裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

死んだらどうなるか?問題・7

2022年02月28日 08時29分24秒 | 死んだらどうなるか?問題

原子の中身はスッカスカ(甲子園球場もの中抜け空間の中央に、パチンコ玉いっこ)、と理解してもらえたでしょうか。
この「ほとんどなにもない」中空のシャボン玉のような素材が、百個集まろうが、一千億個集まろうが、そのまた一千億倍集まろうが、それによって構築されたユニットの密度が上がるわけではないこともわかります。
その上に、原子や原子核自体もエネルギーを持ち、熱によって振動をして、周囲の原子同士でぶつかり合っているわけで、それによって組み上げられた物質の密度は、ますますスカスカのすっからかん、みたいなことになっています。
ちなみに、この密度は上げることもできます。
頭上の太陽などがそうなのですが、スカスカの水素原子があまりにもおびただしく集まってできています。
その巨大質量のために、太陽は自重によって内側に潰れつつあるのです。
すると天体の中心部の高密度は極まり、水素原子核同士が押し潰し合って、核融合を起こします。
その結果、水素原子はくっつき合って、(多少複雑なプロセスを踏みますが)ヘリウム原子核になります。
その際に放出された熱が、太陽の外側にまで猛烈に染み出し、わが地球をも温めてくれているわけです。
ちなみに、もっともっと超巨大質量の天体は、半端ない自重でやがて重力崩壊を起こして超高密度に収縮し、「特異点」という一点に丸め込まれて「ブラックホール」になります。
ところで、太陽の中心部で核融合反応が起こると、ニュートリノという素粒子も盛大に放出されます。
地球上に光速で降り注ぐ、質量があるんだかないんだかわからないこのオバケ素粒子(梶田先生が質量を検出してノーベル賞をもらいました)は、人間のからだ1平方センチあたりに、毎秒数百億個も突き刺さっています。
が、ニュートリノには電荷がないので、人間の体内の原子核(+)にも電子(−)にも引っ掛からず、そのまますり抜けていきます。
中身の詰まっていない甲子園球場内(人間の体内がこの密度)に、けし粒を何個か投げ入れてみても、中央のパチンコ玉にはなかなか当たらない、という確率の問題です。
だったら、とデパートくらいの巨大な水槽をつくって水を満たし、その中にニュートリノを突っ込ませて検出してやろう、としたのが小柴先生で、彼もこのカミオカンデ計画で実際にニュートリノのシッポをつかみ、ノーベル賞をもらいました。
話はどんどんずれますが、なにが言いたいのかというと、これほどまでにわれわれ人間の肉体内には中身が詰まっていない、ということなのでした。
ではなぜ、われわれは自身にみっしりとした実体感を得られているのか?そこにものがあると触覚できるているのか?という問題になります。
これは、われわれが電磁気力のかたまりであって、それが相互作用するからに他ならないのです。
両手に一本ずつ握った磁石の同極同士を近づけると、反発し合って、その間になにか柔かい物体があるように感触した経験があるでしょう?
物質の触感とは、要するにあれなのです。
中身がスカスカのまぼろしがそこにあり、そいつが電磁気力を放っているために、同じく電磁気力を放つ指で接すると、まるでそこになにかが実在しているように感じてしまう、というのが触覚の正体です。
そういうふうに感じ取れるように、ご先祖さまが神経を配置してくれたのです。
つまりは、まぼろしを具体的な実体として解釈(誤認識と言っていい)できるように、ぼくらは進化の過程で、触覚という「電磁気力検知器」の機能をつくり上げ、洗練させたのでした。
いやいやいや・・・ちょとまちいな、あるて、ちゃんとそこにあるて、だって見えてるやん・・・と思うでしょ?
その視覚も、まぼろしを見させられているのかもしれませんよ。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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死んだらどうなるか?問題・6

2022年02月27日 01時58分27秒 | 死んだらどうなるか?問題

ぼくらの肉体を組織しているのは、細胞です。
細胞の内部構造は複雑で、これ自体が宇宙のようなものですが、突き詰めればこれらの物質は原子からできています。
原子にも内部構造がありまして、これは中央に位置する原子核と、その外側を周回する電子とでできています。
原子核にも内部構造がありまして、ざっくり言って、陽子と中性子が何個かずつぺたぺたとくっつき合ってできています。
陽子と中性子(このふたつを核子という)にも内部構造がありまして、どちらもクォークが三つずつくっつき合ってできています。
クォークは素粒子と言いまして、人類が今のところ解明しているところでは、「ミクロのオーダーにおける行き止まり」となります(電子も素粒子)。
これより先の小さな内部構造は、今のところ見当たらないというわけです。
この判明している限りの最小単位であるところの素粒子というのが、実に奇妙なしろものなのですね。
量子力学という科学ジャンルが、この不思議な世界の説明を試みていますが、まだまだまったくもって不十分です。
素粒子の振る舞いにおいて、最も奇妙なのが、「物質であったり、波であったりする」という点です。
例えば、特別な銃で、素粒子一個をポンッと撃ち出すと、それは実体のない「波」の姿をしているのです。
電波とか、音波とか、水面に石を投げ込んだときに立つ、あの波です。
ところが、例えばあなたがこの波を検出しようと観測を試みた瞬間に、なんと一点に集まって(収縮して)、一個のつぶつぶの物質に、すなわち言葉通りの「粒子」になるのですよ。
これは例えでもなんでもなく、上の文面の通りに、空間にひろがった波が「誰かに見つかった瞬間に」物質に変身します。
まったく解せない現象ではないですか。
この極限ミクロの学問を、「素粒子力学」ではなく、わざわざ「量子力学」と銘打っているのは、実際の素粒子には手応えのある実体も定まった形もなく、「量のみを持っている」オバケのような存在であるためです。
ところで、原子モデルである「原子核の周囲を電子がめぐる」図の、本当のスケールバランスを知っていますか?
ものの本の図説を見ると、土星と土星の輪、みたいなことになっていますが、とんでもない誤りです。
いちばんシンプルな水素原子(原子核に陽子が一個、それをめぐる電子も一個)のバランス差で例えれば、原子核をパチンコ玉に見立てると、ケシ粒ほどの電子が、甲子園球場の外周もの軌道でめぐっている、というほどの距離感があります。
原子の内側とは、これほどまでにスッカスカなのです。
しかも、光速で周回する電子が、粒子の形を取っていません。
スピードという名のエネルギー量だけがある、実体のない波として振る舞っているのです。
アインシュタインさんのE=mc2(エネルギーは質量と等価)によって、電子が質量を持つことは計算上ではっきりしているのですが、つぶつぶの姿でおとなしくしていてくれないので、捕まえることもできません。
さて、以上のマクロな外観情報を踏まえまして、いよいよ原子の構造の本当に不思議な点を、ミクロな視点から説明します。
原子核は、陽子と中性子からできている、と前述しました。
これらの核子は、クォーク三つずつでできている、とも。
素粒子であるクォーク同士は、事実上クォークにしか働かない引力である「核力(強い力、とも言う)」によって、強烈に引きつけ合っています。
核力は、超短距離にしか力が及ばないけれど、とてつもなく強い引力です。
このメカニズムを、とりあえずは覚えておいてください。
さて、その核力でゴリゴリに固められたクォーク三つから陽子はできていて、これが水素原子核です。
この原子核は+の電荷を持っていまして、-電荷の電子と引っ張り合っています。
ではなぜ電子は原子核にくっつかないで、その周りを周回できるのかというと、電子が常に光速という超スピードで飛んでいるからなのですね。
要するに電子は、原子核に電磁気力で引っ張られながら、同時に、原子核の元から飛び去ろうとしているわけです。
この引き合う力と遠心力のバランスは、よくハンマー投げの投てき者とハンマーに例えられます。
ヒモの張力(電磁気力)と、回転するハンマーの遠心力がぴたりと釣り合っているので、電子は原子核からちょうどいい距離を周回している、というわけなのでした。
この説明から、スカスカ空っぽ構造である原子(甲子園球場ほどの巨大なシャボン玉の中央にパチンコ玉がぽつねん)の中身が、電磁気力がビリビリと効いている状態であることが理解してもらえたでしょうか?
さて、その原子を二つ並べ、無理矢理に近づけていくと、どうなると思います?
賢いひとは「分子になる」と知っているでしょうが、それをさらにむぎゅむぎゅと押しつけて、ひとつにまとめてしまおう、というくらいに圧力を掛けつづけたら。
原子は、原子核と電子の電荷を相殺し合って、全体で中性の体を保っていますが、今まさに近づきつつある二つの原子の原子核は+同士なので、激しく反発し合います。
それでも無理矢理に近づけていきますと、ついに原子核同士が触れ合ってしまいます。
すると、どうなるか?
ここで、あのクォークにしか効かない核力・・・極端に短い距離でしか働かないという強烈無比な引力が、お隣の原子核同志に向けて発動してしまうわけです。
するとすると、どうなるか?
反発し合っていた二つの原子核は、逆に猛烈に引き合い、ついにはひとつにくっつきます。
ええ、それは「融け合う」というほどに。
これが「核融合」です。
原子核同士が核融合を起こしますと、前にもこんなことを話しましたっけか、相対性理論のE=mc2が予測したところの「質量欠損によるエネルギーの放出」が起きます。
つまり、質量がエネルギーに変換され、大爆発に至るわけです。
これが水爆の理屈です。
ちなみに、原爆・原子力発電の方は、これとは逆の核分裂(原子核内の陽子や中性子が、核力の猛烈な引力を振り切って分かれる)の方です。
これらの例では、質量がエネルギーに変わりますが、エネルギーが質量に変わる例としては、前述した「波が観測によって収縮する」などがあります。
まったく、量子の世界では不思議なことが起きるものです。
が、こんなのは序の口で、もっと不思議なことがぼくらの肉体で起きているのです。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・5

2022年02月24日 09時52分23秒 | 死んだらどうなるか?問題

この一連の記事は、世界の根本構造を知りたがっているひとりの物理学マニアが、得た知見(というよりは、勝手解釈)をひとつの概論にまとめようとはじめたものですが、定まったプロットはなく、その場の思いつきを書き留めるだけの取り止めのない走り書き形式なので、もしも本気で読んでくださっている方がいらっしゃるのなら、「これは推敲前のラフデッサンなのだ」と覚悟して、その上でお楽しみいただけたら助かります。

さて、夢というのは不思議な現象です。
非物質で構築された世界に、非物質である自分が、まるで物質世界にいるかのように振る舞います。
現実にはあり得ないことが起きますし、不思議がるヒマも与えられないままに不条理な展開を受け入れるしかなく、その場その場で、経験したことのない反応を求められます。
これは、眠っている「現実世界の自分」の脳内を走る電気や化学物質が、酔っぱらったようにアンコントロールになった状態と言えましょう。
それでも、眠った肉体の脳波(意識)が「夢の中の自分」に飛んでいて、操縦桿を持たせてもらえるところが愉快です。
物質的な肉体を持たないキャラクターが、自由な可塑性を持った世界を舞台に、人類を超越した力で活躍したり・・・あるいはひどい目に遭ったりするわけですね。
このキャラクターは、非物質であるにも関わらず、考えたり行動したりするのが可能です。
この遠隔操作感は、論じたところのタマシイの概念にちょっと似ている、とは直感的に感じられるでしょう。
夢の中のキャラクターは、五感の神経系が利かないので、新しい情報をキャッチすることはできそうにありません。
夢の中で上手に走れないのは、布団の中で寝ている現実世界の自分の足元に、地面が感覚できないからでしょうか。
眠っている自分は、脳内に元々保存されていた経験を引っ張り出し、それを再構築して、夢の中でつくり上げたキャラクターに見せ、触れさせ、まぼろしをこねまわさせます。
ぼくは夢の中で、手の平に石ころを握ったことがありますし、食べものの味さえも感じたことがあります。
ただこれは、眠っている自分の脳がつくり出す幻想です(ツマのいたずらでなければ)。
かつて経験した主観的な感覚質は、脳の中にコレクションされ、いつでも取り出せるようになっていて、この概念を「クオリア」というようです。
スイカにかぶりつく歯応え、なめし革の素材感、水の滑らかさ、バラの花の赤や、ネコの生温かさ・・・匂いや味、音の質感・・・これらのクオリアは、外界から受容した感覚をヒントに脳の中で「つくり上げられ」、しかも経験をくり返すことで、より強固な実体感を得ます。
思い出そうと思えば、今すぐに「トマトソース」の味を舌の上に再現できそうでしょ(できそうでできませんが)。
それは、自分の舌がかつて受容したトマトソースの味覚が、自分の脳の創作だからです。
突き詰めて言えば、ぼくの見ているこの世界は、ぼくによって創作されたものなのです。
脳が発達した人類は、自分の見ている通りの世界が、実際にそのまま自分の外界にひろがっていると考えますが、実はそうではありません。
本当の世界の姿は、決して知ることはできません。
ぼくが「見た」時点で、入ってきた世界の情報は、ぼくの感覚器による独自の解釈であるためです。
ぼくが見ているこの世界は、実際の外界とは別ものの、ぼくの内世界として再構築された「ぼく的解釈世界」なのです。
逆説すれば、世界の姿は、ぼくの脳の中にのみあるのです。
ぼくの目が受像し、手が感触し、聞き、嗅ぎ、味わい、その情報の解釈の集合こそがぼくにとっての世界なのであって、「ぼくの外の世界」が実際にそんなふうにできているとは限らない、ということです。
そして、ぼくの世界の姿は、あなたのそれとは違っています。
外界に存在する(かもしれない)あなたすら、ぼくの創作かもしれないのです。
デカルトさんが言っているように、「我思う、故に我あり」です。
夢もまた現実ですし、現実もまた夢なのかもしれません。
ふ・・・ふはは、ふはははは・・・
おっと・・・気持ち悪いですか?ぼく。
なぜこんなふうに狂っちゃったようなようなことを言い出したのかというと、要するに、エントロピーと脳神経科学の話題(疲れたでしょ)から、強引に量子力学の話しに持っていきたいからです。
あなたは知っていますか?
石ころを刻んで、細かく細かくして、目に見えないほどのつぶにして、それをなおも細かく細かく刻んでいって、その行き着く先の最小単位・・・「もうこれ以上は分割できない」という行き止まり的なものが、実は「粒子」なんかじゃないということを。
ええ、この世界を構成する最小のつぶは、素粒子という、粒子とは名ばかりの、形を持たないまぼろしのような「量子」なのです。
人類による最新の解釈によれば、ですが。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・4

2022年02月23日 11時05分24秒 | 死んだらどうなるか?問題

タマシイ論には、まだ問題があります。
その内部構造における「情報管理システム」の謎です。
言われているところのタマシイは霊的な存在で、非物質であるわけですが、それがどんな素材を用いたいかなる機構で思い出を保存し、思考し、自発的な運動を可能にするのか?という点です。
見てきたように人類は、脳内におけるタンパク質間での電気と化学物質のやり取りによって情報を管理しており、これらのシステムは当然、物質から組み上げられています。
ところが、肉体を抜け出たタマシイは非物質であるために、この方法論を採用することができません。
エネルギー供給の問題も生じます。
システムを動かすには、それを駆動させるための熱量が必要なのです。
「霊的なエネルギー」という概念まで想定してしまうのもよろしいが、この茫漠とした考え方に関しては、のちに論じましょう。
ここではひとまず、タマシイの乗組員の無限後退という矛盾と、上に見たような情報管理システム構築の困難さから、「ぼくの中身(タマシイ)は、ぼくの肉体と不可分のものである」と仮定します。
これはつまり、肉体が滅んだ以上は、脳内に蓄積された情報がそこから独立して離脱することは許されない、ということを意味します。
となると、ぼくは死ぬとどうなるか?
ようやく、最初に提示した問題にたどり着いたわけです。
まず、機能を完全に喪失した肉体は、動かぬ物質と化し、エントロピーの法則に素直に従いはじめます。
ぼくのしかばねが土の上に横たわっているのなら、微生物による分解が開始され、肉体の構成物は有機物となって自然界に還元されます。
そして、主として動植物の栄養分になり、他物質と結びついて燃焼され、霧散していきます。
ほぐされた有機物となったぼくは、体内にたっぷりのエネルギーを蓄えていて、周囲に対して優位なポテンシャル差を持っているのです。
その「高低差」がならされることで、ぼくは使用可能なエネルギーを余さず宇宙にお返しし、土となるわけですね。
あるいは、ぼくのしかばねが火葬場で焼かれるのなら、ぼくを構成していた物質(主に炭素)は酸素と結びつき、熱を放出し、光となり、音となって(おつりとして二酸化炭素を出し)、地球環境へと放たれます。
どちらの例を取っても、ぼくを構成していた物質は熱(と残骸)になり、エネルギーとして仕事をして、エントロピー値を押し上げます。
ところで、アインシュタインさんがひねり出した「E=mc2」(エネルギーは、質量×光速の2乗に等しい)は、このことを言っているように見えて少々違うので、注意が必要です。
ぼくの燃えかすと発生したガスとを足した質量は、燃える前のぼくのしかばねとまったく等しく、相対性理論が言うところの「質量欠損によるエネルギーの発生」とは別ものなのです(別の章で語ると思います)。
話はそれましたが、いずれにしても、物質であるぼくのタマシイもまた、分子レベルにまで解体されるわけです。
なにも残らないわけですね。
だけどこれだと悲しすぎるので、仮に霊的なものも想定し、ぼくの死にともなってタマシイが肉体を抜け出る、の線も考えてみましょう。
ぼくから抜け出たタマシイは、定番通りにぼくの動かぬ肉体を上空から見下ろし、生前の経験を反芻し、思い出に耽るわけです。
こうなりますと、どうしても、このタマシイの内部における情報管理がどんな形態を取っているのか、を考える必要が生じます。
非物質であるタマシイとて、「古い記憶ファイルを引き出して読み込み」「新たな感覚情報を生ぜしめ、新規に書き込む」という作業をする以上は、構造を持った装置のはず。
生きている間のぼくの肉体のそれは、純粋に物理的な現象を使ったものでした。
では、物質で構成されていないタマシイは、どこからどのエネルギーの供給を受け、どの機構を働かせ、いかなるメカニズムで情報をこねまわすのでしょうか?
まず、Wi-Fiの着想があります。
しかばねとなったぼくの肉体には構造が残っているため、そこから上空のタマシイへ向けてなんらかの目に見えない波が飛んでいれば、情報出し入れの遠隔操作ができそうです。
眠っている間に見る「夢」は、その内的世界を構成するすべてのものが非物質ですし、睡眠中のぼくは、そこにいる登場人物に乗り移って操作をすることも可能でした。
そこでは、自分の振る舞いを第三者的な立ち位置から見ることさえできます。
タマシイを、夢の中に出てくる自分の化身と考えれば、両者の質は類似しているように思えます。
ところが残念なことに、この夢さえも、物質による仕事の産物なのです。
ひとは、寝ている間(レム睡眠中)にも脳内の神経コネクションを活発に働かせており、電気信号と化学物質のやり取りをし合って、夢をつくり出しているのでした。
脳が永遠に活動を停止した今、脳からのWi-Fiが空間を飛ぶことはあり得ないと考えた方がよさそうです。
この点で痛恨なのが、情報の物質固定化概念です。
記憶が脳細胞内の一部位に「物理的な形で」刻まれて固定されていたのなら、一物体となった脳からでもそれを引き出す、なんらかの手段もなくはなかったかもしれません。
ところが見てきたように、情報の一切は、神経系ネットワークにおけるその場限りの化学反応の相互作用であったために、記憶媒体(「記憶場所」ではなく)につながる方法がまったく見当たらないのでした。
スマホが壊れて、ネットに書き込んだ情報を引き出せない状態です(スマホ機の裏面にマジックでメモっておけば、情報は残ったはずでした)。
肉体が機能を失い、脳が一切の化学反応を停止した時点で、情報は永遠に失われるのでしょうか?
ぼくの記憶も、経験も、思い出も、再現不可能なのですか?
では、ぼくのアイデンティティはどこへいくのでしょうか?

つづく

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死んだらどうなるか?問題・3

2022年02月22日 07時52分51秒 | 死んだらどうなるか?問題

生物の肉体を入れ物として、その内に宿る「タマシイ」とは、いったいなんなのでしょうか?
ひとは死ぬと、地獄か極楽浄土か天界か冥府か涅槃か(あるいは来世という言い回しの未来時空か)・・・とにかくジ・アザー・サイドに連れていかれ、前世の経験を噛みしめたり思い出にひたったりして次のステージを過ごす、ということに、まあどの宗教でもなっているようです。
が、科学者はそんな根拠のない想定に逃げることなく、率直なリアリズムで解答を導き出そうとします。
脳神経科学では、ひとの経験や思い出は、脳内に張りめぐらされた記憶回路にインプットされるとされます。
「回路」という言い方の通りに、記憶は、脳内の個別の物質に刻まれるわけではなく、神経コネクション、つまり情報を受容する際に脳内を駆けめぐる電気信号と、神経間の接触点で受け渡される化学物質でつながれた「通り道」そのものとして保存されるのです。
心細い一本の通り道は、別ルートを走る情報と結んでひろがりのある面となり、さらに奥行きのある塊へと絡み合って、記憶を多面的なふくらみを持ったイメージへと発展させていきます。
そういう反復作業を、脳は日々、果てしなく繰り返して、重要な情報を堅固に守ったり、あるいはどうでもいい情報を薄めたり、消去したりしているのです。
なんでこんなにめんどくさい方法を取るの?ひとつひとつの記憶を特定の場所に固定すれば楽なのに・・・と感じるかも知れませんが、それはできないのですね。
なぜなら、前述した動的平衡を思い出してほしいのですが、脳内の細胞は、月日がたつとすっかり入れかわってしまうからです。
「ゆく河の流れ」の一地点にインクを一滴落としても、次の瞬間にはすでにその位置にインク染みはなく、つまりそこは「もとの水にあらず」なのです。
「この細胞のこの部位に」と焼き付けておいた記憶が、細胞の短い耐用期間とともに流失してしまうなんて、切ないではないですか。
なので、われわれは記憶を、神経ネットワークを伝う電気と化学物質の「連結」「流れ」として保存しているのでした。
そんな脳は、おびただしい情報伝達の道すじとその絡まり、さらにはアウトプット神経との連動によって、意識の発生と主体的な運動能力!というところにまでたどりつきました。
脳が、生命機械(遺伝子を運ぶ装置としての生物)全体を支配し、操縦するメカニズムが誕生したわけです。
あなたも感じたことがありませんかね?
「わたしを、わたしの頭の中に乗り組んだコビトが動かしてる!」的なやつを。
パイルダー・オン。
ワタシンガーZ、発進!
この考え方が、要するに「タマシイ論」です。
ぼくの正体は、実はぼくの脳の中におさまった乗組員で、ぼくのからだは、ただぼくの言うことを聞いているマシーンなのかもしれません。
そしていくつかの宗教によって、たとえぼくの肉体装置が破壊されても、ぼくの乗組員であるタマシイはしかばねを離れ、あちらサイドの世界に移動する、という話になるわけです。
ところがこの説には、重大な論理欠損があります。
それは、「ぼくの中にいるぼくのタマシイを、だれが操縦してるのか?」、つまり「タマシイには、タマシイがあるか?」という問題です。
ぼくを動かすのにタマシイが必要なのだとすれば、タマシイを動かすにも、その内側に操縦者が必要なわけですよね?
タマシイを動かすのに内なるタマシイが必要ないのだとすれば、ぼくを動かす際にもタマシイの想定は必要なくなりますので。
さて、困りました。
ぼくの肉体をタマシイが操縦し、そのタマシイをまたワンサイズ小さなタマシイが操縦し、そのワンサイズ小さなタマシイをツーサイズ小さなタマシイが操縦し・・・としていくと、果てしないマトリョーシカのような無限後退が発生してしまいます。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・2

2022年02月21日 08時13分32秒 | 死んだらどうなるか?問題

生物は、あぶくのような無機物が変質し、どういういきさつでか「生気」的なものを胚胎して、自発的に動きはじめた奇妙な閉鎖系です。
けしからんことにこれは、宇宙の大原則であるエントロピーの増大にあらがう存在とも言えます。
生物は、体内で有機物を燃焼し、熱を発生させて、それを仕事に用います。
前の章で論じた通りに、エネルギー(熱の高低差)は仕事を終えると、使用不可能な定常状態に落ち着くはずです。
なのに生物は、いつまでも熱を失わないのです。
物質はエネルギーを失うことにより、時々刻々と滅形していくはずであり、この法則は宇宙開びゃく以来、絶対的と定められたものです。
ところが生物ときたら、絶えず外界からエネルギーを補充し、消失と生成、分解と合成をくり返し、形状の維持どころか、展開、増殖の過程で大進化まで遂げ、エントロピーが散らかすこの世の中を、整頓、構築、大発展させてしまうのです。
えらい学者であるシュレディンガーさんは、この不可思議を「負のエントロピー」と表現しているほどです。
物質である自らの肉体の消散を「意識」というマジカルな主体性によって防ぎ、組織を維持し、あまつさえ無から有をつくり上げ、時間を逆回転させるかのように混沌から秩序を築こうという生命現象は、エントロピーの増大を免れる奇跡なのでしょうか?
いやいや、エントロピーの増大は絶対的かつ不可逆で、その減少はあり得ません。
なにしろ、万有引力、相対性理論、量子物理学などの数々の理論が、未だ「仮説」の立場に置かれているのに対して、唯一「エントロピーの法則」のみは、科学界で「たぶん真理」とのお墨付きをもらっているのです。
生命の営みにも、エントロピーの勘定がぴたりと合うからくりが隠されているのですね。
なんということはない、生物は、エネルギーを使いまくって「自身」という狭く閉じた系におけるエントロピーの増大を事実上食い止めつつ、外界である宇宙のエントロピーを増大させているに過ぎないのでした。
プラマイ計算で赤字なわけです。
ただ、生命現象が、宇宙でも特別に奇天烈なシステムであることは間違いありません。
その営みは、突き詰めれば「食って」「出す」という作業に尽きます。
ところがこれこそが、エントロピーの法則に対抗できる、最善にして唯一的手段なのでした。
福岡ハカセが「動的平衡」で、あるいは古くは鴨長明が「方丈記」で書いているように、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。
生命体の本質とは、遺伝情報という「非物質的設計図」のみがそこに在り、それをコードした遺伝子が外界から物質を借り集めて情報護送システムをつくり上げ、後世にまで連綿と伝える存在にすぎません。
ぼくの肉体という「装置」は、一日たっては一部分が剥がれ落ち、二日たってはその部分をつくり直し、「ゆく河の流れ」のように、ひと月もたつ頃には、肉体のほんの一部もひと月前のものではなくなっています。
ぼくは、ぼく自身の血肉を常時入れかえ、入れかえ、入れかえつづけて、昨日のぼく、今日のぼく、明日のぼくという「別人(というか、別もの)」となりながら、ただただ独自の形状を保っているわけです。
肉体の構成物は外界からの一時的な借用品に過ぎないので、ぼくとは?という問いに対してぼくは、「ぼくとは、ぼくの中身のことだ」と言わねばなりません。
今いるぼくは、ひと月前のぼくとは物質的にまったく別もののそっくりさんであるために、ぼくが持ちうる唯一のものは、非物質である遺伝情報のみです。
そこでぼくが言えることはただひとつ、「いわゆるタマシイこそが、ぼくである」となります。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・1

2022年02月18日 10時59分41秒 | 死んだらどうなるか?問題

死んだらどうなるか・・・?
肉体の消滅後に自分はどこへいくのか・・・?
という問題にですね、科学は現実的な立場から答えを出しているようです。
ぼくもこの点についてはずいぶんと考えているので、今の時点でぼんやりとイメージしているやつをここに書き留めることにします。

さて、ひとの死に考えを及ばせる前に、周辺知識が必要なので、そのへんをさらっと学習しておきます。
「エントロピーの法則」を知っていますか?
これはですね、実はこの宇宙において最も重要な約束ごとなのです。
この法則をかいつまんで言えば、
1、宇宙に存在するエネルギーの量は一定
2、エネルギーは使用可能から使用不可能な方向に一方通行
というものです。
エントロピーとは、ざっくり「乱雑さ」のことで、エントロピーの増大は、整ったものが散らかっていくことを意味しています。
上記2のようにエネルギーが流れると、宇宙のエントロピーは増大します。
エネルギーを使ってなんらかの仕事が行われると、この世は散らかっていくわけです。
ところで、エネルギーってなに?と、改めて疑問に思いますよね。
エネルギーとは、大雑把に言えば「熱」のことで、熱とは「細かい粒子の振動」のことで、要するに「振動」=エネルギー、とでも理解しておけばいいかもしれません。
そして「使用可能なエネルギー」とは、具体的には「熱いものと冷たいものの差」のことを言います。
この差がなくなると、エネルギーは仕事をしませんし、エネルギーの高低差が失われることによって、エントロピーは増大した、となるわけです。
例えば、冷たい水の中に熱いお湯を足し入れると、混ざり合って中間温度のぬるま湯になります。
これは、水分子がお祭り騒ぎのように暴れ回っている状態であるお湯が、静かにブルブルと震えているだけの冷水に突進してぶつかり、結果、お湯は振動を弱めてぬるまり、冷水は振動を強めてあったまり、やがてどちらの水分子も同じくらいの揺れ具合いになって、最終的にはぬるま湯という定常状態に落ち着く、ということを言っているわけです。
これをエネルギーの移動と言いますが、つまりは「強い振動が弱い振動のものに移り」「熱いものが冷たくなっていく」ということです。
このエネルギーの移動は、力に応用することもできます。
鉄球を高いところに持ち上げます。
すると鉄球には、ポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)が蓄えられます。
「やってやる・・・やってやるぜえ・・・!」とホットな状態で武者振るいをしている、待機状態です。
この鉄球が上空から落下するとき、蓄えられた位置エネルギーが運動エネルギーにかわります。
そして、鉄球が床に落ちると、ものすごい熱が炸裂し、床板が壊れます。
運動エネルギーという盛大な振動が床板に伝わり、その放出が破壊的な仕事をしたわけです。
物質同士の摩擦が発生し、接触面はあっちっちになります。
おつりとしてこぼれた衝撃が空気を揺さぶり、音になります。
光も出ます。
これらはすべて、熱エネルギーの散逸の形です。
つまり、エネルギーが高いところから低いところに流れると、具体的な仕事が発生します。
そしてその結果、宇宙のエントロピーは増大します。
エントロピーは、刻一刻とエネルギー世界の高低差をならし、真っ平らな定常状態を目指すのです。
そしてこの宇宙は、エントロピーの増大が不可逆であるために、時間における対称性が失われ、過去から未来へと一方向に進む、とも言えるわけです。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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ツマを教育する

2022年02月05日 12時25分46秒 | Weblog

夫には、ツマを教育する責任がある。
結婚以来・・・いや、出会って以来、ツマを厳しく指導してきたつもりだ。
つき合いはじめた当初、デートの待ち合わせ場所で、お口をポカーンと空け、まるで郵便ポストのように呆けている彼女に「少し顔に力を入れておいた方がいい」と指摘したのが手はじめだった。
ひとを待っているとは思えないその佇まいもすごかった。
脱力しきって、背を丸め、へそを突き出し、まるで4部休符のような立ち姿なのだ。

これでお口ポカーンでは、いよいよまずい。
ここまで力を抜ききることができるとは、ある種の才能だが、とにかくこの子を人さらいに狙われないようにしつける必要がある。
歩き方もなんだかおかしい。
どんがらがったった〜、と、手ぶらなのに、あたかも小太鼓を叩いてるかのように歩くのだ。
とても見ていられるものではないため、手は肩幅くらいに振りましょうね、足もまっすぐに出すといいよ、と事細かく指導した。
「お口に入れたものは、ちゃんと噛もうね」と指導したのは、彼女がツマとなってずいぶんとたってからのことだ。
そばやうどんなどを丸呑みしては、ゲホゲホとむせ返り、鼻から出すのを不思議に感じたのだった。
どうやら、これらの食品を飲みものと考えていたようだ。
「とろろごはんは飲んでいいんだよね?」「お豆腐は?」「茶碗蒸しは噛むの?」と、本気で聞いてくる。
ツマは、これらの柔らかいもののみならず、肉や魚までまともに噛むことなく飲み下そうとしてしまうので、すぐにのどに詰まらせる。
「うっ」「んがっ」などと言っては、箸をのど深くにねじ込み、食道の奥から信じ難いほど大きな骨や肉片を(自由自在に)取り出してみせたりする。
まるで奇術のようで、それを目の当たりにさせられるこちらはそのたびに「おおっ」と息を呑んでしまう。
が、これではいつか死んでしまうので、お口に入れたものはとりあえず30回噛む、というルールを設けた(ごく最近のことだ)。
料理の指導には困難を極めた。
「おかずを三品つくってみて」という夫のリクエストに応じ、「ニンジン炒め」と「ピーマン炒め」と「ちくわ炒め」を出すようなツマだ(一緒に炒めろやっ!)。
またあるときは、「今夜は豆料理ですよ」と宣言し、茹で枝豆と、茹でそら豆と、茹でえんどう豆を出してきたことがある(一緒に茹でたらええやろがえ〜っ!)。
それでも今では、エビチリとトマトタコ煮込みとニンジンしりしりの三種類をマスターするまでの腕前になってきている。
教育もまんざら無駄ではなかったようだ。
が、「熱いよ」と言ってグラタンを出すと、スプーンいっぱいのやつをやっぱり熱いままお口に放り込んで、皮をベロベロに火傷させる。
「フーフーしてからね」と何度教えてもわからない。
これから先も、ツマをオレ好みの女にするには、相当の歳月が必要なようだ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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