裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

死んだらどうなるか?問題・完結

2023年01月25日 11時40分16秒 | 死んだらどうなるか?問題

さて、これで最後です。
「ひとは死んだらどうなるか?問題」なのでしたよね、すっかり忘れてましたが。
そこは、実はもうすっかり説明しきってると思うのですよ、ぼくとしましては。
つまり、こういうことです。
遺伝子の命ずるところに従う生命機械は、神経系を発達させて中枢部(脳)をつくり、感覚器が拾ってくる情報を統合して世界像を構築するのでした。
そしてその世界像が、一方的に流れ込んでくる情報へのカウンターとして「行為者としての自分(わたし)」という主観をつくりだすのでした。
つまり、「生命機械・世界・わたし」は入り乱れた三位一体なのであり、密接に相関し合ってるどころか、イコールなわけです。
だとしたら、わたしの主観がつくりだす生命機械(1)が世界像の中で物理的に滅びるとき、生命機械が神経系の通電の同期によってつくり出す物理世界(2)は立ち消え、物理世界が世界像の中につくり上げたわたしという幻影は永遠にデリート(消去)されることになります。
(1・脳内から見た外環境に立ち現れる生命機械もまた、世界像の中のわたしがつくり出す幻影なのです)
(2・生命機械の感覚器が対応できる限界が解釈する物理世界は、外環境そのものではなく、それに対応したデコヒーレンスなのです)
物理世界は「わたし=主観」が練り上げた概念であり、わたしは世界像から練り上げられたものであり、世界像は生命機械の感覚器が集める情報の集大成であり、生命機械は物理世界における観念(量子の置き換え)に過ぎないのだという、抜け出しようのないメビウスの輪の中に、わたしの概念は組み込まれてるのです。
ややこしい話ですが、わたしが感じるこの世のすべてはわたしの創作(外環境とのデコヒーレンス)なので、本来は無であるところに生み出されたこの解釈(物理世界)は、わたしが失われれば誰のものでもなくなり、誰にもあずかり知らぬものとなります。
脳内の配線を流れる電気信号が途絶えれば、エリア内の電位として存在したわたしの記憶、経験、観念は喪失し、それはわたし自身はもちろんのこと、わたしが築いた世界もろともです。
その意味で、非物質世界に存在するとされるタマシイ、幽体、抜け出た生気は、通電と化学物質のやり取りをする系を持たない(「わたし」の概念を持ち得ない)ので、はじめから議論の対象には含まれないのでした。
さて、わたしの感覚器がつくり出す物理世界の、その外に存在する真の外環境は・・・これもまたわたしがつくり出した人間社会が考え及ぶ限界の世界観なのですが・・・最新の知性による最もうまい解釈によれば、波が震えるばかりの荒野なのでした。
何度も説明を試みた、不確定性原理と波動関数が幅を利かせる量子場です。
わたしが死ぬと、わたしが所有するところであった古典物理学上の(観念上のと言ってもいい)生命機械は霧散し、波に帰ります。
すべてはエントロピーの導くところに従い、物質はエネルギーとなり、記憶や思考は現象となり、外環境の波に流れ出て散開し、収束し、平衡状態に落ち着き、永遠の沈黙に向かうのです。
それと同時に、わたしが所有するところであった世界も解体され、素粒子にまで刻まれて(コヒーレント)、深宇宙に溶け入ります。
わたしの築いた世界像とは・・・ここもまたメビウスの輪に閉じ込められるロジックとなりますが・・・脳内の物理世界における、そのまた内側に存在する生命機械の、そのまた内側に存在する脳内の、神経系の配線を走る電気の道すじにすぎなかったのですから。
システムが失われれば、その所産であるところの世界が滅形することは自明です。
「ひとは死ぬと、エネルギーに帰る」とはよく使われる言い回しですが、その表現は間違ってません。
ただ、ひとつ付け加えると、世界そのものがエネルギーに・・・波に帰るのです。
生まれて以来、連綿と築き上げた、ぼくの感覚による独自世界が、です。
そうしてぼくは量子場の中にひらき、もつれ、宇宙と一体化していくのでしょうね。
だから、あなたはぼくの創作物であることから、ぼくが死ぬ際にはあなたももろともなのです。
ただ、ぼくもまたあなたの創作物ですので、その意味ではおあいこというか、言葉通りの相殺ですね。
なるべく死なんといてくださいね、あなたの中のぼくのために。
ぼくの中のあなたのために、ぼくもなるべく生きようと思います。
・・・はい、最後まで気持ち悪かったですね。
だけどこれは、最新の科学がもたらすリアルな世界像の論理的な帰結なのだということだけは、知っておいて損はないと思いますよ。
つわけで、ぼくはまだまだ狂い、この先も考え、文章にし、書きつづけますので、みなさま、うんざりしてくださって結構ですよ。
また別の形式でお会いしましょう。
ばいばい。

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死んだらどうなるか?問題・36

2023年01月23日 09時54分08秒 | 死んだらどうなるか?問題

眼の機能から脳の世界像構築作業を理解してもらったところで、気が重いが、エンタングルメントとデコヒーレンスを説明しなければならない。
今年のノーベル賞のやつだ。
オレも難しすぎて実はよくわかってないのだが、ざっくりとしたところを、そしてたぶん間違いなかろうという言い回しで書かせてもらう(ここの文章はいつでもそうだが)。
この世は波でできてるのだ、何度も書いたように。
実体のあるものなどは存在せず、「無」が振動するばかりの荒野なの。
なのに、なんでわれわれ人類の目には物理的世界が映り込むのかというと、エンタングルメントとデコヒーレンスなのだ。
エンタングルメントとは、「量子もつれ」という今はやりのやつだが、要するに、素粒子と呼ばれる物理的最小単位が波になってる、という意味だ。
そしてその波とは、固有の粒があらゆる位置に重ね合わせの状態で存在してる、という状態を表す(コヒーレント状態)。
素粒子は、粒なのに波なのだ・・・というのはここで何度も説明してきたやつだが、ここではっきりと決着をつける。
素粒子は普段、空間にひろがる波の形を取ってる(空間というもの自体が存在しないのだが、ここではまあいい)。
粒が霧散して展開し、どこに実体があるのかわからない状態だ。
「ここにいるのかあそこにいるのかわからない」状態などではなく、「ここにもいるが同時にあそこにもいて、どこにでもいる」状態なのだ。
そして「ここ一点で見つかる」ことは確率(波動関数)でのみ表現でき、実際に「ここ一点にいる」ことは、観測するまでわからない。
逆に、観測することで「ここ一点にいる」ことが確定する、とも言える。
そして驚くべきことに、まさにこの観測の瞬間に、空間にひろがった波は一点に集中し、すなわち物理的な粒へと変身するのだ!
「観測収縮」と表現される現象だが、無というか多次元世界にいた波は、誰かに見られた途端に粒となり、こつぜんと物理世界にやってくる。
これがデコヒーレンスだ。
最も簡単で有名な実験によれば、素粒子一個を銃のようなものでスクリーンに撃ち込むと、射出先には波の跡が描かれるが、途中に観測器を設けると波は収縮して、スクリーンには点がぽちんとつくのみ、という驚くべき結果が出てるほどだ。
この世は実際に波でできてるのだ。
が、観測者がいるがために粒に収縮し、物理的な形式を取る。
もっとわかりやすく、素粒子一個をカメラで撮影することを考えてみる。
波にレンズを向けると、そこには無色透明な「無」の振動があるだけだが、シャッターを押すと、ある一点に粒が捉えられる(収縮して実体化する)。
これは観測者と素粒子が相互作用を起こしたと考えるべきで、前章まで書いてきた「眼と世界像」の説明にもなる。
脳の閉じた系の外側には素粒子という名の波がひろがるばかりなのだが、眼という観測器を使った相互作用でデコヒーレンスが起きて素粒子の配置が物理化し、脳内のスクリーンに像を結ぶ。
波動関数の確率が、脳裏に世界像を描くわけだ。
そんなわけで、まぶたを閉じれば、自分の外側にはなにもなくなる。
あなたもいなくなる。
眼を開ければ、あなたが立ち現れる。
あなたは波動関数の高い確率でそこにいる(素粒子の配置がその形に確定する)可能性があるから、無事にそこにいてくれるのだと言える。
だけど、眼を閉じれば、ぼくの前のあなたは、ただの波のもつれでしかない。
本当にそうなのだ。
じゃ、あなたは思うだろう、「じゃ、わたしってどこにいるの?」「本当に存在するの?」と。
だけど、安心してほしい。
あなたにとっては、目の前にいるぼくこそが波動関数なのだから。
好きなときに見つめて、観測し、波束を収縮させて実体化してくれたらいい。

あと一回つづく

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死んだらどうなるか?問題・35

2023年01月21日 03時09分23秒 | 死んだらどうなるか?問題

単純なスイッチ方式の眼から入った明暗情報は、単純な線状の神経に伝達され、単純な反射反応としてあなたのからだを突き動かし、「逃げる」あるいは「食う」などの活動をうながす。
視覚情報は、個体の運動と直結してたのだ、最当初には(勝手な自説なので、今回はすべての語りに「たぶん」が入る)。
しかし、眼の機能と神経との連動が高度に発達しはじめ、それにともなって、遺伝子はもうひとつの大発明をする。
眼から入った情報を、神経細胞のある場所にいったんストックさせたのだ(たぶん)。
神経節におけるこの寄り道のせいで、反射反応は鈍くなるが、それを差っ引いて余りある利が出るために、このタイプの進化系は生き残ることになった。
視覚情報のストック場とも言えるこの中継地は、眼の裏側にささやかなスペースを与えられ、後に生物全体の運命を変えるほどの大進化を促すことになった。
眼が受容した、例えば1ピクセルの視覚情報は、神経を伝ってこの「広場」に電送され、1バイトのファイルとして保存される(ピクセルとバイトの変換値はここではまったくでたらめなので注意)
この場で集積される逐一の情報の相互比較により、あなたは「過去」「現在」という概念を知るに至った。
蓄えられた旧情報は過去の知識として地図化され、随時に更新される新情報は現在進行中の状況を表すのだ。
この神経節の広場にファイリングされた地図と状況こそが、あなたが見る外界の姿(の解釈)であり、これまでくどくどと説明を試みてきた「あなたが脳裏に構築する幻想の世界像」なのだった。
あなたはついに自分の世界を、すなわち、脳を持ったのだ。
かつてゼロ次元、一次元・・・そして二次元だったあなたの世界は、眼の発達によって三次元になり、時間という概念を獲得して四次元の時空構造となった。
眼の構造はさらに進化し、水晶体の発達で視覚情報の鮮明度は100倍加した。
光量子の可視光帯の波長をスペクトルに分解して理解するようになり、世界はカラフルに彩られた。
画素数は激増し、ピントや絞りの機能まで獲得した解像度は素晴らしくクリアになり、そこから送られる情報を預かる脳はますます大きく、深く、濃密なものになっていく。
おまけに神経系を束ねるこの広場には、聴覚情報や味覚、嗅覚、触覚情報まで集まってくる。
記憶のバイトは、キロになり、メガになり、ギガになり、テラになり・・・あなたが築く世界は壮麗かつ細密になっていく。
あなたはすでに、それをコントロールできるという自覚も持っている。
運動神経系まで牛耳りはじめたあなたには、集めた情報を世界における活動として反映させることもできるのだ。
こうして生命の中枢部という立場を与えられた脳は、いよいよ肉体という生命機械を操縦しはじめる。
別の言い方をすれば、脳内に発生したあなたが、いよいよ自由意志を持ったというこだ。
自律的だった活動が、意図的なものになったのだ。
「ゾウリムシって、いえば一本の神経なのよ」とペンローズが書いてるが、情報の受容と反射反応の関係とはそういうことなのだろうと思う。
スイッチ→起動、というシンプルなシステムだ。
そんな神経をやみくもに集めたものが、多細胞生物だ。
そのこんがらがった配線を、進化律が整えた。
そしてあなたは、神経束が集めたおびただしい情報を、脳の一点に集中させた。
さらに、インプット系から情報基地を経てアウトプット系に至るトランジットのタイムラグを利用して、「判断する」という作業を覚えた。
そうして、ついに生物としての真の営みを開始したのだった。
自分で考えることができるって、なんて素晴らしいことだろう。
意識の獲得で過去と現在を生きてきた脳、すなわちあなたは、ついに未来を決定できる高みに至った。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・34

2023年01月17日 12時11分08秒 | 死んだらどうなるか?問題

この世に初の「お目見え」を果たした目は、光を落っことすピンホールだった。
穴に差し込んだ光が底まで一直線に進む、というところがミソだ。
光が進めるわずかな距離を設けたことよって、捕捉物体の位置が特定できるのだから。
穴の底部には、光か影かを判定するオン・オフスイッチが組み込まれ、その視覚情報は「1ピクセルのモノクロ画」と考えることができる。
原始生物であるあなたが見る世界(例によって、神経系の配線によって築かれるあなたの独自解釈世界)は、白か、黒か、そのうちのどちらかのシンプルなものなのだ。
それでもこの光量子捕獲装置は、肉体組織とダイレクトに連動されることで、個体が生存する確率をぐんと高めてくれる。
何者かが目の前に近づくだけで「逃げろ」の電気サインが出され、危険が自動的に回避されるのだから、相手に触れなければわからなかった(触れてもわからなかったが)これまでとは大違いだ。
この単純お知らせシステムは、あなたが主体的な行為者として覚醒する前段階の、機械的な反射反応と言える。
この全自動式のからくりを進化させ、刺激→反応のみの活動から、状況判断→意図的行動という、主体性を持った個体の営みへと洗練させていきたい。
というわけで、またシミュレーションだ(ところで「め」の字だが、ここまで「見る」という概念を表現してきた「目」から、肉体のパーツ・機能としての「眼」に改めさせてもらう)。
さて、遺伝子の偶発的な変異という暁光に与り、めでたく一つ眼(独眼)を獲得したあなたなのだった。
進化は、この「着眼」のステージが最も困難で、それに比べたらここから先の展開は、出来合いのものを応用し、更新していくだけなので、時間をかけさえすればわりとイージーに進める。
新発明した一つ眼を応用しようという遺伝子は、まずは最も安直に「ひとつをふたつに増やす」ことを思いつき、二つ眼(双眼)を試そうとするに違いない。
こうして、後の世代に進んだあなたは、進化の過程で二つの眼を手に入れる。
あたりまえに思えるこのアイデアだが、効果は劇的だ。
なにしろ、一つ眼だと点でしか確認できなかった外界が、二つ眼になると線で解釈できるようになる。
あなたのゼロ次元だった世界は、一次元になる。
具体的には、二つの眼が持つ2ピクセルが時間差で点滅することで、目の前の相手がどちらからどちらへと移動したかを理解できる。
ピンポイントだった位置情報が、動きを持つことになったのだ。
あなたの神経系(頭脳はまだない)は、「方向」という概念を手に入れたわけだ。
気をよくした遺伝子は、三つ眼を試す。
線だった世界が、いよいよ面になる。
方向しかわからなかったあなたは、広がりという概念を手に入れる。
蛇足だが、オレはこういう話をする際に、小学校の頃に教わった俳句を必ず思い出す。
それは「米洗う 前『に』ホタルが ふたつみつ」という句だった。
先生は、「これはホタルの位置を点で表している」と言うのだ。
これに方向を持たせるには、「米洗う 前『へ』ホタルが ふたつみつ」とすればいい。
さらに広がりを持たせるために、「米洗う 前『を』ホタルが ふたつみつ」とするのだ。
静的空間が、一字を入れ替えるだけで、これほどまでに動的になろうとは!
なんという美しい、そして奥深い日本語表現であろうか・・・
おっとと、閑話休題。
んで、なんだっけ?あなたは三つの眼を持つことで、広がりのある世界を手に入れたのだった。
縦方向と横方向の空間を理解できるようになり、あなたは紙の上を動きまわるマンガの登場人物のように、二次元世界を生きることになったわけだ。
ここから先は、四つ眼が試され、六つ眼が試され、さらなる複数眼が試された。
が、結果は同じことだった。
二次元よりも先へは進めなかったのだ。
ところが、そこを限界とあきらめなかった遺伝子は、着眼点を変え、世界のさらなる更新を求める。
このイノベーションはすごい。
なんと「複数の眼をひとくくりにまとめて片眼とし、それを2セットにして」、あなたに与えたのだ。
すると、あなたの視界に、ついに三次元世界が立ち現れた。
あなたは、奥行きという概念を知り、世界を立体像として構築したのだった。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・33

2023年01月15日 09時43分17秒 | 死んだらどうなるか?問題

仮装しての仮想シミュレーション(かそう実験)、またやってみん?
今回は赤ちゃんじゃなく、あなたにはもう少し先祖返りしてもらって、ゾウリムシからちょっとだけ進化したくらいの「原始生物」になってもらう。
つわけで、あなたは今、たっぷりと日の当たるぬるい浅瀬で腹ばいになってうごめき、ヒゲの先に触れるものを見さかいなく(目はまだない)口に運ぶばかりのヨタヨタ生物だ。
原始的とはいえ多細胞で、すでに食ったり食われたりするシリアスな食物連鎖社会が形成されてて、適者生存の淘汰も本格化しはじめ、進化で遅れを取るわけにはいかない。
そんな中、あなたは手さぐり(手もない)で拾ったものを確認もせずに摂食するせいで、妙なものを体内に取り込んでおなかを壊したり、自分よりも大きな相手を口に運ぼうとして逆に口に運ばれたりして、よく死んでしまう。
なんとかならぬものか?(と考える脳もない)
そんなある日、あなたは画期的な発明をする。
それが「目」だ。
最初のそれは、ピンホールのような穴だった。
その入り口から光が差し込むと、穴の底にある受容体が反応して一連のからくりを起動させる、という単純なシステムは、それでも絶大な効果を発揮する。
「目の出現以前」と「以後」とで時代を分かつほどの、革命的な発明だ。
それを持つ個体には、圧倒的なアドバンテージが与えられるのだ。
この新発明のなにがすごいのかというと、「そのものに触ることなく、そいつの存在を捕捉できる」という、まるで超能力のような認識能だ。
例えば、浅瀬で腹ばいで過ごすあなたは、ピンホールを上に、つまり光りが差す方向に向ける。
この状態を、例えばスイッチの「オフ」の状態とする。
そこを何者かが通過する際に、あなたは光が陰るのを感じ取る。
そのとき、光の感知システムがオフからオンに切り替わる。
「おっ、きたな!」てなものだ。
オンの情報・・・すなわち頭上に何者かが現れたサインは、ただちに神経系に伝えられ、あなたはすぐさま、逃げるにしろ、食いつくにしろ、そいつへの対応を取ることができる。
・・・と、ここまで読ませておいて恐縮だが、もう一度、同じ内容を別の表現方で描かせてくれ。
というのも、上の表現では、目の獲得者(あなた)がまるで知性と目的意識を持った主体的行為者であるかのように・・・つまり擬人化されてるわけだが、原始生物ふぜいは能力が単純なので、もう少し正確を期したいのだ。
仮想上の仮装のあなたは、細胞をたくさん集めて動作律を統一させた、原始生命としてはわりと進んだ個体ではあっても、まだ意志を持たないため、ただの「反応装置」と言っていい存在だ。
生命維持に特化した機構自体は洗練されてきてはいるものの、ただただ遺伝子の命ずるところに従い、外部からの刺激に対して機械的に反応するのみの身なのだ。
という部分を踏まえて、書き出しに戻る。
さて、一世代前の個体が遺伝情報を複製する際にミスプリントして残したせいで、あなたはたまたま新しい機能、すなわち「光りの粒(光量子)によって発動する高分子システム」を体内に持つラッキーに与った。
要するに、さっき描写した初期的な目の機能をまんまと手に入れたのだった。
ところが時を同じくして、あなたと同系統の他の何人(何体)かも、同様にそのシステムを身につけてたのだ。
ただ、それぞれに少しずつ、神経の伝達の方向性が違った。
つまり、目が光を捉えてスイッチが切り替わった際に、「明→暗」の情報の伝達をへて、「その場から遠ざかる」神経系を反応させるものと、「その場に留まる(なにも反応を起こさない)」もの、そして「目の前をかすめた影に向かう」ものがいたのだ。
そうした別々の神経配線を持つ三態の中で、「その場に留まるもの」は、システムを生かして生きのびることができない。
なぜなら、目の前をかすめたのが敵であったならまんまと餌食となろうし、逆にエサであったならそれを取り損なうことになるからだ。
そして「影に向かうもの」も生きのびる可能性は小さくなる。
目の前をかすめたものが敵かエサかの可能性は半々なので、50%の確率で餌食になってしまう。
こうして、難しい言い方をすれば、「光量子を体内の高分子装置に取り込んで、そこから遠ざかろうとする神経系をスイッチングさせるタイプ」であったあなたは、めでたく生き残ることができる。
わかりやすく言えば、あなたは「何者かが目の前に現れたら逃げる」能力を得たのだった。
これこそが、ダーウィンの言う「適者生存の淘汰律」だ。
遺伝子のミスプリントは全方位性で、要するに種は、多くの個体にバラバラな進化をさせておいて、いちばん生き残る確率の高い進化をしたもの(適者)を多く生き残らせるわけだ。
生命進化は、実験に次ぐ実験で生き残りにくいものをふるい落として淘汰し、生存者を決めていく。
すなわち、素晴らしい進化をしたものが生き残るのではなく、結果として生き残ったものは素晴らしい進化を遂げてた、という順序が正しい。
この要領で、あなたが獲得した単純な目がこの先、どう高度に進化していくのかを見ていく。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・32

2023年01月10日 11時30分49秒 | 死んだらどうなるか?問題

まだヨチヨチ歩きのあなただけど、かつて空っぽの容器だった脳の中には、世界を組み立てる素材が徐々にそろってきた。
赤ん坊として生まれたての当初に、外環境から目が濾し取った情報は、病院の白い室内空間と、いくつかのうごめく人体、お湯とタオル・・・といったところ(視覚が完全な機能を発揮したとは言えなかったけど)で、それがあなたの世界のすべてだった。
それでも、日がたって退院し、車に乗っけられて街を流し、両親の家にたどり着き、その場で生活というやつをはじめてみると、あなたの世界は広々と拡張をはじめ、その内容も具体的なものになっていった。
情報は目からだけでなく、いろんな感覚器官からももたらされる。
抱っこをされ、肉に包み込まれる質感を覚えた。
耳元のささやき声に心地よさを覚え、遠くでやり合う怒鳴り声に身構えた。
まるく柔らかい肉塊の先にあるピンクの吸い口にむしゃぶりつくと、ほの甘い汁が体内にほとばしり、味わうという官能を知った。
クオリア(感覚質)とは、多様で多面で多角で、かつ厚く奥行きのある重なり合わせなのだ。
脳裏のスクリーンには多彩なクオリアがオーロラのように踊り、あなたはぼんやりとその風景を眺めて過ごした・・・
と、幼い心象風景をポエムのように描いてみたよ、やるねオレも。
さて、つたない感覚神経系しか持たなかったあなただが、構築中の世界に向けた運動神経系による働き掛けが可能であることを直感で知ると、受動的なばかりでなく、こちらから触れたり、嗅いだり、口に入れたりという作業もしはじめた。
が、これは本当の意味では、自主的的な活動や経験とは言えない。
なぜなら、あなたはまだ「目的」「能動」という観念を持たないからだ。
未成熟なあなたは、今のところ、神経系のアウトプットで動くいろいろな機能の操作手順を試し、どこをどうすればどうなるか?と、文字通りの手さぐりをしてる段階なのだ。
ところがついにあなたは、「オレが動かしてるこの装置って『自分』ってやつじゃね?」と気づく。
その活動の様式こそが「主体性」という概念なのだと。
そして、操作の行き届く肉体と活動意思を総合したものこそが「わたし」なのだと。
わたしとは、つまり、他者でない、ということだ。
あなたはふと、「ママ」と呼びかけた相手が、内なるものの操る対象ではなく、神経系のコントロールの外にある「他者」であると思い至った。
なんと賢いことに、そこからあなたは逆説的に、「他者から見た対としての自分」という相対性にたどり着いたのだった。
この観念の理解には、なかなか深いものがある。
相手がいるから、自分がいるのだ。
あいつのおもふこと、わからない・・・
だけど、オレおもふ、ゆえにオレあり・・・というわけだ。
誰かの言葉からパクったわけじゃなく、あなたは経験から、あなたというものがあなたの中に内在している発想に漕ぎ着けた。
どうやら、外環境からきた情報を積み上げて構築した脳内世界の中心部にはコアが存在し、視界はそこ視点において描き出され、感知された触覚もまたそこで統合されて質感と奥行きを獲得するようだ。
重要な情報は経験や記憶となってその核で一元管理され、同時に、肉体操作の命令もまたすべてそこから発せられる。
その核、すなわち俗に言うところの「タマシイ」は、神秘的なものではない。
細胞内の遺伝子に元々組み込まれていた指令(本能や直感)を受けた生命機械が、感覚器官を駆使して収集した情報で脳内に世界を構築し、それに対する応答から、鏡面としての内的な存在をつくり上げ、それを膨らませて、行為者意識(すなわち主観)を持つ「自己」を成立させたわけだ。
主体的な意思を持つ自己の誕生だ。
自己は、生まれたときに霊的に吹き込まれる質のものではなく、分子生物学的な機構がミクロからマクロに向けて発展に発展を重ね、洗練に洗練を繰り返して練り上げた末にたどり着いた、創発の現象なのだ。
ちなみに創発とは、「縦と横を合わせると斜めになる」なんて単純なベクトルじゃなく、「縦と横だけで立体的な奥行きができちゃった!」なんという、効果の相乗的跳躍を言うんである。
原始生物がミトコンドリアを得ただけでエネルギー効率を数百倍化させたように、遺伝子と神経系は、酸素の燃焼で動くタンパク質製のメカニズムに、「わたし」という観念を吹き込むことに成功したのだった。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・31

2023年01月05日 10時52分22秒 | 死んだらどうなるか?問題

前章は「です・ます」調で、ちょっと詐欺宗教的なまじない感やスピリチュアルトーンな違和感が漂ってたんで(だまして引きずり込もうとしてる感じ?)、より噛み砕いてカジュアルにするために、この章ではタメ口を使わせてもらう。
つわけでここまで、あなたには赤ちゃんになって「主体的体験が及ぼす思考形態の発達プロセスと自我の形成」のシミュレーションを追体験してもらったのだった。
それを踏まえてここでは、もう少し抽象的な形で構造理解を進めたい(というか、オレの考えを説明したい)。
またあなたには、赤ちゃんに戻ってもらうことになるが。
さて、赤ちゃんとは要するに、ハードウェアが初期状態の生命装置なのだった。
空っぽの容器とも言えるそいつが、あらかじめセットされた遺伝子というソフトウェアによって起動し、メカニズムが自律的に活動を開始する。
が、そこに意図や目的は(まだ)ない。
ただ「死なないようにしろ」という本能の命令に従い、防衛行動に突き動かされるのみだ。
そうしてあなたは、体験をし、周囲の反応を見、情報を得て、経験値の集積装置である脳を発達させる。
脳裏(頭の内側)には、あなた独自の望洋とした世界が徐々に立ち上げられていく。
さて、情報は主に目から入ってくる。
この目というやつだが、われわれ生物は、実は目で世界を見てはいない。
分子生物学と量子力学によれば、目は外環境(真実の世界)を行き交う任意の素粒子を抽出してすくい取るための、ただの捕獲装置だ。
目とは、ザルなのだ。
言い換えれば、可視光というせまい波長帯を泳ぐ波を濾して取り込み、増幅させて脳に送り込むだけのユニットなのだ。
この「すき間の粗い不完全なレーダーアンテナ」に受信された情報が、脳の奥で分析され、脳裏をスクリーンとして映像化される。
さらに、この映像の中で重要と判断されたものはしかるべきファイルに保管(記憶)され、無駄なものは廃棄(忘却)される。
こうして、脳内の引き出しである大脳新皮質(脳裏=頭骨の裏側の部位)に情報は蓄積されていく。
ちなみに、この新皮質に保管された情報は非常に具体的で、例えばある人物の新皮質には、「ジェニファー・アニストン(ブラピの元妻)」専用のファイルがあると判明してるほどだ。
これは、脳のその一点をつつけば、ジェニファーなにがしの情報が物理的に取り出せる、という意味だ。
さらに、そのジェニファーファイルにつながる込み入った脳内の配線があり、別のファイル(「ブラピ」や「離婚」というワードとか)に寄り道したり遠回りをして絡まったりする線を通電する情報のルート模様によって、ジェニファーなにがしの性格づけ(クオリア形成)が行われる。
その絡まり合って通電する配線のエリアこそが、「あなたのジェニファー・アニストンのイメージ」ということになる。
こうして情報は「肉体化」され、あなた独自の観念が形成されていくわけだ。
さて、今とても重要なことを書いてみたのだけど、カッコしといたから気づいた?
そう、記憶や体験や印象とは、心や魂やその他の神秘的な現象に還元されるわけではなく、シンプルに「肉」の問題なのだ!
脳内の神経接続の通電ルートこそがあなたの観念の姿(すなわち物理的な形)なので、心とは、リアルにタンパク質と電子と化学物質の活動に分解できると言っていい。
そこに霊的なものの介入はない。
話を進めるが、こうして情報集積作業を進めるうちに、赤ちゃんは脳の内部に世界を創造していく。
最初には空箱だった脳裏に肉付けがなされ、体験によるフィードバックで、当初は謎に思えた物体や現象に辻褄の合う説明書きが付け足されていくわけだ。
通電する配線のエリアが編み重ねられて層構造になることで、イメージが細密かつ肉厚に育ち、世界がより鮮明で説得力を持ったものになっていく。
「目→脳システム」が風景を描き出す過程を要約すれば、こうだ。
目というアンテナが外環境から視覚情報(素粒子の配置や、速度と運動の方向など)を収集し、神経経由で脳内に電送する。
脳内では情報の解析(人類の限界である三次元解釈をするための分解・再構成)が行われ、外環境における素粒子の配置図(記号情報と言える)を、具体的な映像に構築し直す。
視覚野の奥で立ち上がったその映像は、脳の感受性の分野が試聴することになる。
いわば、外環境の素材と、新皮質に蓄積された印象が結びつき、あなたのその時点での心模様が構成されるのだ。
砕けた表現で言えば、脳裏をスクリーンとして放映される「あなたの世界」という映像を、脳内にいるあなたが視聴するということだ。(「脳内にいるあなた」の概念については、次章で説明する)
これがくどくどと述べ立てているところの、あなたは目で世界を見てるのではなくて、脳で世界をつくってる、の意味だ。
こうして脳内の絡み合う配線を使い、あなたは「外環境由来の情報素材を元にした世界」を立ち上げたわけだが、ある日ふと、その外環境に向けた主体的な活動が可能であることを知ることになる。
映像が垂れ流しになっているスクリーンの脇に、コントローラーが転がっていたのだ。
それを操ると、なんとあなたが大好きだった映像の中のキャラに向けて、「ママ」と発声できることがわかった。
すると、そのキャラがこちらに向け、さらに好ましい態度を取ってくれるではないか。
すばらしい。
あなたは、外環境への働きかけの能力を得たのと同時に、「わたし」という未知の概念に触れたのだった。
それはさらに、映像の内容との双方向なやり取りの実現可能性を示唆する!

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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死んだらどうなるか?問題・30

2022年12月27日 18時36分54秒 | 死んだらどうなるか?問題

前回からのつづきです。
さて、あなたはそろそろ重力に抗うまでの力を獲得し、立ち上がります。
よち、よち・・・
そして新世界を耕すために、新境地への冒険の旅(歩行移動)を開始します。
制約が解除されて行動範囲がひろがると、広大な外環境の立体地図が頭の中にできていきます。
こうして脳内に構築されるのが、あなた独自の解釈世界というわけです。
その世界の中で(世界はむしろ、あなたの中にあるのですが)、あなたは自分の肉体を稼働させ、感覚器で刺激を受容しては反応し、外環境からの応答を脳内に反映させて、図面を精緻なものにしていきます。
そうして脳内世界を切り拓いていくうちにあなたは、「判断する」「考える」という作業を覚えます。
反射反応頼みのディフェンス一辺倒だった戦略に、オフェンス(外環境への意図した働きかけ)が加わるのです。
もはや与えられるだけではなく、目的を持ってそれをつかみ、嗅ぎ、味わって、脳内のクオリアを豊かなものに育てていきます。
さらにあなたは、例のいちばん近しい生物個体に「ママ」と呼びかけてみます。
すると、ママは大よろこびをして、あなたを抱きしめてくれます。
このコミュニケーションの成立は、お互いの個体を識別する以上の意味を持ちます。
あなたは、外環境との対立軸としての主体(他者に対して、より内的なもの)の存在を理解し、双方の関係への能動性を獲得したのです。
ここはとてつもなく重要な部分なので、最新の注意を払って描写します。
あなたは、脳内に築いたあなたの世界に社会性という概念を持ち込み、その中心に「核」を置いたわけです。
周囲という観念を相対的に生じさせる、真に本質的なものの存在を。
それが「自己」なのです。
あなたは、ついに自分という存在に気づいたのでした。
外環境と自分、という相関関係は、あなたの世界にとって目覚ましい発展です。
視界に映る光景を記述することしかできなかった能力が、主体との関係性で説明できるようになったのですから。
次元がひとつ上のステージへの創発と言っていい、画期的な瞬間です。
身動きも出来なかった赤ちゃんの頃から外環境を観察し、成長するに従って周囲に働きかけることを覚え、双方向の応答によって学び、世界の認識を高めていくうちに、その中心に位置するところである一人称の概念が、突如として意識されました。
その萌芽は、まさにビッグバンの特異点のような閃きです。
そこから先は、新時空間が開いて膨張し、星ぼしが散りばめられていくような勢いで、「自分」という存在への肉づけが行われていきます。
社会と名を変えた周囲には、自分の姿が鏡のように映り込んでいるので、その中で振る舞うことは「あなたがあなた自身を理解する」という作業でもあります。
多角的で多面的で広くて深くて濃くて・・・まさしくひとりの人間のアイデンティティが形成されていく行程です。
そうしてあなたがあなたの内部に胚胎させた一人称の意識は、主体的な経験を重ねる肉体と同化し、明確な「あなた」となっていくのです。
声を出してみて「わたしとはこんな声か」と、鏡を見て「わたしとはこんな姿か」と、手足を動かしてみて「わたしとはこんな能力か」と。
そして社会のいろんな要素との相互作用の中で、自分という存在の要素をふくらませて「わたしとはこういう人間か」と。
こうしてついに、「わたしとは、わたしの中身なのだ」と、つまり自我に行き着くわけです。
さて、ここまで純粋に、遺伝子の命令と細分化された細胞の働き・・・すなわち、機械的な反応と対処、さらに学習機能によって、あなたは生命活動をつづけてこられました。
その間に、ふと振り返ると、タマシイが肉体に宿る瞬間はありませんでした。
あなたは、いつあなたになりましたか?
それは、いつからともなく、内側から湧いてきたのでした。
「わたし」とは・・・言いかえれば「心」とは、神さまとは関係なく、こうして物理学と生物学、医学生理学のみによって生ずるのではないでしょうか。
わたしとは、霊的なものではなく、タマシイの形をしてもいません。
遺伝子が支配する生命装置の奥底で、感覚神経・運動神経間の電流の行き来が複雑化した末の、外環境に対する反応の集積、社会を鏡とした跳ね返りの総合・・・それこそが「わたし」なのです。
ぼくはそのことを、布団にくるまっているうちに理解しました。
つまりあなたは、あなたの肉体が物質世界にあって、あなたのタマシイが霊的世界からやってきて乗り込み、操縦し、肉体が滅びた後にまた何者かの肉体に引っ越す・・・などという質のものではないのではないかと。
あなたが存在するのは、あくまでもあなたの内部にであって、あなたはあなたの中に生じ、あなたを膨らませてあなたを形づくり・・・そして、この長い長い書きもののついに結論(タイトルに書かれている大テーマ)に迫る部分なのですが、時がくれば、あなたはあなたの中で自分に始末をつけることになるのではないか・・・とぼくは考えるのです。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・29

2022年12月26日 08時29分52秒 | 死んだらどうなるか?問題

ひとの内面に、自我はいつ芽生えるのでしょうか?
深夜に布団にくるまって考えているうちに、ぼくは赤ちゃんになっていたのでした。
そのときの不思議なイメージ体験(思索)が、ぼくの死生観、タマシイ観のベースになりました。
ここでは、そのときのシミュレーションを「あなた」に追体験してもらいます。
お父ちゃんとお母ちゃんの遺伝子が減数分裂でひとつに結ばれ、胚となりました。
つまり、お母ちゃんのおなかの中に、もうひとつの命が・・・あなたの初期細胞が発生したのです。
とは言え、あなたはまだお母ちゃんの一部です。
細胞分裂によって日に日に大きくなっていきますが、ぬくぬくとした閉鎖系の羊水の中で栄養を与えられ、へその緒でお母ちゃんの臓器につながれていて酸素の供給も行き届き、一個体として独立できてはいません。
おなかの中にいる赤ちゃんは夢を見ている、とよく言われますが、少々疑問です。
ただの細胞の固まりであるあなたはまだ、ただひとつの体験もしていないので(あるいは、閉所に固定されていることしか体験していない、とも言えますが)、夢を見るとしても、その内容は暗闇オンリーでしょう。
体内にめぐらされつつある運動神経に通電すれば、若干動くことが許されますが、その活動は主体的なものではなく、外界からの刺激に対しての無意識な反射反応です。
さて、機が熟し、あなたはお母ちゃんの体内から、空の下の環境へと生み落とされます。
あなたは「おぎゃー」と言いますが、それはうれしいからでも苦しいからでもなく、はじめて気体を吸い込んだために起きたカウンター反応です。
こうしてあなたは、新しい環境に対する反応のみ(つまり、無意識)で、生という営みを開始します。
そこに、自我はありません。
「自分」という概念をまだ持ち合わせていないので、これは当然のことです。
生まれる瞬間(どのフェイズであなたが完成したのかはわかりませんが)に魂が込められた、ということもないでしょう。
この時点での脳はデフォルト(初期設定)と言っていい状態で、あなたは「あなたの質」をこれからつくり上げる機能のみを備えた、あなたとはまだ言えないあなたです。
この状態の人類は、どの個体もフルフラットな状態で、誰も何者でもないのではないか、とぼくは考えます。
二度同じことを書いて恐縮なのですが、この時点で赤ちゃんは、あなたなのだけれど、あなたになりきってはいない「初期生命装置」です。
さて、近い未来に本当のあなたになるあなたは、ぼんやりとしか見えない世界に可愛らしい瞳をめぐらし、(たぶん)産科の病室という小宇宙を見つけます。
そしてそこに、やけになれなれしい生物の個体(やがてママと認識する)を発見します。
が、そのうごめく塊はまだ「モノ」であり、小宇宙の一パーツにすぎません。
その光景を取り込み、あなたの脳はまず1ページ目を記します。
あなたのまっさらな内部に、新世界が立ち上げられたわけです。
さて、生み落とされたその小宇宙時空で、あなたはどう振る舞おうと考えるでしょうか?
あなたには生まれた実感がなく、「生きる」の概念もまだ持たないので、「生きていこう」とすら考えることができません。
ただ、あなたが生とともに持ち合わせた遺伝子に最初に刻まれているべき事項がありまして、それは「死なないようにせよ」という命令です。
生み落とされたばかりの無防備な生命は、太古の昔から練り上げられた適者生存の法則を正しく守り、傷つかないように、壊れないように、息の根が止まらないように、危うさを察知して回避する反応に徹するのです。
というわけで、あなたは潜在的な本能を発動させ、不快なことから逃れようとします。
痛ければ、泣いていやがってみる。
寒ければ、泣いていやがってみる。
体内の栄養が尽きたら(おなかが減ったら)、泣いていやがってみる。
不潔な分泌物にまみれたら(うんちが出たら)、泣いていやがってみる。
泣いていやがるの一辺倒。
こうして消極的な営み(ディフェンス)をつづけて長らえるうちに、ついにあなたは新たな生理的発見をすることになります。
それは、数億年という日々を送って数々の実験を経た遺伝子が組み込んでくれた、報酬系ホルモンの分泌です。
つまり、生命を発展させようというポジティブな活動にはごほうびが付与される、という体内メカニズムです。
ご飯を食べると、おいしい!
それをすると、からだが大きくなる!
うんちをすると、気持ちいい!
それをすると、体内が浄化される!
手足を動かすと、心地いい!
それをすると、からだが強くなる!
こうした体験を積むことで、あなたの脳内のニューロンは伸びに伸び、シナプスの接続部は激増し、たんぽぽの綿毛が放散して野原一面をお花畑にするように、あなたの脳内は経験と知識で一杯になっていきます。
そうしてついにあなたは、脳内世界に特殊な形で存在する「わたくし」という概念を見つけるのです。

つづく

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死んだらどうなるか?問題・28

2022年12月12日 09時10分25秒 | 死んだらどうなるか?問題

今読んでいるリチャード・ドーキンスが、このブログで前章までに書いてきたことをうまく表現しているので(くやしい)、パクリじゃないけど、レトリックだけを頂戴してぼくの考えるところに反映させてもらいます。
「利己的な遺伝子」でおなじみのドーキンスは、生物学界で知らぬひとはいない、ポスト・ダーウィニズムの巨人です。
彼は常に進化論を基にしてものを見ようとするひとで、量子力学と生物進化を掛け合わせた「分子生物学(細胞などの働きを分子レベルにまで解体して構造を知ろうという学術分野)」にもその考え方を持ち込んでいます。
ぼくは前章で、「人類は、世界の本当の姿を見ているわけではなく、自分たちの営みに必要な情報だけを選択して受け取り、活動が都合よくいくように主体的な解釈をしているにすぎない」ということをくどくどと書きました。
ドーキンスはこの点をわかりやすく、「人類の目は可視光だけを見るように進化したため、脳もまた、赤外線と紫外線の間におさまる限定された世界を構築するしかなかった」という表現を採っています。
人類が、もしもガンマ線だけを見るように進化していたなら、この世界は、ぼくらが見ているこの「感じ」とはまったく違ったものになっているはずです。
ヘビは赤外線を舌で感知して世界を構築していますし、コウモリは音波をキャッチして暗闇の中に立体世界を描いています。
犬はにおいで、鳥は電磁気で、ミミズは・・・なんらかの方法で独自に自然界から情報を選択的に受容し、自分たちのオリジナルな風景を築いているわけです。
そんな各々の主観によって描かれた独自な画づらが、人類のものとまったく異なることは、疑いがありません。
要するに、「世界」とは脳内にのみ存在しているもので、その意味ではみんなそれぞれに別の世界に住んでいるのです(同じ人類であるぼくとあなたとでも、それは違います)。
脳が高度に発達したわれわれ霊長類は、原形質に近い微生物の粗い世界とはまったく別ものの、さまざまな情報を総合して細密に組み立てられた世界を生きていると自負するわけですが、逆に、微生物がわずらわされている(あるいは彼らにとってはなくてはならないかもしれない)分子のブラウン運動や、微弱な電磁気力、量子世界のエンタングルメントなどを実感できない粗い世界を生きている、とも言えそうです。
自身の中で発達させた受容機械が、宇宙を飛び交うどの波をどう選択的に拾い上げ、脳内にどんな画を投影しているかによって、その者にとっての世界像(宇宙の形)が決定されます。
事実上の盲目であるコウモリは、相手のコウモリが可愛いかどうかを音で判断しますし、物質表面の細かなキメにぶつかる空気の震え(波!)によって、色彩のようなクオリアまで脳内に立ち上げている(とドーキンスは信じている)ほどです。
その世界を想像すれば、人類が唯一無二のものと思い込んでいる可視光解釈による脳内フィードバック映像が、いかに世界を表現しきっていないか、情報の偏った狭いものであるかが理解できそうです。
逆に言えば、ぼくらの感知の及ぶ守備範囲の外側にこそ、世界の真実はあります。
ぼくらが見ているこの世界は、文字通りに幻想でしかないわけです。
実際にはそこには、ただスカスカな波が立っているだけ、なのですから。
その中のどの波を拾ったところで、それは真実の一部でしかなく、ぼくらには世界の本当の姿を見ることはできません。
何者かの肉体が、例えばどんな電磁気力とも反応しないニュートリノでできていたとしたら、彼にとってそもそも物質という概念は意味を持ちません。
彼の世界には、形も触感も存在しないわけですから。
そんな生命体にとっては、太陽や地球などの天体は真空のようなもので、自身の「カタチ」すらもおぼつかなく、ビッグバンという世界創生からしてまったく別の現象に感じられ、とりあえずは光子とのやり取りや、素粒子の対生成・消滅などにつき合うことをベースにした進化と生き方が求められることでしょう。
だけど考え詰めれば、クォークやニュートリノを含めた素粒子という「波」概念そのものが、ぼくらが脳内に立ち上げた勝手な世界の一部なわけですよね。
素粒子どころか、ぼくらの世界の外には、ぼくらが感知できない、素粒子以外のものからできている生命体が独自に立ち上げた奇妙奇天烈な世界が、つまるところ、彼らの中に存在しているかもしれませんよ。
そんな彼らにとっては、われわれ物質世界に生きる生命体が、感覚的にまったく理解できない奇妙奇天烈な存在に思えるにちがいありません。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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