内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

カウンセリングについて

2019-10-25 22:49:48 | ビジネス境界線
カウンセリングという言葉が
まず嫌だ


カウンセラーも
カウンセリングも

支援とか援助とか
主体が間違っている

お前が主張してどうする
お前のビジネスはどうなっている



来談者中心療法

という言葉は
とてもしっくりくるとともに
同時に違和感を伴う


この業界はどうなっているんだ?
そんな事を主張しなければいけないほど
相談という行為に
当たり前のように優位をつけてしまう
土台の環境を感じる



教えてもらうのです
あくまでカウンセラーは
自分以外の人間が
どんな環境で
どんな時に
どんな事を大事にして
どんな事を感じ
どんな事を思うのか
そしてどんな感情にとらわれ
身動きがとれななるのか



人間の仕組みを教えていただく

建前はビジネスでも

本音は逆転している

当たり前のようにお客様



建前はお客様なのに

本音はビジネス

これでは成り立ちません





もう一つ




「言葉を使う」という既成概念

確かにカウンセラーは
言葉を巧みに使って導くことが必要

でもその理由は

相談者は「言葉が苦手」で
悩むところまで来ている状況を
忘れてはならない


言葉が巧みな人は
自分で解決できるのだ


なぜなら今の自分自身を
的確に自分に対して
表現してあげる事が
頭の中で行えるからだ


私は言葉がとても苦手で
障害と感じるレベルでもある


だから追い詰められると
ギターを弾く

自分自身を表現できるものは
言葉よりも3歳から一緒の
音楽の方がしっくりくるからだ


でもそれは相手には伝えられない



だから自分の中で堂々巡りを
してしまう


自分自身を表現できないと
体に異変が現れる


自己概念が崩れるからだ


自己概念と
身体症状には
とても深い関わりがある


自分が分裂してしまうのである

自分の肉体が
自分の自己概念から
離れてしまうのである


自己一致という言葉に
私は本当に救われた


これは自分を守る最後の砦だと
考えた方がいい



ここで

「自己一致」が相談者の目的だと
したら

使う道具は「言葉」だけで本当に
よいのか



私はとても感心したことがあって

私が通ったところでは

紙に書いて説明してくれるところだった

相談側も
受け止める側も

焦点が第三者になるという
心理的負担を考えた上での
事だとも思うが

私にとっては

言葉よりも
紙に書いてくれる図や記号の方が
言葉よりもずっと意志疎通に
適していたという点だ


その時話すことが出来なかった自分も
絵や図でなら相談できたんではないか


そんな気づきを与えてもらった





話を戻すと

カウンセリングと言われている行為は

相談者が全ての決定権をもって
自身が自己一致するために行う行為
である

そしてそのための手段は
法やビジネスのルールに触れない限り
自由である


悩んでいる人に
話せというのは酷である



こういう時こそ
自分が持っている
マイノリティな自己表現方法が
その人にとって安心して
活用できるものであること


言葉なんて使う必要はない

特に相談者は
自分を表現したいものを
自由に表現するために
そこにくるべきなのである



そんな行動について今は言葉がない


とても悲しい事である







一人の自分が出来ること

2019-10-25 21:46:19 | ビジネス境界線
組織の自分が出来ること

私の人生は
ずっとこれを頑張ってきました

嫌いじゃない
やっぱりみんなと力を合わせては
とても好きです


でもずっと置き去りになっていた
もう一つの自分

一つの生命としての自分が出来ること


随分年をくいましたが
ここにようやく
自分が自分を求めてきた気がします


そんな自分に気づき始めたきっかけは
野宿でした



昔から一人ですることに関しては
何でそんな事我慢できるの?

ということを私は全然
平気で出来るのです


普通の人はお金なくても
宿を借ります

私はどうしてと思いました
とても料金が高いと感じるからでした

だから私は野宿を平気で出来ました

いいおじさんが町中のベンチで
寝れもしないのに
宿に金払いたくないという理由で
夜をあかそうとしたのです


何でこんな選択をするのかといったら
野外で夜を明かすことが
本当にきつい事を
体で知らないからです


何度かやってみて
生命の自分が本当に危機を感じるくらい
きつい事であることがわかりました

家が何のために存在しているのか
おじさんになってやっとわかりました



野宿はほんの一例で
私は頭で知っただけだと
理解が出来ないタイプのようです

体で知る事で少しづつ
自分の生命の境界がどこにあるのかを
手探りすることが出来るのです


自分の生命の境界を知ると
今までの判断基準は
少しづつ変わってきます

経営者の立場に汚染され
サービス残業
(という概念さえ不潔と思っていた)
をして組織に尽くすこと
は自分の誇れる美学でしたが

もう今の自分は全く違います

自分の命が会社から脅かされる経験をし
「私の生命を脅かそうとするもの」
は全て敵とみなす判断が
自動的に出来るようになりました



自分が飲める酒の量の限界を知る


自分の命についても
これと同じことが言えるのだと
わかり始めてきました

自分の命の限界を超える経験が
自分の命を大事にする境界を
作ってくれるのだと思います


自分の命の境界線がはっきりし始めると
不思議と自分の原始的な
やりたいことがみえてきます


そして何より大事なのは
その一つの生命としての自分の役割が
何かで果たされると
一つの生命はとても喜ぶという事です


いい悪いの問題ではなく
安心する
落ち着く
安堵する
というのは
この役割を果たしてあげるときに
うまれるんだと思います



目的が

幸せに安心して行きたい

みたいなことであれば

一人の自分の命を中心に
行動規準を整えてあげれば
よいわけです


でもでも

それが全て良いわけでもないと
私は思います

いつだって片方だけなのです


命が喜んでも

それが主体でなければ

その反対も存在するのです