Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

TOSCA (Thurs, Apr 29, 2010)

2010-04-29 | メトロポリタン・オペラ
まるで相撲好きというわけでもないのですが、日本に住んでいた頃は
相撲の試合がなんとなくテレビにかかっている、ということがよくありました。

今や空いている時間はすべてオペラに注ぎ込んでいるので、
ほとんどテレビを観なくなってしまったのですが、
たまーに、TVジャパンという、日本の番組を放送する局にチャンネルを合わせると、
相撲の中継(もちろん録画ですが)をやっていることがあって、
久しぶりに相撲の試合を見ると驚くのが、いかに外人の力士が増えたか、ということです。
いや、単に外人の力士が増えた、というよりは、強い力士、面白い相撲をとれる外人力士が増えた、
と言った方がいいのかもしれません。
しかし、それ以上に面白いのは、彼らの日本人力士との相撲の取り方、スタイルの違い、です。
彼らがどんなに日本人力士と同じように相撲を学んでいるつもりでも、何かが日本人力士とは違う。
しかも、今や、それが、ごく一、二外人力士に見られるエキセントリックな戦い方ではなく、
(というか、昔は外人力士そのものが少なかった。)
徐々に堂々としたメイン・ストリームの一つになりつつあるように見受けられる点が、非常に興味深い。
長らく相撲ファンであられるオールド・タイマー達は、”きーっ!こんな取り方は相撲じゃないぞ!!”と心中穏やかでないのか、
それとも、存外、”変化も世の常、、。”とあっさり受け入れているのか、、。それも興味あるところです。

と、いきなり、いつからここは相撲ブログになった?と思うような書き出しになってしまいましたが、
もちろん、私は相撲そのもののトレンドや未来を心配をしているのではなく、
この状況をオペラに当てはめて考えていることは言うまでもありません。

イタリアらしい、ドイツらしい、などといった歌唱や演奏のオーセンティシティの問題は、
しばしばオペラ・ファンにとって議論の的になる点の一つですが、
作曲家の出身国とか作品が歌われる言語を出身国・ネイティブ言語としない歌手が普通にごろごろいる今のオペラの世界で、
そういったオーセンティシティがどれ位重要なのか、また、それを期待すべきなのか、という問題を、
つい外人力士の相撲を見ていて思い出してしまったのです。

さて、あんなへぼ演出(もはや演出家の名前を出す気も失せた。)でも出演する歌手によっては
ここまで内容を引き上げることが出来るのか?という驚きをもたらし、大興奮のうちに終わったBキャストの『トスカ』
そのトスカBに続いて、間をおかずに続くのがCキャストの『トスカ』なんですが、
トスカBの大健闘によって、トスカCはシーズン前にはおそらく予想もしていなかったであろう
大きな任務を課せられることになりました。
それは、どんなキャストなら、このボンディの演出を救えるか?という実験のリトマス試験紙となることです。
Bが特別だったのか?単にAがひどすぎただけなのか、、?

今シーズンの『トスカ』について、主役3人と指揮者の顔ぶれを比べると、
Aキャストがマッティラ(フィンランド)、アルヴァレス(アルゼンチン)、ガグニーゼ(グルジア)、コラネリ(イタリア系アメリカ)、
それからBキャストがラセット(アメリカ)、カウフマン(ドイツ)、ターフェル(ウェールズ)、ルイージ(イタリア)、
そして今回のCキャストがデッシ(イタリア)、ジョルダーニ(イタリア)、ガグニーゼ(グルジア)、オーギャン(フランス)となっていて、
別にCキャストはオール・イタリアン・キャストでも何でもなく、
トスカとカヴァラドッシ役という主役の二人がイタリア人コンビであるに過ぎないのですが、
イタリアの歌劇場とは違い、メトでは、少なくともここ最近、男性と女性の主役二人の両方に
イタリア人歌手を得て演奏されるイタリア作品というのは珍しくて、
実際、今シーズンのみならず、数シーズンさかのぼっても、
主役二人の両方がイタリア人だったというイタリアものの公演は、ちょっとすぐに私の頭に思い浮かんで来ません。
ということで、久々にイタリアな二人を聴けるのを楽しみにしてメトに集まったヘッズが今日はたくさんいたと思うのですが、
まず、おそらくは、メトだけでなく、イタリア国外の多くのオペラハウスがこのような状況、
つまり、オール・イタリアン=オーセンティックな上演を求めること自体が非常に難しい、という現状があると思います。

私の好きな歌手が多国籍軍的状況を呈しているために、中には意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
今回は『トスカ』の公演についてのレポートですので、イタリアものに絞って言うと、
私はイタリア作品におけるイタリアナーテな歌唱や演奏というものが実は好きでして、
他の要素がほとんど拮抗している公演同士なら、もちろん、それが備わっている方をとります。
でも、他の要素が全く拮抗していなかったなら、、?



悲しいかな、それがまるで絵に描いたように現実化してしまったのが今日の公演です。
まず、ジョルダーニは、メトに登場する度に同じようなことを言っている気がするのですが、
サウンド、つまり、声、音色そのものの磨耗がひどすぎると思います。
彼はもうここ何年も、本来あてに行くべき音に直接に入って行くことができなくて、
少し下の音からずりあげて行くのがしょっちゅうなのですが、
ずり上げにかかる時間がどんどん延びている感じがあって、今や入りの単音だけでなく、
複数の音にまたがって、つまりフレーズの例えば前半全部を使ってスクーピングをしているような歌い方が
癖になってきているような印象すら持ちます。(というか、もうこのようにしか歌えないのかもしれませんが。)
つまり、彼の今の歌い方は、自ずからかなりの制限があるわけで、
これでどうやって自由に自分の表現したいことを歌にのせられるというのだろう?と感じます。
また、彼の声は、それ自体決して悪いことではないのですが、どう考えてもテクスチャー的に軽く、
例えばカウフマンの時に感じたような音が前に飛び出していくようなスピード感はなく、
どちらかというとぽわん、とその場で明るく開くような声質の声ですし、
さらにいうと、私には彼の声には生来あまり悲劇的なクオリティがなく、脳天気さすら感じさせる響きに聴こえるので、
一言で言えば、カヴァラドッシのパートを魅力的に聴かせるクオリティ一切に欠けている、と私は感じます。

彼のイタリア語のディクションは当然ながら完璧ですが、それって褒め言葉になるんでしょうか?
私なら、歌を歌って”日本語お上手ですね。”と言われても、ちっとも嬉しくありませんが。
ディクションというのはあくまで表現のための手段であるべきで、
もちろんディクションが良ければその分優れた表現をするのにスタート地点で何歩か稼いだことにはなりますが、
それ自体が目的になっても、またそのように評価されてもいけないと思います。
なので、私は、非ネイティブの歌手が素晴らしいディクションを披露した場合は言及に値すると思いますが、
ネイティブの歌手の、言葉の色付けの仕方、アクセントのつけ方、といった高度なテクニックを褒めるのならともかく、
ディクションを褒めるなんていうのは、少しおかしいんではないか?と思います。

で、なぜこのようなことを言うかというと、それは、この日の公演のジョルダーニの歌からも、デッシの歌からも、
私にとっては、完璧なディクションという以上の何物も感じられなかったからです。
せっかく自国語で歌えて、ニュアンスもアクセントも自由自在に操れる立場にありながら、
どうして、こんな風に、ネガティブな意味で、何気なく、考えなしに言葉を、音を発するのか?と不思議でたまりませんでした。

非ネイティブの歌手が歌っているため、言葉として聴き取りにくい、また微妙に発音に違和感がある箇所があったとしても、
私にはBキャストの方がよほど一音一音、一語一句に魂が宿っていると思いましたし、
少なくとも、彼らがどういう意図でそういった歌い方をしているか、
その役の何を表現したいのか、という強い意志のようなものを感じました。

ジョルダーニに話を戻すと、彼はいつものことなんですが、高音に対する支え、土台が弱くて、
聴き所の高音では、いつも大丈夫かいな、、と冷や冷やさせられます。
また、”星は光りぬ”でカウフマンと同じようにピアニッシモを放り込もうとしても、
彼の場合は、本当にそのまま音がぺしゃーんと砕けてしまう一歩手前のように聴こえて、こちらもスリル満点。
『ファウストの劫罰』のHDをご覧になった方ならある程度イメージがわくことと思いますが、
彼のピアニッシモは本当にへろへろしていて、聴いているこちらが悲しくなってきます。
というか、ピアニッシモこそ、しっかりした支えがないといけないんですよね。
24日の公演で、客席にジョルダーニの姿を見かけたので、
これはやばいことになったぞ、、と思っているに違いない、
カウフマンの歌を聴いて一念発起するはず、と期待してましたが、一念発起した結果がこれ、、、。



デッシは今年トスカ役で登場したソプラノの中では(この後の公演で一度降板したデッシに変わって歌った
エリザベス・ブランケ・ビグスについては、私は生で聴いていないですし、シリウスでの放送もなかったので除外します。
なので、要はマッティラ、ラセットと比べて、ということになります。)
本来、最もトスカ役に適した声質を持っているとは思います。
ラセットはこの役には若干声のサイズが小さく、そのために、トスカを割りとかわいらしい役作りに
テイラーしなければならなかったのは以前に書いた通りです。
マッティラは声にふくよかさがなく、さらに熱さが感じられないのが致命的でした。
例の店子友達には、”だって、北欧女だもん。”の一言で片付けられてしまいましたが。)
その点、デッシは本来の声はメトでもこの役で十分通用するサイズがありますし、
この役に望ましいふくよかな音色もあります。
なんですが、わざわざ”本来の声は”と書いたのには理由があって、
それは、久々に聴いた彼女の歌声に、正直、”年とったなあ、、”と思わされたからです。
彼女は一応、1960年生まれということになっているようですので、それが本当だとすれば、現在50歳ということになり、
フレミングの方が一歳上だったりするんですが、
デッシの場合、イタリアものの決して軽くない役もばりばりと歌ってきましたし、
これは声質とレパートリーの関係から止むをえなかった面もあって、
彼女はかなりの大酒飲みという噂も聞き、その影響もいくらかはあるでしょうが、
この声の変化は、避けられない自然な成り行きの範囲内ではないかと私は思います。

音域があがると、音のコントロールが利かなくなってしばしばピッチが狂ったり、
また、音が痩せてしまうのが、中音域まではまだ響きが割と充実しているせいもあり、結構目立ちます。

どういう所に年齢を感じるのか、という点については、
カラスのコヴェント・ガーデンの『トスカ』の抜粋をイメージして頂くと遠からじ、だと思うのですが、
(この時カラスが、ブランク、不摂生といったことが祟ったとはいえ、まだ40代に入ったばかりだったことを思えば、
デッシはがんばっているとはいえます。)
カラスが高音域で音が割れる感じなのに比べると、先に書いたようにデッシの場合は痩せてしまう、という感覚に近いです。

デッシはマドリードのテアトロ・レアルでの『トスカ』がDVDになっていますが、
その今から6、7年前の歌と比べると相当衰えを感じるようになってしまっている、というのが正直なところです。

このように声の状態がもはや全盛期の頃とは違うので、かなりのハンデがあるのですが、
例えばVissi d'arteなどは、経験にものをいわせ、今の声の状態で歌えるものとしてはかなり無難にまとめていたと思います。

ただ、デッシの場合、この声や歌の問題は、小さい方の問題だった、、。
なんと、それより全然でかい問題があって、それは、桜島大根級の演技のまずさ、です。
私の斜め前に座っていた女性は、長年のジョルダーニ・ファンと見受けられ、
彼の歌には温かく拍手を送っていて、その心の広さに私は目を見張るばかりでしたが、
そんな彼女ですら、デッシの演技には”これ、ありえないでしょう、、。”という風に首を振ってみたり、ため息をついたり。
特にひどかったのが二幕の最後の、例の、スカルピアを殺害してから、窓枠に登って一瞬自殺を考えたものの、
思いとどまって降りてきて、最後にソファの上で寝っころがって、
アッタヴァンティ侯爵夫人の扇であおぎながら、幕が下りる、というシークエンスです。



いやー、ひどい!ひどすぎる!!
ローマの歌姫というより、まるで近所のおばちゃんがいきなり舞台に紛れ込んできたよう、、。
っていうか、デッシにもおそらくラセットと同じくらいのリハーサルの時間はあったはずと思いますが、
全然、動きが自分の中で消化されていないし、それ以前に、動きに全く流れというものがない。
窓枠から降りる瞬間は、”どっこらしょ。”というデッシの声が聴こえてきたような錯覚がおこりましたし、
片足ずつ、すとんと優雅に降りていたラセットと違って、両足を窓枠からぶらぶらさせてから、
どてっ!と床にトスカが”落ちて”きた様子には本当にげんなりしました。

その後も一々次の動作の前に、”えっと、次はこうやってああやって、、”というのを頭で反芻しているのがわかる
妙な間があって、感興をそぐことおびただしい。
こんな調子なのですから、舞台本能の猛烈に高いラセットと比較するのが間違いというものですが、
まず、”あちゃーっ!”と思ったのが、スカルピアを刺す場面。
トスカBの感想で、トスカは舞台上手に頭を向けてソファに寝そべりながらスカルピアを待っているので、
スカルピアが”いざトスカをいただかん!”とのしかかってきた時には、
ラセットがソファーのアームレストに隠しておいたナイフを左手で取り出して、
その左手を大きく回しながらスカルピアを刺していた、ということを書きました。
観客からはこの左手の動きが良く見えるので(スカルピアは観客から見てトスカの左腕のさらに向こうにいるので)
スカルピア殺害のインパクトが大きく、ダイナミックかつドラマチックなものになっていました。

ところがデッシはナイフを右手に持ったまま、スカルピアを待ってしまったために、
まるで、竹串を茶碗蒸しに刺すような小さな動きになってしまって、
ダイナミックかつドラマチックどころか、スカルピアとの間で一体何が起こっているのかもよくわからない始末です。
これだけで、ああ、デッシという人は何にも考えないで演じているんだな、と思われても仕方がありません。

最後の扇であおぐ場面にラセットが盛り込んだ意味は素晴らしく、
それに比べると、マッティラの”スカルピアを殺して、やっと私は自分の嫉妬心に勝ったわ!”という表現はどうなの?とは思いますが、
まだ、それが伝わってくるだけましです。
デッシの扇の扇ぎ方からは、なーんにも、本当に何にも伝わってこない。
トスカが何を考えてそうしているのか、さっぱりわからないのです。
多分、デッシもわけがわからず、ただ単に扇を振っているだけなんでしょう。

メトの舞台に立つのに、いや、どんなオペラの舞台に立つにしても、これはあまりに怠惰ではないでしょうか?
せめて、自分のしている演技には自分なりの解釈、意味づけを与えるべきで、
仮に歌が素晴らしかったとしても、この演技にはかなりへこまされます。
ましてや、年齢のせいで歌が下降線を下り出している時に、こんな怠慢こいている場合じゃないです!!

というか、今回、ジョルダーニとデッシの演技を見ていて感じたのは、
非常に演技が紋切り型で、今、オペラの世界で演技が上手いと言われている歌手たちの演技のレベルとは、
あまりにリアリティに差がありすぎるという点です。
特にこの『トスカ』のようなヴェリズモ的要素のあるオペラで、
紋切り型演技というのは、いささか時代遅れというか、ちょっとまずいのではないかと思う、、。

彼らの演技やアプローチがイタリアナーテなせいなのか、それとも単に二人が大根なだけなのか、よくわかりませんが、
もし前者であるなら、非イタリア人歌手が、言葉のハンデを埋めあわせるために、
どれだけ演技の面で工夫をしているか、という点に多少目を開く必要があるのではないかな、と思います。
イタリアらしさだけで、観客の心を動かすことが出来るほど、オペラが簡単なものとも思えません。
少なくとも、ボンディの演出の前では、そこからさらにプラスαがなければ。


Daniela Dessi (Tosca)
Marcello Giordani (Cavaradossi)
George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
David Crawford (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Philippe Auguin
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Gr Tier C Even
OFF

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

CARMEN (Wed, Apr 28, 2010)

2010-04-28 | メトロポリタン・オペラ
そろそろカウフマン以外のことを読めるかと期待してこのブログをのぞきに来て下さった方には
大変申し訳ないのですが、カウフマン祭りin NYはまだ続く!で、『トスカ』の次は『カルメン』です。

『カルメン』については昨年の大晦日にエアの新演出が登場したわけですが、
ガランチャとアラーニャのAキャスト、ヴィジンとジョヴァノヴィッチのBキャスト、
ボロディナとジョヴァノヴィッチのCキャストを経て、
今回のアルドリッチとカウフマンによるDキャストは、驚くことに、たった二回しか公演がありません。
カウフマンは昨シーズン一度もメトに登場していないし、
私が思うに、メトはかなりカウフマンの実力をアンダーエスティメートしていたために、
このような申し訳程度の回数の公演しか組んでいなかったのではないでしょうか。大いなる失策です。

ところで、実は私、告白してしまうと、この『カルメン』という作品、誰が歌っても聴きに行く!というほど好きではなくって、
上演時間も決して短くはないので、公演の内容、特にカルメン役とホセ役の歌手の歌唱の内容によっては、
正直、最後まで見るのが辛いなあ、と思うことがあります。

ヴィジンはいつぞやの『リゴレット』のマッダレーナで、ぎすぎすした色気のない脚と、
それと同じ位ぎすぎすした魅力のない声を見せられ・聴かされてうんざりした覚えがあって、
これで延々カルメン役を歌われた日には拷問に等しいので、彼女が出演するBキャストの鑑賞は見合わせ。
それから、ボロディナに関しては、私は彼女が好調なときのカルメンは、歌唱の面では決して嫌いでないのですが、
今回のこのエアの演出で、ガランチャですらかなりハードそうだったあの二幕のダンスを踊ったり、
最後のあの黒地に赤い血が走ったようなデザインのドレスを着ている彼女を想像しただけで辛いものがあったので、
ジョヴァノヴィッチのホセは聴きたかったな、と思いつつ、こちらも残念ではありましたが、見送ることにしました。
これらの公演を見送った分、溜まったエネルギーをカウフマンの出演する公演で暴発させるのです!!

ということで、当然、Dキャストは両日とも鑑賞するのですが、
実はこのDキャスト一日目のチケットの購入に少し出遅れてしまい、今日は平土間二列目の真正面。
それのどこが悪いんだ?と思われるかもしれませんが、
正面も正面、あまりに正面なために、チケットの座席番号の下に
Behind the conductor(指揮者の後ろ)と印刷までされている座席なのです。
指揮の勉強をしている学生さんには夢のような座席かもしれませんが、
レヴァインみたいな鳥の巣頭の指揮者が出てきた暁には、限りなく視界ゼロ!ということになりかねない恐怖の座席です。
どうか、アルティノグルが子供みたいな身長の指揮者でありますように、、。

開演前に、お隣に座っている年配の女性が、”ねえねえ、これ見て。”と私に向かってご自身のすぐ前の座席の背を指差すので、
なんだろう?と思ってみると、私の目の前の座席と二つ並んで、
フリッツ・ライナーの名が打刻された札が打ち付けられてありました。
(ライナーは1963年に死去、1966年にオープンしたリンカーン・センターのメトでは、
指揮をしたことも鑑賞したこともなく、彼のご家族が彼を偲んで行った寄付によるものと思われます。)
”私、もう何年か、サブスクリプションでこの座席なんだけど、初めて気づいたわ。”
、、、それ、ちょっと時間かかり過ぎてやしませんか、お母さん!

しかし、この女性、すごくさばさばしていて、一緒にお話していて楽しく、
今日の公演はシリウスでの放送があるので、本当にすぐ目の前にマイクが立っているんですが、
Aキャストでのガランチャが素晴らしかっただけに、あれに勝るのは今日のカルメン役には難しかろう、などなど、
忌憚ない発言の数々に、これがマイクに拾われて視聴者に流れてなければいいが、、とつい心配してしまいます。

二人で雑談している間にいつの間にかピットに飛び出てきたこのアルティノグルという指揮者はフランス人。



Behind the conductorな私にとって一番理想的なのは、例えばルイージのように、割とコンパクトにまとまった髪型で、
カウフマンのカーリー・ヘアを真似してみたんですが失敗してしまいました、という雰囲気のアルティノグルの髪型(↑)には、
一瞬、むむむ、、と来ましたが、痩せているし、背がそんなに高くなさそうなのでちょっぴり安心。

、、、したのが甘かった!!
前奏曲が始まって、この指揮者のアクションのでかさにただひたすらあっけに取られるMadokakipです。
冒頭でいきなり、ピットの外に転がり出てくるのではないかと思うくらいの勢いで、ぴょんぴょこ飛び跳ねたかと思うと、
音がソフトになったのを境に、彼の姿が全く見えなくなったので、あれ?どこに行ったのか?
指揮台から転げ落ちたのか?と心配していると、
どうやら外壁の下に埋まってしまうくらい、縮こまって指揮していたらしく、
音が激しくなった途端、びよよ~ん!!と、すごい勢いでオケピを囲っている壁の上に飛び出して来て、きゃっ!!
まるで、びっくり箱が指揮台に乗っているかのようです。
しかも、前奏曲のみならず、全編この調子で、かつ、上下のみならず、左右にもよく動く。
お願いだから、じっとしてくれ~~っ!!
レヴァインなら、鳥の巣頭付きでも、特に最近は彼があまり動かないせいもあって、
少し体を横にをずらせば、それなりに一定した視界が保たれるんですが、
アルティノグルの場合、彼に合わせてこちらも体を動かさなければならない上に、
常にちょろちょろと舞台の前で何かが動いている。これはとても気が散ります。辛いです。

第二幕でカウフマンがひざまずいて花の歌を歌い始めた時、その姿にちょうど重なるように、
思い入れたっぷりに盛り上がりまくって指揮するアルティノグルの後姿が被って来たときには、
まじで、湧き上がってくる殺意を抑えることができませんでした。
しかし、カウフマンの歌う位置から見えたはずの、アルティノグルの指揮姿の
右に左に飛び出てくる般若顔も、かなり気が散るものであっただろうことは間違いありません。

しかも。これだけじゃないんです、この指揮者。
指揮しながら歌うんです。かなり大きい声で。それも、全然自分が指揮しているのと違うタイミングで!!
そのあまりにあまりな、鼻歌と呼ぶのもおぞましいド下手な歌に、
つい最前列に座っているご夫婦が顔を見合わせて笑ってしまう位なのです。
もしこの指揮者がメトに帰ってくることになったら、平土間の前方に座ることだけは絶対に避けなければ。

そんなアルティノグルですが、このアクションの割りに、演奏内容は奇をてらったところがなく、至ってオーセンティックで、
むしろ、Aキャストでのネゼ・セグィンの方が、テンポをかなり早く設定するなど、個性的な指揮を繰り広げていたと思います。
オーセンティックな指揮が悪いとは私は決して思っていないんですが、
普通の指揮なんだから、もうちょっと普通に振れないのか、、
ただ、彼の指揮に対して、少しオケのレスポンスや、音そのものが、重く感じた部分はあったので、
それを鼓舞したかったのかもしれません。



しかし!!カウフマンのホセが舞台に現れた途端、アルティノグルの鼻歌や変なアクションのことなんてどうでも良くなりました!
(花の歌で半殺しに合わせたくなった時までは、の限定付きですけど。)
全く、このホセの格好良さはどうでしょう!!!
くるくるくるくる、、、気絶する~。

まじめな話、私がカウフマンを好きであることは否定しませんが、
『カルメン』のホセ役での彼は、まるで舞台上で、一人だけ違う種類の光が射しているような、ものすごい磁力を感じるのです。
『トスカ』のカヴァラドッシ役の彼も良かったとは思いますが、このホセ役の強烈な磁場と比較すると、
まだまだこれから役が発展していく段階にあるんだな、というのを実感する。
ホセ役の方は、彼がこれまでに役を十分に発展させて来て、自分のものになっている、という、
良い意味での大きな自信が根底にあるんだと思います。
実際、この役での彼の歌唱は、すでに私にはあまり”歌”という感じがしなくて、
あの花の歌でさえ、演技や語りの一部というか、作品の内容と完全に溶け込んでしまっていて、
だから、逆に、どういう風に歌っていたっけな?と、歌唱技術のことを思い出そうとすると、
はて、、?と考え込まなければならないほどです。

『カルメン』という作品は、愛はもちろん、しばしば、性とヴァイオレンスの物語である、と言われます。
しかし、実際に舞台を見ると、これのどこが、、?と思うことが少なくない。

それなりに人気のある歌手がキャストに入っている公演でも、せいぜい、
カルメン役から少しねちっこいお色気を感じるのが関の山で、
ホセ役に至っては、その歌唱と演技から、性とヴァイオレンスの匂いを嗅ぎ取ったことなんて、私はこれまで皆無です。
その点では、リマ、アラーニャ(今よりもっと若いときも今も)、アルヴァレスといった顔ぶれですら全然。
それを、カウフマンはなんてことなくやってのけた。
それも、ほとんどカルメンの力なしで。これはすごいことです。

カウフマンのホセは、カルメンを愛して変わった、変えられた、というよりも、
自分の中にすでにずっと存在していた、これまでの自分が知らなかった”自分”、
それがカルメンとの愛によって解き放たれた時に、ホセはその自分とどうやって向き合うか、という、
そういう観点からこの役にアプローチしています。

これからしばらくカウフマンのホセと共演するカルメン役の歌手は、彼のホセと拮抗しようとすると、
本当に本当に大変だと思いますし、それが出来る女性歌手がいるなら、ぜひその公演を見てみたいとは思いますが、
(隣のおば様の言によれば、ガランチャなら、、ということですが、私はもしかすると、
このカウフマンのホセの前では、ガランチャのカルメンですら、分が悪いかもしれない、、と思う位です。)
しかし、彼のこのアプローチの仕方のおかげで、ある程度カルメン役が淡白でも、
ホセの物語としてだけでも十分に見ごたえ聴きごたえのあるものになるので、
強いてあげてガランチャ位しか、カルメン役を歌唱・ドラマの両面で説得力を持って歌える歌手がほとんどいない現在、
彼のやり方は、逆に重宝かもしれません。

まず、Aキャストのアラーニャの時と全然温度感が違うのが、ミカエラ役とのインタラクションです。
カウフマンはミカエラ役をリアルな恋人と言うよりは、むしろ、母親の期待に答える良い子の自分、
女性の気立ての良さや母性を大事にする心優しき男性としての自分を実現させるための鏡として利用していて、
また、この演出では、ミカエラは母親の存在そのものの象徴のように位置づけられているので、
よって、この役にコヴァレフスカの清潔感溢れるルックス、歌声、歌唱は非常に似つかわしく、
ホセとミカエラの場面はほとんど、”理想的恋人たちの美しき世界”と言った様子を呈しています。
ホセは自分の心にどうしてこうもカルメンの面影がひっかかるのか、と、気になりながらも、
ミカエラといる時の自分、これが自分の本当の姿だと思い込もうとするのです。
コヴァレフスカは、主役級の役を歌うと、どうも存在感が薄くなってしまうのと、
歌う箇所が多いと、どんどんプレッシャーからか、声まで伸びが無くなっていく感じがあるのですが、
このミカエラ位のポジションの役(あとは『トゥーランドット』のリューとか)を歌っている時は、
非常に魅力的で、今日は特に無理の無い美しい音を聴かせていて、とても良い内容の歌唱だったと思います。
主役狙いはやめて、いっそ、純朴女子の脇役系を極めるのもいいかもしれません。
客席からBrava!の声が飛ぶと、指揮者が棒を構えて客席が静かになった瞬間に、
お隣の女性が、”あれ、きっと彼女の旦那だわよ。”と、またしてもマイクを前に暴言。
でも、旦那でなくとも、声をかけたくなる出来だったと思います。



しかし、運命というのはなんと無情なのか!
ホセは、煙草工場仲間のギャルたちと一揉め起こして捕まって護送前のカルメンと
二人きりにさせられてしまうのです。
この場面では、カルメンがホセを誘惑して、ついにホセが陥落する、ということになっていますが、
カウフマンのホセは、しばしば多くのテノールによって演じられるような、
弱さから挫けてカルメンに落ちるような腰抜けホセでは決してない。
ホセはカルメンの誘惑をきっかけにして単に知るのです。
自分の中に、今まで知らなかった性的な愛への飢餓があること、
これまでの自分なら全く軽蔑していたそのような種類の愛が自分にも全く可能である、ということを。
カルメンに惹かれるのは理屈じゃない。
肉体的な愛がまず根底にあって、そしてそれはホセがカルメンを刺し殺す瞬間まで、ずっとそうなのです。
ここで陥りがちなのは、この図を実現するために、カルメンの方をやたら濃いエッチな女にしてしまう、という罠で、
今回の公演でのカウフマンのような、優れたホセの描写を見ると、
カルメンがどういう女か、ということよりも、むしろ、ホセがカルメンをどういう存在として捕らえているか、
ということの方がずっと大事であることがわかります。

結局、ホセは、今まで知らなかった自分を受け入れることを自ら選びとる。
その瞬間、ホセは気が狂ったようにものすごい勢いで机にのっていたカップやら何やらを手で床に払いのけたかと思うと、
カルメンをそこに押し倒して、性行為に入ります。
メトの『カルメン』の舞台で、こんな、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』も真っ青なエッチ描写を、
しかも平土間の二列目で見ることになるとは誰が予想したでしょう?
隣のおば様も私も目玉が飛び出るかと思いました。
それにしても、これはカルメンに誘惑され陥落する、というような生易しいものではない。
まさに、カルメンを奪い取るホセ、なのです。

このことは、二幕で、ホセが釈放されて、酒場に現れる場面でも
(ここの舞台裏から聴こえてくるカウフマンの歌唱がすごく上手くて、聴いていて惚れ惚れします。)、
いきなりサスペンダーを下ろして、エッチする気満々な様子のホセをカルメンがおしとどめる場面にも現れています。
もちろん、この後、カルメンはホセ一人のためにダンスを披露するわけですが、
椅子に座りながら、太ももに立て肘をつき、そこに顔を乗せてじっとカルメンを踊る様子を見ているホセの目には、
まるで視姦でもしているような淫靡な雰囲気と同時に狂気のようなものすら現れ始めていて、
この先の二人の未来を予感させ、ぞっとします。

とにかく、ホセの、この性愛な自分が解き放たれた時、今までの良い子なだけではない、
嫉妬、独占欲、それを隠そうともしない羞恥心のなさという、深いところに眠っていた、
それでいて、ある意味、とても自然な感情がホセの中に一気に呼び覚まされてくるのです。

なので、カウフマンのホセを見ていると、アラーニャの時のような
”ほんっと、情けない男だわ、ホセは。”という他人事のような感情が一切起こらない。
むしろ、どうして、人間として自然な感情ゆえに、
このように、ホセは追い詰められ、カルメンを殺さなければならなくなってしまうのか、と、
彼の境遇が哀れでたまらなく思える。
それから、その気持ちはカルメンに対しても同じで、
彼らは二人とも、人として、自分の自然な感情に素直に生きたがために、このような結末を迎えるのです。

最後の闘牛場外でのホセとカルメンの対決の場面でのカウフマンの演技は本当に凄かった。
どうしてカルメンをここまで追い求めるのか、肉という単純なものによっているからこそ、
余計に説明しがたいのであって、
もうこの場面では、彼自身もなぜカルメンとよりを戻したいのかよくわかっていない。
強いていえば、彼女を殺さずに済むように、ということでしょうか?
彼にとって、カルメンと一心同体になる方法は、ひとつはセックス、もう一つは死になってしまっているのですから。
アラーニャの演技は最後まで、あくまで正気の域、つまり怒りとか嫉妬という言葉で説明できる範囲に収まっていましたが、
カウフマンのホセは、ほとんど茫然自失状態というのか、時々正気になったり、時々おかしくなったりで、
かなり危ない人です。

首にかかった十字架を顔の前に思い切り掲げながら、延々とカルメンに復縁を迫る様子は、
オーメンに登場する神父のようで、神の力を借りつつ、カルメンに取り付いた(と本人が思い込んでいる)
忌々しい憑き物を取り除こうとしているようでもあり、、。
しかし、その後、カルメンを罵りながら、怒りに任せてロザリオを彼女のいる方に向かって投げ飛ばすのですが、
ものの数秒後に、ふと正気に戻った風のホセが手を胸にやると、そこに十字架がない。
自分が怒りに任せて十字架を投げたことすら、記憶にないホセが、
カルメンから、”絶対にあんたのもとにはもどらない!”という言葉を浴びせられながら、
”この十字架に守られていないと、カルメンを殺してしまう、、。”という必死の形相で、
床にはいつくばってロザリオを探す場面は、つい涙が出てきてしまいます。

最後に、”さあ、殺すというなら、堂々と受けて立つわ。”という様子で、
すくっと観客に向かって立ったまま腕を広げて待つカルメンに、
ホセがナイフを差し込む場面は、カウフマンが観客に完全に背中を向けた状態で、
カルメンに突進して行って、一度目に刺したナイフを抜かずに、そのまま二度、三度、と突き上げるように差し込む演技でしたが、
その動きと体勢は、まさに立ったままの性行為そのもの。
しかし、ドラマとして安っぽくなったりどぎつさだけが残るどころか、
最高のテンションを保ちもって、最初から最後まで、性と暴力のテーマをきちんと保ち、
その中にこの二人の愛のやるせなさとそれゆえの美しさを引き出したのは見事です。

唯一残念だったのは、この日の公演では、カウフマンの演技のテンションに、
アルドリッチのカルメンがついていけていなかったことで、演技が割りと上手いという定評のある彼女なんですが、
カウフマンとはレベルが違いすぎます。
それから、彼女は声の方も少し不調だったのか(そしてそれが演技に波及したのかもしれません。)、
このように前で聴いていると、これでは後ろの方の座席では全然彼女の声は聴こえていないんじゃないか?と思わせるような、
プロジェクションの悪そうな響きの声で、一幕と二幕の間で、隣のおば様に、
”今日の公演は『カルメン』ではなく、『ドン・ホセ』と付け替えた方がよさそうね。”と言われてしまう始末。
ダンスは上手いし、ルックスも良いので、二回目の公演ではその定評のあるという演技力を炸裂させて欲しいものです。

クウィーチェンのエスカミーリョは相変わらず不出来で、この役はレパートリーから落とした方がいいんじゃないかと思います。
声域、響き、声のボリューム、役としての雰囲気、どれをとっても中途半端で、
何より本人自身が自信のある歌いぶりじゃありません。

それにしても、性とヴァイオレンスの匂いが漂う中だからこそ、花の歌の美しさは格別です。
取り出したハンカチに大事に包んでおいた花。
Aキャストの時はドライフラワー状態になった赤い花びらが散っていた記憶があるのですが、
今回は枯れて白茶色くなった花びらで、ハンカチからなかなか出てこないそれを半狂乱になりながら探して、
やっと探し当てた一片を、ホセが愛おしそうに目の前にかざしながら、
La fleur que tu ma'avais jetée dans ma prison m'était restée
(君が投げたこの花は牢獄の中でもずっと一緒だった、、)と歌い始めるところは本当にじーんと来ます。
et j'étais une chose à toiでのtoiはもちろんピアニッシモ。
隣のおば様も、”生でこんなに美しい花の歌を聴いたのは初めて!”と大感激。
そういうことは、どうぞ、どんどんマイクの前で言っちゃってください!!!

私は残念ながら今シーズンのスカラのオープニングでのカウフマンのホセは見れなかったのでそれとは比べられないのですが、
DVDで持っているROHの公演より(アントナッチとの共演で2007-8年シーズン)、
ずっとずっと役の解釈が深くなり、進化しています。
シーズン終わりになって、とんでもない公演が出てきたと思いました。

Kate Aldrich (Carmen)
Jonas Kaufmann (Don José)
Mariusz Kwiecien (Escamillo)
Maija Kovalevska (Micaëla)
Keith Miller (Zuniga)
Liam Bonner (Moralès)
Elizabeth Caballero (Frasquita)
Eve Gigliotti (Mercédès)
Earle Patriarco (Le Dancaïre)
Keith Jameson (Le Remendado)
Conductor: Alain Altinoglu
Production: Richard Eyre
Set and Costume design: Rob Howell
Lighting design: Peter Mumford
Choreography: Christopher Wheeldon
Associate costume designer: Irene Bohan
Solo dancers: Maria Phegan, Griff Braun
Orch B Even
OFF

*** ビゼー カルメン Bizet Carmen ***

祝!ルイージ、メトの首席客演指揮者に決定!

2010-04-27 | お知らせ・その他
会社からの帰宅途中、連れからの電話で発表を知って、わたくし、マンハッタンの路上で狂気乱舞いたしました!
NAO@NYCさんからのコメントにもある通り、ルイージが、メトの首席客演指揮者に就任です!!

全国ネットでのラジオ放送があった『トスカ』のマチネ(4/24)で、
レヴァインの代わりに指揮に入ると決まった時に、もしや、これは、、、という予感がありましたが、
このタイミングでの発表ということは、4/24の公演の出来も決定に貢献したのでしょう。
マチネのラジオ放送は、レヴァインも聴いていたらしいですから、
あれでレヴァインの承認が出た、ということかもしれません。
(後注:正しくは、NAO@NYCさんのご指摘にある通り、4/20の公演で承認が出たようです。)

今シーズンのタッカー・ガラ、それから『エレクトラ』で、
メトの次期音楽監督にはルイージを!と吠えまくっている私ですが、
ええ、そうですとも、彼がドレスデンの次にチューリッヒに決定していようが、まだあきらめてはいません!
ただ良い指揮者、というだけではなく、オケとの相性が良い、
こういう幸運なパターンはいつもあることではないのですから、、。
今回の決定は、次期音楽監督への第一歩!実に喜ばしいことです。




TOSCA (Sat Mtn, Apr 24, 2010)

2010-04-24 | メトロポリタン・オペラ
ラセット、カウフマン、ターフェルによるトスカBもいよいよ今日が最後の公演。
数日前、クリーニング屋の配達が来たので、
私のアパートの扉を開けて、いつものお兄さんと天気の話なんかをし終えてチップを渡そうとしていたところへ、
メイン・エントランスのある階下から、”Tosca~っ!!”というものすごい叫び声が聞えてきました。
こんなこと叫ぶ人は、この建物であの人しかいない、、。
そう、当ブログに再び登場!の我が店子友達です。
どうやら、これからそっちに行くから、扉を閉めずに待ってろ、ということらしいです。
クリーニング屋のお兄さんは怖くなったみたいでそそくさと帰って行ってしまった代わりに、
俳優業と同時にジムの経営とインストラクターを兼任する店子友達は、
ものすごい勢いで階段を駆け上って来て、2秒後位にはうちの部屋の前に立っていました。

普段からかなりハイ・テンションの彼なんですが、この日はさらにそれに拍車がかかっていて、
”いやー、今回(Bキャスト)の『トスカ』はいいねー!”
私が”でしょ、でしょ?(ヘッドでもない彼にカウフマンと名前で言っても多分わかってもらえないと思い)
あのテノール最高でしょう?”と言うと、
店子友達はそれを軽く流して、”僕はね、スカルピアだよ!ブリン・ターフェル!”
あらま、ちゃんと名前を知っているなんてやるわね。
すると、おもむろに彼が私の方に顔を思いっきり近づけてきて、なぜか突然ひそひそ声で、
”ところでさ、スカルピアの手下の役でさ、もう一人、僕と似た格好してる奴、いるでしょ?
彼の演技、どう思う?”
、、、え?どうって言われても、あんまり覚えてないかな、、、だって、カウフマンを見るのに忙しいし。
”頻繁に皮手袋をはめなおしたり、シャツの胸をはだける仕草をしたりしてるんだけどさ、、”と言うので、
ああ、そうだったな、と思い、”確かにあの人ちょっと動き多いよね。”と言うと、
”そうなんだよ!あれで僕ら残りのエキストラを出し抜こうとしてるんだよ。姑息なんだよ!”
(笑)あらららら、、、カヴァラドッシ役の歌手とスカルピア役の歌手の間で火花がバチバチ!っていうならともかく、
エキストラ同士で何もそんな、、って感じですが、
そういうパーソナリティだから芸の世界でやっていけるんだろうな、と微笑ましくもあり、
”いいの、いいの。彼にはやりたいようにさせておけば。
彼がそうやってばたばたした演技をすればするほど、あなたの静かな演技の方が光るんだから!”
なあんて、彼を励ますために適当に言った言葉と思われるかもしれませんが、
実はこれ、私が自分の鑑賞経験の中から得た本当のことなのです。



それでとりあえず溜飲が下がったのか、彼は満面の笑みにもどって、”やっぱり~?”
そして、”というのはね、実はさあ、今回の(Bキャストの)リハーサルの途中で、
舞台監督(注:案の定というか、ボンディはBキャスト以降のリハーサルには姿を見せておらず、
代わりに演技指導に当たったのがこの舞台監督だったようです。
ま、ボンディは二度とNYに来れないように、私が大西洋岸に塩まいておきましたから。)が僕の演技に色々注文をつけ始めたんだよ。
そしたらね、ブリンがそれをさえぎって、彼は自分のやっていること、きちんとわかっているから、
そんな必要はない、って言ってくれたんだよ!
そんで、その後、僕の横を通り過ぎながら、ウィンクして、Good acting!だって!”
この間ずっとマイ店子友達は、私を彼本人に見立てつつ、自分はブリンになりきって芝居をして(それも大熱演、、)の解説です。
以前、道端でおしゃべりした時にも、同じ手法で、自分が写真撮影中に大御所ファッション写真家(男性)に迫られた時の話を、
私を自分に見立てて熱演するもので、道行く人がみなぎょっとしてました。
私も目が点になりましたが、彼の場合、演技があまりに真に迫っているので、
変にいやらしい感じがなく、ついいつもなすがままになってしまいます。
それにしても、へー、ブリンに褒められるなんてすごい!!しかもワルの役で!!

それですっかりブリンにいちころになった(もちろん舞台でのパフォーマンスにもですが)彼は、
メトのギフト・ショップで即買いしたブリンの最新CD『Bad Boys』を携え、彼の楽屋を訪ねて行ったそうです。
”サインをお願いしたらさ、君、名前はなんて言うの?って聞いてくれてさ、
僕の名前入りでサインしてくれたんだよー!!”
んまっ!ブリンってば、私の時はそんなこと一言も聞いてくれなかったのに!
”それに比べてヨハネスはちょっと調子づいてるかな。”

ん、、、? ヨハネスって一体誰?
”ヨハネス・カウフマン。君の好きな。”
違うよー、ヨナスだよ!と言っても、本人に全然覚える気がないらしく、
その後も”ヨハネス””ヨハネス”と連呼し、その度に私が”ヨナス”と言い直すのに、お構いなし。
”ヨハネスもさー、CD買ってサイン貰いに行ったんだけどさー、
こんな風(といいながらよその方を見て誰かと喋りながらCDにサインを書きなぐる仕草をして)だったんだよ。"
だから、さっきカウフマンのことを軽く流したんだな。
それにしても調子づいてる(He's full of himself.)、ってどういうことー!?



そこで、私が”えー、それ、私の時は反対だったよ。ブリンにサイン貰ったときがまさにその状態だったけど、
ヨナスはすんごく礼儀正しくて、ちゃんとアイ・コンタクトして、聴きに来てくれてありがとう!っていう感じだったよ。”と言うと、
私より10歳ほど年上である店子友達は、意味深な笑いを浮かべて、私の腕をこづきながら、
”それはね、He's young, you're young. He's a boy, you're a girl. そういうこと!”
、、ったく、たかだかサインを貰うという行為に、なんだってそんなロマンスめいた脚色を施すのか?って感じですが、
相変わらず突っ走っていて面白い人です。

”『トスカ』だけじゃなくて『カルメン』にも出るよ。君、来るでしょ?”
ガランチャが出演していたAキャストにも登場していたらしいのですが、気づかなかった。
もちろん、行くわよ、探すわよ!というと、”OK!じゃまたねー!”とすごい勢いで階段を上って行ってしまいました。

今日の土曜マチネの公演のチケットが取れた、という連絡を受けて席番号を聞いた時、
私の歓喜の雄たけびがオフィスに轟きわたったことはトスカBシリーズの二回目の公演の記事に書いた通りですが、
誰が責められるでしょう?平土間三列目の中央。こんな間際で見つかったとは信じられない良い席です。
トスカBシリーズの鑑賞の締めにこれほどふさわしいシーティングがありましょうか!
今日はラジオの放送のためのマイクがすぐそこに立っているので、興奮しすぎないようにしなくては。



この公演はBキャストの最後の公演ですし、ラジオの放送は全世界に配信されることもあって、
メインのキャストがこの日に最高のものを出そうとするのは無理からぬことだと思います。
よって、主役の3人については17日の公演の延長線上にある歌唱や演技を見せていて、
もちろん、コンビネーションが良くなって来て、さらに洗練された感じはありますが、
基本的な役へのアプローチは17日からほとんど変わっていないと思いました。
むしろ、一番演奏の内容が変わったのは指揮・オケかもしれません。
ルイージはこういうところが本当に素晴らしいと思い、私が彼をいい指揮者だな、と思う理由なのですが、
ラセットが歌いやすいような、テンポやトランジションの工夫が本当にたくさん見られました。
ラジオで公演を聴いたヘッズの中には、”なんでルイージのトスカはこんなに細切れなんだ?”
と不満を表しているなかなかに鋭い人がいましたが、
これはルイージがラセットのために音作りを調整したからであって、最初からこのような風だったわけではありません。
指揮者の指示通りに歌手は歌えるべきなんじゃないか?という意見もあるでしょうが、
メトでやっていくには、極端に少ないリハーサルとか、その他もろもろの障害を越えて、
今できうる最高の演奏をオファーするにはどうすればよいのか、という風に
発想を持っていける人でなければなりません。
文句を言ったってしょうがないんですよ。
今の状況に至るには、色々な動かしがたい条件が重なっているんですから。
リハーサルは確かに少ないし、それが良い訳はありませんが、それを心配すべきは支配人やスタッフであって、
今日、舞台に立つ歌手や指揮台に立つ指揮者の仕事ではないのです。



私がルイージを素晴らしいな、と思うのは、例えば今日のような公演で、
思う存分、オケ重視の演奏をかまして、”ルイージ、素晴らしい指揮!”との名声を固め、
不足部分は、ラセットの歌唱の未熟さという要素に押し付けることも出来た。
それなのに彼がそうしなかった点です。
彼は思う存分に自分のしたいようにオケを操る代わりに、フォーカスの比重を、ラセットをサポートする方に寄せた。
これがラセットに与えた効果は本当に大きくて、彼女の歌に関しては、一番のびのびと歌っていて、
今日の公演が最も良かったと思います。
このことで、先に紹介したようなオケの演奏への多少の不満を感じる人はいたでしょうが、
その代わりに、ラセットの歌も含めた公演全体の印象としてはおそらく彼が好き放題にオケを操ったときよりアップしたはずです。
彼は首席客演指揮者に任命された後に、インタビューの中で、普通に客演して指揮するのと、
首席客演指揮者として指揮することの違いは?と聞かれて、
(後者の立場では)自分だけでなく、メトというカンパニーの一員として公演の内容に責任を負うことになると思います、
という趣旨のことを答えていましたが、このいい意味でのエゴの無さは、早速にそれを実践しているようで、
本当に頼もしい!と思いました。



カウフマンについて、数年前に聴いた時に比べて一番変わった点は
同じ演目の公演同士間でパフォーマンスの出来にむらが少なくなったことと、
勝負強さ、舞台負けしなさ、と言った面に更に強くなったことかもしれないな、と思います。
『トスカ』Bについては私が観た3回のうちで、彼のパフォーマンスの内容にがっかりさせられたものは一つもなかったです。
初日から今日にいたるまでのコンディションの持って行き方、聴かせどころでの集中力の高さ、
といった面でも非常に優れていました。
それから、私が彼のカヴァラドッシをいいなと思う理由は、二つあって、
生の舞台としてこの作品に接する時に観客が期待する歌唱というものをきちんとわかっていて、
それにきちんと答えてくれる点が一つ。
これは二幕のVittoriaのような超聴かせどころのほかにも、
一幕でのトスカとの重唱の場面でトスカがArde in Tosca un foller amor!と歌った後に、
かぶるようにして入ってくる Ah! m'aavvinci ne' tuoi lacci.(ああ、僕は君の愛の罠にかかってしまった)”
のAhを本当にスリリングに歌ってくれるところにも現れていると思います。
私は彼が声量がないとは全然思いませんが、逆にオペラ歌手として、飛びぬけて声量があるというわけでもないと思います。
それでも音がエキサイティングに聴こえるのは、以前にも書いた通りに、
音が飛ぶ早さ、声の勢いのファクターがより大きく貢献しているように思います。
17日の記事でも書いた通り、二幕の拷問の場面で、舞台上手袖から歌う”Vi sfido!(拷問を)甘んじて受けるぞ!”は、
グランド・ティアーのような、舞台から離れた席でも勢いを感じましたが、
どうやら完全に下手袖に体を向けて歌っているみたいで、
今日のこの平土間二列目で聴くと、すぐ目の前で豪腕ピッチャーが投げる球を横から観たような非常にシュールな体験でした。
こういう時の彼の発声というのは、私にはほとんど音が目に見える感じすらするのですが、
これに似た感覚を持ったことは、他の歌手ではあまりないのです。



Aキャストで同じ役を歌ったアルヴァレスの歌が、
フォームの美しさや普通の意味で言う”歌の上手さ”がカウフマンよりも上であったとしても、
私にはどうしてもカヴァラドッシ役としては、わくわくするものに感じられないのは、
観客がこの役に期待している熱さというものを彼が今ひとつ理解していないか、
理解していても、声質などの理由からそれを実行する術がないか、のどちらかなように感じます。

17日のレポートでも先取りして書いた通り、”妙なる調和”の最後のtuを思い切り延ばして音を段々絞っていく、というのが、
カウフマン・スタイルで、多分彼を嫌いな人には”悪趣味!”と言われかねない終わり方でしょうが、
これはこれで一つの聴きものなので、私はまたこれが聴ける!と楽しみにして来たのに、
今日の観客の間抜けさは、手元に銃があったら射殺してるところでした。
私が観た他の公演では、ちゃんと完全に音が消えるまでみんな拍手を待っていたのに。

これがその今日の公演からの”妙なる調和”の音源です。
ラストでMadokakipがわなわなしているところを想像しながらお聴きください。
(なぜ、これをポスティングした方は、別のオペラハウスでの舞台での写真を使うのか?
このYou Tubeの写真はメトのプロダクションではありませんが、音はまぎれもないこの日の公演です。)




そしてこの作品で、最も脈拍数があがる箇所の一つであり、もしそうでなければ、
何かがおかしいと思わねばならない、の、Vittoria, vittoriaの部分を。




二度目のVittoria!を歌った後に、(拍手や歓声やらが入って来なければ)オケの音が入って来る前に、
ほんの短い間がありますが、Vittoriaの言葉自体がどう歌われるか、ということもさることながら、
この間(ま)にどれ位Vittoriaの言葉の余韻とか熱さが残っているか、というのが、私には肝に思われるのですが、
その点でもAキャストのアルヴァレス、この数日後に聴いたCキャストのジョルダーニと比べ、
カウフマンの歌が最もエキサイティングに感じられました。
アルヴァレスの歌は、ここの間(ま)で少し失速するというか、興奮がその後のフレーズに滑らかに続いていかない感じがあるのです。

もう一つ、私が彼のカヴァラドッシを好きな理由は、そんな風に客の期待に答えながら、
時々、おや?と思うような変化球を混ぜてくることで、
それが14日の感想に書いた、È qui che l'esser mio s'affisa interoに続くocchioの頭のoの扱い方などです。

またカウフマンについてしゃべりすぎてスペースが足りなくなって来ました。
そうなってしまったのは、一つには、非常に残念なことに、ブリンがこの日ベストの歌唱ではなかったせい、というのがあります。
彼がトスカBで果たした役割は単なる歌唱以上のものだったので、私は彼への賞賛の声を惜しみませんが、
せっかく17日にあんないいコンディションの歌唱を聴かせていたのに、、と思うと、
この日の公演がラジオにのってしまったのは、気の毒に感じます。
今日は最初から声のテクスチャーが少し荒れていて、あれ?と思いましたが、
テ・デウムでかなり無理に歌っていたせいもあり
(多分、オケの奴ら、こんな爆音たてやがって、ちきしょー!!と思っていたに違いない。)、
二幕のトスカを追い詰める場面では、一度、痰がひっかかったような音を立てていたりして、かなり辛そうだと思いました。
それでも手を抜かず、最後まで全力で歌い演じてくれた彼は、
ボンディ演出を”救いようのない大馬鹿演出”と感じているヘッズが少なくない中で、
トスカBがその予想に反して、何とかドラマとしての息を取り戻し得た最大の牽引力だったことは間違いありません。



それからラセットのトスカ。
歌の内容に関しては14日と17日と共通のこれから改善して行かなければならない点もありましたが、
ルイージの協力もあって、私が聴いた三日の中では最も歌いやすそうでした。
しかし、彼女の演技、これは歌以上に、まだまだこの先面白いものになって行きそうなポテンシャルを感じます。
特に、ラストの、カヴァラドッシが銃殺されてしまった後の演技が出色で、
兵士らが去る間に、”O Mario, non ti muovere, s'avviano...taci!
Vanno, scendono... Ancora non ti muovere.. (マリオ、まだ動いちゃだめよ、
今行くから、黙っていて。行くわ、降りて行くわ。まだ動いちゃだめよ)”と歌いながら
客席に背中を向けて、カヴァラドッシに近づいて行こうとして、
オケの演奏が止まるところで、壁にしなだれかかって座って死んでいるカヴァラドッシの様子を見て、
一瞬固まった様子から、彼女の心に、もしかすると彼は本当に死んでしまったのでは?という、
恐ろしい予感がよぎったことがわかります。
驚愕とにわかにそれを信じることが出来ないでいる表情を浮かべたまま、
客席の方を向いて、そして、そのような嫌な予感を振り払うように大きく一つ呼吸をし、
どうか、この予感が間違いでありますように、という思いと、
でも、どこかでもう彼の死を悟っている、その二つの気持ちがせめぎ合う中で、
カヴァラドッシに歩み寄りながら、勇気を振り絞って真実を知るべく、
続く”Presto, su! Mario! Mario! Su, presto! Andiam! Su, su! Mario, Mario!
(急いで起きて、マリオ!マリオ!さあ、急いで!行きましょう!早く、早く、マリオ、マリオ!)と語りかけます。
そして、マリオを揺り動かそうとして、彼が死んでいることをはっきりと知るわけですが、
そこでオケの音が入ってくるまで、この緊迫感とトスカの感情の推移の表現は本当に素晴らしかったです。
今まで私が生で聴いたトスカで、この部分にこれだけの感情の量を込められた人は彼女が初めて。
大概はAキャストのマッティラのような、ざーっと出来事の表面をなぞるような演技が多いので、、。

本当にこのトスカBには色々な発見と楽しみがあって、初日からBキャスト最後の公演である今日まで、
どの公演も心行くまで楽しませて頂きました。
演出による制限を創意工夫で乗り越えつつ、この大変な試練すら、
自分たちの力でどれだけ公演を見応え・聴き応えあるものに出来るか?という健康的なチャレンジに転換させ、
私の大好きな演目の一つである『トスカ』に命を吹き込んでくれた、
3人のメイン・キャストとルイージのプロフェッショナリズムに最大級のBravi!を送りたいと思います。


Patricia Racette (Tosca)
Jonas Kaufmann (Cavaradossi)
Bryn Terfel (Scarpia)
John Del Carlo (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
Richard Bernstein (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Orch C Even
OFF

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

DIE FLIEGENDE HOLLANDER (Fri, Apr 23, 2010)

2010-04-23 | メトロポリタン・オペラ
ドレス・リハーサルから3日経った今日は『さまよえるオランダ人』のシーズン初日です。
今日はおかげさまで前の晩良く寝れまして、体調はこれ以上ないぐらいいいです。
あのドレス・リハーサルで聴いた大野さん率いるオケの緩さや、
ウーシタロやヴォイトのぱっとしない歌は、私の睡眠不足ゆえの幻聴だったのか、、?
そうであることを願う!

そのヴォイトについて、ドレス・リハーサルのレポートでふれずにいてしまったのですが、
あの日は、いくつかマーキング(=フル・ボイスで歌わないこと)していた箇所もあって、
リハーサル仕様の歌唱ではあったので、今日はもしかしたら、
見違える、いえ、聴き違えるような歌を聴かせてくれるかもしれません。



しかし、またしても序曲でがっくり。全然リハーサルと変わってないか、
下手するとさらにまずくなっているくらいか、、?
私が見たところでは、肝心なところでオケにクリアな指示が出ていないように見える箇所があるように感じるんですが、
大野さんがきちんとした指揮のテクニックを持っていないことはないと思うので、
これは一体何なのか、、?と本当に不思議な気持ちです。
もしかすると、ご本人は指示を出しているつもりなのかもしれませんが、オケには伝わってないと思います。
あうんの呼吸というのは、もしかしたら、彼が音楽監督を務めていたモネや、
現在首席指揮者であるリヨンなんかでは期待できた・できるのかもしれませんが、
メトでは大野さんはあまたいる客演指揮者の一人ですし、
与えられた短いリハーサルの間によほどがっちり意図をオケに伝えられたのでなければ、
それをオケに期待するのは危険で、やはりはっきりとした指示ほど強いものはありません。
後、大野さんほど場数を踏んでいる指揮者でそれはないと思いたいのですが、
もしかすると、メトやその舞台に立つ歌手たちに少し気後れがあって、遠慮している可能性もあるんでしょうか?
リハーサルの時と全く同じで、やっぱり自分が音楽をリードして行く!オケも歌手も自分が引っ張る!という感じよりは、
自分はとりあえず指揮するんですが、オケや歌手さんたちに演奏して・歌ってもらって、
ま、それに合わせて僕も振りますんで、というような、”とりあえず”&”なんとなく”感があるのです。
もちろん、時と場合に応じて、歌手に合わせることが必要・大事な場面もありますが、
音楽作りの基本の姿勢、デフォルトがそれというのは、やっぱりちょっとおかしいと思います。
もちろん歌手もオケも、(もしそのような気後れが大野さんにあったとして)大野さんのそんな気持ちとは裏腹に、
当然ながら、そしてそれは正しいことなのですが、オペラの公演の音楽的リードは指揮者がとるもの、と思っているので、
二人の外野手の間に凡打が落ちるような、責任の所在を相手になすりつけるようなエラーになってしまっているのです。
もし、逆に大野さんの頭の中にきちんとした指揮のビジョンがあったというなら、
それは、それを実現させるための指示がオケに伝わっていないということで、
テクニックの問題、もしくは不十分な準備という論点に戻ってしまいます。



私は普段、メディアの批評は一応読みはするものの、私の考えとは一切関係ないと割り切っていますが、
(特にNYタイムズとはしばしば意見が食い違う。)
日本人として、大野さんの今回のメトでの指揮の評価が気になる、という方もいらっしゃると思うので、
いくつかご紹介します。
まず、コンチェルト・ネットのアーリーン・ジュディス・クロツコの評。
”ジェームズ・レヴァインによって磨き上げられたアンサンブルを誇るメト・オケのような優れたオーケストラをしても、
この素晴らしいスコアからどれくらい劇的インパクトを引き出せるかというのは、指揮者の技量にかかっている。
そして、ああ、大野和士の指揮は、残念な失望に終わってしまった。
彼は平たいテクスチャーと変化のないサウンドで塗り固めた演奏でオケを引っ張り、
時に現れるライトモチーフはかろうじてひねり出される、と言ったふうだった。
彼の指揮棒から出る音楽には、ワーグナーが海の力とそして運命の厳しさを表現するために込めた、
必要不可欠なドライブに欠けていた。
代わりに作品の至るところで感じられものといえば、無関心さ、やる気のなさ、である。
大野はしばしば歌手に十分なサポートを与えず、かと思えばオケの音で彼らを沈めてしまうこともあった。
彼の指揮はまた概して舞台で進行していることとのコーディネーションが悪かった。
(中略)
メト・オケにこの指揮はなかろう、、。”
いやー、びっくりしました。自分が書いたかと思う位、同じ意見で。



そしてNYタイムズのアンソニー・トマシーニの評。
”、、、主な問題点は、フィンランドのバス・バリトン、ユーハ・ウーシタロによるオランダ人役の中身のない表現と、
大野和士による、こちらをいらいらさせる指揮、である。
東京生まれの大野氏は、2007年にメト・デビュー、
現在、フランスのリヨン・オペラの首席指揮者を務め、世界中の主要歌劇場で指揮している。
にもかかわらず、このワーグナーの重要な作品で、彼が何をやりたいのか、私にはちっとも理解できなかったし、
結果として出てくる音も無力だった。
ピットの中では彼は動きも大きく、エネルギー豊かだ。
しかし、彼がオーケストラから引き出した演奏は統一感がなく、
時に引き締まってぱりっとしたかと思うと、突然集中力を失い、おざなりになって、
音の入りがばらばらということもしばしばだった。
さらに問題なのは、演奏に様式、ドライブ、ドラマの三つが欠けている点である。
時に、彼の指揮から、軽さ、明晰さを音楽に引き出そうとする意志が伺え、
それはイタリア風のリリシズムという要素を持つこの作品においては、妥当なアプローチではあるのだが、
音楽が薄っぺらく、生気がないものに聴こえることが多すぎた。”
”いらいらさせられる指揮”って、大野さんも大概な言われようですが、
まあ、作品が作品ですし、最低でも期待している躍動感というものがあるので、
それが欠けていたらいらいらもするし、私もしたんですけれども。



それからこちらはサン・フランシスコ・クロニクル紙に掲載されたものなのですが、
自社の批評家を実際の公演に送れない地方紙と同様、共同通信(AP)からの借り物評で済ませてます。
(ただ、SFクロニクル紙は、メトについても、公演によっては自社の批評家のオリジナルの評を
掲載することもあったように記憶しています。)そのAPのロナルド・ブラム評。
”リヨン・オペラの首席指揮者である大野和士はあまりにそそくさと旋律を演奏することを重視して、
顔にしぶきがかかってくる気がようなリアルな海の感覚が犠牲になってしまった。”
え?そ、それだけ、、?
ただ、私の考えではテンポの物理的な数字自体はあまり問題ではなくて、
例えば、クナパーツブッシュの指揮の音源(バイロイト)での序曲など、
物理的な数字では遅いんでしょうが、きちんと緊張感が保たれています。
問題は、このいい意味でのテンション、緊張感がきちんと演奏に保たれているかということで、
これがきちんと感じられるなら、天文学的な数字の速さでも、またこれ以上遅く演奏できません!という亀演奏でも、
どちらでも構わないと思います。
限度を越えた遅さ、速さは結局このテンションを失わせることになると思うので、
このステートメントはいずれの場合も有効だと思います。

、、と、まあ、こういう感じなんですが、調べてみて驚いたのは、他の演目に比べて、実に評自体が少ないこと!
一応ヴォイトのような有名歌手がキャスティングされながら、
良い公演、話題の公演なら取り上げてくれるはずの他紙・誌(フィナンシャル・タイムズ、NYポストなど)に
完全黙殺されている点にも、つまり、評がないということ自体に、この公演のふがいなさが表れています。



ウーシタロの歌ですが、私はドレス・リハーサルに重ねて、
今回の本番の公演を聴いて、やはり、彼にこのオランダ人役は厳しいのではないか?
という意見に達しつつあります。
You Tubeに彼の2005年の公演と思われる映像が上がっていて(Uusitalo, Dutchmanと検索すると出てきます)、
野外の公演のため、ヘッドセット型のマイクをつけて録音しているんですが、
すでにこの頃から今の歌に至る兆候が現れていると思います。
彼の歌うオランダ人役は、音域的に非常に制限があって、あるところ以上にいくと、
ざらっとした手触りがあるのは、上で紹介した評の中でそう述べているものがある通りで、
すでにこの2005年にもそれが確認されます。
それがもっと進行してしまった状態が、今回のメトでの歌唱といってもいいと思います。
また、この2005年の音源は野外での公演ということで、メトで歌う時と似た心理作用が働いているのかも知れませんが、
発声にほとんど不必要といってよいレベルの負荷がかかっているように感じます。
不必要という言葉は、ここでは、その努力が音にどんな面でのパフォーマンス・アップとしても表れない、という意味で私は使っています、
もしかすると、もう少し規模の小さい劇場ではこんなことはないのかもしれませんが、
もしワーグナーを一線で歌って行くというのであれば、
メトほどではなくてもそれなりにサイズのある劇場で歌わなければならないこともあるわけで、
その時には必然的に今回のメトでのような歌唱になってしまう、ということになると思います。
ドレス・リハーサルの記事でも書きましたが、この負荷のせいで、音の重心が頻繁にぶれるような歌い方になっていて、
この点は劇場で聴くより、シリウスなどマイクを通した音源でよりはっきり感じられます。
彼のオランダ人は、妙な感情過多な歌い方を排し、自らの運命に厳しい感じやエレガントな雰囲気もあり、
方向としては私は嫌いではないのですが、
やはり、素材に難があると、結果として出てくる料理のおいしさにも限界があるのは自明なことです。



ヴォイトは一応今日はフル・ボイスで歌ってますが、歌の全体の印象としてはそうドレス・リハーサルの時と変わりありません。
以前の彼女はトップの響きが非常に美しかったと言われていて、
それは年末の『エレクトラ』の時に、まだ、ある条件のもとでは出てくる可能性があることが十分確認出来ましたが、
ここ数年のワーグナーの全幕作品の彼女の歌唱で、あれと同等のものを私は残念ながら彼女から聴いたことがないです。
125周年記念ガラでの『ジークフリート』からの抜粋の歌唱ではそれを感じましたが、
特にスタミナを要される演目で、抜粋を全幕と一緒にすることは出来ないので、、。
今日のゼンタも、残念ながらトップに軽い緊張感がありました(もちろん悪い意味での)。
しかし、私の目から見て、彼女の歌唱で他の何よりも大きい問題に思えるのは、
彼女に役をインターナライズする能力、もしくは努力に欠けているように感じられる点で、
これが、彼女の歌はどれも少し退屈というか、わくわくさせられない原因になっているように感じられます。
『エレクトラ』での歌唱は、彼女のそういった努力が身を結んだというよりは、
彼女の個性、性質、すべてが上手くマッチした幸運の産物なのではないか、というような気もしているのですが、どうでしょう?
特にワーグナーの上演では、いまだ、歌手側の歌唱での負担があまりに大きいこともあって、
他のレパートリー(例えばヴェルディやプッチーニの作品)で基準になっているようなレベルの演技が出来なくても、
多少歌手が大目に見てもらえる部分もあるのですが、それにしてもヴォイトの演技は、
ちょっと水準が低すぎるというか、舞台監督に言われた動きを何も考えずに再現しているようにしか見えません。
この『オランダ人』とほぼ、もしくは全く同時期にメトで演奏された演目で見られた
『トスカ』でのラセット、カウフマン、ターフェルの、『カルメン』でのカウフマンの、『ルル』でのペーターゼンの演技と比べると、余計にそのお粗末さが目立ちます。
作品の種類が違うと言われるかもしれませんが、どんな作品でも、自分の演技が
歌や作品のコンテクストとどのように関わっているかと考えながら実行するのでなければ、意味がありません。
特に第二幕でエリックになじられながらも、オランダ人への思いが募って、
エリックが自分の見た夢(これが正夢になってしまうわけですが)として、
オランダ人とゼンタの出会いと愛を暗示する内容を語ると、エクスタティックな興奮に耐え切れなくなって、
絵を抱えながら、後ろに仰け反る演技は、本来なら、この作品の中で、
ゼンタの中に鬱屈していた精神的愛と実在するオランダ人への性愛が結びつく、
空想の世界と実際の世界が結ぶつく、非常に重要なシーンとなったはずが、
彼女の表面だけをなぞった演技に、オペラハウスの客席からは爆笑・失笑の渦。
こういう演技は、表面だけ取り繕うのではなく、内面から恥を捨てて本当に自分の中で咀嚼して演じないと、
このようなコメディ・アクトになってしまう、、、。
レパートリーは全然違いますが『カルメン』のカウフマンのエロ満開の演技
説得力があるのとは、そこに違いがあるのです。
ウーシタロのオランダ人の性格描写に難点があるというなら(トマシーニよ、お聞き!)、
ヴォイトのゼンタにも同じくらい難点があったと思います。



エリックを歌ったステファン・グールド。
彼はアメリカ人で、Stephenという綴りは、本人、いや、親の、と言ったほうがいいのかもしれませんが、
の意思で、スティーブン、ステファン、いずれの発音もありえます。
新国立劇場の資料では、ステファンとしているようなので、彼に関しては、こちらでもステファンにしておきます。
彼の発声と歌唱、私は嫌いですねえ、、、。
大きい声を張り上げるばかりで、ニュアンスというものが全く欠落しているし、
ドラマと無関係に、歌ばかりがばりばりと進んでいく感じ、、、。
最近、ワーグナーの作品がレパートリーに入っているテノールにこの問題を抱えている人が本当に多いように感じますが、
私は彼の発声にも、どこかやり方が正しくない耳障りな響きを感じます。
『アリアドネ』のランス・ライアンもワーグナーをレパートリーにしていますが、
彼にも私は不自然な発声の匂いを感じます。)
すでにトップにはざらざらした音が混じりだしているように思うのですが、
彼の場合、そんなテクスチャーの問題よりも、まず、歌に全く知性が感じられないのが嫌です。
エリック役だからかろうじてまだしも、この歌唱を他のワーグナー作品でやられたら、きついだろうなあ、、。

では、指揮、キャストが総倒れだったかというと、たった一人、健闘していた人がいます。
ダーラント役のケーニッヒです。
彼はつい最近、『魔笛』のザラストロでも聴く機会がありましたが、
私は圧倒的にこのダーラント役での彼の方が良いと思いました。
ザラストロの時ほど声量は威圧的ではなく、非常にコントロールされていて、
言葉に込められたニュアンスの豊かさは、グールドに爪の垢でも煎じて飲んでほしいくらいです。
彼はダーラントの強欲な部分をそう強調せず、お金も好きだけど、娘のことをとても大事にしている、
気の好い、愛すべき人物としてこの役を歌い演じていて、
このタイプのアプローチとしては、これ以上なかなか求め得ないほど上手く歌い演じています。
せっかくの好演が指揮と主役に台無しにされて、本当に気の毒。

舵取り役のラッセルは、風邪から病み上がり直後だったと思しきドレス・リハーサルの時よりは、
少しコンディションが上を向いて来ているように感じましたが、
彼の本来の歌唱として聴くには少し躊躇するレベルですので、
リハーサルのレポートで書いた以外の感想は、特に書かないでおこうと思います。


Juha Uusitalo (The Dutchman)
Deborah Voigt (Senta)
Hans-Peter König (Daland)
Stephen Gould (Erik)
Russell Thomas (The Steersman)
Wendy White (Mary)
Conductor: Kazushi Ono
Production: August Everding
Set design: Hans Schavernoch
Costume design: Lore Haas
Lighting design: Gil Wechsler
Stage direction: Stephen Pickover
Dr Circ A Even
ON

*** ワーグナー さまよえるオランダ人 Wagner Der Fliegende Holländer ***

メト2011年日本公演 メト・オケ・コンサート featuring...

2010-04-22 | お知らせ・その他
今日メトから受け取った郵便(リンク先の画像はクリックすると拡大します)によると、2011年の日本公演に合わせ、
パトロン向けの日本同行ツアーが企画されているようです。
ネトレプコとカレイヤの『ボエーム』、ダムラウとベチャーラの『ルチア』、そして『ドン・カルロ』、
ディナー諸々と、寄付金を足して総計22,500ドル也。
ただし、これには航空費は含まれていないそうです。どんだけ高い、、。

で、なんと、その同行ツアーには、メト・オケの特別コンサートが含まれている、とあります。
メト・オケ・コンまで企画されていたとはちょっと知りませんでした。
指揮は本当に日本に行けるのか、神のみぞ知る、のレヴァインで、
メト・デビュー40周年を記念して指揮台に立つそうです。
それから、このコンサートは、ネトレプコとホロストフスキーがフィーチャーされるそうです。
とすると、歌うのは何かのオペラの抜粋かもしれませんね。



上の写真は唯一彼らがメトで共演したことのある『戦争と平和』からのものですが(公演は2002年)、
あとは、『オネーギン』や『リゴレット』あたり、可能性があるかもしれません。
残念ながら、コンサートの詳しい日程等はその書面には書かれていませんでしたので、
いずれ、招聘元から発表があるのをファンの方はがっちり押えて頂きたいと思います。

後注:いつもお世話になっている娑羅さんから、メト・オケ・コンサートも含めた日本への引越し公演の詳細が発表になった旨のご連絡を頂きました。
(娑羅さん、ありがとうございます!)
教えて頂いた情報によりますと、メト・オケのコンサートには、予定されていたホロストフスキーではなく、
マリウス・クウィーチェンがネトレプコと共演することになったようです。
詳しい情報は娑羅さんのブログの記事を参照ください。
またそれに伴い、トップの画像をクウィーチェンとネトレプコの二人に変更いたしました。写真は新シーズンのHDでも二人が共演することになる『ドン・パスクワーレ』で、
2005-6年シーズンの公演から、マラテスタ役のクウィーチェンとノリーナ役のネトレプコです。



DR: DER FLIEGENDE HOLLANDER (Tues, Apr 20, 2010)

2010-04-20 | メト リハーサル
半年ほど前に同じ仕事を分け合っていた同僚が会社を去ることになって、一人部署状態になってしまいました。
これで困ったことは、休みが全く取れなくなったことです。ここでいう休みとは、有給休暇だけではない、、、
アメリカ以外の色々な国の市場でもビジネスを行っている私の職場でこれが意味するところは、
アメリカの祝日に休めないのはもちろん、私が全く仕事をしないでいい日は、
全世界の主要マーケットの祝日が一致する日だけ!
これが、どれだけ数少ないか、ご存知でしょうか?
この間、カレンダーで調べてみたら、大晦日と正月のたった二日だけでした(泣)
特に頭に来たのは、他の国すべてが祝日になっている12/25に、燦然と一国張り切って活動している日本という国です。
お願いだから、12/25、休んでください、、。

この状況に心を痛めた心ある上司たちは、その代わりに、何か予定のある日には、
仕事がきちんと遂行される限り、勤務時間はフレックスでよし、というお達しをくれました。
おかげで日中に行われるドレス・リハーサルも、今までどおりに鑑賞できていて、
出来るだけのことを前日の夜にかたづけ、当日数時間早く仕事を始めるだけで普通はOKなんですが、
どうして普通でないことが、よりにもよって『オランダ人』のリハにかぶって起こってしまうのか、、?

日付が19日から20日に変わろうという頃、翌日の下準備を終え、
明日は朝早く起きなきゃね、、とアラームをセットしようとした頃に、その魔の電話はかかってきました。
アジア絡みで軽い緊急事態発生!
しかも数分で片付くと思いきや、こいつがしぶとい!
1時間経ち、2時間経ち、、、気がついたら朝の5時近くになってました。
リハーサルに行くために早く仕事を片付けたかったら、寝てる時間がない、、、。
というわけで、そのまま今日の仕事に突入!!
いやー、それにしても、本当、やることが多い!と思って時計を見たら、あれ?もう朝の10時40分!
おーっと、いけない、メトに行かないと!!
というわけで、昨日の朝から29時間一睡もしてません。

でも、リハーサルでない本公演に数時間の睡眠で臨んだこともこれまでにありますが、
いつも、演奏が始まったらアドレナリンが出始めて、全然眠たくなくなるのと、
朝から大音響で聴き続けてきたベーム盤(バイロイト)の『オランダ人』の余韻が残っていて、
この作品ならなお心配なし!と、特に気にかけてもいませんでした。

ドレス・リハーサルには本刷りのプレイビルはなく、簡単なあらすじとキャスト表が掲載された、
マニュアルでコピーした印刷物が配られるのですが、
ぎりぎりにメト入りしたために、アッシャーに軽く、”プリントはもうなくなりました。”と言われてしまいました。
、、、オーディエンスの人数がわかってるんだから、ちゃんと足りるように刷ってよ、って感じですけれども。
そして、今日もサイド・ボックスなどに中学生位のキッズがぎっしり入っているんですけど、
休憩なしで2時間半ぶっ通しのこの作品、一体、どれ位の率のキッズが通しで覚醒していられるのやら。

と、にわかにスタッフの女性があらわれ、
”○○が風邪のため、舵取り役は、代わってラッセル・トーマスが歌います。”
ちょっと!!そんなボソボソした発音じゃ、誰が交代だかわかんないじゃないのよ!
ま、いいか、プリントを見れば、、、って、そうだ、プリントないんだった、、、
というわけで、残念ですが、もともと誰がこの役を歌うことになっていたかは不明。
しかも、結局、このドレス・リハーサルも含め、後に続く本公演もすべてこのトーマスが舵取り役を務めることになったため、
この後も多分、わからないままだと思われます。

指揮は2007-8年シーズンの『アイーダ』でのデビューに続き、メトには二度目の登場となる大野和士。
音楽に国境はない!とは言え、やはり同じ日本人として、
彼の指揮でいい演奏が出てメトの客席が湧くとしたら、当然、誇らしいものです。
大野さんがメト・オケから、ベーム盤に匹敵するような音楽を引き出したなら、
私は即、天皇陛下に電話して、紫綬褒章を授与してもらいます。
(後注:と思ったら、すでに2008年に授与されてました!びっくり!!
それから正しくは紫綬褒章は天皇からではなく、日本政府から与えられるものです、)

いや、そこをすっ飛ばして、人間国宝でもいいかも。

しかし、序曲が始まって、私、目が点になりました。
なんて平たい音なんだ、、、。
人間国宝、ありえん。
それに、これがノルウェー、つまり、北の海を襲う嵐の音とは思えないくらいにのんびり音が鳴ってます、、。
紫綬褒章も消えた。
(後注:ということは、そうすると、剥奪、、?)
というか、こんなにパルスやどきどき感がない嵐の表現も珍しい。
しかも、どこかの片田舎のへたれオペラハウスのオケが演奏しているんじゃない。
出そうと思えば、オペラハウスが崩れ落ちそうな音だって出せるメトのオケですよ!!
なんというリソースの無駄使い!!
大体、団員の様子を見ていても、30%位しか力を出していないんじゃないか、と思えるような演奏をしてます。
これは団員のせいじゃない。団員を熱くできない大野さんの責任で、
自分はこういう嵐の表現をしたいんだ!という確固としたドライブがないから、
それが団員を戸惑わせ、中途半端な演奏になってしまっているように思います。
音に立体感がないことからも、セクション同士でどのように音がからんでいくべきか、とか、
音の構築性について、十分な準備ができていないまま、この作品に挑んでしまったのではないかという印象を持ちます。
でも、この作品は、そのようなスタンスで乗り切れるほど、甘い作品ではないし、
団員の自主性に任せて交通整理的な指揮さえしていればOKというようなものではない!
もっとリードしないと!!
序曲は作品の大雑把なあらすじを音で見せられているような、各場面の印象深い音楽が、
順に綴られていくような形になっているので、聴き終わった時には、
これから、二時間半にわたって、このような生気のない音楽を聴かされるのか、、と思い、
今まで忘れていた眠気が突然襲って来ました。これは、やばいです。

しかし、このエヴァーディングの演出、これは私、好きです。とっても。
一幕は舞台のほとんどを、ノルウェー船の、それも甲板の先だけが占めていて、
(なので現物大とまではもちろん行きませんが、船のサイズはかなり大きい。)
最初は船の向こうに岸壁しか見えないのが、舵取りがまどろみ、
音楽がオランダ人の到来を描き出して、スモークが消えると、そこに、ノルウェー船よりもさらに大きな、
こちらは大型船の実物大と言ってもよいほどのオランダ人の船の艇先が、
ノルウェー船の横にいきなりちゃっかりと乗り付けているのです。怖いです。

誰かの病欠を埋めるために、舵取り役を歌ったトーマスですが、この役にキャスティングされている歌手同士で
風邪をうつしあってでもいたのか、トーマスの声も芯が定まらず、咳払いしたりしていたので、
彼も実は風邪気味だったんではないかと思います。
彼はこれまで『マクベス』のマルコム役、
『アッティラ』のウルディーノ役で聴いたことがあって、
確かにまだこういった小さめの役で研鑽を積むべき、発展途上な部分もありますが、
それでも、今日のこの歌唱よりはもっとしっかりした声を持っているはずですし、
また、彼の声の響きの上品さ、これはとても評価できる点です。

さて、その乗りつけたオランダ人の船なのですが、甲板はメトの舞台の天井よりもさらに
高いところに位置しているらしく、客席から全然見えなくて、
オランダ人は船から電動でノルウェー船に向かってせり出してくるタラップのようなところで、
最初のモノローグを歌わなければなりません。
この段階ではまだノルウェー船に足を踏み入れず、このタラップ上でずっと歌うことになるのですが、
タラップの一番下の段は宙に浮いている状態で、
歌唱の間、手すりやタラップの段差を、いかに効果的に利用して演技をするか、というのがポイントになります。
ウーシタロは写真等で見るに、アップでは全然男前ではないのですが、
佇まいはそれなりにエレガントだし、演技も決して下手ではありません。
ただ、何か押しが足りない。
一つには、彼の声。彼はソロでワーグナー・アルバムを出しているくらいなので、
ワーグナーの作品をレパートリーの中心にしていくことを考えているに違いないのですが、
今回、このドレス・リハーサルだけでなく、本公演でも一貫してオランダ人には線が細く、
そもそもワーグナーを歌っていけるクオリティが声と歌唱に備わっているのか、多少疑問に感じる部分もあります。
このソロ・アルバムは私も所有していて、彼の声はなかなか美しいとは思うのですが。

おそらく彼自身がその点に自覚があるんだと思うのですが、
無理をせず、自分のキャパに納まるように歌っている間は、歌が無難のラインを越えず、エキサイティングじゃないし、
そのキャパを越えようとすると、音の重心がふらつき、オペラハウスで聴いているとまだましなんですが、
後日の公演をシリウスの放送で聴いていた時は、旋律の揺れがかなり激しくて、聴いているのがかなり辛いレベルでした。

また、歌がどこか冷ややかというか、このオランダ人というキャラクターが胸に抱えている複雑な思いが、
最初のモノローグでも、ゼンタに出会ってからも、あまり感じられない部分にも不満が残ります。

このエヴァーディングの演出が登場した1989年以来、メトでオランダ人といえば、
ずっと、ジェームズ・モリス!で、2000年までに、29公演歌っています。
(そして、今回の公演はその2000年から実に10年ぶりの上演。)
舞台写真から伺えるそのモリスに比べると、どことなくウーシタロは存在感も弱く、
この印象が、この役での歌唱だけでなくて、歌手ウーシタロとしてのイメージにもなりかねないのを危惧します。
声の性質、今のレパートリーの選び方、両方の面で、メトとあまり相性の良くない歌手なのかもしれません。
この後、メトではキャスティングされにくくなる(特にワーグナーの作品では)可能性もあると思います。


(上の写真は1991-2年シーズンの公演からモリスのオランダ人)

それにしても、このフラットで立体感のないオケの演奏は本当にどうしましょう?
どうやったら、この作品でこんなに無味乾燥な演奏になるのか、、?
せっかくエキサイティングに書かれているスコアをわざわざぺしゃんと手で押しつぶしたような演奏です。

ゼンタを歌ったヴォイトは12月の『エレクトラ』のクリソテミス役以来で、
あのときの彼女の歌唱が素晴らしかったので、胃のバイパス手術で大幅な減量に成功して以来、
それと関係があるのか無関係なのか、声に以前の輝きがなくなったと言われていたヴォイトもいよいよ復調か!?と、
期待していたのですが、うーん、やっぱりこのゼンタは魅力的じゃない、、。
彼女もワーグナーが重要なレパートリーになっているんですが、
私は彼女のワーグナーがあまり好きでないんだな、という結論に達しつつあります。
というか、彼女のイタリア・オペラはもっと好きでないので、来シーズンの『西部の娘』がかなり恐怖なんですけれども。
しかも相手役がマルチェッロ・ジョルダーニ、、どんな珍公演になるのやら、、、。
話を戻して彼女のワーグナーなんですが、私には彼女のワーグナー歌唱は、
あまりにきちんと歌うことにベクトルが向かいすぎていて、感情の奔流というものが感じられないのが最大の欠点だと思っています。
彼女もウーシタロとある意味、似たところがあって、その強みは綺麗な声の響きにあるため、
それをキープしようと、スタミナ配分が慎重過ぎてそれがもろに観客まで伝わってくる点も、面白みを奪います。

それからクリソテミス役を除いたここ数シーズンの彼女の歌唱で共通の問題ですが
やはり少しトップの音が痩せていて、ゼンタのバラードで必要とされる最高音あたりは、ぎりぎり感が漂っています。

そのゼンタのバラードのすぐ後に、なぜか、場面転換にのせてカーテンが下りたままのオケの演奏があって、
カーテンが開くと、水夫の合唱が始まりました。
ええっ??ゼンタとオランダ人が出会う場面はいずこへ、、?

、、、、どうやら、ゼンタのバラードの直後に、気を失ってしまったようで、全っ然記憶がない、、。
いくら寝不足だったとはいえ、私に気を失わせた演奏(それもこんなに長い時間!)は、
少なくともこのブログを始めてから、メトでは一度もないんですけど。というか、多分10年以上ぶり。
恐るべし、大野さん、、、。違った意味でこれは国宝級の演奏と言ってもよいかもしれません。

こんな中途半端な感想ではありますが、心配ご無用。
三日後の23日にシーズン初日の感想も見に行きまして、そこでは全編通して覚醒しておりましたので、
二幕についてはそこでもう少し詳しくふれる予定です。
それにしても、キッズの心配をしている暇があったら、自分の心配をすべきだった、、。

繰り返しになりますが、この演出はとても好感が持てます。
最後に海に飛び込むゼンタ、そして海の色が変わって死をもって救済された二人の運命が暗示される部分など、
変なギミックのない、本当に普通の演出ですが、
(あの変てこなボディ・ダブルが登場してフリーズ・フレームのように飛び降りるポーズで照明が消えるという、
恐ろしいエンディングのボンディ『トスカ』の後では、まさかヴォイトが海に飛び込むポーズで絵がとまるのではないか、と、
どきどきしてしまって、普通に飛びこんでくれたときには、ついBrava!と叫びたくなる位です。)
エキサイティングなオケの演奏があって、本当に役を歌える歌手がそろえば、感動的な体験ができるはずで、実にもったいない。

それにしても、今日の大野さんは、ビジョンがないまま指揮台に立っているという意味では、
スラットキン症候群のごく初期的症状を示しているかのようです。
もちろん、スラットキンと違って、オケが崩壊するようなことにはなっていませんが、
メトの指揮台に立つときは、強いビジョンを持ち、それをオケの団員に押し付ける強さがないといけません。
初日には、今日の印象をひっくり返してくれるはず、期待しています。


Juha Uusitalo (The Dutchman)
Deborah Voigt (Senta)
Hans-Peter König (Daland)
Stephen Gould (Erik)
Russell Thomas replacing unknown (The Steersman)
Wendy White (Mary)
Conductor: Kazushi Ono
Production: August Everding
Set design: Hans Schavernoch
Costume design: Lore Haas
Lighting design: Gil Wechsler
Stage direction: Stephen Pickover
Gr Tier E Odd
ON

*** ワーグナー さまよえるオランダ人 Wagner Der Fliegende Holländer ***

TOSCA (Sat, Apr 17, 2010)

2010-04-17 | メトロポリタン・オペラ
オープニング・ナイト以来、このまま一シーズンでハドソン川に沈めてやりたい、と密かに、
いえ、声高に思い続けて来たボンディ演出の『トスカ』ですが、
振り返って、そのオープニング・ナイト時の感想を読んでみると、いやー、我ながら、とっても怒ってますね。

もちろん、あれから半年以上たった今も、全然気持ちは変わってません。
というか、以来、何度か実演やMet Player上にあがっているHDの時と同じ映像で
この演出を見て(というか、限りなく気分的には”見せられて”)、
感覚が麻痺してしまっていたのかもしれませんが、こうしてあらためて当時の生々しい記述を読んでみると、
いかに駄目駄目な演出か、ということが、逐一思い出されてまた腹が立ってきました。
しかし、私のように怒り、悲しみ、悪態をついているだけではなくて、
その限られた枠の中で、自分は何ができるか?という風に考えることが出来る人物が4人も同じ公演に寄る、
そんな類まれで幸運なことが起こってしまったのが、今回の『トスカ』Bキャストです。

ラセット、カウフマン、ターフェル、そしてルイージによるこのBキャストは全部で4回しか公演がなく、
そのうち、3公演までなんとかチケットをかき集めました。
特に出遅れてしまった24日の土曜のマチネの公演が大変で、今回ばかりは本当に駄目かも、、と、
オペラに関してだけはしつこいことこのうえない私ですら、弱音をあげそうでしたが、
公演数日前に、チケット獲得に尽力してくださった方から会社に電話があって、
”今、ちゃんと椅子に座ってる?じゃなければ、ちゃんと座って。大きく息を吸って。”
と言われて、席番号を教えて頂いたときには、オフィスの中に、
私の”きゃああああああああっ!!!”という歓喜の声が轟きわたったのでした。

というわけで、トスカBシリーズは、B初日の14日の公演、そしてその歓喜のマチネ公演の24日にはさまれるようにして、
Bキャスト二度目の公演にあたる4/17、この三つの公演を鑑賞しました。
(観ていない公演はBで3回目の公演になる4/20の公演です。)



土曜の夜の公演というのは、マチネがラジオ放送(ちなみにこの17日の昼のマチネは
アベル指揮、ゲオルギュー、ヴァレンティ、ハンプソンらの『椿姫』でした。)される関係から、
絶対にメディアでの放送の対象にならないため(=一日に二度放送はしない。)、
緊張感がマチネほど高くなく、それが悪い方向に向くと気迫に欠けたつまらない公演になり、
それが良い方向に向くと、演奏する側に余計なプレッシャーがかからず、
非常にエキサイティングな公演になるという、二極化しやすい傾向があるように感じるのですが、
結論を先に言うと、一連のトスカBシリーズの鑑賞で、私が一番持っていかれたのは、この17日の公演です。
上で名前をあげた4人が、B最後の公演日であり、世界に向けて配信されるマチネのラジオ放送が予定されている
24日の公演に照準を合わせたくなるのは当然で、私が観た3公演から判断しても、
公演の内容が段々と上昇カーブを描いていたことは間違いなく、さすがにプロである4人ゆえに、
ある意味での公演内容の高さは確かに24日が一番良かったとも言えるのですが、
同時に、この4人が、この準備期間で達成できるパフォーマンスの一つの完成形に達してしまったと感じる部分もあり、
かなり出来上がったものを観た、という感触がありました。
17日が面白かったのは、その一つ前のB初日の14日の公演からさらに歌い方や演技に飛躍的な変化があって、
さらにその後に続く公演への勢いのようなものを感じたこと、
そして、ターフェルの好調(残念ながら、24日の彼は声楽的には本調子ではなかったと思います。)、
といったことに原因があると思います。

14日の公演は、オープニング・ナイトで歌ったAキャストと比べて、
同じ演出でここまで公演の内容に差が出るものなのか?という驚きが大きかったようで、
(というか、今回のキャストや指揮者の力を信じていた私でもここまで差が出るとは予想していませんでした。)
批評自体、まったく出ないことすらあるBキャストの公演としては
ほとんど異例のスピードといってもよい翌日に公演評を出すメディアも見られました。

一方で、カーテン・コールでの、”まあ、今日はこんなものかな?”とでもいうふうな落ち着いた3歌手の様子から、
次回までに調整すべき箇所、そのための課題というものを彼らがすでに見極めている風もあり、
それがどのように実践されていくのか、という部分が、今日の17日の公演で、一番楽しみにしていた部分です。



まず、この日の公演で一番最初に、”ああ!!なんと!!”と思わされたのは、
もうこの星がキラキラしていることからもわかるとおり、カウフマンです。
B初日の感想で、主演3人が過去の経験から持ち寄った演技の方向に微小なずれがあるように感じた、と書きましたが、
メディアの評の中に、”第一幕におけるラセットのトスカの、
カヴァラドッシに対する愛情表現がやや淡白”というような趣旨の言述があり、
私はラセットがこの一幕でアプローチを少し変えてくるんだろうな、と予想していたのです。
しかし、登場したときに、”え?14日と全然役の雰囲気が違う、、。”と思わされたのは、
カウフマンのカヴァラドッシの方でした。
14日の熱血芸術家のトーンは抑えられ、もう少し優しくて温かい、
トスカを愛するあまり、つい彼女の欠点も許してしまう、そんな性格のカヴァラドッシで、
それは、祭壇に祈りを捧げるトスカの後ろに忍び寄って、悪戯っぽくそっとヴェールを取る仕草の優しさとか、
そういう細かい演技すべてに表現されています。
というか、基本の動作、振り付けそのものは初日とまったく同じなのに、
性格の違いを、ほんのちょっとした歌唱と演技のニュアンスで演じ分けられるこの才能!
彼のこの能力は、私が生で聴いたことのある現役のテノールの中で、最高レベルのものと言えると思います。
彼が上の評を読んだか、読まなかったかは知りませんが、
このことは、彼がオペラの舞台というのは、”自分がどう歌い演じるか”ということだけでなくて、
ケミストリーが大事なのだということを理解し、絶え間なくどう演じればよりよい舞台になるか、
ということを考えながら歌っていることの証であり、
舞台に立つ人間として、優れた演技のセンスと心構えを兼ね備えた人だと思います。

むしろ、ラセットの方はほとんど全くといっていいほど、アプローチを変えていないんですが、
カウフマンの演じ方が変わったことで、トスカとカヴァラドッシの間に、
まさに理想的な、ラブラブな雰囲気が出来上がっていて、
あの、Aキャストの時には単に馬鹿馬鹿しく、トスカとはなんと変質的にしつこい女なんだ?と
感じられても無理のなかった、”(マグダラのマリアの絵の)目の色を黒く塗りなおしてね。”のやり取りも、
下品でないやり方で、実に微笑ましく、それでいて、
トスカの”自分への自信のなさ”=インセキュリティーな感情をきちんと表現した場面になっているのが素晴らしい。
そう、オープニング・ナイトの記事にも書いてますが、嫉妬はトスカの彼女自身に対する自信のなさ、
そのものなのであり、トスカをただのきりきりしたヒステリックな歌姫として演じるのはとんでもない間違いです。
トスカが登場する前に、舞台裏からカヴァラドッシに呼びかけるMario, Mario, Marioも、
ラセットはそんなにきりきりとしないで歌っているのが特徴で、一瞬、あれ?と思わされます。
リブレットに”苛苛しながら”とあるので、我々観客はほとんど条件反射的に、
すでに頂点まで”きーっ!”となったトスカの”マーリオ、マーリオ、マーリオ!”を予期して構えてしまうのですが、
むしろ、”なんで扉が閉まっているの?””誰に話してたの?”という言葉に対するカヴァラドッシの答えに、
段々いらだって声に鋭さを帯びて行くラセットのアプローチの方が、私にはドラマ的に無理なく感じられて好きです。

というのは、トスカは敏感にカヴァラドッシが何かを自分から隠していることを感じているのです。
彼女が疑っているのは、カヴァラドッシが他の女をかくまっているのではないか?ということなのに対し、
実際にカヴァラドッシが彼女から隠しているのはアンジェロッティという男性の政治犯である、というずれはありますが。

というか、これは非常に、非常に大切な部分で、この彼女の、度を過ぎた、時に的外れですらある嫉妬心が、
このBキャストの『トスカ』の公演の根幹をなしている部分であり、
なんとかボンディの演出でも耐えられるレベルに引き上げた、てこのような存在なのです。
ですから、私がそういう演じ方を好きか、そうでないか、だけの問題ではなく、
ラセットがこのようにトスカを演じることが、今回の公演では絶対に必要であり、
そのためには、カヴァラドッシも、今回カウフマンが演じているように、
彼女の欠点すら愛してしまう優しさのある男性でなければならない。
このもっとも大切な部分が初めてぴたっとはまったのは、この公演からで、
Bキャスト最後の公演の24日のマチネも、その延長線上にあります。
後の幕でこの部分がどのように発展して行くかを書きますが、キーワードは、”愚かな嫉妬心”です。



前後しますが、この日のカウフマンは初日より声のコンディションが良く、
響きが安定していて、”妙なる調和 Recondita armonia"の高音も力強い音を出してました。
彼は時にそんなところから音を上げて大丈夫なのか?とひやっとするような高音を出す時もあるんですが、
実際に音が出始めると体勢が立てなおっているというか、
軸がぶれたところからでも、転ばずに回転ジャンプを決められるフィギュア・スケートの選手のようだな、と思うことが時々あります。
もちろん、軸がぶれていないジャンプの方が綺麗なのと同様に、
理想的な音の入り方をした時の方が音が綺麗なのは当然で、
こういう時の彼の高音は本当に、力強く、音の飛ぶラインが美しい。
音の飛ぶラインが綺麗だな、と思った歌手なんて、私、これまでにいません。
音の飛ぶラインを感じさせるには、音に勢いがないと駄目で、大体それが出来るテノールが数少ないから。
例えば、Aキャストのアルヴァレスにしろ、Bキャストの後、Cキャストで聴いたジョルダーニにしろ、
拷問の場面で、舞台裏で歌うVi sfido!(拷問を)甘んじて受けるぞ!という言葉を歌うとき、
舞台の裏で音が鳴ってるな、という、ぼやんと音が上に立ち昇っているような鳴り方になってしまうのですが、
カウフマンが歌うと、拷問部屋のあることになっている舞台の上手の袖から、
トスカやスカルピアのいる舞台の下手に向かって、矢のような勢いで音が飛んでいるのが見えるのです。

声のコンディションが良かったといえば、しかし、この日はターフェルも負けていませんでした。
初日の公演では、特にテ・デウムなど、オケが分厚くなり始めると、少しがなるような雰囲気があって、
さらに24日のマチネでは、明らかにコンディションが良くなく、
トスカを追い詰める大事な場面(わしのもんだ!Mia! Mia!と言って迫ってくる場面)でも
痰がからまったような音を出していましたが、
この17日の公演では、どの場面も美しい響きを保っており、テ・デウムでも、
がなったり、無理をせず、綺麗な音を保ったまま、オケを越えて歌が聴こえてきていましたので、
コンディションさえ良ければ、声質として多少線が細く感じる面はありますが、
特に不足感を感じさせることなく、この役を歌える声は持っているんだな、と思いました。
というか、彼は容貌に似合わず、もともと割と声も歌い方も綺麗なところがあるので、
下手に下品な表情をつけずに、”歌”としての完成度が高かった
この日のテ・デウムが実は彼に一番合ったアプローチなんじゃないかと思ったりします。
24日はこのテ・デウムでも、声そのものが絶好調ではなかったために、
埋め合わせの気持ちが働いて、少し台詞を読むような歌い方で表情をつけようとしすぎていたのが、
逆にマイナスになっていたように思います。

初日には、聖母像とならんでひざまずいて手をそっと合わせたテ・デウムのラストですが、
この日は、座ってガッツ・ポーズをとる演技に変えていました。
この方が、スカルピアの爆発する征服欲がより強く表れていると言えるのかもしれませんが、
私は手を合わせて祈る方が、不気味で怖く、余韻もあって好きです。




今日のターフェルは声の方で心配するものが何もなかったからか、
二幕の演技への集中力は初日より数段上で、気合が入りまくり。
幕の頭で、体にまとわりついてくるボンディ演出特製の娼婦を床に投げ飛ばしたり、ヴァイオレンス全開。
彼のこの演出におけるスカルピアの演じ方の優れた部分は、どこか漫画のような部分を残しながら、
その隙間から鋭い刃がのぞいているような感じがする点だ、と、初日の感想に書きました。

これは何と形容したらいいか、ギャング系の映画でたとえると、
オーソドックスに演じられた時の、クールで冷酷なスカルピアに『ゴッド・ファーザー』的な重厚さがあるとすれば、
ブリンのスカルピアは映画『カジノ』のジョー・ペシ演じるニッキー役的で、
ニッキーの、下品でスリージーな悪者ぶりは、つい見ていて笑ってしまうんですが、
いつもマジぎれと冗談の境界線あたりでうろうろしている感じとか、
それが一旦マジ切れモードにギアが切り替わった途端に見せる怖さとか、
ブリンのスカルピアとアプローチ的に似ている部分があります。

特にこの日の演奏では、トスカの”Ebben, ma cessate, cessate! いいわ、でも、(拷問を)止めて。”
という言葉に応じて一旦カヴァラドッシへの拷問を止めた時に、
彼女がカヴァラドッシの言葉に勇気づけられて、決意を翻す場面がありますが、
それにぶちきれたブリンのスカルピアが、”なんだ、このアマ、ふざけやがって!”という調子で、
片足で床を思い切り踏み鳴らした後、”Roberti, ripigliamo ロベルティ、また始めるぞ。”と歌い、
上着を脱ぎ捨て床に叩きつけながら、スポレッタに、”Aprite le porte che no'oda i lamenti!
苦しむ声がが聞こえるよう、扉を開けろ!”と命令する場面は迫力満点でした。
ただ、少し上着がきつかったのか、なかなか片腕が抜けなくて、無理やりひっぱったために、
腕をねじってしまったようで、その後、目立たないように片手で押さえながら、
肩をまわしていたのがお茶目なブリンです。大したことがなければ良いのですが。

ここあたりから、カヴァラドッシのVittoria!(カウフマンのVittoriaはしかし、本当にスリリング。
これを聴いた後では、Aキャストのアルヴァレスを映像で見直しても、
Cキャストのジョルダーニのそれを舞台で聴いても、
声もスピリットもこじんまりと大人し過ぎて、まったく興奮がない。)を経て、
彼が牢獄に連れ去られるまでは、心臓が張り裂けるような興奮がないと嘘だと思う。
その意味でも、ボンディが直に演技指導をしたはずのAキャストは駄目駄目でしたが
(あれで心臓がどきどきする人の顔が見てみたい。)、やっとそういった興奮が、
このBキャストで戻ってきたのは、大変な喜びです。『トスカ』で一番の山がこのシーンですから。

ラセットの”Vissi d'arte 歌に生き、~”の出来が、一番良かったのもこの日の公演で、
Signoreと歌った後の音の消え方の美しさは満点の出来で(24日はほんの軽く最後に息がひっかかってしまいました。)、
ソプラノがえてして、この曲だけはがんばるの!というのりになってしまいがちなこのアリアですが、、
あえてひざまずいておおげさに歌い上げたりせずに、
その場で立ったまま、心に自然に出てきた感情を神様と自分の対話であるように、さりげなく歌ったことで
全体のドラマの中にもかなりうまく溶け込んでいたと思います。
トスカ役としては軽い方のボーダー・ラインに近い彼女の声質も加味すると、
グランドに歌い上げるよりは、ずっと賢明な選択でもあります。



スカルピア殺害に至るまでの演技は、非常にオーセンティックなもので、
マッティラのように、”Vissi d'arte”の途中でナイフを持ち上げて眺めるといった、
頓珍漢な演技はもちろんなく、スカルピアが通行許可証を書いている間に、
これから彼に体をゆだねる不安を消そうとワインを継ぎ足しに向かった、
そのテーブルの上にナイフを見つけて、殺害を思いつく、という流れになっています。
スカルピアが見ていない隙にナイフをとって、それをソファのアームレストの隙間に差込み、
スカルピアが”さあ、いざ、トスカをいただかん。”とばかりに、ソファに寝そべったトスカの
片足を床に振り払って落とした時、トスカがナイフに手を伸ばし、スカルピアのわき腹を刺す、という手順です。

ラセットは舞台上手に頭を向けて寝ているので、アームレストからナイフを取り出すのは左手で、
その左手を意識して大きめに回しながら、刺す行為、動きのすべてが観客に見えるように演技をしているため、
このシーンの緊迫感、迫力が高まり、こういうところで、やっぱり彼女は本当に演技がうまい!と感じさせられます。
Cキャストのダニエラ・デッシは、これとまったく基本的には同じ演技をしながら、
どうしようもない演技センスの欠如のために、
ラセットが演じた時の緊迫感の足元にも及ばぬことになってしまい、
デッシって、こんなに大根だっけ、、?と思わされましたが、それはこの演技の上手いラセットのすぐ後で、
割を食った、ということもあるかもしれません。そこについてはまたCキャストの公演の感想で詳しく書きます。

しかし、これで終わりではない。今日の公演は、この後が最高でした。
オケの演奏だけで進んでいく、二幕の最後の部分です。
今回はブリンが忘れずにアッタヴァンティ公爵夫人の扇を窓のへりに置いておいてくれて、
ラセットも意図した通りの演技が出来たようです。
スカルピアを殺したショックに一瞬自らの命を絶つ思いがこみ上げて、窓枠に上る。
一瞬飛び降りるような動きを見せますが、気持ちがすくんだか、まだカヴァラドッシがいるから死ねない、
と思ったか、泣きながら、窓の横枠に顔を埋めます。
何とか、この場を去らなければ、と考えたトスカが窓枠から降りる途中で、
そこに置かれていたアッタヴァンティ公爵夫人の扇が目に入ります。
その扇をそっと目の前に持ち上げて、ラセットが浮かべる表情が実に切ない。
”この扇がきっかけで自分はスカルピアにつけいられたのだ。何と、私の嫉妬心と弱さの愚かだったことか、、。”
という思いが噴出しているのです。そして、
”ああ、扇くらいで嫉妬していた頃は幸せだった、、
それがどうしてこんなことになってしまったのだろう、、”という急激な運命の下降への、信じられないような気持ち。
スカルピアに背を向けるような形で別のソファに横たわったラセットが仰ぐ扇は、
絶命する前の蝶の羽のように細かく揺れていて、たった今自分が犯してしまった殺人という事実の重み、
もはやカヴァラドッシと共に天国に行くことはないという信心深い彼女ならではの思い
(三幕最後、城から飛び降りる直前のトスカの言葉、
”O Scarpia, avanti a Dio! スカルピアよ、神の御前で!”が浮かびます。)が溢れていて、
”どう?自分の嫉妬に勝ったわよ!”というマッティラの堂々とした勘違いな扇の振り方とは、
全然ニュアンスが違うのはもちろん、スカルピアにろうそくと十字架を捧げるという
この作品の本質とも関わる演技付けに欠けたボンディの演出の中で、
その演技とほとんど同じ意味合いを込めることに成功したラセットの力は本当にさすがだ、と思いました。

ルイージの指揮とオケで唯一の問題は、まだ残っているラセットとの微妙なディスコーディネーションですが、
むしろ、そのおかげで、自由にオケとしてのドラマの追求に向かえた部分もあって、
オケの演奏単体で見ると、これもやはり今日の公演が最高でした。
演奏に適度なベタさ、荒さがあったのも、スリリングで、いい味を出していました。

4人の向いている方向が一気に統一されてしまった、すばらしい公演。
プロの仕事というのは、こういうのを言うんだな。
まだまだ書きたいことがあるのですが字数切れ。24日の感想に含めようと思います。


Patricia Racette (Tosca)
Jonas Kaufmann (Cavaradossi)
Bryn Terfel (Scarpia)
John Del Carlo (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Gr Tier C Even
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

TOSCA (Wed, Apr 14, 2010) 出待ち編

2010-04-14 | メトロポリタン・オペラ
後編より続く>


 出待ち編 

公演後はうちの息子達(犬)と早く会いたいので、
よほど好きな歌手が登場するのでない限り出待ちはほとんどしないのですが、
ラセット、カウフマン、ルイージによるトライアングルを作られた日には行くしかないでしょう!!
息子達よ、小一時間、我慢しておくれ!!
というわけで、行ってまいりました!久々の出待ち編です。

まず、実は開陳すると、前回、『フィガロの結婚』の出待ちで私はマエストロ・ルイージを取り逃がした経験があるのです。
ルイージは割とお着替えが早いのか、楽屋口に向かう途中の道で、
すでにこちらに向かって歩いて来た男性を見て、
”あれ?ルイージに似てるな。でもこんなに小柄なのかな?”と思っているうちに通り過ぎてしまったのです。
あれは間違いなくルイージだった、、、ああ、私のばかばかばか!!!
私の中ではルイージはメトの次期音楽監督ということになっているので、
(この日の公演は彼が首席客演指揮者に使命される前のことですが、すでに!!)
今回こそは絶対に捕獲に失敗してはならない!!!との野望をごうごうに燃やしながら、
前回のように、素早いお着替えでも、また、以前と同じルートで出てきても大丈夫なよう、
その道を逆方向にヒールでダッシュして、楽屋口にかけつけました。
ふふふ。これだけ早く着けば大丈夫でしょう、、、。

しかし、10分、15分、、、誰も出てこない、、。ということはもうルイージは行ってしまったってこと、、?
一体どれだけ着替えが早いのか、、、また今回も次期音楽監督のサインをもらい損ねたのか、、と落胆していると、
そこに、"Hi, Maestro!"という地元ヘッズの声が!!ああああっっ!!!ルイージだわっ!!!!
この頃までには、ターフェルやカウフマン狙いのファンがたくさん集まっていて、
相当な人だかりが出来ていたのにも関わらず、ルイージのサインを求めに前に出た人は一握りで、
本当、あんた達、次期音楽監督に失礼もいいところよ!!と叫びたい気持ちでしたが、
そのせいで、余裕があるのか、きちんと一人一人と会話してくださるマエストロなのでした。
普段書くものを持ち歩く習性がないので、この日もペンの持ち合わせがないことに気付き、
急いでインターミッション中にメトのギフト・ショップで唯一販売されているペンを購入したのですが、
これが、指揮棒の形になっていて、サインする前に、”おや?”という表情をしながら、
指揮をし始める振りをするマエストロ。
私、大好きです、こういうお約束のリアクションを必ずしてくれる方!!
ますます好きになりました、ルイージ。

と、間もなく”おおーっ!”という歓声が上がるので楽屋口からたった今出て来た人物を見ると、ターフェル。
と同時に私の目の前でターフェルに押し寄せようとするファン達にはじき飛ばされるルイージ!!
ちょ、ちょ、ちょっと、あんたたち!!!どこまで失礼なのよ!!
あまりに気の毒で、”大丈夫ですか?ターフェルのファンはキチガイですわね。”という視線を向けると、
いいんです、いいんです、いつものことです、という風に穏やかに微笑まれる姿に、
今日の公演、ありがとうございました、と頭を垂れるMadokakipなのでした。

もしかすると一番集まったファンが多かったのはターフェルだったかもしれません。
舞台での姿とは対照的に、紳士的でなかなか素敵です。
薄い色のスーツにカラフルなネクタイ、、意外とおしゃれに興味があるのか、スタイリストの仕業か、、。
こういう人、本当嫌なんですけど、たまに常連のファンでずっと歌手を独り占めして、
ぴーちくぱーちく喋り続ける人っているんですよね。
私もターフェルにサインをもらっている間、その犠牲になって、会話どころか、
アイ・コンタクトすら交わせない有様でした。
これがターフェルだったからまだ我慢しましたけれども。
一人、若い可愛い女の子でターフェルの大ファン!という子がいて、彼にサインをもらって少し輪から離れた途端、
すごい勢いで涙が出始めて、まわりのヘッズが、”どうしたの?大丈夫?”と聞くと、
”だって、彼のこと、大好きなんですもの。世界で一番綺麗な声だと思う、、。”
年配のヘッドのおばちゃんが、
”じゃ、あなた、こんなところからそっと見てないで、さあ、もっと前に出て、彼の近くに行って!”と、
背中をぐいっと押してあげると、まだ大粒の涙を浮かべつつ、ブリンのことをうっとりした表情で見つめる彼女、、。
あんな怖い顔だけど、彼女には素敵に見えているのね、、と微笑ましく思いました。

次に出て来たのは、堂守役を歌ったデル・カルロ。
彼は以前の『フィガロの結婚』の出待ちでもサインを頂いたことがあるので(ドン・バルトロ役でした)二度目。
熊みたいに大きな人なんですが(それを言ったらブリンも大きいですが)、
いつも感じが良く、ファンへの対応も温かい人です。

さあ、いよいよ、ラセットかカウフマンの登場か、、?とやきもきしていると、
そこに楽屋口から現れた濃い化粧の女性、、。
いや、単に濃い、薄い、の問題ではなく、、、ちょっと危ない感じすらする異様な濃さ。
例えば、在りし日のマイケル・ジャクソンにも通じるような。
地はすごく美人そうなのにどうしてこんなに化粧で塗り固めるのか?と思い、
よーく顔をみると、”あれ?ゲオルギュー?!”
いや、塗り壁みたいだけど、あれはゲオルギューだった、、、。
あまりにびっくりして把握するのに直立不動で数十秒かかりましたが、
振り返ってみると、やっぱりゲオルギューなので、ついでと言っては失礼ですが、
他のキャストたちとは別のページにサインをもらっておくことにしました。
(後で聞いたところでは、この日、彼女はカウフマンの楽屋を訪れ、
”公演における優れた指揮者の存在の重要性”について語り合っていたそうです。スラットキン、、。)
それにしても、彼女って一応にこやかなんですけど、なんかすごく周りに妙な気が流れているというか、、
他の歌手達は同じくらい人気歌手でも、もうちょっとgenuineな感じがするんですけど、
ちょっとそれとは違う感じなんですよね、、。
そう、それを言うと、実は『アッティラ』の公演だったか、トイレで並んでいる列で、
私のすぐ前に立っていたのがネトレプコだったことがあるんですが、彼女の方がずっと私の感覚ではgenuineな感じがします。
そのトイレには列の頭でも空きかどうか確認しづらい個室があるんですが、
てってけてーと走って行って覘いた後、”やっぱり空いてなかったんだな、これが。てへっ。”といった感じで、
私の方に向かってフレンドリーに笑って舌を出してみたり、結構まんまな人でした。
その後も、トイレの個室まで隣で、私は学生の頃に誰かのエッセイか何かで、
”上品な女性はトイレでお小水が便器を叩く音すらも上品である。”という記述を読んで以来、
私自身、いかに上品に”小”をするか、ということに命を賭けているのですが、ネトレプコはその点でも悪くなかったです。
話がそれましたが、何を言いたいかというと、ゲオルギューの周りには、
感じが良いとか悪いとかいうところを越えて、何か不思議な空気が流れているということです。
と思ったら、彼女が私の指揮棒ペンをとってサインをし始めた途端、突然インクが出なくなりました!!
って、さっきまで、何の問題もなく、かすれもせずに機能していたペンがですよ!!
一体、どういう気を出しているのか、ゲオルギューは?!
”誰か、ペン貸して頂ける~?”と言いながら、答えも待たずに横にいたヘッズからペンをむしり取り、
”私はゲオルギューなのよ!”の主張一杯に、ページの端から端までサインをするゲオルギュー。
良かった、、今日の公演のキャストとは別のページにしておいて、、。
キャストのページにサインさせたら、まだラセットとカウフマンが控えているのに、
余白一杯にサインしかねないですから、この人は、、、。

そして、やっと登場したのがラセット。ゲオルギューとは対照的な”この世”的な温かい笑顔に癒される~。
以前、『蝶々夫人』で出待ちした時とは、やはり消耗度が違うのか、
疲労困憊という感じだった前回に比べ、今回はとてもにこやか。
彼女は自分を誤魔化すということをしないし、ファンもそうなので、
彼女に”今日の公演は素晴らしかった”というファンもいないし(彼女が本当に素晴らしい時というのは、
今日のようなものじゃないので、、。)、彼女の方も、次の公演日に向けての課題をきちんと自分なりに理解している感じでした。
一緒にいるのは彼女のパートナーであるメゾのベス・クレイトン。
彼女は少し前から自分が同性愛者であることをカミング・アウトしていて、
クレイトンへの感謝をインタビューでも欠かさないですが、
クレイトンも本当気さくでポジティブな感じの素敵な人です。
例のアジア人の出待ち常連の男の子が、
これまた例によって、大量のアイテムを持ち出してサインをねだり始めると、
”食事の予定に遅れるからここで終わり!”と、やんわりとラセットの代わりに制してあげたりしていました。
まだ、ゲオルギューの妖術が効果を発しているのか、ラセットの時もまだペンはインクが出ず、
近くにいたヘッドのペンをお借りしました。

ラセットとクレイトンが食事に向けて歩き去ったしばらく後に、
マネージャーと思しき男性に伴われて登場したカウフマン。
いや~ん、首のネッカチーフが花輪君みたいでかわいい~!!!
今流行りのやや体にぴったり目のネイビーのスーツもおしゃれですが、
堂々と着こなしているブリンに比べて、どことなくこういったおしゃれな格好に、
心底居心地良く感じているわけでもない風が感じられて、それも好感度高し。

それにしても、彼はすでにかなりの人気歌手なので、
もっとスター然とした態度になっているかと思いきや、なんと礼儀正しいことよ!
というか、最近の舞台で見せるあの堂々とした態度の持ち主と同じ人物だとは思えないくらい腰が低くて、
どちらかというとシャイな感じです。
オフィシャル・サイトなんかでは、必要以上に、おしゃれでマスキュランな感じを
打ち出そうとしているように感じられるところがあるんですが、
上にも書いた通り、私が見たところ、実際の彼は必ずしもそういう感じの人ではないんではないか?と、
ギャップを感じるところがありました。

サインもただ書き殴るだけで終わり、ではなく、きちんとサインする相手の目を見ながら、
”聴きに来てくれてどうもありがとう。”という感謝の気持ちをコミュニケートしてくれて、
もうMadokakipがこのまなざしにイチコロだったことはここで重ねて書くまでもないでしょう。
バリトン声と言われる彼ですが、しかし、話し声を聞くと、ああ、やっぱりテノールだな、と思います。
すごく話す声のポジションが高くて、テノール歌手特有の喋り方です。
だめもとでインクが出なくなったかもしれないペンを渡すと、
あら不思議、カウフマンがサインし始めると、何の問題もなくインクが出始めたのでした。
カウフマンのポジ・エネルギーに、ゲオルギューの妖術もあえなく退散!のようです。

サインをもらったプレイビルを胸にかかえて余韻にひたっていると、
私の隣に立っていたゲイと思しき男性のヘッドが、同じくプレイビルを胸に、
同じくカウフマンの方を見つめ、目をきらきらさせつつ、溜息をつきながら、
”神様はなんと不公平なのかしらね。あんなにグッド・ルッキングな上に、あの声と歌唱、、
どうしてこんな人がいるわけ?”
私が”その上、芝居も上手い、、。”と付け加えると、”本当に。”
互いにうなずきながら、瞳を星のように瞬かせつつカウフマンを見つめ続ける怪しいヘッズ2人、なのでした。

Patricia Racette (Tosca)
Jonas Kaufmann (Cavaradossi)
Bryn Terfel (Scarpia)
John Del Carlo (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Gr Tier B Odd
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

TOSCA (Wed, Apr 14, 2010) 後編

2010-04-14 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

ラセット、カウフマン、ターフェルという、優れた舞台本能と演技力を持った歌手達に恵まれたトスカB。
カウフマンとラセットに関しては、好きな歌手としてこれまでに当ブログでも名前をあげたことはありますが、
ブリン(・ターフェル)の名前を挙げたことは特にないと思うし、これからも多分ないと思う。
それでも、今日、3人のうち、最も頭の良いやり方で役に取り組んでいると感じさせられ、
実際、”この手があったか!!”と一本取られた気がしたのはブリンのスカルピアです。

スカルピア役について、私の一般的な好み
(つまり、演出が見えない音源だけの場合にどのような歌唱が好きか)はというと、
上品で色気がある中に、孤独、冷血、他人の感情への不感症、
そして、猛烈なサディズムを感じさせるタイプなのですが、
一つ前のゼッフィレッリのプロダクションならともかく、
このボンディの演出でそんな風にスカルピアを演じて何の意味があるでしょう?
歌手の方が浮いてしまうだけです。
まさに、そこを逆手にとったのがブリンのアプローチです。

まず、強調しておかなければならないのは、
ブリンはリブレットに書かれている内容、歌われる言葉だけでなくト書きを含めて、
各場面の持つ意味、そして、『トスカ』という物語全体と、その中におけるスカルピアという人物の役割、など、
トスカの上演の歴史が作り上げて来た、そしてそれゆえに多くのオペラファンが期待する、
所謂”オーセンティックなスカルピア像”というのを、本当に本当に深く理解し、かつ、それを尊重しているということです。
彼の場合、それがきちんとスタート地点にあって、
その上で、この馬鹿馬鹿しい演出というフォーマットの中で、
どれだけオーセンティックなスカルピア像と同じ本質を表現できるか、それを追求しているのが見事です。
ほとんど、ジャイアン的と言ってもよい、コミカルにデフォルメされた悪人演技をしつつ、
笑いをも盛り込みながら、隙間に、きらり!と、刃物のように、スカルピアの獰猛さを見せる。
表情も、ふざけているようで、突然見せる冷たい視線が本当に怖い。

ボンディがリブレットに対して、なーんの深い理解も持っていない、
もしくは持っていてもあえてそれを無視することに決めたらしいことは、
Aキャストのアルヴァレスに指摘されてしまった通りですが、
ブリンは、ボンディが置いた枠が、本来表現すべきこと、本質の表現の障害となっている、と判断すると、
それを思い切って、捨て、また取り替えていることがわかります。

例えば、私がAキャストの公演で問題点としてあげた二幕の食事の場面。
このシーンには、私が考えるに、ざっと思いつくだけでも、
1) 孤独な人間としてのスカルピアを表現する
2) その食事の場にナイフがあることで、トスカがスカルピアの殺害を思いつく
3) カヴァラドッシが拷問の後に部屋から連れ去られた後、
スカルピアが”私のささやかな食事が遮られてしまった。”と歌うことで、
拷問を蚊を殺すのと同じ位にしか思っていない、彼の歪んだ性質を表現する、
といった役割があるわけですが、Aキャストでのボンディ・オリジナル演出では、
その意味がことごとく破壊され、このシーンの意味もその後に続く言葉の意味も喪失されているのは、
当時の公演の感想にも書いた通りです。



しかし、Bキャストでは、ブリンのたっての希望でしょうか?
一体何がテーブルに載っているのかということはおろか、食事していたことも記憶にない
Aキャストのガグニーゼのスカルピアに対し、
今回はものすごく大きな鳥の丸焼きがお皿にのって登場。
しかも、ブリンは二幕の頭で歌いながら、その皿をまるごと持ち上げ、
フレーズを歌い終わると、もう片方の手で握り締めていたフォークで、
ぶすっ!と丸焼きを突き刺し、フォークが鳥に突き刺さったままの皿を、
たった今刺し殺したちんぴらをその辺に転がすような雰囲気で、テーブルに置く演技を入れていました。

それから、娼婦に囲まれてまじめに喜んでいる体だったガグニーゼのスカルピアと違い、
ブリンのスカルピアは最初から娼婦をまるで物扱いしていて、
娼婦が窓をあけた時にガヴォットが聴こえてくるシーンでは、
ガグニーゼは窓枠にのった娼婦のお尻を撫で回したりしていましたが、
ブリンはワイングラスを片手に、そのお尻にもう片方の肘をついて、
まるで家具か何かのように彼女を扱っているのに、つい私達観客は笑ってしまいます。
そのほかにも彼女たち娼婦については、およそ、トスカのような”堕としたくなる”女性相手の時とは
同じように見ているわけではないことがわかる、細かい演技がちりばめられていました。
これで、力ずくで女性をものにすることに生きがいを感じているはずのスカルピアの周りに
女性がいるという矛盾をかろうじて無理ないレベルにもっていっていますし、
一見笑いをとって終わりのように見える演技の裏で、
上に書いた目的3つが何とか遂行されるようになったことに驚かされます。
彼が今回の公演で見せた演技は、どれもよく考えると、いわゆるオーセンティックなスカルピア像に近づくための
手段であることがわかるのです。

それが一番はっきりしていたのは、第一幕の最後のテ・デウムのシーンで、
Aキャストの公演時には、ここで、トスカへの征服欲で前後不覚におちいったスカルピアが、
聖母像に抱きつき、まわりがぎょっとして終わるというエンディングになっていました。
どうしてこんな下品で、かつ、キリスト教の信者にとって
オフェンシブですらある演技を入れなきゃいけなきゃいけないんでしょう?

私はカトリックでも何でもないですが、表現の方法が百万通り可能である時に、
誰かに対してオフェンシブである形でしかそれを出来ない、またはあえてそれを選択する、というのは、
作っている側の無能を表わすだけだと思っているので、
それでいうと、ボンディの『トスカ』は無能の極みで、この聖母抱きつきシーンや、
片胸を出したマグダラのマリアの絵は、キリスト教を挑発することで観客の注目を得ようとする姑息な手段にしか見えず、
こんなの、問題意識の提起といった高尚なものですらないと思います。
ですので、私は、このテ・デウムの最後を、ブリンがどのように演じるか、非常に興味を持って見守っていました。
そして、ブリンはさすがでした。
トスカに対する性欲、征服欲を爆発させる歌を歌った後、彼は聖母像と並ぶようにひざまずいて、
手を合わせて敬虔に祈る姿勢をしながら、あのオケの爆音の中、曲が終わります。
これで、彼が一般の人々に対して取り繕っている権威ある警視総監としての姿を伝えつつ、
彼の外面・内面両方が見えている観客には、その祈っている内容が、
”俺様にトスカを堕とさせたまえ、、。”という内容だということがわかる、怖い場面になっています。

この場面については、彼は別パターンも用意していて、それは18日の公演の感想の中に書こうと思いますが、
いずれにせよ、聖母像に抱きつくといった頓珍漢演技とは正反対に、
こちらもきちんとスカルピアという人間像に即した、きちんとした演技でした。

多分、今回のブリンのスカルピアの最大の特徴は、そういった要所を抑えながら、
決してあまり深刻になり過ぎないようにこの役を演じている点で、
この演出、このセット、この衣装には、非常に適切なアプローチだと思います。
例えば、”歌に生き、愛に生き”で観客の拍手がやんだあたりから、
スカルピアがソファに踏ん反りかえりながら、
小馬鹿にしたような調子で、”おやおや、これは大熱唱、大演説ですな。”という風に、
ゆっくりとした拍手を入れるところなんか、
思わずオケの奏者たちも舞台を見上げて笑ってしまったほど、愉快でした。

ナポレオン勝利の知らせが入ってくる場面で悔しさを表わす場面では、
あの大きな図体ごと、ソファにとりゃーっ!という感じでとびのって、そのまま地団駄を踏んでいました。
きゃーっ、ソファーが壊れなきゃいいけど、、、。

このコミカルに寄ったキャラと統一感を図るために、笑い声なんかの出し方も、工夫がされていて、
普通スカルピア役で良く聴かれるような、渋い声で、格好良くわはははは、と笑うのではなく、
”うぉほほーっ!!!!”とでも表記したくなるような、
”お前の母さんでべそ!”と言って喜んでいるガキを彷彿とさせるような、笑い声を上げているのでした。
ついにトスカがアンジェロッティの居場所を口走ってしまう場面で、彼が付け足した、
そら、本当の事が出て来た!といいたげな、”Ah!”という満足気な溜息も怖かったです。



私は実は生で全幕公演の彼を聴いたことは数少なくて、
一つ前と言うと、多分、このブログを始める前に鑑賞したメトの『ファルスタッフ』以来だと思います。
表現力があるので、いろんな声音を使ったりして、この役のために、そうは感じさせないように努力してはいますが、
素の声は、あの凶暴そうなルックスとは相容れないですけれども、
意外とそんなにロブストでなく、こんな繊細で綺麗な声だったんだな、と感じました。
このスカルピア役ですら、本来の声質だけの話をすると、私には少し軽く感じる部分もあったり、
声自体からはあまり邪悪さ、もしくはそれを隠した不気味さ、といったものを感じにくい部分もあるのですが、
(例えば、何年か前までのジェームズ・モリスのスカルピアの方が、
そういう意味では、個人的には、声に限っていえば、スカルピアに向いていたと思いますし、実際に歌ってもいました。)、
それを欠点と感じさせないような自分にあった歌唱と役作りをきちんと準備してきているのはさすがです。
ただ、たまになんですが、少し自分の本来の声をプッシュしなければいけなくなる時があるのか、
この日の歌唱には、やや”がなる”ような響きが混じっていたのは心配で、
さっき、なぜモリスを引き合いに出したかというと、
ブリンは来シーズン、メトではヴォータンを歌うことになっており、
メトのヴォータンといえば、ずっと(つい昨シーズンまで!)モリスだったわけですが、
モリスよりも線が細くて繊細な声を持っているように聴こえるブリンが
どのようにヴォータン役に取り組むのかな?と思ったからです。

しかし、二幕最後の事切れ方も、ここでは絶対に緊張感を途切れさせないように、ということなんでしょうが、
綺麗に死んでくれていて、こういうところにも、ブリンの本筋を大切にしようという姿勢が見てとれます。

とにかく、今回、彼がリブレットやスカルピアの演技で本当に大事にしなければいけない部分を大切にしつつ、
それを踏みにじらない形で、この漫画のようにデフォルメされたちょっと滑稽なスカルピア像を作り上げたのを見ると、
彼は本当に頭の良い歌手であると思いますし、この後、ラセットやカウフマンの演技も調整されていくのですが、
絶対に引き上げ不可能と思われたあのボンディの演出が
何とか水面ぎりぎり位までには、このBキャストで引き上げられたのは大きな驚きで、
(もちろん、歌手の力ではどうしようもない問題も多い演出なので、糞演出なことには変りありませんが。)
その最大の原動力がブリンのこのアプローチであったことは間違いないと思います。
24日のマチネの放送を聴いて、公演の中心の目を作っているのはカウフマンであった、
ということを言っているヘッズが何人かいましたが、
Bキャストの公演をずっと流れで追っていると、ブリンの力が大きかったというのは、
この超プロ・カウフマンの私をもってしても、否定できないことです。

この日の公演では、メイン・キャストのそれぞれが、自分の経験を持ち寄って、
糞演出とはいえ、それであきらめるのではなく、
自分達の力で何とか見応えのあるものにしようという意思が感じられましたが、
まだ、その方向が少しそれぞれ違った方に向いている感じもありました。
しかし、この後、2回、3回と舞台を重ねていくにつれ、彼らがお互いに自分達の演技を調整し、
舞台に統一感が生まれていく様子には、今回Bキャストの公演を複数鑑賞して、本当にわくわくさせられました。



ルイージの指揮ですが、一度もこの演目をメト・オケとこれまで演奏したことがなく、
一度もオケとのリハーサルがないぶっつけ本番だったのですから、無理もないのですが、
ルイージが若干マイクロ・マネジメント寄りになり気味だったのと、
オケがこれまでの経験に半分頼りながら演奏しているところが少しかみ合わなくて、
やや荒削りな感触がある部分もありましたが、段々良い演奏になっていく予兆はそこここにあって、
特に弦セクションが表現しているスカルピアの邪悪な性質の表現にきらり!と光るものがありました。
キャストの中では少しラセットとのコーディネーションが悪い部分があって、
これは24日のマチネのラジオ放送までの最大の課題だと思いました。
この日の演奏に関しては、あと、私の好みと比べると少し鋭角な感じがするというか、
この演目はもうちょっと、べたでもいいのではないかな(特に第一幕目)、と思う点もあるのですが、
それは私の方がレトロなのかもしれません。
彼の指揮も回を追うごとに変っていきますので、後日の感想を待って頂きたいと思います。


<出待ちに関する記述が思ったより長文になり、ここに収まりません。出待ち編に続きます。>


Patricia Racette (Tosca)
Jonas Kaufmann (Cavaradossi)
Bryn Terfel (Scarpia)
John Del Carlo (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Gr Tier B Odd
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

TOSCA (Wed, Apr 14, 2010) 前編

2010-04-14 | メトロポリタン・オペラ
以前にもこのブログのどこかで書いたことがあると思うのですが、はっきり言って、
誰が何と言おうと、オペラに”演出家の時代”が存在したことなんて、一度もない、と思っている私です。
優れた演出というのはもちろん存在しますが、それが優れた公演になるには、いつだって歌手の力が必要で、
演出の良さだけで公演を引っ張れることなんて絶対にありえない。
では、逆に演出が悪い時は?そんな時、歌手はどれくらい、その悪い演出を救うことが出来るのか?

今回、Bキャストの『トスカ』で、この非常に興味深い命題への答えを、
答えのみならず、その答えが導かれるプロセスも合わせて見る・聴くことが出来たのは、
私にとって、本当に本当に貴重な体験であり、シーズンも残り一ヶ月を切った今、
まさしく今シーズンのハイライトと言ってよいイベントとなりました。

今シーズンのオープニング・ナイトで、Madokakipを怒りのあまり失神直前に陥れたボンディによる新演出『トスカ』。
理由は過去記事(オープニング・ナイト2回目の公演シリウスの放送HDの時の公演)にある通りなので、
ここでは繰り返しませんが、あれから半年近く経った4月のBキャストは公演数が4回。
(その後、さらにデッシらを含む別のCキャストで4回の公演が予定されています。)
このBキャスト4公演のうち、鑑賞できた3公演について、
おまけ(出待ち編)付きの3部構成『トスカBキャスト』シリーズとして、綴っていきたいと思います。

今回はその第一部、Bキャスト初日編(4/14)なんですが、本編に入る前に、プロローグを。

 プロローグ 

驚くべき偶然が重なり合い、まるでMadokakip自らがキャスティングしたような、
ラセット、カウフマン、ターフェル、ルイージというドリーム・チームとなったBキャスト。
しかし、たった10日前に交代が発表されたラセットは今シーズン、ヒューストンでロール・デビューしたばかり、
カウフマンは直前まで風邪のため、移動にドクター・ストップがかかり、NY入り出来たのは、B初日のたった3日前の週末、
ルイージはオケとのリハーサルは一回もないまま(かつ、メトで『トスカ』全幕を振るのは今回が初めて)、
もちろんターフェルも含め、全員ボンディの演出で歌う・演奏するのは初めて、
という、決して簡単でない条件の中、この『トスカB』の物語は始まったのでした、、。

 本編 

Aキャストと同じ配役で、最近では『ハムレット』の先王役でも健闘していたピッツィンガーのアンジェロッティ。
彼の歌唱にAキャスト時の公演よりもさらなる気合が入っているのは気のせいではあるまい、、。
明らかに、このBキャストの公演が特別であることを意識しながら歌っています。
堂守はAキャスト時のプリシュカから変わってデル・カルロ。
プリシュカがかわいいおじいちゃん風の堂守の典型の一つだったとしたら、
デル・カルロの方は、もう少し俗物さを押し出した役作りがユニークで、
声もプリシュカより立派なせいもあって(プリシュカはもうかなりのお歳なので無理もないのですが、、)、
快活な堂守になっています。
特に一番最初に聖水盤のところにバケツの水をぶちまけて立ち去ろうとして二歩ほど歩いたところで、
あわてて十字を切るのを思い出し、面倒臭そうに”どうでもいいや!”という勢いでそうする場面など、
あまり信仰厚くない”雇われ堂守”風なのが笑いを誘います。
(MetPlayerでAキャストのプリシュカはここをどのように演じていたっけ?と思って見てみると、
一応立ち去りながら面倒臭さうに切っているので、基本的には同じアプローチなんですが、
プリシュカの演技が全く観客、少なくとも私の記憶には残っていないのに対し、
デル・カルロのそれは劇場中から笑いが起こりました。)



そして、登場するカウフマンのカヴァラドッシ。
帽子を目深にかぶったままでトレンチ・コートを翻しながら登場する姿に、
”ハンフリー・ボガートみたいなカヴァラドッシだわ、、。”と思う。
しかし、それは決して格好をつけたり、自分を格好よく見せるためなのではなく、
その後に続く、人の食べものに手をつけようとしている堂守を見咎め、
”Che fai? 何してる?”といいながら、彼を蹴り倒す仕草や、
さらにいらいらぴりぴりした様子で、片胸のマグダラのマリアの肖像にかかった布を外す様子に、
ああ、彼は反体制のホットヘッドな芸術家としてカヴァラドッシを描こうとしているんだな、ということがわかる。
Aキャストのカヴァラドッシ、アルヴァレスの演技はどこか全体的に温厚なので、
堂守を蹴る仕草そのものになんだか違和感があるのですが、
カウフマンの場合は、そもそも彼が描かんとしているカヴァラドッシのキャラクターから、
信仰もないのに、生活の糧として教会におもねり、
人の食事までちょろまかそうとしている小者な堂守への軽蔑の念が伝わって来ます。
怒っているのです、世の中に対して。このカヴァラドッシは。
”妙なる調和 Recondita amonia"が始まるまで、この間、時間にして、ものの一分あるかないか、
それで、あっという間に彼がどういう風にこの役にアプローチしようとしているのかが観客にはっきりとわかる、
正直言うと、この日の彼の演技はラセットの演技とのバランスから言って、
少しカヴァラドッシが過多に”過激派芸術家”に傾いていた部分もあるのですが、
しかし、それでも、自分の演技の方向をすぐに感じ取ってもらえるように演じられるというのは、優れた才能だと思います。
そして、その”妙なる調和 Recondita amonia"。
彼の声がテノールらしくなくて嫌だ、という方、結構いらっしゃって、
私の連れの後輩もことあるごとに”変な声”と馬鹿にしているらしく、
今度うちに遊びに来る時は、入って来れても、出ることは出来ないかもしれないよ!って感じなのですが、
彼の言うことはわからなくはないです。
私が、”で、あなたはどう思う?”と連れに尋ねると、
彼も、”いや、、、僕はパヴァロッティのカヴァラドッシとか聴いたことがあるからさ、、。”
と訳のわからないことをしどろもどろになりながら呟いておりました。
要は、パヴァロッティみたいなテノール・オブ・テノールな声じゃないのが嫌みたいです。
明日から、連れのご飯が食卓に載る事はないな。

カウフマンについては、テノールにしてはバリトンっぽい、という形容をよく見かけ、
私もある程度はそうだと思うのですが、今回、一連の『トスカ』鑑賞をして、
彼の声を”変な声”と感じる人は、必ずしもバリトンみたい、云々ということだけに反応しているわけではなくて、
音が喉に引っ込んでいるように聴こえる、それが不自然な発声に感じられて嫌だ、ということなのではないかと思います。
またそのせいで、彼について、”声量がない”という間違った印象をずっと持っていたヘッズが結構な数いたようなのですが、
それが大きな間違いであることは、今回の『トスカ』を生で聴いたオーディエンスには十分証明されたと思います。
確かに声を喉の奥に戻して発声されているように感じられる個所があるのは事実で、
それは特に中音域、もしくは高音の後に降りてくる支えの低い音といったところで顕著だと思うのですが、
しかし、彼の声の響きに最も魅力が出るのは高音域で、
高音域になるにつれて、音が前に飛ぶようになり、
例えば、このRecondita amoniaのラストのsei tuの前のaの音、二幕のVittoria, vittoriaなど、
『トスカ』の作品の中でテノールの決め玉となる高音に関しては、これをどう聴いたら声が小さいと思えるのか?という位、
メトでも十分端の端まで届く音で、かつ、彼の高音の魅力は音のスピードが速い点にあると思います。
高音がただきちんと鳴っている、というだけではなくて、
こちらが座っている場所に速球のピッチャーが球を放り込んで来る様な感触があって、
ミットに速い球が入って来た時に、手がぴりぴりするのと同じように、耳に風圧を感じるのです。
オペラハウスを圧するようなタイプの大声ではないのに、高音に存在感があるのは、
このスピード感が大きなファクターになっていると思います。
歌のフォームの綺麗さでは、Aキャストのアルヴァレスも優れていると思いましたが、
『トスカ』という作品では、声や音のスピード感が非常に大事だと思うのですが、
アルヴァレスにはそれが若干欠けているために、聴いていて、あまりスリルがないのです。

それから、4/24のマチネ、つまり、ラジオ放送の日の観客は、フライング拍手という自らの愚かさゆえに聴き損ね、
ラジオの放送でも案の定かき消されて聞こえなくなってしまっていましたが
(本公演の翌日に放送されたものをインターネットで聴きました。)
初日も、それから二度目の公演(4/17)でも、”妙なる調和”の最後のsei tuのtuを、
フル・ボイスから滑らかにデクレシェンドし、かなり引き延ばしながら、消えるように音を消していく、
という技を見せていました。
ここをこのように歌うのは、賛否両論があるでしょうが、
(おそらく、しつこい!嫌味だ!意味ない!楽譜にそんなこと書いてない!と感じる人もいるでしょう。)
それでも、一聴の価値はあるエンディングで、彼自身、考えた上でこのように歌っているわけですから、
24日のマチネの日に、フライング拍手をかました大勢のオーディエンスに対し、
わたくしが火の玉級の殺意を抱いたことは言うまでもありません。

後、歌唱の面でカウフマンのカヴァラドッシを特徴付けているのはピアニッシモ、ピアノといった弱音の使い方で、
例えば、一幕のトスカとの二重唱で、È qui che l'esser mio s'affisa interoからそのまま
次のフレーズの頭のOcchioに歌い上げながらなだれ込んでいくテノールが多く、
私も生の舞台で聴いたことがあるのは、いや、録音でも、大体そのパターンだったと思うのですが、
カウフマンはこのOcchioの頭のoの音で、ものすごく音を絞って見せます。
それから、第三幕でカヴァラドッシの前に現れたトスカから、彼女がスカルピアを殺害したという告白を聴いて、
彼女の手を握りながら、”こんな清らかな手が殺人を、、”と歌う場面の、
O dolci maniのフレーズは、、、ああ、もうっ!!
すみません、ここで彼が出す、ほとんど消える寸前にまで絞った音は美しすぎて、形容する言葉がありません。
もちろん、この得意のピアニッシモが、”星は光りぬ E lucevan le stelle"の、
Oh, dolci baciのフレーズに生かされないわけがありません。

ただ、少しまだ風邪を引き摺っていたのか、この日は、高音の中にゆるぎないしっかりしたものと、
クラックには程遠いですが、一瞬こちらがひやっとするようなテクスチャーが混じる音が
混在していたことは付け加えておこうと思います。
(これは日を追うに連れて少なくなっていきました。)
それと、カウフマンのすべてを許してしまう私でも少し気になるのは、
メロディアスでない短い音に、少し置きに行ったような、棒読み的なテクスチャーが入る点で、
これは、実はカウフマンだけでなく、イタリアのネイティブでない今回のBのメイン・キャスト全員について、
共通して言えることなんですが、こういう部分がもっとしまると良くなるかもしれません。
また、カウフマンのカヴァラドッシの、歌唱の肉付けの仕方は、日によってほとんど差がなく、
かなり、自分の中で煮詰めて今の表現に至っているように見受けました。



ラセットが演じるトスカは、彼女の声自体が、トスカ役の理想とされるよりはほんの少し小さいことを彼女自身意識してか、
火のように怒りっぽい高ビーなトスカではなく、どこか可愛らしさを感じるトスカ像で、このトスカを見て、
“この女やだ。”と思う観客はあまりいないのではないかと思います。
スカルピアの策術にのって、マグダラのマリアが描かれたキャンバスに切りかかるあの馬鹿ばかしいシーンでさえ、
マッティラの時と違って、観客から全く笑いが出ず、きちんと場面としてファンクションしているのは、
その直前にアッタヴァンティ侯爵夫人の紋章が入った扇を投げ捨てる迫力と、
キャンバスに切りかかるのに使った金属の棒(絵を描くときに使う道具なんでしょうが、名前がよくわかりません。)
を床に落すタイミングとその音が作る音、
それからその音からオケと一緒に歌いだすまでの無音の“間(ま)”を巧みに利用しているから
(もちろんここはルイージのセンスも貢献しています。)で、こういう所に彼女の演技能力と舞台本能の高さを感じます。

声の話に戻ると、彼女の声はどこか優しい感じのする響きがあるせいで、トスカ役へのアプローチとしては、
かなりリリカルな方に寄っていると思いますし、彼女自身、声を虐待するような無理な歌い方をしていないのは、
私は良いことだと思いますが、トスカに猛烈な強烈さを求める人は物足りない、と感じる人もいるかもしれません。
3日通して大体その傾向があるのですが、特にこの初日の公演では少し高音がきつく感じるところがあって、
ニ幕目のスカルピアとのやり取りで何度か出てくるドラマ的にも大事ないくつかの高音で、
ほんの少し音に迫力を欠く部分があったり、
”Vissi d'arte (歌に生き、愛に生き)”の、マッティラが手こずっていたSingnoreで、
音のピッチがほんの少し甘く入ったり、段々音を絞っていく段階で息が足りなくなったか、
最後まで綺麗に絞りきれなかったり、というようないくつかの改善点がありましたが、
これは彼女自身も後に続く公演で克服しなければいけない点としてきちんと自覚があったようで、
後の公演ではかなり改善されていました。
彼女のトスカの歌唱で、むしろ気になったのは、リズムの取り方が甘く感じる部分がある点で、
時にルイージやオケとのディスコーディネーションを生む原因になっていたように思います。
特に第一幕で一箇所、どう考えても、彼女のとっている音が短い個所があって、
その後に続くフレーズも前のめり気味に歌っているのですが、
これは、ヒューストンで歌った時に指揮した指揮者(もしや、、パトリック・サマーズ?)の仕業なんでしょうか?
ここの癖はちょっと抜いた方がいいかも、、と思います。

ただ、アメリカのヘッドもヨーロッパ(特にネイティブ)の歌手へのコンプレックスが結構強いのか、
私なんかが見ていると、自国(アメリカ)の歌手には、ディクションやピッチを理由に、ことさら評価が厳しい気がするのですが、
(例えば、ネイティブでない国の出身の歌手と、同程度のディクションの問題があったとしても、
必ずと言ってよいほど、アメリカ人歌手の方への風当たりが強くなる。)
ラセットもその例に漏れず、色々言われたりしているようですが、
私は正直、もうちょっと評価しないとあんた達、罰が当るよ!という気持ちで一杯です。
というか、彼女ほどきちんと作品を自分の中に取り込むことが出来て、かつそれを
演技と歌に昇華させられる歌手は今世界レベルで見てもそうはいないのに、、と。
彼女は決して世紀の声と呼べるような特別な類の声を持っているわけではなく、
むしろ声自体は平凡な方に入ると思いますが、(なので特に音でしか彼女の公演を聴かない人に評価が厳しい人が多い。)、
実際の舞台で見ると役としての説得力が高く、しかも歌う相手、その時の空気によって、
役作りを器用に変えることが出来るので、何度見ても聴いても飽きないのです。

まだ歌と演技の練れ方が後日の公演に比べて浅かった、この初日の公演でさえ、
その点においては、割と演技が上手いと一応(というのは、
私はそれを自分の目で実感したことがない、、。)評価が高いマッティラと比べてさえ、
クラスが違うことが良くわかります。
たとえば、マッティラが出演していたAキャストの公演では、ただ、ただ、mess(ぐちゃぐちゃ)と評価するしかなかった第二幕。
スカルピアの股間目がけてのめった刺しはもちろん却下し、腹部に二度ナイフを突き立てる演技に変えた他、
スカルピアに迫られる場面でマッティラのようにたった数歩だけ動くという、
逃げる振りをしているとしか見えない中途半端な演技をなくして、
舞台のたった一点で、スカルピアがトスカを羽交い絞めにしながら、
彼女の太ももの間に手を入れて開こうとするのを、ラセットがそうはさせじと膝に力を入れるという、
これだけで、このシーンの持つわいせつ度が猛烈にアップ。
それから、スカルピアを殺した後。ここも、自殺が頭をよぎっているという設定のはずでマッティラが窓枠に上った時は、
”あら?トスカは外を眺めて何を考えているのかしら?”というような、
オペラハウスにいる観客には自殺の意図がはっきり伝わってこない演技だったのに対し、
ラセットからは、前のめりになって慌てて引っ込む様子、それから、その後に、
”私はどうしたらいいの?”という感じで、窓の横枠に顔を突っ伏して泣く仕草の絶妙な長さ
これらによって、十分すぎるほど、トスカが自分の命を絶とうとしたことが伝わってくる場面になっています。
それから、この後に、例の、Madokakipを激怒させた、トスカがソファーに引っくり返って、
アッタヴァンティ夫人の扇で顔をあおぐシーンがありましたが、
何と初日は、ブリンがその前のシーンで、うっかり窓際に扇を置くのを忘れ、
扇のある場所を咄嗟に知ることが出来なかったラセットが、
握り締めた片手を頭に載せて幕が降りる、という、アドリブで切り抜けることになりました。
私は公演を見ている段階ではそのいきさつを知らなかったので、
”さすが!ものをわかっている彼らはあの扇のシーンは取りやめにしたのね。”と思っていましたが、
どうやら、上の事情が本当であったことは、2回目の公演から扇が復活したことからも確認されました。
(また、リハーサルでも、扇を窓枠に置くという設定で演技が行われていたようです。)
しかし!!!!この2回目の公演以降の、扇の使われ方のラセットの発想の転換の上手さに、
”そうか、同じ扇であおぐのでも、こういう説得力のある表現の仕方があったか!!”と、
感嘆させられることになります。
それはまた、シリーズ第二弾の記事で詳しく。


<Madokakipをびっくり&感嘆させたブリンの超クレバーな役へのアプローチとは? 後編に続く。>


Patricia Racette (Tosca)
Jonas Kaufmann (Cavaradossi)
Bryn Terfel (Scarpia)
John Del Carlo (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Eduardo Valdes (Spoletta)
Jeffrey Wells (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Gr Tier B Odd
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

ARMIDA (Mon, Apr 12, 2010) 後編

2010-04-12 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

今回の『アルミーダ』がメトでの三度目の演出となるジンマーマンは、
ちょっとした崖っぷちに立っている気分かもしれません。
というのも、初めて演出した『ランメルモールのルチア』では、
一幕の泉のシーンで、ルチアのアリアの中で語られる話の女性の亡霊を登場させたこと、
三幕のラストで、その亡霊はルチアになって、エドガルドを死に誘う演出をつけたこと、
それから第二幕の六重唱を集団結婚写真撮影にのせて歌わせたことへの是非をめぐってヘッズの間でかしましく是非が議論され、
二度目の『夢遊病の女』では、一旦、リブレットにかなり忠実なオーソドックスな演出を組みながら、
主演をつとめたデッセイの”夢遊病の女はバカみたいなストーリーのオペラ。
それに普通の演出をつけるのはもっとバカ”という趣旨の発言に基づいて、その演出を完全にスクラップ。
一から作り直した演出は、設定を『夢遊病の女』の公演に向けて準備中の現代のオペラカンパニーに移し変え、
オペラのストーリーと現在のストーリーが入り混じりつつ、劇中劇としてエンディングを迎えるという突飛なアイディアで、
リブレットどおりの、のどかなスイスの村のお話を期待していたヘッズを激怒させ、
ランの初日には大ブーイングが飛びまくったという代物です。
今シーズンのオープニング・ナイトの『トスカ』がブーイングの嵐だったことが話題になりましたが、
別にメトであのようなブーイングが起こったのはここ最近であれが初めてだったというわけではなく、
むしろ、この『夢遊病の女』あたりから、ゲルブ支配人時代になってからの演出傾向に対する一部のヘッズの不満が
あらわになって来たように思います。



ただ、私はこの『ルチア』と『夢遊病の女』の二つに対しては、一部のヘッズが持ったほどの嫌悪感はなく、
『ルチア』の演出はそう悪くないと思いますし、『夢遊病の女』は”変なの。”とは思いましたが、
『トスカ』みたいに演出家の怠慢と傲慢に血管が切れるような思いをすることはありませんでした。
それは多分、デッセイのあっぱーぱーなアイディアに付き合いながらも、
ジンマーマンはジンマーマンなりに、ストーリーのエッセンスをどうにかして大事に出来ないか?と、
努力している風に私には感じられたからで、
特にアミーナがマンハッタンのビルの窓の外を夢遊する場面は、絵としてはシュールですが、
スイスの村の、橋の上を夢遊するアミーナと本質的にはきちんと繋がっているように思えました。
もちろん、他の場面ではいろいろ問題がなくはありませんでしたが。



そんな彼女が、レクチャーで、今回、ルネ・フレミングが自分を演出に指名したのは正解、
かつ、自分のファンタジーの翼を思いっきり広げられた、と語ったなら、それはこちらも期待するというものでしょう。
ところが。
私、はっきり言って、今まで観た彼女の演出の中で、この『アルミーダ』が断然最も嫌いです。
だって、なんだか、この演出、ロンパールームみたいなんですもの!!
つまり、幼児を相手にしているような演出だということです。
愛の概念を演じているウーデという女性(前編の最後の写真で、赤い衣装を着てブラウンリーのハートをぶち抜いているのがそう)
私の隣に座っていた女性たちからも、”子供なのに演技が上手だわ。”と好評でしたが、
この方は子供でなく、冒頭でするすると舞台の天井からリボンを使いながら降りてくることからも推察されるよう、
アエリアルを専門としているチームに所属している女性で、れっきとした大人です。
あんな演技の達者な子供がいてたまるか、なんですが、確かにとても小柄な人なので、
遠目に舞台を見てると、子供かな?と思う方もいらっしゃるかもしれません。
この愛の概念に対し、復讐の概念を演じる男性はさそりの格好をして舞台を這い回り、
魔法使いのアルミーダの暗黒の部分と通じているキャットウーマンみたいな容貌の悪魔たち、、
前編の冒頭の写真でフレミングが持っているタクトがいつの間にか、魔法の杖になり、
しまいに彼女がそれでみんなに”ちちんぷいぷい”と魔法をかける動作を始める頃には、
ロンパールームから、今度はディズニー・ワールドですか?って感じです。



愛という人間の持っているクオリティの中で最も美しいものを、
復讐という最も醜くどろどろしたものを、
それらを操るはずが、逆に操られることになってしまった魔法使いアルミーダの苦悩と不幸を、
彼女を陥れる不気味な悪魔の存在を、
あまりにわかりやすく、あまりに簡略に、あまりに漫画のようにしてしまい、
同時に、衣装とセット・デザインのハドソンの腕に頼りすぎたために、
目に優しい以外の何ものも感じられない薄っぺらな演出になってしまっています。



私ほど辛辣でないメディアの評でも、ジンマーマンの演出は安全に走りすぎた、と評しているものがあり、
それは結局、目に楽しいものを越えて、観客の感情に訴えかけてくるような、
そうでなければ、せめて、何かを考えさせる、思考を促すような、
そういう演出にはなりえていない、ということなんだと思います。
最もセット的には簡単で凝ったところのない書割だけのシーン(下から二枚目と三枚目の海をバックにした場面)の方が、
ドラマ的には強かったというのも、これまた皮肉なことです。



指揮のフリッツァの、”カットをしたら何かが欠けているような気がして気持ち悪い”という一存で、
延々フルに演奏されるこの作品で、タイトルロールの歌唱はいまいちだわ、
演出はいまいちだわ、これがどれだけの拷問か、皆様にご想像いただけますでしょうか?
実際、この『アルミーダ』の数日後の『トスカ』の公演で、たまにメトでお会いするローカルの女性の方と
たまたまお会いした時に、”もう『アルミーダ』は見た?”という話になって、
ドレス・リハーサルを鑑賞したという彼女は、”あれは退屈。”とばっさり一言で切り捨てていました。



そんな中で、唯一楽しめるいくつかの側面もあげておきましょう。
まず、オケの演奏なんですが、これも、ペーザロの公演で演奏したボローニャのオケと
同レベルのものを期待するとがっかりさせられます。
オケの音が大きすぎる、というので、リハーサルの時点から、
何人か弦セクションの人数をカットしたようなんですが、
これでもまだオケの音が大きくて、歌手の声が良く聴こえなくなることがしばしばでした。
フリッツァは確かヴェルディの作品だったと思うのですが、一度すごく良い指揮を聴いたことがあるのですが、
こういったベル・カントの作品はあまり得意ではないのでしょうか?やや繊細さに欠けるように思います。
ただし、バレエのある二幕二場のオケ。ここは比較的よくまとまっています。
歌がないのも助かっているのかもしれませんが。
特にここで登場するチェロの首席をつとめるフィグェロアさんのソロは要注目。
彼はメト・オケの中で私が大好きな奏者で、彼が出す音色はいつも只者でないのですが、
彼の弾くソロは今回の公演で、最も美しい瞬間で、
今日は私はこれを聴きにきたのだ、、と思い、自分を慰めることにしました。



男性陣のテノールに関しては、やっぱり6人集めるのは大変なんだなあ、、と実感させられる結果になっています。
一番音が一つ一つ細かく立っていて、ロッシーニらしさを歌から感じたのは
リナルドのライバル、ジェルナンドを歌うザパタでしょうか?
彼は音域で少し声の音色が変ってしまう、それから低音域があまり魅力的でない、という
二つの欠点がありますが、聴いていて、一番、歌から躍動感を感じました。
ものすごい高音もちょっと辛いみたいなので、魅力的な音色のレンジが少し狭いのですが、
その間ではきちんとボディのある、いい響きを持っています。



ザパタより、ほんの少しだけ音が重たい感じがして、技術の面ではまだ磨く余地のあるブラウンリーですが、
彼の強みは、高音から低音まで非常に響きが一定していて、
低音域も、テノールがなんとかスクイーズして出してます、という音ではなく、
マスキュランできっちりとしたいい音色を持っている点です。
今まで彼に対しては、細かいことは抜きで、高音をすこーん!と飛ばす
アクロバティックで体育会系な歌が得意な歌手、というイメージがあったのですが、
今回の『アルミーダ』ですごく印象が変りました。
リナルドを歌うにあたって身についていったのではないかと思うのですが、
中音域でのニュアンス、柔らかさ、柔軟さ、といった、
今までの彼の歌からはあまり感じたことのなかった側面が感じられるようになって、
歌に一回りの成長が感じられます。
彼はまだまだいい意味で発展途上で、今後さらに歌が磨かれていくポテンシャルがあるのではないかと思いました。
レビューなんかを読んでいても、今回の『アルミーダ』の公演は、フレミングの歌と演出のために、
一からげにして駄目だしされている感じがして、少しブラウンリーには気の毒に感じます。
ヴァン・レンスブルクも落ち着いた舞台での佇まいとあいまっていいキャスティングだと思いましたが、
残りの3テノール、オズボーン、マヌチャリアン、バンクスについては、やっとこさ歌ってます、という感じでした。
特にゴッフレード役のオズボーンは少し声のコンディションが悪かったんでしょうか?
立ち上がりを担う大事な役なので、この先の公演では健闘してくれるといいな、と思います。
バリトンの2人、ミラーとヴォルピは、テノール陣に比べて比較的歌うのが楽な役だったとはいえ、
きちんとした内容の歌唱で、この2人のキャスティングは成功しています。



とりあえず、フレミングには、よくよく自分の胸に手を当て、あの内容のパフォーマンスで、
新演出を作るという時間的・金銭的負担をメトにかけてわざわざメト初演を行い、
4時間もの間、全スタッフとそして観客を付き合わせる、
それに見合った公演であったかどうか、考えてほしいな、と思います。
今日の公演後の、メト・プレミアの公演の初日とは思えないほど生ぬるく小さな拍手の音を、
ウェイクアップ・コール(これはやばいわ!という覚醒)として感じてくれればよいのですが。
内容の伴わないルネ様のワンマン・ショーには我々ちょっぴり食傷気味ですから。


Renée Fleming (Armida)
Lawrence Brownlee (Rinaldo)
José Manuel Zapata (Gernando)
John Osborn (Goffredo)
Yeghishe Manucharyan (Eustazio)
Kobie van Rensburg (Ubaldo)
Barry Banks (Carlo)
Peter Volpe (Idraote)
Teele Ude (Love)
Isaac Scranton (Revenge)
Aaron Loux (Ballet Rinaldo)
Conductor: Riccardo Frizza
Production: Mary Zimmerman
Set & Costume design: Richard Hudson
Lighting design: Brian MacDevitt
Choreography: Graciela Daniele
Associate Choreographer: Daniel Pelzig
Gr Tier A Even
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*** ロッシーニ アルミーダ Rossini Armida ***

ARMIDA (Mon, Apr 12, 2010) 前編

2010-04-12 | メトロポリタン・オペラ
滅多に上演されない演目を自分の名前にかけて舞台に引っ張ってくるということは、
歌手にとって誇らしいことであるでしょうが、それに伴う責任も感じてもらわなければ。
そんなことを今日の『アルミーダ』初日の公演を観て思いました。

大体、オペラハウスで稀にしか上演されない演目というのは、たいがいの場合、それなりに理由があって、
音楽がつまんない、話がつまんない、難しすぎて歌える歌手がいない、といった事態が、
単体で、または複数重なりあって、上演をはばんでいるものです。

そんな演目を久々に発掘し、舞台にかけようというなら、客に、
”ええ?!どうしてこんなに面白い演目があまり上演されないの?”と思わせるような内容の公演を見せてほしい。
かつてマリア・カラスはそれをベル・カントの演目でやってのけ、
卑近な例で言えば、今シーズンのメトの『ハムレット』なども、きちんとその線を越えていました。



で、『アルミーダ』はなぜあまり上演されないのか?
一つには、ラン開始前のレクチャーで語られた通り、6人ものテノールを揃えなければならず、
そのいずれもに、ロッシーニ・テノールのクオリティと卓越した歌唱力が求められる点で、
テノールなら誰をキャスティングしてもよいというような簡単なものではない点です。
そして、これは単なるスタート地点で、この後に、歌手がどのような歌を聴かせてくれるか、という問題があります。
ロッシーニのセリア(簡単に言えば、喜劇でなく、まじめなお話。
たいてい、神話、伝説、歴史上の人物にまつわるストーリーの類が扱われる。)は、
話が単純なのに延々上演時間が長く(ちなみに『アルミーダ』は夜の8時開演で、
たった一回のインターミッションに関わらず、上演終了は12時過ぎでした。)、
これで歌唱にロッシーニ特有のワクワク感、どきどき感、ときめきがなかったら、単なる4時間にわたる拷問です。
昨シーズン、キャラモアで観た同じロッシーニの作品『セミラーミデ』が、
同じく上演時間の長い作品でありながら全く退屈でなかったのは、ひとえに歌手達の力量によるもので、
ああいうのを聴けることを期待して、ロッシーニのセリアを観に観客は足を運ぶというものです。



ですから、私がメトの支配人であったなら、ルネ・フレミングが新シーズンで歌いたい演目として
『アルミーダ』を挙げて来た時に、こう尋ねたことでしょう。
”じゃ、あのペーザロの公演の時よりも上手く歌えるようになっているんですね?”
そして実際に抜粋を歌ってもらって、それがペーザロの公演とたいして変りがなかったとしたら、
彼女のためにこの作品で新演出を組むのはおろか、彼女の『アルミーダ』への登場は禁止して、
『ルサルカ』でも歌ってもらうか、『ばらの騎士』の上演回数を二倍にします。

そう、この演目でなんとか普通に手に入る録音は、カラスが出演した1952年のフィレンツェでの公演のライブ盤か、
フレミングが出演した1993年のペーザロでの公演のライブ盤(オケはボローニャ歌劇場オケ)くらいしかなく、
後者においては、元々ソニーから発売されていた音源ながら、アメリカでは生産中止になっていて、
今はアルキーフという再発専門の会社がリイッシューを行っている状態です。



カラスのライブ盤は録音のせいも一部あるとは思いますが、オケの音があまりに悲しいことになっていて、
曲の全体像がわかりにくく、共演している男性陣もあまりいけていないので、私もペーザロ盤を購入してみました。
驚いたのは、リブレットの表紙がなぜだかフレミングでなく、指揮をしているダニエレ・ガッティなんですが、
この頃の彼は人の良さそうな、溌剌としたかわいらしい表情をしていることです。
いつから、あのスカラの『ドン・カルロ』今シーズンのメトの『アイーダ』の時のような、
ネガティビティー満載の、うさん臭い表情のおやじになってしまったんでしょう?
ま、今回のメトの『アルミーダ』では彼が指揮するわけでもないですし、そんなことはどうでもいいんですけれども。

そして、これを書いていて、ふと思ったのですが、レクチャーの記事にbabyfairyさんから頂いたコメントと、
ビリングハースト女史が、レクチャーで、もともとリナルド役にキャスティングされていたテノールが、
”もう”この役は自分の声に合わず、歌えない、と言っていたことを総合すると、
ローレンス・ブラウンリーがリナルド役を引き取る前には、このペーザロの時に同役を歌った
グレゴリー・クンデがキャスティングされていた可能性もあるな、と思います。

さて、このペーザロ盤ですが、オケの音が大変聴きやすく、演奏もとてもいいと思います。
というか、ボローニャのオケの力量と彼らのロッシー二作品へのきちんとした理解にも助けられているとは思いますが、
陰鬱な、あれこれいじりたがり屋のおやじとしてのガッティしか聴いていないと、
この爽やかさ、軽やかさ、素直さは意外で、私はこの作品での彼の指揮はかなり好きです。



しかし、問題はフレミングの歌です。
私は彼女のとても良い歌唱と演技を聴き・観たこともあるので、彼女を決して嫌いなわけではないのですが、
『椿姫』のヴィオレッタがあまりに問題が多くて私が怒りを抑えきれなかった時と同様に、
この『アルミーダ』も大問題です。
ヴィオレッタもベル・カント的技術が大いに求められる役なので、問題の根っこは共通しているのですが、
彼女の歌は速いパッセージでの一つ一つの音がはっきり立っていなくて、
なんとなあ~く、ぐにょぐにょ~と音が移動していくのが本当に気持ち悪い。
音の移行が、階段ではなくて、坂になってしまっているような感じを受けるのです。
それから、ロッシーニの作品はセリアでも、こちらがスキップしたくなってくるような躍動感、
これがないと本当につまらない歌と公演になってしまうのですが、
彼女の歌からはそういう躍動感を一切感じない。
これらの点を改善したのでなければ、どうしてメトでまたこの作品を歌おうと思うのか?
6人のテノールを揃える云々の前に、タイトル・ロールがこれでは聴き応えのある演奏になるわけがないではありませんか。



今日の公演でのフレミングの歌唱は、そういったペーザロでの問題が一切解決していないばかりか、
声そのものの魅力という面でも、若さゆえに多少はポイントを稼いでいたペーザロの時と比べて、
年齢を経たための、ちょっとしたウェアー(磨耗)が耳につきます。
それから、これは何というのか、、、なんだか、”歌い流している”という表現を使いたくなるような、
まるでリハーサルのために力を抜いて歌っているのか?と思えるような”渾身の歌”とは反対の、
どこか、緩みのある歌です。
特にそれが顕著になるのは高音で、もしかするとこの役で必要な高音を
しっかりとした馬力でサポートしながら歌うのが難しくなっているのかもしれませんが、
音程はなんとかきちんとしたピッチでとれてはいますが、
音色の方が、なんとも覇気のないスリルのない音で、段々空気が抜けて行っている風船のようです。
ロッシーニの作品で、”これはどうだ!”というような煌びやかで力強い(高さの問題ではなくて、むしろ、音色の問題)
高音が欠けていたら、何を聴けというのでしょう?
この点においては、まだペーザロの時の方がましなくらいです。



実を言うと、私はこの”流し感”を最近の彼女の公演から感じることが多くて、
今シーズンの『ばらの騎士』でのマルシャリンは例外ですが、
昨シーズンの『タイス』、『ルサルカ』に対しても同じ感触を持ちました。
というか、彼女は、こういう”彼女のために企画された演目”で、そういう風になってしまうことが多いような気がします。
『椿姫』は歌唱の問題はありましたが、流している感じはなく、
一生懸命頑張っているのだけど上手く行かなかった感じでしたし、
『オネーギン』での彼女のタチアナの解釈をロシアらしくないと感じる方はいらしても、
HDやDVDでの彼女の歌唱と演技を”流している”と感じる方は少ないと思います。
『オテッロ』のデズデーモナに至っては、体当たりで、素晴らしい歌唱と演技でした。
これに『ばらの騎士』を加えると、最近の彼女は、メジャーな演目での方が、結果がいいように思います。
『タイス』は、私が今回の『アルミーダ』と並び、
共通した強烈な”流し感”、”私が出演しているだけでOKでしょ?”的雰囲気を感じた演目です。
『タイス』は彼女の声や歌唱のスタイルに合っていたのでまだ救われてますが、
『アルミーダ』の方は、そちらでも難があるので問題がより際立ってしまっています。



また、彼女が自分で自分の能力をどのように測っているか、私には知る由もないですが、
私個人的には彼女の最大の武器は表現力にあると思っています。
歌の純粋なテクニック、歌唱技術そのものについては、彼女はそんなに秀でているわけではなく、
むしろ、非常にくせのある歌い方をする時もありますし、声そのものが天下の美声かと言われるとそうでもないので、
彼女はその表現力を生かせるレパートリーを選ぶべきだと個人的には思います。
それは上に上げた、彼女の歌唱がよかった演目全てにおいて、
表現力で大幅にポイントを稼げる役柄(タチアナ、マルシャリン、デズデーモナ、、)だった事実とも無関係ではないと思います。
もちろん、表現力で稼げる役柄でも、彼女の歌唱技術がついていかないと、
ヴィオレッタのようなパターンになってしまう危険はあります。



その点でもこの『アルミーダ』は彼女にとってディスアドバンテージの高い演目で、
すでに書いた、歌唱テクニックそのものの不足という不備をなんとか越えて、
彼女の表現力が活きているのは、リナルドが”こんな生活に溺れていては駄目だ!自分のいるべき場所、任務に戻らなければ!”と、
ウバルドとカルロの説得に応えて、アルミーダと別れなければいけない辛さに耐えつつ彼女の元を去ろうとするのを、
”あなたのためなら、髪を切って男のようになって、軍の下働きとしてあなたに仕えるだけでいいから。”と、
必死になって懇願する”私を捨てないで”女モードの場面くらいです。
フレミングは実生活でももしかするとこういう別れ方をしたことがあるのか、
このように異性を振った、もしくは、に振られた経験がある人間なら、いい意味で居心地悪く感じる演技と歌唱です。



この後、アルミーダは彼を愛するなら引き際もそれにふさわしい態度で!と囁く”愛”の概念と、
彼を愛するからこそ、リナルドの決心を許さないという”復讐”の概念との間で葛藤するのですが、
最後の結論に至る頃には、また、形式的な演技に戻っていってしまうので、
彼女の表現力を楽しめるのはせいぜい15分程度でしょうか?
しかし、逆に見るとこの短い部分だけが他の部分から浮き上がっているように感じられないこともなく、
彼女だけでなく演出のせいもあるのかもしれませんが、
オペラの頭から最後までを流れる統一した大きなドラマの流れのようなものをあまり感じず、
断片のつぎはぎのようになってしまっています。

後編に続く>


Renée Fleming (Armida)
Lawrence Brownlee (Rinaldo)
José Manuel Zapata (Gernando)
John Osborn (Goffredo)
Yeghishe Manucharyan (Eustazio)
Kobie van Rensburg (Ubaldo)
Barry Banks (Carlo)
Peter Volpe (Idraote)
Teele Ude (Love)
Isaac Scranton (Revenge)
Aaron Loux (Ballet Rinaldo)
Conductor: Riccardo Frizza
Production: Mary Zimmerman
Set & Costume design: Richard Hudson
Lighting design: Brian MacDevitt
Choreography: Graciela Daniele
Associate Choreographer: Daniel Pelzig
Gr Tier A Even
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*** ロッシーニ アルミーダ Rossini Armida ***

DIE ZAUBERFLOTE (Thurs, Apr 8, 2010)

2010-04-08 | メトロポリタン・オペラ
毎年、もう来シーズンは見なくていいな、と決心するのに、シーズンが来るとつい鑑賞してしまう演目に『魔笛』があります。
メトの人気プロダクションの一つにも数えられるといってよい、
このジュリー・テイモアのプロダクションが初めて登場したのは2004年のこと。
私は今までにも告白して来た通り、元々はこの演目がそんなに好きではありませんでした。
2、3、テイモアのプロダクションでのドイツ語全幕公演を見て、やっぱり好きになれない、、と思っていたのですが、
オペラは原語が一番!の私にしては不思議なことに、同じテイモアのプロダクションをテイラーした
英語のアブリッジ版の方をDVDで鑑賞した時から結構気に入ってしまって、
それ以降、出演するキャストの中に良い歌手が混じっていたこともあり、
アブリッジ版の上演はもちろん、ドイツ語全幕公演でも徐々に楽しめるようになって来て、
私の『魔笛』アレルギーも終焉??、、なんて思ってました。

今シーズンBキャストの『魔笛』は、そのプレミアにあたる2004-5年シーズン、
及び2006-7年シーズンのDVDのアブリッジ版にも登場し、
テイモアの『魔笛』の要のキャストとして頑張って来たポレンザーニのタミーノに、
2005-6年シーズンと同じくDVDのアブリッジ版にも登場したガンのパパゲーノ、
そしてやはりDVDアブリッジ版組のフェダリーのモノスタートスと、
”原点に戻る”的男性陣のキャスティングに、パミーナ、夜の女王といった女性陣にはフレッシュな顔ぶれを配した公演です。

私がDVDのアブリッジ版を好きな理由は、単に上演時間が短いということ(、、ん??)の他に、
本人の母国語である英語で歌えることが影響しているのか、ポレンザーニの演技と歌唱がすごくしっくり来ていて、
作品自体がドイツ語から英語に移されているという不自然さと少なくとも相殺、もしくはそれを凌駕している点にあります。
DVDで彼のタミーノを観て以来、彼の同役をドイツ語で聴くのは初めてなので、
あらためて、どういう歌が聴けるのだろう、英語の時との違いは?といった興味がつきませんでした。

ところが、大蛇に追われて舞台に飛び出してくるのっけのタミーノの登場場面からして、
DVDの時のような、(アブリッジ版はキッズを対象にクリスマス時期に合わせて上演される特別演目なので)
ちびっこの観客たちがわくわく来るような、そして、ちなみにDVDを観ながらこの私もちびっ子並みにわくわくした
”うりゃあっ!!”とでも形容したくなるようなあの勢いがありません。
、、、なんか、動きが重く、おっさんぽくなった、、。
まあ、それはいいです。私も最近ではすっかり体力の衰えを感じ、人のことを言えた義理ではないですから。
でも、この重さが歌唱にまで感じられるとはどうしたことか?

私は以前記事にしたこともありますが、
リチャード・タッカー・ガラでキーンリサイドと歌った『真珠とり』からの二重唱
(2人の声の相性が良くて、重唱部分のホールに残る響きの美しかったこと!)や、
メトでも幸運にも複数の演目で彼の優れた歌唱を聴く機会がありましたが、
今まで、こんなに彼の歌唱を重たく感じたことがありません。
声の話だけをすれば、もちろん少しずつ声が重くなっていくのは自然なことなのですが、
彼の声はいつもポジションが上に維持されている感じで、
実際にパッセージの流れまで重たく感じることはありませんでした。
でも、今日は、それが重く感じますし、彼の好調な時の歌唱を特徴づけている声の
イーヴンさ、というのも感じられず、一つのフレーズの中に突然大きな音が出て来るのは良いとしても、
それがやや唐突な感じで、周りの音と上手く繋がっていない感じを持ちます。





(2007年のタッカー・ガラからポレンザーニとキーンリサイドの『真珠とり』の二重唱”聖なる寺院の奥に”。
演奏はメト・オケ、指揮はアッシャー・フィッシュ。)




というか、実際この日の公演は、彼の歌唱のせいだけでなく、少し音響に問題を感じる点があって、
メトの舞台はステージ・レフト(下手)と舞台の中心の間くらい
(なので、舞台下手から上手に向かって舞台の幅の1/4位行ったところ)の、舞台のヘリから2メートルほど下がったところに、
魔法のスポットがあって、ここに立って歌手が歌うと舞台の他の場所より、全然声が良く響くんですが、
(スカラを初めとする他の劇場にも似たようなスポットがあるといいます)
それを差し引いても、今日の公演ではそこで出された声が不自然なほど異常な大きさで鳴っているように感じました。

ポレンザーニに話を戻すと、その上に演技もアブリッジ版の時のようには役に入り込めていない感じがあって、
どうしたのかな?と思いました。
ただ、やっぱり彼は重唱は上手くて、きちんと相手の歌を聴きながら歌える能力が高いんだな、と思います。
今回はソロで歌う部分より、重唱の方が魅力がありました。

というわけで、男性のリターン組で最も過去の公演からのギャップを感じたのがポレンザーニだったんですが、
それに比べると、ネイサン・ガンのパパゲーノ、グレッグ・フェダリーのモノスタートスは、
良くも悪くもDVDでの公演と同じテンション、似た内容の歌唱で、安心して観て・聴いていられます。
役得というか、この演目では圧倒的にパパゲーノが観客の人気をさらってしまうのが普通ですが、
私はこのテイモアの演出では、モノスタートスの方が好きだったりします。
この演出でのこの役は、どんな風に演じてもある程度笑いはとれるのですが、
フェダリーの演技のタイミングとかセンスがこの役には本当にぴったりで、
次にこういう動きをするんだよな、とわかっていても、それでも笑ってしまう。
というわけで、私はテイモアのプロダクションでモノスタートスを歌った歌手の中では彼が一番好きです。
変にオーバーアナライズせずに、ひたすら歌も演技も観客を笑わせることだけに徹しているのも好感が持てます。
以前にも書きましたが、彼の『フィガロの結婚』の宦官系ゴシップ大好きドン・バジリオもものすごく存在感があっていい。
クセのある脇役をやると光る人です。

一方、多少はアナライズしてほしいんだけどな、、と思わされたのが、ハンス・ペーター・ケーニッヒのザラストロ。
プレイビルによると、彼は日本でもすでにオペラの舞台に立っていますし
(2007年11月のドレスデンとの公演で『タンホイザー』のヘルマン)、
また、ティーレマンとバイロイトのリング(2008年)でファフナーとハーゲンを歌っているんですね。
確かにこれだけ豊かな声量で朗々と歌えるバスをメトで聴くのはパペ以来のような気がするので、
第一声が出て来た時には、”おっ?”と思わせるものがあるのですが、
時々歌が砕ける感じがする時があるのと(アリアで旋律が滑らかでない部分がある、
突然息切れしたように声量のボリュームが下がる時がある、など)、
何よりザラストロのキャラクターがあまり浮き上がってこないのが不満として残りました。
私にはAキャストでのゼッペンフェルトのこの役での父性に富んだ歌唱の方が味わいがあって印象に強く残っています。

少し話が戻ってガンなんですが、一時期はアメリカ産バリトンにしては珍しい
”バリハンク”としてちょっとした人気を巻き起こし、メディアへの露出も多かった彼が、
最近とんとメトに登場する回数が減っていて、何か健康上の問題でもあるのかと心配していたのですが、
ことこのパパゲーノ役に関しては十分声量もありますし、
もうこの役は一から十まで知り尽くしています!という感じで、演技もこなれたものでした。



このプロダクションでのパパゲーノはかなりフィジカルな要求が高い役ですが、
どんな動きも手を抜かず、一生懸命歌い、演じているのは好感が持てますし、
これがポレンザーニのおっさん臭さを一層浮き立たせてしまった感もあります。
残念なことに、今年のこのBキャストによる公演の写真は全然メトからリリースされていないので、
(というか、全然撮影されていない可能性あり。)
参考までに、過去シーズンに出演した際の写真をこの記事では使用しているのですが、
ガンの過去のパパゲーノ写真を探している途中で、こんなものを見つけてしまいました。
2006-7年シーズンの写真で、パパゲーノはもちろんガンなんですが、
どのテノールが扮してもほとんど誰だかわかりゃしないこのバカ殿風メイクを通してでも、
Madokakipにはぴんと来ましたです。
さて、このタミーノ、誰だかおわかりになりますでしょうか?↓



答えはヨナス・カウフマンです。
そりゃ、ポレンザーニ(下左)もびっくりするってもんです。(下右はカウフマン。
ほとんど見分けがつかないですが、この二枚以外のタミーノの写真は全てポレンザーニです。)



テイモアのプロダクションで彼がタミーノを歌っていたとは、、全く記憶にありませんでした。
2006年シーズンなら、鑑賞していれば感想を書いているはずなので、それがないということは、
彼がタミーノを歌った時は観てないんですね、、、がっくりです。
『魔笛』アレルギーだった頃の自分が呪わしい!!!
それにしても、早くこの『魔笛』の感想を書き上げ、4/14の『トスカ』
(ラセット、カウフマン、ターフェル、ルイージという、Madokakip悶絶!のメンバー)の感想にたどり着きたい。

というわけで、残りのキャストについては駆け足で行きます!

ケーニッヒと同様ドイツ出身のジュリア・クライターも、
パミーナを演じ歌うに際して、少し型どおり的な感じがしたのが残念です。
このドイツ出身の2人が”型どおり”という共通項を持つのは単なる偶然なのか、それとも何か関連性があるのか、、。
こちらも、Aキャストのフィリップスの方が、イタリア・オペラ的アプローチは
少し破天荒なのかもしれませんが、私には面白く感じられました。

クライターは1980年生まれですので、まだ若手に入るでしょう。
声そのものにはなかなか魅力的なピーンという響きがあるのですが、
少し音色に安定感が欠けるのが今後の課題かもしれません。
それから、もう一つの大きな課題は彼女らしさ、パーソナリティ、といった面。
今回の彼女のパミーナは、可愛らしくはありましたが、何かもう一ひねり、
彼女のパミーナ!といえるものが欲しい気がします。
その点でも、フィリップスの方が、頭一つ出ているような気が私にはしました。



私が『魔笛』を観ても、最近、今ひとつわくわくしないもう一つの理由は、
夜の女王をスリリングに歌える歌手がほとんどあらわれない点にもあります。
今まで聴いた女王は、みんな、可もなく、不可もなく、、
いや、一度すごい不可があったような気がしますが、記憶の彼方に葬り去りました。
その中で、今回のシャギムラトワの女王は、いい方の部類に入ると思います。
夜の女王のアリアは歌えるソプラノが見つかっただけでもめっけもの、、という感じで、
ほとんどのソプラノが、何とか破綻なく歌い終えている以上のものになかなかならないのに対し、
このシャギムラトワが優れている点は、”声そのもの”が女王向けな点です。
つまり、非常にヒステリックさを感じる声です。
ところが歌そのものは決してヒステリックではなく、テクニックも安定していて、
一度だけ軽くピッチを外した以外は、音程は正確ですし、高音に適度な刺すような迫力もあります。
わずかにロシアン・テイストを感じないでもない歌唱なんですが、
どうせ国籍不詳のエキゾチックなお話なんですから、私はそれほど気になりません。
彼女はこのアリアまで行ってしまうと、却って開き直って思い切り歌うのですが、
むしろ、登場してすぐ辺りの方が歌唱がやや不安定なのが多少気になります。
これで、アリアを歌えるのか?と心配させるような感じもあって、、。
もしや、それ自体が作戦なのか?期待値を思い切り下げさせておいて、アリアで好感度アップを狙うという、、。

アダム・フィッシャーの指揮は、序曲からすでに何となく緩んだようなスリルのない演奏で、
非常に緩慢な感じのする演奏でした。

それぞれの歌手はそれなりに頑張っているのだけど、何かぴたっとはまらない感じもあり、
再び『魔笛』アレルギーの発症におびえている私です。


Matthew Polenzani (Tamino)
Julia Kleiter (Pamina)
Nathan Gunn (Papageno)
Hans-Peter König (Sarastro)
Albina Shagimuratova (Queen of the Night)
Greg Fedderly (Monostatos)
Monica Yunus (Papagena)
David Pittsinger (Speaker)
Wendy Bryn Harmer, Jamie Barton, Tamara Mumford (First, Second, Third Lady)
David Crawford, Bernard Fitch (First, Second Priest)
Philip Webb, Richard Bernstein (First, Second Guard)
Irwin Reese, Dennis Williams, Craig Montgomery (First, Second, Third Slave)
Jakob Taylor, Neel Ram Nagarajan, Jonathan A. Makepeace (First, Second, Third Spirit)
Conductor: Adam Fischer
Production: Julie Taymor
Set design: George Tsypin
Costume design: Julie Taymor
Lighting design: Donald Holder
Puppet design: Julie Taymor, Michael Curry
Choreography: Mark Dendy
Stage direction: David Kneuss
Dr Circle A Even
OFF

*** モーツァルト 魔笛 Mozart Die Zauberflöte ***

ARMIDA: THE TEMPTRESS AND THE TENORS

2010-04-05 | メト レクチャー・シリーズ
今日のレクチャーはいよいよ一週間後(4/12)に初日を迎える『アルミーダ』について。
このシリーズは”シンガーズ・スタジオ”シリーズとは別ラインで、
作品および公演について、メイン・キャストやスタッフを迎えて語る、というのが売りで、
実際、昨シーズンまでは、『夢遊病の女』(デッセイ、フローレス)にしろ、
『トロヴァトーレ』(アルヴァレス、ラドヴァノフスキー、ザジック)にしろ、その触れ込み通りだったんですが、
今シーズンに関しては、私が参加したものはとりあえず、歌手なんて誰一人出て来てやしません。
初日が近づいてプレッシャーがかかっている時期に、こんなレクチャーに参加してられるか!ってなところなんでしょうか?

というわけで、もはや受講者の誰も期待なんかしちゃいませんが、
モデレーターをつとめるビリングハースト女史(『ホフマン物語』のレクチャーでの
歯に衣着せぬ物言いからすると今日も何か面白い話が飛び出すのではないかと楽しみ!)と共に現れたゲスト3名の中には、
ルネ・フレミングはもちろん、ブラウンリーをはじめとする6人のテノールの姿もないのでした。

ビリングハースト女史から最初に紹介があったのは、演出を担当するメアリー・ジンマーマン。
彼女は古代のローマ詩人オイディウスの詩をもとに脚本を書き演出した
演劇『メタモルフォーゼス』で2002年のトニー賞を受賞して一躍名を高めた演出家で、
メトでは、2007-8年シーズンにプレミアされた『ランメルモールのルチア』
(メトが2011年の日本公演で持っていく演出です)と2008-9年シーズンの『夢遊病の女』に続き、
今回の『アルミーダ』が3度目の演出になります。
特に『夢遊病の女』に関しては、一度はオーソドックスな演出の構想を練っていながら、
主演のデッセイの意見でそれをお釈迦にし、現代のオペラカンパニーの稽古場に
舞台を移した演出で、観客から総スカンを食うという、痛い目に合った彼女なので、
今回はかなり起死回生モードに入っているはずです。

その横にちょこりんと座っているのは、リチャード・ハドソン。
セットと衣装のデザイン担当で、メトでは1998年にプレミアされた『サムソンとデリラ』を手がけたことがあります。
ジンバブエ出身の白人で、現在はロンドンにアトリエを持っているそうで、
オペラ、バレエ、演劇と幅広く、イギリスをはじめとするヨーロッパのプロダクションで活躍中ですが、
1998年にはブロードウェイのミュージカル『ライオン・キング』でトニー賞も受賞しています。

と、2人を紹介した後、にわかに『アルミーダ』の作品の解説を始めるビリングハースト女史。
”あのビリングハースト女史のすぐ隣に座っているもう一人のおっさんは一体誰?”とオーディエンスが訝り始めた頃、
最前列に座っていたお年寄りの聴講者が、”その人は誰ですか?”と指差すと、慌てまくるビリングハースト女史。
”んまっ!私としたことが、どうしてマエストロ・フリッツァを忘れるなんてことが出来たんでしょう?”
、、、、、フリッツァ、かわいそすぎ。指揮者なのに忘れられるなんて。

『アルミーダ』は今回メト初演となる、ロッシーニの若き頃(完成したのが1817年ということは、
若干25歳の時!)の作品で、彼がナポリで過ごした時期に書かれた作品です。
あらすじはこちらで確認していただくとして、そのユニークな点は、タイトル・ロールをつとめるたった一人のソプラノ
(というか、ソロで歌う女性歌手は他にいない!)に対し、6人のテノールが必要で、
その6役のどれもが、歌うパートが比較的短い役を含め、
どれも、れっきとしたロッシーニ・テノールでなければならない、という非常に難しい要素があるので、
テノールの頭数を揃えられない場合は、いくつかのパートは一人二役で歌われる場合もあるほどです。
ただし、今回のメトの公演では、それぞれ違った歌手に歌われることが大事である、というコンセプトのもと、
なんとか6人別々の歌手をかき集めて来たようです。これに関しては非常に興味深い言及がありましたので、のちほど。

『アルミーダ』は、タッソーの詩をベースとしていますが、
この物語自体は19世紀には非常に人気のある主題だったようで、ロッシーニ以外の作品も存在しているそうです。
ロッシーニの『アルミーダ』は、ロッシーニの奥様にもなったソプラノのイザベラ・コルブランのために書かれ、
ソプラノと一般には言われながら、充実した低音域と卓越した歌唱技術で知られていた彼女に合わせ、
表題役は、メゾとソプラノの間の音域に重点を置き、かつ非常に難しいバリエーションが求められる役になっています。

6テノールのうち、ゴッフレード(メトの公演ではジョン・オズボーン)とジェルナンド(ホセ・マヌエル・ザパタ)
を含む3役は、いわゆる”軽めのテノール”の声が求められます。
ちなみに、全幕通しで演奏すると延々4時間かかる演目ですが、今回のメトの公演ではカットは一切ないそうです。

ここから以降は、インタビュー形式になって行きましたので、ビリングハースト女史をB女史、
忘れられた指揮者フリッツァを指揮者F、ジンマーマンを演出家Z、ハドソンを衣装Hとし、興味深く感じた発言を拾ってみます。
いつも通り、完訳ではなく、簡単なメモと記憶に頼った意訳ですので、ご了承ください。

上のノー・カットの件についてフリッツァが語るところから。

指揮者F:特にセリアの作品においては、カットを行った場合、何かが欠けている感じになってしまうんですね。
なので、今回メトでは、初演でありながら、完全版を上演することにしたのです。

B女史:一時期これらのロッシーニのセリアの作品は非常に人気があったのに、復興の動きが出るまで、
ずっと姿を消していた時期がありますね。これはなぜでしょう?

指揮者F:ロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニ、ヴェリズモ、、
イタリア・オペラがこのような変遷をとげていくにつれ、
必要とされる声の種類や声楽上のテクニックの種類が全く変わってしまった、ということがあげられると思います。
コロラトゥーラは廃れ、それでも喜劇は何とか持ちこたえていましたが、
カラス、それからそれを引き継いだサザーランド辺りが登場するまで、セリアの方はからっきしでした。

演出家Z:今回の演出では、中世の十字軍の物語を御伽噺的プラットフォームで描くことを試みてみました。
ロッシーニがこの作品を書いた時期は、原作となったタッソーの詩が生まれてから約300年ほどの隔たりがあります。
ということで、すでにロッシーニの作品自体に御伽噺、ファンタジー的要素が含まれているのではないかと考えたのです。

衣装H:メアリーとリブレットの読み合わせをした後、
メトロポリタン美術館とMoMA(ニューヨーク近代美術館)に参考となるアイディアを求めて出かけました。
面白いのは、皆さん逆に思われるかもしれませんが、
私が選んだのがMoMAでメアリーが選んだのがメトロポリタン美術館だった点です(笑)
(注:見た目にも、ややボヘミアン的でまだそう歳がいっていなさそうなジンマーマンに比べ、
ハドソンの方がまじめな雰囲気で年齢も行ってそうなので、その点を逆と言っているのだと思われます。)
デザインに関しては、特に十字軍という要素や、史実に忠実かということにこだわらないことにしました。
例えば作品中に出てくるタランチュラなんかは、完全な創造の産物です。
このプロダクションに関しては準備に約2年かけました。
オペラに比べると、演劇の世界はもっと何もかもが決まるのが間際ですね。
なので、私のスケジュールはもうオペラで埋まってしまって、演劇のための隙間がないくらいです。
アイディアはいくら頭の中で完成していても、やっぱり実際にこの目で見るまで、
実際に舞台に乗った時に、どのように見えるかということを想像するのは難しいものです。
『アルミーダ』では、この1月にテック・リハーサル(セットなどを舞台に乗せるリハーサル)があったのですが、
本当に実感として、ああ、こういう風に舞台で見えるのか、という感覚が湧いたのはその時が初めてでしたね。

B女史:イタリア・オペラでバレエのシーンがあるものはそう多くはないですが、この作品にはバレエ・シーンがありますね。

演出家Z:バレエのシーンの演出は本当に楽しかった!
ここはアルミーダ(メトの公演ではフレミング)がリナルド(ブラウンリー)を新しい世界に誘う大切なシーンでもありますよね。
でも、見ているだけで楽しいし、リラックス出来るというか、
歌があるシーンに比べると、言葉がない分、がちがちに頭で考えずに楽に見れる部分もあると思います。
どちらが良い悪いの問題ではなく、ただ、違う鑑賞の仕方、とでもいうのかしら。
音楽も非常に美しくて、前ロマン主義的。
(同じくロッシーニの作品で、バレエのシーンがある)『モーゼとファラオ』も思わせます。

衣装H:私は8年ほど、バレエの作品にも関わっていたことがあり、
その間にヌレーエフ、マクミランといったアーティストたちと一緒に仕事をしたことがある、という人たちとも
関われるという非常に貴重な体験をしましたので、それはオペラにも活きていると思います。

演出家Z:振付を担当したグラシエラ・ダニエレ(注:アルゼンチン出身のダンサー兼振付家。
これまで振付で10回トニー賞を受賞している。)は、もう70歳なのに、全然そんなことを感じさせないパワフルな人だったわ。
この作品の振付をお願いしに行った時には、”上演まで私が生きてたらね。”なんて冗談を言ってらっしゃったけれど(笑)
衣装に関しては、もっとも気を揉んだわ。というのも、完成したのが本当に間際だったので、、。
合唱全員の衣装が揃ったのなんて、1月だったのよ!

衣装H:ルネ(・フレミング)は、コヴェント・ガーデンの『椿姫』に出演していたとき(注:2009年6月)に、
僕のロンドンのアトリエまで来てくれて、そこで最後の確認をしました。

B女史:今回の上演のために、フィリップ・ゴセット(注:ロッシーニはじめ、
ベル・カント作品の権威として知られているシカゴ大の教授もつとめる音楽学者。
ペーザロの音楽祭のプロダクションへのアドバイスや、
歌手のために、作曲家の音楽スタイルを踏襲しながらヴァリエーションの旋律を書く仕事なども請け負っている。
『ルチア』の狂乱の場のヴァリエーションをネトレプコのために書いたのもこの人。)は、
ルネのためにヴァリエーションをいくつか書いてくださいましたね。
今回、ルネのカバーにアンジェラ・ミードという素晴らしいソプラノも控えていますが、
このヴァリエーション、アンジェラはルネと同じものを歌っているのでしょうか?
それとも、アンジェラ用のヴァリエーションもあるんでしょうか?

指揮者F:いえ、アンジェラはルネと全く同じヴァリエーションで準備していますね。
ヴァリエーションに限らず全体として、仮にアンジェラが多少の調整を行っているとしても必要最低限のものに留まっています。

B女史:今シーズンのレパートリーを決定するプロセスで、
ルネの方から出演したい作品の候補としてがあったのは、『ばらの騎士』(注:実際に今シーズン歌っている)、
『ルサルカ』、『アルミーダ』の三作でした。
『アルミーダ』の最大の問題はやはり6人のテノールを要するという点で、
実は約一年ほど前に、リナルド役にもともと予定されていた歌手から、
”声が変わってしまったため、この役はもう歌えないので降りたい。”という申し出があり、
リナルドでない役にキャスティングされていたラリー(注:ローレンス・ブラウンリーの愛称)
をリナルドに繰り上げることにし、メアリーからも承諾をもらいました。
(注:ただし、2009-10年シーズンが公式発表になった時点では、
すでにリナルドはブラウンリーとなっていましたので、この一連のことはシーズン発表前のことと思われます。)
ところが、今から約6週間前に、今度はゴッフレード役でキャンセルが出て、
こんな直前にも関わらず、なんとかジョン・オズボーンにお願いすることが出来ました。
(注:ゴッフレード役を降りたのはその前に印刷発行されてしまったOpera Newsの記事より、
ブルース・フォードであることが確認されました。)

演出家Z:とにかく、オーディエンスの方にはリラックスしてこの作品のチャーミングさと楽しさを満喫して欲しいですね。
復讐がテーマですが、非常にウィットに富んだ個所もあります。
悪魔に関しては、ずる賢くチャーミングでありながら、深い部分での恐怖感も表現したつもりです。
一緒に仕事をしたスタッフとも今日話していたのですが、この作品が究極的に私達に突きつけてくるのは、
愛するということは、良いことなのか、悪いことなのか?という問なのではないかと思います。
アルミーダ、リナルド、共に強烈なキャラクターであるために、片方が相手を征服する形でなければ、
2人の愛は成り立たないんですね。
それでもロッシーニの作品にはなにか、こちらをうきうきさせるような要素があって、
私はこの作品のリハーサル中、ずっと上機嫌だったわ。
その話を、あのテノールに話したら、、彼の名前、何て言うんでしたっけ?いつも絶対に発音できないの、、

B女史:ベチャーラ?

演出家Z:そう!ベチャーラ!!彼がね、”ロッシーニのリハーサルは絶対そうなるんだよ!”と言ってたわ。

B女史:この作品はあまり知られていない作品ですけれど、鑑賞の前にオーディエンスに求めたいことはありますか?
聴いておいてほしい音源とか、、。

演出家Z:いいえ。映画館に出かけるような気分で来てもらえればいいと思う。
予習なんて必要ないわ。

B女史:マエストロも同じ考えですか?

指揮者F:(苦笑いしながら)いえ、あらかじめCDを聴いておくことは決して無駄ではないと思いますけれども、、
少なくともそれで、この作品がどのように聴こえるべきなのか、という漠然とした感じは掴めるはずです。
私がこの『アルミーダ』でロッシーニの演目を指揮するのは11回目になりますが、
(注:のべ演目数なのか否かは不明。)
ロッシーニの初期の作品というのは、『マティルデ・ディ・シャブラン』が
フローレスによって再演されるまでほとんど演奏されて来なかった例にあるように、
そう滅多に聴ける機会があるものではありませんから、その体験を存分有効なものにして頂きたいと思います。

B女史:この先、またロッシーニの作品を手がけられたいですか?

指揮者F:次のロッシーニはウィーンで『ウィリアム・テル』が予定されています。
演出家Z:もちろん!


(『アルミーダ』リハーサル中のフレミング、ブラウンリー、合唱のメンバー。)

ここからは質疑応答形式になりました。

まず、若い女性から、”ベル・カントって何ですか?それからヴェリズモというのは?”という質問。
これ、単純な質問ながら、答えるのが難しいんですよね。
以前、ある記事のコメント欄で私もベル・カントを定義しようとして難儀したのでよくわかります。
”あなたがこの辺の単語を持ち出して来たのだから、よろしく。”という表情で
フリッツァにこの厄介な難問を押し付けるビリングハースト女史の気持ちもごもっとも。

指揮者F:ベル・カントというのは、非常に簡単で乱暴な言い方でいえば、
美しいレガートのライン、そして、長く美しい旋律にのせて、多くの音符をスピードを持って歌うこと、
ということに集約されると思います。
一方、ヴェリズモは、歌唱に関して言えば、厚いオーケストラを超えるパワー、ということでしょうね。

続いては衣装に関する質問。

衣装H:ダマスクスというのをキー・ワードに、女性陣に関しては、特にアルミーダを中心に、
中近東のテイストを出すようにしました。
ニンフの衣装や、庭のシーンに使用されているピンク(冒頭の写真)もその影響ですね。
一方、十字軍である男性陣に関しては、西洋的です。
そして、悪魔は、、、そのまんまです(笑)。(注:あらすじの写真を参照ください。)
また、この作品が1817年に書かれたことをふまえ、ネオ・クラシシズムのコンセプトも大事にしました。
ただ、合唱やエキストラが持つランプなど、かなりローテクで、全然ハイテクなプロダクションじゃありません。

次に出たのは、この作品における合唱の役割についての質問。

指揮者F:『アルミーダ』の作品で合唱が占める割合は非常に多く、60~70%にも及ぶのではないでしょうか?
また、私の知る限り、これはロッシーニがレチタティーヴォに合唱を用いた初めての作品でもあります。
つまり、合唱は単なる添え物ではなく、ドラマの一部になっているんですね。

演出家Z:私もこの合唱の場面の多さと、多くの人数を舞台で有効に見せなければいけない、というので、
かなり頭を悩ませました。
でも、私はメトの合唱のメンバーが大好きですし、これまで何回か一緒に仕事をしたおかげで、
彼らのカラーもわかってきました。
なので、出来るだけ、演技付けなどにそれを反映させたつもりです。
例えば第二幕なんかは、合唱のメンバーが各々勝手に演技をしているのではなく、
私達の方で完全に振付、演技付けを行いました。

B女史:『アルミーダ』の演出はルネ・フレミングの希望であなたが選ばれたそうですね。

演出家Z:そうなんです。そして、彼女が私を選んだのは大正解。
というのも、この作品では私自身のファンタジーを炸裂させられて、とっても楽しい仕事だったから。

という内容だったのですが、一年前にリナルド役を歌うはずだったテノールが降りた、
という話は初耳だったので、興味深かったです。
リナルド役はかなりの難役ですし、相手役がフレミングであること、
HDに予定されている演目である、等のハイ・プロフィールさ、
さらに、普段メトで、ロッシーニ作品をはじめとするベル・カント・レパートリーを歌っているテノールは、
全員総出で、この公演の何らかの役にキャスティングされていることなどを考えると、
もしかすると、このテノールというのは、フローレスのことではないか、と思うのですがどうでしょう?
それに、きちんとシーズン公式発表前に決断をメトに伝えている律儀なところも、なんとなく、、。

フレミングと共にブラウンリーも、今回の上演に当ってゴセット氏の指導を受けたそうですが、
そのような貴重な機会を得れて、繰り上がり騒動で一番メリットを享受したのは彼自身かも知れないな、と思います。

(冒頭の写真はジンマーマン演出による『アルミーダ』の舞台から、第三幕一場のアルミーダの魔法の庭の場面。)

Armida: The Temptress and the Tenors
The Metropolitan Opera Guild Lectures and Community Program
Guest: Mary Zimmerman, Richard Hudson, Riccardo Frizza
Lecture held at Metropolitan Opera House Auditorium