みどりの野原

野原の便り

2月25日 日本書紀ウォーク 野見宿禰塚跡 泊瀬朝倉の宮伝承地 泊瀬列城宮伝承地 万葉集発祥の地など 

2020年02月25日 | Weblog

先ず訪れたのは、野見宿禰の塚跡
日本書紀によると、野見宿禰は力自慢の當麻蹶速の対戦相手にと出雲から呼び寄せられ、垂仁天皇の前で、力比べをした。(野見宿禰が勝ち、負けた當麻蹶速は亡くなった)
これが我が国の相撲の発祥と言われる。


田んぼの中に建つ石碑は平成12年の建立された野見宿禰顕彰碑。 
昔、野見宿禰の大きい塚があった跡だという。

江戸時代にはこの塚に相撲取りがお参りに来るようになり、力士を見るために集まる見物人が畑を荒らすようになり、塚の上にあった五輪塔は十二社神社に移され、その内、塚も取り壊されたという。

野見宿禰は「島根県出雲」の国から呼び寄せられたというが、この近くにも「出雲村」といわれる所あり。
野見宿禰はこの辺の人だったか?
又、野見宿禰は「殉死をなくし埴輪を推奨した」ともいわれるが、それも史実ではないらしい。


十二柱神社
12柱の神が祀られている。
 
 
境内に立つ大きい「五輪塔」は元、野見宿禰塚にあったというもの。
  右)狛犬の台は4体の力士像が支えている。踏ん張っている姿がかわいい。

「武烈天皇の泊瀬列城宮伝承地」の看板もある。
今日は行かなかったが、後ろの山の中腹に宮跡の標柱が立っているそうだ。

武烈天皇には数々の悪行が知られるが、古事記には一切書かれていないとのこと。
日本書紀には思惑があるようである。

白山神社

 
「万葉集発燿讃仰碑」が立ち、万葉集 巻頭(巻1-1)雄略天皇の長歌の歌碑「͡籠もよみ籠もち・・があった。

また、「雄略天皇 泊瀬朝倉の宮]の場所について、野見宿禰塚跡から登った山の中腹に説明板もあるという「十二神社あたり」と共に、「白山神社のあたり」を朝倉の宮の候補地とする人もいるようだ。

近くの朝倉小学校や春日神社付近は、雄略天皇の泊瀬朝倉の宮 欽明天皇の泊瀬柴籬の宮、天武天皇の初瀬斎宮などに関連する遺物も出ているという。

 
穏やかな日で、民家の庭にはオウバイの黄色が輝いていた。 空き地にツクシも出ていた。

長谷寺駅から朝倉駅の短いコースだったが、いくつもの宮跡の伝承地があり、相撲の発祥地・万葉集の発祥地など、かつて繁栄していた場所らしいことがわかった。

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2月24日 下呂温泉 飛騨高山② 飛騨高山 日下部民芸館(日下部家住宅) 吉島家住宅 

2020年02月24日 | Weblog

下呂温泉 湯之島館の朝 


窓の外を見たら朝もやで幻想的。

大浴場で朝風呂
ここもいいわー。見晴らしも抜群。写真が撮れないのが残念。

送迎バスで下呂駅へ。

   
下呂駅前 白鷺が見つけた下呂の温泉 温泉が引かれていた。
昨日人だかりがしていたのはこれだったのか。

今日は下呂を離れ特急バスで飛騨高山へ。
飛騨高山
「飛騨の小京都」といわれ、江戸時代以来の城下町や商家の街並みが残る。


宮川を渡り、高山の町へ。

 
観光地らしい町並みとにぎわい。多分普通はもっと賑わっているんだろうな。

 
古い町並み美術館」に入ってみた。 昔のものいろいろ展示。 

今日の目的は日下部民芸館と吉島家住宅

先ずは「日下部民芸館」(日下部家住宅 重要文化財)

 
     日下部民芸館         暖簾の紋は「丸に蔦」
日下部家は江戸時代、幕府の御用商人として栄えた商家 屋号を谷屋といった。
当時の邸宅は明治8年の大火で焼失し、4年後の明治12年(1879)に再建
正面の出格子など木部はベンガラに煤を混ぜて落ち着いた色調に仕上げてあるのも江戸時代の高山の町屋造りの特色だとか。
大きい屋根は腕木を出した「せがい造り」で支えられている。

明治建築の民家として初めて国の重要文化財に指定され、以後民芸館として一般公開している。

土間ではピアノの調律中。ミニコンサートでも開かれるのか。

 
 
太い梁(アカマツの巨木)   火の用心の札と、拍子木や掃除用具など。


 
長押の釘隠し これも蔦のデザインかな。陶器のよう。 
                 右)太鼓? どんな時に使われたのか?

 
    手作りガラス          庭の隅にタイル発見(娘)

 
昔の階段は狭くて急 手すり変わりに結んだ縄が付けられていた。
2階には箪笥・火鉢・生活用品や工芸品・・たくさんの展示があった。
日下部家に嫁いでこられた女性の衣装や花嫁道具なども展示。
  右)小さな壺 何かなと思ったら、びんつけ油の油壷だという。小さくてかわいい。

 
    綿帽子や笄      百人一首や双六 こんなものも持ってこられたのね。
2階・蔵、お宝がたくさん展示されていた。

吉島家住宅(よしじまけじゅうたく)
江戸時代より代々酒造業を営む豪商 
住宅は火災の後、明治40年に再建されたもの。重要文化財

 
現在の建物は火災後、明治40年に再建されたもの。三輪神社の杉玉がかけられている。
   右)暖簾は、幕府に多額の運用金を献上したことで賜ったという「二つ引き両紋」

 
吹き抜け見える太い梁 経済力と飛騨の技術が合わさった立派な建物だ。

 
      庭            長押にツバメの透かしが入っていた。

 
  やっぱり見てしまう釘隠し。   右)拡大してみた(下記に説明)
もう1つうさぎ形の釘隠しもあった。


 (置いてあった写真集)の写真
上の*の他に、もう1種類の釘隠しがある。
この写真の左側の「真向兎」と言われるうさぎ形のもの。
ネットで見ると、このうさぎ形の釘隠しばかりが出てくるが・・・

写真集の説明によると、台所の「 うさぎ形釘隠し」 について、『S42年に市営高山市特産館となってから、公に観光客が訪れるようになり、幾度かにわたり、数個の釘隠しが心無い観光客に持ち去られた。 市が修復中の「陣屋の釘隠し」を暫定的にはめ込んだものと思われる』と書いてあった。
座敷周りの長押の釘隠し(右側のもの 上の私の写真も)については「吉」の字を崩したデザインと思われる』との記述があった。
写真集をゆっくり見る時間はなかったが、写真を撮っておいたのが役に立った。

釘隠しを盗っていく人がいるなんてひどい。

 
   2階へ上がってきた。       次の間は1段高くなってるなあ。
・・と思ったら・・・その奥、左に箱型の踏み台が見えている・・


さらに高い部屋があった。
「上段の間」と言ってお殿様などのための1段高い部屋はあるが、こんな段々になっている部屋ははじめて見た。

お昼は創業明治31年という蕎麦屋でとろろ入りなめこそばを食べる。

 
 高山祭のポスター 春の三王祭は4月14日から15日
 町角には「五台山祭屋台」「神馬台」とか 右)「鳩峯車保存区域」とか「恵比寿台組街並み保存地区」などの看板や説明板が立つ。
有名な祭りなのでさぞ賑わうことだろう。

飛騨高山町の体験交流館」を覗く。
「カエル」を教えてもらうことにした。娘たちは町歩き。

 
材料はヒノキとイチイ 色の薄いのと濃いのと。どっちがどっちだったか?
とにかく、木を玉切りにして、それを「かつら剥き」にして薄板を作り、6ミリ幅に裁断するという。へえ~!木のかつら剥き。初めて聞いた。

乾くと折れやすいので時々水に浸しながら、ボランティアさんに教えてもらいながら編んでゆく・・ちょっと不格好なカエルではあるが・・完成。


これはやはりヒノキやイチイで作る「宮笠」というもの。
飛騨1之宮の伝統工芸品だそうだ。
頂部に飾りのあるものは「セミ笠」という。
何でセミ笠って言うのかと思ったら、3匹のセミをかたどった飾りだから。
よく見るとセミに見える。

自然クラフトの店を覗いたりしてJR高山駅へ。


駅に飾ってあった。祭屋台(3輪) 雰囲気はわかった。

いよいよ帰路。1泊2日の旅だったが、娘たちとのよい思い出になった。

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2月23日 下呂温泉 飛騨高山① 下呂温泉 湯之島館 探検

2020年02月23日 | Weblog

下呂温泉の旅に誘われ、母娘3人旅となった。

 
下呂駅に降り立つ。暖かい車内から外へ。 パラパラと霰の歓迎。やっぱり寒い。

霰も一瞬のことで、町歩きに出発。

 
  飛騨川(益田川)を渡り温泉街へ。  下呂大橋のガス灯   


山の中腹に今夜の宿「湯之島館」が見えた。

 
   下呂温泉神社 小さい社      湧き出ているのは温泉     

 
     鷺の足湯       温泉街といっても人はまばら。この時期だから?

 
人だかりがしているのは「飛騨牛肉寿司」を出しているお店。これが名物なのか?
 右)ぐるっと町をひと回りしてお昼時間をずらして、お食事処で飛騨牛まぶし丼を食べた。

下呂温泉
「日本三名泉」の1つとのこと。
「3大・・」よく言われるが誰が言ったのかわからないことも多い。
下呂温泉(当時は湯島と表記)を有馬温泉・草津温泉とともに「日本三名泉」)と言ったのは林羅山とのこと。
室町時代に言われたものを引用したとも。

もともと4km離れた湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近で温泉が湧出した。
鎌倉時代に一度涸れたが、現在の飛騨川の河原で再び発見された。
その場所を教えてくれたのが白鷺であるとの言い伝えがある。

下呂の音「ゲロ」からか「カエル」がシンボルマークになっていたりする。

湯薬師霊山 温泉寺へ。

 
昔洪水で犠牲になった老婆と幼子の冥福を祈って村人が祀ったと言われる「地蔵堂」の横から階段を登る。

 
階段を登りながら、所々赤っぽい石があるのが気になった。左の写真はちょっとわかりにくいかな?
  右)左側の石がまだわかりやすいかな。層になっている赤っぽい石もあった。
何石かな?
帰ってから調べたところによると。「小川石」と言われるものではないか?

下呂温泉の東方に湯ヶ峰火山という小さい火山があり、溶岩ドームを形成していて、そのマグマがまだ冷えきっていないことで、下呂温泉の熱源になっている可能性が高いと考えられているそうである。
『溶岩のうち黒色で緻密なガラス質のものは「下呂石」、灰色や灰褐色のものは「小川石」とそれぞれ呼ばれているという。下呂石は刃物のように硬く鋭い割れ口をもつことから、縄文~弥生時代にかなり広範囲に石器の材料として流布した。小川石は板状に割れるために庭石として利用されている』との記事があった。
板状に割れる灰褐色の石。これだ!と思ったがどうだろうか? 

  
 温泉寺本堂 本尊は薬師如来      湯かけ薬師 掛けるのは温泉。

 
 旧飛騨屋邸地蔵堂 檜皮葺     植えられたフクジュソウが満開だった。

温泉寺から上に続く道を登る。モミジやシャクナゲがたくさん植栽されている。

 
「飛騨地方の水屋」山の恵みの天然水を溜める「水船」は松の木を彫ったもの。年輪が見えた。
仕切りを作って半分は飲用に、半分は洗い物に使ったという。

     
上の道からは「飛騨の水屋」の屋根が見えた。
屋根はクリの木を割った「板ぐれ」を葺いたもので、風で飛ばないように石で押さえてあるのも特徴。

なお登っていくと、湯之島館が見えてきた。
さらに登って玄関に到着。

 
湯之島館 創業当時のままの玄関     木造3階建ての本館 

湯之島館
下呂富士といわれる中根山の中腹に建つ。敷地は5万坪
創業昭和6年 木造3階建ての本館は登録有形文化財に指定されている。
同時期に建てられた洋館もある。

 
本館2階の「蕨の間」に通される。

さっそく館内を探検。
普通なら、ちょっとあちこち見せてもらってもいいですか?と尋ねてから行くところ、ここは「スタンプラリーカード」が準備されているので、堂々と巡れる。

 
    館内マップ             館内案内図
複雑! マップがあってもどこがどう続いているのか・・探検気分は盛り上がる。

 
 窓から見える入り組んだ屋根     赤いベンガラ壁 あれはどこ?

 
ドアの上にも控えめなステンドグラス  山の足湯でゆったり。4階?

 
     タイル張りの曲線通路 きれいだったなあ。

 
  シャンデリアがきらめく   下はホール ピアノや舞台が見える。

 
     展望台      下呂温泉でも一番の高所に建つので見晴らし抜群
飛騨川や温泉街が一望

 
この左側に家族湯が4つ並ぶ。銀嶺泉 不老泉 七宝泉 玉之泉(調整中だった)
空いていたら中からロックしていつでも入れる。
          右)どの風呂だったかわからなくなったがこんな感じ。

夜には家族湯「不老泉」に入浴。アルカリ性単純温泉のなめらかな泉質 
湯之島館では家族湯 大浴場はもちろん、シャワーや洗面所もすべて源泉を使用しているとのこと。
このすべすべ感、しばらく保てないものか・・
不老泉に入ったので、今日で老化はストップだな!!

階の端の方には高級そうな部屋「特別室」がいくつかある。
茶室が付いていたり露天風呂が付いていたりするらしい。
もちろん見晴らしも抜群の場所。
昭和天皇・皇后や上皇陛下と美智子上皇后もご宿泊になったらしく、写真が展示されていた。

館内のどこも華美ではなく落ち着いた美しさがある。
紹介によると「部屋毎に棟梁たちのインスピレーションによる意匠、細部に至るまで技術にこだわって建てられた」とのこと。

なにより、山中に建ちながら山を生かして建てられているのが素晴らしい。
樹齢200年300年のスギやヒノキと共存している。
窓にくっつくように木が立っていることもある。工事はしにくかっただろうな。

 
手作りガラスも各所で見られた。ゆらゆらと揺らめく窓の外の景色はうれしい。
ステンドグラスもあちこちに。控えめな色合いなのがいい。
窓は全面ガラス張り。台風の時など大丈夫なのかとちょっと心配。

娘のおすすめの宿、2回目らしいが、素晴らしい建物でした。

夕食はお部屋で。


特性焼き寿司 飛騨牛変わり焼き 他・・ 全部は写せません。
ごちそうさまでした。

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2月21日 冬芽観察 シロバナタンポポ ノスリ ハクビシン 

2020年02月21日 | Weblog

観察会本番。ありがたいことに、晴天で汗ばむ陽気の1日となった。
新型コロナウィルスの騒動で、行事の中止も相次いている。
担当で早めに集合地に来たが、参加者が集まるかどうか・・
幸いにも一般参加者3人を含み、元気な皆さんが集まってくださった。
 
先日集めた冬芽を見ていただき、先日撮った写真で作成した9種類の冬芽の資料を配布した。

車道を外れると静かな野道山道。

寒かった半月前とはだいぶ違い、すっかり春の野原だ。
オオイヌノフグリも満開 オランダミミナグサの花も全開だ。
カラスムギの穂が出ていてびっくりした(写真撮り忘れ)

 
   シロバナタンポポ         これもタンポポ?
 右)葉はタンポポに違いないと思うのに、このたくさんのつぼみ 何なのか?
経過観察が必要だ。
野道のタンポポはカンサイタンポポだ。

      
    タチバナ 果実    イセリアカイガラムシ 腹部には卵が詰まっていた。
イセリアカイガラムシは柑橘類の害虫で、柑橘栽培に甚大な被害をもたらしたが、オーストラリアから天敵のぺダリアテントウの導入で、被害が収まったというが、まだひそやかに活動している。 
他の樹種にも付き、下見ではユキヤナギにたくさんついていた。
このカイガラムシ成虫には脚があり移動できる。

 
  タラノキ 冬芽と葉痕           クサギ
コナラ・クヌギ・カキノキ・クサギ・アカメガシワ・クズ・ケヤキ・タラノキ・ヤマハゼ 
資料に準備した9種類の冬芽は全部見ることができた。

他に不明なものもあったが、葉が展開するとわかるでしょう。


御陵の森の梢に止まっていたのはノスリだという。
双眼鏡を忘れてきたのでカメラで挑戦。
遠~い木の上に止まっていたのをダメもとでズームで撮ったら、結構撮れていてうれしい。

下見で見落としたものも、多くの目で見つけてくださった。
虫・鳥 詳しい人がいるので観察会の幅が広がる。

「ハクビシンが死んでいたよ」
先頭近くにいた私は気が付かず見逃した。気になって修了後、数人で見に行く。


 ハクビシン 鼻筋の白い線 尾はこんなに長いのか。
初めて見るハクビシンに興味津々。飛鳥にこんなものもいるのね。

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2月20日 百舌鳥古墳群周辺 ミコアイサ雌ばかり

2020年02月20日 | Weblog

(画像処理がうまくいきません。今回は写真なしです。涙・・
 写真を取り込みなおして、日を置いて試しても、縮小して保存しようとすると消えてしまいます)

初めての上野芝駅で集合
ユネスコ世界文化遺産登録されている古市百舌鳥古墳群のいくつかの古墳をまわり、お堀の鳥などを観察した。

履中天皇陵はすぐ近くだった。

履中天皇陵
「百舌鳥耳原南陵」として宮内庁により第17代履中天皇の陵に治定されている。
実際の被葬者は不明だそうである。
「上石津ミサンザイ古墳」ともいわれる。ミサンザイとは陵(ミササギ)が転訛したものだという。
百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、全長365m。日本で3番目の大きさをもつ前方後円墳

何か所かお堀が見えるところで水鳥が来ていないか覗きながら正面の拝所へ回り込む。
大きくて御陵全体は見えない。ビュースポットもあった。

マガモ・カイツブリ・カルガモ シジュウカラ ミコアイサ♀


大仙公園
百舌鳥古墳群の一角にある都市公園。

堺市都市緑化センターに立ち寄る。

いたすけ古墳
5世紀中頃築成 全長約146mの前方後円墳
宅地造成の計画があったが、住民の保護運動によって破壊を免れたという。
その時の橋の名残があった。

ダイサギ・ミコアイサ♀・カルガモ・カイツブリ・ハクセキレイなど
ミコアイサはあちこち複数羽いるのに♀ばかり。♂は一羽も見かけなかった。なぜ?

いたすけ古墳の培塚といわれる善右ヱ門山古墳前を通り・・

百舌鳥・御廟山古墳
宮内庁により15代応神天皇陵 陵墓参考地とされているが、被葬者は明らかではない。
全長203mの前方後円墳

オオバン・カイツブリがいた。

市博物館の近くにある茶室「伸庵」で一服 立礼席でお茶をいただく。
建物は、元 東京芝にあったものを移築されたもの。
行かなかったが、隣にある黄梅庵と共に登録有形文化財に指定されている。

博物館のシアターに入った後、仁徳天皇陵へ。


仁徳天皇陵
百舌鳥古墳群を代表する古墳

お堀の周囲の松も剪定手入れされていた。

拝所前でボランティアさんが説明してくださった。
宮内庁により「百舌鳥耳原中陵」と治定されている日本最大の前方後円墳。
堀を含む最大長840m 百舌鳥駅から三国ケ丘の1駅分の長さを有する。
広さは甲子園の12倍あるという。
墳丘の高さは486m これは堀を掘った土で盛り土したものだそうだ。
堀は3重ある。一番外側の堀は幅15mもある。
今、海は遠いが、当時は海岸線が近く、海から古墳の威容を誇っていたことだろう。

享保年間の大仙陵絵図を見せてくださった。

明治の頃の墳丘は禿山で外堀もなく、堀の水は灌漑に利用され、墳丘にも立ち入れたそうだ。
墳丘の木々は明治中頃に植樹されたものだという。
被葬者ははっきりしないが、日本書紀などの文献に基づいて仁徳陵と定められた。

百舌鳥駅に着いた。

駅の桜が、もう咲いてる。3分咲き?
ネットでみるとここの桜は毎年早い時期に咲くという。
ソメイヨシノのように見えるが違うのかな?

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2月17日 冬を耐える

2020年02月17日 | Weblog

最初の目的とは違う場所を歩いた。


フェンスに巻き付いたツルは・・スイカズラ きれいに編んだものです。

越冬 その1

イタドリの枯れた茎があったので、笛にしようとハサミで切ったら・・
わらわらとアリが出てきた。茎の中で越冬していたのだ。

その2


桜の幹のくぼみに・・ヨコヅナサシガメの幼虫の団子
クシャクシャ見えるのは細い脚。
春、4・5月になると成虫になるらしい。

退治するなら今の内ってとこかな。

今日も寒い。
人間はコートやマフラーで、植物は毛や鱗に守られた芽で、虫は身を寄せ合って集団で・・
春が待たれますね。

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2月14日 飛鳥の城跡巡り 中世と古代の飛鳥

2020年02月14日 | Weblog

飛鳥にお城などあったっけ? 頂いた資料を読む間もなく出発。 
古代の遺跡も見つつ、中世の城跡巡り。

先ずは厩坂寺跡(うまやさかでらあと

 
それは周囲の田畑より少し高台になったところ。
今は栗畑になっているが、この土壇の上に何かあったんだなと想像できる。

「厩坂寺」は、藤原鎌足の夫人「鏡の大王」が、夫の病気平癒を願い創建した「山階寺」が起源。
壬申の乱の後、「山階寺」は藤原京に移り、地名をとって「厩坂寺」になり、平城遷都で平城京左京の現在地に移転して「興福寺」と名付けられた。
そして、藤原氏の私寺「興福寺」は国家の手で造営が進められるようになる。

奈良「興福寺」の前身がこんな身近にあるとは知らなかった。
いつも通る道を少し入ったところなのに全く気付かなかった。

石川池・剣池
 
池の向こうの小山は孝元天皇陵とされている。
石川池と言ったり、剣池と言ったりしているが、石川池と剣池は本来は別だという。
よく見れば、池の中に杭が並んでいる。
そこから向こうが「剣池」、手前は剣池を拡張して作られた溜池「石川池」
奈良盆地は雨が少なくて水不足を補う溜池が多い。  
               右)水鳥はカルガモばかりだった。
この池には流れ込む川がない。どこから水がきているのか?
今から行く和田池と地下でつながっているのではないかとのこと。

しばらく歩いたところに和田池がある。
 
昔、植村藩がトンネルを作って飛鳥川の水を引いて作ったという溜池「和田池」
東北の角に水の流入口があって、水が流れ込んでいた。
この和田池が、先ほどの石川池と地下でつながっているのではというのだ。


この道の下が暗渠になって飛鳥川から水が引かれているらしい。
飛鳥川は近いとはいっても少し離れている。昔のトンネル工事は大変だったろう。

豊浦ヒブリ

そこから近い竹藪の丘、これが「豊浦ヒブリ」とか「火振山」と言われている所だそうだ。
飛鳥を取り囲むように、ヒブリ山・火振塚・張山・フグリ山などの地名が点在するそうで、それらは中世の「烽火台」であったのではとのこと。
敵の襲来などを知らせたのか。

甘樫坐神社

甘樫坐神社では毎年「盟神探湯(くがたち)神事」が行われる。
盟神探湯というのは、熱湯の中の石を拾わせ、火傷の有無で真偽を決めるという古代の裁判。
ひどい!火傷するにきまってるやん。

裁判には「熱湯」の他に「焼けた鉄棒を握る」というものもあったそうだ。
盟神探湯は一旦行われなくなるが、室町時代に復活し、それぞれ、湯起請(ゆぎしょう)・鉄起請と呼ばれたらしい。
初めて聞く言葉で説明された時は聞き取れなかった。

甘樫坐神社で行われる盟神探湯神事、一度見たいと思っている。

「難波の堀江」(難波池)

推古天皇の「豊浦の宮」とも呼ばれる「向原寺」そこにある小さな池は「難波の堀江」と言われる。
欽明天皇の頃、百済の声明王から贈られた「仏典と金銅の釈迦仏」 廃仏派の物部氏が仏像を投げ込んだという池。
後年、通りかかった本田善光が仏像を拾いあげ信濃に持ち帰り祀ったのが善光寺。
今もその金銅仏は善光寺の秘仏となっているとか。
近くには拾いあげた仏像を洗ったという「すすぎの滝」もある。(水は流れていなかった)

午後、雨の中を出発。

甘樫丘の名の由来は何でしょう?と問われた。
橿原神宮・白橿など「カシ」の名の地名が近くにあるので・・カシの木が多いところだったからかな?

飛鳥川を渡る。

  カーブして流れる飛鳥川
この「曲がった瀬」→曲瀬(まがせ)が語源かも?との説に、そうかもしれないと納得できる流れだった。

雷城(いかづちじょう) (雷というのは地名)
 
海抜110m 短い登りだが勾配は急だ。丘の上はクヌギやコナラと落葉
        右)凹みのあるところは薬研堀(断面がV字形になった堀)の跡とか。
丘の上では同期で歴史に詳しいUさんが待っていてくださった。
中世にはここは城跡(砦)だったらしい。廓や堀などの遺構が残る。
古代の石室や埴輪なども出土している。飛鳥 神南備の旧社地の候補地でもある。
(神南備巡りで訪れたこともある)飛鳥坐神社は元はここにあったのではとの説もあるらしい。

昔、木が燃料として利用されていたころは丘の上に木は全くなかったそうだ。
北側の斜面は切り立っていて、砦にはよい地形だったのだろう。
雷の丘には雄略天皇と雷を捕まえた小子部栖軽(ちいさこべすがる)の説話も残る。
昭和32年に入江泰吉氏が撮られた甘樫丘から北方面の写真を見せてくださった。
向こうの山まで建物は見えない。

雷の丘はなじみの場所であるが、城跡とは知らなかった。

ここから北への道は車で通る。
田んぼの中にポコポコと見える丘は古墳かなあと気になりながら通っていた。

その一つに立ち寄る。
ギヲン」という丘
 
田んぼのあぜ道を進むとギヲンの丘  西側はなだらかで雨でなかったら登れそう。

その北にある「 雷 ギヲ山城 」

中世の山城として「日本城郭体系」にも記載があるという。
郭や空堀があるらしいが、詳細不明
中世 多武峰と興福寺の対立で飛鳥も戦いの場になったところがあったという。

先ほどの「ギヲン」より大きいが見渡せない。説明がなければただの竹藪だ。

小山集落に入る。


 杵築神社 同名の神社は多い。牛頭天皇を祀る。
この神社に拝殿はなく、奥の山は円墳だそうだ。

小山城
先ほどのギヲ山城から北西、橿原市との境、小山 字 西山 にある丘。
今迄見た城跡と違い、竹藪はフェンスで囲まれ、説明板もある。

 
「この丘陵は西山と呼ばれ、中世(15世紀頃)戦国時代、南大和の豪族 越智氏の出城として一族の小山氏が築いた砦。
この奥に空堀が現存しており、家城周辺を環濠で囲み、外敵に対していたようである」
堀の痕は道路になっているところもある。
「家城」の意味がよくわからなかった。
山だけが砦というのではなく、堀を巡らせた平地部分も含めた砦だったということかな?
この丘の上には小さい平石が多数あるという。
上から近づく敵に投げつけるために運び入れたのではないかとのこと。

 
鍵を預かって開けてくださり、フェンスの中へ1歩入ってみたが、笹が繁り雨もあって踏み込めず。
せっかくの機会だったのに残念だった。頂上にあるという石礫見たかった。
昔は貝吹山で吹いたほら貝の音がここでも聞こえたそうだ。

一休みして、
紀寺跡のそばを通る。
小山廃寺ともいわれる紀寺跡。(紀寺は地名 大字小山 字紀寺)
発掘調査で金堂。講堂・中門・回廊・南大門・大垣の跡などが確認されている。
ここも平城遷都で平城京に移った。

藤原京 朱雀大路跡

朱雀門跡から北に広がる藤原宮跡 向こうは耳成山

元薬師寺
 
ホテイアオイもすっかり枯れた。田んぼを東塔跡へ。
  右)塔の心礎や周りの礎石がたくさん残っている。立派だっただろうなあ。

 
西塔の跡 近くへ行かなかった。  
   右)金堂跡に建つ小さなお堂の前には、礎石がたくさん残っていた。
西ノ京にある薬師寺の前身にあたる寺の跡

畝傍御陵前駅で解散

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2月13日 甘樫丘 冬芽

2020年02月13日 | Weblog

飛鳥の観察会でも冬芽。
展望台の往復の短い時間だったが、担当の方による説明あり、花芽の中の観察あり、いくつかの冬芽も観察できた。

  
アジサイの冬芽「頂芽は裸芽」私の持っている検索図鑑や他にもそう書いてある図鑑もある。
今迄にも薄い皮が付いているものも見ており、ちょっと疑問に思いつつ、今日も「頂芽は裸芽」と言ったが・・本当にそうなのか? 
「通常アジサイと呼ばれるものは、交配種であることが多く、特徴にばらつきがある」らしい。
今日撮ったアジサイも薄い皮が2枚見える。(ガクアジサイなのかどうか不明だが)
薄い芽鱗が早くに取れてしまって裸芽に見えるものもあるかも。
なので、「アジサイの頂芽は裸芽」と言わない方がいいのかも・・と思った。
お尋ねした方によると「原種のガクアジサイには 鱗片がある と記載されている」(原色図鑑)そうだ。
また「一番外側のものは早く落ちてしまうのかもしれない」とのこと。
     右)庭にあるのを持ってこられたという、ヤハズアジサイ? カシワバアジサイ?の冬芽
これは毛が覆っており、ずいぶん雰囲気が違う。
気を付けていろいろ見てみよう。家のアジサイも見てみよう。


    甘樫丘展望台 
 
東を向けば古代 飛鳥京を見渡せる。 西は藤原京が見渡せる。畝傍山 耳成山も。


北を向けば遠くにうっすらと箸墓が見える。

 
   カツラの冬姿も美しい。    雨上がりのタマゴケは春を感じさせる。

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2月9日 「冬芽・葉痕」集め

2020年02月12日 | Weblog

先日行った下見で、2月の観察会は冬のことで、やはり「冬芽・葉痕」が主かなと思った。
苦手ではあったが、そうもいっておれないので、今日は半日、冬芽・葉痕を集めに歩いた。


 集めた「冬芽・葉痕」

現地で見ると、落ち葉や木の雰囲気などの情報も目に入るので、まだわかりやすい。
分かったつもりで写真を撮ってきても、家で枝だけ見ると、どれがどれだったかわからない。
今日は、採集したら、すぐに名前を書いたテープを貼っておいた。
それでも本当にこれでよかったかな?これは対生のはずだけど??などと迷ったり・・

 
 クズの葉痕が面白い。 

いくつか気が付いたこともある。

アカメガシワは 三叉の枝ぶり 
先端の頂芽が花芽になるために、翌年、枝として成長することができず、その直下の側芽が成長し3-5本の枝となる、ということ。


クサギの若い枝の断面は、ゆるい四角形をしていること。

知っているつもりの植物ほど知らないことがあるなあ。

本番の資料は省略するつもりだったが、自分も資料がないとわかりにくいかなあと思った。
わからないのは置いておいて、9種類の冬芽の資料を作ることにした。
なんとか自前の写真で資料が作れそう。

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2月8日冬越しの植物 葉痕ストラップ

2020年02月08日 | Weblog

穏やかな日でよかった。
観察会も回を重ね、飛び入りの人の他、常連さんも毎回いつも楽しみに来てくださる。
冬枯れの園内を今日は厳しい冬を過ごしている草木を観察した。

 
  センダンの幼木の葉痕と冬芽      クサギの葉痕と冬芽  
どちらも冬芽は裸芽 葉痕の形はそれぞれに面白い。

 
クヌギには小さいどんぐりの赤ちゃんが付いていた。コナラに比べて冬芽は少ない。
                右)カキノキの冬芽は芽鱗で守られている。


ホオノキ 大きくてスマートな冬芽 芽鱗に包まれている。 
この芽には花が入っているかしら?

 
ウラジロチチコグサ 横の赤い葉はムラサキサギゴケか? 
                 右)これは何だろうか?
観察会の終わりは「ミニ工作」
今日は葉痕ストラップ


可愛いストラップができた。
左から、ドウダンツツジ・センダン・センダン・クズ・ニワウルシ

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