注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。
やっぱり気になって、来てしまいました、、、。
『オテロ』の初日(10/9)での思いがけない事態については、こちらの記事でお話した通りですが、
ボータがその後に続く公演を全部降板したまま、今日のHDの日の公演まで時間が流れてしまいました。
通常、HDの一つ前にあたる同演目の公演はバックアップ用の映像を撮影する日になっているんですが、
その公演も歌わなかったということは、相当具合が悪くて舞台に立てなかったか、
HDの公演に一点賭けするつもりで猛烈に慎重を期しているか、そのどちらかということになります。
ボータは2007/8年シーズンの『オテロ』(共演者がフレミングなのも、指揮者がビシュコフなのも今シーズンと同じだった、、)をはじめ、
連年メトで歌声を聴いていますけれど、私にとっては、残念ながら彼は歌は上手いけれど、羽目を外さない、
手堅さばかりが目立つつまんないテノール、という位置づけになっていて、
本当なら、そんな手堅い公演をランのどこかで一公演聴いて、”やっぱり手堅くてつまんなかったな。”とか思いながら家路について終り、のはずでした。
しかし、結局、私が鑑賞することに決めていた公演で、ボータでなくアモノフが歌うことになってしまったのは、やはり上で紹介した記事の通り。
アモノフは彼なりに頑張っていたとは思うので、悪く言いたくはないのですが、しかし、歌手の器としては、
私が退屈だと断罪しているボータと比べても、一回り、いや、二回り、いやいや、三回りくらい直径が短かかった。
今日メトで起こりうることとして、3つのパターンが考えられます。
① 公演当日の朝の段階でメトのサイトに掲載されている通り、ボータが歌う。
⇒ まだ、今シーズンは彼のオテロを生では聴いていないし、初日にあんなことがあったので、どんな歌唱になるのか興味はそそられるので、このパターンなら行って損なし。
② メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、再びアモノフが舞台に立つことを知らされる。
⇒ ああ、これこそは絶対に避けたい超ルーザーなパターン!!!しかし、可能性はゼロとは言えない。そして、この可能性がある限り、今日はスタンディング・ルームに限る。
③ メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、、とここまでは②と同じだが、代役にアントネンコ、クーラ、ドミ様(ドミンゴ)のいずれかが舞台に登場する。
⇒ これを見逃してちゃ、いかんでしょう!!
というわけで、またしても朝っぱら(10時だけど、私にとって週末の10時は立派な朝っぱら。)からメトに電話。
10時に立見席の販売が始まって、たった3分でつながったというのに、もう最前列は売り切れていた、、、むー。ヘッズたちめ、どれだけすばしっこい?!
ラッキーだったのは到着してみると、二列目とはいえ、真ん中寄りの通路に一番近い場所だったこと。
一歩横に移動すれば、目の前は通路で、前に何も遮るものがない状態で舞台を眺められます。
特に前に立っているのが岩のような体格のおやじなので、これは助かった、、、ふぅ。
と、そこで、いつの間にか私のすぐ側ににじり寄っていた小柄なおばさんが私の立ち席を指して、”そこ、私の場所だと思うわ。”と主張してきます。
これまでにずーずーしいローカルのヘッズを嫌ほど数見て来た私ですからね、そう簡単には騙されません。
”あら、どうしてですか?さっきチケット見て確認したら、確かに私の番号でしたけど。なら、あなたのチケットには何番って書いてあるんです?”と言うと、
”ちっ!メトに不慣れな旅行者じゃないのか。”という表情を一瞬浮かべ、私の質問に答えないまま、
他に騙せそうな相手がいないかを探しに、再び放浪の旅に出て行きました。
いよいよ開演!という頃になり、結局そのおばさんは私の隣のスポットに戻って来たのですが(思いの外、旅行者が少なかったか、、?)、
まだしつこく、”一列目の男性、本当、大きいわ。あなた、私より背が高いじゃない?だから私と場所を交替した方がいいと思うの。”と言って来ます。
ついうっかり間違って”そうですね、なら替わって差し上げましょう。”と口走ってしまいそうになる論理ですが、
よく考えてみれば、その男性が私がより小さければ話は別ですけれども、彼は私よりもずっと縦にも横にもでかくて、私とおばさんの両方の前方に跨っているような状態ですからね。
おばさんと場所を交換したら、今度は私が見えなくなってしまいます。
”お気の毒ですけど、それだけは絶対にありえませんわ。”と即刻撃沈しておきました。
先ほどからずっと、アントネンコとかクーラとかドミ様の名前が出るのを今か、今かと待っているというのに、
家を出る前にメトのサイトをチェックした時は今日のオテロ役はボータとなっていた、
そして今手にしているプレイビルにも歌手の交替を通知するお知らせが入っていない、
それにいつまで経っても代役の名前を発表するハウスマネージャーの姿が見えない、
と思ったら、あれよあれよという間に指揮のビシュコフが出て来てしまった、、
この妙なデジャ・ヴ感は何?、、、と思えば、ついこの間の火曜日(フィラデルフィア管弦楽団のヴェルレク)とまったく同じパターンではないですか、、。
ということで、結局、②番でも③番でもなく、無難に①番のシナリオとなりました。
ボータに関しては、一つ前の公演もあきらめて、ずっと休みをとったのは正解だったと思います。(最善策は初日を歌わないことだったと思いますが。)
今日のタイミングでの復帰は、本当ぎりぎりでなんとか形になった、という感じでした。
まだ少しこちらをひやっとさせるような声を出している場面が何度かありましたが、
経験のなせる技も大きいんでしょう、良く踏みとどまって、初日のようなあからさまな破綻に陥ることからは回避できていました。
でも、それは逆を言うと、好調時でも私が今一つ彼に夢中になれない理由である、例の”手堅さ””つまんなさ”といった側面に油を注いでいる感じです。
だって、『オテロ』みたいな作品で、歌手がいつものコンフォート・ゾーンから一歩踏み出て全力で役柄に体当たりするのでなかったら、一体どの作品でそうするって言うんでしょう?
我々オーディエンスが血管の中で血がぼこぼこ言っているのを感じる位の興奮を引き起こしてくれなかったならば、そんなの『オテロ』じゃない!とすら私は思います。
一つには、彼は巨体なら巨体なりに、自分をエレガントに見せつつ演技する術を身につけなければならないと思います。
イケメンか?痩身か?といったような意味での”ビジュアル”はどうでもいいと思いますけど、
オペラが視覚も伴う舞台芸術である以上、演技をも含めた意味でのビジュアルは、今に限らず、昔からずっと大切なオペラの一面でした。
その大切な演技、特に体を使った表現が、彼は全く出来ていない。
例えば、第三幕の最後で、自分の部下も含めたキプロス島の人々の目の前で、いわれのない不倫の罪をデズデーモナにかけた挙句、
自分から逃げ去れ!と全員をその場から追い出し、ヤーゴと二人きりになった後、
Fuggirmi io sol non so.. 私だけが自分から逃げるすべを知らずにいるのだ、、
Sangue! 血(復讐)だ!
Ah! l'abbietto pensiero! ああ、汚らわしい考えが
cio m'accora! 私を苦しめる
Vederli insieme avvinti.. 彼ら二人が抱きあっているのが見えるようだ、、
il fazzoletto! il fazzoletto! ハンカチだ! ハンカチ!
Ah! ああ!
と言いながら錯乱し、気を失って倒れてしまう場面がありますが、まあ、その倒れ方の不細工なことには、私のいる立見席一帯で失笑が漏れていました。
感謝祭で七面鳥を食べ過ぎてお腹一杯になってひっくり返っているのとはわけが違うんですから、もうちょっと何とかならないか?と思います。
この後、舞台裏から聴こえてくる民衆の
Evviva! Evviva Otello! 万歳!万歳、オテロ!
Gloria al Leon di Venezia! ヴェネツィアの獅子に栄えあれ
という合唱を受けて、ヤーゴが倒れたオテロの体を足で踏みつけながら、軽蔑心モロ出しで、
Ecco il Leone! 獅子がこのざまか!
と歌って、(しかもその後にヤーゴ役のシュトルックマンが小馬鹿にしたようにぽとーんとボータの体の上にハンカチを落とす、
この演技のタイミングが大変巧みで唸らされます。)幕が下りるわけですが、
つまり、ヴェネツィアの獅子とまで歌われる強い人間(であるはず)のオテロが、とうとうヤーゴの悪巧みに、
いや、というよりは、ヤーゴの悪巧みによって引き出された自分自身の(そして人間誰しもが持っている)弱さに陥落した、、、
オテロの倒れる姿には、その瞬間の、獅子が倒れるような様子が重なっていかなければならないのです。
ったく、”腹いっぱい食べ過ぎたで。げふーっ。”ってやってる場合じゃないでっせ!ボータさん!!
大体、ボータの声質は、このオテロを歌うにはやや明るすぎることも、彼が自覚しておかなければならない点じゃないかな、と思います。
例えば、アントネンコ、クーラ、ドミ様といったテノールたちは、同じ言葉、同じフレーズを歌っていても、声が暗くて重いので、
もうそれだけで歌の内容の深刻さが20%位アップして聴こえるというか、
50メートル競争に例えるなら、スタート地点を10メートル有利に動かしてもらっているのと同じ位得しているわけです。
ボータの声はややもすると、明るく能天気に聴こえがちなので、歌い方や表情のつけ方、それから演技、全部を稼動させて、その損している部分を埋めなければいけないのです。
なのに、、、。
YouTubeの音源・映像は著作権の問題などからクレームが来たりして、いつ視聴不可になるかわからないですし、
映像の性質からいってその可能性が高そうなのでここで紹介はしませんが、このHDの日の映像をすでに入手している方が
オテロとデズデーモナの二人がデズデーモナの不倫(もちろん事実ではなく、オテロがそれを疑っているだけなのですが、、)をめぐって口論になる場面をYouTubeにアップされていて、
それを見ると、ボータは嫉妬と疑惑という狂気に憑依されているような様子で、ほっぺたをぴくぴくさせながらデズデーモナに対して怒り狂っていて、
ヘッズの中には”あのサイコ熊みたいなアプローチも、あれはあれで怖くて面白い。”と評している人がいましたし、
私も、へー、意外と顔だけはちゃんと演技してるんだな、、、と感心しましたが、
ただ、そういう顔だけの演技って、HDとかDVDではいいかもしれませんけど、劇場の私がいる立見席のような場所には全然伝わってこないんですよ。
だから、もっと体全体をつかって演技表現をするべきだ、と思うのです。
それから、”嫉妬と疑惑という狂気に憑依されて”と書いたついでに言うと、実際のところ、オテロを襲ったのは狂気なんでしょうか?
私は全然そうではないと思っていて、オテロが狂気なんかからではなく、正気からあのような行動を起こしているところが、
この物語・作品の、恐ろしく、また憐れな部分だと思っていて、オテロを仮に一時的にでも狂人として演じるようなことは、
この話が私達の誰にも起こりうる、というアンダーカレントと相反する方向に持っていこうとすることになってしまうと思うので、個人的には賛成しません。
このボータが苦手なことの全てを巧みになしとげているのがヤーゴ役のシュトルックマンです。
彼の歌唱は以前の感想でも書いた通り、決してスタイリッシュではないし、時にはやり過ぎ、歌い崩し過ぎ、、と感じることもあります。
(ただし、今日はHDがあることも念頭に置いていたのか、私が前回鑑賞した公演よりは多少やり過ぎ感が影を潜めていました。)
しかし、劇場の端々にまで、きちんとその意図が伝わる演技は素晴らしいと思います。
それこそ合唱を伴ったアンサンブルのシーンでも、立ち姿一つとっても気を抜いている瞬間がなく、足の置き方、開き方、
腕の位置(下に下ろす、組む、ちょっとした動作をさしはさむ、、)、頭のかしげ方まで本当にたくみに計算されていて、
その時その時のヤーゴの気持ちが手に取るように伝わってくるほどです。
クレード(”残酷な神を信じる Credo in un Dio crudel")での気合の入り方もこれまでの公演で一番だったのではないかと思う内容で、
良く声も鳴っていて、彼に関してはHDで実力通りのパフォーマンスが出せていると思います。
実際、前述のヤーゴがオテロの体を踏みつけにする場面での彼の歌唱や演技からは
”俺は俺の信条(クレード)が世の中の基準では悪に類されるものであったとしても、何の迷いもなくひたすらそれを信じて実行しているぞ。
それがどうだ、お前は、地位、素晴らしい妻、上司思いの部下(カッシオ)、すべてを手にしながら、
その事実に気づくことも、感謝することも、守ることもなく、ちょっとした嘘を信じて女々しく迷っている。”というような、
オテロに対する人間としての侮蔑が溢れていて、それがあまりにも説得力があるので、オーディエンスも、
”そうだよね、オテロ、なんか女々しいよね。こうなって当然だよね。”という気がしてくるほどなんです。
で、ここでボータが、いや、しかしオテロにだって彼が持っている感情を感じざるを得ない理由があるのだ、ということを、
しっかり歌と演技で表現してくれれば、オーディエンスがオテロとヤーゴのどちらの気持ちにもシンパシーを感じることの出来る、
二役ががっぷり組んだ素晴らしい公演になるのですが、
悲しいかな、ボータにその力がないので、なんだかヤーゴだけがとても活き活きして見えて、バランスの悪いことになってしまっているのです。
ということで、この記事のトップ写真の栄誉は、オテロ役のボータではなく、ヤーゴ役のシュトルックマンに献上することにしました。
フレミングはいつもそうなんですが、少しHDの時にブレーキがかかってしまう傾向があるように思います。
失敗をするのが嫌なんでしょうか、リスクを取らずに安全運転、守りの歌唱です。
ただ、初日や私が前回鑑賞した公演の時ほどには声のコンディションが良くなかったのかもしれないな、と感じるところもあって、
もしそれが正しかったとすると、その状態、かつあの年齢で、それでも今日くらいの内容の歌唱をデリバーできるということは、
彼女がこのデズデーモナ役と比較的相性が良いということの証拠だな、とは思います。
そうでなければ、もっとクオリティの低い歌唱になっているでしょう。
ただ、彼女もボータと同じで、何か、一つ突き抜けたものが感じられない、、、そこが私の不満です。
『オテロ』みたいな作品で、無難な歌、上手い歌だけ聴いたって意味がないですから、、。
ランの最初の頃はなんだかエキセントリックなことを色々繰り広げていた指揮のビシュコフも、
リハーサルなしで舞台に立った不慣れなアモノフの相手をしているうちに、それどころではない!という覚醒にいたったのか、
今日の演奏ではかなりノーマルになってました。
ただ、彼もフレミングと同じで慎重派なのか、
(ま、久しぶりに戻って来たボータのために、彼の歌いやすいように指揮することに専念した、ということもあるのかもしれません)
安全運転しているうちに、なんとなくゆるーい演奏になってしまったのは残念。
オケに関しては、エキセントリックだけど、勢いという面では初日や二日目(私が前回鑑賞した公演)の方が勝っていたように思います。
Johan Botha (Otello)
Renée Fleming (Desdemona)
Falk Struckmann (Iago)
Michael Fabiano (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Renée Tatum (Emilia)
James Morris (Lodovico)
Luthando Qave (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
ORCH SR left mid
OFF
***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。
やっぱり気になって、来てしまいました、、、。
『オテロ』の初日(10/9)での思いがけない事態については、こちらの記事でお話した通りですが、
ボータがその後に続く公演を全部降板したまま、今日のHDの日の公演まで時間が流れてしまいました。
通常、HDの一つ前にあたる同演目の公演はバックアップ用の映像を撮影する日になっているんですが、
その公演も歌わなかったということは、相当具合が悪くて舞台に立てなかったか、
HDの公演に一点賭けするつもりで猛烈に慎重を期しているか、そのどちらかということになります。
ボータは2007/8年シーズンの『オテロ』(共演者がフレミングなのも、指揮者がビシュコフなのも今シーズンと同じだった、、)をはじめ、
連年メトで歌声を聴いていますけれど、私にとっては、残念ながら彼は歌は上手いけれど、羽目を外さない、
手堅さばかりが目立つつまんないテノール、という位置づけになっていて、
本当なら、そんな手堅い公演をランのどこかで一公演聴いて、”やっぱり手堅くてつまんなかったな。”とか思いながら家路について終り、のはずでした。
しかし、結局、私が鑑賞することに決めていた公演で、ボータでなくアモノフが歌うことになってしまったのは、やはり上で紹介した記事の通り。
アモノフは彼なりに頑張っていたとは思うので、悪く言いたくはないのですが、しかし、歌手の器としては、
私が退屈だと断罪しているボータと比べても、一回り、いや、二回り、いやいや、三回りくらい直径が短かかった。
今日メトで起こりうることとして、3つのパターンが考えられます。
① 公演当日の朝の段階でメトのサイトに掲載されている通り、ボータが歌う。
⇒ まだ、今シーズンは彼のオテロを生では聴いていないし、初日にあんなことがあったので、どんな歌唱になるのか興味はそそられるので、このパターンなら行って損なし。
② メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、再びアモノフが舞台に立つことを知らされる。
⇒ ああ、これこそは絶対に避けたい超ルーザーなパターン!!!しかし、可能性はゼロとは言えない。そして、この可能性がある限り、今日はスタンディング・ルームに限る。
③ メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、、とここまでは②と同じだが、代役にアントネンコ、クーラ、ドミ様(ドミンゴ)のいずれかが舞台に登場する。
⇒ これを見逃してちゃ、いかんでしょう!!
というわけで、またしても朝っぱら(10時だけど、私にとって週末の10時は立派な朝っぱら。)からメトに電話。
10時に立見席の販売が始まって、たった3分でつながったというのに、もう最前列は売り切れていた、、、むー。ヘッズたちめ、どれだけすばしっこい?!
ラッキーだったのは到着してみると、二列目とはいえ、真ん中寄りの通路に一番近い場所だったこと。
一歩横に移動すれば、目の前は通路で、前に何も遮るものがない状態で舞台を眺められます。
特に前に立っているのが岩のような体格のおやじなので、これは助かった、、、ふぅ。
と、そこで、いつの間にか私のすぐ側ににじり寄っていた小柄なおばさんが私の立ち席を指して、”そこ、私の場所だと思うわ。”と主張してきます。
これまでにずーずーしいローカルのヘッズを嫌ほど数見て来た私ですからね、そう簡単には騙されません。
”あら、どうしてですか?さっきチケット見て確認したら、確かに私の番号でしたけど。なら、あなたのチケットには何番って書いてあるんです?”と言うと、
”ちっ!メトに不慣れな旅行者じゃないのか。”という表情を一瞬浮かべ、私の質問に答えないまま、
他に騙せそうな相手がいないかを探しに、再び放浪の旅に出て行きました。
いよいよ開演!という頃になり、結局そのおばさんは私の隣のスポットに戻って来たのですが(思いの外、旅行者が少なかったか、、?)、
まだしつこく、”一列目の男性、本当、大きいわ。あなた、私より背が高いじゃない?だから私と場所を交替した方がいいと思うの。”と言って来ます。
ついうっかり間違って”そうですね、なら替わって差し上げましょう。”と口走ってしまいそうになる論理ですが、
よく考えてみれば、その男性が私がより小さければ話は別ですけれども、彼は私よりもずっと縦にも横にもでかくて、私とおばさんの両方の前方に跨っているような状態ですからね。
おばさんと場所を交換したら、今度は私が見えなくなってしまいます。
”お気の毒ですけど、それだけは絶対にありえませんわ。”と即刻撃沈しておきました。
先ほどからずっと、アントネンコとかクーラとかドミ様の名前が出るのを今か、今かと待っているというのに、
家を出る前にメトのサイトをチェックした時は今日のオテロ役はボータとなっていた、
そして今手にしているプレイビルにも歌手の交替を通知するお知らせが入っていない、
それにいつまで経っても代役の名前を発表するハウスマネージャーの姿が見えない、
と思ったら、あれよあれよという間に指揮のビシュコフが出て来てしまった、、
この妙なデジャ・ヴ感は何?、、、と思えば、ついこの間の火曜日(フィラデルフィア管弦楽団のヴェルレク)とまったく同じパターンではないですか、、。
ということで、結局、②番でも③番でもなく、無難に①番のシナリオとなりました。
ボータに関しては、一つ前の公演もあきらめて、ずっと休みをとったのは正解だったと思います。(最善策は初日を歌わないことだったと思いますが。)
今日のタイミングでの復帰は、本当ぎりぎりでなんとか形になった、という感じでした。
まだ少しこちらをひやっとさせるような声を出している場面が何度かありましたが、
経験のなせる技も大きいんでしょう、良く踏みとどまって、初日のようなあからさまな破綻に陥ることからは回避できていました。
でも、それは逆を言うと、好調時でも私が今一つ彼に夢中になれない理由である、例の”手堅さ””つまんなさ”といった側面に油を注いでいる感じです。
だって、『オテロ』みたいな作品で、歌手がいつものコンフォート・ゾーンから一歩踏み出て全力で役柄に体当たりするのでなかったら、一体どの作品でそうするって言うんでしょう?
我々オーディエンスが血管の中で血がぼこぼこ言っているのを感じる位の興奮を引き起こしてくれなかったならば、そんなの『オテロ』じゃない!とすら私は思います。
一つには、彼は巨体なら巨体なりに、自分をエレガントに見せつつ演技する術を身につけなければならないと思います。
イケメンか?痩身か?といったような意味での”ビジュアル”はどうでもいいと思いますけど、
オペラが視覚も伴う舞台芸術である以上、演技をも含めた意味でのビジュアルは、今に限らず、昔からずっと大切なオペラの一面でした。
その大切な演技、特に体を使った表現が、彼は全く出来ていない。
例えば、第三幕の最後で、自分の部下も含めたキプロス島の人々の目の前で、いわれのない不倫の罪をデズデーモナにかけた挙句、
自分から逃げ去れ!と全員をその場から追い出し、ヤーゴと二人きりになった後、
Fuggirmi io sol non so.. 私だけが自分から逃げるすべを知らずにいるのだ、、
Sangue! 血(復讐)だ!
Ah! l'abbietto pensiero! ああ、汚らわしい考えが
cio m'accora! 私を苦しめる
Vederli insieme avvinti.. 彼ら二人が抱きあっているのが見えるようだ、、
il fazzoletto! il fazzoletto! ハンカチだ! ハンカチ!
Ah! ああ!
と言いながら錯乱し、気を失って倒れてしまう場面がありますが、まあ、その倒れ方の不細工なことには、私のいる立見席一帯で失笑が漏れていました。
感謝祭で七面鳥を食べ過ぎてお腹一杯になってひっくり返っているのとはわけが違うんですから、もうちょっと何とかならないか?と思います。
この後、舞台裏から聴こえてくる民衆の
Evviva! Evviva Otello! 万歳!万歳、オテロ!
Gloria al Leon di Venezia! ヴェネツィアの獅子に栄えあれ
という合唱を受けて、ヤーゴが倒れたオテロの体を足で踏みつけながら、軽蔑心モロ出しで、
Ecco il Leone! 獅子がこのざまか!
と歌って、(しかもその後にヤーゴ役のシュトルックマンが小馬鹿にしたようにぽとーんとボータの体の上にハンカチを落とす、
この演技のタイミングが大変巧みで唸らされます。)幕が下りるわけですが、
つまり、ヴェネツィアの獅子とまで歌われる強い人間(であるはず)のオテロが、とうとうヤーゴの悪巧みに、
いや、というよりは、ヤーゴの悪巧みによって引き出された自分自身の(そして人間誰しもが持っている)弱さに陥落した、、、
オテロの倒れる姿には、その瞬間の、獅子が倒れるような様子が重なっていかなければならないのです。
ったく、”腹いっぱい食べ過ぎたで。げふーっ。”ってやってる場合じゃないでっせ!ボータさん!!
大体、ボータの声質は、このオテロを歌うにはやや明るすぎることも、彼が自覚しておかなければならない点じゃないかな、と思います。
例えば、アントネンコ、クーラ、ドミ様といったテノールたちは、同じ言葉、同じフレーズを歌っていても、声が暗くて重いので、
もうそれだけで歌の内容の深刻さが20%位アップして聴こえるというか、
50メートル競争に例えるなら、スタート地点を10メートル有利に動かしてもらっているのと同じ位得しているわけです。
ボータの声はややもすると、明るく能天気に聴こえがちなので、歌い方や表情のつけ方、それから演技、全部を稼動させて、その損している部分を埋めなければいけないのです。
なのに、、、。
YouTubeの音源・映像は著作権の問題などからクレームが来たりして、いつ視聴不可になるかわからないですし、
映像の性質からいってその可能性が高そうなのでここで紹介はしませんが、このHDの日の映像をすでに入手している方が
オテロとデズデーモナの二人がデズデーモナの不倫(もちろん事実ではなく、オテロがそれを疑っているだけなのですが、、)をめぐって口論になる場面をYouTubeにアップされていて、
それを見ると、ボータは嫉妬と疑惑という狂気に憑依されているような様子で、ほっぺたをぴくぴくさせながらデズデーモナに対して怒り狂っていて、
ヘッズの中には”あのサイコ熊みたいなアプローチも、あれはあれで怖くて面白い。”と評している人がいましたし、
私も、へー、意外と顔だけはちゃんと演技してるんだな、、、と感心しましたが、
ただ、そういう顔だけの演技って、HDとかDVDではいいかもしれませんけど、劇場の私がいる立見席のような場所には全然伝わってこないんですよ。
だから、もっと体全体をつかって演技表現をするべきだ、と思うのです。
それから、”嫉妬と疑惑という狂気に憑依されて”と書いたついでに言うと、実際のところ、オテロを襲ったのは狂気なんでしょうか?
私は全然そうではないと思っていて、オテロが狂気なんかからではなく、正気からあのような行動を起こしているところが、
この物語・作品の、恐ろしく、また憐れな部分だと思っていて、オテロを仮に一時的にでも狂人として演じるようなことは、
この話が私達の誰にも起こりうる、というアンダーカレントと相反する方向に持っていこうとすることになってしまうと思うので、個人的には賛成しません。
このボータが苦手なことの全てを巧みになしとげているのがヤーゴ役のシュトルックマンです。
彼の歌唱は以前の感想でも書いた通り、決してスタイリッシュではないし、時にはやり過ぎ、歌い崩し過ぎ、、と感じることもあります。
(ただし、今日はHDがあることも念頭に置いていたのか、私が前回鑑賞した公演よりは多少やり過ぎ感が影を潜めていました。)
しかし、劇場の端々にまで、きちんとその意図が伝わる演技は素晴らしいと思います。
それこそ合唱を伴ったアンサンブルのシーンでも、立ち姿一つとっても気を抜いている瞬間がなく、足の置き方、開き方、
腕の位置(下に下ろす、組む、ちょっとした動作をさしはさむ、、)、頭のかしげ方まで本当にたくみに計算されていて、
その時その時のヤーゴの気持ちが手に取るように伝わってくるほどです。
クレード(”残酷な神を信じる Credo in un Dio crudel")での気合の入り方もこれまでの公演で一番だったのではないかと思う内容で、
良く声も鳴っていて、彼に関してはHDで実力通りのパフォーマンスが出せていると思います。
実際、前述のヤーゴがオテロの体を踏みつけにする場面での彼の歌唱や演技からは
”俺は俺の信条(クレード)が世の中の基準では悪に類されるものであったとしても、何の迷いもなくひたすらそれを信じて実行しているぞ。
それがどうだ、お前は、地位、素晴らしい妻、上司思いの部下(カッシオ)、すべてを手にしながら、
その事実に気づくことも、感謝することも、守ることもなく、ちょっとした嘘を信じて女々しく迷っている。”というような、
オテロに対する人間としての侮蔑が溢れていて、それがあまりにも説得力があるので、オーディエンスも、
”そうだよね、オテロ、なんか女々しいよね。こうなって当然だよね。”という気がしてくるほどなんです。
で、ここでボータが、いや、しかしオテロにだって彼が持っている感情を感じざるを得ない理由があるのだ、ということを、
しっかり歌と演技で表現してくれれば、オーディエンスがオテロとヤーゴのどちらの気持ちにもシンパシーを感じることの出来る、
二役ががっぷり組んだ素晴らしい公演になるのですが、
悲しいかな、ボータにその力がないので、なんだかヤーゴだけがとても活き活きして見えて、バランスの悪いことになってしまっているのです。
ということで、この記事のトップ写真の栄誉は、オテロ役のボータではなく、ヤーゴ役のシュトルックマンに献上することにしました。
フレミングはいつもそうなんですが、少しHDの時にブレーキがかかってしまう傾向があるように思います。
失敗をするのが嫌なんでしょうか、リスクを取らずに安全運転、守りの歌唱です。
ただ、初日や私が前回鑑賞した公演の時ほどには声のコンディションが良くなかったのかもしれないな、と感じるところもあって、
もしそれが正しかったとすると、その状態、かつあの年齢で、それでも今日くらいの内容の歌唱をデリバーできるということは、
彼女がこのデズデーモナ役と比較的相性が良いということの証拠だな、とは思います。
そうでなければ、もっとクオリティの低い歌唱になっているでしょう。
ただ、彼女もボータと同じで、何か、一つ突き抜けたものが感じられない、、、そこが私の不満です。
『オテロ』みたいな作品で、無難な歌、上手い歌だけ聴いたって意味がないですから、、。
ランの最初の頃はなんだかエキセントリックなことを色々繰り広げていた指揮のビシュコフも、
リハーサルなしで舞台に立った不慣れなアモノフの相手をしているうちに、それどころではない!という覚醒にいたったのか、
今日の演奏ではかなりノーマルになってました。
ただ、彼もフレミングと同じで慎重派なのか、
(ま、久しぶりに戻って来たボータのために、彼の歌いやすいように指揮することに専念した、ということもあるのかもしれません)
安全運転しているうちに、なんとなくゆるーい演奏になってしまったのは残念。
オケに関しては、エキセントリックだけど、勢いという面では初日や二日目(私が前回鑑賞した公演)の方が勝っていたように思います。
Johan Botha (Otello)
Renée Fleming (Desdemona)
Falk Struckmann (Iago)
Michael Fabiano (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Renée Tatum (Emilia)
James Morris (Lodovico)
Luthando Qave (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
ORCH SR left mid
OFF
***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***