いつもながら、気になったところだけ抜き書き。
天武天皇8年(679年)
12月、和歌山県の伊刀郡が芝草(霊芝)を献上。
芝草はマンネンタケ科のきのこのことらしい。
茎は30㎝ 傘の部分はふた抱えもあったという超立派なもの。
「霊芝」は延命の霊薬。天武天皇は刻んで煎じて飲まれたのだろうか?
天武天皇9年(680年)
1月8日、忌部首首(いんべのおびとこびと)に「連」の「姓」をお授けになった。
天武朝において、「賜姓」は初見だとか。
ところで、「忌部首首」って、どこまでが名前なの?
忌部は「氏」で、首首が「名」とのこと。(ネット)
「連」とは高位の称号らしい。
忌部氏は朝廷の神事を司る氏族。
「連」姓の後に「宿禰」の称号も授かっている。
1月20日、摂津国活田村(現、神戸市生田区)で桃李の実がなった、との記録。
旧暦の1月での事とはいえ、桃李の実ができるとは・・
1月26日、ある人が言うには「葛城山で鹿の角を手に入れました。その角は、基部が2股で、先が1つになり、そこに肉がついて、3㎝ほどの毛が生えている。珍しいので献上します」中国の霊獣の角なのか。と。
3月には摂津の国から白巫鳥(しろしとと)が献上された。
「白巫鳥」とは、ホオジロ類の古称で、珍しい白色。
変わったもの、珍しいものが数々献上される。見てみたいなあ。
4月11日、橘寺の尼房に失火(みずながれ)して、十房を焚(や)く。
火事なのに「みずながれ」?
火事を忌んで、反対に言った語だそうだ。
アシ(悪し)を嫌ってヨシ(良し)と言ったのと同じだろうか?
日本書記で、橘寺の記述があるのはここだけだそうだ。
飛鳥時代に創建された規模も大きい寺だというのに不思議だ。
万葉集には「 橘の寺の長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し 童女放髪(うなゐはなり)は、髪(かみ)上げつらむか」の歌が残る。作者不詳 (今なら大問題)
4月に詔された。
「全国の国の大寺の2・3以外は朝廷の管理をやめる
ただし、朝廷より封禄を所有しているものは30年だけ所有を許す。
飛鳥寺も管理から外すのが普通であるが、古い大寺で、かつて功績もあったので、今後も朝廷の管理の中に加える。
7月1日飛鳥寺西の槻木(ケヤキ)の枝が自然に折れて落ちた。
7月には広瀬、竜田の神を祀り、雨乞い。
7月25日、病を得た「納言兼宮内卿五位舎人王」に見舞いを遣わしたが、翌日に亡くなった。
殯に臨み、天皇は声をあげて泣かれ、そばの役人達も共に泣いた。
「舎人王」については他に記録がないそうだが、きっと天皇のそばで仕えていた人なのだろうか・・
日本書記講座は今日はここで終わり。
大和名所図会に描かれた「久米寺」や「鬼の雪隠・鬼の俎」のお話も聞いた。