、ならまあよい。
店を出るが、まだまだ時間があるので、昼飯にする。
盛岡にきたら、なんといっても冷麺を食べなければならないので、名店「盛楼閣」を攻める。
・・・まあまあだった。(江古田の「焼き肉ハウス」の方がうまい)
ついでに別の店で、盛岡名物というじゃじゃ麺なるものを食べるが、まったく感心しなかった。(どこがうまいんだろ?)
その後、駅ビルの土産コーナーをさんざんひやかし、やっと午後3時となって、ホテルに投宿。
疲れ果ててたんで、そのままひと寝入り。
目覚めると、すでに夜だったんで、いよいよ、という気合いで街に繰り出した。
いろいろと入る店を検討したが、「散財」が目的なので、ちょっと敷居の高そうな「割烹料亭・扇屋」さんに足を踏み入れてみる。
やっぱし、旅先ではそれなりのものを食べなきゃ意味がないし。
店内には、カウンターにひとりだけのお客さん。
そのスキンヘッドの外人さんの、いっこトビの隣に腰掛けてみる。
50がらみの大男は、こちらと目を会わせてにっこりと微笑み、「ヨロシク」と声をかけてきた。
オレ「はじめまして」
外人さん「サミュエルだ、ヨロシク」
オレ「サムさんと呼んでいいかい?」
外人さん「ディックでいい」
フランクでなめらかな会話だ、すばらしい。
オレは、カウンターで隣り合わせた外人さんとは必ずコミュニケーションをとることにしてるのだ。
立派だよなあ。
↓以下、ディックとの和英ごちゃまぜの会話。
オレ「どこからきたんだい?」
外人さん「アメリカの東北さ」(←なかなか粋な言い回しでないの)
オレ「東北ってことは・・・ニューヨークのあたりだな?」
外人さん「ボストンさ」
聞けば、彼は先生で、そこでポリティカル・サイエンスを教えてるのだ、という。
オレ「政治学か、すげえな。まさか、あの大学じゃねーだろうな?」
外人さん「ビンゴ。M.I.T.さ。知ってるのか?」
オレ「オレはロバート・B・パーカーを読むんだ」
外人さん「マジか?うれしいぜ。オレの娘は『スペンサーシリーズ』が大好きで、愛犬にスペンスという名前を付けたくらいなんだ」
オレ「それはすばらしい。あの探偵は、いつもオランダのアムステルを飲んで、いつもあんたのマサチューセッツ工科大学の周りを走ってるんだ」
こんな会話ができるから、オレはほんとにすごいよなあ。
明日は市長と被災地を回るんだ、といって、サミュエル氏は帰ってった。
しかしかえりみるに、あの会話は全部ブラフだったのかもね。(ほんとだと思うけど)
とにかく、実に愉快で充実した時間だった。
さて、若きご店主。
このひとも何度も被災地に足を運び、復興の手助けになれば、とその地域(三陸)から素材を仕入れ、立派な仕事に仕立ててるという人物。
とにかく、東北のどこにいっても、身内や友だちの誰かしらが被害を受けてるんで、その一体感には感じ入らされるものがある。
東京や、それ以西のひとたちも、他人事だから、と忘れ去らないでほしいな。
なにかしよう、なんて思わなくていいんだよ。
ただ、忘れないでほしいのだった。
さて、ホテル泊をし、翌日には「ぴょんぴょん舎」の冷麺にチャレンジ。
こちらはさすがに日本一、おいしかった。
前日に下調べをしてたので、目をつけた土産物屋にふたたび足を運ぶ。
巨大な荷を背負うオレを見て、せんべい屋のおかみさんが「ボランティア」と気づき、深々と頭を下げてくれた。
「ありがとうございます。被災者になり代わり」と。
それが本当に深い礼なんで、つくづくと恐縮する。
それに見合う仕事を東京でも、と意を固めた。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸前高田ボラ紀行・7

2011年10月06日 08時36分30秒 | 被災地ルポルタージュ
翌日には、超大型台風が関東から東北までを縦走してくことになるわけだが、テレビもラジオも(携帯も)ない陸前高田ベースキャンプでは、このことを知る由もない。
が、翌日から二日間続けての作業中止が決まった時点で、ここに滞在する意味はなくなった。
5日間の予定で被災地入りしたのに、半日×2日間働いただけで、無念の撤退を決意した。
そのことはさておき、雨足がますますひどくなる中、この夜は鍋宴会。

つか、正午に作業が終了したので、みんなやることがない。
長い午後は、酒でやり過ごすしかないのだった。
それにしても、おびただしい蛾、ね。
ハエはいないが、この巨大な蛾、こいつが気色悪い。
あまり愉快な画づらじゃないけど、貼っとくよ。

でかい!

門柱にびっしり。

トイレでも出くわす。

網戸にも。
「住田基地ってどんなとこ?」と問われたとき、この子たちを思い出すんだろうな・・・
そんな中、こよなくやさしいボランティア仲間たち。
お疲れさん、短い間だったけどがんばったな、お互いの地域でできることをしような、で、またどこかの現場で会おうな・・・
忸怩たる思いは残るものの、大切ないろいろを確認し合えて、うれしかった。
名残惜しい、とはこんな夜のことだね。
さて、朝。
日に二本きり、この周辺を走ってる路線バスが、早朝6時半に基地前を通りかかる。
そいつをつかまえないと、オレは本当に流浪の身と成り果てる。
早起きし、身支度を整え、間抜けな傘差し姿で基地を後にする。

思えば、徒歩行でこの場所というのは、いかにも無茶だった。
車ってのは便利なもんだなー、などとひとりごちつ、雨の中たたずむ。
山道でひとりきりバスを待つ、ってのは不安なもので、「ほんとに来んのか?」と懐疑的になってみたり。
しかし、やがて時間通りにオンボロバスは通りかかり、無事につかまえて、乗り込めた。
とりあえず盛岡(これもまた気まぐれ)まで出たかったんで、バスの運ちゃんに話しかける。
「だったら、このへんで降りるといいよ、盛岡往きのバスが通りかかるから」と、キテレツな返答をたしかに聞いた。
信じられないが、バス停もなにもない、山中の街道脇で降ろされる。
今思えば、あのバスはタヌキが化けてたんじゃねっかな?
とにかく、そこに盛岡往きのバスがくるなど、あり得ない感じなのだった。
案の定、待てども待てども、バスはこない。
雨は降ります、私の胸に、としゃれてる場合じゃない。
びしょ濡れでさぶい、ひとりぽっちでさびしい、こんなとこで死にたくない。
しかたない、ヒッチハイクをするしかない。
こういうこともあろうかと、あらかじめヒッチ用に用意してたスケッチブックに「→盛岡」と書き込んでみる。
と、そのとき、どうやらこの哀れな姿を遠目に見てたらしき人物が傘を片手に現れ、話しかけてきた。
近くの農家のじいちゃんだ。
「盛岡往き?ここでか?そんな話は聞いたことがねえ」
「でしょうね・・・」
「ずっと先の『向こう川口』ってところから、盛岡便なら出てるから、そこまで送ってやる」
「マジっすか?」
さっきのバスの運ちゃんがタヌキなら、このじいちゃんは天使の化身にちがいない。
じいちゃんの運転する軽トラに乗っけてもらい、盛岡往きが出るというバス停まで無事にたどり着くことができた。
感謝、感謝、感謝の連続。
ずっとずっと、ずーっと助けられてばかりのボランティア行だった。
が、またもじいちゃんに深々と頭を下げられた。
「ありがとうね。わざわざこんなところにまできてくれて、ありがとうね」
「そんな・・・」
「がんばるからね、がんばるから。ありがとうね、ありがとう・・・」
かえりみれば、身にあまる感謝の言葉を、地元に住む誰も彼もががかけてくれる。
そんな立場のわが身に、納得したり、自信を持ったり、誇らしく思ったり・・・してる場合じゃねーっ!と、今一度自分に、喝。
なんにもできなかった・・・
またこなきゃ・・・
それだけを噛みしめて、盛岡往きの立派な長距離バスのふかふかソファに尻を沈めた。

おしまい

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸前高田ボラ紀行・6

2011年10月05日 10時00分39秒 | 被災地ルポルタージュ
住田基地は、午後10時に消灯。
ホールには50近い寝袋が敷かれ、みんなで雑魚寝する。(女子には別の部屋も用意してあるから、安心)
床は硬いけど、泥のように眠れた。
考えてみれば、前夜は夜通し深夜バスの座席だったし、まともに寝ることもなくそのまま現場に出たんで、へとへとになってるのだった。
さて、翌朝は6時起床。
外は、この日も雨。
超大型台風が近づいてるらしい。
しかし、8時半のマッチングに向けて、戦士たちはおのおのに朝飯を食らい、準備を怠らない。
8時近くになると、誰もが次々とボランティアセンターへと車を向かわせる。
バスも電車もないし、徒歩行ではとても無理な距離。
車を持たない者は、相乗りさせてくれる車をつかまえなきゃならない。
オレは、前夜の酒盛りで盛り上がった、太々としたまゆを持つ沖縄青年にお世話になることにした。
国家公務員さんらしいが、大きな有給休暇を取り、南の島からはるばる飛行機で仙台入りし、そこでレンタカーを借りて、ボランティアに参加してる剛の者だ。
同じ志しを持つ人物とは、車内での会話もたのしく、ためになる。
約30分で、ボラセンに到着。
付近は、ボランティア参加者たちの車で大渋滞で、ひろびろとした駐車場は満車状態。
雨降りにも関わらず、そして平日にもかかわらず、ヒトビトのこの熱さには打たれる。
さて、仕事のマッチング開始。
オレはこの日も、側溝掘り起こし作業(別の現場)をゲット。
新たに、京都で建設業をやってるというかっこいい青年に相乗りをお願いし、移動手段を確保した。
この青年は、三日がかりで被災地入りし、車中泊しつつ、いろんな現場を渡り歩いてるという。
南三陸、気仙沼、大船渡・・・この辺りにもたくさん現場はあるからね、いろんな状況を目で見て、肌で感じて歩くのも悪くない。
さて、昨日に増して雨足の強いこの日の現場は、側溝からのドロドロの泥出し。

たまった海砂に根深い草がはびこってるので、なかなかしんどい。
掘り起こしては、掘り起こしては、泥を土嚢袋に詰め、ネコ移送し、傍らに積み上げてく。
冷たい雨に叩かれつつ、カッパを泥まみれにしつつ、60代と見えるようなおっちゃんから、20代の女子まで、メンバーはみんな一生懸命だ。

「台風が接近中なので、作業は午前中で切り上げて」と、この日はあらかじめボラセンから言い渡されてたが、体力的にもそのへんが限界。
側溝を10数メートルほど復元した時点で、現場を後にした。
途中、別の現場を何ヶ所も通りかかった。
「なんとか大学」だの、「かんとか会社」だの、バス参加の団体組が、ひろびろとした平野に展開して、がれき処理をしてる。
誰もが心痛めてて、なんとか力になりたいと思ってて、だから一生懸命なのだった。
新たな意欲が湧いてくる。
さて、相乗りをお願いした京都の青年は、この夜の住田基地泊に興味を持ってたが、帰り着いた陸前高田ボラセンで「翌日は作業中止」の報を聞いて、仙台方面へと舵を切り、求職に向かった。
えらい子だ。
そして、熱いぜ。
ボラセンの道具の洗い場で、たまたま太々としたまゆを見つけたので、帰りの足もこの沖縄さんにお願いした。
さらに山深くにのぼった温泉にまで連れてってもらい、いい湯も満喫。
お世話になりっぱなし。
冷えたからだをあっためて、夜のためにビールを大量に買い込み、ベースキャンプに戻る。


つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸前高田ボラ紀行・5

2011年10月03日 09時58分30秒 | 被災地ルポルタージュ
ボランティアセンターに、スコップやネコなどの装備を返却し、さて、今夜の寝ぐらさがし、となる。
陸前高田には、ボランティアたちが無料で寝泊まりできる公共の施設「住田基地」がある。
・・・と、ネットに出てたので、そこにたどり着かなきゃならない。
ラッキーなことに、現場まで乗っけてもらったワゴンのおっちゃん二人組が、住田基地を拠点にしてるというので、再びご一緒させてもらうことに。
基地は、ボラセンからさらに30分ほども山深くに入った場所にある。
基地の周囲数キロ圏には商店もなにもないので、途中、街道に一軒きりのスーパーで、今夜と翌日分の食べ物、飲み物を買い出しし(このあたりも、ボランティアはすべて自己責任で準備する。そして、ゴミはすべて持ち帰る)、さて、基地着。

そこは、元小学校で、その後に公民館に改築されたらしい、けっこう立派な建物だった。
おっちゃん二人組は、校庭でテントを張り、数日間、そこをベースキャンプにして動いてるという。
小雨模様だったが、テントの外で煮炊きをし、折りたたみイスでくつろいで、実にフリーな雰囲気だった。
こんな生き方もいいなあ。
オレはというと、基地事務局で簡単な手続きをすませ、ホールのようなところで小さな一区画を確保し、テリトリーとした。



まだ誰も帰ってきてないので、施設内の探険開始。
キッチンルームがあって、冷蔵庫には「地元のひとたちが差し入れてくれる」食材が入っており、自由に調理していいらしい。
トイレも水洗、洗濯機も数台あり、使用自由。
即席に設置されたらしきシャワールームや、驚いたことに、風呂場まである。
ボランティアで滞在した器用な人物が大工仕事で建てた、と聞いたが、実に本格的なつくりで、恐れ入った。
こんな快適さは想像してなかったので、逆に拍子抜けする。

事務局の気のいい人物に、「お風呂に入りな」と声をかけてもらったので、試してみた。
実によろしく、まるで温泉場にきた気分。
湯舟で知り合った20代のワカモノは、長崎から三日間も車を走らせて、ボランティアに参加してる、という好青年。
職場の考え方が寛大で、「そういうことなら」と、盛大な休暇をもらえたらしい。
お互いに経験してきた現場の情報を交換したり、思いを語らったり、いい裸の付き合いができた。
こういう会話はたのしいし、気が引き締まるし、力になるね。
風呂から上がると、各現場から徐々にボランティアたちが帰ってくる。
数人で参加してる組もあるが、一匹狼が多い。
みんな、驚くべき多方面から参加してる。
埼玉、東京、京都、奈良、岡山、山口、沖縄・・・
誰も彼もが屈強の勇者・・・というわけでもなく、普通に生活を営む市井のひとだ。
日本人の意識の高さと、強い思いには、誇りを感じるよ。
ひとりひとりに気さくに話しかけ、仲間の輪をひろげてく。
この基地には、なんと「飲酒コーナー」まである。
極めて禁欲的で、ぴりぴりと緊張感がひしめいてた、前回のRQベースキャンプ(石巻・河北地区)とは、えらく雰囲気がちがう。
酒盛り場ともいうべきその場を取り仕切るオモロい「関西のオッサン」がいて、「おう、おまえも、どや?いける(酒を飲める)顔つきやないか」と誘ってくれる。
完全な酔いどれのクチで、面倒なことになりそうな予感もあるのだが、これが実に興味を引く酔漢なので、思いきって飛び込んでみた。

「おう、なんでも食え。酒もおごりや。なんぼでも出してきたるで」
この特殊な人物は、基地内に自分専用の酒庫を確保してるらしく、酒もツマミも多種多彩、無尽蔵に出してくれる。
住友金属かなんかを定年退職し、数ヶ月の単位でここを住み処にし、毎日、被災現場に通ってるという。
浪曲師のようなダミ声で、語り口は昭和時代の漫談師、といった風情のこのオッサンは、酒の場でのオレの心のお友だちとなった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸前高田ボラ紀行・4

2011年09月30日 09時52分39秒 | 被災地ルポルタージュ
雨足が強くなり、現場での事故が心配、ということで、ボラセン本部から作業中止勧告。
午後早くのサスペンデッドとなった。
道具を片付け、車に積み込み、撤収。
その帰りの道すがら、被災地の状況を垣間見ることができた。
その有り様たるや、すさまじい。
宮城野や石巻の海岸線にもギョッとしたけど、ひろびろと海抜ゼロメートル地帯のひろがる陸前高田の侵され方は半端じゃない。
壊滅状態。
家、街、市・・・生活環境の一切が解体し、海の藻くずとなって流され、潮が去ったあとには、広大ながれきの原がひろがってたのだと想像できる。
それらをいっこいっこ寄せ集め、几帳面に分別し(このへんが日本人はえらい)、木材の山、コンクリートの山、車体の山、タイヤの山・・・と、人間は遠大な山脈を築いてく。

かつて市街地が存在した場所は、つるんと更地にされ、あわてて設えた信号機と電柱だけが彼方まで連なる。
地盤沈下した土地は、いまだ海の波に洗われる場所もある。

被災地の撮影はあまりお行儀のいい行為じゃないので控えてるんだけど、少しだけ公開。
球場も海の底に沈み、いったいなんの競技場なのかわかんなくなってる。
ゼロメートル地帯はどこもこんな感じなので、どう生活を立て直したらいいのか、という根本的な問題に突き当たる。
その荒野のはるか後方に、山がせり出してくるわけなんだけど、その緑豊かな樹々の中で、最前列のものだけが葉を赤茶けさせ、塩枯れしてる。
どの山々のどの個所を見てもそうなってるので、本当に平野全体が津波に呑まれたのだとわかる。
フロントラインで身を呈して頓死するのはフォワードの宿命とはいえ、塩分で干涸びきって大往生する彼ら第一列の姿は劇的で、心動かされる。
その面積もすごいが、高さもすごい。
わずかに残った鉄筋の建物の中で、最も高層なビルがある。
その10階建ての9階までが、窓を突き破られてる。
そこまで水がきて、素通しに抜けてったのだと知れる。
ほとほと、自然の脅威に畏怖したくなった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸前高田ボラ紀行・3

2011年09月28日 10時33分27秒 | 被災地ルポルタージュ
まずすべきは、足の確保。
このボラセンから泥出しの現場までは、数キロもあるのだ。
徒歩行はもちろん無理。
同志となったとなりのおっちゃん二人組に話しかけ、ワゴンの後部に押し込んでもらうことに成功した。
この二人は、東京の町田から来てる仲良しご近所さんらしい。
テントで寝起きし、アウトドアの自活をしながら、数日間のボランティア参加中。
世の中には強くて楽しげなヒトビトがいるもんだ。
そんなこんなで、いざ出発。

途中、「奇跡の一本松」の脇を通り、その生命力に感動した。
この松は、海岸線に七万本も密生してた松原の中でただ一本、津波に耐えて生き残った、強くて孤独なコ。
樹丈が30メートルもあって、震災前から抜きん出てたらしいけど、あっち方に見えるユースホステルが身を呈して波から守ってくれたおかげで、奇跡的に助かったんだそう。
だけどいろんな理由づけの中でも、オレが信じるのは「意思」説ね。
やっぱしこのたたずまいは、どう考えてみても、神様からの「東北よ、がんばれ」のメッセージ。
その強い意志が、この松をがんばらせたのだと考えたい。
その点にも感銘を受けるけど、なによりもその凛とした美しさに見惚れたよ。
自然はすごいな。
・・・だけどこの奇跡も、風前の灯と言わざるをえないのがつらい・・・
一本松の塩枯れはかなり進んでて、幹は土気色、葉はまっ茶っちゃだった。
なんとか回復して長らえてほしい、と願わずにはいられないよ。
被災地のヒトビトのためにも、この日本の希望のためにもね。
さて、現場着。
高台に立つお寺の石段のふもとの側溝をきれいにせよ、というのがこの日に与えられたミッション。
しかし寺に着いてはみたものの、はて、側溝なるものの姿かたちが見えない。
聞けばこの辺りは、震災が起きた後の数ヶ月間は、海の底となってたらしい。
ようやく潮は引いたが、土地には海砂とヘドロが堆積し、溝という溝は埋め立てられ、平らな状態になってるという。
なるほど、と思い、まずは側溝の場所探し開始。
道路に積もった泥をこそげ取ってくと、「発見!」。
剣スコを突っ込み、砂質な泥を掻き出して、それがU字溝であることを確認した。
見つけたら、どんどん掘り起こして、長々と連なる側溝を復元してく。
まるで遺跡の発掘作業だ。
剣スコで泥をほじくり返し、角スコですくい出し、ネコで移送する。
泥といっても、海砂と汚泥の混合土がガチガチに固まったものなので、相当な力がいる。
しかも、至るところでがれき(生活用品など)が噛んだり、ごろた石が眠ったりしてて、なかなか順調にとはいかない。
被災地の草刈りなどをしててもわかるのだが、もともとあった土地の上に、汚泥が堆積し、そこにがれきや岩石が食いつき、その上を草が覆う、という構造になってる。
それらは重機ではなんともならないので、結局はひとの手でやるしかないのだ。
そして、まさにそのためにボランティアたちは集まってくるのだった。
雨は、降ったり、やんだり、強くなったり、そぼ降ったり。
カッパの外はびしょぬれ、内側は汗まみれ。
それでもみんな、黙々と作業を続け、時間を惜しみ、休むことを知らない。
発掘された側溝の底やサイドに張り付いた泥をこそぎ、ピカピカのコンクリのU字溝が現れ、それが長城のように伸びてく。
仕事の結果には充実感を覚える。
けど、まったく人手が足りず、たいした距離にはならない。
この側溝が付近住民の生活の役に立つ日は、ずっと先。
それでも、一千回もスコップを振るい、てんこ盛りのネコで定点間をひたすら往復する。
こうして、ちょっとずつ、ちょっとずつ、復興は進み、町はピカピカになってくのだった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする