裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

あっちとこっちがつながった!

2018年04月24日 10時56分26秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
えらい情報をつかんだよ。
生体内のコラーゲンと酵素との間で、量子レベルのやり取りが行われてるんだと。
量子力学によれば、素粒子ってのは、粒として一定の場所にじっとしてはいない。
電子が原子核の周囲を周回してるわけじゃなく、一定の距離を置いた範囲に確率として存在してるように、その位置は常に不確定なのだ。
簡単に言えば、素粒子はぴょんぴょんとテレポーテーションみたいに、あっちからこっちへと瞬時に移動できてしまうのだ。
この「トンネル効果」ってやつを利用して、生体内で電子が物質間を移動し、あちこちに反応を起こしては、アミノ酸内の分子の配列なんかを変えてるらしいのだな。
一個の電子がそこにあるかないかによって電荷が書き換えられ、物質の性質がまるで変わってしまうんで、この活動は生命現象のまさに根っこだ。
具体的に言うと、オタマジャクシのしっぽをボディに収納して解体し、リサイクルして四肢をつくる、なんて作業を、素粒子のこんな物理法則が操ってるんだ。
あっちで分子のつながりを切る。
こっちで結ぶ。
別の性質の物質ができる。
そいつをこっちに持ってきて、別の分子と反応させる。
一個の電子の瞬時の移動が、これだけのことをやってる。
誰の意思だかは知れないが、電子をあちこちに飛ばすことで、生体の新陳代謝と動的平衡は実行されてるらしい。
オレがオレだと思ってるこの生命機械は、こんな小さな人々の働きの大きな集合体なんだよ。
そしてそれら小さな意思のひとつひとつが結びつき、代表としてオレというアイデンティティを築いてくれてるんだが、当のオレは、そんなひとたちのことなんかまるで意識することなく、それでもどういうわけか、巨大な意思を形成できるんだった。
まったく不思議なことだ・・・

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気になってる引っかかり

2018年04月23日 12時13分37秒 | Weblog
ちょっとタイムリーじゃないけど、あの話題ね。
「私の声じゃない」のに「全体を聞いてくれたらわかる」っては、つまり自分が言った、ってことだし、「あんなひどいことは言わない」ってことは、話の内容がひどいと認識してるってことだし、要するに三段論法を用いると、「あんなひどい話を私が言った」ってことなんじゃ?

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学びの遺伝子

2018年04月11日 22時31分24秒 | Weblog
新しいものを書き出そうとするとき、その素材について一から勉強しなきゃならない。
相対性理論から場の量子論の件は決着をつけたんで、また新しいことをはじめたとこ。
ここんところ、生命の発生についての考察をしてて、書き進めるとさらに興味深くなってく。
遺伝子のメカニズムのあたりはかなり勉強したつもりだけど、すっかり忘れてるし、その構造よりも、むしろ書きたいのはその発生の物語なんで、化学の知識が必要なことがわかった。
化学式とか、もっかい勉強し直そうかなあ。
あと、生物科学?
ヌクレオチド、RNA、葉緑素・・・勉強し直したい。
勉強するべき分野がどこまでつながってて、果てしなく深くて、際限がなくて・・・そのせいでそそられる。
酒場にいっても、飲みながら、本ばっか読んじゃう。
どうかしてるかも。
やりたかったのは物理学だったはずなのに・・・おかしいな。
知識欲が暴走気味。
勉強できる、って一点で、子供に戻りたい。
一方、インプットの欲を上まわるのが、アウトプット欲の方。
備忘録がわりに、こうしてブログに思いつきを書きつけてるわけだけど、いずれ構成しなおして、「お話」にまとめたい。
どうなることか・・・?

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成長しつつある

2018年04月10日 10時11分35秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
分裂!
ある瞬間だ。
水の流れの加減でか、なにかがぶつかったからか、彼のからだはまん中からふたつに分かたれてしまった。
ところが、どうした偶然だろう。
膜の一部がくっついたままだ。
あっちはこっちを離そうとせず、こっちはあっちを引き寄せる。
彼に意識はまだ芽生えないが、ふたつに解体されたはずの彼は、あっちも、こっちも、どちらも彼なんだった。
分かたれたようで、それはひとつなのだ。
その証拠に、薄膜を間に介して、相変わらず今まで通りに、片方が外界から得た要素はもう片方にまで拡散し、ふたつの内部は等質にして動的平衡を保ててる。
その上に、分裂したひとつひとつはそれぞれに、すべてが丸くおさまってた今までと同じ大きさにまで膨らむことができる。
これは、実質の成長だ。
大きくなったんだ、彼は。
この作業をくり返せば、彼は延々とからだを大きくしていくことができるぞ。
しかもこの奇妙な形は、各部位に個別の役割を持たせることも可能だ。
ふたつに分かれた上の方の球体部は、水の本流にさらされるので、外界からより多くの要素を取り込む役割が期待できる。
一方、下になった半球体部には、海底にしがみついて態勢を安定させる役を割り振る。
そうすれば、さらにその役割に特化した機能を、各部位が独立で高度に発展させられそうだ。

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三つの仕事

2018年04月09日 09時22分13秒 | Weblog
いつも新幹線に乗って帰省する。
東京は始発駅なんで、直近発車号の一本か二本後の列に並べば必ず座れる、ってことになってるんだが、いつも周囲であれやこれやが発生して、興味深い。
要するに、外国人さんだ。
よめはんとふたり席に座ったときは、車両が富士山の前を通過する際に、隣席のラテン系の人々が我々越しに窓外の風景をあまりにもときめきの目で見つめてるので、しばし「よかったら」と撮影場所を提供した。
ああしたときの彼ら、彼女らのチャーミングな反応ときたら、日本人には持ち得ないたまらないものがある。
よき振る舞いをすべきと心に点火あらば、即座にそれはすべきなのだ。
いや、むしろこちらからあれやこれやを探すことこそ必要だと心得たい。
かように、プライベート・パトローラーのオレは、車両内外で油断することなく、善意を施す機会をうかがいつづけるのだった。
オレは在来線のプラットホームに立ってるときでさえ、「今この瞬間にひとが飛び降りたら(落っこちたら)、すぐさま助けにいく」心の準備をおこたることなく、自分も飛び降りる設定で、緊張して過ごしてるのだ。
最近などは、「はやく誰か飛び降りないかな」とうずうずしてるほどだ。
ひとにはあまりおすすめできるものではないが、街の平和を守るパトロールとは、このように大変な仕事なんである。
さて、新幹線だが。
先月の帰省では、三つの仕事をした。
オレは新幹線の車両に乗り込むと、必ず通路側に席を取る。
いつ、なんどき、事件が発生しても、すぐに動けるようにするためだ。
いつ、なんどき、車内販売がやってきてビールが欲しくなるともかぎらないし。
こうしてこのときも、三人席の通路側にまんまと席を獲得したオレだ。
窓側にはもうひとりが座ってて、真ん中の席が空いてる。
そろそろ満席になろうかというそこへ、ヨーロッパ系の男女ふたりが乗り込んできた。
彼らはふたり並んで座りたいのだが、あいにくと空いてるのは、歯抜けのようなひとり席ばかりだ。
さっきから二往復も三往復もしてるので、ヨシ、と声をかける。
オレがどけば、この席は彼らの求めるふたり席に早変わり、という簡単なパズルの解答だ。
呼び止めたふたりに身振りでそれを伝え、自分はすぐ前の空いたひとり席に移動した。
異国の旅先で、愛し合うふたりが分かたれてはなるまい。
いっこの事件を解決したぞ。
ところが、ついに満席となった新横浜で現れたのが、小さな子供を連れた盲目のお母ちゃんだ。
白杖をつきつき、通路を右往左往してる。
こんなときの暗闇の中の戸惑いときたら、察するに余りある。
ずっと座って楽チン旅をつづけたいこちらの心も惑うが、いったん芽生えた心の引っ掛かりに、嘘はつきとおせない。
要するに、この場面をスルーする苦々しい痛恨をずっと(おそらくは生涯)心に留め置く図太い精神がオレにはない。
席をあきらめてついに連結車両に消えたふたりを追い、呼びかける。
母親に、空いた席があることを告げ、手を引いて自席に導きはじめると、車両の空気は見る見る変わった。
彼女の不幸な事情をすでに目撃してた周囲の乗客は唖然とオレの奇特な振る舞いを見上げ、盲目の彼女もまた驚愕の表情をこちらに向けてる。
まじですか?という、こんな奇跡が本当に?という。
訳も分からないままに席に座れる、という状況が飲み込めないでいるのだ。
これは逆に、日本人の心の冷たさの裏返しでもあろう。
とにかく、盲目の母親は無事に席を獲得し、子供をひざに乗せることができた。
手を引いた相手も事情も暗闇の中だが、とにかくパズルが無事にはまってよかったではないか。
オレはというと、連結機の地べたでワープロ仕事をすることにした。
思えば、いつも芝生の上でしてるのと同じ姿勢ではある。
そして目的地に着き、降りてみれば、今度は韓国系の若い母親が、よちよちの子供を連れ、驚くべき分厚さのトランクケースをふたつもコロコロさせながら、これもまた右往左往してる。
少しは自分のキャパシティというものを考えたらどうなんだ。
その巨大でクソ重い荷物をあずかり受け、タクシーの乗り口まで運んで差し上げる。
三つの仕事をこなし、いい桜を見ることができたんだった。
ふう。

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調子に乗って

2018年04月07日 18時00分11秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
さて、水底で安定したはいいが、この環境はいいことも悪いこともある。
まずいいことは、奇妙な水流に巻き込まれての破損や破裂の心配が少なくなった。
あっちにこっちにと不安定に流されることもなくなったし、これは具合いがいい。
悪いことは、地べたに接地面が取られているために、表面積が減ってしまった。
からだの維持管理に必要な要素があっちからやってきてくれるのを待つのみの身にとっては、その可能性を少しでも削ってしまうのは命に関わる一大事だ(まだ生まれてない命だが)。
かといって、彼にはまだ「自分から出向き」「能動的に獲得する」などという野心はまだない。
そもそも主体的に動けない彼は、あくまでも受け身なのだ。
それでも、できることだけはやるしかない。
彼はいいことを考える。
体表面が減ったのであれば、増やせばいい。
すなわち、大きくなればいいのだ。
ただし、それには問題もある。
やたらと巨大化したとして、彼を取り囲む膜の強度はもつのだろうか?
泡が破れれば、ここまでの努力が水の泡だ。
仮に球体の直径を二倍に増やしたとして、膜の厚みが二倍になってくれるわけではない。
つまり、あぶくには大きさの限界があるのだ。
では、長さ方面に成長してはどうだろうか?
膨らむのではなく、細く長くなるのだ。
これはいい考えに思えるが、それにも表面張力と水圧という問題があって、形状を保つことができない。
一定の体積を持つ柔らかいものは、周囲から一様な圧力を加えられると、表面積が最小である球に限りなく近づこうとするのだ。
ではどうすればいいか?
ふと、素晴らしいひらめきが、彼を打った。

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また備忘

2018年04月07日 00時18分34秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
水中を浮遊する彼もまた、万有引力の法則に従う。
周囲の煮えたぎる水と、彼が抱え込む体液とは同じような濃度だが、体内における実験によってさまざまな機構が配置されたからだは、水よりも軽いとは考えにくい。
その機構の数々は、周囲から集めた要素を化学反応で凝縮させたものと考えられるから、とにかく彼は沈むんである。
あるいは、彼が「浮上しよう」と指向したのだとすれば、体内にガスか空気あたりを取り込んだはずなんだが、ここでは彼はそうしなかったことになってるんである。
とにかく、彼のからだは沈降していく。
海底に着床!
そう、まさに彼はこの世界に生を得ようとしているのだ!(「着床」が、妊娠の開始を意味する子宮世界におけるミクロの現象・・・なんて説明は野暮か)
球体だった彼のフォルムは、底部が扁平になり、落ち着きよろしき形状になった。
その接触面は、海底にたまたま存在した地質学的生成物と引き合うか、噛み合うか、同化するか、どういった作用でか、固定されることとなった。
こうなると、さらにはっきりとした方向性が生まれる。
方向性とは、文字通りの、方向だ。
個体のこの部分が上で、ここが下。
頭がこっちで、尻はあっち。
一定の流れがやってくる側に入り口を設け、反対側に出口を配することができる。
これはまさに、「からだ」というデザインの第一歩だ。

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生命って

2018年04月05日 09時47分03秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
水中を漂うあぶくになった「彼」なわけだけど、その場から主体的に移動しよう、なんて野心はまだない。
なぜなら彼は、「広さ」という概念を持ってないんだから。
ちょうど、人類が天動説を信じきってたように、自分の周囲がこんなにも広がってるなんて、思いもしないわけだ。
周囲の抵抗物(水)がゆらゆらとうごめく中で、視覚を持たない彼は、自分がただそこに「在る」としか感じることができない。
しかし、自分が移動「させられて」いることは感知しようがなくても、自分の周囲の環境全体が動いていることは理解できそうだ。
ということは、彼が方向という感覚を持つことはあり得る。
彼が身を置く水とは流体であり、外界からの抵抗と刺激は、いつも球体の全面均一にはやってきてはくれない。
取り込むべき要素が接触してくれる箇所にも、偏りがある。
つまり、水が流れてくる方向から、常に欲しいものはやってくる。
その位置に、外界との出入り口を集中させることは可能だ。
彼は、効率という概念を獲得する。
こうして新陳代謝を重ね、彼は体内の平衡を保つわけだが、この作業がこなれてくると、やがて当たり前のアイデアがひらめく。
すなわち、このやり方で、自分の中に自分をつくれるぞ!というわけだ。
この様式を取り入れれば、自分の体内においてもまた同様の小さな化学反応実験室をつくれる理屈だ。
つまり、あぶくの体内に、入れ子構造のようにして相似形のあぶくをつくり、そこでもまた要素の出し入れをすれば、より濃密な小部屋ができる。
こうして、今もって有機物のあぶくであるにすぎない彼は、知性を持つことなしに、構造を複雑化させ、機能の効率をアップさせていく。
あるいはこのとき彼は、周囲から勝手にやってくるエネルギーを取り込むよりも効率的な、自家栽培エネルギーを獲得してしまったかもしれない。

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備忘

2018年04月03日 19時43分53秒 | サイエンス・ガクジュツ的な
生命が水中から発生したことには疑いがない。
となると、最原初のその構造は、独自の系を外界から隔てるべく、油膜のような結界を張りめぐらせた、有機物のスープだったわけだ。
そしてその形は、表面張力と、周囲からの圧力による、完全な球体だったことは間違いない。
さて、未だ意志を持たない彼の最初の仕事は、浸透圧による透過現象と、化学反応ということになる。
油膜を間に置いて、外界から系の内側へと必要な要素を取り込み、腹の奥で化学反応を起こし、必要のない要素を排出する。
ここまでは、特別な神様からのいただきもの(知性)がなくてもできそうだ。
その一連の反応を「活動」と書き換えると、次のような表現になる。
「彼」は、油膜の内側にもともとあった有機物と外界からすくい取ったものとを突き合わせてなんらかの実験を行い、作用の報酬に得たなんらかのエネルギーを元手にさらなる実験を可能にする熱量にフィードバックさせ、それにともなって発生した汚物を外に追い出しつつ、入れ替えにまた必要な要素を取り込み、その繰り返しによって、常に内部を等質に保つ。
動的平衡だ。
そしてその連鎖は、まさに「生きる」という活動そのものでもある。
この生命の卵ともいうべき無意識の循環現象の円を閉じ込むあぶくは、自分と同様の構造のものを再び生み出そう・・・すなわち、子孫を残そう、などという着想はまだ持ち得ていない。
つまり彼は、自身の個体を永遠に永らえさせよう、という突拍子もない願望を抱いている。
これが、この世で最初に生じた意志といっていいんじゃなかろうか?

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