Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

PARSIFAL (Wed, Feb 27, 2013)

2013-02-27 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第四日目**

グランド・ティアーの最前列で鑑賞。
第五日はHDの上映があるので、この日は予備用の映像が収録される日(いつもHDの一つ前の公演には、HDのテクニカル・リハーサルを兼ねて予備の映像が収録される。)なのだが、
オケの演奏の締りが悪く、凡ミスもいくつか聴かれた。ガッティが指揮した公演の中ではオケの演奏がもっとも荒れた日。
予備用の映像は時にDVDとして商品化される際にも、当日の映像に問題があった部分と差し替えて用いられることもあるのに、これではその目的にも使えないのではないか?
もうこれはHD当日の映像をすべてDVDに使うしかない。
リハーサルとのダブルヘッダーでオケの疲労がピークに達しているのかもしれないな、、と思う。
『パルシファル』を演奏する大変さがわかるなら、もうちょっとオケのスケジューリングをなんとかしてあげて欲しい。
今更ながらで恥ずかしいが、この公演では一つ発見があった。
第一幕の最後、アンフォルタス、騎士達、グルネマンツが姿を消すと、乾いた大地が裂け、まるで谷間のような真っ赤な深い裂け目を好奇心一杯の目で見つめながらパルシファルが手を伸ばして幕、となる。
この真っ赤な谷のような裂け目を降りていったその先こそが二幕の舞台であるクリングゾルの魔法の城なのだ。
二人のパーソナリティが全く違っているので、受けた罰へのリアクションも、またその後に辿る運命も全く違ったものになってはいるが、
アンフォルタスの罪もクリングゾルの罪も根幹は同じ、ということがこの作品では一つのポイントとなっている。
ワーグナーは山を境に片側を聖なる世界、もう一方をクリングゾルの支配する邪悪な世界と設定しているが、
このプロダクションでは、それを90度動かして、地上が聖域、地下が魔法の世界とすることで、
両世界のコインの裏表のような、根っこでつながっている関係をきちんと維持しながら舞台化しているのは実につぼを押さえていると思う。

また、二幕の舞台はバックドロップに裂け目があるのだが、その裂け目の隙間に体液のようなものが流れる(こちらもコンピューター・グラフィックスによるもの)ので気付いたのだが、
これは女性の膣の表現ではないのか?
ということは、花の乙女達やクンドリやクリングゾルやパルシファルが歩き回っているあの空間は子宮そのものであり
(地上の世界から聖槍を持った人間が入って来るというのは、これも性行為を示す以外の何ものでもないだろう。)、
多用されている血はアンフォルタスの血でもあるが、また一方で女性の性を表現しているのではないかとも思うのだ。
この作品では最高の愚かさが最高の智になる、など、一見矛盾した要素の組み合わせが大きな真実をもって迫ってくるところに特徴があるが、
この二幕の演出では、血を通して、苦しみ&死と喜び&生がつながっていることを表現しているのは巧みだ。

ルパージの演出がリングで大コケしたのと対照的に、ジラールが今回の『パルシファル』の演出で成功した一つの理由はハイテクに依存しなかった点だ。
どちらの演出もビデオ・グラフィックスの多用という点では共通しているが、ルパージがそれに”マシーン”を加えて自分の首を絞めたのに対し、ジラールの演出は意外とプリミティブだ。
二幕でクリングゾルが投げる槍がパルシファルの頭の上で止まるという超常現象の表現はその好例で、
同演出ではクリングゾルだけでなく、花の乙女達全員が槍を持っており、彼らがそれを掲げながらパルシファルの方に近寄っていくと、パルシファルが片手を挙げて制止する、
するとそれ以上槍は進むことが出来ず、パルシファルが
"Mit diesem Zeichen bann' ich deinen Zauber:
die mit ihm du schlugest, -
in Trauer und Trümmer
stürz' er die trügender Pracht!"
(この印により汝の魔力を封じる。お前があの人に負わせた傷はこの槍がふさいでくれよう。さあ、絢爛たる虚飾の城を廃墟に変えて葬り去れ!”)
と歌って、クリングゾルと乙女達がばたばたばた、、と倒れる。
しかし、これで十分この場面の本質は表現しているし、この片手を挙げて槍を止める、という動作はどことなく東洋的で、このあたりにもあらゆる文化のミクスチャー的なアプローチが見られる。
コリオグラフィーのせいでこの二幕は若干冷たい印象を与える、という感想は基本的には変わらないが、何度か見ているとこの幕の演出もそう悪くはない、、と思えて来た。
また、騎士達は聖杯に食べ物を供給されている、という、こちらの超常現象も、食べ物を突然現出するようなハイテクを駆使したマジックはなく、
アンフォルタスから騎士達に次々と指を通してエネルギーが伝達されるような演技付けだけだが、これで十分それが彼らの食料・エネルギー源である意図は伝わってくる。



そして、この日、とうとう待ち望んでいたことが起こった。
これまでの公演と同じように始まったと思えた二幕だが、段々とクンドリとパルシファルの会話が異様な青白い炎のような色を呈して行ったかと思うと、クンドリのキスの後、パルシファルのモノローグでそれが炸裂した。
"Die Wunde sah ich bluten: -
nun blutet sie in mir -
hier - hier!"
(あの傷から血が流れ出すのを私はこの目で見た。その傷が今私の中で血を流している。ここだ、ここだ!)"
でのhier(ここ)は、これはもう歌なんかではなく心の叫びそのものだった。
パルシファルがキスを通してアンフォルタスの苦しみを理解したように、私達観客はカウフマンの歌を通して、パルシファルが追体験したアンフォルタスの苦しみ・痛みそのものを聴いたのだ。
この後もまるで流れ出した血が止まらないかのようにカウフマンの歌唱にアクセルがかかり、この間自分が息をしていたのかどうかも思い出せないくらいだ。
このカウフマンの熱唱に感応するかのように、クンドリ役のダライマンが他の公演では聴かせなかったような歌でこたえる。いや、歌で、というのは正確ではないかもしれない。声で、と言った方がより近い。
他の公演では乾いて角のない声だったダライマンが、この日の二幕はまるで人が違ったような歌声を聴かせたからだ。
lachte!(笑ってしまった)=クンドリ役のパートの中で最も大きな難所と言ってよい、ハイBからローC#へのリープでの、
このハイBは空気がまるで切っ先鋭いクリスタルで出来たナイフか何かで切られたような感触があって、声が停止した後の数秒はオペラハウスが震撼し、完全静止したのを感じたし、
その後の畳みかけるようなフレーズ、そして最後に迷いの呪いをかけるまで、全く文句の付け所がない出来だった。
他の公演ではどことなくのんびりさんなイメージを残したダライマンのクンドリだが、今日のような歌唱を聴くと、メトが彼女の何を聴いてこの役にキャスティングしたのか、その理由がよくわかるような気がした。
残念なのは、他のどの公演でもここまでの歌唱は彼女から聴けなかった点だ。
この日は彼女のコンディションと公演のエネルギーが本当に上手くマッチしたのだと思う。
当然、ダライマンのこの歌唱に刺激されて、カウフマンの歌唱も更に熱を帯びたわけだが、幕の最後の方で出した音で、カウフマン自身が意図した以上にアクセルを吹かせすぎたのに気付いたような様子があった。
車の運転でたとえるなら、”あれ?こんなにスピードが出てたの?”という感じか。
その音自体はエキサイティングだったが、そのまま突き進んだらちょっとまずいかも、、と思わせるような音色が微妙に混じっていた。
次回はHDなので、そのあたりも考えてか、その音以降はもう少しコントロールの効いた歌唱に戻ってしまったが、
今日の二幕のような歌唱が可能だということがわかってしまった今、残りの公演は全部観なければ、との決心を固める。
舞台挨拶の様子からも、カウフマン自身、この日の公演は自らの歌唱に関して会心の出来だったのが伝わって来た。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Gr Tier A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

PARSIFAL (Mon, Feb 18, 2013)

2013-02-18 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第二日目**

キャストが全体に渡って高レベルなのは素晴らしいことだが、やはりカウフマンのパルシファルに火がつく瞬間を見たい。
すると、まるで”そうおしなさない。”と天も言っているかのように、平土間最前列センターブロックのチケットが公演直前に放出された。
前奏曲が始まって、紗幕の向こうに日々の生活に疲れた様子でネクタイをはずし、白シャツと黒パンツになる男性合唱団員たち。
その間に紛れ込んでいる黒シャツ、黒パンツのパルシファル=カウフマンはやがて二つのブロックに分かれていく男性たちのどちらのグループにも属することが出来ず、
自分が何者なのか困惑したまま立ち尽くしている。
そう、既存のルールによってしか生きられない騎士達ではなく、そんなルールから自由な存在で、だからこそ他者の痛みへの気付きを得たパルシファルのような人間こそが救世主として選ばれるのだ、、、

などと思いながら舞台を眺めていると、あの前奏曲に奏でられる至高の美しさの音楽に混じって、”うにゅー。んがー。”と不気味な音?声?が聴こえて来る。
何事かと思ったら、ガッティの唸り声だった。クンドリもびっくりの何の動物か?と思うような。
最前列センター!という喜びに、前回の公演のインターミッションでせっかく聞きつけた会話をすっかり失念しておりました、、。
うーん。それにしても本当うるさい。(笑)

しかし、オケの演奏自体は最高に素晴らしく、今振り返ってみれば、ランの中で一、二を争う出来だった。
初日で聴かれた凡ミスが全く姿を消し、こんなにどアップで、各セクションの音が立って聴こえる場所で聴いても、それでも全く隙がない。
一幕で森から聖杯城に舞台が転換する(とリブレット上ではなっている)場面は、この演出では実際に城らしきものが登場するわけではなく、
強い円形の光が指してそれがどんどんこちらに近づいて大きくなって来るという、SFチックな演出になっていて(どことなく『2001年宇宙の旅』の冒頭を思い出す、、)、
ビデオ/コンピューター・グラフィックスの力だが、この場面が与える不思議な感覚はこれまでメトで見たどの作品のどの演出とも似ていない非常にユニークなものになっている。
このビジュアルに重なってくる部分のオケの演奏がまたいいのだ。
レヴァインならもっとオケをストレートに爆発させるところだが、ガッティは逆にすごく抑制が効いている。
だけど、その抑制がかえってその下で沸騰しまくっているオケのパワーをオーディエンスに感じさせる結果になっているのが面白い。
もちろん、その間ガッティの唸り声も最高潮に達している、、。
初日では長すぎて感じられた休符が今日は不自然には感じられない。
残念ながらHDの日の演奏ではまた若干初日に似た感じに戻って行ってしまったが。
クーベリック盤の前奏曲を聴けば、休符やフレーズの緊張感が落ちるまさに直前にきちんと次の音が入ってくるので、音が永遠に続いているような独特の感覚をもたらす。
この感覚が失われてしまうのを”不自然”と表現しているが、この日の演奏はきちんとその感覚があった。
とにかく、この日は最初から最後までオケに関しては何も言うことなし。こういうのを耳福というのだと思う。



さて、この演出をオペラハウスで一回だけ見るなら、平土間席は厳禁だ。
平土間に座ったら、この演出が伝えんとしている全容の軽く15%は見逃してしまっていると考えた方がよい。
初日の感想で書いた地面が肌に変化して行く様子、それから一幕最後で地面が割れる様子(これは第四日のレポートでふれる)が良く見えないし、
第二幕の舞台一面に張った血もほとんど見えないありさまだ。
なので、HDの映像もいつものように歌手のデンタル・ワークまで見えるようなどアップでなく、若干高さのあるところからきちんと距離を保った全体像のショットを入れてくれていることを望むばかりだ。
(HDの映像はこれを書いている時点では未見。)

この日の公演でオケと並んで印象深かったのはパペの歌唱。
ラン全体を通して本当にレベルの高い歌唱を維持し続けた彼だが、この日は特別に何かのスイッチが入っているかのような情熱的な歌唱で、彼について一番印象に残っているのがこの日の公演だ。
第三幕で聖金曜日の意味をグルネマンツが歌いあげる箇所(前述した通り、オペラのラストと並び、もしくはそれ以上にエモーショナルな場面)の最後、
da die entstündigte Natur heut ihren Unschulds-Tag erwirbt
(罪をきよめられた自然が、今日こそ無垢の日を迎えたのですから。)の後、
手を体の前で合わせてぶつぶつと祈りを唱えている様子は、演技などではなく本当にトランス状態に入ってしまったいるかのようだった。

ジラールの演出はキリスト教だけでなく、複数の宗教・スピリチュアリティのエレメントを取り入れていることは先に書いた。
洗礼の場面でのパルシファルは後ろに現れる光と合わせてまるで仏陀のようだし、
既存のメジャーな宗教には属さない独自の動き(先述のパペの祈祷や騎士達が腕を持ち上げて体の前でわっかを作るポーズなど)はある種の新興宗教的な雰囲気すらもあって、
どの個別の宗教にも拠っていないようで、しかし、どの宗教のようでもある。

カウフマンについては初日と似た感想を持った。歌唱の完成度は非常に高い。
言葉の取り扱いが非常に繊細で、オケが演奏する音楽との兼ね合いがこれ以上考えられないほど高いレベルのそれになっているのだ。
それは例えば一幕のクンドリとの会話の中で、騎士達のようになりたい!と母親を置き去りにして駆け回るようになったなれそめを説明する部分のようなところでも徹底されている。
ドラマ的にさらに重要なシーンではなおさらだ。
それはカウフマン一人だけで達成できることではなく、ガッティとの共同作業の賜物であることはいうまでもないが。
しかし、これらを達成しようとする用心深さが真に自由な表現を微妙に妨げている感じが初日の演奏に引き続きあるのがもどかしい。
演奏が終わった時、この完成度の高さを達成するためにどれほどの努力が費やされたか、それを思う尊敬の気持ちは湧き出てくるが、
それを考える前についスタンディング・オベーションを送りたくなるとか、あまりに心が動かされて座席を立てない、、とか、そういう感じではないのだ。
カウフマン自身の舞台挨拶の様子もそれを反映したものになっているように思うのは気のせいではあるまい。
マッティやパペが全力を尽くした充実感に溢れているのに比べて、何かまだ”そこ”に完全には行けていない、という自覚がある風なのだ。
残念ながら、今日もその日ではなかったようだ。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

ORCH A Even
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

PARSIFAL (Fri, Feb 15, 2013)

2013-02-15 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事にあるリンクから飛んだ先にはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想も含まれています。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。



実は、ワーグナーの作品を頭ではすごいな、、と理解できてもそこからなかなか前にすすめない時期が私の場合オペラを聴き始めてからしばらくありました。
『パルシファル』はワーグナーの最後の作品なのでオペラ本の中でもワーグナーの項の最後に取り上げられることが多くて、
しかも、大抵の解説文からはなんだか”難解な作品である。”という印象を受けるので、この作品を実際に聴くまで大きな回り道をしてしまったのですが、
初めてメトで生鑑賞するにあたり(このブログを始める前のことです)、予習のためにクーベリック盤で初めてこの作品をきちんと聴いた時、
本当に自然に音楽と作品が頭ではなく、心に響いて来て、オペラ本はお尻から読んどくんだった、、と激しく後悔したものです。
それ以来、『パルシファル』は何度聴いても飽きることのない作品。
やがてワーグナーの他の作品の素晴らしさに開眼するようになったのもすべてこの作品のおかげとも言え、だから、私にとってはすごく思い入れの深い作品なのです。

また、現役の歌手で私が”この人が歌うなら絶対聴きに行きたい!”と思う極く少数(二名くらい、、)の歌手の一人がカウフマンであることはこのブログでは何の秘密でもなく、
私の大好きな作品xカウフマンがコンボになって迫ってくる今シーズンのメトの『パルシファル』は当然最も楽しみにしていた演目です。
しかし、いざ蓋を開けてみればそれ以外のあらゆる側面で期待を超える内容で、一度公演を見る度にもっと鑑賞したい!ということになってしまって、
どんどん追加でチケットを購入するうち、気がつけば7回予定されていた公演中、一公演を除いて全部鑑賞、、という恐ろしい事態を招いていました、、。
ラン中は浮かれていましたが、最後の公演が終わってからクレジット・カードの請求書を見てボー然、、、どうするのよ、これ、、?です。破産です。
でも、いいのです!!!こんな公演を見れるなら、もう私、ホームレスになっても構わない!!

また、クレジット・カードの支払いと共に頭を悩ませたのは、この6回分の公演の感想をどうやってレポにまとめよう、、?という問題です。
ランの最後の公演では周りの観客(特に男性、、)とともに客席で思い切り涙したMadokakipですが、最初の公演からそんな風だったか、というと決してそうではなく、
少なくとも私は演奏のスタイルと新しい演出に完全に馴染むまで数公演はかかりましたし、おそらく歌う・演奏する側が変わって行った部分もあると思います。
ということで、最もロジカルな方法として、各公演を時系列順に並べ、出来るだけ鑑賞時に感じたことを忠実にまとめるよう心がけることで、
その変遷を辿っていけたらいいな、と思います。
ただし、字数が多すぎて全部のレポを一つに納めることが出来ないので、第2,4,5,6,7公演日の演奏については、各公演日をクリック頂くとその日の公演についての感想に飛べるようにしました。
公演数が多いので各レポートではです・ます体を排し、それぞれの公演単位ではかなり短めの感想になってしまっているものもありますが、
全公演の感想を通して読んだ時にラン全体の演奏の全貌が少しでもわかるような感じになっていればいいな、と思います。

それから声を大にして言いたいのは、この作品は全然難解なんかじゃないということ!!
過去の私みたいにオペラ本に騙されている人がいては本当にもったいないので、念のため!!

**初日(Fri, Feb 15, 2013)**
ドレス・サークルの二列目で鑑賞。
オケの演奏に関して”遅い”という意見が批評家・ヘッズの両方から多くあがっていたようだが、テンポが遅いのではなく、休符の取り方が長い、と言った方が適当だと思う。
特にこの日の演奏の前奏曲でそれが顕著で、ガッティはランの前にこの作品での休符の重要さを説いていたが、
その重みに耐え切れなくて緩んでいる、とまでは言わないものの、私にはわざとらしい・不自然と感じるテリトリーに微妙に足を踏み入れているように感じた部分もある。
しかし、たとえば二幕の花の乙女たちの場面の音楽はむしろ私の感覚ではかなりスピーディーな演奏に感じられたし、
一幕の舞台転換の音楽も、ラジオなどの音源だけで聴くとゆったりし過ぎて感じるかもしれないが、その雄大さは舞台で進行している演出効果(後に触れる)と良くシンクロしており、
劇場で聴くと適切なテンポに感じられる。
過去のレヴァインの演奏(これは、まじで遅い!)と比べても、今日の演奏は決して”遅”くはない。
もし、それでも”遅い”という印象を払拭できないとしたら、それは瞬発力の欠如のせいではないかと思う。
この作品には突然の気付き、突然の感情の奔流、という瞬間がいくつかあって、歌手が言葉でそれを表現する前にオケの演奏がそれを先取りするようにワーグナーが音楽を書いているが、
そういった瞬間にオケの演奏が、どぱーっ!と出て行くのではなく、むにゅむにゅ、、と残り少ないマヨネーズをひねり出しているような感じで演奏される時があった。
今シーズンの『パルシファル』の演奏で、ガッティはオケに力任せではなく、繊細で柔らかな表現を求めているのが感じられ、それは一方では素晴らしい音楽的効果をもたらしているのだが、
感情の奔流の表現と繊細さを統合するのはかなりハードルが高く、この点では若干の課題があったかもしれない。
それでも、全体としては大変に優れた解釈と演奏で(これまでイタものを含めたガッティの演奏を全く好きになれなかった私でもそう思う)、
一幕でオケかららしくないミスがいくつか聴かれたのは残念だが、それでもガッティの音作りとそれに答えてオケが出している音はオペラハウスで聴くと音のバランスが素晴らしく、
また、それを損なわずに大切な場面で音をきちんと鳴らすことを怖れていないのも賞賛に値する。ワーグナー作品でこのようなエモーショナルな演奏をメトで聴いたのはレヴァイン以来。
今シーズンの『パルシファル』の公演がオケの演奏の面からだけ見ても特別なものになっているのは明らかで、これだけでガッティが振る残りの公演をすべて鑑賞したくなった。
また、ガッティが舞台で進行していることにも神経を使いながら音作りをしているのは、
演出チームと音楽チームの意思の疎通が上手く行っている証で、これは上演上多大なプラス。
ただし、インターミッション中に、平土間席前方中央に座っていると思しき女性二人の”ガッティの歌声・唸り声がうるさくてオケの音が聴こえない。”発言が耳に入って来たので、
それは覚えておかなきゃな、、と思う。
演出はコンセプト型とでもいおうか、確かに我々が普段着用・使用しているような衣服・小道具が登場するのだが、
それは単に物語を普遍的なものにする目的の一部に過ぎず、セットもイメージとかアブストラクトさ、コンセプトを重視した舞台で、
よって、キャストが現代服を着ている、という点では同じでも、60年代のヴェガスという固有の場所に舞台を移したメイヤーの『リゴレット』とは全く対照的な舞台づくりである。
だから、MetTalksの際にゲルブ支配人がやっていたような、”現代服をキャストが着用する演出”というようなカテゴライズの仕方はなんらの意味も持たないし、
よって、演出をモダンvsトラディショナルの枠組みだけで捉えるのも無理があるだろう。
オペラの演出のカテゴリーとして存在するのは、優れた演出と出来損ないの演出、この二つだけ、という、この気付きが今回の『パルシファル』で得た収穫の一つだ。
MetTalksの記事で演出家のジラールが語っていた通り、当演出はポスト・アポカリプティックな世界を舞台にしているので、舞台は始終曇っていて暗い。
干上がった地面には水一滴なく、よって、一幕でクンドリが母の死を聞いてショックを受けたパルシファルの額に水をかけてやる場面はちょっと無理があるかもしれない。
(クンドリ役のダライマンは必死で水をかき集める動作をするが、それでも歌われている言葉との違和感は隠し得ない。
三幕でもクンドリがパルシファルに気付けのために水をかける場面があって、同じ轍を踏みそうになるが、ここはグルネマンツが”そうでなく、、”と、
洗礼のためにとっておきの汲み貯めした水を持って来ることで救われている。)
アンフォルタスが一幕で自らの傷とそれを引き起こした自分(それ、すなわちすべての人間)の弱さを嘆いた後、舞台の中央を走る細い溝に血が流れ始める。
やがて、ビデオ・グラフィックスにより、血が走る乾いた土地は人間の皮膚のクローズアップに変化したり、
後ろに見えていた連綿とした乾いた土地がしばらく砂丘のようになったかと思うと、それがそのまま人間の体の一部(背中?)にモーフィングしていく。
つまり、この世界は、私の、あなたの、体そのもの、ということであり、世界(他者)の痛みは私の痛みであり、その逆も真なり、というこの作品のテーマを良く捉えていると思う。
また、クンドリが、”あの人”(限りなくイエスのイメージだが、この演出ではワーグナーが意図した通り、個別の宗教としてではなく、
あらゆる宗教に共通した・を越えたスピリチュアリティをテーマにしたものになっているので、”あの人”のままにしておく。)を笑ってしまったため、
後悔と懺悔を繰り返しても救済の瞬間に笑いが漏れて再び劫罰に落ちるという、
”泣けない”という恐ろしいカルマ(これをジラールが輪廻転生と重ねて見ているのはMetTalksの記事の通り)。
パルシファルから洗礼を受ける時に彼女が落とす涙によって、とうとう彼女が終わりない懺悔から解放され、ついに”あの人”に赦されたことをオーディエンスが知る、
作品の中でも最もエモーショナルな場面だが、ここで干上がった土地の、例の溝に、水が流れ始める。まさに奇蹟、ということなのだろう。
また、永劫の罰から解放されたということは、すなわち、彼女が待ち望んだ死が訪れる、ということであり、この演出ではエンディングに彼女の死も視覚化されている。
この演出でおそらく最もユニークな点は聖なる槍と聖杯の再会・再結合にクンドリが物理的に大きな役割を果たしている点で、
クンドリがささげ持った杯に向かって血を流し込むべくパルシファルが聖槍を立て、その血を受け終わった瞬間、クンドリが死を迎えアンフォルタスをしばし見つめた後
(クンドリがアンフォルタスに対して特別な感情を持っていたことの顕れともとれる。もちろん、長い間彼を苦しめたことに対する彼女なりの謝罪の表現ともとれるが。)、
グルネマンツに抱えられながら、息を引き取ってゆく。
この場面でクンドリに大きな役割を持たせたことにより、救済者としてのパルシファルはアンフォルタスはもちろんクンドリなしでも存在し得なかったということ、
汚れた愚かな存在から、最高の智が生まれる、という構図(愚かなのは過去のパルシファルだけでなくクンドリもアンフォルタスも、、)が強調される効果が生まれ、
この世界に無駄な存在は一切なく、昨日の無知は今日の智である、というこの作品のメッセージを強く感じさせるものとなっている。
また、もちろん、この場面の演技付けには性的な側面もあり、聖杯と聖槍の再会の場面は性交の描写そのものといってよく、
これによって、限られた男性のみが騎士として特別な地位を許されていたのが、救済者としてのパルシファルの登場を通して、女性も男性も、愚かなものも智あるものもすべて一体となった、ということを言わんとしているのを感じた。



初見時にこの演出で私が若干の違和感を感じたのは三幕。
10年程前にケニアを訪れた際、何度か自分が世界・他の生命と完全に一体化するような圧倒的な感覚を味わい、そのことは自分のその後の生き方を考えるうえで大きな転機となった。
信仰深い人たちは宗教を通してこういった感覚を体験するのかもしれないが、具体的な宗教の形でなくてもそれをもたらしてくれるものが、非常に数は少ないが、ある。
良く演奏された時の『パルシファル』はその一つで、そして、オペラ作品でそのような感覚を引き起こす力を持った唯一の作品が『パルシファル』ではないか、と思う。
ワーグナーはこの作品を単なるオペラとしてではなく、舞台神聖祝典劇としているのでそれは当然とも言え、
また、”オペラ作品”とひとからげにするな!という人が必ずいると思うが、この作品を”オペラ”として鑑賞している人もたくさんいる、という事実も厳然としてある。
その証拠に、2005-6年シーズンの公演までは一・二幕の後は拍手をしない、という伝統が守られていたように記憶しているのだが、今シーズンの公演でそれは完全に崩壊した。
音楽が完全に止まる前に拍手が出るのは言語同断で、特にこの作品の場合、すでに手が動いている人間を絞め殺してやりたい位頭に来るが、
音楽が停止してからの拍手が一幕と二幕で出るようになったのは、少なくともここNYではこの作品を典礼としてでなく、オペラとして鑑賞する人が圧倒的に凌駕した、ということで、
ワーグナーが知ったら悲しむと思うが、いつかはその時が訪れる運命でもあるのかもしれないな、とも思う。

私はジラールの必ずしもキリスト教のそれにこだわらない演出アプローチは正しいと思うし、
ワーグナーはドラマとしての力を増幅させるため、キリスト教の中で観客がリレートしやすいイメージ(例えば三幕でパルシファルの足をクンドリが髪で拭う様子はルカによる福音書などに登場し、
マグダラのマリアと同一人物とされることもある女性のイメージだ。)の力を借りてはいるが、その一方で、キリスト教だけに拠ったものにならないよう、心を砕いてリブレットを書いている。
演出をする場合はこのバランスの取り方が肝であり、また難しいところだ。
私が一番好きな音源は先にも書いたようにクーベリック盤だが、この盤の三幕の洗礼の場面を、ほとんど宗教的とも言ってよい深い感動を覚えずに聴くことは難しい。
というわけで、ワーグナーがこの場面を命の芽吹きを感じさせる時と場所に設定しているのは当然理由あることなのだが、ジラールの演出はなぜかここの描写が控え目だ。
舞台ではほんの少しだけ、雲が晴れて、そこから見える空の色が少し明るくなるだけ。野の花もなく、相変わらず土地は荒涼としたままだ。
あまりに変化が微細過ぎて、これでは観客の中には私のように人間の他者の痛みを共有する力を信じていいのかどうか不安になってしまった人もいるだろう。
ヘッズの間でもこの場面はもうちょっとカタルシスが欲しい、、と感じた人が少なからずいたようだ。
この場面を見て、私はジラールはすごくペシミストなのかもしれないな、と思った。
現代のように自分勝手な人間がどんどん幅を利かせている世界では、彼のような感じ方の方がリアリティはあるのかもしれないが、
しかし、ワーグナーはそれでも人間を信じたい、そういう思いでこの作品を書いたのではなかったか。
個人的には、もう少しオプティミスティックに行って欲しいところだ。

また、二幕目の花の乙女(実際にこのパートを歌う歌手に加えて、ダンサーを補強している)の表現は演技ではなくダンスの範疇に入るもので、
私は情熱的で濃厚な感情はもっと気ままに表現されるべきだと思うので、
動き、シークエンス、タイミングまでががっちりと決まってしまっている今回のような表現は”コリアグラフされ過ぎ”との印象を初日には持った。
結果、エロティックさが薄められ、割とクールな感じの花の乙女になっている。(コリアグラファーはミンゲラ版『蝶々夫人』と同じキャロリン・チョイ。)
花の乙女達がパルシファルにくらいついてカウフマンの着ている洋服をはぎとって、彼が上半身まっぱになってステージ前方に転がり出て来ても、
このコリアグラフィー度の高さのせいで、全然エロティックな感じがしないのだ。ほとんど意図的に生々しいエロティックさを除去しているようにも感じられる。



歌手に関しては今回キャストがかなり強力なのでがっかりさせられることはないと思ってはいたが、一番期待を上回る幅が大きかったのがアンフォルタス役のペーター・マッティ。
彼が素晴らしい歌手なのも、、当代髄一のドン・ジョヴァンニなのも実際に聴いて知っているが、ワーグナーをこんなに素晴らしいスキルと豊かな感情を込めて歌うとは!!
彼はこれがロール・デビューで、この初日の数日後にマッティを招いてのSingers' Studioのイベントがあったが、
そこでも、まだ、”自分でも役との相性がいいのかどうか、まだ完全には確信を持てないのですが、初日での皆さんの反応を見たところ、まあまあなんでしょう。”なんてびっくりするような発言をしていた。
こんな素晴らしいアンフォルタスを歌える歌手、今、世界のどこを探しても他にいない!それ位すごい歌唱を披露しているのに。
それどころか、歴代の名アンフォルタスと比べても、引けをとってない。
そのSingers' Studioで、彼の発言を聞くうち確信したのは、彼は圧倒的な天然の才能を持っているということ。
彼の主張は始終”練習はきちんとするけど、特別にこうしてやろう、ああしてやろう、といった努力は何もしない。
声に無理なことをさせてはいけない。無理をしなければ歌えないようであれば、それは役が合っていないということ。”
彼の歌が素晴らしいので、その秘訣を聞き出してやろうと躍起になっている鉄仮面(Singers' StudioでモデレーターをつとめるOpera Newsの編集長)を相手に、
純粋に鉄仮面の尋ねている質問にどう答えていいのかよくわからない、、という表情を浮かべているのだ。
マッティの主張は言うは易し、だが、ほとんどの歌手は特別な努力をして、声に負担をかけている。
”秘訣なんて何もない。普通に歌うだけ。”
こんな発言、生まれつきの才能に欠ける歌手が聞いたら歯軋りして悔しがるような発言だろう。
歌唱表現の機微を一切損なわず、ワーグナーのオーケストレーションを楽々と越えてオペラハウスを包み込むベルベットのような声。
カウフマンやパペのソロ部分では繊細な表現を心がけているガッティも(そして、言っておくが、この二人だって声量がない歌手では全くない。)、
マッティが歌う時には場面がそれを要求しているからということもあるが(アンフォルタスに与えられたパートは音楽的にこの3役の中でもとりわけエモーショナルだ。)遠慮なくオケを鳴らしまくっている。
またマッティの歌唱が非常にスポンテニアスなのも、今回印象に残った。
毎公演、毎公演、その日の公演のエネルギーやオケの演奏に合わせて、同じフレーズでも違うカラーリング、違うパッションの込め方で歌い、歌の表情が豊かだ。
これまで何度もグルネマンツ役を歌っているパペはランを通して割と完成された、公演毎でぶれのない歌唱を聴かせたのに対し、マッティやカウフマンの歌は一回一回かなり内容が違う。
三人ともそれぞれのやり方で完成が高いので、どっちが良いということではなく、単なる比較の問題で。



グルネマンツはアンフォルタスのように爆発的な感情を吐露する場面はほとんどないが、一見淡々として見える歌唱の中に複雑な思いを込めなければならず、
また三幕の洗礼の場面の、グルネマンツが歌うパートは作品のエンディングと並んでこの作品の最も感動的な場面であり、オケが奏でる音楽に負けない存在感と表現力が求められる。
しかも二幕には全く登場しないものの、全体に渡って歌うパートが大変に多いので、力のない歌手が歌うとオーディエンスにとっては退屈で目も当てられない、、ということになってしまう。
パペは私が見るところちょっと照れ屋なところがあるのか、オーバーでわざとらしい演技が苦手で、そういうのをやれ!と強制されたりすると、
逆にそっけなくしたくなる天邪鬼さんみたいなところがあるように思う。
例えば昨年の『ファウスト』のメフィストフェレスなんかも、初日ではすごくはじけた演技をしてたのに、
HDでは”そんな恥ずかしいところを映像に残せるか。”とばかりに大人しくなってしまっていて、それはがっかりしたものだ。
しかし、彼のそんなそっけなさ、良い意味での朴訥さが、グルネマンツという役、特にこのジラールの演出でのグルネマンツにはすごく合っている。
髭を伸ばした長老、、というティピカルなグルネマンツのイメージではなく、ほとんど彼の実年齢くらいのイメージでこの役を演じているようだが、本当に等身大でリアリティがあるのだ。
歌にも変に誇張したところがなく、淡々と歌っているように見えるが、その完成度の高さは、けちをつけたくなるようなところが何もない程で、
逆にその淡々としたところが三幕の洗礼のシーンで爆発的な感動を生み出す結果になっている。
パペに関してはフィリッポ、マルケ王、ボリス、メフィストフェレス、、と多くの役で素晴らしい歌唱を何度もメトで聴かせてもらっているが、
今シーズンの『パルシファル』での彼の歌唱は単なる優れた歌唱を超えて、作品や演出とのシナジーがプラスαを生み出し、今まで聴いた彼の中でも最も記憶に残るものとなった。
パペはまだまだこの先何年も舞台で歌い続けていくだろうが、私が足腰弱ってオペラ通いを止める時、パペの最高の舞台を一つあげよ、と言われたら、おそらくこの『パルシファル』をあげるだろう。
オペラ通いを続けていると、このクラスの公演がどの位の頻度で起こりうるか、大体の予想がつくからだ。



クリングゾル役の二キーチン。初日の歌唱からは大変な気迫を感じた。
彼は見かけによらず(?)、声は非常にエレガントで意外と軽く、いわゆるノーブルなキャラクターに向いていて、例えば、数年前の『エレクトラ』でのオレストはすごく印象に残っている。
クリングゾル役へのキャスティングというのはちょっと意外でもあり、彼の個性にすごく向いているか?と言われると、私は必ずしもそうは思っていないところもあるのだが、その割には良く健闘していたと感じた。
今回の演出で一番演じにくい役はクリングゾル役ではないかな?と感じるところもあって、同役が若干カリカチュア化された悪役に見えてしまうのが残念なのだが、
歌唱でそれを引っくり返すところまではいかず、むしろその演出に引っ張られてしまった部分があったかもしれない。
しかし、NYのオペラ人口に占めるユダヤ系の率はおそらくオペラハウスが存在する世界の他都市のどこよりも高いはずで、
そのNYで、しかもワーグナーの作品に登場するということは、MetTalksの記事で触れたような経緯があった彼にとって大きなプレッシャーだったに違いない。
オーディエンスの喝采が若干彼の頑張りに比して少ないように感じたが(特に初日)、もし歌唱の内容がXだったら何のためらいもなくブーするヘッズだって必ず混じっていたはずだ。
良い歌手なのだから、先のシーズンでもメトで歌ってくれるのを期待している。

ティトゥレル役の歌唱はマイクを通してしまったので(またこの演出では彼は舞台上には一切登場しない)、完全な生声を聴けたわけではないが、
マイクを通しても豊かで深く美しい声を持っていることが感じられたのはル二・ブラッタバーグというフェロー諸島(現在はデンマークの自治領)出身のバス。
メトではずっとハーゲン役などのカバーを務めてきているようだが、少なくとも声楽の面では既に表にキャスティングしても十分通用するものを持っているように感じる。
ティトゥレルのパートは”間”がすごく大事なのだが、慌てている様子が一切なく堂々とした歌いぶり。
良い公演というのは、こういう比較的小さな役もきちんとしまっているもので、その見本のような歌唱だ。

今回のキャストは男性陣が本当に充実しているので、これにふさわしい歌唱を出すのは本当に大変だと思う。
今シーズンの前に『パルシファル』がかかったのは確か2005-6年シーズンのことではなかったかと思うが、その時のワルトラウト・マイヤーのクンドリが印象に残っている。マイヤーに比べるとダライマンのクンドリはちょっとまったりとおばさんくさい。
彼女の鋭さのないおっとりした歌い方がそれに貢献しているのは間違いないが、佇まいにも、もうちょっとシャープさがあれば、、と思う。
特に第一幕でのクンドリは非常に複雑で、グルネマンツや騎士達との会話の中にも彼女の自分の運命そして自分自身への苛立ちが表現されていなければならない。
マイヤーの歌唱と演技は幕中のどこからもそのひりひり感を感じるものだったが、ダライマンのクンドリはその点でもう一歩だ。
ただし、二幕、三幕、と幕を追うごとにクンドリの変貌がダライマン自身の個性に近くなっていくのはラッキーで、
三幕でクンドリが歌うのは”Dienen... dienen!"という二語だけだが、先述したようにこの演出は三幕のクンドリに大きな役割を与えているので、馬鹿にならない。
MetTalksの時にダライマンが初日を間近に控えて風邪をひいていたことが開陳されていたが、その影響か、
もしくは年齢・レパートリーによるもっと大きな流れの中での声の変化のせいか、以前聴いた時よりも声が少し乾いた感じに聴こえるのは若干気になった。

一番意外な歌唱を聴かせたのはカウフマンだった。
彼は普段から色んなタイプのレパートリーを歌って行きたい、と語っているが、メトでの舞台はそれを反映したものとなっていて、
私は『椿姫』、『トスカ』、『カルメン』、『ワルキューレ』、『ファウスト』、そしてこの『パルシファル』と、イタリア、フランス、ドイツものをそれぞれ2演目ずつ全幕鑑賞する機会があったわけだが、
(他にもOONYの演奏会形式の演奏では『アドリアナ・ルクヴルール』もあった。)
このうちで最も繊細な歌唱だったのが今回の『パルシファル』だったからだ。
過去に鑑賞した・もしくはこれまでCDで聴いたことのあるパルシファルたちでこんなに繊細に、柔らかくこの役を歌っているテノールもまずいない。
例えば『トスカ』、『カルメン』、『ファウスト』といった演目で、彼がアリアの中で弱音を入れることはあったが、
今回の『パルシファル』はそういうこの音単位でピアノ・ピアニッシモにしよう、という意図を越えて、全体においてソフトなのだ。
あまりにもソフトなので私はカウフマンの声量がなくなってしまったのか、、と最初は心配になった位だ。
第二幕のAmfortas!以降の部分で、決してそういうわけではないことがわかるのだが。
しかし、その場面以降も決して力任せに音を発することはなく、歌全体にものすごいコントロールが働いていて、
正直、初日の段階ではそれが表現の結果としてなのか、それともこの大役を歌うにあたってペース配分に気を遣うあまり、こうなってしまうのか、判断しきれなかった部分がある。
カウフマンがonな時にどのような表現をするか十分に知っているつもりの身としては、前者なら、まだ完全には役作りが練り切れていないのか?
またもしも後者なら、この役に対して彼の声と歌唱がほんの少しアンダーパワー気味なのか、、?との危惧も持った。
普通の尺度で言ったら十分に素晴らしい公演だったが、カウフマンが火を吹く公演はまだ先にあるのではないか、と見た。そしてそれは正しかった!


**第二日 (Mon, Feb 18, 2013)**


**第三日 (Thurs, Feb 21, 2013)**
オペラハウスで鑑賞できなかった日。シリウスで放送を聴く。
初日と比べると徐々に演奏がこなれて来て、歌手達の表現が少し自由になった感じがする。
一方でHDが近づいているからか、歌のフォーカスが高まって来ている。
他の公演日とあまりに鑑賞条件が違い過ぎるので(生鑑賞vsシリウス)、これ以上の感想は省略。キャストは初日と同じ。


**第四日 (Wed, Feb 27, 2013)**

**第五日 (Sat Mtn, Mar 2, 2013) & 出待ち編**

**第六日 (Tues, Mar 5, 2013)**

**第七日 (Fri, Mar 8, 2013)**

**聖金曜日の典礼 (The Solemn Celebration of the Lord's Passion) (Fri, Mar 29, 2013)**
いくつかの理由で、過去5年ほどは、アッパー・イースト・サイドにあるエピスコパル派の教会での日曜の復活祭ミサに参列して来たのだが、
『パルシファル』モードがずっと続いているのと、金曜日に完全なオフがとれることになったので、
今年は家から一ブロックという超近所にあるアッパー・ウェスト・サイドのカトリック教会での聖金曜日の午後三時からの典礼に参加してみた。
ジェントリフィケーションが進むマンハッタンではあるが、私の住んでいるエリアはヒスパニック系の住民も多く、
今年はフランシス法王という新しい法王が南アメリカから誕生したということも関係があるのか、なかなか活気に溢れている。
たくさん書きたいことはあるのだが、ここはオペラ・ブログであり、『パルシファル』に関する記事の中なので、三つの点だけに絞って書きたい。
① 典礼が始まると司祭があらわれ、いきなり地べたに腹ばいになった。あんな綺麗な装束で、またこんな冷たい床に、、と気の毒に思い始めたまさにその時、
”この姿は!!”とMadokakipの頭の中で稲妻がなりまくった。
パルシファル役のカウフマンが第三幕で聖なる槍を前に腹ばいになる場面があった。
ぼろきれという衣装のせいだろうか、舞台で見た時は単に体で十字架を作っているのだな、、としか認識できなかったのだが、
あれはまさに、今私の目の前で司祭が見せているのと同じ行為ではなかったか。
今頃あの演技をカトリックの儀式と結びつけることが出来たなんて、私も相当鈍いが、遅くても気付ける機会があって良かった!
② ここの教会専属の歌唱チーム(合唱だけではないのであえてこう呼ぶ、、)はプロの集まりらしく、それを事前に知らない私は
件のエピスコパル教会で毎年聴かされているようなへっぽこ地元合唱団(しかも、参列者も歌がど下手)を想像していたので、
綺麗な歌声ときちんとした歌唱が飛び出して来たのには本当にびっくりしてしまった。
しかも、ヨハネの福音書からのイエスの受難・死の場面の抜粋が普通の朗読ではなく、レチタティーヴォ的な音楽にのせてずっと語られるのだ。
ソプラノがナラティヴの部分を詠むと、バス・バリトンがイエスの言葉を歌い、そして、それに応えて人々(合唱)が応える、、というように。
やはり音楽の力というのはすごいな、と思う、朗読で聴く以上にものすごいドラマを伴ってあの場面が胸に迫って来るのだ。
しかも、参列者の歌もこちらの方が一枚も二枚も上手だ。なかなか音楽的に恵まれた教会で今後も通いたくなった。
③ その死の場面で、イエスはI thirst.(渇く)と言い、人々がぶどう酒にひたした海綿をヒソプに付け差し出したところ、それを受け、”成し遂げられた”という言葉を最後に息を引き取る。
司祭からのお話でも、今回、この"渇く”という言葉がテーマとして取り上げられていた。
パルシファルがクンドリに洗礼を施し、クンドリが流す涙とそれを機に舞台上の大地に流れ始める水は、彼女と世界が救われたことを現すと同時に、
その水・涙はまた、救済者の渇きを潤すもの、救済者に救済を与えるものである、ということを表現していたのではないか?
他人を救済し、そのことによって、また自分も救済される。
『パルシファル』を締めくくるのは、合唱によって歌われる”Erlösung dem Erlöser!(救済者に救済を)”という言葉だが、それと合わせて考えると大変興味深い。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ B Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

MetTalks: PARSIFAL

2013-02-07 | メト レクチャー・シリーズ
日本語では『パルジファル』の表記が多いのですが、音としては『パルシファル』が正しく、
松竹のライブ・ビューイング/HDのサイトも後者になっていますので、当ブログでも『パルシファル』の表記を採ります。


昨(2012/13年)シーズンは『ファウスト』で共演したカウフマンとパペ。
あの時はカウフマンと演出家のマカナフのそりが合わなくてフラストレーションたまったカウフマンがリハーサルで大爆発!というようなこともありました。
今シーズン、この二人は2/15の金曜日にプレミエを迎えるジラールによる新演出『パルシファル』で共演するのですが、
今回カウフマンがおとなしい替わりに、パペが暴れてるみたいです。
オケとのリハーサル中、パペの歌とオケを制止しイタリア訛りの英語で”ルネさん、そこはちょっとこの間話し合って決めたテンポと違いマスネ。”と指摘する指揮のガッティ。
”今日はちょっと体調が悪いんだよ。”と応えるパペ。
”でも、ルネさん、この間話したじゃないデスカ。ここのテンポはこういう風に、って。それと違ってマス!”
”いや、だから、体調が悪いっつってんだろ!”
、、というような応酬がエスカレートしたかと思うとガッティがオケに向かって"パウザ(Pausa=休憩)!!”
これで心おきなくやりあえるぜ!とやる気満々のガッティとパペの怒鳴り合う声が持ち場を離れるオケのメンバーの耳にずっと聞えていたそうです、、、。

今日はその『パルシファル』の出演者&スタッフによるパネル・ディスカッション。
上のエピソードを聞いた時はパペがつむじを曲げて出てこなくなるかと心配しましたが、、、、
風邪気味で大事をとった(早く直してくださいね!)ダライマンを除き、カウフマン、パペ、ガッティ、ジラールの四人が登場し、
ゲルブ支配人のホストのもと、話を聞かせてくれました。
ゲルブ支配人をPG、カウフマンをJK、パペをRP、ガッティをDG、ジラールをFG、Madokakipの心の声をとし、いつも通り、直訳ではなく大意を再構成します。

PG:皆さんは今日もリハーサルで大量の血を浴びた後ここに集まってくださいました。
NYタイムズの記事でもふれられている通り、この演出では一幕では干乾びた土地に流れる河を、また第二幕では舞台一面を血が覆う趣向になっていて、
使用される血糊の量は1600ガロン(6000リットル以上)に及ぶ。)
『パルシファル』は皆様もご存知の通り、バイロイトでのみ演奏されるように、というのがワーグナーの希望であり、それ以外の土地では演奏が禁止されていましたが、
しかし、それでも作品はアメリカに密入国し、1903年にメトでアメリカの初演を迎えました。
以降、(世界大戦の影響による)原語での上演の禁止などを経つつも、今ではワーグナーの作品の中でも最も人気のある定番レパートリーとして定着しています。
私は2006年、ヨナスが36歳の頃、チューリッヒの劇場で彼が歌うパルシファル、
そしてそれは今回のメトでの上演を除き彼が全幕を歌った唯一の公演ではなかったかと思いますが、
を鑑賞する機会を得、すぐにメトの『パルシファル』に出演頂きたい、ということで契約にサイン頂きました。
なのでそれから2013年まで、我々にとっては7年越しのプロダクションということになります。パルシファル役を歌うテノールのヨナス・カウフマンです。
(客席からカウフマンに熱い拍手。)
そして、その隣がメトではお馴染み、何度もフィリッポ、マルケ王といった役どころで素晴らしい歌を披露してくれており、
シェンクによる旧演出の『パルシファル』ではプラシド・ドミンゴ、ベン・ヘップナー、レヴァイン
(レヴァインについてはパペもうんうん、と頷いてましたが、彼がグルネマンツを歌った公演はゲルギエフとシュナイダーが指揮だったようなので、両者の覚え違いか?)
といった顔ぶれとの共演ですでにグルネマンツ役では登場済みのベテラン、バスのルネ・パペです。
(客席からカウフマンの時よりも盛大な拍手が巻き起こる。パペ、照れくさそうにしながらも、とっても嬉しそう。)
そのお隣が『蝶々夫人』でデビュー(1994/5年シーズン)後、しばらくなぜかメトからは足が遠のいていましたが、
2009/10年シーズンの『アイーダ』をきっかけに再びメトで活躍してくださることを期待している指揮のダニエレ・ガッティ。(また拍手)
そして、最後がグレン・グールドのドキュメンタリー、そして映画『レッド・ヴァイオリン』の監督として知られ、
今回のプロダクションの演出を担当するカナダのケベック出身のフランソワ・ジラール。(またまた拍手。)
クンドリ役のカタリーナ・ダライマンは風邪気味のため、大事をとり、今回のディスカッションは欠席させて頂きます、とのことでした。
支配人としては今風邪になってくれて良かった、公演にさえちゃんと出てくれるなら今はどれだけでも具合悪くなってもらって結構です。
 アホがまたわけのわからんこと言ってまっせー!!
歌手にとってはリハーサルも公演と同じ位大切なプロセスだということがわからない支配人がどこの世界にいますか?
リハーサルだろうと公演中だろうと彼らの健康を一番に願うのが普通の支配人の感覚でしょうが!)
PG: 彼らの他、アンフォルタス役にはペーター・マッティが、そして、クリングゾル役にはエフゲニ・ニキーチンが出演する予定です。
NYのタトゥー・パーラーに行くのに忙し過ぎなければ。
 オペラ・ファンなら誰でも知っている、ニキーチンが若気の至りで昔入れたと言うハーケンクロイツの刺青が大物議を醸し、
先夏のバイロイトの『さまよえるオランダ人』のプレミエの直前に降板させられた事実を踏まえたゲルブ支配人の趣味の悪いジョーク。
カウフマンもパペもその冗談に笑わないだけでなく、出来るだけ何の感情も顔に出さないよう気をつけつつも、ちょっと居心地悪そうな雰囲気でした。
下手な冗談ふるなよな、支配人!普通にニキーチンは出演する、とそれだけ言ってくれれば十分なんだから。)


(写真は出席者の座席順通り、カウフマン、パペ、ガッティ、ジラール)


PG:今回のプロダクションはほとんどポスト・アポカリプティック(この世の末のその後、といったような意味)な雰囲気のあるプロダクションですね。
 地球温暖化のために我々は干上がった土地に生きている、という設定らしいです。)
FG:今回私はこの作品の演出を任されるにあたって、どうすればこの話が今の私達にも密接に関わる・身近なテーマであるか、ということを、
”こいつは何をやるのだ、、?”という不安を観客に与えることなしに伝えるにはどうすればよいか、というのを深く考えました。
そこで、プロダクションはコンテンポラリーなものにし、オーディエンス自身を騎士達と想定し、
この話はあなた達自身の話なのです、というメッセージを、言葉・音楽両方の細かいディテールに注意を払いながら、打ち出したつもりです。
また先ほど血が山ほど出てくる、と言う話が出て来ましたが、誰も怪我をしたりはしていませんのでどうぞご安心を。
 『ファウスト』のマカナフやリングのルパージ~同郷!~にパンチを浴びせてますね。)
アンフォルタスの痛み、聖なる血、そして苦悩の血、これらを出来るだけシンプルに表現しようとするとこのような血の多用というアイディアになりました。
また、この作品は表見はキリスト教的でありながら、仏教のエレメントが多く感じられます。例えばクンドリが体験していることは輪廻転生そのものです。
仏教のベクトルはもちろん、あらゆるスピリチュアルな影響をキリスト教という形を借りてアウトプットしたのがこの作品ではないかと思っています。
PG: マエストロ・ガッティにお伺いします。この作品は長大な作品な上にテンポの問題もあって、
誰それの公演は某の公演より2分長かった、、とか、そういうことが話題になったりもしますね。
DG: 私が『パルシファル』を初めて振ったのは2008年のことですが、バイロイトやパリのコンサート形式など、経験を積んで来ました。
当時、私の人生はちょっとした問題に見舞われてまして、どうも考えがネガティブな方向に向かってしまっていけませんでした。
 その後もその問題の話が延々と続き、ちょっと!私はダニエレの人生の話を聞きに来たのではなくってよ!と思い始めた頃)
DG: この作品を指揮していると信仰の神秘、そして死後の神秘というものについて考えさせられるようになりました。
自分は何のためにこの世にいるのか、、という問いですね。
 ちょっと大丈夫?良い精神科医紹介しましょうか?)
DG: 指揮をすればすれほど考えさせられ、自分の中で育って行くオペラです。
ヴェルディを激しく血気立った音楽だと考えられる人は多いと思いますが、この作品もまた全く違うあり方で非常にエモーショナルな作品です。
ということで、とにかく私が出来ることはただひたすらこの作品と指揮にコミットするということであり、
話を戻すと、それさえ出来ていれば、長さのことは心配しなくても良いのではないか?と思うのです。
 こいつ、まさか、オーバータイムに無神経なんじゃ、、という不安の表情がゲルブ支配人の顔に表れる。
メトでは演奏時間が決まった時間を超過すると、関連する全ての部署のスタッフにオーバータイムの給料を払わなければならない。)
DG: 歌手や演出家はプロダクションや舞台での動きという問題があるので私のようにはいかないかもしれませんが、しかし、、
テンポをがちがちに決めるということは、演奏を鳥篭の中に入れるような行為だと思います。
人によって同じことを伝えるにも時間のかかる人、少ない時間で良い人、色々でしょう。
伝えたいことをきちんと伝えられるならば、長い、短いはあまり問題ではないと思います。
 なかなか物分りの良いことを言っているガッティだが、ふと思う。
じゃ、何でパペが具合悪いって言ってる時にあんなにテンポに拘ったのよ!!と。)
JK: 横からすみませんが、一言良いですか?私もその通りだと思います。
そして、公演は一つ一つ違う、ということも忘れてはならない要素かと思います。
テンポはこれで行くぞ!とあまりに強く思い込んでいると、公演のスポンタナイティ(自由性)のせいで少しでもそれが狂って来たり、
予想外のことが起こると、”おお、もうこれで僕達はお終いだ!!”とパニックして慌ててしまう、というようなことになってしまう。
それから作品の長さの話ですが、まあ、それはそうです。『魔笛』よりは確かに長いでしょう(笑)
でも、例えばロッシーニのような、音数が多くて、ある程度のテンポをもって演奏しないとどうしても演奏がダルになってしまう作品とは違い、
ワーグナーの作品はきちんと感情を織り込み、それを維持する演奏者の力があれば、極端な話、どれだけ遅いテンポでもそれを支えてしまえる力がある、
これも違いではないかと思います。
DG: 例えば『パルシファル』の前奏曲、これは静けさ、無を表現した曲だと私は理解していますが、
この前奏曲の間にオーディエンスを違う次元の場所、全く違う雰囲気の場所に連れて行く、そのための音楽でもあります。
PG: ルネ、あなたはどう思いますか?
RP: それはもう、ハンス・ザックスを除けば私のレパートリーの中で最も歌う時間が長いのではないですか?このグルネマンツは。
 ここで黙っていられない前方席のオペラ・ファンが何か別の役名を出して、そっちの方が長い!と主張し始める。)
RP: え?そう?そう思う?
また、旧演出も含めて通常は衣装を着ける時間というのが役にトランスフォームする時間になるのだけれど、
今回はフランソワの演出意図もあって、衣装も本当に現代の普通の服装だから、そのまま役に入っていけます。
しかし、不思議なのは、あれほど長い作品でも、プラシドやマエストロ・レヴァインと歌った時の公演では、
 と、ここまで言っているので、この組み合わせて歌ったことがあるのかもしれません、、アルカイブでは見つけられませんでしたが、、。)
公演が終わって欲しくない!まだ歌いたい!!と思ったんですよ。そういう作品なんですね。
オーディエンスだけでなく、歌手にとってもこの作品がもたらす感情は素晴らしいものなんです。
FG: 時間の認知に関わる話が出たのが面白いですね。
このプロダクションではあえてせかせかアクションを加えることなく、スローであること、を大事にしました。
この作品の歌詞の中にも出てきますが、”時間が空間に変わる”ということは実際にあると思います。
そうすると、5時間近いものが2時間位に感じられたりするんですね。
 それはちょっとオーバーだろう、、。)
すると、物理的な時間の長さというのは大した問題ではなくなって来ます。
JK:またこの作品にはテキストの曖昧さ、という問題があります。言葉の解釈がそれこそ何通りもあるのです。
私たちはリハーサルをはじめてから、それこそ、何度も何度もある言葉がどういう意味を持っているのか、
立ち止まって考える作業を続けていて、時にはそれが熱を帯びた大議論になることもあります。
しかし、この作品で最も危険な罠は、演出家が作品の長さに恐怖を感じ、自分の今の演出では何か物足りないのではないか、
オーディエンスが退屈してしまうのではないか、と考え、無闇にアクションを入れて余計に退屈なものにしてしまう、というパターンではないでしょうか?
PG: 正直な話をしますと私は支配人の立場としてオーバータイムになると困るな、、と、、(笑)
( ついに本音を出しやがったなー!)
JK: あ、メトも大変なんですか?スカラはものすごく厳しいんですよ。真夜中になったら照明とかも落としてしまう!位の勢いです。
PG: いや、メトはそこまで厳しくはないですけれども、、(笑)
JK: スカラで今シーズン『ローエングリン』を上演した際、ルネと共演だったんですけれども、
モノローグのシーンが上演回を重ねるごとに長くかかるようになってしまって、最後の回だったか、
歌っている時に舞台袖でルネが”早く!早く!時間がないぞ!”って時計を指す仕草をしてるんですよ。
完全に公演が終わったのが冗談でなく、本当に丁度夜の11時59分何十秒、とかで、あの時はほんと冷や汗かきました(笑)
PG: 先ほどテキストの曖昧さ、という話が出ましたが、もう少し詳しくお話願えますか?
JK: 言葉が、、ドイツ人の我々でも意味がわかりにくいものがあるのです。現在使われているのとは違う意味で使われていたりとか、、。
それから、ワーグナーが発明した独自の単語というのもあって、、。
PG: え?独自の単語ですか?『パルシファル』から何か例を挙げていただけますか?
JK: んーと、、んーと、、ちょっとすぐに出てこないのですけれど
 と、カウフマンがパペに救いの手を求める眼差しを送るが、パペは”君が撒いた種だからね、僕は知らないよ。”とばかりに無言。)
JK: んー、すみません、今ちょっとすぐに出てこないのですが、例えばリングでジークフリート(と言ったと思います)が母親のことを形容する言葉、
 といってその単語を発音してくれたのですが聞き取れませんでした。)
これは文字通りの意味にとると”雌の鹿”という意味で、”雌の鹿みたいなお母さん??何だそれ??”と思ってしまいますけれども(笑)、
多分、彼女の雰囲気を伝えるためにワーグナーが独創した単語なんですね。
特にオペラの場合は音があって、例えば4つの音符にある意味の言葉をのせたい、という時に、それにぴったりの既存の言葉がないと、作ってしまえ!ということになるのだと思います。
 とここで、ガッティが○○もそういう造語?とカウフマンに確認する場面あり。
ちなみに『パルシファル』の中では、ニ幕でクリングゾルが歌うEigenholdeなどがカウフマンの言っている例にてはまるかと思います。)
FG: というようなことで一つ一つの単語を叩き割ってその意味をみんなで確認し、共通の解釈を持つというのは気の遠くなるような作業なのです。
JK: で、そうやって何度も話して、それで行き詰った時にはもう一度音楽に戻って来るのです。
そうすると、言葉だけを聞いて議論していたら全く答えが出なかったことが、いとも簡単に解決する、ということもあります。
DG: そうですね、スコアを見れば、音楽を聴けば、あるパートが歌っている時にそれに伴って演奏している楽器はどれか、とか、
そういうことに注意を払うと、自ずとその意味が見えて来る時があります。
JK: でも、言葉というのは厄介で、一つドアを開ければまた新しい問いのドアが二、三個待っていたりして、それはまるで迷路のようです。
ワーグナーが書いた言葉の意味を求めてのあくなき戦い、という感じですね。
PG: ルネ、あなたが歌うグルネマンツについてお話いただけますか?どんな役柄ですか?
RP: どんな、って、、この物語のストーリーテラーです。
PG: ではヨナス、パルシファルは?
JK: パルシファルは一幕目では中身のない殻のような存在です。
しかしニ幕目に、クンドリに1時間だけ私と過ごしましょうよ!と言われ、拒むものの、
母親を擬したたった一つのキスにより、”共苦”を知ることで最高の知を得るのです。
たった一回のキスでこんなことになってしまうのですから、1時間クンドリといたらどんなことになってしまうんでしょうね(笑)
前奏曲の10分でたちまち誰もがこの物語の世界にトランスポートされます。
そして、ワーグナーが自分の書いた物語、音楽を深く深く信じていることが、この前奏曲を聴くだけでわかるのです。
パルシファルはこの物語の中で成長し、苦悩と死への理解を得ます。
もし、皆さんが仮にどんな無宗教であったとしても、この作品を聴く間だけはワーグナーが皆さんを信仰深い気持ちにさせるはずです。
DG: あのキスの場面には『トリスタン』にも似たホルンとチェロの長三和音が登場し、これはワーグナーのトレードマークと言ってもよいものです。
ワーグナーの全音階と半音階の使い方の上手さには驚嘆しますが、ここでの半音階の使い方はその一例です。
PG: 今日はカタリーナ(・ダライマン)が欠席なので、フランソワ、クンドリ役について少しお話願えますか?
FG: クンドリはこの物語をテントに例えるなら、ポストの役割をしています。
彼女はパルシファルのナイーブさ(英語で言うところのナイーブなので、ものを知らないうぶさ、愚かさ)につけこみ、
パルシファルの母の死を利用して、パルシファルの堕落をたくらみます。
PG: 彼女はやはり本気で彼を転落させようとしているのでしょうかね?
FG: 私はそうだと思います。アンフォルタス、ひいては世界全体への”共苦”と官能的な”誘惑”の一騎打ちです。
そしてこの葛藤を経て、何の理由もなく白鳥を殺すようなことをしていたパルシファルが救世主となっていくのです。
クンドリが何の救済もなく、何度も何度も男性を誘惑する役割に引き戻される、これは仏教の輪廻転生の考えとも繋がっています。
DG: また、一幕、ニ幕、三幕にクンドリが与えられている音楽を聴くと、音楽の中に彼女の魂の救済が描かれていることに気づきます。
先ほどのお話の中にワーグナーの造語の話がありましたが、実はヴェルディも、そこまで極端ではありませんが似たことをやっているんですよ。
通常のイタリア語で使われるのとはアクセントの位置を変えていたり、とか、後、例えば『仮面舞踏会』で、
Sento l'orma dei passi spietati と歌われる箇所があります。
(注:第二幕、リッカルドがレナートにアメーリアを無事に家に届けるように、また顔は見ないように指示した後の三重唱で歌われるレナートのパート)
これは情け容赦ない危険な足音が迫って来るのが聴こえる、というような意味なのですが、足音は”聴く”ものであって通常はsento(感じる)と言う言葉は用いません。
しかし、”その足音が体に感じられる”という表現は、あの場面の恐怖を良く表現しているなと思います。
 とついそんなことなら俺らイタリア人もやってるぜ!と対抗してしまうお茶目なガッティ。
でもちょっと待て。『パルシファル』は台本を書いたのもワーグナーですが、『仮面舞踏会』のリブレットはヴェルディでなくソンマじゃないのよ!)

とここでタイムアウト。
カウフマンとジラールが喧々諤々と議論を交わしつつも和気藹々とやっている風で安心いたしました。
後はパペとガッティの関係修復のみ。
ダライマンも初日までに何とかいつものコンディションを取り戻して欲しいと思います!

(冒頭の写真はリハーサル時のもの)

MetTalks: Parsifal

Jonas Kaufmann
René Pape
Daniele Gatti
François Girard
Moderator: Peter Gelb

Metropolitan Opera House

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