平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




千本丸太町バス停のすぐ西の内野児童公園内に「大極殿遺址」の碑が建っています。

バス停近くに建つ「大極殿遺址道」と刻んだ道標。

碑の裏面には「明治二十八年三月京都市参事会建之」と刻まれています。

この路地を西に進むと内野児童公園です。

小さな公園です

公園内の壇上には、平安京大内裏大極殿の跡を実測によって定め、
その中心地に建てられた高さ3㍍の大極殿遺址の碑があり、

傍に副碑が据えられ建碑の由来が記されています。

副碑は部分的に剥離し読み取れません。
『京の石碑ものがたり』より、この碑の大意を転写しました。
「大極殿遺址碑記
延暦十三年(794)、桓武天皇がこの地を選び、新しい都を建て平安京と呼んだ。
いまの京都のことである。それから千百年、現在に至るまで神州日本の古都であり、
世界に誇る都である。京都市民は桓武天皇の徳と功績を慕い、神社を創建し祭典を行い、
千百年記念の行事を行った。聞くところでは特に桓武天皇の霊を新しい神社に安置し、
官幣大社に列し、平安神宮と名付け、橿原神宮に準ずるという詔勅が出された。
これで京都は永遠に天皇の廟地となり、
周りをとりまく山河も光輝を益すことであろう。このことは実に国家の盛典であり、
京都の光栄である。そもそも大極殿は桓武天皇が特に思いを込めた場所であり、
荘厳な建物は国家の中心である。歴代の天皇が即位し、国民等しく
仰ぎ見る建物でもあった。しかし今では痕跡すら残っていない。
識者はこれを遺憾なことに思っていた。そこで史料を検討し、
実測を加え、その遺跡を確定し、石碑を建てて明らかにすることにした。
また紫宸殿等の遺跡と大内裏に四周を記し、後世に残すものである。
この碑を見れば、平安京の概略はつかめると思う。」
裏面には「明治二十八年十月廿二日」京都市参事会と刻まれています。


平安京の大内裏の位置は、現在の京都御所より西へ約2k近く離れた所にあり、
千本通を中心として東西1・1k(御前通から大宮通)、
南北1・5k(二条通から一条通)の広さをもち、
その中には内裏をはじめとして
朝堂院・豊楽(ぶらく)院以下、
二官八省の役所が建ち並んでいました。

皇居である内裏の位置は、現在の千本丸太町の東北、政務が執行される
最も重要な場である大極殿は千本丸太町辺にあたります。

大極殿は安元三年(1177)大火によって焼けてしまい、
以後国家的儀式は紫宸殿で行われるようになりました。
長い年月の間に大内裏は火災や台風・地震によって荒廃し、
平安時代中頃から有力貴族の邸宅を仮御所に利用することが多くなります。

これを里内裏と呼び次第に元の内裏は使用されなくなり、
里内裏が日常の皇居とされるようになります。
内裏跡は、中世になると内野とよばれる荒野になってしまいました。
今の平安神宮の拝殿は、大極殿を模造したものですが、
規模は当時の三分の二にすぎないといわれます。

内野公園内の平安宮朝堂院大極殿跡説明板




◆京都御所

現在の京都御所は、元は藤原邦綱の土御門東洞院殿のあったところで

北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿で即位されて以来、明治二年までの
500年間皇居として用いられました。当時の皇居の規模は小さいものでしたが、
信長、秀吉、家康によって整備拡張され、現在の建物は安政二年(1855)に
再建されたものです。京都御所は平安京内裏そのままではありませんが、
平安時代の宮廷生活や儀式、古典文学の世界を偲ぶことができます。

京都御所略図は宮内庁のhpよりお借りしました。

◆お車寄 昇殿を許された者が参内する時の玄関です。

◆回廊東面にある日華門と西面にある月華門

◆回廊南面中央の承明門と紫宸殿

◆紫宸殿 即位礼、節会などの儀式が行われた皇居の正殿。
 扁額のかかっている真下を「額の間」といいます。

◆清涼殿・御常御殿 平安京内裏では、当初天皇の日常のお住まいとして、
 紫宸殿の背後に仁寿殿があったが、宇多天皇の頃から
 清涼殿が日常の御殿になったといわれます。
 時代がさらに下がると御常御殿が別に構えられ清涼殿も儀式用の御殿となります。

清涼殿の背面にたつ御常御殿

◆滝口 清涼殿の東庭にあり御溝水(みかわみず)の落ち口の所に、
 滝口の陣(詰所)があり天皇を警固しました。
 横笛の悲恋で知られる滝口入道も元は斉藤時頼という滝口の武士でした。

◆小御所 主に皇太子の元服や立太子礼に用いられました。

◆御涼所(おすずみしょ)夏を涼しく過ごすために風通しがよいように工夫されています。

◆飛香舎(ひぎょうしゃ)
藤壺皇后陛下の正殿、晴の式はここで行われました。
 飛香舎の南庭に藤棚があるので藤壺ともいいます。

沓脱(くつぬぎ)の部分  飛香舎の南簀子と南廂が見えます。
◆御池庭(おいけにわ)

◆ 御内庭(ごないてい)

◆皇后宮常御殿
16世紀末頃から皇后の日常のお住まいとして使用された御殿です。

◆御所車(牛車)

◆大極殿 平安神宮は平安宮朝堂院を模して建てられ、大内裏朝堂院の
正門 応天門を模して平安神宮応天門、大内裏朝堂院の正殿である
 大極殿を少し縮小して復元したものが平安神宮大極殿です。
『アクセス』
「大極殿遺趾碑」 京都市上京区千本通丸太町上ル西入(内野児童公園内)
市バス「千本丸太町」停下車すぐ
「京都御所」地下鉄丸太町駅又は地下鉄今出川駅下車
  拝観は毎年春、秋の一般拝観日
『参考資料』
井上満郎「平安京再現」河出書房新社 京都造形芸術大学編「京都学への招待」角川書店
井上満郎「平安京の風景」文英堂 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社 「御所・離宮」(財)菊葉文化協会

 

 
 

 



コメント ( 5 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
つい今の御所を昔からあったように思いますが… (yukariko)
2009-08-09 14:36:51
何度も何度も大火や戦乱で焼け野原になっているのですからそんなはずはないですね。

書いて下さった地図からすると平安期の内裏はだいぶ西で、有力貴族の屋敷を里内裏として使ううちに全体に東遷して今の内裏の場所になった訳ですね。

それで源融の邸宅跡と言われる枳穀邸や安倍晴明の屋敷が御所から離れているように感じたのですね。

高槻から京都へR171を北に、西大路通りを丸太町で右折して御所まで行く時に千本通りを横切ります。
この通りが結構広いしずっと北から南まで通っているのを不思議に思っていましたが、これがいにしえの平安京の中心の朱雀大路。今度通ったら見に行きます。

朱雀大路の正面に大極殿が建っていた筈だから、今そこに大極殿跡遺碑があって当たり前(笑)
それがいつのまにか、大路の西側がさびれて東側に新しく東三条院など院の御所や貴族の館が増え、その近くに源義朝の屋敷、平氏の本拠地六波羅などが広がったという事ですね。

でも東側の鴨川も度々洪水を起こしたと思うのですが…。
先日五条の若宮八幡~六波羅蜜寺~六道珍皇寺一帯を歩いてきました。その後三条から文化博物館へ。

バイクでは無理なので歩きと電車乗継ぎで、実に広い地域で暑さでうんざりしました(笑)

五条河原の東側はかなり高台だから京都の街を見下ろせるし、京の出入口を抑えられて、平氏、後の頼朝にとって軍事的にいい場所だったのですね。
 
 
 
今の御所拝観(昔はもっと壮大に感じたでしょうね) (yukariko)
2009-08-10 10:10:03
05.04に友人達と近衛邸のしだれ桜を見るついでに御所内を拝観しました。
ずっと若い頃に来ただけで記憶もおぼろでしたから、興味を持ってあちこち眺めました。
古い物語類を読むと御所内の場所や名前が一杯出てきますから。
あの時歩いた道順も詳しい間取りと名前を載せて下さっているのでよく分かります。

一枚づつ見て思い出していましたが、平安後期はもっと広々していたのでしょうね。
その上、今と違って鎌倉・室町の絵巻物で見る町やお寺の風景でも大きい建物は貴族の屋敷か仏閣ぐらいですものね。
 
 
 
鳥辺野への道 (sakura)
2009-08-10 15:38:53
五条の若宮八幡~六波羅蜜寺~六道珍皇寺一帯を歩かれたそうですが、
暑い中歩くのは疲れますね。
六波羅の東南に山科に通じる渋谷越が山科で東山道に合流し東国への重要街道です。
東国・北国への出入りにも目を光らすことができるので、
頼朝もこの地がいかに重要かよく分かっていたのだと思います
鴨川の東山側は少し高い所にあることを気づかれたようですが、
鴨川が氾濫すると水は西側に流れこむことが多かったのかも知れませんね。
洪水の被害を一番多く受けたのが高野川と鴨川の合流点だったそうです。

平安京の大内裏は平安京の正門の羅城門から真っすぐに続く
北の突き当たりにあり、この中には内裏(皇居・天皇の住居)や役所群が立ち並びまるで官庁街のようだったといいます。
むろん安倍晴明が勤めていた陰陽寮もこの一角にありました。
平安時代の中頃になると天皇家は内裏を再建するだけの経済力がなく、
貴族の邸宅を内裏に転用することが多くなり、現在の二条城近くにあった
藤原氏の東三条第も一条、三条、後朱雀、二条天皇の里内裏として用いられました。
鳥羽院の頃関白忠通が内裏再建計画を立てますが、
院は力及ばぬこととして着手されませんでした。
信西は寺社仏閣・権門家の所領からさらに公卿、源平にも分担を命じて
二年がかりで内裏を再建させています。
その間信西がはじく算盤の音が一晩中聞こえていたそうです。
「負けたように見せかけ大内裏を退き火災のないようにせよ」と
公卿詮議による結果勅命が下された。平治物語に
書かれている背景にはこのような事情があったのです。

内裏の様子は京都御所で、大内裏朝堂院正門の応天門を平安神宮の応天門で、
朝堂院の正殿・大極殿を少し縮小して復元したものを、
平安神宮の大極殿で見ることができます。
内裏の広さですが、京都御所築地内11万平方メートルに
平安京の内裏が凝縮されているとあり、内裏図を比べてみても
平安京の内裏内の御殿数は京都御所の数倍あるようです。

YukarikoさんがUPしてくださった碑炉安さんのタグ使わせていただきました。
文字も思った以上に書き込むことができました、ありがとうございました。



 
 
 
毎回、御苦労さん (hiroann)
2009-08-12 15:54:39
いつも、長い記事をアップされ大変だと思います。記事以外に資料をそろえる手間を考えるとゾーットします。
まだまだ続きそうですね、平安時代から平成年代までどのくらい続きますか?私が生きている間に完結を期待ますが、まず、ダメですね
 
 
 
まだ頑張って頂かないと! (sakura)
2009-08-16 10:47:26
碑炉安さんが考案されたタグを毎回のようにお借りしています。
これからも同好会会員のために、いろいろなタグを考えて下さいね。

あまり気弱なことを仰らないで最期までお付き合い下さい。
お盆の行事で家を留守にしていて
お返事が遅れてしまい申し訳ございませんでした。

 
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