カウンセリングという言葉が
まず嫌だ
カウンセラーも
カウンセリングも
支援とか援助とか
主体が間違っている
お前が主張してどうする
お前のビジネスはどうなっている
来談者中心療法
という言葉は
とてもしっくりくるとともに
同時に違和感を伴う
この業界はどうなっているんだ?
そんな事を主張しなければいけないほど
相談という行為に
当たり前のように優位をつけてしまう
土台の環境を感じる
教えてもらうのです
あくまでカウンセラーは
自分以外の人間が
どんな環境で
どんな時に
どんな事を大事にして
どんな事を感じ
どんな事を思うのか
そしてどんな感情にとらわれ
身動きがとれななるのか
人間の仕組みを教えていただく
建前はビジネスでも
本音は逆転している
当たり前のようにお客様
建前はお客様なのに
本音はビジネス
これでは成り立ちません
もう一つ
「言葉を使う」という既成概念
確かにカウンセラーは
言葉を巧みに使って導くことが必要
でもその理由は
相談者は「言葉が苦手」で
悩むところまで来ている状況を
忘れてはならない
言葉が巧みな人は
自分で解決できるのだ
なぜなら今の自分自身を
的確に自分に対して
表現してあげる事が
頭の中で行えるからだ
私は言葉がとても苦手で
障害と感じるレベルでもある
だから追い詰められると
ギターを弾く
自分自身を表現できるものは
言葉よりも3歳から一緒の
音楽の方がしっくりくるからだ
でもそれは相手には伝えられない
だから自分の中で堂々巡りを
してしまう
自分自身を表現できないと
体に異変が現れる
自己概念が崩れるからだ
自己概念と
身体症状には
とても深い関わりがある
自分が分裂してしまうのである
自分の肉体が
自分の自己概念から
離れてしまうのである
自己一致という言葉に
私は本当に救われた
これは自分を守る最後の砦だと
考えた方がいい
ここで
「自己一致」が相談者の目的だと
したら
使う道具は「言葉」だけで本当に
よいのか
私はとても感心したことがあって
私が通ったところでは
紙に書いて説明してくれるところだった
相談側も
受け止める側も
焦点が第三者になるという
心理的負担を考えた上での
事だとも思うが
私にとっては
言葉よりも
紙に書いてくれる図や記号の方が
言葉よりもずっと意志疎通に
適していたという点だ
その時話すことが出来なかった自分も
絵や図でなら相談できたんではないか
そんな気づきを与えてもらった
話を戻すと
カウンセリングと言われている行為は
相談者が全ての決定権をもって
自身が自己一致するために行う行為
である
そしてそのための手段は
法やビジネスのルールに触れない限り
自由である
悩んでいる人に
話せというのは酷である
こういう時こそ
自分が持っている
マイノリティな自己表現方法が
その人にとって安心して
活用できるものであること
言葉なんて使う必要はない
特に相談者は
自分を表現したいものを
自由に表現するために
そこにくるべきなのである
そんな行動について今は言葉がない
とても悲しい事である