まるで相撲好きというわけでもないのですが、日本に住んでいた頃は
相撲の試合がなんとなくテレビにかかっている、ということがよくありました。
今や空いている時間はすべてオペラに注ぎ込んでいるので、
ほとんどテレビを観なくなってしまったのですが、
たまーに、TVジャパンという、日本の番組を放送する局にチャンネルを合わせると、
相撲の中継(もちろん録画ですが)をやっていることがあって、
久しぶりに相撲の試合を見ると驚くのが、いかに外人の力士が増えたか、ということです。
いや、単に外人の力士が増えた、というよりは、強い力士、面白い相撲をとれる外人力士が増えた、
と言った方がいいのかもしれません。
しかし、それ以上に面白いのは、彼らの日本人力士との相撲の取り方、スタイルの違い、です。
彼らがどんなに日本人力士と同じように相撲を学んでいるつもりでも、何かが日本人力士とは違う。
しかも、今や、それが、ごく一、二外人力士に見られるエキセントリックな戦い方ではなく、
(というか、昔は外人力士そのものが少なかった。)
徐々に堂々としたメイン・ストリームの一つになりつつあるように見受けられる点が、非常に興味深い。
長らく相撲ファンであられるオールド・タイマー達は、”きーっ!こんな取り方は相撲じゃないぞ!!”と心中穏やかでないのか、
それとも、存外、”変化も世の常、、。”とあっさり受け入れているのか、、。それも興味あるところです。
と、いきなり、いつからここは相撲ブログになった?と思うような書き出しになってしまいましたが、
もちろん、私は相撲そのもののトレンドや未来を心配をしているのではなく、
この状況をオペラに当てはめて考えていることは言うまでもありません。
イタリアらしい、ドイツらしい、などといった歌唱や演奏のオーセンティシティの問題は、
しばしばオペラ・ファンにとって議論の的になる点の一つですが、
作曲家の出身国とか作品が歌われる言語を出身国・ネイティブ言語としない歌手が普通にごろごろいる今のオペラの世界で、
そういったオーセンティシティがどれ位重要なのか、また、それを期待すべきなのか、という問題を、
つい外人力士の相撲を見ていて思い出してしまったのです。
さて、あんなへぼ演出(もはや演出家の名前を出す気も失せた。)でも出演する歌手によっては
ここまで内容を引き上げることが出来るのか?という驚きをもたらし、大興奮のうちに終わったBキャストの『トスカ』。
そのトスカBに続いて、間をおかずに続くのがCキャストの『トスカ』なんですが、
トスカBの大健闘によって、トスカCはシーズン前にはおそらく予想もしていなかったであろう
大きな任務を課せられることになりました。
それは、どんなキャストなら、このボンディの演出を救えるか?という実験のリトマス試験紙となることです。
Bが特別だったのか?単にAがひどすぎただけなのか、、?
今シーズンの『トスカ』について、主役3人と指揮者の顔ぶれを比べると、
Aキャストがマッティラ(フィンランド)、アルヴァレス(アルゼンチン)、ガグニーゼ(グルジア)、コラネリ(イタリア系アメリカ)、
それからBキャストがラセット(アメリカ)、カウフマン(ドイツ)、ターフェル(ウェールズ)、ルイージ(イタリア)、
そして今回のCキャストがデッシ(イタリア)、ジョルダーニ(イタリア)、ガグニーゼ(グルジア)、オーギャン(フランス)となっていて、
別にCキャストはオール・イタリアン・キャストでも何でもなく、
トスカとカヴァラドッシ役という主役の二人がイタリア人コンビであるに過ぎないのですが、
イタリアの歌劇場とは違い、メトでは、少なくともここ最近、男性と女性の主役二人の両方に
イタリア人歌手を得て演奏されるイタリア作品というのは珍しくて、
実際、今シーズンのみならず、数シーズンさかのぼっても、
主役二人の両方がイタリア人だったというイタリアものの公演は、ちょっとすぐに私の頭に思い浮かんで来ません。
ということで、久々にイタリアな二人を聴けるのを楽しみにしてメトに集まったヘッズが今日はたくさんいたと思うのですが、
まず、おそらくは、メトだけでなく、イタリア国外の多くのオペラハウスがこのような状況、
つまり、オール・イタリアン=オーセンティックな上演を求めること自体が非常に難しい、という現状があると思います。
私の好きな歌手が多国籍軍的状況を呈しているために、中には意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
今回は『トスカ』の公演についてのレポートですので、イタリアものに絞って言うと、
私はイタリア作品におけるイタリアナーテな歌唱や演奏というものが実は好きでして、
他の要素がほとんど拮抗している公演同士なら、もちろん、それが備わっている方をとります。
でも、他の要素が全く拮抗していなかったなら、、?
悲しいかな、それがまるで絵に描いたように現実化してしまったのが今日の公演です。
まず、ジョルダーニは、メトに登場する度に同じようなことを言っている気がするのですが、
サウンド、つまり、声、音色そのものの磨耗がひどすぎると思います。
彼はもうここ何年も、本来あてに行くべき音に直接に入って行くことができなくて、
少し下の音からずりあげて行くのがしょっちゅうなのですが、
ずり上げにかかる時間がどんどん延びている感じがあって、今や入りの単音だけでなく、
複数の音にまたがって、つまりフレーズの例えば前半全部を使ってスクーピングをしているような歌い方が
癖になってきているような印象すら持ちます。(というか、もうこのようにしか歌えないのかもしれませんが。)
つまり、彼の今の歌い方は、自ずからかなりの制限があるわけで、
これでどうやって自由に自分の表現したいことを歌にのせられるというのだろう?と感じます。
また、彼の声は、それ自体決して悪いことではないのですが、どう考えてもテクスチャー的に軽く、
例えばカウフマンの時に感じたような音が前に飛び出していくようなスピード感はなく、
どちらかというとぽわん、とその場で明るく開くような声質の声ですし、
さらにいうと、私には彼の声には生来あまり悲劇的なクオリティがなく、脳天気さすら感じさせる響きに聴こえるので、
一言で言えば、カヴァラドッシのパートを魅力的に聴かせるクオリティ一切に欠けている、と私は感じます。
彼のイタリア語のディクションは当然ながら完璧ですが、それって褒め言葉になるんでしょうか?
私なら、歌を歌って”日本語お上手ですね。”と言われても、ちっとも嬉しくありませんが。
ディクションというのはあくまで表現のための手段であるべきで、
もちろんディクションが良ければその分優れた表現をするのにスタート地点で何歩か稼いだことにはなりますが、
それ自体が目的になっても、またそのように評価されてもいけないと思います。
なので、私は、非ネイティブの歌手が素晴らしいディクションを披露した場合は言及に値すると思いますが、
ネイティブの歌手の、言葉の色付けの仕方、アクセントのつけ方、といった高度なテクニックを褒めるのならともかく、
ディクションを褒めるなんていうのは、少しおかしいんではないか?と思います。
で、なぜこのようなことを言うかというと、それは、この日の公演のジョルダーニの歌からも、デッシの歌からも、
私にとっては、完璧なディクションという以上の何物も感じられなかったからです。
せっかく自国語で歌えて、ニュアンスもアクセントも自由自在に操れる立場にありながら、
どうして、こんな風に、ネガティブな意味で、何気なく、考えなしに言葉を、音を発するのか?と不思議でたまりませんでした。
非ネイティブの歌手が歌っているため、言葉として聴き取りにくい、また微妙に発音に違和感がある箇所があったとしても、
私にはBキャストの方がよほど一音一音、一語一句に魂が宿っていると思いましたし、
少なくとも、彼らがどういう意図でそういった歌い方をしているか、
その役の何を表現したいのか、という強い意志のようなものを感じました。
ジョルダーニに話を戻すと、彼はいつものことなんですが、高音に対する支え、土台が弱くて、
聴き所の高音では、いつも大丈夫かいな、、と冷や冷やさせられます。
また、”星は光りぬ”でカウフマンと同じようにピアニッシモを放り込もうとしても、
彼の場合は、本当にそのまま音がぺしゃーんと砕けてしまう一歩手前のように聴こえて、こちらもスリル満点。
『ファウストの劫罰』のHDをご覧になった方ならある程度イメージがわくことと思いますが、
彼のピアニッシモは本当にへろへろしていて、聴いているこちらが悲しくなってきます。
というか、ピアニッシモこそ、しっかりした支えがないといけないんですよね。
24日の公演で、客席にジョルダーニの姿を見かけたので、
これはやばいことになったぞ、、と思っているに違いない、
カウフマンの歌を聴いて一念発起するはず、と期待してましたが、一念発起した結果がこれ、、、。
デッシは今年トスカ役で登場したソプラノの中では(この後の公演で一度降板したデッシに変わって歌った
エリザベス・ブランケ・ビグスについては、私は生で聴いていないですし、シリウスでの放送もなかったので除外します。
なので、要はマッティラ、ラセットと比べて、ということになります。)
本来、最もトスカ役に適した声質を持っているとは思います。
ラセットはこの役には若干声のサイズが小さく、そのために、トスカを割りとかわいらしい役作りに
テイラーしなければならなかったのは以前に書いた通りです。
マッティラは声にふくよかさがなく、さらに熱さが感じられないのが致命的でした。
(例の店子友達には、”だって、北欧女だもん。”の一言で片付けられてしまいましたが。)
その点、デッシは本来の声はメトでもこの役で十分通用するサイズがありますし、
この役に望ましいふくよかな音色もあります。
なんですが、わざわざ”本来の声は”と書いたのには理由があって、
それは、久々に聴いた彼女の歌声に、正直、”年とったなあ、、”と思わされたからです。
彼女は一応、1960年生まれということになっているようですので、それが本当だとすれば、現在50歳ということになり、
フレミングの方が一歳上だったりするんですが、
デッシの場合、イタリアものの決して軽くない役もばりばりと歌ってきましたし、
これは声質とレパートリーの関係から止むをえなかった面もあって、
彼女はかなりの大酒飲みという噂も聞き、その影響もいくらかはあるでしょうが、
この声の変化は、避けられない自然な成り行きの範囲内ではないかと私は思います。
音域があがると、音のコントロールが利かなくなってしばしばピッチが狂ったり、
また、音が痩せてしまうのが、中音域まではまだ響きが割と充実しているせいもあり、結構目立ちます。
どういう所に年齢を感じるのか、という点については、
カラスのコヴェント・ガーデンの『トスカ』の抜粋をイメージして頂くと遠からじ、だと思うのですが、
(この時カラスが、ブランク、不摂生といったことが祟ったとはいえ、まだ40代に入ったばかりだったことを思えば、
デッシはがんばっているとはいえます。)
カラスが高音域で音が割れる感じなのに比べると、先に書いたようにデッシの場合は痩せてしまう、という感覚に近いです。
デッシはマドリードのテアトロ・レアルでの『トスカ』がDVDになっていますが、
その今から6、7年前の歌と比べると相当衰えを感じるようになってしまっている、というのが正直なところです。
このように声の状態がもはや全盛期の頃とは違うので、かなりのハンデがあるのですが、
例えばVissi d'arteなどは、経験にものをいわせ、今の声の状態で歌えるものとしてはかなり無難にまとめていたと思います。
ただ、デッシの場合、この声や歌の問題は、小さい方の問題だった、、。
なんと、それより全然でかい問題があって、それは、桜島大根級の演技のまずさ、です。
私の斜め前に座っていた女性は、長年のジョルダーニ・ファンと見受けられ、
彼の歌には温かく拍手を送っていて、その心の広さに私は目を見張るばかりでしたが、
そんな彼女ですら、デッシの演技には”これ、ありえないでしょう、、。”という風に首を振ってみたり、ため息をついたり。
特にひどかったのが二幕の最後の、例の、スカルピアを殺害してから、窓枠に登って一瞬自殺を考えたものの、
思いとどまって降りてきて、最後にソファの上で寝っころがって、
アッタヴァンティ侯爵夫人の扇であおぎながら、幕が下りる、というシークエンスです。
いやー、ひどい!ひどすぎる!!
ローマの歌姫というより、まるで近所のおばちゃんがいきなり舞台に紛れ込んできたよう、、。
っていうか、デッシにもおそらくラセットと同じくらいのリハーサルの時間はあったはずと思いますが、
全然、動きが自分の中で消化されていないし、それ以前に、動きに全く流れというものがない。
窓枠から降りる瞬間は、”どっこらしょ。”というデッシの声が聴こえてきたような錯覚がおこりましたし、
片足ずつ、すとんと優雅に降りていたラセットと違って、両足を窓枠からぶらぶらさせてから、
どてっ!と床にトスカが”落ちて”きた様子には本当にげんなりしました。
その後も一々次の動作の前に、”えっと、次はこうやってああやって、、”というのを頭で反芻しているのがわかる
妙な間があって、感興をそぐことおびただしい。
こんな調子なのですから、舞台本能の猛烈に高いラセットと比較するのが間違いというものですが、
まず、”あちゃーっ!”と思ったのが、スカルピアを刺す場面。
トスカBの感想で、トスカは舞台上手に頭を向けてソファに寝そべりながらスカルピアを待っているので、
スカルピアが”いざトスカをいただかん!”とのしかかってきた時には、
ラセットがソファーのアームレストに隠しておいたナイフを左手で取り出して、
その左手を大きく回しながらスカルピアを刺していた、ということを書きました。
観客からはこの左手の動きが良く見えるので(スカルピアは観客から見てトスカの左腕のさらに向こうにいるので)
スカルピア殺害のインパクトが大きく、ダイナミックかつドラマチックなものになっていました。
ところがデッシはナイフを右手に持ったまま、スカルピアを待ってしまったために、
まるで、竹串を茶碗蒸しに刺すような小さな動きになってしまって、
ダイナミックかつドラマチックどころか、スカルピアとの間で一体何が起こっているのかもよくわからない始末です。
これだけで、ああ、デッシという人は何にも考えないで演じているんだな、と思われても仕方がありません。
最後の扇であおぐ場面にラセットが盛り込んだ意味は素晴らしく、
それに比べると、マッティラの”スカルピアを殺して、やっと私は自分の嫉妬心に勝ったわ!”という表現はどうなの?とは思いますが、
まだ、それが伝わってくるだけましです。
デッシの扇の扇ぎ方からは、なーんにも、本当に何にも伝わってこない。
トスカが何を考えてそうしているのか、さっぱりわからないのです。
多分、デッシもわけがわからず、ただ単に扇を振っているだけなんでしょう。
メトの舞台に立つのに、いや、どんなオペラの舞台に立つにしても、これはあまりに怠惰ではないでしょうか?
せめて、自分のしている演技には自分なりの解釈、意味づけを与えるべきで、
仮に歌が素晴らしかったとしても、この演技にはかなりへこまされます。
ましてや、年齢のせいで歌が下降線を下り出している時に、こんな怠慢こいている場合じゃないです!!
というか、今回、ジョルダーニとデッシの演技を見ていて感じたのは、
非常に演技が紋切り型で、今、オペラの世界で演技が上手いと言われている歌手たちの演技のレベルとは、
あまりにリアリティに差がありすぎるという点です。
特にこの『トスカ』のようなヴェリズモ的要素のあるオペラで、
紋切り型演技というのは、いささか時代遅れというか、ちょっとまずいのではないかと思う、、。
彼らの演技やアプローチがイタリアナーテなせいなのか、それとも単に二人が大根なだけなのか、よくわかりませんが、
もし前者であるなら、非イタリア人歌手が、言葉のハンデを埋めあわせるために、
どれだけ演技の面で工夫をしているか、という点に多少目を開く必要があるのではないかな、と思います。
イタリアらしさだけで、観客の心を動かすことが出来るほど、オペラが簡単なものとも思えません。
少なくとも、ボンディの演出の前では、そこからさらにプラスαがなければ。
Daniela Dessi (Tosca)
Marcello Giordani (Cavaradossi)
George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
David Crawford (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Philippe Auguin
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Gr Tier C Even
OFF
*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***
相撲の試合がなんとなくテレビにかかっている、ということがよくありました。
今や空いている時間はすべてオペラに注ぎ込んでいるので、
ほとんどテレビを観なくなってしまったのですが、
たまーに、TVジャパンという、日本の番組を放送する局にチャンネルを合わせると、
相撲の中継(もちろん録画ですが)をやっていることがあって、
久しぶりに相撲の試合を見ると驚くのが、いかに外人の力士が増えたか、ということです。
いや、単に外人の力士が増えた、というよりは、強い力士、面白い相撲をとれる外人力士が増えた、
と言った方がいいのかもしれません。
しかし、それ以上に面白いのは、彼らの日本人力士との相撲の取り方、スタイルの違い、です。
彼らがどんなに日本人力士と同じように相撲を学んでいるつもりでも、何かが日本人力士とは違う。
しかも、今や、それが、ごく一、二外人力士に見られるエキセントリックな戦い方ではなく、
(というか、昔は外人力士そのものが少なかった。)
徐々に堂々としたメイン・ストリームの一つになりつつあるように見受けられる点が、非常に興味深い。
長らく相撲ファンであられるオールド・タイマー達は、”きーっ!こんな取り方は相撲じゃないぞ!!”と心中穏やかでないのか、
それとも、存外、”変化も世の常、、。”とあっさり受け入れているのか、、。それも興味あるところです。
と、いきなり、いつからここは相撲ブログになった?と思うような書き出しになってしまいましたが、
もちろん、私は相撲そのもののトレンドや未来を心配をしているのではなく、
この状況をオペラに当てはめて考えていることは言うまでもありません。
イタリアらしい、ドイツらしい、などといった歌唱や演奏のオーセンティシティの問題は、
しばしばオペラ・ファンにとって議論の的になる点の一つですが、
作曲家の出身国とか作品が歌われる言語を出身国・ネイティブ言語としない歌手が普通にごろごろいる今のオペラの世界で、
そういったオーセンティシティがどれ位重要なのか、また、それを期待すべきなのか、という問題を、
つい外人力士の相撲を見ていて思い出してしまったのです。
さて、あんなへぼ演出(もはや演出家の名前を出す気も失せた。)でも出演する歌手によっては
ここまで内容を引き上げることが出来るのか?という驚きをもたらし、大興奮のうちに終わったBキャストの『トスカ』。
そのトスカBに続いて、間をおかずに続くのがCキャストの『トスカ』なんですが、
トスカBの大健闘によって、トスカCはシーズン前にはおそらく予想もしていなかったであろう
大きな任務を課せられることになりました。
それは、どんなキャストなら、このボンディの演出を救えるか?という実験のリトマス試験紙となることです。
Bが特別だったのか?単にAがひどすぎただけなのか、、?
今シーズンの『トスカ』について、主役3人と指揮者の顔ぶれを比べると、
Aキャストがマッティラ(フィンランド)、アルヴァレス(アルゼンチン)、ガグニーゼ(グルジア)、コラネリ(イタリア系アメリカ)、
それからBキャストがラセット(アメリカ)、カウフマン(ドイツ)、ターフェル(ウェールズ)、ルイージ(イタリア)、
そして今回のCキャストがデッシ(イタリア)、ジョルダーニ(イタリア)、ガグニーゼ(グルジア)、オーギャン(フランス)となっていて、
別にCキャストはオール・イタリアン・キャストでも何でもなく、
トスカとカヴァラドッシ役という主役の二人がイタリア人コンビであるに過ぎないのですが、
イタリアの歌劇場とは違い、メトでは、少なくともここ最近、男性と女性の主役二人の両方に
イタリア人歌手を得て演奏されるイタリア作品というのは珍しくて、
実際、今シーズンのみならず、数シーズンさかのぼっても、
主役二人の両方がイタリア人だったというイタリアものの公演は、ちょっとすぐに私の頭に思い浮かんで来ません。
ということで、久々にイタリアな二人を聴けるのを楽しみにしてメトに集まったヘッズが今日はたくさんいたと思うのですが、
まず、おそらくは、メトだけでなく、イタリア国外の多くのオペラハウスがこのような状況、
つまり、オール・イタリアン=オーセンティックな上演を求めること自体が非常に難しい、という現状があると思います。
私の好きな歌手が多国籍軍的状況を呈しているために、中には意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
今回は『トスカ』の公演についてのレポートですので、イタリアものに絞って言うと、
私はイタリア作品におけるイタリアナーテな歌唱や演奏というものが実は好きでして、
他の要素がほとんど拮抗している公演同士なら、もちろん、それが備わっている方をとります。
でも、他の要素が全く拮抗していなかったなら、、?
悲しいかな、それがまるで絵に描いたように現実化してしまったのが今日の公演です。
まず、ジョルダーニは、メトに登場する度に同じようなことを言っている気がするのですが、
サウンド、つまり、声、音色そのものの磨耗がひどすぎると思います。
彼はもうここ何年も、本来あてに行くべき音に直接に入って行くことができなくて、
少し下の音からずりあげて行くのがしょっちゅうなのですが、
ずり上げにかかる時間がどんどん延びている感じがあって、今や入りの単音だけでなく、
複数の音にまたがって、つまりフレーズの例えば前半全部を使ってスクーピングをしているような歌い方が
癖になってきているような印象すら持ちます。(というか、もうこのようにしか歌えないのかもしれませんが。)
つまり、彼の今の歌い方は、自ずからかなりの制限があるわけで、
これでどうやって自由に自分の表現したいことを歌にのせられるというのだろう?と感じます。
また、彼の声は、それ自体決して悪いことではないのですが、どう考えてもテクスチャー的に軽く、
例えばカウフマンの時に感じたような音が前に飛び出していくようなスピード感はなく、
どちらかというとぽわん、とその場で明るく開くような声質の声ですし、
さらにいうと、私には彼の声には生来あまり悲劇的なクオリティがなく、脳天気さすら感じさせる響きに聴こえるので、
一言で言えば、カヴァラドッシのパートを魅力的に聴かせるクオリティ一切に欠けている、と私は感じます。
彼のイタリア語のディクションは当然ながら完璧ですが、それって褒め言葉になるんでしょうか?
私なら、歌を歌って”日本語お上手ですね。”と言われても、ちっとも嬉しくありませんが。
ディクションというのはあくまで表現のための手段であるべきで、
もちろんディクションが良ければその分優れた表現をするのにスタート地点で何歩か稼いだことにはなりますが、
それ自体が目的になっても、またそのように評価されてもいけないと思います。
なので、私は、非ネイティブの歌手が素晴らしいディクションを披露した場合は言及に値すると思いますが、
ネイティブの歌手の、言葉の色付けの仕方、アクセントのつけ方、といった高度なテクニックを褒めるのならともかく、
ディクションを褒めるなんていうのは、少しおかしいんではないか?と思います。
で、なぜこのようなことを言うかというと、それは、この日の公演のジョルダーニの歌からも、デッシの歌からも、
私にとっては、完璧なディクションという以上の何物も感じられなかったからです。
せっかく自国語で歌えて、ニュアンスもアクセントも自由自在に操れる立場にありながら、
どうして、こんな風に、ネガティブな意味で、何気なく、考えなしに言葉を、音を発するのか?と不思議でたまりませんでした。
非ネイティブの歌手が歌っているため、言葉として聴き取りにくい、また微妙に発音に違和感がある箇所があったとしても、
私にはBキャストの方がよほど一音一音、一語一句に魂が宿っていると思いましたし、
少なくとも、彼らがどういう意図でそういった歌い方をしているか、
その役の何を表現したいのか、という強い意志のようなものを感じました。
ジョルダーニに話を戻すと、彼はいつものことなんですが、高音に対する支え、土台が弱くて、
聴き所の高音では、いつも大丈夫かいな、、と冷や冷やさせられます。
また、”星は光りぬ”でカウフマンと同じようにピアニッシモを放り込もうとしても、
彼の場合は、本当にそのまま音がぺしゃーんと砕けてしまう一歩手前のように聴こえて、こちらもスリル満点。
『ファウストの劫罰』のHDをご覧になった方ならある程度イメージがわくことと思いますが、
彼のピアニッシモは本当にへろへろしていて、聴いているこちらが悲しくなってきます。
というか、ピアニッシモこそ、しっかりした支えがないといけないんですよね。
24日の公演で、客席にジョルダーニの姿を見かけたので、
これはやばいことになったぞ、、と思っているに違いない、
カウフマンの歌を聴いて一念発起するはず、と期待してましたが、一念発起した結果がこれ、、、。
デッシは今年トスカ役で登場したソプラノの中では(この後の公演で一度降板したデッシに変わって歌った
エリザベス・ブランケ・ビグスについては、私は生で聴いていないですし、シリウスでの放送もなかったので除外します。
なので、要はマッティラ、ラセットと比べて、ということになります。)
本来、最もトスカ役に適した声質を持っているとは思います。
ラセットはこの役には若干声のサイズが小さく、そのために、トスカを割りとかわいらしい役作りに
テイラーしなければならなかったのは以前に書いた通りです。
マッティラは声にふくよかさがなく、さらに熱さが感じられないのが致命的でした。
(例の店子友達には、”だって、北欧女だもん。”の一言で片付けられてしまいましたが。)
その点、デッシは本来の声はメトでもこの役で十分通用するサイズがありますし、
この役に望ましいふくよかな音色もあります。
なんですが、わざわざ”本来の声は”と書いたのには理由があって、
それは、久々に聴いた彼女の歌声に、正直、”年とったなあ、、”と思わされたからです。
彼女は一応、1960年生まれということになっているようですので、それが本当だとすれば、現在50歳ということになり、
フレミングの方が一歳上だったりするんですが、
デッシの場合、イタリアものの決して軽くない役もばりばりと歌ってきましたし、
これは声質とレパートリーの関係から止むをえなかった面もあって、
彼女はかなりの大酒飲みという噂も聞き、その影響もいくらかはあるでしょうが、
この声の変化は、避けられない自然な成り行きの範囲内ではないかと私は思います。
音域があがると、音のコントロールが利かなくなってしばしばピッチが狂ったり、
また、音が痩せてしまうのが、中音域まではまだ響きが割と充実しているせいもあり、結構目立ちます。
どういう所に年齢を感じるのか、という点については、
カラスのコヴェント・ガーデンの『トスカ』の抜粋をイメージして頂くと遠からじ、だと思うのですが、
(この時カラスが、ブランク、不摂生といったことが祟ったとはいえ、まだ40代に入ったばかりだったことを思えば、
デッシはがんばっているとはいえます。)
カラスが高音域で音が割れる感じなのに比べると、先に書いたようにデッシの場合は痩せてしまう、という感覚に近いです。
デッシはマドリードのテアトロ・レアルでの『トスカ』がDVDになっていますが、
その今から6、7年前の歌と比べると相当衰えを感じるようになってしまっている、というのが正直なところです。
このように声の状態がもはや全盛期の頃とは違うので、かなりのハンデがあるのですが、
例えばVissi d'arteなどは、経験にものをいわせ、今の声の状態で歌えるものとしてはかなり無難にまとめていたと思います。
ただ、デッシの場合、この声や歌の問題は、小さい方の問題だった、、。
なんと、それより全然でかい問題があって、それは、桜島大根級の演技のまずさ、です。
私の斜め前に座っていた女性は、長年のジョルダーニ・ファンと見受けられ、
彼の歌には温かく拍手を送っていて、その心の広さに私は目を見張るばかりでしたが、
そんな彼女ですら、デッシの演技には”これ、ありえないでしょう、、。”という風に首を振ってみたり、ため息をついたり。
特にひどかったのが二幕の最後の、例の、スカルピアを殺害してから、窓枠に登って一瞬自殺を考えたものの、
思いとどまって降りてきて、最後にソファの上で寝っころがって、
アッタヴァンティ侯爵夫人の扇であおぎながら、幕が下りる、というシークエンスです。
いやー、ひどい!ひどすぎる!!
ローマの歌姫というより、まるで近所のおばちゃんがいきなり舞台に紛れ込んできたよう、、。
っていうか、デッシにもおそらくラセットと同じくらいのリハーサルの時間はあったはずと思いますが、
全然、動きが自分の中で消化されていないし、それ以前に、動きに全く流れというものがない。
窓枠から降りる瞬間は、”どっこらしょ。”というデッシの声が聴こえてきたような錯覚がおこりましたし、
片足ずつ、すとんと優雅に降りていたラセットと違って、両足を窓枠からぶらぶらさせてから、
どてっ!と床にトスカが”落ちて”きた様子には本当にげんなりしました。
その後も一々次の動作の前に、”えっと、次はこうやってああやって、、”というのを頭で反芻しているのがわかる
妙な間があって、感興をそぐことおびただしい。
こんな調子なのですから、舞台本能の猛烈に高いラセットと比較するのが間違いというものですが、
まず、”あちゃーっ!”と思ったのが、スカルピアを刺す場面。
トスカBの感想で、トスカは舞台上手に頭を向けてソファに寝そべりながらスカルピアを待っているので、
スカルピアが”いざトスカをいただかん!”とのしかかってきた時には、
ラセットがソファーのアームレストに隠しておいたナイフを左手で取り出して、
その左手を大きく回しながらスカルピアを刺していた、ということを書きました。
観客からはこの左手の動きが良く見えるので(スカルピアは観客から見てトスカの左腕のさらに向こうにいるので)
スカルピア殺害のインパクトが大きく、ダイナミックかつドラマチックなものになっていました。
ところがデッシはナイフを右手に持ったまま、スカルピアを待ってしまったために、
まるで、竹串を茶碗蒸しに刺すような小さな動きになってしまって、
ダイナミックかつドラマチックどころか、スカルピアとの間で一体何が起こっているのかもよくわからない始末です。
これだけで、ああ、デッシという人は何にも考えないで演じているんだな、と思われても仕方がありません。
最後の扇であおぐ場面にラセットが盛り込んだ意味は素晴らしく、
それに比べると、マッティラの”スカルピアを殺して、やっと私は自分の嫉妬心に勝ったわ!”という表現はどうなの?とは思いますが、
まだ、それが伝わってくるだけましです。
デッシの扇の扇ぎ方からは、なーんにも、本当に何にも伝わってこない。
トスカが何を考えてそうしているのか、さっぱりわからないのです。
多分、デッシもわけがわからず、ただ単に扇を振っているだけなんでしょう。
メトの舞台に立つのに、いや、どんなオペラの舞台に立つにしても、これはあまりに怠惰ではないでしょうか?
せめて、自分のしている演技には自分なりの解釈、意味づけを与えるべきで、
仮に歌が素晴らしかったとしても、この演技にはかなりへこまされます。
ましてや、年齢のせいで歌が下降線を下り出している時に、こんな怠慢こいている場合じゃないです!!
というか、今回、ジョルダーニとデッシの演技を見ていて感じたのは、
非常に演技が紋切り型で、今、オペラの世界で演技が上手いと言われている歌手たちの演技のレベルとは、
あまりにリアリティに差がありすぎるという点です。
特にこの『トスカ』のようなヴェリズモ的要素のあるオペラで、
紋切り型演技というのは、いささか時代遅れというか、ちょっとまずいのではないかと思う、、。
彼らの演技やアプローチがイタリアナーテなせいなのか、それとも単に二人が大根なだけなのか、よくわかりませんが、
もし前者であるなら、非イタリア人歌手が、言葉のハンデを埋めあわせるために、
どれだけ演技の面で工夫をしているか、という点に多少目を開く必要があるのではないかな、と思います。
イタリアらしさだけで、観客の心を動かすことが出来るほど、オペラが簡単なものとも思えません。
少なくとも、ボンディの演出の前では、そこからさらにプラスαがなければ。
Daniela Dessi (Tosca)
Marcello Giordani (Cavaradossi)
George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
David Crawford (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Philippe Auguin
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Gr Tier C Even
OFF
*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***