Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

OTELLO (Wed, Mar 27, 2013)

2013-03-27 | メトロポリタン・オペラ
Aキャストではボータの不調とそれに伴う代役選びでひやひやさせられた『オテロ』
(初日&二日目の公演についてはこちら。またHDの公演についてはこちら)。
あれから約五ヶ月を経て、Bキャストでの上演が始まってます。

一時期はオテロ役におけるドミンゴの後継者ではないか?とまで言われていた記憶のあるクーラ。
私も映像や音源で彼の『オテロ』を拝見・拝聴したことはありますが、意外にもメトでこの役を彼が歌うのは今シーズンが初。
というわけで、彼のオテロを生で鑑賞するのは私もこれが初めて。
それからデズデーモナ役には私の好きなソプラノの一人であるストヤノーヴァが、
そして、2011年のメトの日本公演(『ルチア』)でカンパニー・デビューを果たしているアレクセイ・ドルゴフが今回カッシオ役でいよいよ実際にNYで舞台に立つとあってこちらも楽しみです。
ところがこういう時に必ず水を差す人がいるもので、さて、チケットを購入しようかな、と、メトのサイトでイアーゴ役のキャスティングを見て口から茶を吹きそうになりました。
トーマス・ハンプソン、、、。
私はいくつかの理由から彼のことが元々かなり苦手なのですが、昨シーズンの『マクベス』は、彼の歌唱とナディア・ミヒャエルの夫人役とが相まって、
今でも思い出したくない悪夢のような公演で、あれ以来、彼のヴェルディは絶対に避けねば!と強く心に刻んでいるのです。
すると、おや?3/27の公演だけ、イアーゴ役がマルコ・ヴラトーニャというイタリア人バリトンになっているではありませんか。しかもこれがメト・デビュー。
普段はランの一日だけ違うキャスト、特にそれがメト・デビュー、という場合はYouTubeでそれなりにその歌手のことをリサーチしてからチケットを購入するのですが、今回は全然ノー・チェック。
ハンプソンでなければ誰だっていいわ、もう!です。


(今日の公演でイアーゴ役を歌ったヴラトーニャを含む舞台写真は残念ながら存在しないので、この写真ではハンプソンがイアーゴです。)

今回、たまたまグランド・ティアの舞台から二番目に近いボックスの前列に一席空きがあったのでそれを抑えました。
Aキャストの指揮はビシュコフでしたが、Bキャストはアルティノグル。
この人は忘れもしない、以前『カルメン』でカウフマンへの視界をブロックされ、後ろから首を絞めてやりたい思いに何度もかられたフランス人指揮者です。
しかし、彼はそのような直接の害がなければ、遠くで見てる分には穏やかで人の良さそうな感じの人で、
むしろ、こんな羊みたいな人に『オテロ』の指揮が務まるんだろうか、、とにこにこしながら観客に挨拶している彼を見て心配になって来ました。
あの『カルメン』の時も、悪くはないけれど、かといって特別なことも何もしない指揮者、、という印象でしたし。

ところが、冒頭、オケがどかーん!とあの嵐を描写する音楽を奏で始める時、このモシンスキーの演出では雷光がばちばちっ!と舞台に走るのですが、
オケの演奏の音圧と相俟ってすごい迫力で、私などは座席から一センチ位お尻が浮きそうになりました。
最初はこの迫力は舞台に近い座席に座っているからなのかな、、、?と思ったのですが、オテロ役のクーラが歌い始める前までの数分の演奏を聴いて確信しました。
今日はオケが超ONだーっ!!!ハレルヤ!!!!

『オテロ』はメト・オケが演奏しなれた演目の1つだと言ってよいと思いますが、それゆえにアルティノグルの“何もしない作戦”“勝手にオケに演奏させる作戦”が功を奏しています。
Aキャストの時のビシュコフは自分なりの演奏をしようとしていて、その意欲は高く評価しますが、
リハーサルの時間が足りなかったのか、彼の意図が今ひとつ上手くオケに伝わっていなかったのか、
特に初日なんか、オケが演奏したい方向と指揮者が目指している方向が微妙に噛み合っていない感覚がありましたが、
今日はもうオケがのびのびと自分たちのやりたいように演奏していて、しかし、緊張感は損なわれておらず、情感豊かな演奏で、
私は指揮者が自分のやりたい方法にがっちりはめようとする演奏よりは、オケの自発性を感じる演奏の方を好む傾向にあるという自覚が前々からあるのですが、今日の演奏でそれを激しく再確認した次第です。

難破しそうな自国の船、そしてそれを飲み込まんとする海を見つめて言葉を交わす合唱やソリストの掛け合いからもう手に汗握る迫力でドキドキしてきました。
嵐を乗り越えた船に人々が歌います。
“All’approdo! Allo sbarco! 着岸したぞ!船を降りたぞ!”
“Evviva! Evviva! 万歳!万歳!”
そして、いよいよオテロ役のクーラが歌い始めます。どきどき。
“Esultate! L’orgoglio musulmano sepolto è in mar; nostra e del cielo è gloria! Dopo l’armi lo vinse l’uragano.
喜べ! 傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った。栄光は我らと神のものだ!奴らは敗戦の後に嵐で殲滅した。“

、、、、、、、。

クーラももう50歳、このEsultateの部分を楽々と歌える時期はとっくに過ぎたと見え、歌が走る走る!
言葉の間に十分な間がなく、慌しく畳み掛けるような歌い方で、
“この部分はとっとと終わらせちまいたいぜ!”というのがありありと感じられる歌唱でした。
しかも、ただ早いだけでなく、それぞれの音の長さの正確さや音程もかなり微妙な感じで、
正直、この部分の歌唱が終わった時点では、私の頭の中で“今日のオテロ、もしかしてやばい??”という声がエコーしてました。

ただし、クーラの声の音圧と重量感、これはすごい。まじでバズーカ砲みたいな音です。
Aキャストのボータやアモノフのオテロの記憶なんて、この声の音圧で軽く吹き飛んだ、って感じです。
いや、それを言ったらムーティ指揮のシカゴ響がカーネギー・ホールで演奏会形式で演奏した『オテロ』(感想はまだあげてません。)でタイトル・ロールを歌ったアントネンコも、
その時は割りとロブストな声をしてるな、と思いましたが、今日のクーラと比べたらまだ可愛いもの。
他の歌手との比較だけでなく、クーラ自身がメトで過去に歌った他役と比べても、ここまでの音圧を感じたことがないので、何か役との相乗効果がなせる技なのかもしれないな、と思います。

Esultate!の部分でかなり不安にさせられたクーラでしたが、ストヤノヴァが登場してからの二重唱(“もう夜も更けた Già nella notte densa”)あたりから歌唱が安定して来て、その後はもう!!

以前にもどこかの記事で書いたと思うのですが、クーラという歌手にはどこか得体の知れないところがあって、良い時と悪い時の差があまりに激しいので、
私のヘッド友達にも彼が良い歌手かそうでないのか、今ひとつ判断しかねる、、と言っている人がいるんですが、
私も彼を初めて生で聴いて以来、2008/9年シーズンの『道化師』を聴いてこんなに力のある歌手だったのか?とびっくりするまでの10年近く、あまり高く評価してませんでした。
というのは、彼の歌は往々にして力任せになりがちで、それがドラマと噛み合わないと共演者をそっちのけで単に歌が暴走しているだけ、という印象を与えましたし、
時には歌そのものの乱暴さが程度を越して、正確性の点でこちらの許容度を越えるような公演もあったからです。

しかし、今日の公演はその情熱が単なる力任せにならず、見事に演技と噛み合っている。
歌も単なる乱暴の烙印を貼られるぎりぎり手前のところを走っていてそのスリリングなこと!!
単にカッシオがデズデーモナにオテロとの取りなしを頼んでいるに過ぎない、
その様子をイアーゴが利用して段々とオテロの胸の中に彼らが不倫を働いているのではないか?との不安を広めて行く場面での、
オテロの感情が刻々と変化して行く様子も実に描写が細かくタイミングが的確で、DVD化もされているリセウの2006年の公演(ストヤノーヴァとはこの時も共演してますね。)と比べても
一層解釈が深まっている感じで、これはオテロという役の解釈の1つのあり方として最高のレベルに達していると感じられるものになっています。

また彼は『道化師』の時もそうでしたが、役が正気を失う手前の、神経が極度に過敏になってぴりぴりしている時の歌唱・演技表現が非常に巧みで、
今回のオテロに関しても、イアーゴやデズデーモナに対する当り散らし方もかなり怖いですが、
それ以上に、自分の感情をコントロールできない自分自身への怒り、その表現が本当に素晴らしいと思います。

それから、力を出さないことによってかえってどれほど潜在的にすごい力を持っているか、ということを演技で表現しているのも上手いなあ、と思います。
先に書いたイアーゴが段々とオテロの胸中に疑惑の種を蒔くシーンではイアーゴの喉元を片手で摑んでそのまま机に投げ飛ばしていましたし(ヴラトーニャもハンプソンも決して小柄ではないのに!)、
また、オテロがデズデーモナを殺す場面はせつなくて、オテロが彼女の息が絶える姿を正視できずに、
彼女がいるのとは逆側の自分の肩を向き、その肩に顔を押し付けて泣き声を抑えながら、もう一方の片手だけで彼女の首を絞め上げて殺してしまうのですが、
この場面ではその微かな泣き声も歌唱の一部になってしまっていて、胸を衝かれました。



この『オテロ』の公演の前の週に、私はワシントンDCにオペラ旅行して来たのですが、
日中、スミソニアン国立動物園に立ち寄っている時、ライオンがかなりの長時間に渡って吠えている現場に行き当たりました。
あまりに強烈な吠え声なので、仲間同士で殺し合いでも始まっているのか?とびっくりしましたが、
何匹かいるうちの一頭だけが普通に遠くを見ながら吠えているだけで、ライオンって単独でもこんなにすごい声を出すのか、、とびっくりした次第です。
ものすごい広範囲の半径にわたって空気が震撼しているのが感じられるのです。
まさにこれこそ、録音には絶対に入らない種類の迫力声!
ライオンがオペラ歌手になったら、オペラハウスでは大人気なのに、録音ではいまいち良さがわからん、、とか言われて、
損するタイプの歌手になるんだろうなあ、、などととめどもないことを考えていたのですが、
今日舞台をのし歩いているクーラの姿とバズーカ砲のような声はまさに野放しになったライオンそのもの!
下手したら次の瞬間にも誰かの頭を食いちぎりそうな緊張感が常にあります。
と同時に、ボータやアモノフのオテロに決定的に欠けているのはこの感覚なんだ!と思いました。
ボータやアモノフはクーラに比べると声も佇まいも本当おっとりしていて、獅子というより象みたい。

第三幕では実際にテキストの中にオテロを指してLeon/Leone(獅子)という言葉が登場しますが、
ボータやアモノフみたいなオテロだと、この言葉が単なる強者を表す比喩の意味で使われているようにしか感じられません。
クーラのような演じ方をしてこそ、イアーゴが失神して倒れたオテロに向かって吐く“Ecco il Leone! これが獅子だとよ!”という言葉が何倍も生きて来ると思うのです。

この“Ecco il Leone!”の前に、“Chi può vietar che questa fronte io prema col mio tallone? こいつの頭を俺のかかとで踏みつけるのを誰が妨げられるか?”というイアーゴの言葉があるので、
私がこれまでに見たメトのモシンスキー演出の公演では、“Ecco il Leone!“の言葉に合わせてイアーゴ役のバリトンが
(さすがに頭を踏みつけるのは抵抗があるため)床に倒れたオテロ役のテノールの胸の辺りに足をのせて踏みにじるような動作をする、というパターンが多いのですが、
クーラのオテロ役が迫力あり過ぎで、あまりに怖かったんでしょう、
イアーゴ役のヴラトーニャが頭どころか胸の上ですら足を置くことをためらって、空中に足を浮かせたまま片足立ちになって“Ecco il Leone!”と歌っていたのはちょっと間抜けでおかしかったです。
この期に及んでオテロに遠慮するイアーゴ、、。
確かにかかとがクーラの胸に触れた瞬間、“てめえ!何まじで足のせてんだよ!”とか言いながら
いきなり立ち上がって殴りかかって来そうな感じがありますからね、、、ま、気持ちはわからなくはないです。

考えてみれば、その予兆はニ幕に既にあったのでした。
ニ幕の最後のオテロとイアーゴの二重唱(“そう、大理石のような空にかけて誓う Sì, pel ciel marmoreal giuro!”)は
アルティノグルが良い感じで野放しにして爆発したオケとクーラの歌声がまさに丁々発止という感じで盛り上がって行って、
ヴラトーニャもそれに引きずられ健闘、、、と、最近のオペラの公演ではだんだん体験することが少なくなって来た、良い意味での爆音合戦になりました。
なんだか最近では歌手の声のパワーを賞賛すると“繊細な耳を持っていない。”という風にとらえられてしまったり、
中には“デカ声は嫌。”とか“声がでかいだけ”といった意見など、パワフルな歌声がネガティブな意味でとらえられることも少なくないように思うのですが、
そういった方たちは優れたデカ声というのを本当に聴いたことがあるのかな?と思います。
クオリティの低いデカ声ばかり聴いて“声の大きいのは駄目”と即決するのはちょっともったいない。質の高いデカ声にはやっぱりそれ特有の魅力があると私は思います。
アンチ大声派が増えて来ているとしたら、それはクオリティの高いパワフルな歌唱を出せる歌手が今オペラの世界からものすごい勢いで消滅している、
というか、もうほとんどいない、、という、それも原因の一つだと思います。
それゆえに今日のクーラのような歌唱は貴重。Viva, でか声!
こういう声を聴いてしまうと、少なくともこれからしばらくはこの路線で『オテロ』を歌えるテノールはいないな、、と思えて、それはそれですごく寂しい。

で、クーラ自身もこの二重唱は会心の出来だったのでしょう、もうかなりのアドレナリン・ラッシュ状態になっていて、
幕が降りてインターミッション前の舞台挨拶にヴラトーニャと二人で登場した際、
“やったな!”という感じでぼかっ!とヴラトーニャの胸を殴りつけていて、本人はメト・デビューの後輩を労わっているつもりなんでしょうけど、
いたわっているというよりは、いたぶっている、という表現の方がぴったり来る感じ、、。
ヴラトーニャの顔に喜びと恐怖の入り混じった表情が走るのを私は見逃しませんでした。



先述したリセウ劇場の2006年の公演でもクーラと共演していたストヤノヴァ。
そのせいもあってか二人の間の信頼感を今日の公演の端々から感じました。
全幕終わってのカーテンコールでは二人ががっちりと抱き合ったまま数秒そのまま、、という場面もあって、
またクーラがストヤノヴァの肋骨の一本、二本、折るようなことになってなきゃいいけど、、とはらはらさせられましたが。
ストヤノヴァの声には独特の固さに金属的な響きが少し混じったような感じがするのが特徴かな、と思います。
(スラヴ系のハイ・パートの歌手~テノールとソプラノ~にその傾向を共通して感じるのは私の気のせいでしょうか?)
Aキャストのフレミングのまったりした声とはその点で対照的だと思います。
これみよがしな歌唱も、本人の個性全開の演技もないですが、いつも真摯な歌唱を聴かせてくれるので私は現役では好きなソプラノの一人です。
ただ、二、三年位前から他の劇場での歌唱の音源を聴いていても高音域でピッチが不安定になることが増えて来たように感じるところがあって、
1962年生まれだそうですので彼女もほぼ50歳(クーラと同い年くらいなんですね。)、そろそろ年齢の影響かな、、と思っていたんですが、
シカゴ響との演奏会形式の『オテロ』(2011年4月)では音を外そうものならムーティに半殺しに遭いかねないという緊張感があったからか、
完璧な音程で歌いこなしていたので、ネットの音源で聴いたと思った年齢による衰え云々も私の気のせいだったのかな、、と流してました。
しかし、ほぼ二年振りに今日の公演で彼女の歌声を聴いて、
“ああ、やっぱり年齢が段々声に現れるようになっていたんだな。”と思いました。
彼女の声にもともとちょっと固いテクスチャーと金属的な響きがあるのは先に書きましたが、年齢による歌声の変化により、今では音にものすごく角立った感触を感じるようになってしまっていて、
たった二年前の歌唱と比べても、かなり与える印象が変わって来ている程です。
特にこのデズデーモナ役は人を疑うことを知らない、というのがキャラクターの大きな要素になっていて、
リブレットには具体的な年齢設定の記述はありませんが、年の若さがそれに貢献していることはほとんど間違いなく、
とすると、年齢的にもかなり若いはずの役ですので、そのあたりの違和感を観客に感じさせずに聴かせるのは段々難しくなって来ているかな、、と思います。
デズデーモナはそろそろ封印しても良い役柄かもしれません。
彼女はもともと佇まいなんかがちょっとおばさん臭くて地味なところがあるので
(そしてそれこそが、キャリアの一番良い時期にどれだけ素晴らしい歌を聴かせても、彼女がメトではあまり重用されることがなかった原因の一つだと思っていて、
本当に嘆かわしい事態!とずっと私なんかは怒って来たのですが、、。)、
年齢を感じさせるようになるとしたら、そっち方面からだろう、とずっと思っていたのですが、
この役で、容姿や舞台上の動きよりも先に声で年齢を感じるようになってしまったのは大変意外でもあり、
こうなってしまうと、ますますメトでキャスティングされることは減って行ってしまうのかもしれないなあ、、と寂しい気持ちになります。
声の変化がここまでネガティブに影響しない役が他にあると思うので、そちらに上手くシフトして行ってくれるといいな、と思います。
もともと声の美しさそのもので勝負!というタイプの人ではなく、誠実感溢れる歌いぶりと地味ながら的確な表現力を持った人なので、
そのあたりも生かせるレパートリーを中心にしていってくれたら私は嬉しいのですが。
今日も若干ピッチが甘くなっていた箇所が二、三ありましたが、“アヴェ・マリア“のような絶対に外してはいけないところは見事にきちんと抑えていますし(最後の高音も綺麗でした)
精神力さえ緩まなければまだまだ観客の心に訴える歌を歌える歌手のはずです。

ボータ&フレミング組と全然違う味付けで面白いな、と思ったのは、オテロがデズデーモナに“A terra… e piangi! 地面に伏して、、、泣くがいい!”と言う場面。
ボータ&フレミング組はリブレットの“デズデーモナをつかまえ荒々しく”~“デズデーモナは倒れ、エミーリアとロドヴィーコが助け起こす”のト書きに割りに忠実に演じていたのに対し、
意外にもクーラのオテロはデズデーモナの手をつかんで地べたに放り投げたりしないんです。
クーラの個性を考えたらこれは一瞬意外です。
だって、さっき、あんた、ヴラトーニャを突き飛ばしてたじゃないか!ついでにデズデーモナも放り投げたらどうなんだ?という。
しかし、“A terra… e piangi!”という言葉と共に彼が指を地面に指すと、
ストヤノヴァのデズデーモナは自らの意志でがっくりと膝まずくのです。
これによりオテロがデズデーモナに対して持っている絶対的な力を強調する一方で、
彼自身が落ちて行っている罠から自分を救い出す術は何一つ持っていないというオテロの無力さと彼がデズデーモナに対して行使している力の空しさが強調され、
ト書き通りではないのにきちんと物語に沿っていて、非常に面白い効果を上げていると思いました。



イアーゴ役のヴラトーニャははげ、、いえ、スキンヘッドの面長顔でギョロ目という、なかなか個性的なルックスで、
開演前にプレイビルの写真を見た時は期待が高まったのですが、先のエピソードでもわかる通り、強面のルックスの割りにへたれなキャラで終始クーラの迫力に押されっ放し。
声はボリュームの面でも、トーンやカラーの面でも、際立った個性がなく、歌唱はそれなりに無難にこなしていますが、
なんの面白みも彼らしさもない歌唱で、長所と言えば、ハンプソンみたいにこちらが積極的に嫌いになる個性すらないこと位でしょうか。
、、、って、あれ?これは長所なのかな?
このような歌しか歌えないとしたら、彼の家族を除いて、彼の歌を聴きたくてわざわざ劇場に行く!という物好きはいないでしょう。
クーラとでは舞台上の存在感、オーラ、個性、パワー、何から何まで違い過ぎ。
普通だったら、こんなへなちょこなイアーゴ、罵倒して、して、しまくるところですが、こんないるのかいないのかわからないようなイアーゴを抱えてすら、観客全員をほとんど一人で舞台に引きずりこんだクーラの力に押し切られてしまって、罵倒する気があまり起きないのが不思議です。
それでも、これでイアーゴがAキャストのシュトルックマンみたいな人だったらもっとすごい公演になっていたかもしれないな、、と思います。
いや、そもそもHDのオテロとデズデーモナを、ボータ&フレミングというぬるま湯コンビじゃなくて、
こちらのクーラとストヤノヴァを立てて、シュトルックマンと組み合わせていたら、これは結構見物な公演になっていたかもしれません。
また失敗しましたね、メト。

カッシオ役のドルゴフ。
この人、、、、中学生じゃないんですよね?(笑)
なんか本当初々しくて子供みたいなんですけど!!!
カッシオはちょっと色男っぽい雰囲気が欲しいので、どんぐり君みたいな彼が舞台に出て来た時は、
あれ?高校の文化祭を見に来たんだっけ?と一瞬錯覚し、そして次に、大丈夫なのかな、、とちょっぴり不安を感じました。
初めて口を開いてからの数フレーズは、声もこちらがはっとするような特別な美声ではないし、素直な発声で、歌は丁寧に歌ってるな、、と感じる以外はあまり強い個性を感じないんですが、
彼の人柄と歌を歌う楽しさと喜びを感じている様子のせいなんでしょうか、
なんだか公演がすすんで行くにつれて、好感度が増して行っている自分がいました。
一幕が始まったばかりの時は、こんな中ボーみたいな子に、“ビアンカのキスには飽きたよ。”と言われてもなあ、、と三幕に不安を感じていたのですが、
いざ、その三幕になってみると、逆にその子供のような風貌を利用して、若い男の子が無邪気にとっかえひっかえ女の子を取り替えている雰囲気で上手く乗り切ってしまっていて、
なんか、不思議な魅力を持ったテノールだと思います。
彼はシベリアの出身なんですね。“シベリアの中坊“か、、。

ただAキャストを歌ったファビアーノが余裕でリリコ、それからもしかしたらさらに一歩進んだ重い役も将来的には歌える感じのがっちりとした歌声なのに対し、
このドルゴフ君は軽めの声で、少なくとも私に見える将来の範囲ではそれが劇的に変わることはないように思うので、
しばらくはベル・カントなんかが良いのではないかな、と思うのですが、マネジメントのサイトを見ると、まあ、何かあれこれ歌ってますね。
ベル・カントに混じって見えるのは、、、ん?トスカのカヴァラドッシ?!アリアドネのバッカス!?
、、、、なんというはちゃめちゃさ、、、。いやあ、、、本当に不思議な人だわ。


José Cura (Otello)
Krassimira Stoyanova (Desdemona)
Marco Vratogna (Iago)
Alexey Dolgov (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Jennifer Johnon Cano (Emilia)
Alexander Tsymbalyuk (Lodovico)
Alexey Lavrov (A herald)
Conductor: Alain Altinoglu
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier Side Box 30 Front
LoA

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***

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22 コメント

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オペラは一期一会 (斑猫)
2013-04-17 13:04:32
やっぱりオペラってミズモノなんですねぇ。
クーラのアドレナリン爆発の日で本当におめでとうございます。

前にもちらっと書きましたけど、私が行った日はまずハンプソンが去年のマクベスに勝るとも劣らない不出来。あれ、クレドはカットしたのかしら、と思うほどの存在感のなさ。クーラも出だしがだめだめで、イアーゴに調子を合わせているかのようなオテロ。
終幕になってやっと意気が上がってきて、なんとかプラスマイナスゼロの気分で帰れました。
カッシオもいまひとつだったので、Aキャストで聴きたかったです。
老け顔のファビアーノ君は8日のコンサート形式の「第一回十字軍のロンバルディア人」で期待を大いに上回る出来だったので、ぜひ舞台でみてみたいものでした。
それにしても、ここ何回かしぼんだ風船のようなクーラにしか接していないので、本当にMadokakipさんがうらやましい!
返信する
斑猫さん (Madokakip)
2013-04-17 14:03:46
そう、確か、男性陣がいまいち、、とおっしゃっていたので、こわごわメトに足を踏み入れたんですが、クーラが大爆発!の大当たりで、完璧ではない(やっぱりこちらもイアーゴが非力気味、、)もののなかなかに魅力のある公演で、ほっとしました。

やはり、勝因は、
>ハンプソン
を避けたことにあると私は思っています!

私が鑑賞した公演もイアーゴが弱かったですが、カバー・クラスの歌手が、メト・デビューで初々しく頑張った結果の非力、というのと、
それなりにキャリアもあって名も通っているはずのバリトンで、複数もの公演にブックされているのにやっぱり非力、、というのでは、周りに与えるインパクトが違うのではないかな、、と思います。
あの昨シーズンの『マクベス』は観客をこれまでにないレベルのドン底に叩き落とす、あるまじき公演でした。
あんな歌しか歌えない歌手は私が支配人だったら、残りのコントラクトを買い上げて、もう二度とメトでは歌わせませんけどね。

>カッシオもいまひとつだったので

ドルゴフですよね?彼は歌手としての素材としてみると、それほど特別な個性や強みを持っている人ではないのですが(だから、あのようなしっちゃかめっちゃかなレパートリーになっているんじゃないかな、と思います。)
ただ、この日はクーラが爆発したのに伴って、刺激されるところがあったのか、三幕はなかなか魅力的に歌ってました。

>「第一回十字軍のロンバルディア人」

良かったですよね。ファビアーノ、主役級の役を与えられたら、こういう声で、こういう歌を歌う人だったんだ、、と感心しました。
カッシオくらいの役だと、このポテンシャルを全部感じることは難しいんだな、、と思いました。

(実際、彼はこれまでカッシオと『スティッフェリオ』のラファエレでメトに登場してますが、ヘッズのほとんど、彼がここまでのポテンシャルを持った人だというのを見抜けなかったですから、、。)

>老け顔のファビアーノ君

顔というか、髪がものすごく寂しいことになってますよね、、。
いっそヴラトーニャみたいにスキンヘッドにした方がいいかもしれない、、。

>ここ何回かしぼんだ風船のようなクーラにしか接していないので、本当にMadokakipさんがうらやましい!

私は逆に以前は歌が無闇に乱暴、もしくは空回りしているクーラしか接したことがなかったので、“彼の一体どこがいいの、、??”って感じだったんですが、『道化師』と『オテロ』の切れる寸前の男系ロールで満足の行く公演を見せてくれて、とても嬉しい!
この二つは彼のキャリアの中では定評のある役のうちの二つですので、順当なところなのかもしれませんね。
今回の公演でも、歌や演技はバイオレントだったんですが、音程とかリズムがきちんとしているせいで(ただし、Esultate以外)、だらしない感じがせず、すべてがポジティブな結果に昇華した感じでした。
それに面白いのは、ボータが歌っている時には苦労して浮き足立っているのがわかるような高音を、クーラが意外にも楽々と歌うんですよね。コンディションの良い時の、という条件付きではありますが、彼の歌・演技両方の個性にやっぱりこの役が良く合っている部分があるんだと思います。
返信する
期待どおりです~♪♪♪ (みやび)
2013-04-17 15:09:18
↑Madokakipさんのレポが。です。

ロブストなテノールが払底している昨今、「良い方のクーラ」がまだ観れる・聴けるというのは大変に嬉しいです。そして、相変わらず良いクーラと良くないクーラが混在しているようでもありますが…。彼の場合はちょっと日間変動が激しすぎる気がします…手抜きだとか言われるのも、なんでこんなに違うのか意味が分からないほど(笑)差があるから邪推されるのだと思います…。

しかし!やはり現役オテロではクーラが随一だと思うので、特にこの演目ではしっかりしてもらわなくては。
オテロ歌いといえばデル・モナコ→ドミンゴ→クーラですが(ヴィッカ―ズやマクラッケンを無視するわけではありませんが、ヴィッカーズはヴィブラートがイタリアっぽくないので…)ドミンゴとてドラマティコではなく、ドラマティコのオテロはデル・モナコからクーラまで間が空いていたのだと思えば、クーラを聴けたことは貴重なのかもしれません。
今のところ、クーラより若い世代でドラマティコのオテロを歌える、特にラテン系のテノールは見当たらないと思います。(もしかしたらジャコミーニのように、イタリアとかでローカルに活躍している歌手はいるのかもしれませんが…というか、いて欲しい。)もちろん、ドラマティコではなくてもドミンゴのようにオテロを歌えるテノールは?なんて、もっと難しい相談ではないでしょうか。
でも、デル・モナコ→ドミンゴ→クーラ、という並びは良くできているというか、ドミンゴはデル・モナコと全くタイプが違ったからこそ一世を風靡するオテロ歌いになったのだと思いますし、クーラもドミンゴと似ていないところが良いところだと思います。デル・モナコとクーラは2世代違いますから歌唱も演技も解釈も大きく異なりますが、あまりにも時代が近かったらクーラもデル・モナコの影響を受けずにはいられなかったのではないかと思います。

ところで、ハンプソンの写真をみると、ずいぶんとイヤーゴが老けづくりのように見えるのですが、これはハンプソン仕様ですか?…と思ったら、ヴラトーニはスキンヘッドのままで登場なのですね?初演のレイフェルクスも薄い方でしたが、特に老けづくりにはしていなかった気がしますし、ヤーゴはオテロより若くて構わない(オテロがどのくらいの年齢設定かにもよりますが)と思うのですが、誰の意見なんでしょう。

来日公演ではエドガルド、ロベルト・デヴェリューの代役で活躍してくれたドルゴフ。私はロベルトしか観ていないですが、演技の方もなかなかに良かったです(ロベルトの時は中坊っぽいとは思いませんでした)。私もてっきりベル・カント専門テノールだと思っていたのですが…?カヴァラドッシやバッカスは若気の至りで、当面はベル・カントに専念してくれると嬉しいです。
返信する
そろそろ (bchama)
2013-04-17 20:42:05
オテロがデズデーモナを片手で絞め殺すときにデズデーモナが足をばたつかせるのですが苦しそうでは無く、足を真っ直ぐに伸ばしてバタバタするものですから彼女の脚線美が強調される結果となりました。(これぞエロじじい的発想です。)ストヤノーヴァは50歳とは驚きました。(もしかしたら視力も衰えているのかもしれません。)

私的にはmadokakipさんの記事の一番下にある写真の一番右側の人の低音が気に入りました。ロドヴィーコ役のAlexander Tsymbalyukです。この全体合唱のシーンで彼の低音が響き渡りオーケストラのティンパニィーのように響き渡り迫力を増加させたように思いました。

ハンプソンが大嫌いとかのコメントがありましたので、私としてもそろそろエロじじい的発言を慎まなくてはなりません。(笑)
返信する
みやびさん (Madokakip)
2013-04-18 14:52:40
ありがとうございます。読んで頂いて嬉しいです♪
そうそう、私もですね、実を言うとちょっと心配してました。
テノールやソプラノはどんなに力のある人でも、50歳の少し前くらいから声の勢いがなくなったり、響きが以前と違うな、、、という印象を与えるようになることが多いように思うので、、
ましてや、オテロ役ですからね、、、最悪の場合はぼろぼろのクーラを聴くことになるかもしれない、、という覚悟をしてメトに行きました。
ところが蓋を開けてみればこれ!
確かに今現役で、これだけドラマの面も含めて完成度の高いオテロ役を見せ・聴かせられるのはクーラだけかもしれないな、、と思います。

>オテロ歌いといえばデル・モナコ→ドミンゴ→クーラですが
>ドミンゴとてドラマティコではなく、ドラマティコのオテロはデル・モナコからクーラまで間が空いていたのだと思えば

全く同じことを思っていました!
一般的に、オテロ歌い~当然のことながら、単にオテロをレパートリーに入れている、というだけではなくて、一定の期間以上にわたって、その世代でもっとも優れた同役の解釈者としての評価を得た歌手~というと、やはり、デル・モナコ~ドミ様~クーラのラインが頭に浮かぶわけですが、私もこの中ではドミ様はちょっと違う性質のオテロじゃないかな、、と感じていて、特に今回の公演でのクーラの歌唱を体験した後では、デル・モナコから直接クーラにラインを結び、ドミ様はそのラインの少し外側にいる、という図の方がしっくり来ます。

>今のところ、クーラより若い世代でドラマティコのオテロを歌える、特にラテン系のテノールは見当たらないと思います

この役だけを歌うために生まれた!というようなテノールがいきなり彗星のように現れれば話は別ですが、この役の性質から言ってまずそういうことはなく、他の役柄を歌っている歌手の声がだんだんと成熟してオテロも歌えるようになる、という推移の方がよりありうるシナリオだと思います。
そうすると、すでに今他の役を歌っている歌手の中にそんな可能性の片鱗がある人がいなければいけないわけですが、正直、デル・モナコ~クーラのラインを継げそうな感じの声を持っているテノールなんて現在一人もいないと思います。
クーラのバズーカ声に、こんな声が出る歌手、今は他にいないよ、、と思いながら聴いてました。
アントネンコは悪くないオテロですが、あのどことなく暗くじめじめと抑圧された雰囲気のせいで、やっぱりちょっと違うラインに私には感じられます。
(デル・モナコ~クーラの方がもっとストレートでからっとしている感じです。)
でも、おっしゃるとおり、ドミ様のような声質でその世代髄一のオテロ歌いとしての評価を得た、そのことはそのことでデル・モナコやクーラとはまた違うすごさがあると思います。

>これはハンプソン仕様

他のコメント欄で書きました通り、3月の下旬にワシントンDCに行って参りました。WNOで複数の公演を見ましたが、メトとの違いにびっくりしたことの一つにメークのセンスというのがあります。
WNOの公演での歌手達はもう地の顔がわからないほどの厚塗りメークで、ザジックが舞台に登場した時にはそのあまりの奇怪さに、何か見てはいけないものを見てしまったような気になったほどです。
普段あまり意識したことがなかったのですが、メトのメーク部って、どんな役でもそれを歌っている歌手の地顔が分からないようなメークをすることがほとんどないのがすごいな、と思います。
このブログで使っている写真を眺めても、”この歌手、こんな顔じゃないじゃん!”と思うケースって稀なように思うのですが、どうでしょう?
なので、こちらの場合、ハンプソンの地顔を生かした結果、そうなったのかもしれないな、と思います。

>ヤーゴはオテロより若くて構わない

はい、ある程度は若くても構わないと思います。
ただ、地位や職権もイアーゴの嫉妬の対象の一つになっているので、あまりにオテロとの年齢差がありすぎると、そこのところでちょっと無理が出てくる可能性はあるかもしれませんね。

>カヴァラドッシやバッカスは若気の至りで

この二つはいずれもヒューストン・グランド・オペラみたいですね、、彼らのキャスティング・センスもむむむ、、です。
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bchamaさん (Madokakip)
2013-04-18 14:55:07
面白過ぎます。どうぞ、このままエロ街道まっしぐら!で突き進んで下さいませ。
ハンプソンが実際にエロかどうかは知りませんが(笑)、仮にそうだったとしても、bchamaさんには適わないこと、間違いありません。

>私的にはmadokakipさんの記事の一番下にある写真の一番右側の人の低音が気に入りました。ロドヴィーコ役のAlexander Tsymbalyukです

おおおお!!!彼のことを言及するのを忘れてしまうとは、何を考えていたのでしょう?Madokakipは!?
いやー、ツィンバリュクはですね、数年前の『トロヴァトーレ』のフェランドで歌声を聴いて以来、私も大注目しております。彼は素晴らしい歌手になるポテンシャルをもっていますよ。

http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/b8f88a20431c159c8007fa3f3e2f5915

一体どうして、メトでは彼の待遇がこんなに悪いのか?どうしてこんな力のある人に今回のロドヴィーコみたいな小さな役をアサインするのか?と思います。
ぜひこれからご一緒に彼を応援して、もっと大きな役でメトに戻って来てもらいましょう!
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はじめまして、オテロ聞きました! (T・Ree)
2013-04-20 18:54:42
はじめまして、迫真のレポートに感激です!

27日の公演、MetのListen Liveで聞きました。迫力あるオケ、合唱、クーラをはじめ歌と緊迫のドラマに、(マウスを持つ)手に汗握り、背中ゾクゾク、4幕はオテロの愚かさ、哀れさ、切なさに胸がいっぱいで、期せずして涙が出ました。

Madokakipさまのすばらしい記憶力、分析力、描写力によるレポートが感動をよみがえらせてくれ、見られなかった演技も目に浮かぶようです。ありがとうございました!!

実はこの記事に出会う前に、ネットでいくつかの批評や日本人の方のブログを見たのですが、ハンプソンとストヤノヴァは絶賛されても、クーラはあまり評価されていなかったため、大感激した自分としては、かなりショックを受けていたのです。

好不調の波があるとのことですが、加えて、見る側が、オテロの役、人間像、歌唱に何を期待するかで、大きく評価が変わっているのかしら、とも思いました。

というのは、クーラのFacebookにリンクが載っていたFred Plotkinという方との対談ビデオを見たのですが
https://vimeo.com/62642025
(お恥ずかしいことに、英語が実はほとんど聞き取れず、断片しか理解できていません。なのであくまで私が聞き取った範囲で、不正確かもしれません)、
クーラ自身が、“自分のオテロはノーブルでないと批判される”“しかしオテロはイスラム教徒から金のためにクリスチャンに転向したプロの殺人者”“キラー・シンドローム”だと、従来の英雄とは異なるオテロ像の解釈を語っていました。
また、ヴェルディが手紙で“オテロはベルカントではない”“Otello has to bark ”と訴えているとも強調していました。
(実際はもっといろんなことを話していて、面白そうな裏話や、オペラにおける愛をめぐるきわどい?話もしているようなのですが、理解が追いつかず…)

こういうオテロ像の解釈や、あえて“美しく歌わない”歌唱、ドラマ性重視の姿勢なども、聞く側の好みの問題もあって、両極の評価につながる一因かと感じました。
もちろんどんな立派な解釈や意図があっても、それが見る側に伝わり、感銘につながらなければ意味ないわけですが…。

いずれにしても、“on fire”のクーラ・オテロをご覧になったMadokakipさまが羨ましいかぎりです。
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迫力のOtello (Kew Gardens)
2013-04-21 02:10:59
アドレナリン全開のCura=Otelloをお聞きになられたなんて、やはりオペラの神様がついていらっしゃるんですね、Madokakipさん! タイトルロールがイマイチだと、他がどんなによくても、何しにきたのかしら、と思いながら劇場を後にしてしまうような気がします。 

私が最近観たOtellは、ハズレ。 声も美しくないし、高音になると迫力ではなく、単にどなってしまう。 見た目もどちらかというと豆タンクみたいな東欧人(だと思います)で、子供がどたばたやっているようにすら見えました。 Iagoはハイバリ系でしたが、どす黒い人間というより、小悪党的なずるさが目立つ感じでした。 背も高くいので、Otelloに嫉妬しているというより、小ばかにしている雰囲気で、ちょっと違うんじゃない?と言いたくなります。 HarterozのDesdemonaはすらりとした美しい容姿に似つかわしい美声、そしてよくコントロールされた歌唱と、彼女が舞台にのるとオーラすら感じました。 でも、主役と、肝心の脇役がいまいちですと、オペラ全体としては、残念な結果です。 

ところで、Madokakipさんに負けず劣らず〇ンプソンが苦手な私。 記念の年ににふさわしく、欧州でも勢力的にVerdi物に出演されますね、彼。 ロンドンにいなくてよかったのSimon Bとか(Fulranetto様が出演するのに、見たくないですよ)。。。 SalzburgのDon CarloはDVD/BR発売が既に確定していますけれど、彼がPosaですが、Madokakipさん、やはり購入されるのかしら? 
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T・Reeさん (Madokakip)
2013-04-21 16:12:13
はじめてのコメント、ありがとうございます!
そうそう、この日の公演は放送がありましたよね。
こうしてそれをお聴きになられた方のご意見を伺えて嬉しいです♪

>クーラはあまり評価されていなかったため、大感激した自分としては、かなりショックを受けていたのです。

書いている方はあくまでその日の演奏に限って感想を書いているつもりでも、
やはり読まれる方からすると、同じキャストならある程度結果が似通っているんじゃないか、と思うのが人情ですよね。
それでも、やはり、同じキャストでも内容は毎回公演で違う、というのは圧倒的な真実で、
ましてや、キャストの一人が違っていたら、舞台のダイナミックスは完全に変わってしまいますし、
それから日にちが違う=お客さんが違う、これも大きなポイントかな、とも思います。
この日のお客さんはすごく雰囲気が良くて盛り立て上手、
公演の内容が良かったから、というのもありますが、休憩の間に帰ってしまった観客がほとんどいなくて、最後まで劇場が埋まっていた(最近のメトではなかなかお目にかかれない光景、、)のも印象的でした。

ところで、こちらのカーサ・イタリアーナでのイベントの映像クリップの紹介、ありがとうございます!
このコースは毎回面白いゲストを呼んでいて、前から一度行ってみたいな、、と思っているのですが、なかなか時間が合わなくて、、。
クーラがゲストだった回があったのは知りませんでしたので、教えて頂いて嬉しいです。
勢いに任せて、全部拝見してしまいました(笑)
英語が聞き取れず、なんて謙遜してらっしゃいますが、お書きになっていること、すべてどんぴしゃ、
余計なお世話かもしれませんが、他にもダイジェストで内容を知りたい、という方がいらっしゃるかもしれませんので、
私が興味深いな、と思ったポイントを、特に『オテロ』の部分を中心に拾ってみました。

まず、フレッドさんが私と全く同じようにクーラのオテロから“ライオンっぽさ”をお感じになっていたのは面白いな、と思います。
この後は全てクーラの言。
1)オテロはイスラムからキリスト教に改宗し、イスラム教徒を殺戮するためにクリスチャンに雇われた人間。9/11を経験して、これがいかに特殊な状況なのか、実感を伴ってかんじられるようになった。例えば、アメリカ人に生まれながら、サダム・フセインに雇われてアメリカ人を殺戮し、“喜べ!アメリカ人を殺してやったぞ!”と高らかに宣言するような人間がいたとして、こんな人間のどこがノーブルと言えるのか?
2)ジョージ・クルーニーの映画“The American”では主人公が自分はいつ殺されるのか?と常に怯えて後ろを見ている。
オテロが犯した裏切りにも同種の恐怖が伴っていて、それがカッシオたちに対しての極端な疑心暗鬼の感情につながっている。
3)またこの状況下で自らが黒人であることの受け入れがたさ。オペラでは描写がないが、シェークスピアの原作にあるように、デズデーモナの父親に受け入れられていない、ということもコンプレックスに貢献している。
4)近年の世界情勢を思慮してか、オペラハウスの字幕では、“傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った。”(記事の本文にもあるオテロが作品の冒頭で歌う言葉)の部分を訳出しない傾向にあるが、これはナンセンス。このオテロとイスラム教徒との関係にこそ彼の性格を理解する鍵があるのに!
5)(デズデーモナとの二重唱を見終わった後)最後のオテロのVien..Venere splende. (金星が輝いている)の部分の英訳のshinesは本来の意味的にはshineであるべき。
この金星というのは、デズデーモナのことを指しているに他ならない。
つまり、輝いているのは星ではなくてデズデーモナであり、
この二人は暢気に星座や星の話をしているのではなく、オテロが星に彼女の性を重ね合わせたダブル・テキスト、
つまり、今すぐにでもHしたい!!という、鼻息荒い歌なのである。戦争から帰ってきたばかりだしね。
6)メトの衣裳はこういっちゃ何だがナンセンス。毛皮や皮革製に猛烈な重ね着、、
ボリス(ロシアの話)じゃあるまいし、、と思うよ、ほんと。
7)この作品はまさにエロスとタナトスの王道を行っている。デズデーモナが死を予感してエミリアに婚礼のドレスを出して、と頼み、逃げもせずにそのまま夫の手による死を待つ場面、
これは究極の“愛ゆえの死”によるオーガズムともいえ、究極のマゾキズムといえる。
8)自分のオテロについてのこれまでの分析を全て詰め込んだ公演を、テアトロ・コロンで7月に予定している。
クーラのオテロ&演出、デズデーモナはフリットリ、イアーゴにカルロス・アルヴァレス。
(いやー、これ、すっごく見に行きたいなあ、、。)
9)ドミンゴとフリットリのスカラの映像が出て来た時、年度をフレッドさんに確認するクーラ。
どうやらクーラの主演で企画された公演だったのに、ムーティのお気に召さず、降ろされたっぽい、、。
10)オテロは百戦錬磨を経てきた軍人。よって、どのように刺せばどの位生きられるか、十分にわかっている。
自分に剣を刺してから完全に死ぬまで5分くらいあるが、
心臓をすぐに刺さずに、腹部を刺して段々窒息し、剣を抜いてからは15秒くらいであっという間に死んでしまう、これらのタイミングがすべてヴェルディの音楽に書き込まれている。
例えば剣を抜くタイミングは最後のah! un altra bacioのah!にある。
11)デズデーモナの殺害に至るオテロの世界の崩壊の直接のきっかけは三幕にある。
彼の中ではイスラム人を殺すという任務が全て完了していないという理解なのに、
ベネチアから召還命令が入り、キプロス島の統治をカッシオに譲ることになる。
メトの公演を見た人は私がこの場面で召還命令の紙をロドヴィーコから受け取ったかと思うと、床にポトンと落として、落ちた紙を蹴り飛ばしたりするのを見ただろう(そうでした!そうでした!)
この時、オテロはロドヴィーコというベネチア/クリスチャンを代表する人間に挑戦を突きつけ、無礼を働く。
しかし、これが変えようのない決定だと気付いた時、彼の心の中に“自分は役立たずのニグロに戻ってしまった。”という思い込みが生じる。
彼に残ったのはデズデーモナだけだが、その彼女も殺さねばならない。
全ての真実を知った時、彼が剣を返す相手がロドヴィーコなのは、彼がベネチアを代表する人物だから。
12)最後の死によってもオテロは英雄ではなく臆病ものであることが示されている。ラダメスはアムネリスに捕らえられた時、Io resto a te.と潔く否を認め、自らの命を他人に託すのに対し、オテロはきちんと事情を説明することもなく、さっさと自害してしまう。

途中でカヴの“母さん、この酒は強いね”の録音が流れるのですが、クーラの言ですと97/8年頃の録音だそうで、自分で指揮棒を振りながら歌っているみたいです。
なかなか魅力的な歌唱ですし、この頃の彼はまだ若くて声がみずみずしいので、今と全く同じとは言いませんが、
ここで聴ける高音がこの日私がオテロで彼から聴いた声の雰囲気に近いな、と思います。
でも、自分で、“今の僕にはこの曲をこんなゆっくりのテンポで歌うことはもう出来ないなあ。”と言っていますね。

このようなたくさん興味深いお話がつまった映像を紹介頂いて、ありがとうございました♪
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Kew Gardensさん (Madokakip)
2013-04-21 16:15:46
この一年、振り返ってみれば(そう、もう後一ヶ月でシーズンもお終いです!)、
演出は“なんじゃ、こりゃー!?”というのもありましたが、Kew Gardensさんがおっしゃるようにオペラの神様の仕業かしら、
歌唱や演奏内容では面白いものにあたる確率が結構多くて、去年よりは充実したヘッドライフを送れたように思います。

>私が最近観たOtelloは、ハズレ。 >
>声も美しくないし、高音になると迫力ではなく、単にどなってしまう。 見た目もどちらかというと豆タンクみたいな東欧人
(笑)えーっ、誰だろう、、??

>Iagoはハイバリ系でしたが、どす黒い人間というより、小悪党的なずるさ

オテロを歌えるテノールも底をついてますが、それを言ったらイアーゴの方も味のある歌を歌える人が全くいないですよね、、。
本当、最近のバリトンはみんな小悪党みたいなタイプばっかりで、こいつに関わったらまじでやばそう、、というような黒々としたものを感じさせてくれる人はいません、、。
ハルテロスはデズデーモナの雰囲気ですよね、声も姿も両方!
でも確かに『オテロ』でいくらデズデーモナが良くっても、公演全体を面白くするには限度があると思います、、。

>ところで、Madokakipさんに負けず劣らず〇ンプソンが苦手な私

彼のヴェルディは特に我慢ならないんですが、なんか知らないけどメトではヴェルディばっかり狙って登場してくるんですよ!!
パパ・ジェルモン、シモン、マクベス、イアーゴ、、なんで~!?嫌がらせ??

>欧州でも勢力的にVerdi物に出演されますね、彼
>SalzburgのDon CarloはDVD/BR発売が既に確定していますけれど

そうなんですかーっ?もうやめてーっ!!!!
しかも、このザルツブルクのキャスティング!!
せっかく他を揃えても、この人が入ったらぶち壊し!ということがどうしてわからない!?
BR。。。買いたいけれど、カウフマンにこの人がまとわりついてくると思うと、心が重い、、(笑)
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