Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

Sirius: LA TRAVIATA (Mon, Mar 29, 2010)

2010-03-29 | メト on Sirius
その記憶が悪夢となって毎夜蘇るのではないかと思われるほどひどかった、
『椿姫』のドレス・リハーサルでのスラットキンの指揮。
純粋な演奏水準だけの話をしても、あんなにひどい演奏しか出来ないのなら、
私がスラットキンなら指揮を降りるだろうし、私がゲルブ支配人なら、即効で彼をクビにしたと思う。
それも、ドレス・リハーサルまで待たずに。
しかし、驚くべきことに、この3/29の、ゼッフィレッリの演出でステージングされるのは今シーズンが最後の『椿姫』の初日に、
恥ずかしげもなく指揮台にあらわれたのですから、このずうずうしさには本当に驚きます。

しかも、初日の演奏の次の日あたりに、ヘッズのブログ(もちろんチエカさんの!)で、
当人が自らのブログに、とんでもなくふざけたことを書いている事実がすっぱ抜かれ、
おそらく、それが(自ら辞退したにしろ、追い込まれたにしろ、、)、決定打になったのだと思いますが、
ランのその後の公演には戻ってこない旨の発表があったのは、こちらの記事に書いた通りです。

演奏水準が低いのは、それだけでも罪深いですが、
そうなるのを自分でわかっていながら、”自分が学べる良いチャンス”という理由だけで、
キャストを、オケを、観客を犠牲にし、それを恥ずかしげもなく自分のブログで吹聴しているなんて、
相当頭が鈍いか、相当傲慢か、そのどちらかです。いや、その両方かも。

彼が現在デトロイト交響楽団の音楽監督をつとめていることは前の記事で書きましたが、
これほどデトロイト市民にとって屈辱的なことはないでしょう。
デトロイト交響楽団のパトロンや常連客は、今後、どんな気持ちで演奏を聴けばよいのか?
そんな市民の気持ちを反映して、ある意味、出るべくして出たのが、
デトロイト・フリー・プレスの音楽批評担当のマーク・ストライカー氏による記事です。

この記事がスラットキンのブログから引用しているところによると、
当初予定されていた『ヴェルサイユの幽霊』が『椿姫』に変更になった時点では、
演目が変わるならやりたくない、という意向だったようですが、
しばらくするうち、オペラハウスの自分以外の全ての人間が『椿姫』を良く知っているから、
自分は彼ら先達から大いに学べるのではないか、という、例の論理に行き着いたようです。
”色んな資料をひっぱりだし、ヴェルディについて、また作品についての本を読んだ。
いくつかの音源を聴いて、それは役に立った部分もあったけれでも、さらに頭が混乱することにもなった”(おいおい、、)
スラットキンがブログで書いている言葉をそのままとるなら、
結局、自分の中で、『椿姫』の演奏のスタイルを完全に消化できなかったことに最大の敗因があるようです。

でも、『ヴェルサイユの幽霊』が『椿姫』に変更になったと言ったって、
一ヶ月とか数週間前に変更になったわけではなく、2008年の11月半ばにはわかっていたことですから、
まる一年以上の準備期間があったんですけどね、、。

ストライカーはしかし、”最初の直感に従って、『椿姫』は断った方が良かったのかもしれない。”としながらも、
スラットキンが過去にメトで指揮をした『西部の娘』、『サムソンとデリラ』がいずれも高い評価を得たことを強調。
おそらく、『椿姫』のような定番レパートリーでは十分なリハーサル時間をとれなかったこと、
また、ゲオルギューの勝手な行動も事態を良くはしなかったであろうことを推測し、
メトには戻ることはないかもしれないが、彼の最も大事な仕事はデトロイトにあって、
デトロイトには全てを注いでくれている、彼はきっとこれを乗り越える、と結んでいます。

これだって、言わせてもらえば、十分なリハの時間がとれない、ゲオルギューみたいな人に合わせていかなければならない、
なんていうのは、彼女以外のキャストも、オケも、同じなんですけどね。
いいですね、スラットキンはこうやって擁護してくれる人があって。
メト・オケなんて、『椿姫』だけでなく、新演出もの以外の演目すべてをそのようにして毎回乗り越えているわけですけど、
演奏が悪かったら、”演奏悪い””オケ下手”の二言で終わりですから。誰もリハが少ないことに同情なんてしてくれません。

地元の新聞がこうやって温かく書いてくれるのは一見良いことのように見えますが、
そのぬるいメンタリティが今の彼の姿勢につながっているのでないことを祈るばかりです。

スラットキンの指揮にご興味のある方は、4/17のマチネの公演がラジオで放送され、
ネットでの視聴も可能ですので、そちらを聴いて頂いて、、と思っていたのですが、
それが叶わぬものとなった今、この3/29の初日の公演の音源を皆様と分かち合いたいと思います。
私一人で抱えるには、あまりに重過ぎる悪夢ゆえ、、。

すべて第二幕から。
なぜ第二幕かというと、それは私が好きだからです。
好きな幕で聴くと、さらに悪夢にうなされる度500%!

まず、ヴァレンティが歌うアルフレード。
ここでも細かいディスコーディネーションが観察されますが、
ヴァレンティよ、スラットキンの方を見ても無駄です!
なぜなら、スラットキンはあなた”から”何かを教えてもらいたくて指揮台に立っているのだから。
普通、メト・デビューにあたる公演で、特に若手でこのような大役だったなら、
指揮者のサポートを受けることはあっても、サポートしてあげることはないと思うんですけどね、、、。
今回で悪運を全て使い果たしたと思って、この先、頑張ってください。




しかし、まだまだ、これは序の口。
ここからスラットキン・ワールドが全開になります。
ヴィオレッタはもちろんアンジェラ・ゲオルギュー、ジェルモン父はトーマス・ハンプソンです。
それにしても、心の動揺からか、ハンプソンがここまで音程を外しているのは本当にめずらしい、、。
そして、彼の歌が崩壊してしまうあたりは涙なくして聴けません、、。
ゲオルギュー、ハンプソン、こんなベテラン2人が、
ここまで合わせて歌うのに苦労する『椿姫』のオケの演奏なんて、本当に尋常でないです。

さ、もう、何もいいますまい。ただ、ただ、音源に耳を傾けて頂ければ、
私がドレス・リハーサルで味わった恐怖を感じていただけることと思います。








Angela Gheorghiu (Violetta Valery)
James Valenti (Alfredo Germont)
Thomas Hampson (Giorgio Germont)
Theodora Hanslowe (Flora Bervoix)
Kathryn Day (Annina)
Eduardo Valdes (Gastone)
John Hancock (Baron Douphol)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Juhwan Lee (Giuseppe)
John Shelhart (Messenger)
Conductor: Leonard Slatkin
Production: Franco Zeffirelli
ON

*** ヴェルディ 椿姫 ラ・トラヴィアータ Verdi La Traviata ***

HAMLET (Sat Mtn, Mar 27, 2010)

2010-03-27 | メトロポリタン・オペラ
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


初日の公演から約10日。二度目の『ハムレット』、今日はHDの収録日です。
初日はディレクターズ・ボックス(舞台に一番近いボックス席)からの鑑賞で、
舞台の総面積の約1/4が見えませんでしたので、今日のグランド・ティアーからの鑑賞では全貌が確認できるのが楽しみです。

相変わらず導入部の合唱の前の金管にこけそうになりますけれど、
これでも初日と比べたらだいぶよくなったという事実は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、、。
初日の記事にも書いた通り、これはファミリー・サークルという、
メトで一番上階にあたる階の、サイドの舞台よりの座席をいくつか潰して、
そこにサブの奏者で編成したバンダを置いて演奏しています。
音響上の効果を狙ったんでしょうけど、効果云々の前に演奏がひどすぎるので、
これならいっそピットにいる奏者に演奏してもらった方がましだったんじゃないかと思う。



『ハムレット』は狂乱の場が割と知られているのと、
それから、多分、こちらの影響が絶大だと思うのですが、デッセイとキーンリサイドが共演した、
リセウ劇場での映像がDVDで発売されていることもあって、あまり上演頻度の少ない演目と思われていないかもしれませんが、
実は滅多に劇場で全幕上演されることのない作品で、メトでは今シーズンを除くと、
その歴史上、たった9回(シーズンでなく9公演)しか上演されたことがなく、なんと、1897年以来の上演になります。
なので、劇場であれ、HDであれ、この作品を見る機会を与えられている私達は実に幸運といえます。



その上演頻度の少なさが影響しているのか、合唱が今ひとつぴりっとしない感じがあるのですが、
そんな小さな不満を吹き飛ばすのが、ソリストの中で一番最初に歌うモリスの新王クローディアスです。
もちろん、いい方の意味でなく、悪い方の意味で。
この歌を聴くと、昨シーズン、あんな『ワルキューレ』を聴けたのは本当に奇跡だった、、と思えてきます。
これはもうワブリングどころの話じゃありません。私の中ではワブリングの定義というのは、
あくまで中心線=本来歌うべき旋律がとりあえず判る状態で、
声がその旋律の上と下を行ったり来たりすることで、それだけでも十分に聴くのが辛いことなのに、
彼のこのクローディアスでの歌唱はもうその中心線が見えない、
つまり、あらかじめこの作品を知らなければ、ほとんど旋律の解読が不可能な状態です。
私は自分でもそれほど歌手の引退時期についての基準が厳しい方ではなく、
絶対的な歌唱水準が下がっても、代わりに何かオファーできるものがあるなら、
舞台に立ち続けていてくれて一向に構わないと思っているのですが、
モリスに関しては、その私でもさすがにきつくなって来ました。



しかし、一方でキーンリサイド。
彼はこのHDの日の公演で燃えつきるつもりで来たな、というのを感じさせる熱唱です。
まだ、このHDが終わった後も、何公演か残っているんですけれども、まあ、いいです。
彼は精一杯の声量を使えば、決して声が小さいわけではなく、
今日のこの演目のオケを越えて十分、私が座っているグランド・ティアー(三階席。
でも、その高さよりも、最前列に座っても肉眼では歌手の表情は見えないという、
舞台からの距離の長さの方が大変だと思う。)まで音が届いて来ていました。
もちろん、この歌い方を全幕通しで毎公演行うことは、絶対に無理で、それをやったら、早晩喉を潰すはずで、
これはあくまで、HDのために、(もしくはHDがあることで彼の気持ちに火がついて)特別に出た歌唱なのだと思います。
彼がその点への自覚が十分にあるのは、初日にはもう少しセーブして歌っていたことや、
レクチャーで語っていた内容からも裏付けられます。
今日は、彼の方も、”津波なオケ”に負けない声量でした。



それが可能になったのは、声のコンディションが良かったからでもあって、
初日に比べると、中音域以上での声の粗さがあまり気にならなかったです。
むしろ、今日の場合、彼がメトのサイズのためにストレッチしているのがわかるのは、低音域の方だったかも知れません。
低音の方がオケを越えて声を届かそうと、音が押し気味でした。

それから、前回の感想で、これを書くのを忘れていたのですが、
彼のフランス語のディクション、これは、本当にすごくいい。
響きの美しさはもとより、劇場の中でも、きちんと発音している単語の一つ一つが
クリアに観客に聴こえて来ているのが、素晴らしいと思いました。
フランス人のお友達を伴ってHDで鑑賞したヘッドの証言によると、そのお友達曰く、
この日の歌を聴く限りでは、”フランス人ネイティブの歌手が歌ってます。”と言われても、
あ、そうですか、と思う位のディクションの良さなんだそうです。



この『ハムレット』に関しては、彼の中で相当出来上がった人物解釈があるからか、
演技に関しては、初日とアプローチにほとんど違いがありません。
この作品におけるハムレットはあまり他の登場人物とインタラクションがなく、
せいぜい、母親のガートルードのシーン、強いていうならさらに先王やオフィーリアとのシーンで、
多少相手の歌手に合わせた調整が必要になるくらいで、それらのシーンも、
作品全体における比率で言うと、とても小さく、割とハムレット自身で完結している点に理由があるように思います。



最初から最後まで、彼の演技力は全くだれる場面がなくて、それもすごいところなのですが、
なかでも最もフォーカル・ポイントとして、印象的な演技が見れるのは、
第二幕の第二場、最後にワインを頭から被るシーンと、第三幕の母親との対決のシーン。
前者は前述のリセウ劇場の公演のDVDを見ると、ちょっと引くんですが、
舞台の上で見ると少し印象が違って、先王の亡霊に導かれているだけで実は頭はまともなはずのハムレットが、
きれて、ここから微妙にあちらの世界に足を踏み入れるような感じがする大事な場面になっています。
ここで、父を失った悲しみ、彼を亡き者にした先王と母親への怒り、
復讐を遂行できない自分へのフラストレーションを感じさせ、観客は彼に憐れを感じるのですが、
私には、”まともな”もしくは”今までどおりの”ハムレットを感じるのはこの瞬間までで、
ここから、キーンリサイドが、ハムレットがまともなのか少しおかしいのか、
観客にはすぐに判断できないような、微妙なバランスの上でハムレット役を演じて行くのがとても興味深いです。



特に母親と対峙して、その途中で父の亡霊を見る(そして母のガートルードにはそれは見えない)場面は、
ハムレットの父への思慕がせつないんですが、ほとんど、彼が正気を失い、
狂気の方に足を踏み入れているように私には見えます。
レクチャーの記事で先取りして紹介してしまいましたが、本来はこの3/27のものですので、
再度、同じ場面の音源をこちらに貼っておきます。




オペラの『ハムレット』について、キーンリサイドが、”シェイクスピアの『ハムレット』とは別物”と発言していたのは、
レクチャーの記事に書いた通りですが、彼が挙げていた皮肉、諧謔、ユーモアの欠如といった高次なものの他、
もっと単純な筋の部分でもかなり端折られていたり、話の流れを簡単にするために変更されている部分があって、
シェイクスピアの原作を知っていれば、知らず知らずのうちにその部分を頭で補ってしまいますが、
オペラの方から入ると、例えば、どうして、オフィーリアの兄のレアティーズも
ハムレットとオフィーリアの仲を温かく見守っているようだし(これがそもそも原作と少し違う)、
ただ待ちさえすれば、オフィーリアがハムレットと結婚する雰囲気なのに、
なぜ、オフィーリアの父親がクローディアスと図って、先王を殺し急がなければならないのか?など、
辻褄が合わなく感じる部分が結構あります。
原作ではこのあたりの微妙な事情とか、各登場人物の心の機微が巧みに描かれているので、
原作と比べてしまうと、なんじゃこりゃ?と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。



でも、一方で音楽がついているために効果があがっている場面もあり、
私は結構オペラにおけるオカルト場面が好きなので、
初めてハムレットが父親である先王の亡霊と交信し、父親への思慕の念とともに、
絶対に父上の敵をとってあげるから!と決意するまでの場面(第一幕二場)、
それから、もちろん、ハムレットと母親との対決場面(第三幕)、
そして、第四幕のオフィーリアが自らの命を絶つシーン、この三つは好きです。

コーリエとライザーの演出ですが、一つの場面を除き、舞台を非常にシンプルにしている以外は、
それほど、オペラの内容からかけ離れたことをしているわけではないように思います。
目に美しい舞台でも全くないですが。

今時なぜだかよくわからないのですが、セットが全部手動で、
猛烈に重量のありそうな木材の壁を、後ろで大道具のスタッフが必死に押したりしているのが角度によってしばしば目に入りました。
セットの壁の高さに対して、それを支えている木材部分が浅すぎて、非常に不安定そうなのが見ていてどきどきしましたが、
実際、リハーサルの途中では、あの壁がまるごと倒れてきて、プロンプターボックスを直撃したそうです。
おそろしや、、、。



先に”一つの場面を除き”と書きましたが、しかし、その一つの場面がなかなかに致命的です。
それは、オフィーリアが命を絶つ第四幕で、演出家が施した大きな変更には、私は全く賛成できません。
オフィーリアの狂乱の場が含まれるこの幕は、
オリジナルのリブレットどおりだと、柳やらに囲まれた水辺のそば、という設定のはずで、
それゆえに、狂乱の場に出てくる水の精が云々、、という歌詞とも呼応するし、
また音楽にもここがオフィーリアが入水していくんだな、とわかる部分があるんですが、
設定を水辺でなく、オフィーリアの部屋に変えてしまったこのプロダクションでは、
せっかくのその部分の音楽が、全く意味を持たないのみならず、ぎこちなさすら残してしまっているのが残念です。
(なぜなら、水がないから、そこに入っていく演技が出来ず、
よって、オフィーリアは、舞台上、つまり部屋の中をうろうろしているだけなのです。)
このことにより、この場面が生み出せたはずの幻想的さが薄められているのは間違いありません。
狂乱の場の前にある農民らが歌う部分はカットされていますし、本当は少女達に向かって語りかけているという設定も、
この演出では軽く無視、です。



オフィーリア役を歌ったペーターゼンは、二度オフィーリア役で聴いて私が考えるところでは、
巷の評がなんであれ、彼女は全然コロラトゥーラ・ソプラノなんかじゃないと思います。
コロラトゥーラ・ソプラノと自称・他称するには、
一に輝かしい、もしくは直ぐに彼女のそれとわかる響きの美しい高音がないといけないし、
第二に、その言葉どおり、コロラトゥーラの技術がないといけません。
ところが、残念ながら、ペーターゼンはこの二点とも、少し足りない部分があるのです。
特に彼女はこのオフィーリア役で必要とされる最高音あたりの音には手を焼いていて、
高音が絡むコロラトゥーラが全て怪しげになる傾向にあります。
それから、今日はHDのプレッシャーもあったんでしょうか?
第二幕一場のモノローグの場面なんか、高音が続くとどんどん喉が締まっていっているような感じがあって、
かえって第四幕のようにドラマにのめりこんで、技術のことに気持ちが回りにくくなった時の方が、響きが綺麗でした。
ただし、私は彼女をこの二点をもって”だめだ、このソプラノは。”とばっさり切り捨てるには抵抗があって、
上の二点を除いた部分では、むしろ、かなりいいものを持った魅力的な歌手だと思いました。
まず、一つは音色。苦労して出さなければならないレンジに行く前の彼女の声の音色は
独特の人間味、温かさがあって、すごくいいです。
ただ、少し音の安定感、統一感を欠くのは、このオフィーリア役だからか、それとも、、?
それから、二点目、こちらの方が、私をより魅了した点なんですが、
大技でない、一見なんでもなく思える旋律の扱い方、感情の込め方が非常に繊細で音楽性に富んでいる点です。
狂乱の場の中で言うと、第二ヴァースの頭のLa sirène passe et vous entraîne sous l'azur du lac endormi
(水の精が側を泳いで、寝静まった湖の水の底にあなたを引き摺りおろし、、)なんか、すごい表現力だと思いました。
後、彼女はデッセイと違って、演技が全く前に出てこない感じがあるんですが、
私はオフィーリア役には、彼女のアプローチの方が好きです。
この狂乱の場、私は『オテッロ』のデズデーモナの柳の歌からアヴェ・マリアのくだりとの類似性を感じるんですが、
考えてみれば、二人とも、全く潔白の身で、全く身に覚えのない理由により、本当は彼女たちを愛している夫や恋人に責められ、
片や夫に殺害され(デズデーモナ)、片やそれを嘆き悲しんで自分の命を絶つ(オフィーリア)ので、
当然のこととも言えるんですが、柳の歌~アヴェ・マリア、そしてこの『ハムレット』の狂乱の場いずれも、
自分の愛する人に自分という人間をわかって・信じてもらえない絶望とそれに伴うあきらめが、
彼女達をむしろ心の平穏と清らかさの高みに持っていっている感じがするのが、類似性を感じる理由です。
ですから、あんまりハムレットを責めたり、心が荒らいでいる感じがする歌や演技ではなく、
そこを超越して心が凪いでいるような感じが伝わってくる演技の方がふさわしいのでは?と思っていて、
それがDVDで見るデッセイの歌唱と演技は少し情熱的過ぎる感じがして、
ペーターゼンのアプローチの方がいいと感じる理由です。
とにかく、ペーターゼンに関しては、いい歌手なんだけど、
このオフィーリア役は100%合った役ではないな、というのが私の考えで、
彼女は5月の『ルル』で再びメトの舞台に立つようなので、それを楽しみに待つことにします。



初日のシリウスの放送でも、このHDでも、ガートルード王妃を歌ったラーモアの評判が良かったので、
何でだろう?とずっと思っていたのですが、この日の(HDと同じ音源の)マチネのラジオでのリピート放送を聴いて、
確かに上手く録れているな、と思いました。
彼女は圧倒的にマイクを通した方が良く聴こえます。特にメトでの生と比べると。
というのは、彼女は決して声のサイズが大きくない、
これは単にデシベルレベルでの話だけでなくて、声自体が持っているサウンドも含めそうなんですが、
彼女の優れたところは、だからと言って無理に押そうとしないところです。
なので、劇場で聴くと、それほど押しの強い歌でないんですが、
録音で聴くと、非常に破綻の少ない、綺麗な歌唱になっています。
不気味なおでこ付きのウィッグと派手な化粧、紋切り型の意地悪女系演技で随分損してますが、
実はこのラーモア、素はとっても綺麗な人ので、それを有効活用しないとはもったいない話です。
私が演出家なら、メトではあのへんてこなかつらをとりやめにして、限りなく地で登場させると思う。
その方が、このガートルード王妃自身の悲劇も際立っていいと思うのですけれど。
(下の写真がかつらと怖い化粧前のラーモア。)



レアティーズ役を歌ったスペンス、先王役のピッツィンガー、
ホレイショー役のボナー、マーセラス役のプレンク、墓堀り人夫の2人といった、
男性の準主役、脇役がしっかりしているのは初日と同じ。
スペンス、ピッツィンガーの2人が存在感があるのはもちろん、
他の四人が脇役に関わらず、演技まで非常にしっかりしているのは実に頼もしいです。
プレンクはリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムに在籍中で、
主役を張っていくカリスマには欠けていますが、ここ数年間に出演した『トリスタンとイゾルデ』の水夫役、
『三部作』の『外套』の音楽売り役、そして今回のマーセラスといずれも非常に堅実な歌を聴かせています。
彼は映画『The Audition』にも出演していたんですけれども、
そのあまりに地味な、存在感の希薄さゆえにお気づきにならなかった方も多いかと思うのですが、
彼のような脇をきちんと出来る歌手というのも、劇場には絶対に不可欠な存在だと思います。



デッセイの降板で一時はどうなることかと思いましたが、
キーンリサイドを筆頭とする男性陣の健闘により、決してがっかりさせられない内容の公演になりました。
オケの演奏は全くもってフランス的ではないですが、これはこれで”甲冑を着た『ハムレット』”という感じで、面白い演奏です。
それに、音楽面では完成度が高くないといわれるこの作品ですが、力のある歌手やオケを得れば、
舞台作品としては、なかなか面白いところのある作品だと思います。
先にも書きましたが、劇場ではそう頻繁に鑑賞できるレパートリーではないので、
特にリセウでの公演のDVDも鑑賞したことがない、という方は、ぜひHDをご覧になっていただきたいと思います。

(今回の演出とは少し内容が違っている部分もありますが、本来のオペラのあらすじはこちら。)

Simon Keenlyside (Prince Hamlet)
Marlis Petersen (Ophélie)
James Morris (Claudius)
Jennifer Larmore (Gertrude)
David Pittsinger (Ghost of Hamlet's father)
Toby Spence (Laërte)
Maxim Mikhailov (Polonius)
Liam Bonner (Horatio)
Matthew Plenk (Marcellus)
Richard Bernstein / Mark Schowalter (Gravediggers)
Peter Richards (Player King)
Joshua Wynter (Player Queen)
Chiristina Rozakis (Player Villain)
Conductor: Louis Langrée
Production: Patrice Caurier / Moshe Leiser
Set design: Christian Fenouillat
Costume design: Agostino Cavalca
Lighting design: Christophe Forey
Gr Tier C Even
ON

*** トマ ハムレット Thomas Hamlet ***

マイナー・オペラのあらすじ 『ハムレット』

2010-03-27 | マイナーなオペラのあらすじ
(2009-2010年シーズンのコーリエとライザーの演出では、このあらすじとは少し違って演じられる部分があります。
例えば4幕のオフィーリアの入水の場面はない、
5幕ではハムレットは自害するわけではなく、レアティーズに刺された傷によって死ぬ、など。)

下のあらすじはフランス語表記に基づいており、
アムレットは英語表記のハムレット、オフェリはオフィーリア、ラエルトはレアティーズ、
ジェルトルードはガートルード、クロードはクローディアスに対応します。


作曲:アンブロワーズ・トマ
原作:ウィリアム・シェイクスピアの同名の戯曲
台本:ミシェル・カレ、ジュール・バルビエ
初演:1868年3月9日、パリ、オペラ=コミック座

第一幕
デンマークのエルシノール城。王が亡くなって二ヶ月後、先王の弟で王位継承者のクロードと、
未亡人の王妃ジェルトルードとの結婚のファンファーレが鳴り響く。
先王の息子でデンマーク王子のアムレットは、祝宴には出席しない。
彼は後悔と自信喪失にさいなまれながら、母親が父の死後あまりに早く結婚することに激しい嫌悪感を抱いている。
宮内長官ポロニュースの娘オフェリの登場によって、アムレットの物思いはさえぎられる。
彼女はアムレットを愛しており、彼が宮廷を去るつもりだという噂を聞いて胸を痛めている。
彼は今も変わらず愛していると言って彼女を安心させる(二重唱“Doute de la lumière”)。
そこへオフェリの兄ラエルトがやってくる。
彼はアムレットに、公用でノルウェイに行っている間、妹をよろしくと頼む。
兄妹は結婚披露宴に行ったが、王子は一緒に行かない。
そこへ友人オラースが来て、先王の亡霊が目撃されたと告げる。

夜、ひとり城壁に登ったアムレットは父の亡霊と対面する。
亡霊は息子に向かって、自分を毒殺したのはクロードだから、必ず復讐せよと命じる。
アムレットは父の言葉に従うことを誓う。

第二幕
オフェリは、アムレットの無関心な態度に悩んでいる(“Sa main depuis hier”)。
彼女も宮廷を出たいと思っているが、ジェルトルード王妃はオフェリになら王子を憂うつから救えると考えている。
クロードが登場する。彼もまたアムレットのおかしな振る舞いに気づいている。
王妃はもしかしたら王子が先王の死の真相に気づいたのではないかと疑うが、
クロードは「単に頭がおかしくなっただけだ」と言って王妃を安心させる。
アムレットが入ってくるが、自分を「息子」と呼ぶクロードに激しく反発する。
そして今夜、芝居を上演する手はずを整えたことを伝える。役者が到着すると、
アムレットは『ゴンザーゴ殺害』を演じるように指示する。
毒殺を題材にした芝居を観れば、クロードとジェルトルードが罪を告白するのではないかと期待しているのだ。
疑念を抱かれないように、アムレットはおどけて振る舞い、役者たちに酒を勧める
(“Ô vin, dissipe la tristesse”「酒は悲しみを忘れさせる」)。

宮廷の人々が観劇に集まってくる。果たして芝居は思惑通りの効果を発揮した。
下手人が王位に就くと、クロードは烈火のごとく怒り出す。
アムレットは本心を気取られないよう、頭がおかしくなったふりをしてクロードの頭から王冠ひったくり、
その場にいた全員が恐怖に凍りつく。

第三幕
アムレットは生と死について思い悩んでいる。
自分はクロード王を殺すこともできたのに、そうはしなかった(“Être ou ne pas être”)。
そこに王本人が現れたので、王子は姿を隠す。
王は自責の念に駆られ、殺した兄の魂に向かって、神への取りなしを願う(“Je t’implore, ô mon frère”)。
宮内長官ポロニュースがやって来て王をなだめ、ふたりは去って行った。
しかしポロニュースが父親殺しに加担していたこと知ってアムレットは愕然とする。
オフェリがジェルトルード王妃とともに近づいてくるが、王子はオフェリの誘いを乱暴に拒絶し、尼寺へ行けと言う。
そしてもう愛していないし結婚もしないと断言する。
王妃には、アムレットが心変わりした本当の理由がわからない。
オフェリが泣きながら立ち去ると、アムレットは母親に向かって父親殺しの事実を突きつける。
王妃は慈悲を請う(二重唱“Pardonne, hélas! ta voix m’accable”)。
その時、父の亡霊が現れ、母親を裁くのはお前のすべきことではないと諌める。
ジェルトルードには亡霊が見えないので、息子は本当に頭がおかしくなってしまったのだと思い込む。

第四幕
オフェリは発狂した。
自分はアムレットと結婚していると思っていて、放浪する男たちを誘い込む水の精の話を思い出す
(“Pâle et blonde dort sous l’eau profonde”)。
彼女は川に身を投げる。

第五幕
墓場でふたりの墓掘り人夫が、死を避けることができる人間は一人もいないと語り合っている。
そこへアムレットが来る。
彼はオフェリが死んだことをまだ知らず、あのようなひどい仕打ちをしてしまったことと、
自分のせいで彼女が狂ってしまったことで自分を責めている(“Comme une pâle fleur”)。
妹オフェリの仇を討つべく、兄ラエルトが現れる。
いざ決闘というところにオフェリの葬列がやってくる。
そこで初めて彼女の死を知ったアムレットは取り乱し、棺の前にひざまずく。
そして、剣を抜いてクロード王に突進し、王を殺してから自害して果てる。

(出自:メトのサイトから、2009-2010年シーズン作品の日本語によるあらすじより。
写真はメト2009-2010年シーズンのコーリエとライザー演出の舞台より。)

*** トマ ハムレット Thomas Hamlet ***

DR: LA TRAVIATA (Thurs, Mar 25, 2010)

2010-03-25 | メト リハーサル
この世の中の危険な組み合わせ。
馬鹿x刃物、
油x火、
塩素系漂白剤x酸性洗剤、
作品を良く知らない指揮者xディーヴァな歌手。
でも、その作品が世界初演ものでも、滅多に演奏されない演目でもなく、『椿姫』ってどういうこと?!?!

本当に信じられないことが、本当に起こってしまいました。それもメトで。
事の始まりは、今シーズンを最後にメトの舞台から姿を消してしまう、
(そういえば、2006年の日本公演ではこの演出を持っていったのでしたね。)
ゼッフィレッリ演出の『椿姫』のオーケストラ・リハーサルが始まったころでした。
”なんか、変、、まるで『椿姫』のスコアを知らないかのように指揮するんだけど、この指揮者、、。”
という声が囁かれ始め、やがて、リハーサルを重ねる毎に、
それは段々大きくなって、本公演の前までには大満開。
ヘッズの間ですっかり”間違いない。この指揮者、『椿姫』を知らないぞ!!”という説が流布してしまいました。
その指揮者とは、レナード・スラットキン。
ワシントンDCナショナル交響楽団、BBC交響楽団を経て、現在はデトロイト交響楽団の音楽監督です。
メトには91~92年シーズンの『西部の娘』、97~98年の『サムソンとデリラ』の2演目しか振っておらず、
実に12年振りの登場になります。

一方、ゼッフィレッリからの寵愛も厚いゲオルギュー(特にヴィオレッタ役においては)は、
あいかわらずリハーサルの時から小ディーヴァ風を吹かせていて、
リハーサル中に空調の設定温度をめぐってオケと対立。
リハ室から携帯電話でメトのマネージメントに”空調を私の希望通りにして頂戴。”と命令したらしい、という、
18年ほど前にメトから解雇された、とある黒人ソプラノを彷彿とさせるエピソードが伝わっています。

しかし、そんなディーヴァ病とは別のレベルで、スラットキンがもし本当に『椿姫』のスコアをよく知らないとしたら、
彼に対する不満が沸々と溜まって行ったことは想像に難くなく、
彼女が公演から降りたがっているのではないか?という噂が初日が近くなるにつれて出始め、
それと関係があるかどうかはわかりませんが、
ドレス・リハーサルの直前のリハーサルでは、彼女の代わりにヘイ・キョン・ホン姉さんがヴィオレッタを歌いました。

今日はそんな恐ろしい『椿姫』のドレス・リハーサルの日。
私はホンさんでも全然構わないのですが、一応、配られた資料を見ると、名前はゲオルギューのまま。
どうやら、出演するみたいです。

今日はものすごい台数の大型バスでメトに乗り付けた小中学生らと一緒に鑑賞です。
先生、どう答えるんでしょうね?小学二年生くらいの男の子に、
”先生、クルティザンってなんですか?”と言われたら、、。
これはオペラの最も肝心要な部分でもあるので、Madokakipが先生だったなら、
間違いなく、”クルティザンっていうのはね、、こういうことしてね、ああいうことしてね、、”と、
もれなく詳しく話してしまって、その子の親から児童に対する性的虐待で訴えられ、
教員免許剥奪の憂き目にあったりするんだと思います。

そんなことをぼんやり考えているうちに、シャンデリアが上がって、”これが噂の、、”のスラットキンが登場。
前奏曲の冒頭の弦の旋律が始まりました。
そして、夜会の部分。もうここまでだけで、一言。これ、すごい、、、。もちろん、悪い方の。
っていうか、音だけ聴いていたら、メト・オケが演奏しているとは思えないくらい。
私は『椿姫』は好きな演目の一つなので、メトでも、かなりの数聴いていると思いますが、
こんなにひどい演奏はいまだかつて聴いたことがありません。
まず、基本的なリズムがきちんととれていないし、音楽の流れが変わるところはひたすらぎこちなく、
いや、ぎこちないならまだ良い方で、変わるべきところできちんと変わってなくて、
まるで魂の抜けたねじ巻き人形のようにずっと同じ振り方をしている個所もありましたし、
それから、そんな状態では望むだけ無駄というものですが、
歌手の生理もわかっていなければ(どういう風に指揮すれば歌手が歌いやすいか)、
登場人物の感情の流れにのっとった適正なリズムというものもゼロ。
ヴィオレッタが登場してすぐのFlora, amici, la notte che resta d'altre gioie qui fate brillar
(フローラ、皆さん、残りの夜は別の楽しみで存分に盛り上がってくださいね。)なんか、
まるで早口言葉のよう。こんな早く歌えるか!っての!!

それから、この作品って、全編を通して、大事な個所で、
それまで休止していたオケが、歌手が歌い出した音に乗って音を出してくる、という、このパターンが結構あって、
例えば、第一幕の最後の、ヴィオレッタの聴かせどころ、Ah, forse'è lui(ああ、そはかの人か)の直前の、
E sdegnarla poss'io per l'aride follie del viver mio?
(この単なる快楽を追う私の生活のために、その喜びを無視できるかしら?)のfollieのllのところなんかが例ですが、
こういうところで、ことごとく失敗していて、死んでいるのかと思うくらいなかなか音が入ってこなかったり、
そうかと思うと、早々と入って来て、せっかくの歌手の声を掻き消してしまう、という具合です。

それから彼の指示が間違っている時もあるようで、
オケはもうこの作品は毎年毎年演奏して体に入ってしまっているので、
それぞれの奏者が、これは指揮者の言うとおりに演奏すべきなのか、
それとも、自分でこうだ!と思う方で演奏した方がいいのか、迷ってしまうようで、
この一瞬の迷いがまた演奏をがたがたにさせる要因になっているようです。
つまり、結論を言うと、噂どおり、本当にこの人はスコアを知らなかった!!



驚くべきは、このドレス・リハーサルの数日後にあった初日の公演について出た
NYタイムズのトマシーニ氏の評に紹介されている情報で、それによると、
スラットキンは、自らのウェブサイトで、自分は”もともとあまりオペラの指揮はしない”し、
”(椿姫は)今まで一度も指揮をしたことがない”と告白。
さらに彼が言うには、”(しかし、)メトでは自分を除いたあらゆる人たちがこの作品を知っているようなので、
そんな先達から、多くのことを学べるのではないかと思った。”
、、、、私ゃこれを読んで何かの冗談かと思いましたよ。
メトで指揮する人間が、”作品を良く知らないんだけど、何かを学べると思って”だと?!
ここはデトロイトじゃなくて、NYの、それもメトなんですよ、メト!
しかも、あんたは指揮者なんです、指揮者!!

彼には彼なりに、もともと予定されていた『ヴェルサイユの幽霊』が経済危機による予算カットのために、
突然『椿姫』に振り替えられた
、という言い分はあるでしょうが、
『椿姫』が自分の手に負えないと思うんなら、辞退してくれよ、と思います。
”何かを勉強するつもりで”メトに来られても困ります。
(もちろん、非常に高次な意味での”勉強”は除きます。そういう意味では何事だって”勉強”です。)
”私はこんなものを観客にオファーできる”。そういう人が舞台や指揮台に立つ場所がメトだと私は思ってましたが。
それにしても、いくら今まで実際に指揮をしたことがないと言ったって、『椿姫』は名作中の名作だし、
どんな指揮者だって、どこかの時点では初めてこの作品を指揮したはず、、。
だけど、彼の演奏のひどさはそんなレベルのものじゃないんですよ、もう。
メト・オケを、この作品で、こんなにひどく指揮できるなんて、本当、すごいと思う。



それから、彼の誤算は、”何かを学べる先達”の中にゲオルギューも含めていたらしい点です。
彼女は全くもってスラットキンに協力しようという意志はなく、
むしろ、私が見たところでは、わざと、怒り半分、意地悪半分で、好き放題をしている感を持ちました。
彼女は普段からも、割と感情にまかせて好きに歌う部分は確かにありますが、
本来は、きっちりとしたリズム感を持った人だし、音程も非常に正確だし、
ヴィオレッタは中でも彼女の最大の当り役の一つで、これほど長く歌って来たわけですから、
彼女の方は作品を知らないということは絶対にないし、実際、これまで私は彼女の歌で、
時には、なんだか身が入っていないぼやけた歌だな、とか、
時にはその逆に、白々しい熱唱がドラマを損ねているな、と思うことはありましたが、
決して彼女の歌を下手だな、と思ったことはありません。
それが、どうでしょう?今日のドレス・リハーサルでは、
”私の思い通りに、歌わせていただくざんす。ことによっては、ヴェルディが書いた音の長さも変えさせて頂くざんす。”
とばかりに、まるでヨーヨーのように好き放題な音の長さで歌っていて、
片や作品を知らない指揮者が振るのに合わせて演奏するオケの音があるわ、
その一方で、それも無視して、好き放題に歌っているソプラノがいるわで、ものすごい混沌の体を示しています。

先に私が怒り半分、意地悪半分、と書いたのは、決して当て推量ではなく、私は見たのです。
アルフレード役を歌うヴァレンティが、指揮者の指示とゲオルギューの歌の狭間にはさまって、
どっちに合わせればよいのかわからなくなった時、ゲオルギューが演技にかこつけて、
彼の両肩をつかんで、スラットキンが見えなくなるよう自分の真正面に向かせ、
”あなたは、あんな親父のこと、気にしなくていいの。私さえ見ていればいいのよ。”
という強烈なサイレント・オーダーを発していたことを!!

それに、二幕の最後では、一度幕が降りた後、もう一度全員が静止姿勢のまま、幕が上がるしきたりがあるのですが、
(こういう合唱を含めたグランドなシーンでよくあるパターンです。)
普通は二度目に幕が降りるまで、主役達も動かずにいるものですが、
ゲオルギューは、”あたし、こんなリハ、やってらんないわ!”とばかりに、
幕が降りる前に、握っていた扇子をぱしっ!ともう一方の手のひらに叩き付けた後、
ぷんっ!と横を向いて、一人ですたすた、、と袖に入って行ってしまいました。
キッズが大喝采を送っていて、また、後にあげる、ある理由があったこともあって、
ヘッズからも割と温かい拍手が出ていて、客に向かうカーテンコールでは非常ににこやかでしたので、
何か別のこと、まあ、はっきり言えば、指揮者ですが、に、相当きれていたのではないかと推測します。

で、私、実は、今日の指揮者も交えたこの事態は非常に残念に思いました。
なぜなら、彼女の歌唱ですが、音の長さをハチャメチャに歌っている点を除いては、実に素晴らしいもので、
彼女の声のコンディションがこんなに良い時に聴けたのは、私、初めてかもしれません。
とにかく、上から下まで、ものすごく響きが綺麗で、ほとんどのシーンで音が適切で、
(ただ、相変わらず、第三幕の、もう遅いのよ!E tardi!というところはやや下品なまでに音が大きく、間延びしている。)
ただただ、その音色を聴いているだけで満たされる個所、多数でした。
しかも、装飾技巧の部分が本当にきちんと音が一つ一つ立って聴こえるし、
このスラットキンの訳のわからない指揮に、稀に合わせて歌っている数少ない機会には、
そのオーナメテーションをすごい速さで歌っている時もあって、やっぱり技術はしっかりした人だな、と思います。
高音もパワフルで、すごく楽な感じで音が出ていました。
(ただし、一幕の最後は、彼女はいつもそうだと思うのですが、あげずに終わります。)
つまり、声だけの話をすれば、彼女は本当に、この日、絶好調だったのです。
2007年のスカラでの公演で、彼女も歳をとったかな、と思わせられる原因となった、
装飾部分の曖昧さや、声の重さは、今日は私は全く感じず、年齢が若返ったかと思ったほどです。
これで、もし、まともな指揮者が指揮台に立っていたなら、
ヴィオレッタに関してはすごいものが聴けたかもしれないのに、、と残念でたまりません。

彼女はディーヴァ的な行動の一方で(というか、だからこそ、と言った方がいいのかもしれませんが)
結構神経質なところがあって、特に初日とかHDとか、ハイ・プロファイルな公演になると、
ものすごく緊張してしまうようなんですが、
今回も例に漏れず、初日の公演は、シリウスで聴いたところですと、
例によって思い通りの音符の長さで歌っているのに加えて、
少しオーナメテーションなどが思い通りに行っていないように感じるところがありました。
また、高音域での音色も少し締め付けた感じがあって、ドレス・リハーサルの方が、ずっとずっと出来が良かったです。
良い指揮者と、このリハーサルの時のような声のコンディションが揃えば、
ゼッフィレッリのプロダクションへの最高のフェアウェル・プレゼントとなるでしょうに、、。

さて、ゲルブ氏が支配人になって以来、どこから引っ張りだしてくるのか、
年中いたるところに、見た目だけはやたらいい、歌手やら指揮者やらが混じるようになって来たのですが、
今日のアルフレード役のヴァレンティ、彼も、遠目には非常に男前です。
身長が6フィート5インチ以上(既出のNYタイムズの評による。約196センチ!)と、
数字だけ聞くと、それ、ちょっとでかすぎないか?と思いますが、舞台では非常に見栄えします。



彼に関してはシリウスで初日の放送を聴いてちょっと残念に思ったのが、
声の美しさがあまりマイクで拾った時にのらないタイプだという点です。
しかし、劇場で聴くと、少しヴェールがかかったような、なかなかハンサムな声で、非常にいい素質は持っています。
ただ、メトの舞台に、主役で立つにはまだ早い。これが私の正直な感想です。
というか、いくつか具体的な問題があるので、それを直してあげられるいい先生が付くとよいな、と思います。

まず、低音。ここに、顎を引きすぎた時に出るような、締め付けたような不自然な音色が混じって、
その上の魅力的な音域とコントラストがついてしまっています。
それから、高音。
綺麗に入ると、すごくいい音色をしているんですが、どうやったらそこに必ず入るか、まだ模索中に見受けました。
一旦高音が危うくなると、精神的に怖くなるのか、どんどん喉が締まっていくような感じがします。
逆にいい音が出ると、そこから調子がついていくみたいで、二幕の頭で、
アルフレードが、ヴィオレッタが2人の生活を維持するために、彼女の財産を食い潰している事実を知って、
なんて自分は恥知らずだったんだ!と歌い、退場する前のlaveròは最後に音を上げるか、
下げるかのチョイスがありますが、彼は上げて歌っていて、この日は楽に音が出ていたので、
訓練次第で、安定した高音が出るのではないかと思います。

それから、これはメト・デビューで緊張していたのもあると思うし、
指揮者があれですから、彼だけのせいではないのかもしれませんが、
少し歌に曖昧な部分があります。リズムにしろ、旋律の取り方にしろ、、
今からこういう”なんとなく”な歌を歌う癖はつけない方がいいと思います。
初日の公演では特に最初の方、緊張していたのか、音が高目に入っていた部分もありましたが、
リハーサルの時はそれは全然なかったです。



ハンプソンのジェルモンは私は全然好きじゃありません。
彼はゲオルギューとは違って、一生懸命、なんとかスラットキンに合わせようと努力はしていて、
それはなかなかいいところがあるではないの!と思ったのですが、
彼のジェルモンからは美しいレガートが感じられず、意図的にスタッカート気味に歌ったりする個所もあるものですから、
ぶった切ったソーセージのように旋律が細切れで、せっかくヴェルディが書いたメロディーの美しさが台無しです。
一言で言うと、音楽が流れない感じです。

また、二幕でのヴィオレッタとの対面の場面も、子供向けのような、わかりやすい平べったい演技で、
(観客に子供がいるから、と、気を利かせたわけではないと思う、、、。)
役に全然膨らみがなく、この場面と、その後の夜会の場面と、二幕に好きな場面が集中している私としては、
ちょっと不満が残りました。
それから、ハンプソンはどこかいつもかっこつけてるというか、自分を捨てきれてない感じがあって、
それで済む役ならいいのですが、パパ・ジェルモンでそれはいけません。

それにしても、この演出、いい歌手が歌えば、それをそっとサポートできる、
しかも歌手の力によっては無限大に良さが出る、いい演出なんですけどね、、。
これが退屈だとしたら、それは歌手の力不足でしょう。
どうして、来シーズン、ネトレプコはあのデッカーの新演出から逃げおおせて、
我々観客は逃げられないのか、、、よくわかりません。

もう一度、本公演を観るつもりでいますが、それまでに、スラットキンが良識を使い、
残りの公演を辞退してくれればいいのにな、なんて思ってしまいます。
そういえば、今、マルコ(・アルミリアート)が別演目で振ってるけど、代わりに彼が振ってくれたらどれだけいいか!
しかし、自分のサイトに、『椿姫』は良く知らない、なんて堂々と書けちゃう人ですから、
そんな良識を期待する方が間違っているのかもしれません。

ちなみに、怖いもの聴きたさのガッツある方は、4月17日のマチネ(昼の1時開演なので、
日本時間の18日夜2時)が、
ラジオで放送されますので、ネット等でもこの空恐ろしい”ラ・トラヴィアータ”
(まさに”道を踏み外した”の意にふさわしい、、。)を、お聴きになれるはずです。

後注:初日の公演のNYタイムズらの批評で叩かれまくったスラットキンは、
その後、二日目以降の公演を降りることになりました。詳しくはこちらを参照下さい。

Angela Gheorghiu (Violetta Valery)
James Valenti (Alfredo Germont)
Thomas Hampson (Giorgio Germont)
Theodora Hanslowe (Flora Bervoix)
Kathryn Day (Annina)
Eduardo Valdes (Gastone)
John Hancock (Baron Douphol)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Juhwan Lee (Giuseppe)
John Shelhart (Messenger)
Conductor: Leonard Slatkin
Production: Franco Zeffirelli
Gr Tier E Even
ON

*** ヴェルディ 椿姫 ラ・トラヴィアータ Verdi La Traviata ***

THE SINGERS’ STUDIO: SIMON KEENLYSIDE

2010-03-22 | メト レクチャー・シリーズ
”シンガーズ・スタジオ”は今年5回のプログラムが組まれていると、
11月のラセットとブライスが登場した日の記事に書きましたが、
その5回のうち、彼女達に加えて絶対に参加したかったのが今回のサイモン・キーンリサイドが登場する回です。
キーンリサイドは現在メトの『ハムレット』に出演中で、それとかませた今回の企画です。

このプログラム、会場がすごく狭い(日本の小学校の標準的な教室の大きさがあるかないか位、、)のが、
参加できる人間にとっては、招かれたアーティストと膝をまじえて話している感じで非常に楽しく魅力的なのですが、
それは即ち、熾烈なチケット獲得競争を意味し、とにかく早く抑えないと人気歌手の場合はあっという間にチケットはなくなり、
直前になると、”今日は講演会の日です。”というお知らせに、
予定が変わって参加できなくなった方は、主催者のギルドまですぐに連絡くださいという一文が入ったメールが配布されます。
それだけキャンセル待ちの人がいるということですが、誰が手放すもんですか!って話です。

『ハムレット』初日には、ハムレットが亡き父王の亡霊を見ているちょうどそのスポットに私の座席がはまっていて、
キーンリサイドの狂気の入り混じった瞳に30秒以上焼き尽くされるという、
彼のファンの方なら身悶えしそうな幸運に恵まれました。
いつもの慣わしで開場時間には出遅れたため、前の方の席は地元の年季入ったヘッズたちに抑えられてしまいましたが、
一番後ろの列で、ほぼキーンリサイドが座ると思しき場所の真正面に当る席を確保したので、
前に座っているヘッズの頭の隙間からアイコンタクトがとれるよう座席の位置を微調整(普通の折り畳み椅子なので、、)。
”息子よ、わしはここにおるぞ。”という”先王電波”でキーンリサイドの視線をこちらに向けさせようという、
姑息な意欲満々で、彼の登場を待つ。

すると、、、来たっ!!!

茶色い皮の短い丈のジャケットに、スニーカー、肩からかけた大きめの革鞄といい、超スタイリッシュ。
後ろから見たら20代の男の子に間違えそうです。
舞台で見て私がイメージしていたよりは少し小柄ですが、さっそうとすごい勢いでひな壇にあらわれました。
今日彼のインタビューにあたるのはラセットとブライスの時の鉄仮面ドリスコル氏に変わり、
ブライアン・ケロウという、こちらもOpera Newsのスタッフの方。
鉄仮面とは正反対の、とてもにこやかな、まさにオペラおたくの延長でOpera Newsの仕事に就いた雰囲気の方です。
というわけで、今日はケロウ氏をBK、キーンリサイドをSKと表記することにします。
今回も訳は残念ながら意訳です。イギリスの方というのはどうしてこういう風に
言い回しが気が利いているのだろう、と、そのまま訳したい個所多数だったのですが、
テレコなして、次々新しいトピックが出てきて、要点を抑えるので精一杯でした。我が記憶力の悪さを呪う!!

BK:『ハムレット』は1996年にジュネーヴで歌われたのが初めてで、2003年のコヴェント・ガーデン(ロンドン)、
リセウ劇場 (バルセロナ)に続いてメトが4回目になりますね。
まず、『ハムレット』なんですが、しばしば一級のオペラと見なされずに来ました。これはなぜでしょう?
SK: そうですね、例えば1970年代のイタリアの道路のようなもので、
ポットホール(舗装した表面にある窪み状のもの)がそこここにあるのが原因の一つかと思います。
つまり、音楽的にすごく美しい瞬間もあるかと思えば、そうでもない部分もあって、
音楽的に完成度の高いメジャー作品に比べると、凸凹が多いんですね。
それから二つ目は、イギリス人として申し上げると、オペラの『ハムレット』は
全くシェイクスピアの作品とは別物である、という点です。
オペラのリブレットの中のテキストには、シェイクスピアらしさは微塵もありません。
でも、これがシェイクスピアの作品だと思って聴かなければ、これはこれでなかなか良い作品だと思います。
BK: あとは一般的に19世紀のフランス・オペラはイモい、という一般的に流布している認識のせいもあるかもしれませんね。
SK: 私自身は正直なところ、19世紀のフランス・オペラについて意見を語れるほど詳しくは知らないですが、
そういう意見はよく耳にしますね。
BK: イギリスがご出身ということで、幼い頃からシェイクスピアの作品に馴染みが深くていらっしゃると思うのですが、
例えばシェイクスピアの演劇の公演を見ることは、オペラを演じる上で役立ちますか?
SK: 確かにそれなりにシェイクスピアの作品を鑑賞してきているとは思いますし、例えばサイモン・ラッセル・ビール
といった俳優達の演技は間(ま)までもが芝居の一部になっていて素晴らしいと思います。
ただストレート・プレイを見るのは楽しみ・喜びではあっても、オペラを演じる上での参考にはあまりならないと思います。
BK: 先ほどオペラの『ハムレット』はシェイクスピアじゃない、というご発言がありましたね。
SK:はい、シェイクスピアの原作にある皮肉とかユーモア、諧謔といったことが、
オペラのリブレットからはまるきり抜け落ちているんです。
これはシェイクスピアを原作にして作られたヴェルディの作品にもある程度あてはまることだと思います。
BK:今回、初日の数週間前にオフィーリア役のナタリー・デッセイが体調不良が原因で降板になり、
後半の数公演でキャスティングされていたマルリス・ペーターゼンが、ウィーンでの公演からすぐにNYに飛んで来て、
ほとんどの日程をつとめることになりました。
SK: 歌手というのは共演者のどたんば降板というのはある程度慣れているものですので、実際的な話をすれば、
歌手の交代自体は特に大きな問題ではないですし、相手が変わっても歌えはします。
もちろん、劇場のスタッフは大変でしょうが、、。
ただ、こと『ハムレット』に関して言えば、私はロール・デビューした時から、
この演目はナタリーのオフィーリア役としか組んだことがないし、
彼女にはいい意味での闘志とか爆発力といったものが歌にあるので、大変残念に思いますが、
体調不良ということですから、大事でないよう祈っています。
しかし、ある歌手のキャンセルは他の歌手のチャンスでもあります。
まあ、ハムレット役にはほとんどオフィーリアと一緒のシーンがないですし(笑)、
実を言うと私自身は初日の前まで、一度もマルリスとはリハーサルで一緒に歌っていないんです。
BK: 一緒にいてもたいがいハムレットはオフィーリアのことを無視していますしね(笑)
SK: そうそう(笑)。
芝居ということに関していえば、僕は(第三幕の)ガートルード妃(ハムレットの母親。
メトではジェニファー・ラーモアが演じている。)との対決の場面が一番好きですね。
ここはこの作品でも音楽的にももっとも良く書けている部分だと思います。
BK: あなたの歌唱や演技のアプローチはしばしば ナチュラリスティック(自然主義的)と言われていますね。
そんなあなたにとって現代のオペラのいる場所は厄介じゃないかな、と推測するのですが、、。
SK:そう、嫌でたまらないんです!!なんてね、、(笑)
僕はオペラが現代と離れた過去のアートフォームであるという意見には全く反対で、
今でも非常に現実に即した(relevent)なアートフォームだと思っています。
オペラで描かれている内容というのは、社会的、性的、政治的、括りはなんでもいいですが、人間の変化と革命です。
もちろん、オペラはそれをダイレクトに描くということはせず、婉曲に軽い羽根を使うように表現します。
だってそうでないと、当時の作曲家は仕事を続けることが出来なかったですからね。モーツァルトなんか良い例です。
けれども、そこで描かれている内容は、今の人間にも寸分違わず共通したテーマです。
BK: 小さい頃から歌をなさっていたのですね。これは自発的に、ですか?それとも両親の強制によるものですか(笑)?
SK: はい、セント・ジョンズ・クワイヤーのメンバーでした。だから演奏旅行で幼いときからNYには来ていましたし、
後はモントリオール、ボストンといった都市もまわったものです。もちろん、完全に母親の命令によるものです(笑)
今回のNYの滞在ではその頃のことが懐かしく、リハーサルと公演の間を縫って、教会に音楽を聴きに行って来ました。
オルガンです。プーランク、バッハ、、、素晴らしかったですね。偉大なヨハン・セバスチャン・バッハ!!!
BK: 大学はケンブリッジでいらっしゃって、なんと、動物学を専攻されていらしたとか?
SK: そうです。私にとっては、生き物、植物、水、、それらは音楽と同じくらい大事なことなんです。
一時期は真剣にそちらの方が自分の進む道だと考えていましたが、こういう運命だったのでしょう。
結局歌のキャリアを選ぶことになりました。
BK; ザルツブルクは音楽祭の期間中大変な人でごった返しますが、出演中だったあなたは、、
SK:そう、街から外れた山中高度700メートルのところにあるファームハウスに滞在しながら
オペラに出演していました。それが出演の条件の一つでしたし(笑)。
BK: 少し話は戻りますが、お芝居は以前からよくご覧になっていましたか?
ローレンス・オリヴィエなど、優れたシェークスピア俳優をイギリスではご覧になれたと思いますが。
SK: 実際のところ、最も素晴らしいアーティストは必ずしも有名な人物とは限らないのですが、、、
それでも、マイケル・ケインとローレンス・オリヴィエが共演した『探偵スルース』(原題はSleuth、
アンソニー・シェイファー作の舞台劇で、同じコンビで1972年に映画化もされている。)これはすごかったですね。
オリヴィエはあいかわらず、これ見よがし(showy)でしたが(笑)、でも、良かったことには変わりありません。
私は、実はチャップリンとかバスター・キートンといった、体で表現をするフィジカルなタイプの俳優が好きなんですよ。
BK: でもオリヴィエなんかは割とそういう意味ではフィジカルな俳優と言えるのではないですか?
SK:そうですね。『魔笛』(のパパゲーノ)では、そのアプローチも取り入れています。
記憶に残っているといえば、頭に浮かぶのがロバート・メリルの歌ですね。ロバート・メリルは(アメリカ人歌手なので)
もちろん皆さん、私よりもよく彼の素晴らしさを存じ上げているくらいでしょうが、私は彼の歌が大好きなんです。
一度、彼の歌唱にあまりに感激して、彼の控え室に行く機会があったのですが
(Opera Newsの記事によると、フレデリカ・フォン・シュターデの口利きで!)
“でも尋ねて行って、何て言えばいい?すばらしかったです。それはありがとう。その後の会話は?”と考えた瞬間、
あまりにぎこちないものになりそうで、行くのを止めたんですよ。
そうそう、思い出といえば、一度、ドイツものか何かで私が端役で出演していた時だと思うのですが、
ジェイムズ・キングがいきなり私の控え室の戸口のところにあらわれて、
“おい、若いの。歌の世界でやって行きたければな、早寝、女なし、酒なし!だ。”とだけ言い捨てて、
走り去って行ったことがありますね。それで思いましたよ、今のは何だ?!と、、(笑)
“そうですか、それでは私は駄目な歌手になりそうですね”としか言いようがないな、と思ったりして(笑)
BK: あなたは通常のオペラの公演だけでなく、色々なプロジェクトに積極的に参加していらっしゃいますね。
トリッシュ・ブラウンのダンス・カンパニーとのコラボレーションなんかもありましたし、
リートのコンサートを行った時は、サイモンはいよいよディースカウみたいになってしまうのか?と思ったりしました(笑)
SK:『オルフェオ』はBAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)でも上演しましたね。
あの時はダンサーってすごい、と思いました。オペラでは歌手は基本的に、ストーリーテリングに徹していればいいですが、
ダンサーというのは一時に5や10のことをやってますから、、。
(注:ちなみにキーンリサイドの奥様はロイヤル・バレエのプリンシパル・ダンサー、ゼナイダ・ヤノウスキーです。)
また、リートvsオペラということではなくて、柔軟に、その時面白い企画にチャレンジしています。
BK: ところで、メトでのデビューは1996年の『愛の妙薬』のベルコーレ役でしたが、、
SK: え?『ラ・ボエーム』じゃなかったかな?僕の思い違いかもしれないけど。
BK: (メトからの正式資料にも『愛の妙薬』とあるので、かなりうろたえつつ)え、、、いや、『妙薬』と記録にあります。
SK:初めてメトの舞台に立ったときは圧倒されたましたよ。これまでこの劇場で歌った歌手の顔ぶれ、、劇場のサイズ、、。
ただ、特に最初にキャスティングされていた頃は再演ものだったせいもあって、
とにかくがっちりと演出家や舞台監督の言うとおりにすることが求められ、
何も自分らしいことをする余地がないまま終わってしまいました。
僕が思うに、役の本当に面白い部分というのは、リブレットのテキストに書かれていない部分にあるんじゃないかな。
スーザン・グラハムの言葉なんだけど、“テキストはただの交通整理。
残りの部分を埋めて満タンにするの!”は、その通りだと思います。
BK: リハーサルと実際の公演ではどちらにやりがいを感じますか?
SK: リハーサルかな、、。ただリハーサルは色んなことを作り上げていく途上だと思っているので、
最初から完成したものを全部吐き出すことが絶対にないんだけど、
それは僕とリハーサルする時に演出家や舞台監督が不安になる部分みたいです。
彼らはいきなり最初から芸術を求めて来るから、こんな調子で本番大丈夫なんだろうか?と不安になるんだと思う。
BK:演出家たちと意見が合わないときなんかはどのようにコミュニケートされますか?
SK:(悪戯っぽい笑みを浮かべながら)ちょっと質問が意地悪になってきましたね(笑)
ハンブルクの『オテロ』だったと思うのだけど、僕はモンターノ役で出演していて、プロデューサーとやらが、
僕のやることなすこと気に食わないらしく、色々文句を言って来たことがありました。
もう少しで堪忍袋の緒が切れそうになった時、その時オテロ役だったドミンゴが、僕をすっと脇に呼んで、
“無視だよ、無視。口を閉じてひたすら我慢して、自分の気持ちをコントロールするんだ。”と言ってくれました。
演出家やスタッフともめても何のいいこともないし、
ましてや他の人たちがいる前で口論をしたら、それが跳ね返ってくるのは自分です。
指揮者を相手にそんなことをしたら、二度と一緒に仕事をすることは出来ない。そういうものです。
BK:『デッド・マン・ウォーキング』のオペラ化に際して、出演の打診があったそうですが、お断りになられましたね。
あなたが主役を演じていたらより素晴らしいものになったのではないか、と、残念な気持ちで一杯です。
SK:打診があった時点では、まだ作品が完成していなくて、出演を決心することが出来なかったんですね。
(注:結局2000年の初演のジョセフ役はジョン・パッカードが務めた。)
完成したものを知った今となっては、ああ、引き受ければよかったかな、とも正直思いますし、
そのチャンスを逃したのは自分にとって損失だったと思いますが、
あの時点の事情を考えると仕方のなかったことだと思います。
映画だけを見て、それをベースにしたオペラ作品に出演することを即決することはできません。
BK:私があなたが出演した舞台で最も印象に残っているのはボストンで演奏された、『ペレアスとメリザンド』です。
ロレイン・ハント・リーバーソン(ここで参加者から溜息が出る。
メトにはたった二演目『華麗なるギャツビー』と『トロイ人』でしか出演していないが、
優れた歌手として全米中のヘッズの間で認知が高かったアメリカのメゾ。
プライムにいながら、2006年、癌により52歳で亡くなった。)、
ジェラルド・フィンレーとの共演、指揮はハイティンクでした。ハイティンクとの仕事はいかがでしたか?
SK: あの公演は私にとっても素晴らしい体験でした。ハイティンクは、いい意味で音楽人というよりも指揮者で、
“意志の力”を強く感じる人です。指揮をしている時は、棒ではなく、彼の目を見ているだけで、
何を欲しているかということが強烈に伝わって来ます。
BK:今、オペラの世界は“トレッドミル”とも形容されるように、非常にせっかちになってきていますが?
SK:それは人生の見方によると思いますね。私はインターネットは全然見ませんし、若い頃気になって仕方がなかったことが、
全然気にならなくなって、これは年をとることのいい面ですね。
なので、私自身はあまりそういうのを感じてません。
BK:リサイタルでピアノの伴奏を担当したことのある方が、あなたはちっともじっとして歌うことがないと言っていましたが?
SK:え?本当に?(笑) そうかな、意識したことはなかったですけれど、
ストーリーテリングの邪魔にならない程度であれば、いいんじゃないかと思います。
BK:これからの目標は?
SK:音楽を通して自分の人生を表現できる、これは素晴らしいことで、ただ、それを続けていけたら、と思います。
それから、若い歌手を見つけ、育てる、これは正しい方法で行いたいと思っていますが、是非チャレンジしてみたいことです。
BK:では参加者の方からの質疑応答コーナーに移ります。
Q1:今、アメリカでは音楽教育の質の低下が叫ばれています。イギリスではいかがですか?
SK:イギリスの音楽教育については全然わかりません。海外にいる時間があまりに多く、
イギリスにいる時間がごく限られているので、、。
Q2:『リゴレット』のタイトルロールに着手されるそうですが、
ヴェルディのバリトン・ロールに積極的に取り組まれているその理由は?
SK:ヴェルディの役を引き受けることに関しては私はずっと非常に慎重で、6~7年考えた上での決断です。
一つには、以前カプッチッリから受けた、“ヴェルディの役を歌うのをあまり延ばし過ぎないほうがいいよ。
ヴェルディのバリトン・ロールはスタミナが必要で、年を取りすぎた後だと疲れて歌えない、ということが起こるから。“
というアドバイスが頭にありました。
とはいえ、いきなりイタリアのオペラハウスで歌うのはちょっとtoo muchに思えたので(笑)、
自分が育った土地、ウェールズにある1200席の木材が多用された劇場でロール・デビューする予定です。
Q3:キーンリサイドさんくらいの歌手になると、自分からこういう役を歌いたい、と提案できるんでしょうか?
それとも、向こうから役がオファーされることが多いのでしょうか?
SK:たいていの場合は、各劇場毎にいくつか候補がある中から一つを選ぶ、というパターンが多いですね。
私はそういうものだと思っていますし、それで特に不満はありません。
Q4: ジャネット・ベイカー(デイムの称号を持っている1933年生まれのイギリスの名メゾ)はかつて、
歌手というのは、指揮者と観客をつなぐ役目を持つと定義し、その役割をパッシブな方に位置づけていました。
この意見に賛成されますか?
SK:賛成しません。確かに指揮者、作品、観客をつなぐ役目を持っているとは思いますが、
それ以前に、歌手は個性のある一個人であり、タッデイ、メリル、タリアブーエ、ウォーレン、
ゴッビ、、一人一人、同じ作品に向き合うのでも、アプローチが全然違うし、それが面白いところでもあります。
僕は自分らしさ、個性というのを大事にして歌っていきたいと思っています。
Q5:劇場によって歌いやすさは違いますか?
SK: 劇場自体に加えて演出によっても左右されますね。劇場の中に木材を出来るだけ多用すること、これは大事なことです。
例えば、最近ウィーンで演った『マクベス』の演出は全く木材が使用されておらず、舞台は大きく空間が開けているし、
歌手側の負担がすごく大きかったです。
バスティーユは劇場自体の音響が悪くて、音が拡散しますので往生します。
メトはあのサイズを考えると、音響は極めて良い劇場だと思います。
自分の声にメトのサイズは簡単ではないですが、自分にあった演出なら、十分歌える範囲内です。
メト、それから後はウィーンなんかもそうですが、良くオペラのことを知っている客が多いのはやりがいがありますね。
Q6: これからメトで挑戦してみたい、あるいは興味がある役柄は何ですか?
SK: シモン・ボッカネグラ、これはぜひやってみたい役柄です。
それから、ペレアスのゴロー、オテロ(のイヤーゴ)あたりでしょうか?
Q7:NYシティ・オペラに出演される意志は全くないのでしょうか?
SK: それは非常に良い経験になるとは思いますが、やはりオペラの世界では、
一つの都市あたり一つの劇場と深い関係が出来上がっていくものですし、
そこには、その劇場のスタッフと築いた関係もありますから、、
Q7:ということは、あなたはもうゲルブ氏にキープされてしまっているということですね (笑)
SK:そんなところです(笑)

実にウィットに富んだ話をするキーンリサイドに釣り込まれ、あっという間に時間が経ってしまいました。
この記事を書いたのは実際の講演日の一週間後(3/28)なんですが、昨日3/27にHDの収録があった公演も見てきまして、
初日を越えるパワーある歌唱、そして演技にノックアウトされて来ました。
その公演から、彼自身が好きだ、と語っていた、第三幕の母ガートルード妃とハムレットの対決の場面からの抜粋で、
母の不実をそしりながらも、実世界と亡き父王とコンタクトする半狂気の世界を行ったり来たりする個所の音源をご紹介します。
HDを迷っていらっしゃる方の中にこちらの音源を聴いて、行こう!と決心する方が出てくださればいいな、と思います。
ガートルード妃役はラーモア、先王役はピッツィンガーです。





The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Simon Keenlyside with Brian Kellow

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Simon Keenlyside
シンガーズ・スタジオ サイモン・キーンリサイド サイモン・キーンリーサイド ***

THE NOSE (Thurs, Mar 18, 2010)  後編

2010-03-18 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

しかし、何よりも、私がこの演出で興味深く感じたのは、ケントリッジの鼻の取り扱い方です。
彼は、とれてしまったコワリョフの鼻を、一つの形ではなく、複数の形で表現するのです。
まずは単なる鼻としての鼻。
リアルサイズに出来た鼻の模型(このページの1、5、6枚目の写真参照)で、
ニュートラルな”コワリョフの鼻”以上の何者でもない鼻、”人間の体のパーツとしての鼻”です。



それから、歌手が歌い演じる、人間の姿を借りた、いわば擬人化された鼻(前編の8枚目の写真)。
写真からもわかる通り、姿から彼が鼻とわかる要素は一切なく、
普通に、パウロ・ショット演じるコワリョフ役とほとんど同じ衣装です。
ほとんど、と書いたのは、この鼻がいつの間にかコワリョフを追い越して、
彼よりも上の位の職に就いているために、階級を示す細かいディテールが衣服の上で異なっていることになっています。
教会で鼻とコワリョフが対面する場面では、短いながら鼻が言葉を発するので、
ここはどうしても歌手が登場する必要があるのですが、下手に鼻を連想させるものを一切身につけさせず、
完全に擬人化させた自由な発想は素晴らしいと思います。
ただし、この教会での鼻役は、ゴードン・ギーツというカナダ人のテノールが演じていて、
彼はゲルブ支配人好みのいけたルックスの歌手ですが、極めて声量が乏しく、全くオペラハウスに響かない声質で、
今回の公演の大量の出演者の中で(下の配役表を見てください!かなりの歌手がダブル、トリプル、
クアドループルで役をこなしているとはいえ、それでもこの大人数!!)、唯一不満が残ったキャストです。
これは、二回鑑賞して共通してもった感想です。



以上の二つは必要に即した鼻(一つ目はコワリョフの顔につけられるような大きさでなければならない、
二つ目は歌手が歌わなければならない)でしたが、面白いのは残りの二つです。

まず、張りぼての鼻(前編の1、9、10枚目の写真)。
これには中に俳優さんが入っていて、全ての鼻の中で最もアップビートで性格の良さそうな鼻です。
コワリョフの顔から脱走した時には喜びでダンスのステップを踏んでしまうわ、
舞台の上を右に左に走るわ、で、かなり独立生活を楽しんでいます。
この張りぼての鼻、非常によく出来ていて、よーく見ると、サイドに、
コワリョフが冒頭に語っているできものがくっついてます。
(前編10枚目の舞台上手に向かって走っていく鼻の写真を参照。)



そして、もう一つ、私が最も心惹かれる鼻は、アニメーションの黒い鼻(3枚目の写真右。もしくは前編11枚目)。
これは、ビデオ・エディターが操る、完全なアニメーションによる鼻なのですが、
張りぼての鼻の裏のキャラというか、ダークな部分を一身に背負っている鼻で、
前編に書いた、コワリョフの家から、しめしめ、、といった体で出て行く鼻もこいつなら、
鼻を取り戻すことが出来ずに苦悩するコワリョフをあざ笑うかのように、
ロッキング・チェアーに揺られて、余裕こいた態度をかましているのもこいつです。



ただし、このロッキング・チェアーに揺れている時にすでに、その椅子は、
梯子を上った二階の屋根のぎりぎりのところで揺れていて、いつ椅子もろとも転落するかわからない、、
この時に、観客は段々鼻にせまり来ている危険、つまり、独立生活の終わり、
コワリョフの鼻に戻らなければならない瞬間の到来を予感するのです。



しかし、それは単なるコワリョフの鼻にとっての危険だけではなく、
この黒い鼻がすっかり染まっているように見える共産主義にとってのそれも暗示しているように思います。
実際、前編の最後の写真を見ていただければわかるように、赤い旗を掲げた黒い鼻は、
馬と一緒に台座にのって、この世の春を迎えたように見えますが、
その台座の上で、馬を何度も打ちつけるうちに、馬が崩れ落ちてしまいます。
”なんでこいつはだめになったのか、わけがわからんわい、、”といった様子で立ち去る黒い鼻、、。
それは、権力を握ったものの、度を越えて人々を搾取し干渉し続け、
人民の心を本当には理解できなくなった体制の行く道を表現しているようにも見えます。

さらに興味深いのは、前編でふれた、警察官たちに売り子の女性がからまれる場面で、
高飛びするために鉄道の駅にあらわれたはずのはりぼての鼻が、その様子に気付いて、
橋を駆け下りるようにして、女性を助けに走る(三枚目の写真)。
しかし、彼に”何を考えとるんじゃ!”と真っ向から邪魔しにかかるのが、赤い旗を掲げた黒い鼻です。
もちろん、赤い旗を持った黒い鼻は、警察官と同じ側にいるからです。(警察官の衣装の背中側に
刺し色で入っている赤から、視覚的にもそれが感じやすくなっています。)



つまり、この演出で最も面白い点は、いつの間にか、コワリョフの顔から落ちた体のパーツに過ぎなかった鼻が、
いつの間にかパーソナリティーを持つようになっただけでなく、
鼻Aと鼻Bと言ってもよい、別々のキャラまで生み出している点であり、
その二つの鼻を使って、体制に組する力とそれに抗う力を表現しているところにあります。

コワリョフの顔から飛び出た鼻が、独立して歩き始め、またそれが別の鼻を生み出す、、というこの連鎖は、
レクチャーの時にケントリッジが人種差別にからめて語っていた、
終わりのない馬鹿馬鹿しさも表現しているのかもしれません。



この作品の最後は、歌手の歌ではなく、俳優が演じる3人の人物の語りの形で、
ほとんど忠実に、原作のゴーゴリの『鼻』から抜粋した言葉で終わります。

”、、が、何より奇怪で、何より不思議なのは、世の作者たちがこんなあられもない題材をよくも取り上げるということである。
正直なところ、これは全く不可解なことで、いわば丁度・・いや、どうしてもさっぱりわからない。
第一、こんなことを幾ら書いても、国家の利益(ため)には少しもならず、
第二に・・いや、第二にもやはり利益(ため)にはならない。まったく何がなんだか、さっぱり私にはわからない、、、。
だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、
もちろん、許すことが出来るとして・・実際、不合理というものはどこにもありがちなことだから、
だが、それにしても、よくよく考えてみると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。
誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ - 稀にではあるが、あることはあり得るのである。”
(注:原作の平井肇氏訳によりました。)



ケントリッジは滑稽に見える不条理な出来事がパワーを持つと
大変な不幸や悲劇を生み出すことがある、とレクチャーで語っていましたが、
ショスターコヴィッチはこのオペラで、ゴーゴリがいう不合理さを共産主義に置き換え、
ケントリッジはそれを忠実に表現することを通して、
今の世界に存在する他の不幸な事象へ私達の思考を促そうとしているのではないかと思います。
ケントリッジが最初『アッティラ』の演出をオファーされたものの、それを蹴って、
こちらの『鼻』を選んだのも納得できることで、というのも、
彼の感性が見事にゴーゴリの作品とシンクロしていて、
これは自らの感性にあった作品と優れた手腕を持った演出家が組んだ幸運な例だと思います。
今年の新演出作品のうち、歌唱や演奏など、音楽面での要素を除き、
純粋な演出とそのエグゼキューション力という点だけで見ると、
他の作品を引き離して、ぶっちぎりで、この演出が今年のナンバー1です。
というか、ここまできちんと作品に向き合い、全力を尽くされると、
仮に彼の演出スタイルが自分の好みでなかったとしても、少なくとも敬意は表したい気持ちになります。



この演出の唯一の欠点といえば、演出の存在感があまりに大きくて、
歌唱もオケの演奏も、まるでBGMのように感じられてしまう瞬間がある点でしょうか?
ゲルギエフが指揮をしても、メト・オケが演奏するロシアものは少しまるい感じがするというか、
ロシアのオケが演奏する時のようないい意味で粗野な感じがないのは、毎回共通して感じることです。
オケの出来に関してはマチネのラジオ放送があった3/13よりも3/18の方が
伸び伸びと自由に演奏している感じがあって、私は好きでした。
ただ、ゲルギエフは突然”ぬける”瞬間があるというか、ものの短い時間のことですが、
集中力が途切れるような感じがするときがあって、如実にオケのアンサンブルに出てしまうのがたまにキズです。

コワリョフ役を歌ったパウロ・ショットは、やや心配なキャスティングでしたが、
よく頑張っていて、この難しい旋律を歌わなければならない役どころをきちんと抑えて、
演技も含め、全力で役に取り組んでいるし、日による出来の差も小さいです。
声はオペラハウスで聴くと、少し軽く乾いていて、サイズもやや小さ目で、
オケにかき消されている場所もありましたが、全体的には思った以上に声は良く届いていました。
ただ、彼の声はマイクなしの生声で聴くと、いわゆるアルーア、人を惹き付ける声の魅力・響きに欠けていて、
平凡な感じがするのが、かえって頑張っているだけに露呈してしまったような感じがするのは皮肉です。
逆に難しい旋律だったからこそ、欠点が目立ちすぎずにすんだ部分もあって、
これで例えばモーツァルトの作品の全幕などを歌うと言われても、
ちょっときついものがあるかなあ、というのが正直なところです。

歌ではショットよりも警部役のポポウの方がインパクトがあります。
彼は以前にキーロフ・オケの演奏会形式『雪娘』に脇役で登場していたにも関わらず、
残念ながら、その時の記憶が彼に関しては全然ないのですが、
独特の声質と高音が求められるこの警部役は、風貌ともあいまって、彼にぴったりに思えました。

先に書いた擬人化された鼻役のギーツ以外、概ね、脇役もしっかりしていました。
特に合唱ではない、ソロの歌手によるアンサンブル(新聞社での場面など)は、いい内容だったと思います。


Paulo Szot (Kovalyov)
Andrej Popov (Police Inspector)
Gordon Gietz (The Nose)

Vladimir Ognovenko (Ivan Yakovlevich)
Claudia Waite (Praskovya Osipovna)
Grigory Soloviov (Constable)
Sergei Skorokhodov (Ivan - Kovalyov's servant)
Erin Morley (Female Voice)
Tony Stevenson (Male Voice)
Brian Kontes (Footman)
Sergei Skorokhodov (Porter of the Police Inspector)
Gennady Bezzubenkov (A Cabby)
James Courtney (The Newspaper Clerk)
Ricardo Lugo (The Countess's Footman)
Brian Kontes / Kevin Burdette / Philip Horst / David Crawford / Philip Cokorinos /
Grigory Soloviov / Christopher Schaldenbrand / Jeremy Galyon (Caretakers)
Brian Kontes / Sergei Skorokhodov / Kevin Burdette / Philip Horst / Michael Myers /
David Crawford / Brian Frutiger / Tony Stevenson / Jeffrey Behrens / Grigory Soloviov (Policemen)
Philip Cokorinos (Father)
Maria Gavrilova (A Mother)
Dennis Petersen / Jeremy Galyon (Sons)
Vassily Gorshkov (Pyotr Fedorovitch)
LeRoy Lehr (Ivan Ivanovitch)
Theodora Hanslowe (A Matron)
Claudia Waite (A Pretzel Vendor)
Christopher Schaldenbrand (Coachman)
Gennady Bezzubenkov (The Doctor)
Adam Klein (Varyzhkin)
Erin Morley (Mme. Podtochina's Daughter)
Barbara Dever (Mme. Podtochina)
Sergei Skorokhodov / Michael Myers / Brian Frutiger / Brian Kontes / Kevin Burdette /
David Crawford / Tony Stevenson (Gentlemen)
Jeffrey Behrens (Old Man)
Dennis Peterson / Grigory Soloviov (Newcomers)
Philip Horst (Black Marketeer)
Vassily Gorshkov (Distinguished Colonel)
Philip Cokorinos / Michael Myers (Dandys)
Christopher Schaldenbrand (Someone)
Sergei Skorokhodov / Brian Frutiger / David Crawford / Jeremy Galyon / Tony Stevenson /
Jeffrey Behrens / Vassily Gorshkov / LeRoy Lehr (Students)
Kathryn Day (A Respectable Lady)
Kevin Burdette / Philip Horst (Respectable Lady's sons)
Vladimir Ognovenko (Khorsev-Mirza)
Brian Kontes / Michael Myers / Kevin Burdette (Kovalyov's Acquaintances)

Conductor: Valery Gergiev
Production: William Kentridge
Set design: William Kentridge, Sabine Theunissen
Costume design: Greta Goiris
Video compositor and editor: Catherine Meyburgh
Lighting design: Urs Schönebaum
Associate director: Luc De Wit
ORCH O Even
OFF

*** ショスタコーヴィチ ショスタコヴィッチ 鼻 Shostakovich The Nose *** 

THE NOSE (Thurs, Mar 18, 2010)  前編

2010-03-18 | メトロポリタン・オペラ
注:オペラ『鼻』のあらすじをマイナーなオペラのあらすじコーナーに加えました。

3/6の『アッティラ』の公演の日に、このブログを読んで下さっているNYご在住の方とその奥様より、
”一度お会いしませんか。”という温かいお申し出を頂き、インターミッション中、
ベルモント・ルームのテーブルで、自己紹介を経て、いよいよいろいろお話をさせて頂こうと思ったところに、
相席(土曜のマチネは特に人が多い!)の男性が現れたので、ふと、顔をあげると、
それは、たった二日前の『セヴィリヤの理髪師』の時にも相席だった、例のレイミー・ファンの小柄なおじ様ヘッドでした。
このおじ様、一人でいらっしゃっているので、喋りたくてうずうずしていたと見え、
”おお!!”と瞳を輝かせて挨拶を軽く交わしたかと思うと、それはもうよく喋ること喋ること、、。
瞬く間におじ様に会話の主導権を握られる我々日本人チームなのでした。
(で、実際、全然日本語でお話できなかったので、終演後に仕切り直し、楽しい時間を過ごさせて頂きました。)



私がオペラ・ブログを書いていると知ると、”わしも読みたい!”と言い出し、
残念ながら日本語だけなんで、、と申し上げても、”それでもいいから!”
えーと、ブログのURL何だっけかな、、と思い出そうとしていたところ、
”とはいえ、私が使えるのはメールぐらいなんだがな。”という言葉にこける。
”あ!あと、googleは使えるぞ(←とここでちょっと誇らしげ。)! googleの四角のところに何て入れたらよい?”
、、、。おじさん、URLなしでちゃんとこのブログ見れたかな、、?



さて、そのおじ様は『セヴィリヤ』と『アッティラ』の間、
つまり『アッティラ』の前日の夜は、『鼻』を鑑賞したそう(3日連続鑑賞!)なのですが、
それがおじ様に言わせると、ケントリッジの演出が素晴らしかったそうで、
”1回見るだけでは多分、全部は消化し切れない。2回、もしかすると、3回くらい見た方がいい。”
と、『セヴィリヤ』で、シャーの演出をこき下ろしまくっていたのとは180度転換の大絶賛モードです。



私はシーズン開幕前に年間のほとんどの公演のチケットを一気買いしてしまうのですが、
その時点では、公演の評価(特に新演出の場合)がどうなるかもわからなければ、
シリウスの放送の予定もまだ発表されていません。
『鼻』に関しては、もともと3/18の公演のチケットを手配していたものの、
その日はラジオ放送がある土曜のマチネのすぐ次の公演で、シリウスの放送もないことに公演直前になって気付き、
すると、突然、ゲルギエフにまたキャンセルをかまされるんじゃないか、、という、
オネーギンの悪夢”再現の不安が心にたちこめて来ました。
それで、ふと、その土曜のマチネ(3/13)も観れば、その日はラジオ放送があるからゲルギエフはまずキャンセルしないし、
3/18と合わせて二度見れることになって、一石二鳥!というアイディアが浮かびました。
しかし、3/13は久々の、かつ、一年でも滅多にない、全然オペラの鑑賞予定が入っていない週末で、
うちの二匹の毛深い息子達(犬)とセントラル・パークで爆発的になごむのを楽しみにしていたので、
どうしようか、、と思い悩んだまま、結局チケットを買わずにいたのですが、起きてみれば、13日は朝から大雨!!
神様が私に”メトにお行きなさい”と言っている、、、。



売り切れ覚悟で電話をしてみれば、”平土間でいい座席がキャンセルされて上がってきてますよ。”
やはり神様の思し召し、、。
舞台からそう遠くない列の真正面で、細部に至るまでこれ以上望みようがないほど、
はっきりと色々なものが見える座席で、鑑賞し終わった後にはぐったりしてしまった位です。
そして、一言。あのおじ様の言葉は滅茶苦茶正しかった!!!
この演出、すごいです。すごすぎて、1回では、とてもじゃないけれど、
舞台で起こっていること全部は追えないし、また、咀嚼もできません。
実際、私は頭がパンク状態になってしまったので、勝手ながら、1回目の3/13の感想をすっ飛ばさせて頂くことにしました
というか、ごく簡単な感想を書くことさえ、最低でももう1度見ないと、ままならなかったからです。
おじ様の言う3回どころか、私の頭だと、5回位観てやっと全貌をきちんと掴める位じゃないかと思う、、。
しかし、残念ながらさすがに5回観に行く時間はないので、2回観た現在時点での感想をとりあえずあげてみたいと思います。



ケントリッジがこの演出でベースにしているテクニックは、コラージュとアニメーションで、
とにかく舞台の天井から床までのスペースに、新聞や書物からの切り抜きや抜粋、
この作品の舞台であるサンクト・ペテルブルクの地図、等々のイメージを集めたコラージュが、
1セットや2セットの話でなく、ものすごい数のパターン用意されていて、
各場面に合わせてそれらのコラージュがかなり早いスピードで転換して行く上を、
アニメーション(主に鼻の行動を描写するのに用いられている)が自由自在に闊歩するというスタイルです。



作品が始まる直前にしばらく無音の時間があって、コラージュの上に
メリーゴーランドのような輪状のものが回転する黒い影絵のアニメーションが映るのですが、
回転し終わった時に、その黒い影がショスターコヴィッチの顔のイラストに像を結んで、
つい観客から笑いと拍手が出た途端、オケの演奏が始まります。



ケントリッジの演出の優れている点の一つ目は、ある出来事の舞台となっている場を
全面的にフォーカスするのではなくて、舞台上の空間を大きなキャンバスに見立て、
そこにビジュアル、心理面の両方で、実に絶妙なバランスの大きさで収めている点です。
今、オペラハウスでメジャーな演目としてかかっている演目のほとんどは、
オペラの最初から終末にかけて起こる登場人物の心の変化、
登場人物同士の関係の変化といったことが最大のポイントであるため、
その登場人物がいる場所を舞台一杯に使って展開するのがオーソドックスな演出のスタイルかと思うのですが、
この『鼻』という作品はそれとは少し違っていて、登場人物の誰も(コワリョフですら)、
オペラの頭と最後で、大した変化をとげません。
『鼻』が描いている対象は、コワリョフ自身でも、彼の鼻でもなく、彼らを取り巻く環境の方にあるからです。
なので、コワリョフの家にしろ、新聞社の社屋にしろ、やたら舞台の大きさに対してセットが小さく、
空間の大部分をその上にのしかかるようなケントリッジ作のコラージュが占めているのは、実に適切だと思います。



他にも、冒頭のシーンにあたるイワン・ヤーコウレヴィッチ(理髪師。彼の食べようとしたパンの中から、
客の一人であるコワリョフの鼻が出てくる。)と妻プラスコーヴィヤ・オーシポヴナが朝ご飯をめぐって、
冷え切った夫婦に特有の冷たいやり取りを交わすシーンでも、
彼らの家はコラージュの中のごく小さな面積を占めているにすぎません(上から三枚目の写真)。
それも、わざわざ、一階と二階にわけ(しかもなぜか理髪店が二階で台所が一階!)、
2人が同じ階にいる場面は全くなく、問題の鼻入りパンを含む食事は、妻が滑車を使って台所から二階にあげます。
そこまで夫を冷遇するのか、、、。



ケントリッジ演出の優れた点二点目は、とにかくユーモアがあること。
イワンの家のセットを舞台からはけさせるのに、
妻プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ役に扮する重量級の体格の歌手ウェイトが
まるで大道具の野郎スタッフのように、一人で押しているような演技をつけたり
(もちろん裏には本当の大道具のスタッフがいるはずですが)、、
鼻を失くしたコワリョフを置いて、鼻が抜き足差し足で脱走していくアニメーションの愉快さ、
また、コワリョフと逃げ出した鼻が初めて差しで対面をする場所は教会で(一幕七場)、
この教会に鼻が入る前に、オケによって美しい宗教的ともいってよい旋律が演奏されるのですが、
いきなり鼻がその音楽に感動した面持ちで膝から崩れ落ち、しおらしい様子で祈りを捧げる姿の上で、
Nose at pray(祈る鼻)という文字の映像が白く踊っていたり、とにかく、観客をくすっと笑わせたり、
にやりとさせる個所には事欠きません。



彼のユーモアは、もちろん、それだけ額面どおりに受け取って見ても楽しいものではあるのですが
(実際、私は一度目の鑑賞では、それを追うだけでかなりのエネルギーを使ってしまって、
その後ろにあるメタファーとか深い意味は、何かが背後にありそうだ、、という
もやもやした感覚で終わってしまった感があります。)
それのお陰で、本来は非常に深刻なテーマがコーティングされ、残虐さが緩和されている部分もあるので、
こちらがうかうかしていると、見落としてしまう、、ということも大いにあると思います。



鼻がコワリョフの元に帰って来るきっかけとなる、屋台の女の子が警察官にからまれるシーンも、
例の大道具系妻プラスコーヴィヤ・オーシポヴナを歌ったのと同じかなり大柄な(横に)ウェイトが、
フラフープを5本くらい体の周りにつけたような衣装でオーバーに演技をつけるので怖さが緩和されていますが、
権威を傘に来た警察が女性に暴行まがいのことを働こうとしているこの状況は、
よく考えるととても笑って見れる場面ではありません。
彼が南アフリカの出身で、アパルトヘイトをテーマにした作品も発表していたことは、
初日の前に行われたレクチャーについてのポスティングで書きましたが、
その作風は声高にアパルトヘイト反対を叫ぶのでも、いかに深刻な問題かを悲痛に述べるのでもなく、
淡々とアパルトヘイトにつながるイメージを提示することで問題提起を行って来た彼らしいアプローチと言えるかもしれません。



ビジュアルの中にはもちろん常に体制を意識させるアイテムが登場し、
赤い色はもちろん(下の写真は第二幕第二場に登場する新聞社のセットですが、
これが赤いのは、作品の中で新聞社の社員とコワリョフの会話からわかるとおり、
新聞社も悪しき官僚主義的な、個人への思いやりを欠いた、
いわゆる”お役所仕事”に毒された存在として描かれているからです。)
ところどころにぷかっ!ぷかっ!と煙を吐くパイプのアニメーションが登場するので、
何だろう、、?と思うと、しばらく後に、そのパイプをくわえたスターリンの像がばばーん!と登場する、といった具合です。
ややや、こいつだったのか!、、、という、、(笑)
つまり、パイプの煙が、人々の生活に否が応でも、鬱陶しいまでに漂っている共産党の影響力を表現しているわけです。
(ちなみにスターリンの共産党書記長在任期間は1922年から1953年、
ショスターコヴィッチが『鼻』を完成させたのは1928年のことです。)



この作品はトータルのランタイムが1時間45分ほどの作品ですが、
今回の演出では、一度、数分の場面転換のためのポーズはありますが、インターミッションなしで一気に演奏されます。
第一幕は7場、第二幕は4場、第三幕は5場からなっていて、かなり場所の移動が激しいのですが
(地理的にはすべてサンクト・ペテルブルクですが、もっと細かい意味での場所として)、
ケントリッジが実にスムーズに場面の転換を行っていて、全然だれさせません。
それは場と場をつなぐアイテムがきちんと計算されているからでもあって、
一幕第二場でイワンの家の二階の階段の手すりだった部分が、そのまま、次の場の川にかかる橋になる、といった具合で、
階段にかかっていた洗濯物の山のようなものが、すっと落ちると、そこには巡査が仁王立ちしていて、
それに気付かないイワンは、巡査の目と鼻の先で、必死にパンから出て来た鼻を
処理し(捨て)ようとしているのが実に滑稽です。



後編に続く>


Paulo Szot (Kovalyov)
Andrej Popov (Police Inspector)
Gordon Gietz (The Nose)

Vladimir Ognovenko (Ivan Yakovlevich)
Claudia Waite (Praskovya Osipovna)
Grigory Soloviov (Constable)
Sergei Skorokhodov (Ivan - Kovalyov's servant)
Erin Morley (Female Voice)
Tony Stevenson (Male Voice)
Brian Kontes (Footman)
Sergei Skorokhodov (Porter of the Police Inspector)
Gennady Bezzubenkov (A Cabby)
James Courtney (The Newspaper Clerk)
Ricardo Lugo (The Countess's Footman)
Brian Kontes / Kevin Burdette / Philip Horst / David Crawford / Philip Cokorinos /
Grigory Soloviov / Christopher Schaldenbrand / Jeremy Galyon (Caretakers)
Brian Kontes / Sergei Skorokhodov / Kevin Burdette / Philip Horst / Michael Myers /
David Crawford / Brian Frutiger / Tony Stevenson / Jeffrey Behrens / Grigory Soloviov (Policemen)
Philip Cokorinos (Father)
Maria Gavrilova (A Mother)
Dennis Petersen / Jeremy Galyon (Sons)
Vassily Gorshkov (Pyotr Fedorovitch)
LeRoy Lehr (Ivan Ivanovitch)
Theodora Hanslowe (A Matron)
Claudia Waite (A Pretzel Vendor)
Christopher Schaldenbrand (Coachman)
Gennady Bezzubenkov (The Doctor)
Adam Klein (Varyzhkin)
Erin Morley (Mme. Podtochina's Daughter)
Barbara Dever (Mme. Podtochina)
Sergei Skorokhodov / Michael Myers / Brian Frutiger / Brian Kontes / Kevin Burdette /
David Crawford / Tony Stevenson (Gentlemen)
Jeffrey Behrens (Old Man)
Dennis Peterson / Grigory Soloviov (Newcomers)
Philip Horst (Black Marketeer)
Vassily Gorshkov (Distinguished Colonel)
Philip Cokorinos / Michael Myers (Dandys)
Christopher Schaldenbrand (Someone)
Sergei Skorokhodov / Brian Frutiger / David Crawford / Jeremy Galyon / Tony Stevenson /
Jeffrey Behrens / Vassily Gorshkov / LeRoy Lehr (Students)
Kathryn Day (A Respectable Lady)
Kevin Burdette / Philip Horst (Respectable Lady's sons)
Vladimir Ognovenko (Khorsev-Mirza)
Brian Kontes / Michael Myers / Kevin Burdette (Kovalyov's Acquaintances)

Conductor: Valery Gergiev
Production: William Kentridge
Set design: William Kentridge, Sabine Theunissen
Costume design: Greta Goiris
Video compositor and editor: Catherine Meyburgh
Lighting design: Urs Schönebaum
Associate director: Luc De Wit
ORCH O Even
OFF

*** ショスタコーヴィチ ショスタコヴィッチ 鼻 Shostakovich The Nose *** 

HAMLET (Tues, Mar 16, 2010)

2010-03-16 | メトロポリタン・オペラ
あれはたった12日前、3/4のことでした。
デッセイが今年の『ハムレット』の全公演から降板するという発表がメトからあったのは、、。
半ば彼女の為に上演が決まったと言ってもよいこの作品で、彼女が降りるのもショックですが、
それ以上に、こんな間際に、ある程度まとまった期間NYに居れるようなスケジュールの空きがあって、
しかも、あの、狂乱の場を歌えるソプラノ、、、そんなのどこにいんのよ!?って感じでしたが、
メトはなんとか、マルリス・ペーターゼンを捕獲。
彼女はぎりぎりまでウィーンで世界初演ものオペラ『メデア』(ライマン作曲)の舞台に立たなければならなかったため、
NYでは、予定されていたリハーサルを全て彼女抜きで行い(これがどれほど全員にとって大変なことか!)、
その間、メトからウィーンに飛んだスタッフが『メデア』の公演の隙に
ペーターゼンに特訓を施す(彼女も彼女ですごい!)という、地獄絵図が展開していたそうです。
彼女がオケと音を合わせ、他の共演者と演技をさらったのは、
彼女のために急遽追加された、たったの1回のリハーサルだけで、
それも、NYに到着したその足で衣装・かつら合わせをし、そのすぐ翌日だったそうですが、
オケ、指揮者、共演者たちに、”私のためにこうしてわざわざ追加のリハーサルを行って頂いて、感謝いたします。”と、
それはもう品位に溢れた姿勢で、全力を尽くしていたそうです。彼女のせいじゃないのに、、(涙)。



しかし、世の中とは残酷なもので、デッセイが降板した余波は間違いなく感じられ、
直前にはいくつか放出されたチケットも見られました。デッセイが出演しないなら、どうでもええ、とばかりに、、。
でなければ、私だって、今日の公演、鑑賞できたかどうか、、。
”メト新演出もの初日マニア”の疑惑が濃い連れ(注:なぜか、新演出の初日が近づき、
その公演のチケットを私が持っていない、と知ると、見なくていいのか、
鑑賞してブログで皆様に報告しなくていいのか、と、それはもううるさい。)に、
またしても、”デッセイの出演しない、ハムレット新演出、、、これを見なくてどうするか?”と責め立てられ続け、
ついに根負けしてチケットを買ったのは公演数日前のことなのですから。
もし、デッセイが変わらず出演していたなら、多分、チケットは残ってはいなかったでしょう。

今日の座席はグランド・ティアーのディレクター・ボックスの前列。
ステージに向かって左側のサイドの、最も舞台に近いボックスで、ほとんどオケを横から見下ろすような角度です。
舞台の一番奥の中心から舞台の手前の左端に線を引いて出来る、舞台左手の三角の空間は
一切この座席から見えません。まさにパーシャル・ビュー全開!
ただ、手前に出てきてくれるほど視界は広がり、舞台の奥で歌手がずーっと歌っているということはあまりないので、
私はそれほど不都合を感じません。むしろ、すぐ目の前で、歌手が、オケが演奏しているというので、
エキサイティングな座席ですし、端に寄っている割には、オケの音に違和感がない不思議な場所です。



例によって開演2分前くらいにボックスに入ると、『ラ・ボエーム』の時と同様に、ちゃっかりと前列に陣取っている3人。
イギリスから、メトの公演にきちんとシェイクスピアの精神が生き続けているかどうか、偵察しに来たと思しき若いカップルと、
派手な化粧を施し、体中から濃い香水の匂いが立ちこめるアメリカ人のおばさんが一人。
すぐに、”この派手ばばあめ、、。”とぴんと来ましたが、”さあ、あなた方のどなたかが後ろの座席だと思うので、
変わってくださいね。前列は座席番号が1、2、3ですから。”
カップルが自分達の番号を読み上げると、やむを得ない、、と言った調子で小声で、”6、、”と呟く派手なおばさん。
”はい、6は後列ですから。”と冷たく言い放つMadokakip。
前にも言った通り、私は絶対に、絶対に、サイド・ボックスの後列には座りませんので。
ところが、いよいよ、オケがチューニングを始めているというのに、もたもたもたもたと、
大した荷物もないくせに、腰をあげようとしない、この派手ばばあ、、、。
持ってきたカメラを握ってみたり、それを離してショールに手を回してみたり、、
荷物が多すぎて、すぐには動けないわ!という演技です。
”もういいですよ、そのままそこに座っていて。私が後ろに座りますから。”なんて殊勝なことを私が言うとでも思ってんの?
指揮のラングレが出て来る時まで、そんなことしてるようだったら、
椅子の脚ごと掴んで後ろの列に引き摺り下げてやるから!!
冷ややかにおばばの渾身の演技を見つめていると、私が発しているただならぬ妖気を察したか、
イギリス人カップルの男性の方が、”では僕が後ろの席に座りましょう。”

 いいんですか?そんなこと言っちゃって!!!後悔しますよ!!後列は本当、何も見えないんだから!!

これにはカップルの女性の方もちょっと納得できない様子。そりゃそうですよね、
せっかく手を握り合って、仲良く横並びで鑑賞する準備までしていたのに、、。
一人もんのばあさんは気ぃ使えや!と言いたくなりますが、
(私も一人もんのばあさんに変わりはありませんが、ちゃんと前列のチケットを持っているんですから、話は違うのです。)
まあ、私は自分の席さえちゃんと確保できれば何だっていいです。
それにしても、”あら、いいの?でも申し訳ないわー。(←といいつつ、ケツは5ミリも上がっていない。)”
こういうずーずーしいおばば、本当に嫌です。



というわけで、やっと席に腰を下ろせたと思ったら、もう指揮のラングレが観客に向かってお辞儀をしているところでした。
デッセイが出演していたらば、もっと熱狂的な拍手も出ると思うのですが、しらーっと大人しい今日の観客、、。
やっぱり期待していないんですね、ペーターゼンに、、、。 マルリス、一丁、がつん!と行っておやり!!

さて、今回のこの演出はメトの新演出と言っても、よその劇場ではとっくの昔にお目見えしているもので、
DVDにもなっているリセウ劇場(出演はキーンリサイド、デッセイ、ウリア・モンゾンら)の公演と同一の演出です。
そのリセウ劇場の公演は2003年10月。6年半の年月はやはり偉大で、残念ながら、正直なところを言うと、
キーンリサイドの声の音色自体には、2003年当時よりも、だいぶ、粗いテクスチャーが加わるようになっています。
この『ハムレット』がオペラ作品としてややB級扱いされている理由の一つには、
音楽がつぎはぎ的で、色々な作曲家の借り物的に聴こえる部分があるという点が上げられると思いますが、
彼が歌うパートについたオーケストレーションにはかなり厚い個所もあります。
さらには、リセウ劇場の公演のDVDには、劇場の客席側の全体像がしばらく映るのですが、
メトのサイズに慣れていると、”ちっさ、、。”と感じます。
それから、私はそのDVDを見ている時は、リセウ劇場のオケの演奏について、
特に可もなく、不可もなく、という印象だったんですが、
今日のメトの演奏を聴くと、オケの力にはだいぶ差があるな、と思いました。
唯一、冒頭近く、ファミリー・サークルのサイド前方で演奏される金管が、サブで固めたと思われ、
まるで中学校のブラスバンドのようなへたれ音+てんでばらばらな演奏なのにはぎょっとさせられますが
(あれをあのままHDにのせる気ですか?と私はゲルブ氏に聞きたい、、。)、
ピットの中で演奏される部分については、この作品には各楽器のソロが多いこともあって、
個々の奏者の実力がものを言い、リセウ劇場のオケの演奏より数段グレードアップして聴こえます。
実際、私にとって、今日の公演で良かったことの一つは、オケの演奏次第では、
『ハムレット』が一般に言われているほど、音楽的につまらない作品に聴こえない、という発見があった点です。
しかし、その分、オーケストラはかなり自由闊達に演奏していて、
キーンリサイドが比較的声量がないことなど、お構いなし。
これら全てのこと(オーケストレーション、劇場のサイズ、オケの演奏)が重なって、
キーンリサイドが普通以上に声を押しているのも、歳月の問題の他に、声が粗く聴こえる理由の一つかもしれません。
実際、オケとのリハーサルでは、キーンリサイドが、指揮のラングレに向かって、
”本番でもこんな風にオケを鳴らすつもりですか?まるで津波みたいな轟音なんですけど、、。”と泣きを入れていたそうです。



しかし、彼の演技力、表現力は、リセウの時といささかも変わらず、本当に素晴らしい。
リセウの時より、もっとハムレットが冷ややかになったように感じる部分もあります。
私はリセウ劇場の公演が、特に歌唱においては水準が高いということを認めるのにやぶさかではないのですが、
二、三、気になる点があって、その一つは、今ひとつ、キーンリサイドとデッセイの間に
恋人としてのケミストリーを感じない点です。
それぞれはとても良い歌唱と演技を見せているのですが、なんとなく2人が独立しているように感じるというか、、。
その点でいうと、ペーターゼンとの方が、2人の間の空気にずっと色気があって、それは第一幕から感じられます。
ペーターゼンはデッセイと違って、ほとんど『オテロ』のデズデーモナ的に、この役にアプローチしていて、
その清潔な感じはデッセイのオフィーリアとはまた違う個性があります。

ハムレット役はもう頭から最後までほとんど出ずっぱりの大変な役ですが、
特にキーンリサイドの演技が光っていたと私が思うのは、第三幕の母親ガートルードとの対決場面。
この幕では、キーンリサイド演じるハムレットが、父王を思いながら空を見つめる場面があって、
ちょうど、その視線の先が私の座っている場所だったのですが、
キーンリサイドの鋭い、かつ父を思う熱い視線にロックされて、身動きが出来ない小動物のようになってしまいました。
その間、30秒くらい、あまりの迫力に、私、視線を外せなかったです。
あれ?でも、それって、私の頭あたりにあの亡霊となった王の顔を重ね合わせてるってこと!!??
きーっ!誰が亡霊なのよ!!



ハムレットは、第二幕の劇中劇(新王が妃をたぶらかし、旧王を暗殺したプロットを暴く芝居)の後に、
感情が爆発し、人々に正気を失ったと誤解されるも、実は彼が気が狂っているわけではなく、、
というのを我々観客(と、そして、多分、幾らかはガートルードも)は知っています。
でも、またそれと同時に、旧王のために復讐を遂げるという、
激しい衝動に突き動かされているという意味では、彼はほとんど狂気と紙一重の場所にいるわけで、
その狂気、父王への思慕、母である妃への怒り、これらが全て表現されたあの視線は見事です。

最初にこの公演はデッセイのために企画されたようなもの、と書きました。
確かに興行面ではそうなんですが、やはり、この作品は、なんと言ってもハムレット役が、
きちんと歌い、演じれる人でないと、つまらない。
その点、今、キーンリサイド以上にこの役を説得力を持って歌い演じれる歌手はそうはいないのではないかと思います。

オフィーリアのペーターゼンですが、声のサイズは決して大きくなく、
さらに、声の質がややドライで、残響の少ない音色であることが、
サイズが実際以上に小さいかのような印象を与える危険はあるかと思います。
私の座席からはちゃんと声は聴こえていましたし、経験則から言って、おそらく、
後ろにもちゃんと届く声をしているとは思うのですが、ヘッズの中には(どこに座って聞いたのかは知りませんが)、
”声が聴こえにくかった。”と言っている人もいたことは一応書いておきます。

しかし、彼女の歌唱に改善すべき点があるとしたら、そこではなくて、
私はむしろ、音色の一定さを欠いていることを挙げるでしょう。
彼女は高音がそれほど得意でないようで、狂乱の場でも、半分以上の割合で、
デッセイのように(とはいえ、デッセイですら、2003年の公演では、自由自在に出ている、という風ではないのですが。)
楽に出ている感じではなくて、音色にはぎりぎり感が漂うし、
音の長さも、生理的にここで終わると快!と感じるほんの少し前に音が終わってしまうような感じがあります。
ただ、時々、すこーん!と、正しいスポットに高音が入る時があって、
その時は、音にきちんとリングもあるし、非常に魅力的な音色も持ち合わせています。
彼女は、この高音を毎回出せるようになれば、デッセイと歌唱でも十分張り合えるはずです。
それから、これは予想外のことですが、オフィーリアという役の表現、という点では、
私はデッセイよりも、ペーターゼンの方が好きです。



デッセイがオペラにおける演技力という意味では最高のものを持っている歌手であるという意見に、
私も大いに賛成しますが、時に、演技力だけではなんともならないもの、というのがあるようにも思います。
先に、リセウ劇場の公演で、二、三、しっくり来ない部分があると書きましたが、
もう一つは、何を隠そう、デッセイのあの狂乱の場です。
デッセイの舞台には、必ず、”何かを表現したい、しよう”という激しい意志を感じ、
それは非常に尊いことだと思うのですが、それは上手い方向に行くと、素晴らしい舞台になりますが、
逆に、やり過ぎると、サーカスのようになってしまう可能性もはらんでいて、
私の感覚では、リセウの『ハムレット』の狂乱の場は、サーカス寸前で、
彼女が熱く演じれば演じるほど、心が冷めて行ってしまいました。
(誤解ないように書くと、私は彼女のアプローチの何もかもが嫌いなわけではなく、
2007年のメトの彼女のルチアは素晴らしかったと思います。)

ペーターゼンは、この場面を、全くデッセイほど熱く演じず(ほとんど演技をしていないようにすら見える)、
指定された動き以外の余計なものは一切なく、いや、指定された動きですら、非常に抑えて演じていて、
それが逆に心が抜け殻になってしまって、狂った中にも諦観さえ溢れているような、
なんともいえない味わいのある場面に仕上がっています。
とにかく、ペーターゼンのオフィーリアには、生きている最後の瞬間まで、純真さと上品さを感じる。
リセウの狂乱の場は、終わった後、デッセイの歌を聴いたなあ、という感じでしたが、
今回のペーターゼンの狂乱の場では、オフィーリアの最後を、そのドラマを見た、という実感があり、
また場が終わった後に余韻があります。

歌の面では多少デッセイと差がついている部分もあるかもしれませんが、
ドラマとしてみれば、このペーターゼンのオフィーリアは、
決して、がっかりしながら眺めなければならないような代物ではありません。
もし、この初日と同じ位の内容の演技と歌をHD収録の日にも披露してくれるなら、
少なくとも、デッセイとは違うアプローチで面白いものを見せてもらった、と観客の方に思って頂くことは出来るでしょう。



一方、リセウの公演のDVDを見て、さらにメトのHDを見る価値はどこにあるのか?と
疑問に感じられている方も結構いらっしゃると思いますが、二点あると思います。
一つは先にあげたオケの演奏の観点から。
もう一つは準主役、脇役の充実度。これは、役によってだいぶでこぼこがあるリセウと違って、
メトは、端の端にいたるまで、なかなか力のある歌手を据えているので、
実演もしくはHDをご覧になる際に、ぜひ、楽しんでいただきたいところです。

リセウと比べて唯一、私の場合、不満が残ったのは、王妃ガートルード役のジェニファー・ラーモアです。
この役だけは、リセウのウリア・モンゾンの方が断然良い。
ウリア・モンゾンのがっしりした声に比べて、線が細いという声質の違いは別にしても、
ウリア・モンゾンの歌からはハムレットへの愛がどんな場面からも感じられるところが魅力なんですが、
ラーモアの役作りは、かなり紋切り型のビッチ系です。なぜ、そんなに意地悪なの?自分の息子が可愛くないの?という、
不思議な人物に仕上がっていて、これでは、先王が亡霊になってもなお、
今でも彼女を愛している理由がよくわからないし、
クローディアスにたぶらかされたというよりは、自ら率先して先王暗殺計画を練り上げかねない雰囲気です。

クローディアスを歌ったモリスは、歌は(年齢のせいで)かなりひどいです。
音を正しい位置で維持することが難しいみたいで、ものすごいワブリングと、
アップダウンの激しい旋律では、そんなに長くない音すら、ほうっておいてもピッチが下がってくる状態で、
どんな旋律を歌っているのか訳がわかならくなるほどです。
ただ、演技や存在感、これはやはりさすが。



残りの準主役、脇役陣はなかなか強力です。
先王ハムレットは歌う場面は少ないですが、今シーズン、『トスカ』のアンジェロッティを歌っているピッツィンガーが
非常によく通る深い声(マイクがついているのかと思うほどです。)でなかなかの存在感を示しています。
彼は背も高いので、この威厳のある役にぴったり。

それから、これがメト・デビューとなったトビー・スペンスは、
レアティーズみたいな小さな役で登場させるのは本当にもったいないというか、贅沢な話。
彼も本来はあまりメトのような大箱は向かない歌手かもしれませんが、良く通る、からっとした印象深い声をしています。

ホレイショー、マーセラスといったハムレットの友達系には若手を、
墓堀り人夫には中堅どころを配しているようですが、どの役も穴がなく、
きちんとした歌を歌っていて、演技もこなれており、非常に安心して聴いていられます。

参考までに、ラストなんですが、リセウの公演ではハムレットの即位を喜ぶ合唱が入って終わりますが、
メトはそれがなく、ハムレットがオフィーリアに言う、”君を追って僕も死のう。”という言葉で幕になります。
私はあの唐突な合唱があまり好きでないので、今回のメトの選択は賛成です。

演出はDVDで見ている時は、何だか汚らしい舞台だな、と思いましたが、舞台で見ると、
それなりに、ドラマのコアはきちんと残していて、最悪な演出でもありません。
私が頭に来たのは、最後に、指揮のラングレに向けて一部のヘッズから盛大に出されたブーです。
音が鳴りすぎ、ということなんでしょうか?私にはそれ以外、特に悪い所は思いつきません。
むしろ、この作品でこれだけのものが聴けたら、よしとせねば、と思います。
大体、この急しのぎのイレギュラーなリハーサルの状態で、
これだけの公演にまとめあげるのがどれだけ大変か、判っているんでしょうか?
好き嫌いを言うのは勝手ですが、度を越えて、あるべき評価から外れているブーやブラボーほど、
むかつくものはありません。

そうそう、どうやら、例の派手なおば様は、この墓堀り人夫を歌った二人の歌手のうちのどちらかに、
今日の公演に招待してもらったらしく、カーテン・コールでは”彼が舞台に!彼が舞台に!”と大興奮で、
カメラのシャッターを押し続け、終演後には興奮冷めやらぬ!といった感じで、
”また彼が招待してくれたら、喜んで来るわよ!!!”と叫んでました。
また来るんでしたら、彼に”もうちょっといい席用意してね。”と頼んだ方がいいと思う、、。


Simon Keenlyside (Prince Hamlet)
Marlis Petersen (Ophélie)
James Morris (Claudius)
Jennifer Larmore (Gertrude)
David Pittsinger (Ghost of Hamlet's father)
Toby Spence (Laërte)
Maxim Mikhailov (Polonius)
Liam Bonner (Horatio)
Matthew Plenk (Marcellus)
Richard Bernstein / Mark Schowalter (Gravediggers)
Peter Richards (Player King)
Joshua Wynter (Player Queen)
Chiristina Rozakis (Player Villain)
Conductor: Louis Langrée
Production: Patrice Caurier / Moshe Leiser
Set design: Christian Fenouillat
Costume design: Agostino Cavalca
Lighting design: Christophe Forey
Gr Tier DB Front
ON

*** トマ ハムレット Thomas Hamlet ***

NATL COUNCIL GRAND FINALS (Sun, Mar 14, 2010) 後編

2010-03-14 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

インターミッションが終了し、座席に戻り、『マノン』の説明をしてくださった隣のおじ様と、
”今日は参加者の実力が拮抗していて、審査員は大変ですね。”などと語り合った後、
会話が一段落して沈黙が訪れたので、新しい話題を、、と、
”そういえば、先ほどお嬢様が歌をお歌いになるとおっしゃっていましたが、、?”と尋ねてみたところ、
”ええ、そうなんですよ。2005年のグランド・ファイナリストなんです。”
ええっ!!!!地元の高校で出演したミュージカルの舞台の話なんかを予期していた私は
おじ様の答えにひっくり返りそうになりました。さらには、
”メトの舞台にも何度か出演させていただいてまして、、。”とおっしゃるので、
思わず両眉がおでこの真ん中くらいまで上がってしまったまま、
”すみません、お嬢さんのお名前を伺ってもよろしいですか?”というと、

スザンナ・フィリップスというんですが、ご存知ですか?”



あーた(←興奮のあまり、お父様をあーた呼ばわり、、)、知ってるも何も!!!!
”もちろんですよ!!お嬢さんのパミーナ、すっごく良かったですもの!!
それからムゼッタの時も鑑賞してます。(もちろん、垢抜けない女呼ばわりした件はさりげなく抹消、、。
今では見違えるように垢抜けてしまいましたし!)”
お父様がすごく嬉しそうにされて、向こう隣に座られていた奥様、つまりスザンナ嬢のお母様に、
”このお嬢さんね、スザンナをムゼッタとパミーナの両方でご覧になっているそうだよ。”
するとお母様が、”まあ、スザンナのお友達?”
いえ、友達ではありません!!
というか、お友達だからそんなに鑑賞してくれているのだろう、というご両親の思い込みは謙遜にもほどがある!
お友達でなくても、私は彼女なら喜んで聴きに行きますよ。
すると、お父様が、”メトでは来シーズンはクリスマス・シーズンの『魔笛』(アブリッジ版)に出演して、
その次の年は『こうもり』にキャスティングされています(『こうもり』!メトでは久しぶりの上演で嬉しい!)。
それからもうすぐ日本にも行きますよ。東京と、後、Nで始まる都市なんですが、、、うーんと、、、”
”名古屋ですか?””そう!それです!!”
これはどうやら、メトの2011年日本公演の『ラ・ボエーム』のことのようで、彼女はもちろんムゼッタです。
お父様に、私が日本語でオペラブログを書いていることをお話し、
”スザンナ嬢の来日に関しましては、ブログでこの私めがしっかりと宣伝しておきますので。”と固くお約束しました。
彼女とマルチェッロ役のクウィーチェンのケミストリーはすごく良いものがあるので、
日本公演の『ラ・ボエーム』を鑑賞される方はぜひ楽しみにして頂きたいと思います。

と盛り上がっている間に、マルコがピットに入ってきました。いよいよ、第2ラウンド!!

①’ヘアラン・ホン Haeran Hong (ソプラノ)
モーツァルト『フィガロの結婚』より”恋人よ早くここへ Deh vieni, non tardar”
先に結論を言ってしまうと、前半は参加者の多くが強みを発揮し、それで混戦模様になったわけですが、
後半は、なんと、ほとんどの参加者が弱点を露呈し、違った意味で一層混戦を極めた感じがします。
そんな中で、数少ない、一曲目よりも二曲目の方が魅力的だった参加者がこのホン。
彼女は高音やトリッキーな技巧がある曲より、絶対にこういう曲の方がいい。
線は少し細いですが、彼女の声そのものの美しさ、それから丁寧なフレーズの扱いといった長所が
いかんなく発揮されていました。この曲で彼女の唯一の泣き所は、日本人歌手にも多いパターンですが、
どこか演技に照れがあって、自分が抜け切れない点です。
せっかく素材的には申し分ないものを持っているのですから、もっともっと役に没入しておくれ!!

②’ マヤ・ラヒヤニ Maya Lahyani (メゾ・ソプラノ)
ビゼー『カルメン』より”セヴィリヤの城壁の近くに(セギディーリャ) Près des remparts de Séville”
あ~あ。彼女はやっちまいましたね。これは選曲のミスも大ミス、リカバリー不能!です。
大体、カルメンほど歌うのが難しい役はないんですよ。
メトでつい最近歌ったガランチャのような優れた歌手でさえ、
カルメンらしくない!と言って不満を言うヘッズがいる位なんですから。
特にこの曲は、結構単純に見えて、魅力的に歌うのが非常に難しい。
こういうオーディションの場で、いくらよく知られている曲とは言え、いや、もしかすると、だからこそ、
技術よりも表現にものすごい比重がかかってしまうような曲を選ぶのはとんでもない大失策です。
実際、彼女も技術的にはそこそこに歌えているのに、カルメンという人物の強烈なキャラクターが表現できず、
観客にアピールするものが少ないまま、曲が終わってしまいました。
この役のためには、”歌う女優”でなければならないはずが、”女優”の部分の未熟さだけが目だってしまった感じ。
毎年いますね、、彼女のような選曲による自滅型の歌手が、、。

③’ レナ・ハームズ Rena Harms (ソプラノ)
プッチーニ『トゥーランドット』より”氷のような姫君も Tu che di gel sei cinta”
一曲目で、もうちょっと違うレパートリーを歌ってはどうか、と提案した彼女ですが、
うーん、この曲も、またしてもものすごいばりばりと力任せに歌っています。
この曲、私は個人的に、同じリリコでも逞しい声よりは、少し軽い声の人が歌う方が好きで、
というのも、その方が旋律に繊細さが生まれるように思うからなんですが、
かように、歌おうと思えば、繊細に歌うアプローチがあるこの曲でも力任せになってしまうのは、
彼女の声のコントロールのラフさとメンタルなものもあるのかな、と思います。
音がきしきししていて、柔らかさとか繊細さ、柔軟性が感じられない。
彼女は歌唱自体に大幅なオーバーホールを施さないと、非常に退屈な歌しか歌えない危険を孕んでいると思います。

④’ ナタニエル・ピーク Nathaniel Peake (テノール)
マイアベーア『アフリカの女』より”おお、海より現れた楽園よ O paradis"
相変わらずどことなく頼りない歌ですが、一曲目よりは落ち着いて来たのか、
高音は、正しいところにおさまると、素直な伸びがあり、サイズもきちんと備えていて、決して悪くはありません。
素直に出てくる音というのは、耳に快いものですが、ただ、それが即ち魅力的な声に直結するかというと、
そうでないのが苦しいところ。つまり、彼の声にはあまり個性を感じません。
また、他の参加者と比べ、28という年齢を考えると、やはり技術がちょっと未熟だと思います。
歌っている時の呼吸の配分の悪さのせいで、旋律が台無しになっている部分もありました。

⑤’ ロリ・ギルボー Lori Guilbeau (ソプラノ)
バーバー『アントニーとクレオパトラ』より”なにか音楽を Give me some music"
考えてみれば、ある意味、マスター・クラスで受けたレヴァインからのアドバイスを忠実に実行に移している感のある彼女。
あの時も、彼女の英語の歌は非常に説得力がありましたが、
今回、エリザベッタのアリアと同じ位、強い印象をこの曲でも残してくるんですから、
この広いレパートリー対応能力はすごいものがあります。
それから、この大舞台で持っているものを物怖じせずいかんなく発揮できる度胸も。
二曲のトータルはもちろん、両曲の出来の乖離の小ささでも、ずば抜けて彼女が一番。
冒頭の写真、青いドレスの女性がギルボーです。

⑥’ ヒョ・ナ・キム Hyo Na Kim (メゾ・ソプラノ)
ドニゼッティ『ラ・ファヴォリータ』より”おお、私のファルナン O mon Fernand"
全く何なんでしょう、、、もしかすると、このファイナリストたちがメトで特訓を受ける間、
(映画『The Audition』でも描かれている通り、グランド・ファイナルズの前、一週間ほど、
ファイナリストたちはメトのスタッフから、指導を受けられます。)
イタリアのディクションのコーチが不在だったんでしょうか?
この『ラ・ファヴォリータ』からのアリアもフランス語バージョン。
(なので、正確には、ラ・ファヴォリートですが、一般にファヴォリータという演目名で知られているので、
それに習いました。アリアは、イタリア語のフェルナンドではなく、フェルナンにしてあります。)
一曲目でモーツァルトを歌い、二曲目にファヴォリータを持ってくるとは、
彼女はこの曲で大勝負に出た感じがありますが、ああ、その企みが裏目に出るとは、、。
この曲は、高音にきれがあって、かつ、充実した低音もあって、装飾歌唱の技術もある、
メゾでありながらソプラノのいいとこどり、つまり”両方を持っている人”が歌ってこそ、
真価が発揮されるのではないかと思うのですが、彼女の歌ではっきりしてしまったのは、
この曲を歌うには、彼女がそのどちらでも中途半端であることです。
この曲で必要とされる最高音域はやや彼女には苦しいようで、音がフラットになっている個所がいくつかありましたし、
必要な歌唱技術に振り回されている感じ。こういう曲はこれらの点がしっかりクリア出来てからでないと、
普通以上に観客をがっかりさせる結果になってしまいます。
二曲目に違う曲を歌っていたなら、余裕でグランド・ファイナリスト入りしていたかもしれないのに、、と思わずにいられません。

⑦’ レイチェル・ウィリス・ソレンセン Rachel Willis-Sørensen (ソプラノ)
モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』より”岩のように動かずに Come scoglio"
まずいことになってしまったと言えば、この彼女も同じ。
どうしたんでしょう、このモーツァルトは、、?
一曲目のワーグナーでの魅力ある歌唱を帳消しにするような出来です。
繰り返し出てくる同じ高音で、全く同じパターンの、無理矢理押し出すような音になってしまうという問題が見られましたし、
モーツァルトの曲の旋律を滑らかに聴かせる根本的な技術が不足しているように思います。
彼女は舞台上のプレゼンスと客を味方につける優れた能力はあって、
コミカルかつキュートな演技を挿入することで、なんとか歌の不足部分を補い、
観客からの受けは悪くなかったですが、この意地悪ばばあの目はごまかせません。
いまいちな歌唱を紹介するのも気がひけますが、彼女が2007年に歌った『フィガロの結婚』の
”愛の神様 Porgi, amor"の映像があります。うーん、今回の『コジ』よりもさらに悪い!




ただ、私が強調したかったのは、これが彼女の全てでない、ということの方で、
違うレパートリーでは彼女は魅力的な歌も歌える、という点です。
でも、モーツァルトからは手を引いた方がいいでしょうね、多分。

⑧’ エリオット・マドーレ Elliot Madore (バリトン)



ロッシーニ『セヴィリヤの理髪師』より”わたしは町の何でも屋 Largo al factotum della città”
今年は男性不作の年だと書きましたが、考えてみれば、バリトンも彼一人だけなんですね。
一曲目は『ドクター・アトミック』からの曲を歌うという素っ頓狂ぶりに度肝を抜かれましたが、
二曲目は正攻法、フィガロで来ました。
それにしても、彼は本当に声のサイズが小さい、、、
『ドクター・アトミック』はともかく、この『セヴィリヤの理髪師』の
ロッシーニのオーケストレーションをバックにしてすら、声が良く聴こえない箇所、多数。
連音符の最後の音がしばしば飛ばされるのも気になります。
そんな状態なので、表現の面を云々するのも憚られる、、。
いくら若さ(22歳)ゆえの将来性に賭ける、と言っても、彼の場合、この声で、
例えば、メトの舞台で、端役を割り当てるとして、一体全体どういう役なら務められそうか、
私にはちょっと想像がつきません。

⑨’ リア・クロチェット Leah Crocetto (ソプラノ)
プッチーニ『つばめ』より”誰がドレッタの不思議な夢を Chi'il bel sogno di Doretta"
この彼女もまたよくわからない二曲目を携えて出てきました。
ドレッタの夢、、、だから彼女はエルナーニでも逞しすぎる!と言っているのに、
なぜさらに軽いレパートリーに行こうとするのか、、。
彼女は少し自分の声のタイプを把握し損ねているんではないかな、と思う部分があります。
それにしても、高音はしっかり出ていると言っても、こんなにでかく歌うか?普通、、、
あの一番の聴かせどころである高音をピアノで歌ってひっぱるなんて、考えたことありません!!とばかりに、
すごいボリュームで鳴らしまくる彼女のこの曲に、マグダもこの曲もこんなじゃない、、、と、
違和感ばかりが残る歌唱でした。

これで全員二曲とも歌い終わり、審査員が最終結果に頭を悩ませる間、ゲストによるパフォーマンスがありました。
今年のゲストは、なんと、フレデリカ・フォン・シュターデ。
マリリン先生の弁によれば、2人はメトでのデビューがほぼ同時期で、同じ舞台に立ったことも何度かあって、気心の知れた仲。
”勤勉で、素晴らしい同僚。かなりクレージーだけど、それも彼女の一部で、だからこそ、私達は彼女のことが好き。”
という、マリリン先生の言葉に彼女への愛を感じます。
今日が、彼女がメトで歌う最後の機会になるということで、ゲルブ氏から記念のアイテムが贈られました。
そして、”出来ることなら、2人揃ってこの先のシーズンにブッキングしたい位ですが、
それは叶わぬことです。”という言葉まで!
、、、あのね。この2人はそれなりのお歳なのでともかく、
まだ全然いい歌を歌える現役の歌手をきちんとブッキングすることこそに心血を注ぎましょうよ!
ネトレプコのミミに、スウェンソン姉さんのムゼッタ、、、
(これ、実際に最近の公演で病欠したキャベルに代わって実際にあった配役!)
最近とんと姿を見ないヘイ・キョン・ホン、、、そういうの、本当おかしいから!!

フリッカ(フォン・シュターデの愛称)はマリリン先生より10歳ほど若い1945年生まれ、
今年65歳になりますが、全然見えない!彼女のキュートさは本当に天然なんだな、と思います。
披露された曲は、マスネ『ウェルテル』から”お願い、涙を流させて Va! laisse couler mes larmes"と、
オッフェンバック『ラ・ぺリコール』から”ああ、なんていうお食事 Ah! quel dîner"。
二曲目の曲は1996年のレヴァイン・ガラでも歌っていますが、ここでは同じ作品から
”あなたはハンサムでもお金持ちでもない Tu n'es pas beau, tu n'es pas riche”を、
さらに10年前の1985年の映像でご紹介しましょう。
本当に滅茶苦茶かわいかったフリッカの当時に思いをはせながら、、。
 



さすがに今は声の衰えが隠せませんが、肩の力を抜いて、ユーモラスに歌う彼女の姿に、
観客から浴びせられた温かい喝采を見ると、オペラ歌手として最も幸せな引き際に恵まれた人だと思います。
この後、カーネギー・ホールでのさよならリサイタル(何人かの友情出演が予定されているようですが、
ここにマリリン先生が入っている可能性高し!)やラヴィニア音楽祭、ヒューストン・グランド・オペラへの出演など、
限られた数のパフォーマンスを経て、来シーズンに正真正銘の引退となるようです。
メトの舞台に立つのは本当にいつも楽しかった!と、天真爛漫に語るフリッカに、逆にこちらがほろりとしてしまいました。

しかし、最終結果がマリリン先生の手元に届くと、再び、緊張に包まれるオペラハウス。
グランド・ファイナリストの最終枠は5名。正直、今年はギルボーが確定であることと、
この参加者は無理そう、、という位の予想はありますが、5人に絞るとなると、至難の技。
どんな顔ぶれになるのか、、、?

まず、発表された一人目はリア・クロチェット。私は個人的には彼女の歌も声も好みではないですし、
30歳という年齢を考えるとちょっと疑問に思わない点もないではないのですが、
5人選ばれる中には、まず入っていて順当だと思います。
そして、二人目はロリ・ギルボー。これはもう当然。
しかし、三人目と四人目の発表で私はぼー然、、、バリトンのエリオット・マドーレと、
テノールのナタニエル・ピークという、いけてない男性コンビが入賞です!!!

えええええええええーーーーーーっっ!!それ、おかしいだろう、、、どう考えても!!!
また昨年に続く、ポリティカル・コレクトネス効果でしょうか、、?
オール女性はまずい!という、、、。
しかし、この2人が入賞してしまうということは、、、、誰が落選するの??!!!
結局、残りの一枠は、レイチェル・ウィリス・ソレンセンが獲得して終了。

いや、本当に、韓国の2人の方が、このてんで魅力のない男性陣に比べりゃまだいいぞ!!
非常に混戦していたのはわかりますが、なんだか、”女性陣で残り二枠の甲乙をつけ難いから、
もう考えるの面倒臭いし、代わりに野郎二人を入れちゃえ!”とでも考えたのではないかと思うような、そんな選択です。

後、例の映画"The Audition"効果で、観客が増えたのは喜ばしいですが、
去年までの方が、ずっと観客の各歌唱への反応が的を射ていたと思います。
今年の観客は、正直、声域にもともと備わったスリル(テノールのピーク)とか、
曲自体の楽しさ(バリトンのマドーレが歌ったフィガロのカヴァティーナ)と、
歌手個人の歌唱の出来を混同している人が多いように思いました。
私の隣のおば様も一生懸命に各歌手への評価をプレイビルに記入されていましたが、
私の評価とは真逆で、かなりぎょっとさせられました。
しかし、この観客の喝采の大きさが、微妙に審査員の心証も左右するのですから、馬鹿になりません。
オペラ歌手は観客の心をつかめてなんぼ、という部分があるのも事実ですから、、。
それにしても、ちょっと、この結果は、、、ね、、、。


Conductor: Marco Armiliato
Metropolitan Opera Orchestra
Grand Tier C Odd
ON

*** National Council Grand Finals ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズ***

NATL COUNCIL GRAND FINALS (Sun, Mar 14, 2010) 前編

2010-03-14 | メトロポリタン・オペラ
昨年度の記事でもふれましたし、映画『The Audition』のおかげで、このブログを読んでくださっている方にも、
すっかりコンセプトが浸透してきたように思われるナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズ。
よってナショナル・カウンシルの詳しい背景の説明は割愛させて頂き、早速今年の”オーディション”についての感想を。

まず、今年は、ジョイス・ディドナートが司会の予定で、
私は彼女のポジティブ・オーラを再び燦燦と浴びれるのを楽しみにやって来たのですが、
なんと、プレイビルを開けてみれば、そこには、悪天候のため、NYへのフライトがキャンセルになり
登場できなくなったディドナートに代わり、マリリン・ホーンが司会をつとめる旨の通知がはさまれていました。
ディドナートの可愛らしいポジ・オーラとはまた全然違いますが、
つい数ヶ月前のマスター・クラスで見たマリリン先生の楽しいキャラクターもこの司会役にはうってつけで、
メト、急しのぎとはいえ、よくこんなファビュラスな代役を連れて来たものです。

実際、映画『The Audition』効果か、今までのナショナル・カウンシルでは見た事ないほどにぎっしり埋まった客席
(今年のチケットは売り切れだったそうです。)に向かって、水を得た魚のように、アドリブ満載で場を仕切る仕切る、、
さすがはマリリン先生!です。

司会の代役の依頼をマリリン先生が受けたのはなんとお昼の12時頃(開始のたった3時間前!)。
朝からメトが必死になって何度も電話をかけまくっていたのに、電話をとらずにいたそうです。
電話をとらずにって、、、さすが、マリリン先生!
”こういう急場の代役はリンカーン・センターの近くに住んでいるとついてまわる代償だわね。”と言いながら、
現役で活躍していた頃にも一度、大晦日のメトの公演で、代役(もちろん歌で!)をつとめたことがあると語っておられました。

また、携帯等の電源は必ず切ってください、と言いながら、
”私は一度だけ、メトでオペラを見ている時に電源を切り忘れたことがあって、
着信音に設定してあったワルキューレの騎行が高らかに鳴り始めて、それはもうパニックですよ。
しかも、かばんの底に携帯がまわりこんでしまって掴むのに時間のかかることといったら!”
マリリン先生、、、、それはいかんでしょう!!

マリリン先生が舞台に登場した際、すごい喝采が巻きおこったのですが、
ずっと自分の名前を名乗らなかったので、オケの奏者の中には誰が司会に立っているのか
しばらくわからなかった方も結構いたと見え、”この面白いおばさんは誰だ?”と、その姿を確認しようと、
ずっと彼女が喋っている間、ピットの中から舞台の上を仰ぎ見ようとしている人多数だったのですが、
やっと、マリリン先生が、”あ、私、マリリン・ホーンですけどね。”と言うと、
”ああ、、なるほど!!”という納得の表情でしたので、マリリン先生のキャラは広く知れ渡っているもののようです。

今日の指揮は映画『The Audition』が撮影された年と同じ、マルコ・アルミリアート。(指揮者は毎年違います。)
開始直前に私の隣の女性が最初のマスネの『マノン』の、
Je suis encore tout étourdieのétourdieってどういう意味かしら?とおっしゃると、
すかさず、逆隣の男性が、”これはくらくらしてぼっとする(dazed)というような意味で、
マノンが馬車から降りて間もなく歌うんですよ。まだ、私、ぼっとしてるわ、ってね。”
おばさまと私がぱちぱち、、と小さく拍手をすると、
”いやね、それはうちの娘がこの曲を歌ったことがあるからでして。”と照れ臭そうにされるおじ様。
うちの娘、、?、、、とはいっても、どうせ、学校かプライベートでとっている声楽レッスンでちょっと歌っただけでしょうし、
もうマルコが指揮台に立ってお辞儀しているから、それどころじゃありません。
”へえ、そうですか。”と軽く流して、私の心はもう舞台の上に飛んでしまっているのでした。


① ヘアラン・ホン Haeran Hong (ソプラノ)
マスネ『マノン』より”私はまだぼっとしているの Je suis encore tout étourdie"
韓国出身で現在ジュリアード音楽院で勉強中の28歳。小柄で棒のように細い体格と同様、
声のサイズは小さめですが、中音域から高音域まで非常に美しい、耳に快い響きの声を持っています。
ただし、彼女の場合はそこからさらに上の音域、つまり、この曲で求められる最高音域の辺りに来ると、
途端に音がシャローになる傾向があって、この感じは、『アリアドネ』『ホフマン物語』に出演していたキム
(同じ韓国の出身ですね、そういえば)が持っている問題と似ている気がします。
また、彼女はこの曲でのフランス語、二曲目のイタリア語、いずれもディクションに改善すべき点があるように思います。
彼女の最大の強みは先に書いた通り、ある音域での音色そのものと丁寧な歌い口にあって、
高音や装飾技巧が特別秀でているわけではないので、この曲は彼女の良いところもアピールできましたが、
同時に欠点がはっきりと見えてしまった面もあり、ベストの選曲だったかどうかは疑問に感じる点もあり、もったいなかった。
でも、私は彼女のような丁寧な歌、嫌いではありません。

② マヤ・ラヒヤニ Maya Lahyani (メゾ・ソプラノ)
ベッリーニ『ノルマ』より"神聖な森に人影はなくなった~ああ、私をお守りください 
Sgombra è la sacra selva ... Deh! proteggimi"
イスラエル出身の27歳で、SFO(サン・フランシスコ・オペラ)のメローラ・プログラムを経て、
今年の夏、SFOの『ワルキューレ』のワルキューレの一人でカンパニー・デビューの予定。
彼女はまず歌の前に、立ち姿が汚いのを何とかしましょう。
少し猫背で肩が内側に入っているのも気になるし、歌が始まる前まで、体や足がぐねぐねするのはもっと気になります。
ところが、歌いだすと、彼女、なかなかいい声をしているんですよね。
猛烈なパワーで押す声ではなく、深くベルベット的な恵まれた響きで勝負するタイプで、
ベル・カントのレパートリーから曲を選んでいるのは大正解。
技術には荒削りな部分もあるのですが、音を膨らませていったりだんだんと絞っていったり、といった部分の
コントロールの上手さにははっとさせられる部分もあって、今後の精進に期待します。

③ レナ・ハームズ Rena Harms (ソプラノ)
レオンカヴァッロ『道化師』から”大空で小鳥たちは(鳥の歌) Stridono lassu"
ニューメキシコ州出身の25歳、LA(ロサンゼルス)オペラ(ドミンゴ・ソーントン・ヤング・アーティスト)、
SFO(メローラ)、そしてサンタフェ・オペラのプログラムを経て、アメリカの小~中規模のオペラハウスですでに歌っているソプラノ。
真っ白な生地に切り替えと裾の部分だけ黒が入ったシックなドレスが似合っていて、
ベスト・ドレス賞があったなら、彼女に受賞させてあげたいところですが、歌の方にはちょっぴり問題あり。
まず、彼女の歌は歌い方に変化が乏しく、とてもワンパターンに聞えるのが一つ。
それから、これはそこと繋がっている問題かもしれませんが、発声がいつも押し気味で、
常に大きい方へ、大きい方へ、と流れて行く感じがあります。
e il marとか最後に出てくるseguonoなんか、本当はもっともっとニュアンスを込めて
繊細に歌うべき個所だと思うのですが、どれもこれも力いっぱい。
クレシェンド、デクレシェンドで表情をつけられる長い音、フレーズもどれも一本調子気味です。
また、彼女のいきんだ声はそれほど魅力的でないので、
もうちょっと違うレパートリーを歌うのも一策じゃないかと思うのですが。

④ ナタニエル・ピーク Nathaniel Peake (テノール)



ヴェルディ『マクベス』より”Ah, la paterna mano ああ、父の手は"
テキサス出身、28歳。ヒューストン・グランド・オペラのスタジオに在籍中。
今年は男性陣が奮わず、テノールのファイナリストは彼一人。
しかも、この歌は、、、。うーん、、、緊張気味なんでしょうか?
この曲、特に前半、呼吸が浅くて、音に重心がなく、頭のところなんか、へろへろでした。
どんなに緊張しても、音の土台、座らせる場所だけは、どんな時でもすぐに確保しなければなりません。
28歳というと、このナショナル・カウンシルでは若くはない年齢層になるんですが(参加は30歳までだと思います。)、
それとアメリカでは優れたオペラハウスの一つであるヒューストン・オペラで研修をしている点も加味すると、
その割には、技術が少し頼りないのが気になります。
特にある音域での呼吸の仕方、ここに彼は少し問題があるように見受けました。
また、彼はここが強い!という切り札のようなものがないのも私が彼の歌にあまり魅力を感じられない理由の一つです。

⑤ ロリ・ギルボー Lori Guilbeau (ソプラノ)
ヴェルディ『ドン・カルロス』より”Toi qui sus le néant 世の虚しさを知る神よ”
後編の冒頭の写真が彼女ですが、この名前を聞いてぴん!と来られた方は、実に記憶力が良くていらっしゃる。
そうです。彼女はあのレヴァインのマスター・クラスに参加していたソプラノです。ルイジアナ出身、24歳。
マスター・クラスの記事のなかでYouTubeから彼女の歌唱を聴ける映像を紹介しましたが、
今回さらに歌が上手くなった感じがします。
むしろ、彼女の場合、このクラスの歌手にしては歌が達者である点が、
小さくまとまることに繋がらないよう、私はそちらを心配します。
レヴァインのマスター・クラスの時は会場が小さかったので大きい声だな、と思いましたが、
その時に比べて、メトで聴くと、声がまろやかで決してそんな馬鹿でかい大声には聴こえなかったのもプラスです。
彼女の多分今最も気になる欠点の一つは、以前の記事で紹介した『メフィストフェレ』からのアリアでも伺えますが、
このエリザベッタ(フランス語版なので正確にはエリザベートですが)のアリアでも
最高音あたりになると、それまでの音に比べて音色の魅力が失われて、”首をしめられた鶏”的な音が入る点です。
特にフル・スロットルで出す音ではなく、柔らかく出さなければならない高音に顕著だと思います。
まあ、それは彼女に限らず、どの歌手にとっても難しくはあるのですが。
それから、一つ疑問なのは、なぜメトの上演でも採用されているイタリア語版、
つまり”Tu che le vanità"の方を歌わなかったのだろう?という点です。
彼女の二曲目は英語の作品だったので、意地悪な見方をすると、イタリア語に自信がないのだろうか?と勘ぐれないこともなく。
実際、考えてみると、マスター・クラスの時も歌ったのはフランス語二曲に英語一曲でしたね、、、そういえば。
既述の『メフィストフェレ』のアリアはイタリア語ですし歌えないなんてことはないと思いますが、
彼女は苗字からしてフランス系のようなので、フランス語の方が得意、というのはあるのかもしれません。
ただ、このアリアをフランス語で歌ってしまったことのデメリットは、
イタリア語版に比べて、彼女の低音域がどのような音かしっかりと聴ける機会がなくなってしまったことで、
例えば、イタリア語の方なら、しっかりした低音があれば、
冒頭の”Tu che le vanità conoscesti del mondo"のdoをがつーん!と歌うことが出来ますが、
フランス語ではこの単語がmondeになってしまうため、仮にごっつい低音を持っていても、
この軽短い音=deではアピールしきれません。
よもや、これまた、あまり低音が得意でないからごまかすために仏版を、、?と疑い始めるときりがありませんが。
まあ、しかし、そういった疑心暗鬼な部分を除けば、まだ学校を今年卒業する予定で、
学校主催の舞台や音楽祭をのぞき、そこそこ名の通った劇場(中小まじえても)では
まだ一度も端役ですら歌ったことがないのが信じられないような水準の歌唱です。
彼女はマリリン・ホーン・ファンデーションの秘蔵っ子のようですから、マリリン先生も鼻が高いことでしょう。

⑥ ヒョ・ナ・キム Hyo Na Kim (メゾ・ソプラノ)
モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』より”この心の中の苛立ち、鎮めがたい思いよ Smanie implacabili”
ナショナル・カウンシルでアメリカ人のファイナリストが多いのは当然としても、
その次に数が多いのは、今、彼らなんじゃないかと思うほど、いい歌手を送り込んで来ている韓国。
現在、NY、というか、うちの近所にあるマネス・カレッジ・オブ・ミュージックで勉強中の27歳。
パートが違うので比較しても意味がないですが、最初に歌ったソプラノのホンとは対照的に、
いい意味で”強い”感じのする声です。
この声でモーツァルトの作品を歌うというのに違和感を感じる人もいるかもしれませんが、
私は非常に音楽性が高い、良い歌唱だと思いました。
演技・歌、ともに表現力があって、細部に及ぶフレージングも非常に丁寧です。

⑦ レイチェル・ウィリス・ソレンセン Rachel Willis-Sørensen (ソプラノ)
ワーグナー『ローエングリン』より”ひとり寂しく悲しみの日を(エルザの夢) Einsam in trüben Tagen”
ワシントン州出身の25歳で、ヒューストン・グランド・オペラ・スタジオの研修生。冒頭の写真が彼女です。
このワーグナーでの彼女の歌唱は、全く悪くない出来で、ちょっと驚きました。
彼女のこの曲の優れている点は、高音でも全く無理に押している感じがせず、
叙情的でとても女性らしさを感じる点です。高音域は少しアイシーな音色なんですが、
パワーで押しまくる歌い方ではないため、この二つが組み合わさった場合に陥りがちな、
マスキュランで超人的な響きになるのを避けられているという、幸運な例です。
プロフィールの写真ではなかなかの美人で、舞台で大きく(横にではなく、全体的に)見えるという、
恵まれた資質も持ってます。いやー、ここに来ていい歌手が続いてます。面白くなって来ました!

⑧ エリオット・マドーレ Elliot Madore (バリトン)
アダムス『ドクター・アトミック』(!!)より”Batter my heart (私の心を叩きのめしてください、の意)” 
せっかく面白くなってきたのに、冷や水を浴びせるようなこの歌は一体何でしょう?!
っていうか、何を考えてこんな曲を選んだんでしょうね?この人は。
興奮して紹介が遅れました。カナダ出身の22歳でカーティス音楽院に在学中。
すでにアメリカの地方のオペラハウスの舞台には端役で立ったりしているようで、
今年の(レヴァインが絡んでいる)タングルウッドでは、『ナクソス島のアリアドネ』のハルレキンを歌う予定もあるそうです。
それにしても、彼は自分の声を、きちんと理解しているんでしょうか?
彼はメトで歌うには、というような枕詞が不必要なほど、普通のバリトンの水準で言っても、まるで声のサイズが小さい。
それをオケが半分主人公のようなこのアリアに挑戦するなんて、正気の沙汰とは思えません。
案の定、オケに埋もれまくってました。
それから、『ドクター・アトミック』はそもそも世界でも上演が少なくて、
オッペンハイマー役=ジェラルド・フィンレーの図式が出来上がっており、
そもそも、観客の側は、フィンレー以外の歌手でこの曲を聴いたことがまずないわけです。
それを、あの知的で歌の上手いフィンレーのBatter my heartとダイレクトに比較されるような状況を作るなんて、
これまた気違い沙汰。
観客はあのHDの時のフィンレーのBatter my heartを思い出して、
ああ、なんとあの時とは出来の違う歌唱なことか、、と思うだけなのです。
あ、そういえば、フィンレーはカナダ出身と記憶してますが、まさか同郷の彼へのオマージュ??
そんな余裕こいたこと、このナショナル・カウンシルの場でやってる場合じゃないんですけど!!
それから、もう一つ言うと、『ドクター・アトミック』は早くもオケのメンバーの記憶から抹消されてしまったようなのと
(だし、もともと上演時に演奏を担当していなかった奏者も今日は混じっているでしょうし、、。)、
マルコがあまり作品を良く知らないせいもあって、オケの演奏自体もかなり乱れてました。
乱れたオケとよく聴こえない歌、、、グランド・ファイナリストへの道に赤信号がともってます!!

⑨ リア・クロチェット Leah Crocetto (ソプラノ)



ヴェルディ『エルナーニ』より”エルナーニ! エルナーニ、私を奪って逃げて  Ernani!..Ernani involami"
サラソタ・オペラの研修生プログラムやSFOのメローラ・プログラムを経て、
SFOにはすでに端役で舞台に立っている、コネチカット出身、ぎりぎりセーフの30歳。
さすがに経験と年齢がものをいって、落ち着いているし、歌も割と練れている方だと思います。
彼女の声の大部分には、私があまり好きでない独特のべちゃっとした平べったいクオリティがあって、
それは個人的な趣味の問題だろう、と言われればそれまでなのですが、
高音がどんぴしゃのスポットに入ると、非常に美しい音を出してくることがあって、
それが、彼女をどうとらえていいか、わからなくさせます。
どちらかというと割とサイズのある声なので、この『エルナーニ』でぎりぎり、
下手をしたら、これでも逞しく聴こえすぎる傾向がある位です。

と、これで第1ラウンドが終了したわけですが、ごく限られた数名をのぞいては、
皆、それぞれの長所きちんと出ている選曲で、全く違うタイプの歌手でありながら、
ものすごく狭いレンジの中でしのぎをけずっている感じ。
誰がグランド・ファイナリストになるのか、全く予想がつかない状態です。
グランド・ファイナリストの定員は5名なんですが、これは5人に絞らなければならない審査員の苦労がしのばれます。

隣のおじ様も、”今年はいい歌手がたくさんいるねえ、、。”と言いながら休憩に立たれました。


<衝撃の隣のおじ様の正体、第2ラウンドの戦いの模様、フレデリカ・フォン・シュターデの最後のメトの舞台、
そして、グランド・ファイナリストの発表は後編に続く>

Conductor: Marco Armiliato
Metropolitan Opera Orchestra
Grand Tier C Odd
ON

*** National Council Grand Finals ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズ***

THE NOSE (Sat Mtn, Mar 13, 2010)

2010-03-13 | メトロポリタン・オペラ
わけあって、感想は3/18の公演とまとめて一本にさせて頂きます。
その理由と感想はこちらの3/18の記事をどうぞ。

また、『鼻』のあらすじはこちらを参照ください。

Paulo Szot (Kovalyov)
Andrej Popov (Police Inspector)
Gordon Gietz (The Nose)

Vladimir Ognovenko (Ivan Yakovlevich)
Claudia Waite (Praskovya Osipovna)
Grigory Soloviov (Constable)
Sergei Skorokhodov (Ivan - Kovalyov's servant)
Erin Morley (Female Voice)
Tony Stevenson (Male Voice)
Brian Kontes (Footman)
Sergei Skorokhodov (Porter of the Police Inspector)
Gennady Bezzubenkov (A Cabby)
James Courtney (The Newspaper Clerk)
Ricardo Lugo (The Countess's Footman)
Brian Kontes / Kevin Burdette / Philip Horst / David Crawford / Philip Cokorinos /
Grigory Soloviov / Christopher Schaldenbrand / Jeremy Galyon (Caretakers)
Brian Kontes / Sergei Skorokhodov / Kevin Burdette / Philip Horst / Michael Myers /
David Crawford / Brian Frutiger / Tony Stevenson / Jeffrey Behrens / Grigory Soloviov (Policemen)
Philip Cokorinos (Father)
Maria Gavrilova (A Mother)
Dennis Petersen / Jeremy Galyon (Sons)
Vassily Gorshkov (Pyotr Fedorovitch)
LeRoy Lehr (Ivan Ivanovitch)
Theodora Hanslowe (A Matron)
Claudia Waite (A Pretzel Vendor)
Christopher Schaldenbrand (Coachman)
Gennady Bezzubenkov (The Doctor)
Adam Klein (Varyzhkin)
Erin Morley (Mme. Podtochina's Daughter)
Barbara Dever (Mme. Podtochina)
Sergei Skorokhodov / Michael Myers / Brian Frutiger / Brian Kontes / Kevin Burdette /
David Crawford / Tony Stevenson (Gentlemen)
Jeffrey Behrens (Old Man)
Dennis Peterson / Grigory Soloviov (Newcomers)
Philip Horst (Black Marketeer)
Vassily Gorshkov (Distinguished Colonel)
Philip Cokorinos / Michael Myers (Dandys)
Christopher Schaldenbrand (Someone)
Sergei Skorokhodov / Brian Frutiger / David Crawford / Jeremy Galyon / Tony Stevenson /
Jeffrey Behrens / Vassily Gorshkov / LeRoy Lehr (Students)
Kathryn Day (A Respectable Lady)
Kevin Burdette / Philip Horst (Respectable Lady's sons)
Vladimir Ognovenko (Khorsev-Mirza)
Brian Kontes / Michael Myers / Kevin Burdette (Kovalyov's Acquaintances)

Conductor: Valery Gergiev
Production: William Kentridge
Set design: William Kentridge, Sabine Theunissen
Costume design: Greta Goiris
Video compositor and editor: Catherine Meyburgh
Lighting design: Urs Schönebaum
Associate director: Luc De Wit
ORCH O Even
OFF

*** ショスタコーヴィチ ショスタコヴィッチ 鼻 Shostakovich The Nose *** 

マイナー・オペラのあらすじ 『鼻』

2010-03-13 | マイナーなオペラのあらすじ
『鼻』

作曲:ドミトリー・ショスタコーヴィチ
原作:ニコライ・ゴーゴリ
台本:作曲家自身および、エヴゲーニイ・ザミャーチン、ゲオルギー・イヨーニン、アレクサンドル・プレイス
初演:1930年1月18日、レニングラード、マールイ劇場

第一幕
舞台はサンクト・ペテルブルグ(レニングラード)。八等官のコワリョフが床屋のヤーコヴレヴィチにひげを剃ってもらっている。
翌朝、床屋は焼きたてのパンの中から鼻が出てきて仰天する。
妻はかんかんに怒り、お客の鼻をそぎ落としてしまったのだろうから、さっさと始末して来いと言う。
床屋は、鼻を道端に捨てようとするが、そのたびに知り合いに出くわすので、どうしたらよいか分からなくなってしまう。
やっとネヴァ河に投げ込むことができたが、警官に見咎められて連行される。
一方、目覚めたコワリョフは自分の鼻がないことに気づく。
初めはただ信じられない思いだったが、本当だと分かるとショックを受け、鼻を探しに飛び出す。
大聖堂に入ると、鼻が人間の大きさになって、しかも五等官の制服に身を包んで祈りを捧げているのを見つける。
コワリョフは元の場所に戻ってほしいと頼むが、鼻は、何の話かわからないととぼけ、
自分より階級の低い者とは関わりたくないと言って拒絶した。コワリョフが目を逸らした隙に、鼻は姿を消してしまう。

第二幕
行方不明の鼻を捜すため、コワリョフは警察署長の家を訪ねるが、署長は不在だった。
苛立ちを募らせた彼は、新聞広告を出すことにする。新聞社に行くと、
担当者はある伯爵夫人の迷子の飼い犬の案件を持ってきた召使にかかりっきりになっている。
ようやく順番が来て事情を説明するが、担当者はそんな広告を載せたら新聞社の評判に関わるといって受け付けてくれない。
コワリョフは食い下がり、顔の覆いをはずして本当に鼻がないことを見せる。
担当者はびっくりするが、それなら記事にすれば売れる言い出し、好意の印にと、嗅ぎ煙草をひとつまみ分けてくれる。
侮辱され傷ついたコワリョフは新聞社をあとにする。
家に戻ってみると、使用人がソファに寝そべってバラライカを弾いている。
彼は使用人を追い払い、自分の惨めな境遇について嘆く。

第三幕
警察も行方不明の鼻の捜索に乗り出した。サンクト・ペテルブルグ郊外の駅前で刑事が警官を呼び集める。
人々が列車に乗り込もうとごった返す中、若いプレッツェルの売り子が騒ぎ出して駅は大混乱に陥る。
そこへ鼻が走ってきて列車を止めようとする。みんなで鼻を追いかけ回し、とうとう逮捕する。
鼻は叩かれると元の大きさに戻り、紙でくるまれた。

刑事がコワリョフに鼻を返す。コワリョフは鼻を顔に戻そうとするが、うまくいかない。
医者もさじを投げる。コワリョフはこの惨めな出来事の原因はポトーチナ夫人ではないかと疑う。
彼が夫人の娘との縁談を断ったから、呪いをかけられたのではなかろうか。
夫人に手紙を出すが、返事を読むと彼女は無関係であることがはっきりした。
そうこうしている間に、鼻が街をうろついているという噂が広がり、一目見ようと群衆が騒ぎ出し、警官隊が出動する騒ぎになる。

ある朝コワリョフが目覚めると、鼻が元通りになっていた。喜びのあまり彼はポルカを踊り始める。
釈放された床屋のヤーコヴレヴィチがやって来てコワリョフのひげを剃る。
鼻が戻って嬉しいコワリョフはネフスキー大通りをぶらつき、知り合いと陽気に挨拶を交わす。
登場人物たちは、この物語は一体何だったのだろうと振り返る。

(出自:メトのサイトから、2009-2010年シーズン作品の日本語によるあらすじより。
写真はメト2009-2010年シーズンのケントリッジ演出の舞台より。)

*** ショスタコーヴィチ ショスタコヴィッチ 鼻 Shostakovich The Nose *** 

ATTILA (Sat Mtn, Mar 6, 2010)

2010-03-06 | メトロポリタン・オペラ
もともと予定されている公演数の多さにもよりますが、メトでは、同一演目の、同じ組み合わせのキャストに関しては、
最低でも2~3回、多い時なら5~6回はシリウス(衛星ラジオ放送)での放送があります。
しかし、そんないつものルールが通用しない相手がいました!
アンコールの拍手を何度もされるのも嫌いなら、何度もラジオにのるのも嫌いです、の帝王ムーティ様です。
というわけで、帝王様に振ってもらうためにはどんな要求も呑まねばならないメトが、
たった一度だけオペラハウス外への発信を許されたのが、今日のマチネのラジオ放送です。
(ただし、土曜マチネの放送は歴史あるFMでの放送~長らくTexacoがスポンサーでしたが、
数年前にトール・ブラザースという家を販売する会社に引き継がれました~が基盤で、
これが今ではネットで世界にも配信され、同時にシリウスでも放送される仕組みになっています。)
ゲルブ支配人は死ぬほど『アッティラ』の公演をHDにのせたかったでしょうけれど、
まあ、あの初日のあほ臭い演出を観た今となっては、却って音だけの放送になるのは、メトのためだと私は思う。



というわけで、救いようのない演出は横に置いて、音楽だけの話をすると、
多分、今日は、初日と変わらないか、もしくはそれ以上の演奏を聴かせてくれるだろう、とすごく楽しみにメトにやって来ました。
ところが、幕が開く前に舞台に現れたゲルブ支配人の手下!どよめく客席!!
私の背中でおやじがこそっと呟く。”No Muti? (ムーティなしか?)”
しかし、問題はムーティでなく、ウルマナが風邪気味なので、ご理解を頂きたい、との趣旨でした。
うーん、、これはちょっぴりショックです、Madokakip。
というのも、初日の演奏では、私はアブドラザコフのアッティラやヴァルガスのフォレストよりも、
彼女のオダベッラに一番わくわくしたので、、、。

今日のオケの演奏は初日に比べるとだいぶ肩の力が抜けた感じがあります。
その分、初日の方がアンサンブルの揃い方がもっとぴしーっとしている感じがありましたが、
まあ、それぞれ一長一短といったところで、それぞれの良さ(と当然の帰結として欠点も)があります。

で、ウルマナなんですが、、、
これのどこが風邪なの、、??初日とそんなに出来、変わらないんですけど。




(音源はこの3/6の公演のもの。アラスカの放送局KUACは通常アメリカ時間の翌日日曜に放送をしてくれるので、
リアルタイムでラジオ放送を聴けなかった場合にはとても重宝します。
そうそう、アメリカ時間で3/14の日曜日から、サマー・タイムになります。
日本でこれらの放送を聴かれる方は、日本時間に換算される場合に、冬のプラス14時間でなく、
13時間になりますのでお間違えなく!!)

強いて言えば、高音より低音域の方で、初日よりやや音の詰まり方が薄い、密度の薄い響きになっているような気もしますが、
少なくともわざわざ開演前にアナウンスしなければならないような風邪にはとても聴こえません。
多分、彼女自身がこの役に少しナーバスになっていて(実際、他の公演日やリハーサルでは、
初日ほどの出来ではなかった、という話も聞き、毎回安定した出来の歌唱を聴かせられる、というわけではないようです。)、
ラジオの放送もあるし、出来が思わしくない時の予防策として行ったアナウンスなんでしょうけど、
思いのほか、彼女の出来が良いため、本当のところがばればれです。
ま、いいです。歌がいい方に転ぶのなら何だって。



それにしても、アブドラザコフにしろ、ヴァルガスにしろ、初日とほとんど内容が変わらず、
出来の乖離が信じられないくらい小さい。まるで初日のリプレイを聴いているみたいです。
それはおそらく、それぞれの役で、彼らなりに歌がきちんと完成されていて、
かつ、彼らが非常に安定した歌唱力の持ち主であるゆえだと思います。

それにしても、アブドラザコフに関しては、声は綺麗だし、こんなに丁寧に、こんなに正確に、こんなに上手く、
しかも彼がイタリア人ではない事実からすると驚くほどオーセンティックに歌っているのに、
なぜか、あまり心に訴えかけてくるものがない、この点も初日と全く同じです。
これは、ある意味、下手な歌を聴かされるより、観客としてフラストレーションがたまる状況とも言えます。
大熱狂したいのに出来ない、、、。
言ってみれば、いい食材、いいシェフが揃っているのに、パンチが足りない料理と同じで、
”なぜ、、??”という言葉が頭の中に何千とひしめきます。
これは別に彼がムーティと組んだために、丁寧に歌うことがプライオリティになってしまっているからだけではなく、
他の指揮者と組んでも、彼の歌唱にいつも見られる傾向です。



まさか、さすがにこれは、何でもコントロールしたがると聞くムーティでも彼の仕業ではあるまい、、と思うのですが、
なぜだか、今回の『アッティラ』の公演では、メイクがいつものメト仕様より、かなり濃い目で、
フォレスト役のヴァルガスにいたっては、プラダの衣装なんかより、腹巻き&ステテコの方がぴったり来そうな、
ものすごい”日本の泥棒”メイクで、オダベッラに会いに来たというよりは、
何かを盗みに来たのかとこちらが勘違いしそうな勢いです。



彼に関しても初日に持った感想と全く同じで、彼の持てる力は全部発揮して、丁寧に歌っているんですが、
なんといっても、この役には声が軽くて、サイズが小さい。
彼の繊細な声としっかりした歌唱技術があるのを利用して、絶妙なデクレシェンドなどの声のコントロールで勝負するなど、
細かい技を放り込んでいるのは評価に値しますが、フォレスト役を歌うにはぎりぎりか、
人によっては無理と判断するかもしれない声自体の不足感を完全に埋め合わせられているか、というと、やや微妙です。
それから彼は三年前くらいまで、本当にすごい美声だったんですが、
彼の声を際立たせていたあの独特の美しさが少しずつなんですが、損なわれつつあるような感じがして残念です。
このフォレストのような、本来の声質に合わない役を頻繁に歌うことも、その状況を加速することこそあれ、
遅くすることはないと思います。
前にもどこかのエントリーで書いたと思うのですが、
ヴェルディの作品で彼の声に本当に合うと思うのはアルフレード位までで、
それ以上のものは、少なくとも今は、彼にはオーバーサイズなんではないかと私は思います。
ヴェルディの役をすすめて行くより、一部のフランスもの、ベル・カント・レップ、
それからモーツァルトの作品の方で、良い歌唱を聴かせられるテノールだと個人的には思うのですけれど。



カルロス・アルヴァレスに代わって、初日からエンツォ役を歌っているメオーニは、
観客からの受けがその初日と今日とも非常に良いのですが、私には、
これで名前を覚えて、将来何かの公演で聴けるのを心待ちにしたいような特別な歌手とは思えないです。
声に関しては初日よりは綺麗に出ていたと思いますが、やっぱり個性がない。
個性というのは、別に他のバリトンとものすごく違う突飛なものを持て、と言っているわけではなくて、
例えば声の深さとか、ノーブルな響きとか、力強さとか、何か、これこそが彼の声の魅力だ、と思えるような
要素のことを指しているのですが、それが彼の場合、私には非常に希薄に思えます。
それから音色が少しドライで、これで他のバリトンの重要な役どころを歌ってもどうなんだろうな?と思うところもあって、
丁寧な歌唱ではあるし、決して下手ではないのですが、メトをはじめとするメジャー歌劇場で主役級をはるのはやや辛い感じがします。

それから、ムーティの1回きりのラジオ生放送、というシチュエーションのせいで、
少し気持ちが浮ついてしまった部分もあるのでしょうか?
ムーティの指揮から歌が走ってしまったりして、”何をばたばた慌てているのか?”と思う個所もありました。
初日は大丈夫だったんですけれど、、。
アブドラザコフ、ウルマナ、ヴァルガスらのここ一発の集中力に比べて、その辺りに脆さが出るのも、
メジャー歌劇場常連組と少し差を感じてしまう点です。



しかし、私が今日一番残念だったのは、ソリストの誰でもなく、合唱です。
あんなに初日にキレのある合唱を聴かせていた男性陣がなぜか今日はもっこもこ。
というのもメンバーの間で発音されるシラブルのタイミングが全然きちんとあっていないからなのです。
フレーズ毎の最初の音の入りですら全然統一されていないし、
たった二週間そこらであなた方はムーティの教えを忘れたんですか?!と、頭から湯気が出る思いでした。
初日のような合唱だったら、プロローグの嵐のシーンももっと迫力があったはずで、
もうメトの合唱を下手だなどと言わさん!と世界に宣言できたのに、、、がっくりです。

ここで、その合唱も含む、この日の音源をもう一つ。




アッティラがローマに入ることができないと言い渡される夢
(それは即ち彼の破滅を暗示している)を見てすぐ、
それを言い渡したのとそっくりのじいさま=ローマ司教レオーネ=サミュエル・レイミーが率いる
キリスト教徒たちにアッティラたちが出会い、そのローマのパワーと、
いよいよ自分の終わりが近いのかもしれない、という予感に、アッティラが圧倒される、第一幕のフィナーレです。
残念ながらエツィオだけはこの場面にいませんが、それ以外は全主要キャストが勢ぞろいし、
オケや合唱とともにヴェルディ節を炸裂させる、『アッティラ』の最大の聴き所の一つです。
途中で短いパートでワブリング満開ながら個性の強い声を聴かせているのは、もちろんレイミーです。
(ちなみに『アッティラ』のあらすじはこちらにあります。)
確かにムーティが惚れこむ作品だけあって、リブレットは救いようがないほどハチャメチャですが、
こういうキャスト、合唱、オケが勢ぞろいする場面には、
ヴェルディがすでに後の名作を彷彿とさせる素晴らしい音楽をつけていることがよくわかります。



さて、レイミーと言えば、こちらの記事のコメント欄でも少しふれましたが、
ダラス・モーニング・ニュース紙のネット版に掲載されたメトの『アッティラ』評に
実名でこのプロダクションと演出家のアウディを非難するコメントをポストして、ちょっとした物議を醸しています。

”音楽的には素晴らしかった。ムーティは本当に初期のヴェルディ作品、特に『アッティラ』を愛しているから。
それは20年ほど前に、彼とレコーディングを行い、スカラ座の公演に関わった経験から、間違いない。
メトの初の『アッティラ』のプロダクションに、なぜ、もっと’普通の’演出を持ってこなかったのか、実に不幸だといわざるをえない。
セットも衣装もこの作品の時代、登場人物とも全く関係のないものだったし、
自分がリハーサルに立ち会ったところでは、演出家は歌手に何の指示も与えず、
舞台セットはドラマの妨げになるばかりだった。このプロダクションはフィアスコ(大失敗)だ!  
(司教を歌った)サミュエル・レイミーより”。



まだ公演中の演目に、こんな実名でレイミーがコメントをすることはさすがにないだろう、というので、
ヘッズのほとんどがレイミーの名前をかたったいたずらだろうと思っていたところ、
どうやら本人のコメントで間違いないらしいことが発覚しました。
レイミーは、”いやー、こんな大騒ぎになると思ってなくて、、。”なんて言ってたそうですが、
なるでしょう!それは!!(笑)
ちなみに、(司教を歌った)という部分は、私が足したのではなく、
もともとのポスティングにくっついていたものです。レイミー、お茶目ですよね、なんだか。
彼が物議を醸している争点というのは、まだ続行中の公演のプロダクションに、
出演者がこのように非難をしてもよいものなのか?という点にあって、
似た議論は、マルセロ・アルヴァレスのボンディ『トスカ』批判の際にもありました。
私個人としては続行中の公演であろうがなかろうが、別に歌手がプロダクションを批判するくらい、
いいじゃないか、と思いますが、まあ、色々な意見があります。



今回、アウディがボンディと違って非常にラッキーなのは、ムーティがメト・デビューだったということと、
『アッティラ』が初めてメトの舞台にのる上演の稀な作品であるということから、
音楽や作品そのものにヘッズの議論が集中しているからで、
こんなへっぽこ演出が主要レパートリーで出て来た日には、間違いなく『トスカ』と同様に、
ヘッズのシュレッダー・マシーンで跡形もなくなるほどに、ぼろ糞言われて、刻みまくられていたことでしょう。
実際、この演出のあほらしさと、それから舞台にいる登場人物の間に
全くといっていいほどコミュニケーションやドラマが存在していない様子は、
まだ演奏会形式で演奏した方が、観客のイマジネーションに任せられたうえ、
金も節約できるし、どれだけ良かったことか、と思います。
大体、このアウディというのが、この作品について、なーーーーんにも考えておらず、
何も語るべき言葉を持っていないさまは、あのレクチャーの時から伺えましたので、
実際に初日に舞台を観た時は、”やっぱりね。”と思っただけです。



それから、初日の前にNYポストに掲載された記事によると、
女性の合唱メンバーが数名舞台で歌う場面のために衣装をデザインしたプラダが、
”この衣装は、もうちょっと痩せた人に着用してもらわないと困る。”と文句をつけ、
合唱のメンバーを、自ら選別したモデルに摩り替えてしまったそうです。
当然のことながら、歌は必要なので、結局、痩せぎすのモデル女たちが舞台に立つ間、
舞台袖から女性の合唱が自らのパートを歌う事になってしまいました。
二幕のアッティラらがローマ人たちをもてなすシーンですが、音響的にも視覚的にも非常に奇妙なことになっています。
だいたい、プラダごときのこんなわがままをはねつけることもできないんですから、この演出家は終わってます。
メトの舞台を自分のコレクションのランウェイ代わりにしか思っていないしょうもないデザイナーは、
自分のいるべき場所をわきまえ、ブティックとかバーグドーフ・グッドマンあたりのデパートでじっとして、
そこから出てくるな、と思います。
オペラの衣装を担当するということは、その作品のための、その作品の登場人物のための衣装を作ることなんですから、
自分のデザインしたものを格好よく見せることが目的じゃないんです。
それを言えば、フォレスト役のヴァルガスが、時々、冬コレのモデルのように見えていたのが実に寒かったですし、
また、エツィオの最大の聴かせどころである第二幕の冒頭、彼が歌い出す前に舞台に佇んでいるシーンで、
胸にV字型に配置されているライトがちかちか点滅しているのには、客席から失笑が漏れていました。
(これ、初日には気付かなかったのですが、電池切れか何かだったんでしょうか?まあ、どうでもいいですけど。)
本当、私が子供の頃にデパートの屋上で観た子供向けのショーもびっくりです。溜息しかでてきません。



メトの『アッティラ』の公演日の間に、シカゴに赴いたムーティですが、
シカゴ響の関係者から、メト・オケとの演奏の感想を聞かれて、
いいオケだよ、と非常にポジティブな答えをしていた、という話が伝わってきました。
おかしなことに、どんな答えが返ってくるかが怖いからか、
いい答えをもらっても、社交辞令にしか聞えないと考えたからか、
ラジオの放送中でも、インタビューでも、メト側の誰も、オケについてどう思ったか?という直球質問を
ムーティに投げかけていないように思うのですが、
シカゴで、さりげなくポジティブなコメントをするとは、泣かせるな、帝王!です。

初日の感想で書いた通り、今回のムーティとの演奏は、初日よりはだいぶ堅さが取れてきたとはいえ、
やはり、ムーティを怒らせないように演奏しないと、、というややかしこまった雰囲気があります。
ヴェルディの作品で、猛烈にエキサイティングな演奏と出会うには、オケの自発的なパワーが必要で、
メトでは、ムーティほど著名でない指揮者と組んで、伸び伸びと演奏した時の方がそういう演奏が出て来るようにも思うのですが、
(最近ではフリッツァとの『トロヴァトーレ』など)
逆にそれらの指揮者とのコンビは下側の振り幅も大きく、また日によって全然仕上がりが違う、というのがざらですので、
常に一定の(それも高いレベルの)良質な演奏を振り出し、
しかも、演奏のカラーやスタイルがきちんと一定しているムーティの指揮による演奏というのは、
これはこれでやはり非常に優れているということなのだな、と二度鑑賞して実感が深まりました。


Ildar Abdrazakov (Attila)
Violeta Urmana (Odabella)
Ramón Vargas (Foresto)
Giovanni Meoni (Ezio)
Russell Thomas (Uldino)
Samuel Ramey (Leone)
Conductor: Riccardo Muti
Production: Pierre Audi
Set & Costume design: Miuccia Prada, Herzog & de Meuron
Lighting design: Jean Kalman
Associate costume design: Robby Duiveman
Gr Tier B Odd
ON

*** ヴェルディ アッティラ Verdi Attila ***

IL BARBIERE DI SIVIGLIA (Thurs, Mar 4, 2010)

2010-03-04 | メトロポリタン・オペラ
5ヶ月前の公演とは、がらりと顔ぶれが変わったBキャストの『セヴィリヤの理髪師』です。
(注:これまでにも書いて来た通り、私は単純に便宜上、時系列でA、Bと呼んでいるだけで、
メトの場合は必ずしもBがAより劣るとか、BがAの裏、ということはなく、
この『セヴィリヤの理髪師』が全くの好例ですけれども、どちらも表みたいなキャスト組み替えがシーズン中にあります。)

突然話は変わりますが、何事につけ、第一印象というのはあなどれないものです。
どんなに人気のある歌手でも、メトに主役級で出演する歌手は、基本、一シーズンに二演目がマックスなので、
私のように各演目を各キャスト組(A、B、時にC)毎に1回(時に2回のこともありますが)ペースで鑑賞していると、
おのずと、特定の歌手を聴く回数が規定されて来ます。
その限られた回数にしては、割に幅広いタイプのレパートリーで聴いている歌手の一人にディアナ・ダムラウがいます。
『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ(ロッシーニ)、『魔笛』のパミーナと『後宮からの逃走』のコンスタンツェ(モーツァルト)、
『ランメルモールのルチア』表題役と『連隊の娘』のマリー(ドニゼッティ)、『リゴレット』のジルダ(ヴェルディ)、
後はガラやコンサートでアリア単位での歌唱になりますが、『キャンディード』のクネゴンデ(バーンスタイン)、
『アリアドネ島のナクソス』のツェルビネッタ(R.シュトラウス)というのもありました。
(ここにあがっているものは全てAB=after blog、つまりブログ開始後のことなので、どこぞに感想が転がっています。
各々にリンクを張るとこの記事の字数がものすごく消費されてしまいますので、
ご興味のある方は、右上の検索機能でDamrauと入れ、”このブログ内で”で検索し、ご覧になってください。)



私が初めて彼女を聴いたのは、2006年のロジーナなんですが、実を言うと、この時の彼女の歌唱が全く好きでなく、
ずーっとその第一印象を引き摺って、なんと、彼女は、今年まで、”私のあまりぴんと来ない歌手リスト”の常連でした。
なんと、その間、約3年、、、、つくづく、第一印象とは恐ろしい。
第一印象の怖いところは、その印象をひっくり返すのには、相当な逆向きのパワーが必要であるという点です。
実際、その3年の間にも、決して悪くはない歌唱(特にモーツァルトの作品)もあったのですが、
あまりに第一印象が悪すぎて、私の彼女への評価はずっと変わらずにいたのです。
評価が逆転するのに必要だったのは、今年のメト・オケ演奏会での、ツェルビネッタのアリアを含む
シュトラウスの作品の歌唱と、それに続く『連隊の娘』の公演でのマリー役の歌唱でした。

彼女は本当にアンラッキーと言えばいいのか、『連隊の娘』の肝心な土曜マチネのラジオの放送日に風邪をひいて、
ラジオでしか彼女の歌を聴かなかったヘッズからはさんざんな評価を受けていましたが、
メト・オケ演奏会から私が鑑賞した『連隊の娘』の初日にかけては絶好調で、本当に素晴らしい歌を聴かせていただけに、
あの歌唱をラジオで聴かせられていたら、彼女のベル・カント作品での歌唱の評価は、
もっともっと上がっていたはずなのに、、と、本当にもったいなく思いました。



というわけで、私が聴いた公演に基づいて、彼女の歌唱をタイプにわけて私の好きな順に表記すると、
(ただし、タイプの分け方は、学術的に根拠のある分け方ではない点、ご了承ください。
たとえば、正しくはロッシーニもベル・カントに分類されますが、
下で言うベル・カントは、便宜上、非ロッシーニのベル・カントとして独立させています。)

ツェルビネッタのような超絶技巧系明るめキャラ(ドイツ語)

マリーのような超絶技巧系明るめキャラのベル・カント(フランス語)

モーツァルトの作品(私が聴いたものはドイツ語の作品のみ)


ルチアのような超絶技巧系不幸キャラのベル・カント(イタリア語)
ジルダのようなヴェルディ作品の不幸キャラ(イタリア語)



ロジーナのようなロッシーニの超絶技巧系明るめキャラ(イタリア語)

となります。もちろん、上に行くほど○で、下に行くほど×です。
矢印の数が一定でないのは読んでいる方の気のせいでも、私の気まぐれでもタイプ間違いでもなく、
それだけ両者の間で開きがあることを示しています。
つまり、ロジーナは、他の持ち役をぶっちぎりで引き離して、”好きでない”ということです。
こうして並べてみると、イタリア語の作品が下に寄っているのが興味深い、、。
それから、モーツァルトの作品に登場する女性って、明るいキャラとか不幸キャラという風に一概に分けづらい、、
分けづらいものは一緒にしちまえ!で一緒になってます。

でも、今日は2006年の時とは違って、今年、ダムラウの最上の歌唱も経験した上で鑑賞に望みますので、
変な思いこみも色眼鏡もないし、もしかしたら、ロジーナがルチアの上に上がる!なんてこともあるかもしれないな、、



、、と思って鑑賞をし始めたんですが、そういうことは起こらないんだな、やっぱり、、。
というか、やっぱり3年前に、この役で彼女の歌唱を初めて聴いたのがいけなかったんだな、と再確認しました。
そうなのです、彼女のロッシーニは全然良くないっ!!!

2006年にこのシャーによる演出が登場して以来、ロジーナ役にキャスティングされたのは、
ダムラウ、ディドナート、ガランチャという人気と実力の揃った3人だけで、
しかも、複数のシーズンに渡って、彼女達がローテしている状態です。

ガランチャは歌のテクニック、舞台での存在感については申し分ないのですが、
彼女の歌は、声質のせいもあって、どちらかというとからっとした方ではなく、ドラマティックに響く傾向にあり、
贅沢を言うなら、少しロジーナというキャラクターに完全にはまりきっていない感じもあります。
(なので、私は彼女はベル・カントを歌うなら、悲劇の方が断然良いのではないかと思っているのです。)

その点、声の質、歌の技術など、全てのファクターがバランス良く揃っていて、
しかもロジーナの雰囲気にぴったりなのは、この3人のうちではディドナートが一番だと私は思います。



で、ダムラウはどうかと言うと、彼女は役の雰囲気という点では、ディドナートと双璧でとてもいいです。
声についても、他の二人がメゾなのに対し、彼女だけがソプラノなため、もちろんテクスチャーの違いはありますが、
この演目を歌うに十分適した声質を持っています。問題は、一にも二にも歌で、
『セヴィリヤの理髪師』での彼女の歌唱には、
”ロッシーニの作品が聴きたくて”劇場に来た観客がフラストレーションを感じる要素が満載です。
言葉で表現するのが非常に難しいのですが、ロッシーニの作品の歌唱には、
絶対に外してはいけないポイント、おさえておかなければならないフレーズの取り方の基本というものがあると思うのですが、
彼女の場合、それがかなり自己流というのか、”独学系ロッシーニ”の体を示しています。
彼女のロジーナには、ツェルビネッタを歌う時のアプローチととても似たものを感じます。
例えば、次の音に行く間際で、少し音をグリッサンド気味にそこに近づけていく音の取り方は、
ツェルビネッタでは効果的ですが、ロジーナで同じことをすると、旋律がぐにゃぐにゃして聴こえてしまって、
作品の魅力が半減してしまいます。

ガランチャの歌はその点、いつも良い意味で優等生的で、絶対に歌い崩しがなく、
ぱきーっ!ぱきーっ!と正確に歌っていく感じがありますが、私はまだその方が、
ロッシーニの書いた旋律の美しさが損なわれないだけ、好きです。
ディドナートのロジーナが一番良いと私が感じるのは、彼女が、そのガランチャと共通する正確さを、
優等生さを感じさせずに、実に何気なくキープしながら、
その上に、微妙な柔らかさとおきゃんさをまじえて歌える点にあるのではないかと思います。



もう一点の問題は、アクセントで、ダムラウのロジーナの歌唱は、奇妙な場所、単語に強勢がつくのが気になります。
これは、『連隊の娘』のマリーでも少し感じたことなんですが、ネイティブではないことから生じる問題なのか、
他に理由があるのかは良くわかりません。ネイティブでないといえば、
ディドナートもガランチャもイタリア語ネイティブでないですが(ディドナートはアメリカ、ガランチャはラトヴィアの出身)、
この2人のロジーナからは、ダムラウほどのエキセントリックさは感じません。

高音が最もやすやすと出る、という点では、ダムラウは他の二人の比じゃないと思うのですが、
”今の歌声は Una voce poco fa"に出てくる高音の出し方でも、どこかさらっとして迫力に欠けて聴こえるのは、
まだ、『連隊の娘』中にわずらった風邪の後遺症なのか、それとも、却って簡単に出すぎて、
メゾの出す高音ほど迫力を感じないという、声種によるものなのか、、。
考えてみれば、私が生で聴いたことのあるロジーナはほとんど(もしかすると全部?)がメゾなので、
他のケースと比較できないのが残念です。
というわけで、ルチアの上に行くどころか、もう一個、下向きの矢印を足したいくらいな感じ。
彼女の場合、高度な歌唱技術が必要な役、というクライテリアで
レパートリーを選んでいるんではないか?と思うような節もあるのですが、
もうちょっと厳選した方が、彼女自身のためにも良いのではないかな、と思います。
せっかく、他の歌手の追随を許さないような歌を聴かせられる役も持っているんですから。



ダムラウについて語りすぎました。ここらで他のキャストに行かないと。
ロジーナが、ダムラウ、ディドナート、ガランチャの三人娘なら、
現在、ロッシーニ/超絶技巧系のベル・カント・レップ(レップ=レパートリーのこと)で
メトの舞台に立っている男性歌手は、フローレス、ブラウンリー、バンクスの3人組で、
アルマヴィーヴァ伯爵役も複数のシーズンにまたがって、この3人が歌っています。
2006年の公演は、フローレスが伯爵役で、これはHDにも乗り、NHKでも何回か放送されたように聞いているので、
フローレスの麗しい伯爵姿をご覧になった方も多いのではないかと思います。
しかし、フローレスが麗しいのは姿だけではなく、歌も、いえ、歌の方がより一層、です。

ロジーナ三人組がやや甲乙つけ難いのに比べると、
男子は、フローレスがダントツで上手く、3人の個性がばらっばらなのが特徴です。
バンクスは5ヶ月前の公演で歌っていましたので、感想はそちらの記事に譲るとして、今日のブラウンリー。
彼は、フローレスのとにかく繊細で丁寧でスタイルのあるほとんど完全無欠のような歌に比べて、
完全無欠じゃないところが却って魅力になりうるようなタイプの歌手です。
良い時の彼は、まるで体育会系のノリで、パワフルな高音をぶちかまし、
細かいところは気にしない!ののりで(とはいえ、彼のリズム感はすごく良いので、
問題がある時は大抵エグゼキューションの問題。)、とにかく力で押しまくる。
良い時に聴けば、これはこれでスリリングなんですが、こういうタイプの歌手の問題は、
そのスリルがない時、代わりにオファーできるものが非常に小さい点です。
今日の公演は、今シーズン最後の『セヴィリヤの理髪師』だったのですが、
そう日にちが経っていないBキャストの頭の方の公演を風邪で降板した日もあったそうで、
今日も彼のベストではないことは、歌い出した瞬間から明らかでした。
きちんと音は出ているのですが、きれとかエッジと行った、良い時の彼の歌唱を支えている要素が全く聴かれず、
いつもはこんなじゃないじゃないの、、、と、ちょっとがっかりでした。
彼の歌唱には、もともと、フローレスのような精巧さとか”ディテールの美”といったものはあまりないので、
こうなってしまうと、お手上げ状態です。
今シーズンの『連隊の娘』で、風邪でいつもの美声が損なわれていても、それ以外の部分で、
きちんと聴かせてしまったフローレスとは、対照的です。

それと、この演出は、フローレスのような見目麗しい歌手がやるからおかしい類の演技が結構あって、
それもブラウンリーには負荷となっていたように思います。
酔っ払いの兵士に化けて登場する時も、にせ音楽教師と現れる場面も、
彼のルックスにこの演技だと、逆に普通にはまり過ぎてしまって、おかしくもなんともないです。



今日、インターミッション中に休憩場所で相席になったのは、
パリとNYを行き来しながら生活しているという小柄でかわいいおじ様ヘッド。
私の方からフランスのオペラ状況などを伺った後、今度はおじ様が質問をされました。
”今日の公演で、誰の歌唱が一番好き?”
あちゃーっ! この質問って、私、苦手なんですよね、、、。
というのは、こういう質問がヘッドから来る時って、どれ位歌や歌手についての知識があるか、
どういうところにポイントを置いてオペラを聴いているか、
それから自分との相性はどうか?という、三点が試されているような雰囲気と、
それでもって、三点ともクリアしないと質問者を失望させるような感じがあって。

だが、しかし、そこで相手が喜びそうな、もしくは、納得しそうな答えを言わず、
つい、本当のことを言ってしまうのが、ヘッドというものです。

”そうですね、もう全然峠を越えているのを承知で、サミュエル・レイミーです。
声が猛烈にワブっていても、声そのものの持っている特別さは、申し訳ないですけど、
今日舞台に一緒に立っている他の歌手の比じゃないです。
それから、アンサンブルの時なんかに見られるリズム感。他の若い歌手の誰よりも、
きちんと指揮者とオケが作っているビートとシンクして歌っていました。
(全登場人物がオケピの外側にあるセリに出てきて歌う場面なので、指揮者の姿が見えないのに!)
それから舞台上のプレゼンス、演技のタイミングの上手さとか、役の雰囲気のつかみ方、、。”

と、そこで目を上げると、おじ様が、きらきらと顔を星のようにきらめかせているではないですか

”そう!その通り。私は今日、彼を聴きに来たんだよ。
もう昔のようには歌えないけど、やっぱり彼は他の歌手達とクラスが違う。
いつメトの舞台に立たなくなってもおかしくないから、聴いておかないとね。
それにしても、私が頭が悪いからかもしれんが、この演出はさっぱり意味がわからんね。
君、(一幕の最後で)どうしてかぼちゃの上におもりが落ちてくるかわかるかね?説明してくれたまえ。”

なーんだ、、レイミーのファンなら早くそう言ってくれればいいのに!
でも、説明してくれたまえ、と言われてもね、困るんですけれども。私が演出したわけではないですから。

そのシャーの演出なんですが、『ホフマン物語』を観た後だと、この二者でほとんど進化がないというか、
実は結構引き出しの少ない人なのかな、、?という不安を感じました。
来シーズンの『オリー伯爵』、大丈夫だろうか、、?

フィガロ役を歌ったヴァサロは、何やかやとほとんど毎シーズンメトに舞い戻って来て、
この役も、2007-8年シーズン以来の再挑戦。
彼はこの役の高音は楽々と出るみたいで、高音域になると朗々としたパワフルな歌声なんですが、
声のテクスチャーとしては、私はもうちょっと低音域ががっちりした人の方が好きで、
その点、5ヶ月前のポゴソフの方が全然好みなんですが、
ヴァサロの安定感はなかなかのもので、非常に堅実な歌を歌う人です。
ただ、この人はどこか華がないんですよね、、、。

一方で、今シーズン、これまでの地味な頑張りから、少し突き抜けた感じがあるのは、バルトロ役のムラーロです。
『連隊の娘』のシュルピスも好演でしたし、今日のバルトロもすっごくおかしかった!
彼はコミカルな演技がとても上手で(ロジーナの歌のレッスン中に居眠りしてしまうところの演技とか、
肩の動きだけで眠りに落ちた瞬間を表現していたりして、本当に上手い!)、
歌唱も安定しているし、このあたりの役では頼りになる存在です。
歌そのものに関しては、非イタリア人の歌手への許容度もそこそこ高い私なんですが、
このブッファ系の演技、これだけは、イタリア人歌手のそれが大、大、大好きです。

(今シーズンのBキャストの写真はほとんど出回っていないので、ダムラウとブラウンリーが一緒に写っている写真以外は、
以前のシーズンのものです。ご了承ください。)

Lawrence Brownlee (Count Almaviva)
Diana Damrau (Rosina)
Franco Vassallo (Figaro)
Maurizio Muraro (Dr. Bartolo)
Samuel Ramey (Don Basilio)
Claudia Waite (Berta)
John Moore (Fiorello)
Rob Besserer (Ambrogio)
Conductor: Maurizio Benini
Production: Bartlett Sher
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: Christopher Akerlind
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***ロッシーニ セビリヤの理髪師 セヴィリヤの理髪師 Rossini Il Barbiere di Siviglia***


ああ、オフィーリア!! HDを含む『ハムレット』全公演でデッセイ降板

2010-03-04 | お知らせ・その他
これはがっかりされる方が非常に多いのではないかと思うのですが、
ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日を含む全ての『ハムレット』の公演から、
オフィーリア役のナタリー・デッセイが降板することになりました。
一応オフィシャルの原因は”病気のため”。
すでにメトのサイトでもキャスティングが変更されていますので、確定です。

代わりにHDを含め、最初の6公演で歌うのは、マルリス・ペーターゼン(写真)。
(最後の二回の公演については、現在のところ、代役は未定となっています。)

後注:その後、メトから、最後の二回は、カナダのソプラノ、ジェーン・アーチボルドがh出演する旨の発表がありました。

ペーターゼンはもともと5月の『ルル』の表題役にキャスティングされているソプラノですが、
それでオフィーリアのような役も歌えるのか、、?
私は今までこのペーターゼンというソプラノは聴いたことがないので、期待半分、怖さ半分で待つことにします。
そもそも、上演自体もHDもデッセイのために企画されたといってもよい、
彼女のシグネチャー・ロールの一つなだけに、とても残念。
キーンリサイドはリハーサルに参加しているようですので、ご安心を。