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Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

THE SINGERS' STUDIO: VITTORIO GRIGOLO

2013-04-17 | メト レクチャー・シリーズ
『リゴレット』Bキャスト初日のレポートを先に書こうと思ったのですが、こっちが先に出来てしまいましたので、アップしてしまいます。

Singers’ Studioで、私が密かにやってみたかったことを実行に移してくれる歌手がようやく現れました!!
それがどういうことか後でわかりやすいよう、先に今日の登場人物の紹介をします。

ゲスト:ヴィットリオ・グリゴーロ (以下、VG)
現在メトの『リゴレット』(メイヤー演出)Bキャストでマントヴァ公を歌っているイタリア人テノール。
(しつこいようですが、このBはB級のBではなく、ランの中の順番としてのBです。)
2010/11年シーズンの『ラ・ボエーム』でメト・デビュー、出待ち編のレポートでも片鱗がうかがわれる通り、超ハイパー、超早口、元気一杯の36歳。

ホスト:F・ポール・ドリスコル (以下、FPD)
メトロポリタン・オペラ・ギルドが出版しているオペラ雑誌 Opera Newsの編集長でしばしばSingers’ Studioの司会を務める。
ゲストが何を語っても動じない、というか、ほとんど感情的な反応がない不思議なキャラクターゆえ、当ブログでの通称は“鉄仮面”。



オーディエンス代表:Madokakipの心の声 (以下、

以下はいつも通り、会話を正確に直訳したものではなく、メモを元にした意訳を再構成したものです。
手書きメモという超原始的なメソッドゆえ、グリゴーロ君の超早口には参りました、、。

************

FPD: まず皆さんに彼の名前を良く聴いて頂きましょう。
VG: ヴィットリオ・グリゴーロです。
FPD:ということで、グリーゴロではないですからね。皆さん、お友達に正しい発音を教えてあげてください。
:(そういえば、さっき、私の隣に座ってるおばさんもグリーゴロ、グリーゴロって連呼してましたね。)
FPD: あなたが歌の勉強を始めたのは8歳からで、12,3歳の時にはすでに『トスカ』の羊飼いの役でオペラの舞台に立っていますね。
そして、その時にカヴァラドッシを歌ったテノールが?(とグリゴーロに回答を促す)
VG: (それを焦らすかのように)魅力的ななかなか良い歌手でしたよ。
FPD:(グリゴーロがなかなか名前を出さないので焦れて)で、そのテノールの名前は?
VG: (しようがないな、、という風に)ルチアーノ・パヴァロッティです。
(そのことを知らなかったオーディエンスからどよめきが起こる。)
FPD: どのような経緯で歌を歌うようになったのか、話していただけますか?
VG: 僕の母親がサングラスを買うというのでついていっためがね屋さんで、シューベルトの歌がどこからともなく聴こえてきたんだ。
僕は今でもそんな風で、そしてそれが時々“too muchだ”といって批判される原因にもなるのだけど、すごく好奇心が旺盛なものだから、
“何々?”という感じで声の元を辿って地階に降りていったんだ。
僕は当時まだ7歳だったけれど、彼が歌っていた“アヴェ・マリア”を一緒に歌い始めたんだよ。
そしたら、そのおじさんに進められたんだ。歌を習った方がいい、って。
そこ(後述のバチカンのシスティーナ礼拝堂聖歌隊のこと?)はローマで一番ソルフェージュの勉強、音楽上のケアなど、優れた教育内容を誇る場所で、
三年間の奨学金制度もあるから、って言われて。
実は“アヴェ・マリア”はその二年前にいとこの結婚式で歌おうと思って準備してたんだ。
だけど、5歳程度の子供がそんなもの歌えるわけがない、というんで、僕がそういう風に言っても、みんな“はい、はい。”って感じでまともに取り合ってくれなかった。
結婚式のよくあるパターンでみんなが歌う順番の取り合いで、僕まで順番が回ってこないし、なんか最後の方に“アヴェ・マリア”なんか歌ったらみんなが悲しくなっちゃうかな、と思って、結局披露せず仕舞いに終わったんだけどね。
でも、二年後にそうしてめがねやさんの地下で歌う機会が訪れたんだ。
FPD:そうしてあなたはシスティーナ礼拝堂聖歌隊に入隊します。
VG: スコアの読み方、ヴォーカリゼーション、音楽のあらゆる側面で非常に優れた教育を行う場所で、僕の母親もびっくりしてた。
僕が習った先生は声楽的な面、技術の部分だけでなく、音楽の持つ感情の部分を理解するうえでも、
初めてついて習う先生としては最高の人でした。また助手の司祭の先生もいましたね。
一つの音だけでなくて、それが続いて複数の音になって、それが一小節になり、一フレーズになり、、という風に、
音の、音楽のつながり、というものを教えてくれたのも、貴重でした。
オペラ歌手の声が出る仕組みについて皆さんがどれだけ馴染みがあるかわかりませんが、、、
あ!あそこにホワイト・ボードがあるね!
(ゲストのためのひな壇から対角線にだいぶ離れた、Madokakipの座っているすぐ側の壁を指差したかと思うと、鉄仮面が返答できないうちにすでに立ち上がり、
いきなり走り出したかと思うと、気がつけばすでにMadokakipの真横に立ってペンでホワイト・ボードに何かを殴り書こうとしています。
私が持っている五感中、一番発達していると自負しているのは実は嗅覚で、
会社でも、しばしば他の同僚が気付く前に何かの匂いを嗅ぎ取ることが多く、“鼻がいい。”と褒められるのですが、
そんな私ですので、彼が側、ほんとに手を伸ばしたらすぐに手を握れるような側、に来た時は、
おそらく直前にシャワーを浴びる余裕はなかったのでしょう、良い意味でのほのかな体臭に香水の匂いが混じっていて、その匂いにクラクラしそうになるのでした、、。
ところが、いくらグリゴーロ君が書きなぐってもそれがホワイト・ボードに現れない。)
FPD: (次々とペンを取り出して躍起になっているグリゴーロ君を遠目に眺めながら、冷静に)
ヴィットリオ、それは特殊な電子ホワイト・ボードなので事前に設定をしてないと文字が表示されないんです。
こちらに別の普通のホワイト・ボードがあります。ペンを用意しますのでこちらに帰って来てください。
VG: (そんなハイテクなものだったのか、、という様子でちょっとがっかりした風にペンを置いてひな壇に走り去って行く。)
FPD: 今ペンを用意してますからちょっと待ってくださいね。その間にちょっと合唱隊での話を聞かせてください。
まだ変声前の状態ですよね、そうするとパートはどんな風になるんでしょう?例えばあなたの場合だとコントラルト?
VG: 合唱隊では普通に全部のパートがありますよ。バリトン、バス、、
(注:本人がどのパートだったかははっきりとは明言していないように思うのですが、聞き落としだったらすみません。)
一週間に二回の正式な活動があって、それに日曜のミサが加わる、というスケジュールです。
僕は小さい時から自分の目標とか野心とか夢を出来るだけ現実的で自分の手が届く範囲にしておく癖があるんだ。
例えば宝くじにあたることが夢、なんて現実味のない目標を立てたら、なんだかもうその時点で一生幸せになれない感じがしてしまって、、。
で、とりあえず、合唱隊にいる間はソリストになることを目標にしてました。
FPD: で、先ほど話題に上がったローマの『トスカ』での公演が1990年にあって、その時あなたは13歳ですか。
オペラの実舞台に上がって音楽のキャリアを進めて行くにしても随分と若い年齢でのことですよね。そのことの影響はありましたか?
VG: 実を言うと、自分としてはこれでキャリアが開ける!とか、そういう風な意味での大事とは当時考えてなくて、
とにかく舞台に立ってソロで歌えるというのがシンデレラ・ストーリーか夢のようで、その時はそれを精一杯生き、過ごすことで一杯でした。
僕のキャリアの中で何度かあることですが、これもまた、一番良い時期、一番良い人々、一番良い場所、が重なった例だったと思う。
僕は自分の最大の才能は、声ではなく、タイミングよく大事なチャンスが回って来て自分の力が認めてもらえる点にあると思っています。
でも、そういえば、その頃、映画の『トスカ』に出演しないか?という話もありましたね。
実際にローマの街でロケ撮影するという、あのドミンゴが出演した『トスカ』です(注:1992年の演奏でトスカ役はマルフィターノ)。
当初、あの企画はマゼールが指揮が予定だったんだけど、後にメータに変更になって、そうこうしているうちに話をもらってから三ヵ月後位かな?声変わりが起こってしまって。
母に“ちょっと一体どうしたの?!その声!”と言われたけど、“朝起きてみたらこうなってたんだよ。”と答えるしかなくて(笑)
昨日まで*&^%%(と鳥のように高い声で話す)みたいな声で話していたチビが、いきなり、(野太い声で)“母さん、コーヒー。”って(笑)
ということで、歌の方はその後しばらくお休みせざるを得なくなったんだ。
16歳からまた歌の勉強を再開したんだけど、その時はもっぱらオペラ一筋に練習しました。
ヴェネト州のリゴーザというバリトンが先生だったんですが、オペラ関係のCDをぎっしり鞄につめてレッスンに行くと、
“No more of this (こういうのはもう今後なしだからね。).”と言って全部CDを割られてしまって、、。(笑)
僕は小さい時から喋るよりも歌の方が自分の伝えたいことを相手に伝えやすいということに気付いていて、
“アイスクリームが欲しい。”なんていう言葉ですら、普通に言葉で発するのではなくて、メロディーをつけて母親におねだりしたりしてました。
その頃から歌、音楽には言葉にない魔法のようなものがある、と思ってた。
17歳からオーディションを受け始めましたが、同時にレストランで歌ったりもしていました。
大喧騒のレストランで『愛の妙薬』を歌ったり、ピアッツァで『セヴィリヤの理髪師』を歌ったり、、。
18歳の時には、初めて仕事でウィーンにも行きました。
当時のイタリアでは徴兵義務があったんですが、“僕には6ヶ月のコントラクトがあるんだ!兵役に出てたら契約不履行になってしまう!”と訴えて、徴兵免除にしてもらいました。
僕が前例を作ったせいで、その後、徴兵を免除された若者も少なくないと思います。
同じ18の時、仕事で一緒になったメキシコ人のテノールが素晴らしい歌い手で、またギターも上手なものだから(注:セヴィリヤの理髪師か?)
“こんな歌手には適わないな、、。”と当時思ったものですが、今では彼の名前を聞くことはなくなり、
逆に自分はこうして劇場で活動できる場を与えられているからわからないものです。
彼のように実力があっても、ちょっとしたことでキャリアにつながらない例はたくさんあるのだと思います。
だから僕のモットーは、とにかく自分の出来ることだけにフォーカスすること。
“Help yourself and Gold will help you. 天は自らを助く者を助く。”です。
FPD: あなたはオペラの舞台以外の活動にも熱心ですね。ポップスのアルバム、『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』
(過去・現在からのタレント、スポーツ選手、リアリティ番組の出演者などが、プロのダンサーの特訓を受けてダンスの出来を競うアメリカのテレビ番組。)の出演など、、。
VG:今の世界に欠けているもの、それはコミュニケーションです。
きちんと顔を合わせて相対で話したり、きちんとした文章を手で書くことはおろか、
Eメールやテキストでお手軽なメッセージを交わして、さらにそれだけでは飽き足らず、4とかUとかXみたいな文字を使う始末。
(注:発音が同じでかつタイプする数が少なくてすむので、しばしば、4はfor, uはyouの代わりに使われ、またxはキスを、○はハグを意味する。this is 4 u xoxox みたいな感じ。)
最初の頃なんか、“4? U? X? それってどういう意味??”と聞き返さなきゃいけなくて、
そんな質問やそれに対する答えを書いている暇があったら、for, you, kissってちゃんと綴った方が早いのに!という(笑)
僕が音楽をやっている理由はコミュニケーションです。
お金や名声だけが欲しいなら、他の職業についていたでしょう。
僕はチケットを売るためやCDを売るために歌っているんじゃない。
オペラとか音楽は普通の商売と違って形のあるものを売るわけではない。
音楽という、空気の中にしか存在しない、見えないもの、形のないもの、それで観客とコミュニケーションすること、これが僕の目指していることです。
『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』に出演したのもコミュニケーションの一貫で、
これでオペラやクラシック音楽に興味を持つ層を少しでも増やすことが出来るなら、、、という希望からです。
オペラというのは一部の人にとってはとっつきにくいものです。
なぜなら、言葉が、イタリア語の段階でも、すでに昔の言葉だからです。
今の世界、日常生活の中で辛い気持ちを表現するのに、“私のはらわたはねじれ、煮えくり返る。”みたいな表現をする人はいないでしょう。
しかし、この昔の言葉を理解し、きちんと消化して、歌唱にのせることはオペラ歌手として非常に大事なことです。
僕はラテン語、ギリシャ語、そして古いイタリア語をきちんと勉強して来ました。
だから、オペラハウスの訳が、きちんと全ての言葉を訳出していない時、僕は不満だし腹立たしく感じます。
:あら?メトの新しい『リゴレット』の字幕システム訳を見たら、グリゴーロ君、卒倒するんじゃないかな、、。
VG: でも、こういった古いイタリア語で歌われるオペラという作品を20代の“4 U XXX”世代(笑)相手に伝えていかなければならない現実もあるのです。
あ、あそこにピアノがありますね!
(と今度は部屋に設置されているピアノを目ざとく見つけ、そちらに駆け寄って行く。)
この曲、皆さんご存知ですよね?
(と、ベートーベンの『月光』を弾き始め、やがて各フレーズにインプロビゼーションによって重ねたボーカルの旋律を口ずさむ。)
ベートーベンと同世代の聴衆がこの曲を聴いた時は当然古びたクラシック音楽としてではなく、
今のポップスやラップを聴くような、“かっこいいじゃん!”という反応で捕らえたはずだと思います。
一時期はこれに声楽のパートのアレンジをつけた曲を作ろうかな、と思っていたんですよ。
それをJay-Zか誰かが歌ってくれたら、“何、この曲、誰の曲?○○?
(多分、最近のラッパーかなんかの名前だと思うのですが、今のラップの世界には大変疎いMadokakipなので聞き取れませんでした。)
え?何?ベートーベンって人の曲なの。ふーん!“ってことになるんじゃないかな、と思うんだ。
:水を指すわけではありませんが、しかし、これに似た事は少し前にアリシア・キーズが実行してますよね、、。



(ここから、この月光の話が続いているのか、他の自作の曲の話に移っているのか、話が良くわからなくなって来たのですが、)
VG: それを披露している様子がYouTubeで今でも上がっていると思うんだけど、その後、立ち消えになってしまって、、
でも、事が起こらない時は、何かそうなってしまった星回り、理由があるんだろうと考えて、あまり深く落ち込んだりはしません。
その時その時を大事にしたいな、と思います。
映画『カンフー・パンダ』の台詞にある通り、
“Yesterday is history, tomorrow is a mystery but today is a gift and that’s why it is called the “present.”
:直訳すると、昨日はヒストリー、明日はミステリー、でも今日という日はギフトだ。
だからそれはプレゼント(“今”という意味と“贈り物”という意味のダブルミーニング)と呼ばれるのだ。“なんですが、
和訳する人にとっては本当にいやな感じの英語だと思います。
映画が日本で公開された時の訳はちなみに、「昨日とは過去のもの。明日とは未知のもの。今日の日は儲けもの。それは天の贈り物」となっているみたいです。)
FPD: あなたはオペラ以外にポップスを歌っていた時期もありましたね。
VG: 3年ほどそういうことをやってみたのですが、今の時代は、ポップスを歌う歌手でいる方が(オペラの)テノールをやってるより大変だ、ということがわかって、
これからはオペラにフォーカスを置きたいと思ってます。
ポップスの歌手は、とにかくトーク、トーク、トークで、朝の6時ごろからプロモーション活動をしなければならない時もあるんだよ。
声帯って体の中で、もっとも最後に目が覚める器官だ、って知ってます?
最近ではアデル(注:イギリスのノン・オペラ歌手)の例もありますが、そんな状態で、
レコードだけならともかくライブで何度も何度も自分の声域をプッシュするような歌唱を繰り広げていたら、喉を潰してしまいます。
なので、最近気をつけていることは、適切なレパートリーを歌うこと、
色んなことに手を出すのは構わないが、何事も程度を知ってやること、というのを心がけています。
適切なレパートリーというのは、すなわち、自分に合ったテッシトゥーラ(その作品の中で主にカバーされている・中心になる音域)か、ということです。
以前、ブッセートでゼッフィレッリ演出の『椿姫』に出演しないか、との打診がありました。
話を受けるつもりで準備を始めたのですが、もうスコアの2ページ分を歌った程度で、先生と“これではとても作品全部を歌いきることは出来ないね。”という結論になって、お断りしました。
結局何年後かに、ローマで初めてゲオルギューのヴィオレッタを相手にこの役を歌うことになり、この時もゼッフィレッリの演出でしたが、
これとて、もともとは僕が歌う予定だったわけではなく、
一番最初に予定されていたアラーニャがキャンセルになり、その次に別のテノールがキャンセルになって、その結果回って来た公演でした。
keyakiさんのサイトによると、これは2007年のことで、“別のテノール”とはフィリアノーティのことのようです。)
ドン・カルロも歌ったことがありますが、僕は元々アリアがない作品があまり好きでないし、、いずれにせよカルロにはまだ準備が出来ていなかったと思っています。
こういう自分にとって重めの役を歌ってしまうと、声の重心が下がってしまって、軽いレパートリーに戻れなくなるのが問題です。
実際、ドン・カルロを歌ってから、『愛の妙薬』に戻れなくなってしまいました。
こうやってマスケラを使って歌うわけですが、この違いがわかるかと思います。
(と早速、重めのレパートリーの時の重心と軽めのレパートリーの時の違いを音を使って実演。)
『ホフマン物語』は作品が長いのが大変だけど、自分に合っていると思います。
(誰かが『ルチア』は?と声をかけると)
イエス!ルチアは大好きです。
フランスやスカラでも歌いますが、メトでも歌いたい!!!
FPD: 現在メトで出演中の『リゴレット』について少しお話を伺わせてください。
前半の公演はHDで上映もされて、映像が存在するわけですが、その映像はご覧になってますか?
VG:いえ、見てません。ディスクは頂きましたが、リゴレットはすでに自分のレパートリーだし、自分が歌っている内容と食い違う動きは僕は絶対にしません。
だから、事前に、ゲルブ支配人には、申し訳ないが、自分は自分のリゴレットをやる、(Aキャストの)ベチャワと同じ風には出来ませんよ、とお伝えしました。
『マノン』についてもそのようにお話しました。
:と、唐突に『マノン』の話が出て来たのですが、そうすると、この先、メトで『マノン』を歌う予定があるのかな、、?
VG: 新演出をかける時、その場での成功も大事ですが、同時に長い視点で、
そのプロダクションがお客さんを継続的に呼べるような公演にしていかなければなりません。
ラス・ベガスのリゴレット、という今回の設定については、最初、僕はかなり懐疑的でした。
しかし、演出家のマイク・メイヤーと話して、彼が非常に細かいディテールに気を配っていることがわかりました。
これはいい兆候だな、これだったら大丈夫かも、と思いました。なぜなら、小さいことが全体を作るからです。
彼は今回のマントヴァ公をシナトラのイメージと重ね合わせてるらしいですが、
シナトラのマイクロフォンの扱い方はほとんどダンスみたいで格好いいな、、と思います。
(ここまでは、時々鉄仮面の表情をのぞいてモーションをかけつつも、
いつもの無表情を変えず、淡々とインタビューをすすめる鉄仮面のペースに合わせて比較的大人しくしていたグリゴーロだが、
我慢が限界に達したか、この辺りから異様にエンジンがかかり始める、、。)
だから、今回は目一杯、マイクの扱い方を工夫してみたんだ。
(おもむろに立ち上がり、シナトラの真似をしながらエア・マイク~物理的には存在しない架空のマイク~を華麗に扱い歌って見せる。
そして、立ち上がったまま)
でもね、僕自身はシナトラよりも、エルヴィスのイメージに近いかな、って思ってるんだよ。
(と、今度はのりのりの様子でエルヴィスの物真似に入る。手を振り回し、かかとをあげながら片膝をついて大熱演!オーディエンス爆笑。)
でね、エルヴィスはここのかかとのところが、上がったり、下がったりするんだよね。
(観察が細かーい!!ますます大のりでかかとを上げたり下げたりして大フィーバーのグリゴーロ。)
わかんないよ~ん、これ、みんなが(リゴレットの)最後の公演に来てくれたらやっちゃうかも!!
FPD: それに公爵がポール・ダンシングをするシーンもありますよね。
VG: そうそう!メトのスタッフにポール・ダンシングがありますよ、と言われたときは、あっち(ストリップ・クラブ系)のポール・ダンシングかな、と思って
(といいながら、間勘平ちゃんの“かいーの”のように股間を何度かポールに上下にすりつけるダンスの演技を実演するグリゴーロ)
“イエイ!”と思ったら、
“そうじゃなくて、フレッド・アステアとかジーン・ケリーのイメージでお願いします。”とか言われてさあ(笑)、
こんな感じの、、(映画“雨に歌えば”でジーン・ケリーが街灯のポールにつかまって踊る時のような雰囲気の演技で、
さっきの勘平ちゃんダンスとは対照的な、しなやかな手の動き、うっとりした顔の表情を作る。
さっきの勘平ちゃんダンスといい、これといい、あまりのことにオーディエンス、大・大・大爆笑)
えー、そんな気取ったのやだよーって言ったんだよ。
FPD: (最初の勘平ちゃんダンスがまだ頭から離れないのか真っ赤になりながら)
いや、私、ちょっと赤面してしまいました、って言っていいですか。
:オーディエンス、再び爆笑。やっとこの無表情な仮面を動揺させられたぜ!と得意満面の表情のグリゴーロ君。
いや、こんなに慌てている鉄仮面、私は初めて見ました。グッド・ジョブ、グリゴーロ君!!
ちなみに、肝心のメトの実演では、ポールの上の方に飛び乗って、くるくるくる、、と回りながら降りてくる、という、
この二つのどちらでもない演技になってます。
FPD: (なんとか気を取り直そうとするかのように)今まで歌った中で印象に残っている役は何ですか?
VG:『コジ・ファン・トゥッテ』かな?
FPD: 『コジ』?!あなたのレパートリーのイメージですらないのですが、、本当に歌っていて心地良いレパートリーですか?
VG: うん、過去に歌ったことがあります。7回予定されていた公演を7回とも歌って、それでも声が全く疲れなくて公演前と同じだった。
あんな経験をしたのはあの時の『コジ』一回きりです。
それから『ウェスト・サイド・ストーリー』のトニー!
スカラがかけた公演なんだけど、スカラのような劇場が、あの作品をオペラだと認知した事実がエキサイティングだな、と思いました。
日本ツアーもあって、東京、名古屋、大阪といった街で歌うことも出来ましたし、、。
それからバレエのレッスンがあって、これがまた楽しくて、、(笑)
プリエ、トンデュ、、、(と言いながら、またまたダンスの演技)、、ああいうの、僕、大好きなんだ!
ダンサーの子と友達になったりしてね、、(と嬉しそうなグリゴーロ)
その後、レコーディングもありました。
一番苦労したのはアクセントかな。アメリカ人っぽいアクセントにしなきゃいけないのに、
僕がやるとどうしても、“リトル・イタリーのトニー”っぽくなっちゃって、、(笑)。
FPD: 今後のことを教えてください。
VG: 椅子にただ座っているだけじゃなくて、外に出よう!という冒険的な姿勢を持っていたいな、と思います。
さっきのコミュニケーションの話にまた戻りますが、30年位前まではイタリアでも、○○に行きたいんだけど、、というと、
見知らぬ人でも、“じゃ、このヴェスパの後ろに乗れよ!”という感じでした。
ところが、今は、、問題に関わらないこと、それが一番だ、という風潮になっている。なぜなら、この世の中には山のように問題が溢れているから。
それから、友達との付き合い方!
FacebookやTwitterとか、なんだか細かい日常生活の垂れ流しになっていて、
みんな、あまりにたくさんの“大して重要でない友達”との表面的な付き合いにエネルギーを費してないかな?
:もう、激しく同意!です。私も全く同じ理由で数年前にソーシャル・ネットワーク系のサイトはぜーんぶやめてしまいましたし、
NYでソーシャル・ネットワーク系のサイトから距離を置く人が増加して来ている、という記事を先日新聞でも読みました。
だから、グリゴーロ君と同じ考えの人、意外と数いると思います。
VG: 音楽関連では、2013年10月にアヴェ・マリアのCDを出します。聖歌隊で歌われる曲に手直しをしたものなど、16曲を含む予定です。
FPD: では皆様からの質問の時間に入りましょう。
質問者1:チューリッヒの『椿姫』はどのような経験でしたか?(注:中央駅の中で行われた生演奏で、DVD化もされた)
VG: 三言で言うと、cool, cold, credibleかな。
オケも生演奏だったんだけど、音はイヤフォンを通して入ってくるので、そういうテクノロジーとの兼ね合いの面でも面白い実験だな、と思いました。
ただ、気が散る部分もあったのは事実かな。
駅の活動を全部止めるわけにはいかないから、Libiamo~って歌い始めた途端、
(駅のアナウンスをドイツ語の発音を強調して真似ながら、、で、この真似がまた面白い!)
“X番ホームから○○駅行きが発車します”なんていうすごい音声が重なって来たりして、
“そりゃむこうはマイク使ってんだから、声量では負けるに決まってるじゃないか!”という(笑)
質問者2:今後、CDやDVDの予定は?また、今後歌ってみたいレパートリーは?
VG: ソロのリサイタル・コンサートのDVDを発売したいな、と思ってます。
オペラのアリアももちろんだけど、ナポリ民謡とか、軽いものも入れたいな。
:あら?これはもしかして、来シーズンにメトで予定されているコンサートを映像化するつもりかな?
VG:でも、あまり先のことは考えず、今、目の前にあることにフォーカスして行きたいな、と思ってます。
レパートリーは『ウェルテル』かな。今まで歌って来たフランス系のレパートリーを極めるという意味でも、、。
ホフマン、マノン、ファウスト、、
(とそこで止ったグリゴーロに変わって、オーディエンスの一人が、ロメオ!と声をかける!)
あ!そうだ!ロメオこそ、僕の(得意な)役じゃないか!!
それを言えば、フランス・オペラのアリアのアルバムも企画してるんだ。それからコンサート、そんなところだね。
質問者3:今、若い人がオペラ歌手になりたい、と言ったら賛成しますか?
VG:(しばらく考えこんだ後)うん、します。でも、同時に時間は貴重だから、無駄にしないで、とも言いたい。
それから、批評。
僕は批評というものがあまり好きじゃないんです、、批評じゃなくて、レポートならいいんですけれど。
この間も僕の歌唱に対して、批評家で“あまり美しい声ではないが、、”という一文を書いた人がいて、
それは主観的な、個人のテイストの問題じゃないか!と言いたくなりました。
音をクラックした、とか、音程が甘いとか、歌唱技術の問題ならば、批判も受け、その部分を改善しようと努めることも出来ますが、自分の声は変えられません。
今の僕はそこそこ経験もあるし、年齢も経ているのでそんなことを言われても大丈夫になりましたが、
こういった種類の批判が駆け出しの歌手にとってどれほどの打撃になるか、それも考えて欲しいと思います。
オペラはオリンピックじゃないんですから。
質問者4:さっきホワイト・ボードに書こうとしたことは何ですか?
VG:おお!そうでした!
(といって、今度はひな壇の近くにあるホワイト・ボードに絵を描き始める)



(この絵はグリゴーロ君の直筆ではなく、彼が書いたものを私がノートに模写したものです。)

下の方にある○が横隔膜、首のところにある波線、ここらあたりに粘液があります。
ここには適度な湿り気が必要で、乾き過ぎると良い音が出ません。
舞台裏で僕に会うと、濡れタオルで口を押さえていることが多いのはそのためです。
僕は公演中、氷入りのコークを飲むことが多いです。
コークは余分な粘液を落としてくれる効果があり、氷は炎症をおさえます。
これを言うと、同僚の多くが、びっくりして“熱いお茶の方がいいんじゃない?”というのですが、
スポーツ選手が足などを怪我した時、そこに熱いお茶を当てたりしますか?
みんな、氷を当てるでしょう?それと同じこと。氷は自然の炎症防止・抑制剤です。
音はそのまま真っ直ぐ上に上がって、上の方の○の部分、いわゆるマスケラ、マスクと言われる部分ですが、
ここに到達します。
マスケラは言ってみれば、スピーカーのような役割をします。
バリトンやバスは90度の角度に近いところ(Bとマークしたところ)から音が出ているような感じがすることが多いですが、
テノールはもう少し上に向いた角度が中心です。
では、口を閉じたままで、音を出してみてください。手を当ててみると唇がぶるぶるっとしているのがわかりますよね。
(オーディエンス全員、グリゴーロ君の言うがままに唇をぶるぶるする。)
そこから口を少し開けてみましょう。音の位置が変わったのがわかりますか?音程を変えていくと、また位置が変わります。
オペラ歌手はこれを千本ノックのような感じで何度も何度も出しこなすことで、どういう音がどの位置で出るのか、というのを学習していきます。
発声の理想は赤ちゃんです。
赤ん坊の泣き声というのは、ものすごく遠くまで聴こえ、かつ延々と疲れなしで泣き続けることが出来ます。
赤ん坊は誰もがクリーンなマスクを持って生まれて来ます。
オペラ歌手の発声練習は、この赤ちゃんの頃のマスクに出来るだけ近づくよう、マスクの再クリーニングを行うプロセスに他なりません。
この図でも判るとおり、音は自分の顔の前、頭のてっぺんから喉の部分までの180度にまたがって伝わっていく。
つまり、音のプロジェクションとは顔の前で発生する、ということも忘れてはいけません。
よって、音が出てお客さんの耳に届くものが生まれた時には、もう自分の体を離れています。
だから、自分の体の中にあるものを聴こうとするのは無意味です。
オケとの音合わせなどで、良く自分の声を聴こうと耳を押さえて歌っている歌手を見ますが、あれは僕に言わせればブルシットです。
(bullshitという言葉は馬鹿げた出鱈目ごと、という意味で使われるのですが、
あまり綺麗な言葉ではなく、かつ若干滑稽なニュアンスが加わるので、ここでもオーディエンスから笑いが出る。
鉄仮面も笑ってるかな、とグリゴーロ君が見やった先に、相変わらず無表情な鉄仮面!
グリゴーロ君の表情が、“こんなに頑張ってるのに、まじで笑ってねーよ、、。”と一瞬ひるんだ瞬間でした。)
:大丈夫、グリゴーロ君。この人は私もずっと観察して来ましたが、常にこういう人なんですよ。
伊達に私が“鉄仮面”の称号を献呈したわけではありません。今日は彼を赤面させただけでも大勝利!です。

それにしても、彼は話すよりも歌う方がコミュニケーションしやすい、なんて言ってますが、
話術も巧みで、ユーモアのセンスもあるし、声の出る仕組みを説明する時の話しぶりも理路整然としていて、
仮にオペラ歌手になっていなくても、何ででも身を立てていけるようなタフさを感じます。面白い個性の人ですね。

MetTalks: PARSIFAL

2013-02-07 | メト レクチャー・シリーズ
日本語では『パルジファル』の表記が多いのですが、音としては『パルシファル』が正しく、
松竹のライブ・ビューイング/HDのサイトも後者になっていますので、当ブログでも『パルシファル』の表記を採ります。


昨(2012/13年)シーズンは『ファウスト』で共演したカウフマンとパペ。
あの時はカウフマンと演出家のマカナフのそりが合わなくてフラストレーションたまったカウフマンがリハーサルで大爆発!というようなこともありました。
今シーズン、この二人は2/15の金曜日にプレミエを迎えるジラールによる新演出『パルシファル』で共演するのですが、
今回カウフマンがおとなしい替わりに、パペが暴れてるみたいです。
オケとのリハーサル中、パペの歌とオケを制止しイタリア訛りの英語で”ルネさん、そこはちょっとこの間話し合って決めたテンポと違いマスネ。”と指摘する指揮のガッティ。
”今日はちょっと体調が悪いんだよ。”と応えるパペ。
”でも、ルネさん、この間話したじゃないデスカ。ここのテンポはこういう風に、って。それと違ってマス!”
”いや、だから、体調が悪いっつってんだろ!”
、、というような応酬がエスカレートしたかと思うとガッティがオケに向かって"パウザ(Pausa=休憩)!!”
これで心おきなくやりあえるぜ!とやる気満々のガッティとパペの怒鳴り合う声が持ち場を離れるオケのメンバーの耳にずっと聞えていたそうです、、、。

今日はその『パルシファル』の出演者&スタッフによるパネル・ディスカッション。
上のエピソードを聞いた時はパペがつむじを曲げて出てこなくなるかと心配しましたが、、、、
風邪気味で大事をとった(早く直してくださいね!)ダライマンを除き、カウフマン、パペ、ガッティ、ジラールの四人が登場し、
ゲルブ支配人のホストのもと、話を聞かせてくれました。
ゲルブ支配人をPG、カウフマンをJK、パペをRP、ガッティをDG、ジラールをFG、Madokakipの心の声をとし、いつも通り、直訳ではなく大意を再構成します。

PG:皆さんは今日もリハーサルで大量の血を浴びた後ここに集まってくださいました。
NYタイムズの記事でもふれられている通り、この演出では一幕では干乾びた土地に流れる河を、また第二幕では舞台一面を血が覆う趣向になっていて、
使用される血糊の量は1600ガロン(6000リットル以上)に及ぶ。)
『パルシファル』は皆様もご存知の通り、バイロイトでのみ演奏されるように、というのがワーグナーの希望であり、それ以外の土地では演奏が禁止されていましたが、
しかし、それでも作品はアメリカに密入国し、1903年にメトでアメリカの初演を迎えました。
以降、(世界大戦の影響による)原語での上演の禁止などを経つつも、今ではワーグナーの作品の中でも最も人気のある定番レパートリーとして定着しています。
私は2006年、ヨナスが36歳の頃、チューリッヒの劇場で彼が歌うパルシファル、
そしてそれは今回のメトでの上演を除き彼が全幕を歌った唯一の公演ではなかったかと思いますが、
を鑑賞する機会を得、すぐにメトの『パルシファル』に出演頂きたい、ということで契約にサイン頂きました。
なのでそれから2013年まで、我々にとっては7年越しのプロダクションということになります。パルシファル役を歌うテノールのヨナス・カウフマンです。
(客席からカウフマンに熱い拍手。)
そして、その隣がメトではお馴染み、何度もフィリッポ、マルケ王といった役どころで素晴らしい歌を披露してくれており、
シェンクによる旧演出の『パルシファル』ではプラシド・ドミンゴ、ベン・ヘップナー、レヴァイン
(レヴァインについてはパペもうんうん、と頷いてましたが、彼がグルネマンツを歌った公演はゲルギエフとシュナイダーが指揮だったようなので、両者の覚え違いか?)
といった顔ぶれとの共演ですでにグルネマンツ役では登場済みのベテラン、バスのルネ・パペです。
(客席からカウフマンの時よりも盛大な拍手が巻き起こる。パペ、照れくさそうにしながらも、とっても嬉しそう。)
そのお隣が『蝶々夫人』でデビュー(1994/5年シーズン)後、しばらくなぜかメトからは足が遠のいていましたが、
2009/10年シーズンの『アイーダ』をきっかけに再びメトで活躍してくださることを期待している指揮のダニエレ・ガッティ。(また拍手)
そして、最後がグレン・グールドのドキュメンタリー、そして映画『レッド・ヴァイオリン』の監督として知られ、
今回のプロダクションの演出を担当するカナダのケベック出身のフランソワ・ジラール。(またまた拍手。)
クンドリ役のカタリーナ・ダライマンは風邪気味のため、大事をとり、今回のディスカッションは欠席させて頂きます、とのことでした。
支配人としては今風邪になってくれて良かった、公演にさえちゃんと出てくれるなら今はどれだけでも具合悪くなってもらって結構です。
 アホがまたわけのわからんこと言ってまっせー!!
歌手にとってはリハーサルも公演と同じ位大切なプロセスだということがわからない支配人がどこの世界にいますか?
リハーサルだろうと公演中だろうと彼らの健康を一番に願うのが普通の支配人の感覚でしょうが!)
PG: 彼らの他、アンフォルタス役にはペーター・マッティが、そして、クリングゾル役にはエフゲニ・ニキーチンが出演する予定です。
NYのタトゥー・パーラーに行くのに忙し過ぎなければ。
 オペラ・ファンなら誰でも知っている、ニキーチンが若気の至りで昔入れたと言うハーケンクロイツの刺青が大物議を醸し、
先夏のバイロイトの『さまよえるオランダ人』のプレミエの直前に降板させられた事実を踏まえたゲルブ支配人の趣味の悪いジョーク。
カウフマンもパペもその冗談に笑わないだけでなく、出来るだけ何の感情も顔に出さないよう気をつけつつも、ちょっと居心地悪そうな雰囲気でした。
下手な冗談ふるなよな、支配人!普通にニキーチンは出演する、とそれだけ言ってくれれば十分なんだから。)


(写真は出席者の座席順通り、カウフマン、パペ、ガッティ、ジラール)


PG:今回のプロダクションはほとんどポスト・アポカリプティック(この世の末のその後、といったような意味)な雰囲気のあるプロダクションですね。
 地球温暖化のために我々は干上がった土地に生きている、という設定らしいです。)
FG:今回私はこの作品の演出を任されるにあたって、どうすればこの話が今の私達にも密接に関わる・身近なテーマであるか、ということを、
”こいつは何をやるのだ、、?”という不安を観客に与えることなしに伝えるにはどうすればよいか、というのを深く考えました。
そこで、プロダクションはコンテンポラリーなものにし、オーディエンス自身を騎士達と想定し、
この話はあなた達自身の話なのです、というメッセージを、言葉・音楽両方の細かいディテールに注意を払いながら、打ち出したつもりです。
また先ほど血が山ほど出てくる、と言う話が出て来ましたが、誰も怪我をしたりはしていませんのでどうぞご安心を。
 『ファウスト』のマカナフやリングのルパージ~同郷!~にパンチを浴びせてますね。)
アンフォルタスの痛み、聖なる血、そして苦悩の血、これらを出来るだけシンプルに表現しようとするとこのような血の多用というアイディアになりました。
また、この作品は表見はキリスト教的でありながら、仏教のエレメントが多く感じられます。例えばクンドリが体験していることは輪廻転生そのものです。
仏教のベクトルはもちろん、あらゆるスピリチュアルな影響をキリスト教という形を借りてアウトプットしたのがこの作品ではないかと思っています。
PG: マエストロ・ガッティにお伺いします。この作品は長大な作品な上にテンポの問題もあって、
誰それの公演は某の公演より2分長かった、、とか、そういうことが話題になったりもしますね。
DG: 私が『パルシファル』を初めて振ったのは2008年のことですが、バイロイトやパリのコンサート形式など、経験を積んで来ました。
当時、私の人生はちょっとした問題に見舞われてまして、どうも考えがネガティブな方向に向かってしまっていけませんでした。
 その後もその問題の話が延々と続き、ちょっと!私はダニエレの人生の話を聞きに来たのではなくってよ!と思い始めた頃)
DG: この作品を指揮していると信仰の神秘、そして死後の神秘というものについて考えさせられるようになりました。
自分は何のためにこの世にいるのか、、という問いですね。
 ちょっと大丈夫?良い精神科医紹介しましょうか?)
DG: 指揮をすればすれほど考えさせられ、自分の中で育って行くオペラです。
ヴェルディを激しく血気立った音楽だと考えられる人は多いと思いますが、この作品もまた全く違うあり方で非常にエモーショナルな作品です。
ということで、とにかく私が出来ることはただひたすらこの作品と指揮にコミットするということであり、
話を戻すと、それさえ出来ていれば、長さのことは心配しなくても良いのではないか?と思うのです。
 こいつ、まさか、オーバータイムに無神経なんじゃ、、という不安の表情がゲルブ支配人の顔に表れる。
メトでは演奏時間が決まった時間を超過すると、関連する全ての部署のスタッフにオーバータイムの給料を払わなければならない。)
DG: 歌手や演出家はプロダクションや舞台での動きという問題があるので私のようにはいかないかもしれませんが、しかし、、
テンポをがちがちに決めるということは、演奏を鳥篭の中に入れるような行為だと思います。
人によって同じことを伝えるにも時間のかかる人、少ない時間で良い人、色々でしょう。
伝えたいことをきちんと伝えられるならば、長い、短いはあまり問題ではないと思います。
 なかなか物分りの良いことを言っているガッティだが、ふと思う。
じゃ、何でパペが具合悪いって言ってる時にあんなにテンポに拘ったのよ!!と。)
JK: 横からすみませんが、一言良いですか?私もその通りだと思います。
そして、公演は一つ一つ違う、ということも忘れてはならない要素かと思います。
テンポはこれで行くぞ!とあまりに強く思い込んでいると、公演のスポンタナイティ(自由性)のせいで少しでもそれが狂って来たり、
予想外のことが起こると、”おお、もうこれで僕達はお終いだ!!”とパニックして慌ててしまう、というようなことになってしまう。
それから作品の長さの話ですが、まあ、それはそうです。『魔笛』よりは確かに長いでしょう(笑)
でも、例えばロッシーニのような、音数が多くて、ある程度のテンポをもって演奏しないとどうしても演奏がダルになってしまう作品とは違い、
ワーグナーの作品はきちんと感情を織り込み、それを維持する演奏者の力があれば、極端な話、どれだけ遅いテンポでもそれを支えてしまえる力がある、
これも違いではないかと思います。
DG: 例えば『パルシファル』の前奏曲、これは静けさ、無を表現した曲だと私は理解していますが、
この前奏曲の間にオーディエンスを違う次元の場所、全く違う雰囲気の場所に連れて行く、そのための音楽でもあります。
PG: ルネ、あなたはどう思いますか?
RP: それはもう、ハンス・ザックスを除けば私のレパートリーの中で最も歌う時間が長いのではないですか?このグルネマンツは。
 ここで黙っていられない前方席のオペラ・ファンが何か別の役名を出して、そっちの方が長い!と主張し始める。)
RP: え?そう?そう思う?
また、旧演出も含めて通常は衣装を着ける時間というのが役にトランスフォームする時間になるのだけれど、
今回はフランソワの演出意図もあって、衣装も本当に現代の普通の服装だから、そのまま役に入っていけます。
しかし、不思議なのは、あれほど長い作品でも、プラシドやマエストロ・レヴァインと歌った時の公演では、
 と、ここまで言っているので、この組み合わせて歌ったことがあるのかもしれません、、アルカイブでは見つけられませんでしたが、、。)
公演が終わって欲しくない!まだ歌いたい!!と思ったんですよ。そういう作品なんですね。
オーディエンスだけでなく、歌手にとってもこの作品がもたらす感情は素晴らしいものなんです。
FG: 時間の認知に関わる話が出たのが面白いですね。
このプロダクションではあえてせかせかアクションを加えることなく、スローであること、を大事にしました。
この作品の歌詞の中にも出てきますが、”時間が空間に変わる”ということは実際にあると思います。
そうすると、5時間近いものが2時間位に感じられたりするんですね。
 それはちょっとオーバーだろう、、。)
すると、物理的な時間の長さというのは大した問題ではなくなって来ます。
JK:またこの作品にはテキストの曖昧さ、という問題があります。言葉の解釈がそれこそ何通りもあるのです。
私たちはリハーサルをはじめてから、それこそ、何度も何度もある言葉がどういう意味を持っているのか、
立ち止まって考える作業を続けていて、時にはそれが熱を帯びた大議論になることもあります。
しかし、この作品で最も危険な罠は、演出家が作品の長さに恐怖を感じ、自分の今の演出では何か物足りないのではないか、
オーディエンスが退屈してしまうのではないか、と考え、無闇にアクションを入れて余計に退屈なものにしてしまう、というパターンではないでしょうか?
PG: 正直な話をしますと私は支配人の立場としてオーバータイムになると困るな、、と、、(笑)
( ついに本音を出しやがったなー!)
JK: あ、メトも大変なんですか?スカラはものすごく厳しいんですよ。真夜中になったら照明とかも落としてしまう!位の勢いです。
PG: いや、メトはそこまで厳しくはないですけれども、、(笑)
JK: スカラで今シーズン『ローエングリン』を上演した際、ルネと共演だったんですけれども、
モノローグのシーンが上演回を重ねるごとに長くかかるようになってしまって、最後の回だったか、
歌っている時に舞台袖でルネが”早く!早く!時間がないぞ!”って時計を指す仕草をしてるんですよ。
完全に公演が終わったのが冗談でなく、本当に丁度夜の11時59分何十秒、とかで、あの時はほんと冷や汗かきました(笑)
PG: 先ほどテキストの曖昧さ、という話が出ましたが、もう少し詳しくお話願えますか?
JK: 言葉が、、ドイツ人の我々でも意味がわかりにくいものがあるのです。現在使われているのとは違う意味で使われていたりとか、、。
それから、ワーグナーが発明した独自の単語というのもあって、、。
PG: え?独自の単語ですか?『パルシファル』から何か例を挙げていただけますか?
JK: んーと、、んーと、、ちょっとすぐに出てこないのですけれど
 と、カウフマンがパペに救いの手を求める眼差しを送るが、パペは”君が撒いた種だからね、僕は知らないよ。”とばかりに無言。)
JK: んー、すみません、今ちょっとすぐに出てこないのですが、例えばリングでジークフリート(と言ったと思います)が母親のことを形容する言葉、
 といってその単語を発音してくれたのですが聞き取れませんでした。)
これは文字通りの意味にとると”雌の鹿”という意味で、”雌の鹿みたいなお母さん??何だそれ??”と思ってしまいますけれども(笑)、
多分、彼女の雰囲気を伝えるためにワーグナーが独創した単語なんですね。
特にオペラの場合は音があって、例えば4つの音符にある意味の言葉をのせたい、という時に、それにぴったりの既存の言葉がないと、作ってしまえ!ということになるのだと思います。
 とここで、ガッティが○○もそういう造語?とカウフマンに確認する場面あり。
ちなみに『パルシファル』の中では、ニ幕でクリングゾルが歌うEigenholdeなどがカウフマンの言っている例にてはまるかと思います。)
FG: というようなことで一つ一つの単語を叩き割ってその意味をみんなで確認し、共通の解釈を持つというのは気の遠くなるような作業なのです。
JK: で、そうやって何度も話して、それで行き詰った時にはもう一度音楽に戻って来るのです。
そうすると、言葉だけを聞いて議論していたら全く答えが出なかったことが、いとも簡単に解決する、ということもあります。
DG: そうですね、スコアを見れば、音楽を聴けば、あるパートが歌っている時にそれに伴って演奏している楽器はどれか、とか、
そういうことに注意を払うと、自ずとその意味が見えて来る時があります。
JK: でも、言葉というのは厄介で、一つドアを開ければまた新しい問いのドアが二、三個待っていたりして、それはまるで迷路のようです。
ワーグナーが書いた言葉の意味を求めてのあくなき戦い、という感じですね。
PG: ルネ、あなたが歌うグルネマンツについてお話いただけますか?どんな役柄ですか?
RP: どんな、って、、この物語のストーリーテラーです。
PG: ではヨナス、パルシファルは?
JK: パルシファルは一幕目では中身のない殻のような存在です。
しかしニ幕目に、クンドリに1時間だけ私と過ごしましょうよ!と言われ、拒むものの、
母親を擬したたった一つのキスにより、”共苦”を知ることで最高の知を得るのです。
たった一回のキスでこんなことになってしまうのですから、1時間クンドリといたらどんなことになってしまうんでしょうね(笑)
前奏曲の10分でたちまち誰もがこの物語の世界にトランスポートされます。
そして、ワーグナーが自分の書いた物語、音楽を深く深く信じていることが、この前奏曲を聴くだけでわかるのです。
パルシファルはこの物語の中で成長し、苦悩と死への理解を得ます。
もし、皆さんが仮にどんな無宗教であったとしても、この作品を聴く間だけはワーグナーが皆さんを信仰深い気持ちにさせるはずです。
DG: あのキスの場面には『トリスタン』にも似たホルンとチェロの長三和音が登場し、これはワーグナーのトレードマークと言ってもよいものです。
ワーグナーの全音階と半音階の使い方の上手さには驚嘆しますが、ここでの半音階の使い方はその一例です。
PG: 今日はカタリーナ(・ダライマン)が欠席なので、フランソワ、クンドリ役について少しお話願えますか?
FG: クンドリはこの物語をテントに例えるなら、ポストの役割をしています。
彼女はパルシファルのナイーブさ(英語で言うところのナイーブなので、ものを知らないうぶさ、愚かさ)につけこみ、
パルシファルの母の死を利用して、パルシファルの堕落をたくらみます。
PG: 彼女はやはり本気で彼を転落させようとしているのでしょうかね?
FG: 私はそうだと思います。アンフォルタス、ひいては世界全体への”共苦”と官能的な”誘惑”の一騎打ちです。
そしてこの葛藤を経て、何の理由もなく白鳥を殺すようなことをしていたパルシファルが救世主となっていくのです。
クンドリが何の救済もなく、何度も何度も男性を誘惑する役割に引き戻される、これは仏教の輪廻転生の考えとも繋がっています。
DG: また、一幕、ニ幕、三幕にクンドリが与えられている音楽を聴くと、音楽の中に彼女の魂の救済が描かれていることに気づきます。
先ほどのお話の中にワーグナーの造語の話がありましたが、実はヴェルディも、そこまで極端ではありませんが似たことをやっているんですよ。
通常のイタリア語で使われるのとはアクセントの位置を変えていたり、とか、後、例えば『仮面舞踏会』で、
Sento l'orma dei passi spietati と歌われる箇所があります。
(注:第二幕、リッカルドがレナートにアメーリアを無事に家に届けるように、また顔は見ないように指示した後の三重唱で歌われるレナートのパート)
これは情け容赦ない危険な足音が迫って来るのが聴こえる、というような意味なのですが、足音は”聴く”ものであって通常はsento(感じる)と言う言葉は用いません。
しかし、”その足音が体に感じられる”という表現は、あの場面の恐怖を良く表現しているなと思います。
 とついそんなことなら俺らイタリア人もやってるぜ!と対抗してしまうお茶目なガッティ。
でもちょっと待て。『パルシファル』は台本を書いたのもワーグナーですが、『仮面舞踏会』のリブレットはヴェルディでなくソンマじゃないのよ!)

とここでタイムアウト。
カウフマンとジラールが喧々諤々と議論を交わしつつも和気藹々とやっている風で安心いたしました。
後はパペとガッティの関係修復のみ。
ダライマンも初日までに何とかいつものコンディションを取り戻して欲しいと思います!

(冒頭の写真はリハーサル時のもの)

MetTalks: Parsifal

Jonas Kaufmann
René Pape
Daniele Gatti
François Girard
Moderator: Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Parsifal パルシファル パルジファル ***

THE SINGERS' STUDIO: KRISTINE OPOLAIS & GIUSEPPE FILIANOTI

2013-01-24 | メト レクチャー・シリーズ
以前『ファウスト』の記事にも登場した二人のヘッズ友達、マフィアな指揮者とフランス人の男性、とは
ほとんど週一のペースで劇場で会っているというのに、それだけではまだ飽き足らずに、
週中に見た公演などについて、ほぼ毎日のようにメールのやり取りをしています。
我々三人はすでにお互いの趣味嗜好(もちろんオペラに関することだけ!)を知り尽くした頑固者の集まりですので、
他人の意見に関係なく、正直な感想を述べることが常になっています。

結果、1/11の『つばめ』の初日の公演をめぐって意見が大衝突。
その日、劇場で実際に生の公演を見たのはフランス人の男性だけなんですが、
マグダ役でメト・デビューを果たしたクリスティーン・オポライスについて、
歌や声から「モデルのような」(彼の言。)ルックスまで、褒めて褒めて褒めちぎり、
こんなすごい歌手が出たのは久しぶり!残りの公演も全部観に行く!とものすごい鼻息の荒さです。
マフィアな指揮者は丁度その時NYに居なかったため鑑賞出来なかったのですが、
私は全幕家でシリウスにて拝聴しましたので、いつも通り、思ったままをメールに書きました。

”私はオポライスについては声に特筆するような魅力があるとは感じなかったし、歌唱も音楽性に欠けていて、そこまで特別な歌手とは全く思えない。
まるで蝶々さんを歌っているかのような絶叫歌唱で、違和感大。
マグダ役の歌唱には蝶々さんよりもずっと繊細なコントロールと表現が必要だと思うけど。
それに、リハーサルの時の写真を見たけど、オポライスのマグダって安っぽい娼婦みたい。
そんなの見たかったらメトに行かなくてもマンハッタンにはいくらだってそういう場所があるでしょ。
何年か前に歌ったゲオルギューは見た目も歌もずっと品があって表情も豊かだった。
(ゲオルギューを必ずしも大好きなわけではない私でもそう感じた)。”

するとやがてフランス人から返事が来て、
”ラジオは音声をディストートするから当てにならないよ。生で聴かなきゃ。
あの日、聴衆は大喝采で、花束を舞台に投げ込む人までいたし(メトの舞台に花束が放られるのを見るのは久しぶりだ!)、
第一、批評家の公演評でも全員絶賛だったではないか!
『つばめ』は素晴らしい作品だし、演出も最高だ!”
そして、私が一回は観ておいた方がいい、と彼に薦めた『マリア・ストゥアルダ』に関しては
”あれはひどかった。わしは二度と観に行かんぞ。特にエリザベッタ。”

私は彼が『ファウスト』でのポプラフスカヤを大変気に入り、ミードの『アンナ・ボレーナ』を魅力ゼロ!と一刀両断した時から、
彼のオペラ歌唱におけるスタンダードを内心大いに疑問視しているのですが、
まあ、趣味とか基準は人それぞれ、、ということでそういう時は片方の耳からもう一方の耳へ垂れ流すことにしているわけです。
しかし、今回は私も虫の居所が悪かったからか、つい反撃に出てしまいました。

”確かに声自体の良さはラジオでは必ずしもきちんと伝わらないことがあるけど、音楽性の有無はラジオでも絶対誤魔化せないから。
花束に関しては、公演のインターミッション中に花屋まで走って買いに行った、というのでもない限り、
その日の彼女の歌唱の素晴らしさのバロメーターになんて一切なりっこないでしょう?
花束持って来たオーディエンスはその日彼女が口を開く前から花をあげるつもり満々で劇場に来てるわけだから。
しかも、批評家の公演評??? そんなのが当てにならないってのは我々三人の常識じゃなかった?なんで彼女だけ例外?
そう、『つばめ』は素晴らしい作品だし、私の大好きな、そして最も共感出来るオペラの一つ。
でも、この作品の本当の良さを引き出すにはそれにふさわしい歌手が必要!”

やばい雰囲気を感じ取ったらしいマフィアな指揮者は”わしは実際に聴くまで判断を保留~。”とさっさとトンズラして行きました。

さらにフランス人が”君は彼女の歌唱を聴く前から判断にバイアスがかかってるみたいだけど?”と食い下がって来るので、
”私はラジオで聴いたんだから”聴く前からバイアス”には当てはまらないし、彼女のルックスにバイアスをかけられてるのはあんたの方じゃないの?
目をつぶって歌だけ聴いてみた?彼女がミードやヴァン・デン・ヒーヴァーみたいなルックスだったらそこまで彼女を擁護した?
ま、確かに、歌手の良し悪しを云々するなら生で聴かないとフェアでない、というのは私も同意!なので、
26日の土曜のマチネを劇場で聴きましょう。
もし実際に聴いてみてあなたの言うような素晴らしい歌手だったなら、それはちゃんと認めるわよ。
だって、素晴らしい歌手だと思いながら、まだそうでない!と頑固に言い張ってみたところで、びた一文私の得にならないんだから。
だけど、もし、オポライスが実際にあなたや批評家の言うような歌手でなかったらその時は、、、
ってなわけで、しっかり歌うのが彼女の身のためだと思うのでよろしく。”

というわけで、その26日の公演を待っていたわけですが、
その前に、『つばめ』で共演中のクリスティーン・オポライスとジュゼッペ・フィリアノーティを招いた、
こちらのシンガーズ・スタジオのイベントが予定されていたのでした!!

ここで付け足しておくと、フランス人の彼がメールに書いている批評家の絶賛、というのは全くその通りで、
ニューヨーク・タイムズからニューヨーク・ポストまで、オポライスに関しては”オペラ界の新しいスター!”といった論調の記事で、
メトも慌ててこの先のいくつかのシーズンのために彼女とのブッキング交渉に入ったと言います。
私自身はスターなんてものは一回だけの公演で生れるものではなく、一定の長さのトラック・レコードが必要であり、
そうやって良い公演を重ねるうちに、オペラファンがその歌手をスターだと認識するようになる、と思っているので、
少なくともここNYではメディアと劇場が必死で一気に彼女をスター歌手に仕立てあげようとしているようにも見え、ちょっと違和感を感じてます。

今日のインタビュアーは再び鉄仮面(F・ポール・ドリスコル)。
オポライスをKO、フィリアノーティをGF、鉄仮面をFPDと表記し、いつもと同様ポイントだけを再構築します。(なので対話の内容を全訳したものではありません。)
またMadokakipの心の呟きをで表示します。

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バイエルン国立歌劇場の『ルサルカ』の映像からオポライスの”月に寄せる歌”が流れる。
このアリアでは、オポライスは浅く張った水(湖)の中で丸いランプ(月)を持ち、髪まで濡らしての熱唱。

会場に現れたオポライスは女性にしてはかなり背が高くリーンで、まさにモデル体型。
これまで写真や映像で見ていても、実際にどんな顔なのか今一つわからないところがありましたが、
素はこの写真(↓)に近い感じ。笑うと昔のメグ・ライアンのようでもあり、確かに美人。
でも子育てで疲れているのかな?目の下にクマのようなものはあるわ、かったるそうな喋り方だわ
(しかも話し声が割と低いので、それもかったるさを増長させる原因となっている。)で、
同郷のガランチャのようなアップビートさはないので、人によっては生意気で感じが悪い、と取る人もいるかもしれないな、と思います。
フィリアノーティは舞台よりも素の方が断然素敵。(オペラ歌手にとってそれが喜ぶべきことかどうかはわかりませんが、、。)
物静かながら発言は簡潔できちんとポイントを抑えていて、終始紳士的で温かいオーラを感じます。
二人ともカジュアルながら素敵な私服で安心。(時々こちらがびっくりするようなセンス悪い格好で現れる人もいるので、、。)



FPD: この映像を見ていて、つい、あの水は温かかったのかな、冷たかったのかな、と考えてしまいます。
KO : さあ、わからないわ。
(:I had no idea. という彼女の答えに”あんたがそこにいたんでしょーが!”と即つっこみたくなりましたが、
続きの会話、さらには今日の彼女の発言全部を見るに、彼女はあまり英語が得意でなく、
限られた語彙からの発言になってしまうのが、彼女が余計そっけない印象を与えてしまう原因にもなっているかもしれないな、、と思います。)
最初は温水なんだけど、アリアを歌う頃までにはすっかり冷たくなってしまうので、、、
それでリハーサルから初日までに風邪を引きそうになって大変だったのよ。
FPD: 今回のメトの『つばめ』はロール・デビューですよね?
KO: 私自身、”ドレッタの夢”(一幕で歌われる『つばめ』の中で最も知られたアリア)以外はこの作品についてあまり良く知らなかったし、
また、自分の声がマグダの役に向いているかも良く判らなかったんです。
マグダは一般的にはリリコ向けの役ですが、私は自分の声をスピントだと思っているので、、。
マグダは自分が10年もすれば容色も衰えて不幸せになることがわかっています。
そういう意味では彼女はゆっくりと死んでいっている、ともいえ、他のプッチーニの作品のようなドラマティックさはないかもしれませんが、
彼女もやはり死に向かっているのだと思います。
GF: ルッジェーロはずっとマグダよりも少し遅れたところを走っている感じです。
マグダを愛する気持ち、パッションには溢れているけれど、人生経験が足りない。
KO: 彼にとって、清純、処女性、母親、というものが大事で、マグダにもそれを求めている。
マグダは彼を愛しているからこそ、それらを彼に与えることが出来ない、と判断して身を引くのです。
FPD: マグダは最後にランバルドの元に戻るのかな、、?とオーディエンスに感じさせるエンディングではありませんか?
KO: 私は彼女がランバルドの元に戻るとは思いません。彼女の中では彼とのことは終わっていると思います。
GF: 音楽面では、この作品は、幕を重ねるごとによりプッチーニらしくなっていきますね。最後の幕はもうプッチーニ節全開!で、
その音楽に身を任せて歌えばいいので、自分にとっては幕が進むほど歌うのが楽です。
FPD: 指揮者(注:『つばめ』の指揮はマリン)とテンポなどについて調整しますか?
GF: もちろんそれは行いますが、そうやっていてもパフォーマンスは一つ一つ違いますので、そこが難しいところですね。
KO: 私は悪い意味でのサプライズ、予想もしていないようなことが起こることはあまり好きではないので、調整はするんですが、
歌というのは結局のところそこに込める気持ちの結果なので、それはやはり一回一回微妙に違います。
FPD:(フィリアーティに)あなたはメトのデビューが『ルチア』のエドガルドで、ベル・カントのレパートリーも良く歌っておられます。
GF: ベル・カント、プッチーニ、ヴェリズモ、、、私はプッチーニはヴェリズモとはまた全然違う一つのジャンルだと思っているのでこのように分けましたが、
これらのどれを歌うにしても、歌唱は同じであるべきだと思っています。
私の師であったアルフレード・クラウスはいつもこのように言っていました。
”オーケストラと戦おうとしちゃいけない。なぜなら絶対に勝てっこないから。声をいつも軽く保ちなさい。”と。
例えば、こうやって(手を叩いて大きな音を出す)音を出すよりも、”ぴーん”(と高音をハミングで出す)、、こういう音の方が劇場では良く響くのです。
ですからベル・カント的なアプローチで歌うことが、声にとっても一番負担が軽い方法なのです。
FPD: ご自分の声質をどのように分類されていますか?
KO: スピントです。
GF: リリコでしょうね。自分でこれ!と決めたことはないのですが、これまでは『ルチア』、『愛の妙薬』、『ウェルテル』といったあたりがレパートリーの中心でした。
自分の声はモーツァルトの作品にすごく合っているとは思わないのですが、それでも今シーズンメトで『皇帝ティートの慈悲』に出演したのは
あのあたりのレパートリーにも挑戦・勉強してみて自分に合うかどうかを見極めたい、と思ったからです。
でも、今歌っていて楽なのはフランスもののリリコの役で、ベル・カントやモーツァルトの作品よりもそちらの方が自分の声には合っていると思っています。
KO: 私には過去に歌の先生が二人いました。
一人の先生は私の声はドラマティコだ、と言い、24になるまでにアイーダ、トゥーランドット、マクベス夫人といった役どころを歌わされたので、
これらの役は良く勉強しました。
しかし、もう一人の先生が私はルチアやヴィオレッタを歌うべきだ、というのでもうすっかり混乱してしまったのです。
で、自分に”あなたはどう思うの?”という問いかけをした時、どちらの先生からもレッスンを受けるのを止めるべきだ、という結論に至りました。
そこでやっと今の先生(で、この先生からは今でもアドバイスをもらっていますが)に、あなたはドラマティコでもリリコでもなく、スピントなのだ、と言われました。
作品のスタイルに合わせることはあっても、声や歌唱そのもの、そしてテクニックといったものは変えられないし、変えるべきではありません。
私のような声にとってはミミのような役を歌う方が疲労度が大きく、ROHで蝶々さんを歌った時は幕が降りた後もまだ歌える位の元気が残っていました。
例えばヴィオレッタなんかを歌うと、私が本来持っている声の半分位の声しか使わないことになるので、かえって疲れてしまうのです。
なので、『ルサルカ』や『蝶々夫人』あたりが私に最も向いた作品ではないかな、と思っています。
ただ、そうは言っても毎回毎回ヘビーな役を歌っていては喉に負担がかかるので、演目をローテーションして、その順序には気をつけるようにしています。
例えば、『つばめ』のマグダから『トスカ』のような重めの方向に行くのはいいですが、
その次は何か軽めのもの、例えばミミ、、というような順序にしています。
 でもさっきミミは蝶々夫人より疲れるって言ってたし、より疲れるものに移行するのは矛盾しているように思うのだけれど、、。)
今回のマグダのようなロール・デビューの役でメトにハウス・デビューすることに関しては不安がありました。
本当は2010/11年シーズンの『ラ・ボエーム』のムゼッタ役でメト・デビューするはずだったんですが、
(冒頭で映像を見た)『ルサルカ』の話があって、そちらをとることにしました。

(とここで、どうやら最前列に座っていたヘッドのばあさんが”話が長いねえ、この人は。”みたいなことを本人に聞えるように発言したらしく)

あ、ごめんなさい。話を早くまとめてくれ、とおっしゃってるんですよね。簡潔に話すようにするのでもうちょっと我慢してください。

(このばあさんの失礼さにさすがの鉄仮面もゲストであるオポライスに申し訳ないと感じたか、
珍しく感情を露わに、”黙れ、このばばあ”的視線を一瞬彼女に刺したかと思うと、以降、オポライスに対して一層親切な態度で臨むのでした、、。)

FPD: (フィリアノーティに)あなたのメト・デビューは(注:2005年の)『ルチア』のエドガルドでしたね。
GF: はい。あれが僕にとって初めてのNYでもあり、もうキャブから降りて見た摩天楼の様子に圧倒されてしまって、
まあ、パリに出た時のルッジェーロみたいな感じでした(笑)
NYのことはすぐに大好きになりました。
メトのスタッフの親切さと家族的な雰囲気は、スカラの堅苦しくて”これやっちゃ駄目、あれやっちゃ駄目”という雰囲気と正反対でしたし、、。
(思わず会場から漏れた笑いに)ええ、僕はスカラのアカデミーに二年居ましたから(笑)
で、メトでの最初のシーズンの『ルチア』を歌い終えた時はこれでもう死んでもいい、と思ったものですが、まだこうしてメトで歌い続けることが出来ています。
FPD: いつ頃から歌を?
GF: 17歳の時に出身地であるカラブリアのコンサバトリーに通ったのが初めです。
その後4年間(注:アカデミーでの二年がここに含まれるのか別なのかは不明)、ムーティが率いていた頃のスカラで勉強して、
そしてクラウス先生との出会いがありました。
今でも歌っていて、何か問題が生じてきた時は、常にクラウス先生の教えに戻るようにしています。

ここでフィリアノーティがOONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)の2006/7年シーズンに演奏会形式で歌った2012年7月にフライブルクで歌った『アルルの女』から、
フィデリコの嘆きの歌唱の映像が流れる。

GF:作曲家のチレアとは同じカラブリアの出身ですので、特別な感情を持っています。
『アルルの女』は『つばめ』と少し似て、非常に良く知られたアリアがありながら、なかなか上演されない演目の一つです。
内容はイタリアの『ウェルテル』とも言えるような、すごく良く作品だと思うのですが。
初演でフェデリコ役を歌ったのはカルーソーですし!
FPD: あなたはこのOONYとのフライブルクの公演で、普段歌われない第二のフェデリコのアリアを披露しましたね。
GF: はい、、実はカラブリアの博物館でこのアリアのスコアを見る機会があったのがきっかけなんです。
テキストを読むうちに、”あれ?この作品知ってるぞ、、、『アルルの女』じゃないか!”ということになりまして、
この三幕冒頭のアリアはテノールに二つも名アリアはいらん!ということなんでしょうかね、
カルーソーが1894年に初演で歌ったきり(注:これは彼の覚え間違いでしょうか?1897年が正しいようです)、チレアが封印してしまったものなんです。
FPD: その部分に関してはオーケストラの総譜も残っているのですか?
GF: いいえ、残念ながらピアノとボーカルしか残っていないんですよ。
FPD: (オポライスに)ラトヴィアの劇場・教育システムについてもお話いただけますか?
KO: 私はプライベートの先生についたので詳しく申し上げることは出来ませんが、テクニックや役柄の習得に二年ほどかけるだけで、
後は劇場の指揮者とオーディションを重ねることになります。
リガのオペラハウスはワーグナーの影響が強いんですが(初演作品が『さまよえるオランダ人』)、ラトヴィアの自国オペラはあまり発展していません。
一つにはラトヴィアのオペラのレパートリーには比較的重い声が要され、若い歌手たちにとって歌いやすいものではないのも原因かと思います。
FPD: 先ほどここに来る前にジュゼッペとアメリカの劇場で最も観客が熱狂的・うるさいのはシカゴだね、という話をしていたのですが、その辺りはどうですか?
KO: やはり公演の時は何もかもを注ぎ込みます。時にはちょっと注ぎ込み過ぎたかも、、と思う位に。
なので、その注ぎ込んで分だけは客席からもエネルギーが返って来て欲しいと重います。ラトヴィアの観客はすごく大人しいですね。
FPD: お二人は今キャリア的にも油が乗り切った時期ですし、歌を勉強している若い学生さんなどからアドバイスを求められるようなこともあるのではないですか?
GF: まずは歌ってみなさい!というのが私の意見ですね。
そして、テクニックに関しては、一人一人体格も持っているものも違います。
だから、ベーシックスは同じでも、細かい部分で誰にも共通するテクニックというものはなく、
自分に合うテクニックを見つけ、身につけていかなければなりません。
そして、体や健康である事を大切にし、そして、声に対するリスペクトを持ち続けることです。
オーディエンスがいくら気に入って喝采したとしても、自分自身がしっくり来なければ駄目です。
オーディエンスはハッピーかも知れないけれど、自分はそうじゃない、と感じたら、その気持ちに正直にならねばなりません。
それから、大事なのは自分らしくあること!
そして、歌を歌えるということは特別な才能ではあるけれど、それが自分を特別な人間にするわけではない、という謙虚な気持ちを持ち続けることも大切です。
若い時には、つい、もっと沢山の役を!もっと沢山の成功を!と思いがちですが、そういう誘惑にNO!といわなければなりません。
自分が良い歌を歌えた、と納得すること、それが一番大切なことです。
それから良い先生を得ることも、ですね。
声や歌というのは心の鏡ですから、心を自由にオープンにしておくことも忘れてはなりません。
KO: 若い人に良く”良い声楽の先生を紹介してください。”と言われるのですが、それは生徒一人一人の個性も違うので難しいことです。
私が大切にして欲しいと思うのは、音楽と自分の関係、そしてスコアへの敬意、です。
私は自分がディーヴァ扱いされることになったら嫌だなあ、、と思います。
 オポライスをそこまでの歌手と思っているのは私の友達のフランス人のおじさん位なもので、
今日の最前列のばあさんはもちろん、そう思ってない人もたくさんいるのでそんな心配はまだ無用だと思います!)
私はまだまだ勉強中の身ですから、、。
FPD: 『つばめ』の後の予定は?
KO: 一週間家にやっと戻れます!
子供がまだ一歳で、母が色々育児の手伝いをしてくれています。夫は指揮者(アンドリス・ネルソンス)ですので全然助けにならないし(笑)
で、ボリショイでタチアナ(『エフゲニ・オネーギン』)を歌って、、、
FPD: ボリショイでタチアナを?!それはまた鋼鉄のような神経ですね(笑)
KO: どう歌っても必ず文句を言う人はいるでしょう。ですので、私が出来ることだけをしっかりやろう、と思ってます。
GF: 大丈夫、大丈夫!ボリショイは僕も歌ったことがあるけど、ちょろい、ちょろい!
KO: ええ??本当?!(笑)
GF:うん、劇場がすごく小さいからね。メトと比べたら全然(笑)
KO & FPD: ああ、そういう意味で(笑)
KO: それからROHの『トスカ』があって、続いて演奏会形式ですがウィーンのアメーリア(『シモン・ボッカネグラ』)でジョセフ・カレーヤとトーマス・ハンプソンと共演します。
そして、その後、国立歌劇場の方で、主人の指揮で『ラ・ボエーム』です。
私の意見では彼は最高のプッチーニ指揮者ですし、
 ええええええーーーっ!!!!???ネルソンスが指揮したメトの『トゥーランドット』はとてもそう思えない出来だったぞー!!)
明らかな理由から彼と一緒に仕事を出来るのはすっごく楽しみです。
 と言った時の彼女がそれまでとは違う本当に可愛らしい表情を見せていて、ネルソンスのことが本当に好きなんだなあ、、というのが良く伝わって来ました。)
GF: 僕はシカゴで『リゴレット』(のマントヴァ公)で、ジェリコ・ルチーチとの共演です。
『リゴレット』はその後エクサンプロヴァンスのカーセン演出の舞台でも歌う予定です。
それから、トロントでの『ロベルト・デヴェリュー』が入っていて、こちらはソンドラ・ラドヴァノフスキーとの共演です。
他に『ホフマン物語』(注:ミュンヘン)、『愛の妙薬』なんかも入ってますね。
FPD: それではオーディエンスの質問タイムに行きましょう。
オーディエンス:今ラトヴィアからたくさん良い歌手が出てきていますが、これは何故でしょう?
KO: 確かに(エリーナ・)ガランチャ、(マリーナ・)レベカ、(アレクサンドルス・)アントネンコ、、、小さい国なのに不思議ですよね。
エリーナとは同じ先生だったこともありますが、それ以外は習っている先生も違えば、みんなそれぞれ個性の異なる歌手なので理由はよくわかりません。
でも、自分がその一部なのはすごくエキサイティングだし、嬉しいことです。

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土曜のマチネの『つばめ』も鑑賞して来ましたが、ヘッド友達と議論になった点をこのイベントで語られた内容と重ねて鑑賞すると
色々考えさせられることの多い公演でした。
レポートも出来るだけ早くあげたいと思っています。


The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Kristine Opolais and Giuseppe Filianti with F. Paul Driscoll

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Kristine Opolais / Giuseppe Filianti シンガーズ・スタジオ クリスティーン・オポライス ジュゼッペ・フィリアノーティ  ***

THE SINGERS’STUDIO: ELINA GARANCA

2012-11-28 | メト レクチャー・シリーズ
久しぶりにシンガーズ・スタジオのレポートです。
シンガーズ・スタジオには結構まめに足を運んでいて、これまでに興味深い内容のものがたくさんあったんですけれども、
ブログ休止期間中であったり、メトの公演の感想等を優先しているうちにすっかりご無沙汰モードになってしまいました。

今日のゲストは現在メトの『皇帝ティートの慈悲』にセスト役で出演中のエリーナ・ガランチャ。
インタビュアーはこちらも当ブログではお久しぶりの鉄仮面編集長ことF・ポール・ドリスコル氏です。
(ドリスコル氏はかのOpera Newsの編集長で、どんな歌手からどんな答えが返ってきても、
まるで仮面のように表情を変えずに受け答えすることから、私が勝手に、しかし愛情をこめて鉄仮面と呼ばせて頂いている人物です。)

いつも通り、筆記でとったメモをもとに、要点を会話形式で再構築したものですので、実際の会話の完全な和訳ではない点はご了承ください。
ガランチャはEG、鉄仮面をFPDとします。

(最初にアラーニャと共演した2009/10年シーズンのメトの『カルメン』から、”ハバネラ”の映像が流れる。)

FPD: この時の『カルメン』への出演はかなり間際に決まったものでしたね。
EG: はい。私はそのシーズン、『ホフマン物語』に出演するはずだったんですが、『カルメン』に出演する予定だった歌手
(ゲオルギューのこと。経緯はこちら。)が降板するとか何とかそんなことがあって、
支配人から『カルメン』に出演してもらえないか?という打診がありました。
私の答えは断然NO!!で、2007年にリガで歌ったりしたことはありましたが、まだメトで歌う準備は出来ていないと思っていたんです。
周囲の人間はアメリカはヨーロッパから離れてるし、こっそり歌ってくりゃいい、なんて言ってましたけど、
”アメリカで歌うってことは世界相手に歌うのと同じなのよ。それのどこがこっそりなの!?”って(笑)。
メトからはとりあえず演出家のリチャード・エアと会って話をしてもらうだけでもいいから、と言われて、
”いいえ、絶対会いません!”ってお伝えしたんですけれど、
結局メトの熱意に負けて、本当に会って話しするだけ、、ということで、リチャードと会ったらそれが2時間半のミーティングになってしまったの。
彼のコンセプトを聞いているうちに、今まで自分が考えていたカルメンとはまた違うカルメン像ですごくチャレンジングだと思ったし、
相手役がROHでも共演したロベルト(・アラーニャ)だというのも安心できる要因で、、色んな要素が全部はまって、それでお受けすることにしました。
FPD: 当初気がのらなかった理由はなんですか?あまりに急過ぎて準備の時間が無いと思ったのが理由ですか?
EG: それもあります。後は、カルメン役に対してオーディエンスが持つ一般的なイメージ、黒目・黒髪、、といったものに対して、
私は青い目のブロンドで、そのうえに背も高めだから、ホセ役もテノールが小さい人だと、
「何?カルメンってテノールのお母さん?」って感じになっちゃうんじゃないか、とか、、そういう面での心配もありました。
FPD: あなたはラトヴィアの出身ですよね。いつ自分はメゾ・ソプラノだ、と確信したのでしょう?
EG: 確信したことはなかったかも、、(笑)。
私の母は歌手で歌を教えてもいますが、私の声は高音から低音まで比較的幅広く出るので見極めがなかなか大変でした。
一度など、知り合いから”イタリアに声帯からメゾかソプラノかを判断できるお医者さまがいる。”と聞いて実際に診断してもらったこともあります(笑)
メゾとソプラノを分けるのは単にどれだけ高い声がでるか、低い声が出るか、というのはあまり問題ではなくて、
声の持つカラーと一般的なレジスター(声域)がどこにあるか(=主にどのあたりの音域に声が心地よく座るか)それが決め手になります。
時たま高い音を出すことに何の問題もないとしても、それだけではその人がソプラノである、ということにはならないのです。
PFD: 『アンナ・ボレーナ』のシーモアなど、ベル・カントの役も歌っていますね?
EG: まだ学生の頃、『ノルマ』の"清き女神 Casta Diva”のあまりの旋律の美しさに窓をあけたまま、何度も何度もレコードに合わせて歌っていたら、
”うるさーい!!!”と近所の人に叱られたこともあります。
私はリリック・メゾですので、ロミオ(『カプレーティとモンテッキ』)やアダルジーザ(『ノルマ』)は歌っていて心地が良いのですが、
決してコロラトゥーラ・メゾではないので、アンジェリーナ(『チェネレントラ』)のような役は特別な努力が必要です。
FPD: あなたはメトでアンジェリーナ役を封印しましたし、そういえばセスト役も今回のメトでの公演が最後になるだろうとおっしゃってますね。
メトはあなたの持ち役の墓場かな?
EG: (笑)ほんとに。で、アンジェリーナのような役で必要とされるビブラートはすごく早いものでなければならないのですが、
私の持っているビブラートはそれより若干遅めな感じで、トリルなんかも歌っていてちょっと疲れてしまったりします。
FPD: あなたの歌のイントネーション、それからチューニングは素晴らしいものがあると思うのですが、
これは合唱指揮をされていたお父様の影響も大きいのでしょうか?
EG: ええ、それはあると思います。
FPD: さて、『皇帝ティートの慈悲』ですが、リハーサルに入られたのはいつですか?
EG: 10/26(注:ちなみにティートの初日は11/16でした)でしたが、その後、サンディーなどがあって少しプロセスが遅れましたね。
マエストロ(ハリー・ビケット)とはテンポの調整を十分に行いました。というのは表現のために必要なテンポがある、と私は思うので。
FPD: メトで歌うのはいかがですか?
EG: 大好き!最高です。もうちょっと(自分の住んでいる)ヨーロッパから近ければもっと頻繁に歌いたいくらい。
劇場が巨大ですけど、それに向かって思い切り歌うのはかえってリラックスにつながります。
FPD: 今後、どのような役を歌って行きたいとお考えですか?
EG: アズチェーナとかウルリカを歌うことはなさそうですが(笑)、
子供が生まれてから(注:この時点で1歳2ヶ月だそうです。)声に変化がありましたし、2018/19年あたりにはデリラ役(『サムソンとデリラ』)に挑戦する予定です。
でも、70とまではいかなくとも55歳位までは歌い続けて行きたいので、急がずゆっくりとレパートリーを広げていけばいいかな、と思っています。
FPD: 『トロイ人』のディドーンも予定されていますね?(注:これはベルリン・ドイツ・オペラで2013年の話のようです)
EG: はい、マエストロ・ラニクルの指揮で。この役は声楽的にも音域が広く大変難しい役で、5幕はもうバナナ!(きちがい沙汰を表す英語)って感じですが、
ベルリオーズの声楽作品には他にも素晴らしいものがあるので、それらの作品をより広く紹介する手助けも出来ればいいなと思います。
FPD: リガで勉強されていた頃、演技はどのように身につけられましたか?学校では演技のクラスは充実しているのでしょうか?
というのも、アメリカでは、若いオペラ歌手に対しての演技の教育が、音楽面での教育面に比べてかなり欠けている、という指摘がしばしば聞かれます。
EG: リガの音楽院にも演技のクラスはありましたが、質はあまり良くないですね。あら、こんなこと言っちゃったらまずかったかしら(笑)
私の場合は母がオペラ歌手でしたから、リハーサルや舞台を見たり、そういった経験を通じて演技のこつをつかんでいきました。
私の通っていた学校から道を挟んだところに母のいる劇場があって、ほとんどの時間をどちらかで過ごしていましたね、当時は。
小さい頃、友人が演技の学校に通っていて、普段はジーンズにトレーナーみたいな格好ばかりのその友人が、
舞台の上で王冠と美しい衣装を身につけているのを見て、私もお芝居の勉強をしてみたい!と思ったんです。
それで演劇学校の試験を受けたのですが、見事に落ちまして、
歌だけなら何とかなるかも、、と歌の世界に入ったわけですが、大変な道を選んでしまいました(笑)
FPD: あなたのお母様はオペラ歌手、お父様は合唱団の指揮者、という話は先ほど出ましたが、
このご両親がオペラの世界に関わっているという環境は、あなたにとってプラスでしたか、マイナスでしたか?
EG: もちろん自分の歌を研鑽していくという意味ではプラスだったと思います。
しかし、私の母はリガではちょっとした有名人でしたので、私が歌を勉強し出した頃は、
”なかなか良い声をしているけれど、全く音楽性に欠ける。””母親とは違うな。”というようなことをいつも言われていました。
まだ勉強途中の若い歌手にとって、このような自信をくじく言葉を聞くのは大変辛いものです。
私はオーディションを受けて、ドイツの小さな劇場でデビューを果たしたのですが、
このオーディションを受けに行くときに母親から”準備が出来ていない。”と大反対されました。
けれども、私の方も”実際に舞台に立ってみなくて、どうしてそれがわかるの。”と大喧嘩して半分家を飛び出すような感じでドイツに向かったんです。
ドイツ語も話せなくて、ビザなどの書類を申請する時も、ラトヴィア語/ドイツ語の辞書と首っ引きでなんとか記入し終えた、という状態でした。
でも受かった。そして、私のキャリアはそこから始まったのです。
ただ、今の私がその当時の私を目の前にしたなら、母と全く同じことを言うでしょうね。
ロシアの影響が色濃い国からドイツに行くのは大変でしたし、私の場合は本当に色んなことが幸運な方向に進みましたが、
そうならなくても、何の不思議もありませんでしたから。
FPD:(ここで2005年のウィーン国立歌劇場『ウェルテル』の公演からの映像が流れる。)
これはいわゆるトラディショナルな18世紀的な舞台とは全く違う演出(注:セルバン演出)ですね。
シャーロット役のアップタイトさがどことなくヒッチコック的っぽく、面白く見ました。
さて、ここからはオンラインで寄せられたものと皆さんの質問のコーナーに入りたいと思います。
”好きな役は?”
EG: シャーロット役は好きな役の一つですが、これは年齢によっても変っていくと思いますね。
さきほどの映像にしても2005年ということは私も今より7歳若いわけですし、、(笑)
HDはプレッシャーが大きいし、歳をとるほど大変さが身にしみます。
顔の細かいパーツが良く見えるのもそうですし、歩く姿勢とか、、、
時々HDの映像を後で見て自分の顔に”わっ!!”と驚くこともあります。
もちろんHDに関してはリハーサルが多ければ多いほどリラックスしてのぞめます。
FPD: HDデビューは、、、
EG: メトの『チェネレントラ』です。(注:前述の映像はHDではなく、DVD化用の映像だったのだと思われる。)
あの時を境にして突然世界中にファンが増えた感じがしますね。メキシコのファンからメッセージをもらうようになったり、、。
さっきの『ウェルテル』の時は”小屋”(注:あらあら、ガランチャったらウィーン歌劇場のことをそんな風に、、)って感じでしたけど、
メトは劇場自体も巨大ですし、、
FPD: 現在メトのHDは55カ国に配信されているようですよ。
EG: さらにプレッシャーをかけてくれてほんとありがとう(笑)
(注:このシンガーズ・スタジオから約5日後に『皇帝ティートの慈悲』のHDが予定されているのでした。)
FPD: "歌うのが難しい言語がもしあれば教えてください。”
EG: ラトヴィアのオペラというのがあったとしたら、多分、それでしょうね。ラトヴィアの言葉は喉の奥深くを使う音が多いので、歌いにくいです。
FPD: ”役の準備はどのように行いますか?”
EG: 2年半~3年位前からスコアを見始め、リブレットを読み込み、関連する本に目を通したり、DVD等を鑑賞したりします。
ただ、私はあまりがっちりと役を作りこむことはせず、必ず演出家のために少し余地を残しておくようにします。
オペラというのはみんなで協力して作り上げていくもので、自分にとっての真実が他の人の真実とは限りませんから。
ですから、自分の解釈と違う解釈も歓迎しますが、その代わり、そこに”それがなぜか?”というきちんとした裏付けがあることが条件です。
あと、役を固めすぎると、一つの演出から別の演出に移った時に身動きがとれなくなるような感じがして、
それもあまりがっちりと固めない理由の一つですね。
FPD: ”あなたが演じるズボン役の中でボーイフレンドとして一番理想的なのは誰ですか?”
EG: これはまた随分パーソナルな質問ね(笑)私がどの女性役に自分を置いて考えるかによっても違うんじゃないかしら(笑)
若い女の子だったらそう思わないかもしれないけど、年増な女性ならオクタヴィアンがいいでしょ?違う?(笑)
FPD: そういえばあなたのご主人も指揮者(注:カレル・マルク・チチョン)でいらっしゃいますよね?
EG: ええ、私の朝の様子で彼にはその日の夜の公演の内容がどんな風になるか大体ばれちゃう(笑)。
ただ、彼は今は段々オペラの指揮を減らして、演奏会などを増やすようにしています。
というのも、オペラは一つのランで6週間から8週間同じ場所に拘束されるので、
彼と私の両方が別々のオペラに関わると、一緒に過ごせる時間が本当に少なくなってしまうものですから、、。
FPD: カーネギー・ホールでのリサイタル(2013年4月6日)も予定されていますね。
EG:リサイタルで歌う時はオペラの新演出のために準備するのと同じ位のエネルギーを消費します。
母の仕事のせいもあり、レパートリーはたくさんあるので、それは問題ではないのですが、色々テーマを考えてセットリストを作るので、、。
今度のリサイタルはザルツブルクと同じで、私の大好きなシューマンの作品、それから少しコンテンポラリーな彩りを添えるためにベルク、
そして、R.シュトラウスの歌曲、という構成になります。シュトラウスの作品は私にとっては歌いやすいですね。
FPD: テーマはどのように選ぶのですか?
EG: その時にいる状況、その時に最も大切に感じる事柄、自然、対人関係、、色々ですね。
私はオペラの公演の隙間にリサイタルをつめこむようなやり方はあまり好きでないので、
オペラの公演とはまた別に、リサイタルのためのまとまった時間を取るようにしています。
FPD:”お子さんにはどのような子守唄を歌っていますか?”
EG: 静かになるものなら何でも(笑)。ただ、うちの子は言葉があるものよりも交響曲の方が好きみたいなので、
私が歌う時は言葉でなく、ハミングで歌うようにしています。
FPD: お子さんに音楽に関わる職業についてほしいですか?
EG: 音楽と関わりのあるものに興味をしめしてくれたらいいな、とは思います。
誰もうちの子は素晴らしい!と勘違いしているもので、私もそれにもれず言うと(笑)、
うちの子供はリズム感が良くて、ラテン系の音楽なんかをかけると器用にそれに合わせて踊ったりしているのでダンスとか向いているかな、と思っています。
オペラ歌手?それはすすめません。
特に今のオペラ界の状況では。たった15~20年前とくらべてもオペラの世界は様変わりしました。
このままで行ったらあの子が大きくなる頃には、オペラ歌手にとってはとても過酷な状況になっていると思います。
レディ・ガガみたいな感じの歌手になりたいならいいかもしれませんけど(笑)
FPD: 今オペラの世界の変化について言及がありましたが、もうちょっと詳しく説明していただけますか?どこがどう変ったと思われますか?
EG: 以前はもっと時間がありました。こちらが成長し、進化していける時間が。
だけど、今ではコンクールで一位をとれなかったらもうだめだ、とか、
25歳になる頃までに『椿姫』で舞台に立てなかったらアウト!とか、とにかく性急に判断し過ぎです。
そして、このように一度見限られた歌手には二度とチャンスが回ってこない。
それに残った歌手は歌手で劇場に次々とあれを歌え、これを歌え、と要求されるのです。
FPD: ”今でも舞台に立つ時には緊張しますか?それに対処するにはどのようなことをしていますか?”
EG: (最初の質問に、そんなのなくなると思う?という様子でくるりと目玉をまわす。)もちろん。
以前、プラシド(・ドミンゴ)と共演した時にすごく緊張していたら、彼にこう言われたの。
”ハニー、そうやって考えれば考えるほど、緊張がひどくなって行くんだよ。”って。
舞台に立つ身である以上、緊張から完全に解放されることはありません。
だから、その恐怖とどう向き合っていくか、その方法を考えることの方が大事だと思います。
でもその緊張が完全になくなってしまったら、それはそれでエモーションレスで退屈な歌しか歌えなくなってしまうのではないかしら?
FPD: ”ズボン役を演じるために特別なことはしますか?”
EG: とにかく人を観察することかしら。私はとにかく人のくせ、仕草を観察するのが大好きなんです。
例えばめがね一つをあげる仕草にしても、こういう風に(とひとさし指でブリッジを押す仕草)する人とか、
こういう風(フレームを横から手で摑んであげる仕草)にする人、
それから座るときも、こういう風に(と立ち上がって、どさっ!と音を立てて座る)座る男性や、
こういう風に(とすっとエレガントに座る)座る人、色々ですよね。
以前ウィーンで唇の左から右に舌をつーっと動かすのが癖の人と会ったことがあって、面白くて目が離せなかったということもありました。
歌手が舞台に一歩出たその瞬間、どのような様子で舞台に出て行くかで、オーディエンスのその役への印象が決まってしまいます。
だから、口を開いて歌う前から、あらゆる機会を用いて役の性格を表現しなければならないのです。
FPD: 私からの質問ですが、『皇帝ティートの慈悲』はアンニオ役もセスト役もメゾですよね。混乱しませんか?
EG: いいえ。この二人はかなり違いますから。レポレッロとドン・ジョヴァンニの方がずっと近いと思いますよ。
FPD: これからのキャリアでどんなことを成し遂げたいですか?
EG: 以前に比べればキャリアが開けてレパートリーの選択など、自由度があがったのは良いことだと思うのですが、
自由があるからこそ、”じゃ、自分は何がしたいの?どういう風な道に向かって行きたいの?”という難しい問いに向き合っていかなければなりません。
クリスタ・ルートヴィヒはメゾでありながらソプラノの音域まで統一した音色を持っていて、
私と似通った部分もあるため、目標にもしている歌手なのですが、
その彼女とお話する機会があった時、現役だった頃はクライバーやカラヤンといった指揮者が自分のところにやってきて、
この役は君にあっていると思うから歌ってみなさい、と言って、実際そのための指導も惜しまなかった、と語っていました。
その話を聞いてすごくうらやましいな、と思いましたね。
自分からこのレパートリー、この役を歌いたい、というのもいいですが、
”君はこの役をやるといいと思うよ。やってごらんなさい。”と、そういった挑戦を歌手にしてくれるような存在が今のオペラの世界にいたらなあ、と思います。


The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Elīna Garanča with F. Paul Driscoll

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Elīna Garanča シンガーズ・スタジオ エリーナ・ガランチャ  ***

MetTalks: L'ELISIR D'AMORE

2012-09-18 | メト レクチャー・シリーズ
あまりにも失望させられる公演が多くて、しまいにはブログを書く気すら失せた2011-12年シーズンのメトでした。
というわけで、皆様、お久しぶりでございます。
それにしましても、話を戻しますと、『魔法の島』のような妙な代物を見せられたかと思うと、
『神々の黄昏』でのあのおぞましい演出、、、、特にimmolation scene(ブリュンヒルデの自己犠牲)は悪夢以外の何物でもありませんでした。
気分が盛り下がるのもいいところです。
しかし、半分頭がおかしい私であるので、それでも四月のトライベッカ映画祭での『ワーグナーの夢~メトロポリタン・オペラの挑戦』のプレミアに出かけてしまうのでした。
そして、そこでまた、いかにあのマシーン(リングで使用されたセット)が危険な物体であるか、
そのことを十分に事前にわかっていながら、
ゲルブ支配人がキャストやスタッフの安全や精神的な安心を犠牲にしてあのリングを無理やり舞台にのせたか、
その様子が克明に描かれているのを見て、映画館でわなわなしてしまった私です。
いや、むしろ、普通の感覚ならばこんなことは隠しておきたい恥ずかしい事実であるはずなのに、
それを堂々と映画で開陳してしまうその羞恥心の欠如ぶりがさすがだわ、、、。って、あれ?感心している場合じゃなーい!
2010/11年シーズンのオープニング・ナイトでの『ラインの黄金』での入城のシーンでのエラーや同シーズンの『ワルキューレ』での事故
(後者はあまりにに内容がやばすぎるからか、映画でも全くふれられておらず、あわよくば握りつぶしてやろうという魂胆のようですが、
この記事のコメント欄でその時のことを記録してあります。)も、全く予測可能だったことがこの映画で確認されたわけです。
念のために言っておきますが、何も失敗が起こってしまうことが恥ずかしいことではないのです。生の舞台だから、失敗くらいあります。
しかし、失敗、それも人の命に関わる種類の失敗が高い率で起こりうることが予想される時に、必要な判断を下せない、このことが”恥ずかしい”ことなのです。
私が支配人だったなら、あんなプロダクション、絶対に絶対に舞台にかけたりしなかったでしょう。
そんなことですので、映画を鑑賞した数日後にメトが当たり前のようにパトロンシップの更新依頼の電話をかけてきた時は、
”私は歌手やスタッフの安全を脅かす殺人マシーンのために寄付をしているんじゃない!別の支配人に交替する日まで、二度と寄付はせん!”と吠えておきました。
どうせ私の寄付金などは、あの馬鹿マシーンのための釘一本買って終り、くらいな額なわけですが、塵もつもれば山となる、
先シーズンのプロダクションについては私のように怒っている人が山ほどおり、小口パトロンを降りる人が続出、という話も耳にしました。
そのせいか、その後、夏中ほとんど毎日、携帯電話と自宅の電話番号両方にパトロン・デスクから説得&変心を試みようという電話があり、
会社の同僚から”今日もまたメトにストーキングされてますね。”と言われてしまう始末でしたが、もちろん私の決心は変わりません。

また2月の新(2012-13年)シーズンのスケジュール発表に伴い、オープニング・ナイトを飾る『愛の妙薬』新演出で、
バートレット・シャーが”ダークな『愛の妙薬』”とやらを目論んでいると聞いて、これまたげんなり、
さらに寄付をしない理由が増えたことは言うまでもありません。
一体『愛の妙薬』のどこをどうとったらダークな要素が見えるっていうんでしょう?
こういう、そもそも作品に存在しないものを無理矢理でっちあげてそこに意味をもたせようとする演出は、
作品に存在しているものを描ききれない演出と同じ位、もしくはそれ以上にたちが悪い。
私の知っている人の中には”ダークな妙薬?馬鹿じゃないの?”というリアクションの人がほとんどでしたので、
シーズン終了近くには、新シーズンまで顔を合わせなさそうなオペラ友達と、
”See you at the dark L'Elisir!(今度はダークな妙薬で会いましょう!)”と皮肉をこめつつお互いに挨拶して別れるのが慣例となりました。


(左よりベルコーレ役のマリウシュ・クヴィエーチェン、アディーナ役のアンナ・ネトレプコ、ネモリーノ役のマシュー・ポレンザーニ。
ドレス・リハーサルより。)

そして三ヶ月の時が流れ、いよいよその”ダークな妙薬”のオープニング・ナイトの日となったわけです。
この記事を書いているのはオープニング・ナイトの翌日で、公演の感想をすぐにでもあげたいのはやまやまなのですが、
オープニング・ナイトの一週間ほど前に、MetTalksのイベントで、
主役の二人(アンナ・ネトレプコとマシュー・ポレンザーニ)、指揮者のマウリツィオ・ベニーニ、そして演出家のバートレット・シャーを、
ゲルブ支配人がモデレーターとしてとりまとめつつインタビューする、という企画がありました。
公演の感想に大きな関係があるのみならず、事前に言及しておいた方が感想を書くにあたって便利に思える部分もありましたので、
まずはこちらのMetTalksの内容を簡単にまとめておきたいと思います。
仕事を強引に片付けたその足で駆けつけたイベントのため、頭が33回転位にしかまわっていなくて(いつもは45回転くらい?と思いたい。)、
ノートを持参するのを忘れてしまって全く覚書のメモもとっていませんので、話の順序脈絡をすっかり忘れてしまいました。
でも、大事なことだけはきちんと覚えていますので、今回は箇条書きで行きたいと思います。
ちなみに、(M:)の中はMadokakipが思わず心の中で発した突っ込みの言葉です。

** 演出家シャーが語る演出 **
今回の演出では『愛の妙薬』が完成した1830年代に時代を設定した。舞台はイタリアの村。
(注:作品の舞台は一般的にはバスク地方ということになっているのですが、版によってはイタリアの村となっているものもあり、
彼はそちらを元にしたのかもしれません。その点に関する詳しい説明は特にありませんでした。
またメトのプレイビルのあらすじにも舞台はイタリアという風に表記されています。)
自分の幅の行き過ぎた想像かもしれないが、当時のイタリアの時代背景にはオーストリアの侵攻があり、
作品の中にもイタリア的な部分とそれをちょっと冷ややかに見ているようなオーストリア的視線があるのではないかと思っている。
なので、その二面性を演出の中に出したいと思った。
(M: このあたりが”ダーク”な発想の根源か?
しかし、イタリアとオーストリアの二面性と言う言葉にまるめこまれそうになったが、何だかわかるようでよくわからないコンセプト、、。)

** ネトレプコが考えるアディーナ像 **
アディーナはしばしばちょっと意地悪で片意地な女性として歌い表現されることが多いが、それでは最後の場面と辻褄が合わない、と思う。
なので自分は、彼女はもともと温かくて優しい、もしかするとちょっとボーイッシュなところのある女性なのだけど、
何かが理由で自分がネモリーノのことを愛しているとは簡単に認めたくない、もしくは認めることが出来ない、
そう、彼女は彼女自身の中に解決しなければならない問題があって、この物語を通じてその殻を打ち破っていく、
そんな風な解釈で演じることにした。

** ポレンザーニが考えるネモリーノ像 **
ネモリーノに関しては、どれ位”おつむが弱い”風に彼を演じるか、そのバランスが見る側の興味の的の一つだと思うが、
この演出では特に”おつむを弱く”演じるつもりはない。
アディーナとは一緒に育って来た境遇のため、それまで近すぎて見えなかったこと、
互いに上手くコミュニケートできなかったり、認めることが出来なかった感情があるのだが、
それが一連の事件を通して無理矢理背中を押される形になる。
もしベルコーレやドゥルカマーラが村を訪れなければ、二人の距離は相変わらずずっと変わらないままだったんじゃないかな、と思う。

** ポレンザーニと”人知れぬ涙”**
(ゲルブ支配人の”人知れぬ涙”はメトでもこの役で評価が高かったパヴァロッティの歌唱を始め比較対象が多いし、
テノールのアリアの中でも最も有名で、人気のあるものの一つだが、それを歌うプレッシャーは?という質問に)
興味深いことについ最近母にも同じ質問をされたんだよ。”あのアリアを舞台で歌うのってどんな気持ち?って。
願わくば、、、舞台に立つ時には、一切そういった考えが心にない状態だったならいいな、って思う。
”人知れぬ涙”はアディーナの涙を見て彼女が自分のことを愛してくれていると知った彼が、これ以上はもう何も望まない、と歌うアリアだから、
そのままの彼の気持ちを自然に心を込めて、あの曲の中で歌われている言葉の中身だけを、
観客の皆さんにそのまま届けることが出来たら、と。
(M: すべての歌手がこういう風に思って歌ってくれたら、、、と思わせる実に素晴らしい答えです。
しかも、彼の語っている様子にも全くわざとらしいところがなく、彼が心からそのように思っているのが伝わって来ました。)

** ポレンザーニ、アディーナの涙に思う **
”人知れぬ涙”といえば、そういえば、このアリアでは彼女の涙を見た、っていうことになっているのに、
僕が今までに見た舞台で、アディーナが実際に涙を浮かべている様子を実際に見せる演出というのはほとんどなかったように思うんだ。
だけど、この演出ではアンナ(アディーナ)が実際に泣く場面がちゃんとあるんだよ。
それがこの演出の面白い点の一つかもしれない。

** 演出と音楽が対立した時、指揮者は、、**
(演出と自分の指揮しようとしている音楽とに食い違いが生じているように感じたことはありましたか?
またその場合、どのように対処しましたか?という支配人の質問にベニーニが答えて)
音楽の観点から言うと、この作品は喜劇としての側面から”楽しい、面白い作品”と捉えられることが多いが、
喜劇よりも以前に、この作品はまず何よりもラブ・ストーリーなのであって、
そのロマンティックな部分が常にオケの演奏の通奏低音として感じられるように演奏したいと思っている。
彼(シャー)の表現しようとしている二面性と僕の考えるコメディとロマンスの二層構造はアイディア的に似通っているので、
特に彼の演出と食い違う、という場面はあまりなかったように思いますね。

** ポレンザーニ、シャーに”ダーク過ぎ!”の駄目出しを食らわせる! **
ただ演出の中でここは少しダーク過ぎて作品にそぐわない、と思う時は、僕(ポレンザーニ)らは
バート(・シャー)にそれを伝えてモディファイしていったよ。
(M: おおっ!!キャストの中に正気な人がいて私は安心しました!!!)

** 更にネトレプコからも駄目だしを食らうシャー **
バートはちょっと頭で考え過ぎなのよね。
(M: 、、、、逆にあなたは考えなさ過ぎだけどね。)

** そこでシャーの逆襲 **
ここで、彼らの攻撃に反逆すべく、いかに喜劇の演出が難しく(彼の弁によると悲劇よりもよっぽど難しい)、
微妙なバランスの元に立っているか、そのバランスをダークさとコミカルさの中で取ろうとしたので慎重になってしまうのだ、と自己防衛するシャー。
彼の説明がこれまた長くて、一瞬気が遠くなるMadokakip。確かにネトレプコの”頭で考え過ぎ”の言は正しいかもしれない。
しかし、途中どうなるのだろう、と怖くなった時もあったが、最終的にはすごく良いものに仕上がったと思う、
とちょっとした自信を最後にのぞかせるシャー。

** ネトレプコ、ポレンザーニ、ベニーニが語るベル・カントとベル・カントにおける演技 **
ベル・カントとは美しい音色、美しいフレージングで構成される歌唱であり、
それはいわゆるベル・カントのレパートリーを超えて、どんな作品においても(たとえばフランスものでも)応用できるものである。(三人同意見)
(ゲルブ支配人のネトレプコに対して、舞台に立っている時、歌と演技ではどちらにウェイトを置いているか?という質問に、当たり前でしょ、という風に)
それはもちろん歌です。

** きっちりしてるかと思えば割りとテキトー?なベニーニ **
ベルカントでいかにスコアに書かれているままにきちんと歌い、演奏することが大事かを滔々と語るベニーニ。
ところがネトレプコに”でも今回の公演ではカットもあるのよ。四重唱(注:一幕のラストのことを指していると思われる)とか。”と暴露されると、
”ベル・カントの時代には、曲のつぎはぎ、追加、省略なんてのは普通に行われていたからね。今回程度のカット、私は全然気になりません。”
ま、確かにそれも一理ありますが、きっちりしてそうに見えて、実は結構適当なベニーニ。

** 指揮者ベニーニからメト・オケへの愛のメッセージ **

この作品には絶対的にイタリア的なサウンドが必要であり、オケは、それをきちんと出せるタイプと、からっきし駄目なタイプ、
この二つに一つしかない。メトのオケには間違いなくそのサウンドがある。
メトのオケは本当に素晴らしく、イタリアのスタイルにアメリカのプロフェッショナリズムが合体した感じ。
このオケの素晴らしさは、、、例えば、”ここはこういう風に演奏したいな。”と心に念じただけで、
オケがすっとその通りに演奏してくれる、そういう素晴らしさをもったオケなんです!
ここで指揮が出来るなら、私は喜んでいつでも他の仕事を放り出してでも帰って来ます。
(M: あーた、そんなこと言っちゃっていいんですか?知りませんよ、他の劇場に聞きつけられても、、。)

** 畳みかけるようにバートレット・シャーの証言 **
そうですね。例えば僕が演出上の指示を出しますよね。すると、それに合わせてオケの演奏まですっと変わるんですよ。
あれは本当に聴いていて、僕のような音楽の素人ですらすごいな、と思います。

** マシュー・ポレンザーニ、メト・オケについて支配人を詰める! **
本当にそうなんですよ、ピーター!
(とやおらゲルブ支配人の方を向く。このピーター!という呼びかけのなかに、
”あなたはそのありがたさをわかっていない!”という痛切な訴えかけのニュアンスを聴き取ったのはMadokakipだけではあるまい。
ポレンザーニの勢いに度肝を抜かれて一言も発せないゲルブ支配人に畳みかけるポレンザーニ!!)
僕は幸運にも世界各地の劇場で歌う機会が与えられていて、色んな劇場のオケについて、
いやー、良い演奏だなー、こういう演奏の上で歌えて幸せだなーと思って歌うんだけれど、
メトに帰って来て彼らの演奏を聞くと、”ああ、他の劇場のオケとはいる場所が一段違う、。”と思うんだよ。
そりゃ、ヨハン・シュトラウスの作品ならウィーン・フィルには他のどのオケも適わないし、
ヴェルディの作品についてのスカラ座にも同じことが言えると思う。
だけど、これほどどんなレパートリーでも、そして僕が”どんな”とここで言うのは本当に”どんな”で、
ブリテンから始まってワーグナー、ヴェルディ、ベルク、モーツァルト、他にも色々あるけど、
その広いレパートリーで、これほどまで高い結果をコンスタントに出せるオケは他にどこにもないんだよ!!
(彼の迫力に押され、”それもこれもマエストロ・レヴァインの長年に渡る努力のおかげですね。”としか返事することが出来ない支配人。
ポレンザーニの心のこもった力説に、たくさんの思い出多いオペラの舞台と常に共にあったオケへの愛情を表現しようと
オーディエンスから大きな拍手が巻き起こる。)

** ネトレプコのコメントに固まるオーディエンス **
(と、会場がメト・オケへの溢れる愛で盛り上がっているところ、そろそろオケの話は飽きたわ、といわんばかりに
ネトレプコがポレンザーニに向かって)
”だから、メトロポリタンって名前なんじゃないの。”
冷や水を打ったように静まるオーディエンス。
何十年もメトに通いつめてるローカル・ファンで埋められた客席から、
”こんなひよっ子に、メトの歴史とそれを支えて来たオケの何がわかるのか。”とか、
”そういう発言は自分の歌の完成度がメトのオケの演奏のそれと同じ位高くなるまで待つんだな。”
という妖波のようなものがオーディトリアムの中に一瞬渦巻いてました。
地雷を踏みましたね、ネトレプコ。
我々ローカルのファンはゲルブ支配人と違って圧倒的な才能とスキルと努力が伴わない歌手以外は
誰のことも特別扱いなんてしませんから気をつけてくださいね。

** オペラ歌手になる決心をしたきっかけ~ネトレプコ編 **
18歳の時に見た、ヴラディミール・ガルージンが出演していた『オテロ』(マリインスキーの公演)。
自分の望むものすべてがそこにあった。

** オペラ歌手になる決心をしたきっかけ~ポレンザーニ編 **
まずオペラ歌手に絶対なりたくて、それが成功しなかった場合、代替として学校の音楽の先生を希望する、、というパターンは割りとあるが、
自分はそれとは全く逆で、合唱の先生なり何なり、学校で音楽を教えたい!という情熱がものすごく強くて、
まあオペラ歌手はなれればいいな、位の程度だったんだよ。
(M: ポレンザーニが学校の音楽の先生やってるところを想像したらはまり過ぎてて笑い出しそうになってしまった。)

** ネトレプコの今後の予定 **
はっきりとしたことはまだ言えないが、『トロヴァトーレ』や『ローエングリン』などについてはスコアを見ている。

** ポレンザーニの今後の予定 **
僕の場合は、来シーズンにカラフを歌います、、ということはまずありませんので(笑)、
(M: 彼の声は明らかに彼が下であげているようなレパートリーに向いた声なので、
正反対のロブストな声質を求められるカラフを歌っている姿を想像すると、これもまたなかなかに突飛で笑えるものがある。)
今まで通り、ベル・カントのレパートリー、フランスもの、モーツァルトの作品といったあたりを歌って行くつもりです。

、、、ということで、これまでは口を開いてもまっとうなことしか言わない、あまり面白くない人、
というイメージが強かったポレンザーニが今日はなぜだか一人結構暴走していて楽しませて頂きました。
またキャストのシャーへの駄目だしのおかげで、吹聴されていたほどにはダークでない演出に仕上がったような印象も持ちます。
オープニング・ナイトがどのような結果になるか、実に楽しみです。

(トップの写真はアディーナ役のアンナ・ネトレプコとドゥルカマーラ役のアンブロージョ・マエストリ。『愛の妙薬』の宣伝用スチール。)

MetTalks: L'Elisir d'Amore

Anna Netrebko
Matthew Polenzani
Maurizio Benini
Bartlett Sher
Moderator: Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks L'Elisir d'Amore 愛の妙薬 ***

ANNA BOLENA & HANS HOLBEIN: MET MEETS MET

2011-09-21 | メト レクチャー・シリーズ
いよいよ来る月曜はメトの2011/12年シーズンのオープニング・ナイトです。
いまやすっかり良きオペ友となったマフィアな指揮者からも、”月曜は行くかい?”と電話がありました。
先シーズンの閉幕以来、一度もお喋りしてませんので、もうすっかり4ヶ月ぶりなんですが、オペラという共通の話題があるせいで話がつい盛り上がってしまう。気が付けば1時間半も話してました。
それにしても、経済不況に伴って、アメリカで暮らすのも全く楽でなくなりました。
彼も私もこれまで出来るだけ多くの演目を、できるだけ多くの違ったキャストで鑑賞したい!という一心で、
しかも座席にそれなりのこだわりがあって決まった場所にしか座らないポリシーの故、狂ったようにメトにお金を注ぎ込んで来ましたが、
そんな彼も、いよいよ会計士に、”あなた、もう少しメト行きをカットバックして、本格的に将来に備えないと、99歳になるまで引退できませんよ。
それまであなたが生きていればの話ですが、わははは。”と言われてしまったそうです。
なのに、メトはもちろん、カーネギー・ホール友の会やらニューヨーク・フィル友の会と名乗る人たちからとめどなく電話がかかって来て寄付をせがまれるので、
”わしは誰の友でもないっ!!”と電話で一喝してみたとか。
そして、最近のメトのチケットの値段の付け方も侮れないものがあります。
ガラなどの特別な機会はもちろん、金曜の夜や土曜になると追加料金、列の前の方に座ればこれまた追加料金、ついでに通路側の座席にも追加料金、、と、
なんだかんだ理由をつけて値段を吊り上げて来る。
メトに来たら安くオペラを見れるなんて、もはや昔のことか、座席を選ばなければ、の話です。
私はオペラは金のかかる芸術である、という理論の信奉者なので、それなりに内容のあるものを見せてくれるのであれば、チケットの値段が上がって行くのもやむなし、、と思えるのですが、
最近のメトのがらくたのような新演出(『トスカ』、リング、、、)とそれに伴う不必要な高出費に観客が付き合わされるのはおかしい!と思っていて、
大体、リングのあのマシーンにかかったコストの少なからぬ部分は、それを支えるためのオケピの天井の補修工事に割かれているわけで、
”観客の目に入りすらしないものに、観客やパトロンが汗水垂らして稼いだ金が消えているのはどういうことなのか?
支配人の判断の誤りをなぜオーディエンスが肩代わりせねばならないのか!?”と、つい私も電話口でエキサイトしてしまうのでした。

しかし、かように文句を垂れつつもやはりメトに足を向けてしまうのが、我々ヘッズの悲しい性。
そんな我々のために、オープニング・ナイトに向けて、大変面白い企画が組まれました。
ヘッズであるところの私は、日本に住んでいる頃、”NYでメトに行って、、”というと、必ず”メトロポリタン美術館?”と聞き返して来る人がいて、
最初のうちこそ彼らの頭を張り倒したい衝動に駆られたものですが、
メトというと、メトロポリタン・オペラよりもどちらかというとメトロポリタン美術館を想起する人の方が多いという事実にやがて気づき、一層どんよりしたものです。
そんな因縁深い(と私が勝手に思っている)メトロポリタン美術館とメトロポリタン・オペラがタイ・アップで、”メト・ミーツ・メト”と銘打ち、
オープニング・ナイトの演目である『アンナ・ボレーナ』をテーマにしたレクチャー「アンナ・ボレーナとハンス・ホルバイン」を開催することになりました。
二つのメトがこのように共同でレクチャーを行うのは少なくとも私が知っている限りでは初めてのことです。
場所はブレハッチのリサイタルの時と同じ、メトロポリタン美術館にある、グレイス・レイニー・ロジャース・オーディトリアム。

正直に告白すると、そもそもこのレクチャーに私が足を向ける気になったのは、
ネトレプコとダブル・キャストでアンナ役に配されているアンジェラ・ミードが、最後の幕から狂乱の場
(”あなたがたは泣いているの? Piangete voi?”~”私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”)を、
ピアノ伴奏で披露してくれることになっていたからで、
しかも、あの小さなオーディトリアムで彼女の歌を聴けるとはなんと贅沢なことよ!と思っていたのですが、
大きく分けて三つのパーツで構成されたこのレクチャーは非常にインフォーマティブ、
かつ、来るオープニング・ナイトを含む全幕公演の鑑賞に役立つことばかりで、歌以外の部分も含めて非常に充実したレクチャーでした。
両メトに大感謝です。

とにかくレクチャーの構成、これが非常に良く考えられていたと思います。
まず、第一のパートは、日本人により馴染みの深い方のメト、つまり、メトロポリタン美術館のキュレーター、マリアン・アインズワースによる、
ハンス・ホルバインの肖像画と、それを通して見た、アン・ブリン(オペラでのアンナ)、ジェーン・シーモア(ジョヴァンナ)、そしてヘンリー8世(エンリーコ)らが生きた時代の背景について。
アン・ブリンが女王の座にあったのは1533~6年のことで、ホルバインは1536年からヘンリー8世お抱えの宮廷画家になっています。
よって、ヘンリーには計6名の妻(もちろん一夫多妻制ではないので、順番に、、)が存在しましたが、
残念ながらホルバインの手による肖像画は三番目の妻であるジェーン・シーモア(↓)と、



四番目の妻となったアンナ・フォン・クレーフェ(↓)



のものしか残っておらず、アン・ブリンの肖像(↓)は描き手不詳、しかも、どれくらい本人に似ているのかも良く判らないものが数枚残っているに過ぎません。
(その理由としては、オペラに描かれているようなことがあったために、彼女が処刑された後、
彼女にまつわる品を手元に留めておくのを嫌うヘンリー8世の意向やそれに影響を受けた風潮があって、
多くのものが破棄されたからではないかと考えられています。)



当時、肖像画というのは現在の写真のような役割を果たしていて、王の妃候補の女性達も、特に国外からの候補の場合、
本人同士が出会う前に、王が肖像画で相手の女性を品定め、時にそのまま却下!ということもあったそうなので、
それこそホルバインのような優れた腕を持つ画家に肖像画を書いてもらうということがいかに大切であったかということがわかります。
下の女性はジョヴァンナが亡くなった後に妃候補となった、美人との誉れ高かったミラノの女公爵クリスティーナで、
肖像画はやはりホルバインの手によるものです。
彼女は美人であるのみならず、その優雅な手の動き(!!)でも良く知られており、その彼女の長所をいかんなく強調するため、
ホルバインは、わざわざ、手の部分だけ別にスケッチをとったといい、この複雑かつ絶妙に計算された手指の置き方にもそれが現れています。



このエピソードでも感じられるように、ホルバインという人は当時活躍していた肖像画家の間では極めて細部にこだわりをもっていたことで知られ、
特に服の素材の質感、髭などの毛の感じなど、上で紹介した絵はサイズが小さくて少しわかりにくいかもしれませんが、
プロジェクターなどでアップにしたものを見ると、その偏執的なまでの細かさに気が遠くなりそうになります。
上の絵のうち、アン・ブリンの肖像だけがホルバインではない画家の手によるものですが、
確かに衣服などの描写の細かさはホルバインと段違いであることが一目でわかります。

さて、そんな指の所作にまで拘ったホルバインの力作=クリスティーナの肖像ですが、なぜか、ヘンリー8世は彼女を妃にはしませんでした。
理由は良くわかっていないそうなのですが、それでもヘンリー8世はこのクリスティーナの肖像画だけはいたくお気に召し、
彼の死後、ちゃっかり遺物品の中に含まれていたのが確認されています。
やだ、、ヘンリーってば、時々この肖像画を取り出してはにまにましていたのかしら、、、このすけべ親父!

で、そのすけべ親父=オペラのエンリーコがどんな顔だったかと言うと、こんな顔なんです(↓)。
こちらもホルバインが描いた肖像画なんですが、この豪華な衣服!!!またしてもそれを偏執的に細かく描写するホルバイン!!



ここで、プレゼンターは今回のメトのプロダクションで衣裳を担当したジェニー・ティラマーニに交替。
ジェニーさんはおかっぱ頭に大きな赤いめがね、黒のトップ、黒のスカート、黒の靴下に黒の靴、と全身総黒で、
昔、コム・デ・ギャルソンにこういう店員さんがたくさんいたなあ、、とふと懐かしくなってしまいました。
こんな格好なので、クールですかしたキャラのデザイナーかと思ったら、とんでもなくて、
口を開くとブリティッシュ・アクセントが素敵なかわいいおば様でした。しかも、時々入るユーモアも素敵で、話が面白い!!

でも、やがて気づいたのは、話が面白いのは、彼女の話術のせいだけじゃないということ。
彼女は衣装デザインの仕事において、本当にプロ中のプロというか、そのこだわりに溢れた仕事ぶりは、まさにホルバインの偏執さと互角の戦いになっています。
妥協を許さぬ仕事ぶりが伝わって来る彼女のお話を聞くうち、
私はオペラ、特にメトでの仕事に関わっている人たちの話を聞いたり、彼らの仕事ぶりを見て、
もう言葉には出来ないような畏敬や感謝の念を感じることがしばしばありますが、彼女も例外ではありませんでした。

ジェニーさんには『アンナ・ボレーナ』の演出を担当しているマクヴィカーから今回のプロダクションの衣装デザインをやってみないか?という打診があって、
二つ返事で請け負ったものの、その時にはこれがどれほど大変なプロジェクトになるか想像もついていなかったと言います。
彼女は2005年までグローブ座で衣装デザインのディレクターを務めており、『十二夜』の衣装で2003年のオリヴィエ賞も受賞しているのですが、
おそらくグローブ座での経験によって培われたものなのでしょう、彼女の衣装における時代考証の正確さへのこだわりはすさまじいものがあります。
アン・ブリーン自身に関するビジュアル的資料は非常に数が限られているわけですが、
その分、同時代の人物達を衣服の細部に渡るまで描き残したホルバインの肖像画は今回の衣装デザインのプロセスにおいて、
このうえなく大きな助けになったそうです。
ただ、彼女の素晴らしさというのは、単に歴史的資料を正しく衣装に反映させている、ということに留まらず、
それを実際に身につけていた人物たちの日々の生活とか、どのようにその服装を身につけていたか、またそれはなぜなのか、ということを考え、想像するプロセスと、
その時代の人たちのリアル・クローズ(日々実際に身につけ生活している服装)としての衣装という側面を非常に大事にしている点です。
それを感じさせるジェニーさんのこんな発言がありました。
今回のレクチャーでは、ジェニーさんがリハーサルからのスチール写真を何枚か見せて下さったのですが、
その中に、合唱の女性たちが演じる王室関係の女性達の写真がありました。
女性の衣装の袖口には、当時の服装の慣習にならって、袖のフリルをまとめるための紐が通っています。
本当はその紐を手首の周りに巻いて結ぶのが正しい着用の仕方なのですが、一人の合唱の女性が時間がなかったのか面倒臭かったのか、
紐をたらんと袖から垂らして着崩しています。それについてジェニーさんいわく、
”デザイナーとしては、つい駆け寄っていって結んでしまいたくなるところなんでしょうが、でも私はこれ、逆になんか素敵だな、と思いましたね。
これだけ王室で沢山の人が働いていれば、中には服を着崩す人も出てくるでしょう?
日々の生活で誰もがホルバインの描いた肖像画の中の人物のようにきちんとした着こなしをしているわけではないですから。”
そう、この感覚が大事なんだな、、と思います。
6月のメトの日本公演の『ラ・ボエーム』の舞台写真を眺めていた時に、何かNYの公演と違う、違和感があるな、、と感じたんですが、
もちろん、舞台の大きさの問題などもありましたが、
一つには、日本のスタッフの方が絡むと、舞台セットやエキストラの衣装の着せ方に”抜き”がなくて、きっちりし過ぎてしまう、
そこにも原因があったのではないかな、と私は思っていて、
舞台が生き生きと、リアルなものになるためには、このほんの少しの抜きというのがすごく大事なのではないかと思うのです。


(ジェニーさんの手による衣装デザイン画)

ジェニーさんらしいエピソードをもう一つあげると、今度は男性の合唱陣の衣装なんですが、いよいよ全員のデザイン画も完成!という頃、
当時の人々の生活をイラストで描いた資料に再び目を通していた時に、”!!!!!!!!”と目玉が飛び出るようなものを見つけてしまうジェニーさん。
それは、上着の下に重ね着をするように身につけられ、上着の下にほんのかすかに細く見えている真っ白いシャツ状の衣服の端の部分でした。
はっきり言って、その絵ですらよーく目をこらさなければ重ね着になっていることもわからないような代物なのですが、
”これで合唱の男性全員についてもう一着作らなければならないアイテムが増えたわ、、。”
どんなに小さなディテールでも、それが存在するということは、理由があるから。それを決して無視しないのがジェニーさんのやり方なのです。

ホルバインは肖像画以外にもスケッチなども存在していて、その中に、同一人物を違った角度から描いたものがあります。
これまた非常に貴重な資料で、衣装デザインのために多くの示唆を与えるもので、
例えば、上で紹介したデザイン画の一番右の女性、これはほとんどホルバインのデッサンを借用したもので、
この絵を見ると、当時の女性のドレスはウェストのラインがやや高めで、後にフランスの宮廷で見られるようになった
マリー・アントワネットが着ていたようなこんもりとしたドレスはまだ存在しておらず、
そのまま下に流れるようなラインのドレスであったことなどが伺われます。

さらにジェニーさんは、先に紹介した5人の人物の肖像画のうち、
圧倒的に派手で豪華な衣服を身につけているのは、アン・ブリンを含めたどの女性でもなく、ヘンリー8世であることを指摘します。
確かに。ヘンリー8世のファッショナブルさに比べると、女性は結構地味ですよね、、、。
これがチューダー朝時代のファッションの基本的なトーンだったことがわかります。

なんとヘンリーは服装に関する勅令も出していたそうで、そこには、きちんとした身分の人間はヤード辺り5ポンド以下の布地は使用してはいけない、とか、
あれやこれやと細かいことが規定されています。
かように安っぽいものは身につけるな、と言ったかと思うと、
逆に、絹には、サテン、ヴェルヴェット、ダマスク、シルク、タッフェッタというレベルがあって(先ほど上質とされる)、
ヴェルベットは衣服の内側(肌に近い場所)に身につけるのは良いが、上着など一番目につくところには身につけないこと、という規定もあります。
それはなぜかといえば、もちろん、ヴェルベットを外に身につけてよいのは王その人、ヘンリー8世だけだからです。(ほんと、嫌な奴~。)
たかだか服装のルールと侮ってはいけない。王にしか着用を許されていない紫色を身につけて処刑された人もいた、そんな時代なのです。
スチール写真で見た、エンリーコ役のイルダル・アブドラザコフが身につけている衣装は、
全ての登場人物の中でも一際豪華でため息が出るような美しさでした。
(しかも、彼は体格も良いので、すごく似合ってます。ヘンリー8世本人よりも素敵。)
出回っているドレス・リハーサルの写真の中に彼の姿がないのは、彼の衣装が目玉であることをメトも知っていてのことでしょう。
実際の公演、HDを楽しみにして頂きたいと思います。


(ドレス・リハーサルから、アンナ役のネトレプコ。アン・ブリンの肖像画と比べると、非常に再現度の高い衣装であることがわかります。)

さて、ジェニーさんが一番苦労したのは素材の質感だといいます。
上からもわかるように、当時、重要な位にあった人たちの衣服に欠かせないのが絹でした。
アンたちが生きた時代の絹は、金に糸目をつけずに豪華に織ったものが多く、どしっとした重厚感があります。
ところが、現代の生地を使ってもなかなか同様の重量感が出ず、どうしても軽い素材感になってしまう、、
この問題を解決するため、結局、ジェニーさんはメトの衣装部と共同で、ウールと絹を混紡にしたオリジナルの布を作って、
その重みを出すのに成功したそうです。

また、絹にステッチを施すことで、革のような質感を出せるテクニックがあって、それも今回のプロダクションの衣装の中で採用されている手法です。

アンナ役のドレスの中に、金の紐が入っている衣装があります。
本当に金を使用するのが輝きという舞台上の効果の上から最も望ましいのですが、高価なのと、
現在、金を布地としと扱うという高度な技術を持っている職人がほとんどいなくなっているのだそうです。
そこで代替案として、金色のポリエステルを他の素材と混ぜ合わせ、それを代わりに使用しているそうで、
本当に数え切れないほどの工夫が今回の衣装には盛り込まれています。

ホルバインの肖像画の中には、女性の衣服の袖の部分のステッチがきちんと描きこまれているものがあって、
非常に複雑なパターンは、当時、高度な裁縫の技術を持った人だけが完成させることのできるものでしたが、
こちらは、今はコンピューター搭載のミシンがあるので、パターンさえ入れてしまえば、とても簡単に縫いあがってしまうんだそうです。

興味深い話を次々と披露してくださり、ここにとても全部は書ききれないくらいなのですが、最後に、
写真や舞台で見るだけでなく、ぜひ、衣服がどのように着用されていたかを知り、衣装を見るだけでなく感じて欲しい、という
ジェニーさんの意向により、スティーヴン・コステロが演じるパーシー役の衣装の一つを、
ジェニーさんのアシスタントの男性が、モデルに一から着用させるところを見せて頂く、という、大変に面白い企画がありました。
さすがにコステロはオープニング・ナイトを間近に控えて衣装モデルをやっている場合ではなかったらしく、
おそらく合唱のメンバーの方なんでしょうか、似た体格の男性が連行されて来たのですが、この男性(ちなみに名前はネイサン)がすごく美形で、
会場にいる女性(それから何人か男性も?)が一斉に座席から身を乗り出す音が聞えて来そうでした。
というのも、これから衣装を着せてもらうわけですから、下に着用するシャツ一枚きりで、生足全開で舞台に立っているわけですよ、このネイサンが!!
まあ、現代でいうなら、Yシャツ(と多分パンツ)だけを身につけた美形男性が目の前にいるようなもんです。
いやん、恥ずかしいわ、ぽっ!と言いながら、思い切り瞳孔が開きっぱなしのMadokakip。

さて、下の写真の右のコステロが着用している、このちょうちんブルマーがこれからネイサン君に着用させようとしている衣装なんですが、
おなかのところにゴムか何かが入っていて、スウェットパンツを履くようなノリで履けるんだろう、、と思いきや、
さすがジェニーさん、服の作りもまったくチューダー朝当時から変えていないんですから妥協のなさが徹底してます。
ということは、そう、当時の人とまったく同じ要領で衣装を着なければならないということです。
そして、一言、これはもうとても自分で着れるような代物じゃありません。



まず下半身を覆う白く薄い長い布、これが言って見れば当時の下着にあたるわけですが、
それを紐のようなもので数箇所結わえて、ちょうちんブルマーが入るスペースを作った後、いよいよちょうちんがセットされるのですが、
上着の身ごろの裾に、いくつかわっかがあって、ブルマー側に付属している紐をそこに縛り付けるという構造になっています。
コステロがこの衣装を身につけた時、”ここまで衣装に体が縛り付けられていると、衣装が脱げる心配がなくていいね。”と、
ジェニーさんに言ったそうなのですが、まさに体も一体で上下紐で縛りつける、そういうイメージです。
また、この上着というのが、非常に体に密着するようなデザイン(ジェニーさんがそうしたわけではなくて、当時のデザインそのものが)になっていて、
上着を着用してしまうと、上半身を動かすのが困難なほどなんだそうです。
誰でも銃を携行して良かった開拓時代のアメリカとは違い、当時のイギリスでは剣という武器を身につけられるのは身分の高いものの特権、というわけで、
このオペラに登場するような人物は基本的にみんな剣をきちんと携行している、ということで、最後に剣をつけてお着替え終了。

ジェニーさんのパートはここまでで、いよいよミードによる狂乱の場の歌唱。
タングルウッドの直後に、パーク・リサイタルで『アンナ・ボレーナ』からの抜粋を少しだけ披露してくれたミードですが、
あの時はそれぞれの歌手の割り当て時間や構成の問題もあって、ジョヴァンナとの二重唱でした。
その時にも良くスコア、役を勉強している感じが伝わって来ましたが、
今日の狂乱の場を聴いて彼女が半端ない情熱を傾けてこの役を準備して来たのが本当に手に取るようにわかり、
ラストの部分では、もう思わず笑みが出てしまいました(私の顔から)。
スター性、カリスマ、これに関しては、まだネトレプコには適わないでしょうが、これは本当に面白いことになりましたよ。




ネトレプコは爆発するような情熱でこの狂乱の場を歌うでしょうが、ミードの方はぶくぶくと煮えあがっているような、
爆発していないだけに、いつそうなってもおかしくない、エレガンスの下に膨張したパワーを感じる、そういう狂乱の場を聴かせてくれるはずです。
オプショナルの高音を入れたりして、難易度をあげる冒険までやってのけ、きちんとした結果を伴っていましたし、
Coppia iniqua以降に見せた毅然な歌の表情は、いつか演技に対する照れや苦手意識が抜けた時に、
何か大きく開花するものがあるのではないか?というポテンシャルを感じさせます。
彼女は歌い始めに少し、舞台上で居心地の悪そうな感じを見せることが多いのですが(演奏会でも)、
歌にのめりこんで音楽しか見えなくなった後は、こちらがはっとするような表情をしたり、歌唱の表現をしてみせることが多いので、
『アンナ・ボレーナ』の公演がブレークスルーのポイントになるといいな、と思います。

とにかく、この二人、全く違うタイプのアンナ役になるでしょうが、これは本当にどちらも聴き逃すことがあってはなりません。
というわけで、件のマフィアな指揮者にも”絶対ミードも聴かなきゃ駄目!”と電話で脅しをかけておきました。


Anna Bolena & Hans Holbein: Met Meets Met

Maryan Ainsworth, Curator, Department of European Paintings
Jenny Tiramani, costume designer and historian
Angela Meade, Soprano

ORCH C Even
The Grace Rainey Rogers Auditorium
The Metropolitan Museum of Art

*** Anna Bolena & Hans Holbein: Met Meets Met アンナ・ボレーナとハンス・ホルバイン ***

MetTalks: LE COMTE ORY

2011-03-10 | メト レクチャー・シリーズ
いよいよ『オリー伯爵』のプレミエが3/24に迫って来ました。
今日はそのプレ・イベントとも言うべき、同演目についてのMetTalksです。
主役の三人、すなわちオリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、
アデル役(注:このイベントの中ではこの役がしばしば単にCountess=伯爵夫人と形容されていますが、
マイナーなオペラのあらすじからもわかる通り、これはオリー伯爵夫人という意味ではなく、アデルは別の伯爵の奥様です。)のディアナ・ダムラウ、
そしてイゾリエ役のジョイス・ディドナートに、演出のバートレット・シャーを加えたなかなか豪華なゲスト陣で、
もちろんこういう人気歌手たちでキラキラした場面に必ずホスト役で登場して来るのは、ピーター・ゲルブ支配人です。
いつもと同様、語られた内容の要点をメモを元に再構築したものをご紹介したいと思います。

支配人:『オリー伯爵』はロッシーニの作品で、1828年にパリで世界初演を迎えました。
メトではかつて一度も上演されたことがなく、今シーズンの上演がメト初演となります。
今日はその『オリー伯爵』のメインの三役、すなわち、オリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、伯爵夫人(アデル)役のディアナ・ダムラウ、
そして、小姓(イゾリエ)役のジョイス・ディドナート、そして演出のバートレット・シャー氏をお迎えしています。
簡単に今日のゲストの紹介をいたしましょう。
まずはテノールのファン・ディエゴ・フローレス(↓)。



2001-2年シーズンに『セヴィリヤの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵役でメト・デビューし、
2006-7年シーズン、今回の『オリー伯爵』と同じシャー氏が手がけた新演出の『セヴィリヤの理髪師』での活躍や、
『連隊の娘』での18個のハイCは皆様の記憶に新しいところです。


ディアナ・ダムラウ(↓)は2005-6年シーズンの『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタ役でメト・デビュー。



その後、一つのシーズンの中で、『魔笛』のパミーナ役と夜の女王役の両方を歌って下さったこともありました。
あ、同一公演内ではもちろんありませんでしたけれどもね(笑)。
モーツァルトの作品や、『ルチア』、『連隊の娘』のマリー、そしてやはりシャー氏演出の『セヴィリヤの理髪師』でのロジーナ役を歌っていて、
毎年、メトの舞台に登場してくれているソプラノです。

そして、メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート(↓)は2005-6年シーズンの『フィガロの結婚』のケルビーノ役がメト・デビュー。



その後、『ロミオとジュリエット』のステファノ役を経て、彼女もシャー氏の『セヴィリヤの理髪師』でロジーナを歌っています。
彼女が登場した公演はHDにもなりましたのでご覧になった方も多いでしょう。
今年は『カプリッチョ』のHDのホストもつとめてくれることになっており、また、来シーズンにはバロックのパスティーシュ・オペラ『魅惑の島』に登場予定です。

演出のバートレット・シャー氏(↓ 中央)は、『セヴィリヤの理髪師』、『ホフマン物語』に続き、今回の『オリー伯爵』がメトで手がける三つ目の作品となります。



ということで、それではシャー氏に『オリー伯爵』の作品のあらすじの説明をまずお願いしましょうか。

シャー:(参ったな、という調子で)Oh my God!(笑)
時はですね、十字軍の時代なんですよ。(皮肉をこめて)オペラには最適な時代でしょう?(笑)
で、城のほとんどの男性が十字軍に加わってサラセンに発った後に、このオリー伯爵という女性に目がない伯爵が、
特に、夫を送り出して心痛の状態にあるアデルを目当てに彼女の城に入り込もうと二つの作戦を立てるんです。
一つ目の、隠者(マイナーなあらすじでは行者という表現になっていますが)に化けてアデルに近づくものの、見事失敗するまでが第一幕、
そして、二つ目の、尼僧の振りをして城に入り込む作戦が描かれるのが第二幕なんですが、三重唱があったかと思うと、いきなり終わるんです(笑)。
ロッシーニが書いた最後の喜劇的オペラと言われていて、初演された場所(パリ)のせいもあって、歌われる言語はフランス語なんですが、
曲はまさにロッシーニ!で、イタリア料理のシェフが作ったフランスのお菓子、とでも形容すればいいかな、と思います。
第一幕はデイライト・アクト(日中の幕)、第二幕はナイトライト・アクト(夜の明かりの幕)とも形容され、
セットのイヤーガン、衣装のズーバーらとは、この点を十分に心がけてプランを練りました。
ロッシーニがこの作品で実現させている登場人物の間の緊密感溢れる音楽を損なわないように、
出来るだけオーディエンスにとって生身に感じられるように、グランドにならないよう気をつけたつもりです。
セットも、イヤーガンと、アンティーク、チャーミング、と言った性質を大切にしながら作って行きました。

支配人:この作品は先ほども申し上げた通り、メトでは今シーズンが初演となります。
あなた(フローレス)がペーザロでこの作品を歌ったことも作品見直しの一つのきっかけとなって、
今回のメトでの上演はもちろん、今年はチューリッヒでも同演目の上演が行われていますが、
世界的に見てもまだ非常に実演の機会の少ない演目であると言えると思います。これはなぜでしょう?

フローレス:声楽的にそれぞれの役にあった歌手を揃えるのが難しいというのが一番の理由ではないでしょうか?

支配人:当初は予定していなかったのですが、せっかくですので、そのペーザロの音源から、
オリー伯爵が隠者の振りをして女性達の望みを全部叶えてあげよう、と言いながら誘惑する
"Que les destins prospères 願わくば幸いなる運が皆さんがたの祈りに応じたまわんことを!”のファン・ディエゴの歌唱を皆様に聴いて頂こうと思います。

フローレス:おお!!(と言って、手で顔を覆う)


(CDにもなっている上と同じ音源が流れ、彼の歌声に耳をすませるオーディエンス。
彼の美しい歌声に思わず笑みがこぼれる人多数。曲が終わると大拍手だったのですが、最後にハイCを出さずに終わったのを受けて冗談めかしながら)

フローレス:このハイCがなかったのは芸術上の選択だったんだよ。わかるでしょ?時には高く上げて終わるのは良くないこともあるんだ、、、
なんて言ってるけどね、本当は僕も最後にはハイCをつけて終わる方がいいと思う。(笑)

(注:そしてフローレスは本当にオーディエンスの期待を裏切るのが嫌いな真面目な人柄なんだな、という風に思います。
3/24のメトのプレミエの公演ではこの時の言葉通り、彼は最後を高音で閉めてくれています。
下がその初日からの、同じ部分の音源です。指揮はベニーニです。)



支配人:では、ディアナ、あなたが歌うアデル役について少し話していただけますか?

ダムラウ:アデーレといえば、皆さん、すぐに『こうもり』の方を思い浮かべられると思いますが
(注:英語では『オリー伯爵』のアデルも『こうもり』のアデーレも同じ発音なので)、『オリー伯爵』のアデルはまじめで、
しかも、自分ではなくて、男性(オリー)の方が彼女の方を選ぶ、という設定です。
この三人の登場人物が暗闇の中にいたら、一体どんなことになるか、皆さんわかるでしょ?(笑)
この作品には、大事なことは水面下でずっと起こっているような部分があって、
レチタティーヴォにもダブル・ミーニングがあったり、そういうところが面白いな、と個人的に思います。

支配人:そして、ジョイス、あなたの役はオリー伯爵の小姓のイゾリエですね。

ディドナート:ええ、でもイゾリエの話をする前に少しだけ。さっき、"Que les destins prospères”の音楽が流れた時、
皆さんの間にすごい勢いで笑顔が広がっていったの、ご自身でお気づきになりましたか?
良い音楽を聴いた時、微笑まずにいるのは難しいと本当に思います。
イゾリエですが、そう、彼はオリーの小姓なんですけれども、面白いのはニ幕の展開の中心となる、
尼僧に化けて城にまぎれこむというアイディアは、もともと、オリーのものではなくて、イゾリエのものであった点です。
それをオリーがちゃっかり拝借してしまうんですよね。
ということから考えると、イゾリエにはストリート・スマート
(学校の勉強でつく類の知識ではなく、普段の生活や実地の経験から生れる知恵や機転に富んでいること)な側面があって、
それは、彼ら3人が一緒にベッドに入っている時に彼がどういう行動に出るか、という部分にも現れていると思います。

シャー:『オリー伯爵』には原作となっている戯曲があるのですが、それによると、オリーには14人もの子供が生れることになっているんですよ(笑)

支配人:へー、そうなんですね(笑)さて、シャー氏に次に伺いたいのは、喜劇と悲劇という比較についてなんですが、、。
この『オリー伯爵』はまぎれもないコメディーですが、悲劇を演出する際と比べ、どちらが難しく感じますか?

シャー:『オリー伯爵』はげらげらひっくり返って笑うようなコメディーではなくて、軽くてメロウな喜劇だと言えると思います。
で、こういうタイプの喜劇は、私自身は、ヘビーな悲劇よりも、ずっとずっと演出をするのが難しいと感じます。
今回はこの3人のような才能溢れるキャストに恵まれましたので幸運でしたが、
この作品のデリケートさ、それからキラキラした輝きを現出するのは簡単なことではありません。
例えば、ニ幕の尼僧に化けたオリーとアデルの二重唱の場面ですが、ここでのアデルは本当に彼が尼僧だと信じているのでしょうか?
それとも、尼僧の振りをしたオリーであることを十分承知で、すっとぼけているのでしょうか?
そして、そうだとすれば、彼女がすっとぼけているということを、オリーは知っているのかどうか、、、
こう考えると、色んな風に解釈する余地があることがわかります。

ディドナート:喜劇的なオペラというのは、喜劇的な効果をもってストーリーを語ることに他ならないと思います。
なので喜劇的な歌唱・演技を披露しようとする前に、まずは何よりもストーリーをきちんとオーディエンスに伝えるということが大事なのではないかと思うのです。
喜劇的なオペラに出演している時は客席からの笑いにほっとさせられます。だって、逆にしーんと静かだったりしたら、、

支配人:それくらい観客が舞台に集中しているという見方もできますよ。

ディドナート:そう思えればよいのですが!(笑)

支配人:(フローレスに向かって)では、あなたは喜劇(コメディー)と悲劇(トラジディー)について、どのようなお考えをお持ちですか?

フローレス:僕の場合は、自分の持っているレパートリーの中ではコメディーの方が、、、、うーんと、コメディーの反対の言葉はなんだっけ、、

(つい3秒前に、支配人自身が質問の中でcomedy vs tragedyという言葉を発したばかりなので、
まさかフローレスが”悲劇”という単純な言葉を探しているのではあるまいと深読みし、”え?何だろう?何だろう?”となぜか一緒に慌ててしまうゲルブ支配人。
ディドナートとシャーがえ?もしかして、、という様子で”Tragedy?"と助け舟を出すと)

フローレス:そうそう、トラジディー(悲劇)!

(このフローレスのびっくりするような強度のお茶目な健忘症ぶりに、机につっぷして大笑いするシャー。オーディエンスも大爆笑。)

フローレス:(そんな私たちを全く意に介さぬ様子で淡々と)僕のレパートリーで悲劇といえば『セミラーミデ』とか色々あるんだけど、、、
そうだな、僕は喜劇も、しばしば、”身の毛もよだつ瞬間”の上に成り立っていることが多いと思うんだよ。
それから、『オリー伯爵』では僕はほとんどずっと変装しているんだよね。最初は隠者、そして後半は尼さん、、、
僕のレパートリーの中には、他にも『セヴィリヤの理髪師』とか『シャブランのマティルデ』など、変装系の作品がある。
これらの作品では、同じ一人の役でありながら、違うパーソナリティを出さなければならないというチャレンジがあるんだよ。
声楽的にはもしかすると悲劇的作品の方が求められる部分は多く、より優れていると言ってもよいのかもしれないけれど、、。

ディドナート:喜劇的作品はストーリー自身が悲劇よりももっと込み入っているケースが多く、
たくさんのストーリー上のひねりをどうやって表現していくか、とか、歌と演技のバランスをどのように取っていくか、というような、
悲劇とはまた違った難しさがありますね。
喜劇には、シャンパンのようなぱちぱちと弾ける感じも絶対に必要で、さあ、もう一本シャンパン開けて!さあ、次ハイC出して!というような、
湧き出てくるような楽しさも求められます。
私は悲劇というのは、実際にその作品をお客さんがそれまでに鑑賞したことがあるかどうかに関わらず、
これから何が起こるかわからないと思わせるような雰囲気で持って歌い演じることが大切であるのに対し、
喜劇というのは逆にすでにわかっていること、お約束の上で、どれ位オーディエンスを笑わせることが出来るかが大事である、という、
そういう違いがあるかな、と思います。

支配人:次は少しHDのことについてお伺いしたいと思います。
歌手の方の中にはHD向けに演技や歌唱を少し変える、という方もいらっしゃいますが、HDが実演に与える影響というものについてお話願えたらと思います。

シャー:私が思う、実際にオペラハウスで公演を見るという体験とHDで鑑賞する際の違いは、
カメラの映像は舞台上のほとんどどこにでも移動できるのに対して、オーディエンスにはそれが不可能であるという点です。
私は常に、舞台芸術においてはオーディエンスこそが主役であって、オーディエンスが舞台上の登場人物一人一人と特別な関係を結べるような、
そういう舞台を作って行きたいと考えています。

支配人:ということは、演出においてHDを念頭に置いた特別なことはなさっていない、と、そういうことになりますか?

ダムラウ:私も特にカメラが入っているからといって歌や演技を変えることはありません。

ディドナート:『セヴィリヤの理髪師』のHDの体験から言うと、カメラが入っているせいでよりアドレナリンの放出量とか
フォーカスの度合いは変わってくるということはあるかもしれません。
もちろん、カメラが入っていない時でもフォーカスしているのですが、、、何と言えばよいかしら、、、
HDだからと言ってカメラ向けに表現を判りやすく大きくする必要はないですが、より内面的に、深くする必要はあるかと思います。

支配人:ロッシーニの作品は、しばしば旋律の繰り返しが多く、また、作品間での音楽の使い回しも多い、など、
ネガティブな意見を持つ人もありますが、皆さんが『オリー伯爵』で難しいと感じられる部分はどういうところでしょう?

シャー:旋律の繰り返し、私はそこが奥深いところだと思うんですよ。、名前やラベルをつけては変え、つけては変え、
を繰り返す作業に似ている。そして、その度に、少しずつ変化していくニュアンスの違いを折りこまなければならない、
これは演出家にとって、とてもやりがいのある仕事です。
それからロッシーニの作品には先にすでにお話したような、キラキラとした感じ、軽い感じを殺さずに、
その底に隠れた奥深いものを引き出す必要があります。

フローレス:オリー伯役について言うと、僕が歌っている他のベル・カントのレパートリーに比べて、
この作品で歌われるアリアはもともとソプラノのために書かれていたせいで、ソプラノイッシュな雰囲気があり、それが難しさの一つ。
それから作品としての難しさだけど、一つにいわゆるビッグ・アリア(超メジャーなアリア)がないこと、
非常にたくさんのレチタティーヴォがあって、その中で、この作品の楽しさを表現していかなければならない点、
それからイゾリエとの二重唱、これは声楽的にとても難しい、、、このあたりがあげられるかと思います。
ロッシーニの作品でどうして音楽の使い回しが多いか、という話だけど、それはロッシーニがエコ・フレンドリーな作曲家だったからだよ。(笑)
まじめな話、当時のオペラというのは、今みたいにCDで何度も聴いたりするわけじゃなかったから、それでよかったんだ。

ディドナート:私が歌うパートの中で最も難しいのは一幕のオリーとの二重唱(”Une dame de haut parage さる高貴な生まれの貴婦人が”)の最初ですね。
それから、この作品は歌われる言葉がフランス語であるために、イタリア語で歌われるロッシーニ作品と比べると、
飛び跳ねるような感じとかパーカッシブさが薄いので、その辺も注意が必要です。

ダムラウ:私の場合、一幕の”En proie à la tristesse 悲しみにさいなまれ”ですね。
控え室から出たか出ないかといううちにあんな旋律を歌わなければならないんですもの。
ロッシーニは歌手の虐め方を良く心得ていたんだわ、と思います(笑)。

フローレス:この間Wikipediaで『オリー伯爵』の項を読んでいたら、1828年のパリの公演の後、
1829年にロンドン、それから1830年にはニュー・オーリーンズで上演されているんだ。そして1831年にニューヨークに来たみたいだよ。

支配人とゲスト一同:へえ、そうなんだ、、

フローレス:うん、Wikipediaに書いてあることが本当かどうかは知らないけど。
(注:確かにフローレスが語っている通りのことがWikipediaに掲載されています。)

ディドナート:演技の面で言うと、一番大変だったのはニ幕のオリーがアデルの部屋に忍び込んでくる場面!
だって、私達3人一緒にベッドに入ったことはいままでにないでしょ?(笑)
あのシーンはちょっとしたチャレンジだわ。

支配人:(笑)今まであなたはディアナとは『ナクソス島のアリアドネ』、それからファン・ディエゴとは『セヴィリヤの理髪師』で共演してますから、
気心知れた間でしょう?

ディドナート:それでも(笑)!でもあのシーンはロッシーニのアンサンブル・ライターとしての面目躍如のシーンね。

ダムラウ:個々のアリアも優れているけれど、ああやって歌手がアンサンブルを繰り広げる部分では何倍ものパワーが出る感じがしますね、確かに。

シャー:今回の公演では彼ら三人が色々アドリブで思いついてくれた演技も取り入れています。
演出にはもちろん、ストラクチャー、それからたくさんのルールが必要ですが、
その一方で、演じている側が楽しくなるような、創造的アドリブが可能な余地は残して置きたいと思うのです。
なので、僕の仕事は究極的には、彼らのために、そのようなグラウンドワーク、基礎の部分を作る作業を行うことだと思っています。
特に今回の作品で注意した点は、作品そのものが持っているスピリット、雰囲気を壊さないように、
出来るだけシンプルに、ということを心がけ、最新の大きなテクノロジーを使用せず、すべて、いわゆる古典的な劇場技術に依存しています。
例えばニ幕で、水平になっているベッドがだんだん垂直になっていく場面も、全て手動で行っています。
それからこれはファン・ディエゴの持論なんですが、まず、劇場にいる観客にとって、満足の行く音体験でなければならない、ということで、
セットが歌手達にとって障害にならず、むしろ彼らの歌唱を支えるものになるよう十分考慮したつもりです。

支配人:『セヴィリヤの理髪師』の時は、舞台前に花道を作るという楽しいアイディアがありましたが、今回も何かそういうものはあるのでしょうか?

シャー:舞台上にプラットフォームを作ったりはしていますが、あの『セヴィリヤ』の時のようないわゆる”花道”は今回は存在しません。
今回私が心を砕いたのは音楽のための器(musical shell)を作ることで、そのことによって、親近感を生み出したり、
実際のメトの舞台サイズよりも、ずっと小さなオペラハウスであるかのような印象を与えられるよう工夫したつもりです。

支配人:それでは皆さんのこれからの予定、将来のプランなどをお聞かせ願えますか?ロッシーニの他の役柄に挑戦する予定などはありますか?

ディドナート:私は2010年に『湖上の美人』のエレナ役のロール・デビューがありました。この役はこれからも歌っていけたら、と思っています。
(ロッシーニの)『オテロ』(のデズデモーナ役)はまだ歌ったことがなくて、ぜひチャレンジしてみたいもののひとつです。
それから『セミラーミデ』(のアルサーチェ役)。
(おお!という声がオーディエンスからあがる。)
これはいつか実現できるかな、、、どうでしょうね。

ダムラウ:私はロッシーニについては、『セヴィリヤの理髪師』に続いて、やっと『オリー伯爵』でニ作品目にたどりついたところです。
私もいつか、『セミラーミデ』を歌えたら、という気持ちはあります。
ソプラノなので、ジョイスとは逆側(=セミラーミデ役)からの挑戦になりますが(笑)。

フローレス:『シャブランのマティルデ』はもっともっと注目されていい作品で、これからも歌って行きたいですね。
『マティルデ』には六重唱をはじめ、あらゆるtets(注:四重唱~六重唱の重唱は順にquartet, quintet, sextetと、全てtetが語尾に付くので、
それらの重唱を指している。)が含まれていて、素晴らしい作品です。

支配人:ジョイスは来シーズンの『魅惑の島』に出演されますね。

ディドナート:はい。私がきちんと歌唱で成果を出せたなら、とても楽しい作品になるはずです。
パスティーシュ・オペラ(別の作曲家による作品の部分部分を集めたコンピレーション・オペラのようなジャンルのこと。)
というのは今でこそ珍しいものになってしまいましたが、昔にはごく普通に行われていた演奏形態です。
ただ、、、私が演じるシコラクスは母親世代の役柄で、自分の子供世代が(キャリバンを歌う)ルカ・ピサロニとか
(ミランダを歌う)リゼット・オロペーザというのはショックです(笑)
リゼットが自分の娘世代、、、こればかりは立ち直れそうにもありません(笑)
ストーリーは『テンペスト』と『真夏の夜の夢』を組み合わせたもので、
どの登場人物にも素晴らしいアリアが準備されていて、すごくワイルドな公演になるはずです。

支配人:『オリー伯爵』ではコーラスも大事な位置を占めていますよね。

シャー:メトのコーラスの表現能力というのは素晴らしいものがあって、
意味もなく走り回っているようにしか見えなくなってしまう恐れがある場面でも、
一人一人の演技能力がとても高いので、そうならないんですよね。

支配人:さて、ロッシーニの作品の魅力はどこにあるでしょう?

ディドナート:ロッシーニの作品に取り組んでいると、時々、”さあ、この音楽にリブレッティストがどんな言葉をつけるか見てやろうじゃないか。”という
彼のいたずらっぽい表情が浮かんで来るような気がすることがあります。
彼は自分の音楽が持っている力というのを本当に良く理解していたし、自分の作品に強い信念を持っていた人だと思います。

シャー:そして、彼の作品のすごいところは、そこに必ずエレガンスが感じられる点ですね。
それから、単純にあの量!あれだけの量の音楽をさらさらと書いてしまう、それだけでもすごい。

フローレス:彼がイージー・ハンドな作曲家(多筆で、苦労せずにすらすら音楽が出てくる、
もしくはそう見えるタイプの作曲家)だったことは間違いないですね。
僕が彼をすごいと思うのは、すごくドラマティックな、もしくは美しい音楽を書いた後で、
それをすとーんと落とすような、そういうユーモアも持ち合わせている点です。

ダムラウ:そうですね、彼の音楽にはどんな喜劇でも、微塵も安っぽいところがなく、
バートが言ったようにエレガンスに溢れていて、、、
彼の音楽には、何もかもが備わっている、そういう風に思います。


MetTalks Le Comte Ory Panel Discussion

Juan Diego Florez
Diana Damrau
Joyce DiDonato
Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Le Comte Ory オリー伯爵 ***

THE SINGERS’STUDIO: SONDRA RADVANOVSKY

2011-01-19 | メト レクチャー・シリーズ
今日のソンドラ・ラドヴァノフスキーを招いてのSingers' Studioは、もう少しで行くのを見合わせるところでした。
今にも雪が降りそうで極寒だし、第一、あの『トスカ』を聴いた後で、彼女がどんな思いでトスカ役を演じているかという話を聞いても、
”でも、それが歌に反映されてなかったらなあ、、。”と思ってしまいそうでしたし。しかし、足を運んで本当に良かった!
今回も非常に興味深い話が聞けましたし、それからソンドラ姉さん、気さくで正直で本当に温かい人柄なのです。
先にこのレクチャーがあったら、『トスカ』での歌唱についてあれほど厳しく本音が書けなかったかも、、と思います。
今日のインタビュアーは再びウサマ・ザール氏。彼をOZ、ソンドラ姉さんをSRと表記し、いつも通り、記憶とメモに基づいて、
大意を再構築したものをここにご紹介します。

OZ:現在メトで出演されている『トスカ』の表題役は昨シーズン、デンバーのコロラド・オペラでロール・デビューされました。
SR: ええ。デンバーでのリハーサル中に”叫ばないで、冷静さを保って!”とアドバイスされたんですが、その瞬間が、
私にとっては一つの”そうか!”という気づきの瞬間になったの。
この役では、つい、ぎゃあぎゃあ叫ぶように歌いたくなってしまうけれど、良く考えれば、そんな風に歌う必要は全然ないのよね。
ヴェルディの作品では、オーケストレーションが厚く、歌手側もそれに対応してそれなりに大きなサウンドを出していかなければならないのに対し、
プッチーニのオーケストレーション・音楽は、よりリリカルに書かれているし、、。
ヴェルディのオペラでは無理だけど、『トスカ』なら今は全幕歌い終わった後にも、もう1回歌える位よ(笑)
特に、”歌に生き、恋に生き Vissi d'arte, vissi d'amore”は私にとって歌うのが易しいアリアの一つ。
というのも、私はこのアリアが大好きで、歌われる内容にもその場面にも自然に入っていけるから、、。
でも、一つ、言っておかなければならないのは、”歌に生き、~”を単体で歌うことと、『トスカ』を全幕で歌うことの間には大きな違いがあると言う点ね。
ペースの配分には気をつけなければいけない。特に今回のメトのようなフィジカル(よく動く)なスカルピア役を相手にする場合は!
そうそう、デンバーの時は、高度が高いせいで、ぜーぜーしながら歌わなければならなかったので、さらに別の大変さがあったわね(笑)。
OZ:メトのボンディ氏の演出による『トスカ』はプレミア以来、批判も多く、議論の多い演出ですね?
SR: 今回の公演のリハーサルにもボンディ氏は参加して下さったんですよ。
オリジナル・キャストの公演(2009-10年シーズンのマッティラ、アルヴァレス、ガグニーゼによる公演)は私も鑑賞しましたけれど、
どう考えても全く理解できない箇所がいくつかありました。
そして、演じている私が理解できないまま歌い演じていたら、観客の皆さんに理解できるはずがない、と、そういった箇所については妥協するつもりはありませんでした。
例えば”歌に生き、~”の途中で歌いながらナイフを手に取るといった演技はとにかく不自然で、私なら絶対に考え付かないことです。
また、一幕の照明も、オリジナルではまるで墓場かどこかみたいに陰鬱で薄暗いですけれど、ちゃんと教会らしさが出るように手が加えられました。
(注:他にも、今年の公演では細かい演出の変更があり、例えば、三幕冒頭のオケの演奏の部分、銃殺隊が射撃の練習をする前で、
カヴァラドッシがぼろにくるまって寝ている、という間抜けなオリジナルの演出が、見張りの看守とチェスをしているシーンに変わったりしています。)
でも、今回、彼の演出意図を聞いてああ、そういうことなのか、、と思う部分もたくさんありましたし、
また、私がここはこういう風に変えて演じたい、と提案した意見も、彼は快く受け入れてくださっって、とっても感じのよい方です。
OZ:今回スカルピア役を演じるのはシュトルックマンで、テノールは、、
SR:もう三人のカヴァラドッシと歌ったのよ。
リハーサルのリッキー(リチャード)・リーチ、それから初日はマルセロ(・アルヴァレス)が降板した代わりに舞台に立ったロベルト・アラーニャ、
そして、その次にやっとマルセロ!
初日、マルセロがキャンセルしてロベルトが歌うことが決定したのは、当日の午後4時位で、
彼はそれからステージの上の基本的な動きをざっと私とさらっただけで、舞台に立ったのよ。
彼には、”もし僕が間違った立ち位置に行ってしまったら、容赦なく押してくれて構わないから!”と言われたわ(笑)。
私たちはとにかく良いケミストリーがあって、それはそれで素晴らしい体験だったけれど、
でも、マルセロとはちゃんとリハーサルを積んで、彼がどういう動きや感情を込めてくるかというのがわかっているから、
マルセロが初日にキャンセルするとわかった時は、”オッケー、これでリハでやったことは今日の初日のパフォーマンスに関してはパーなのね、、。”とがっくり来たわ(笑)
原作の(サルドゥーによる)『ラ・トスカ』を読むと、オペラでの通常のイメージのトスカとは違い、
彼女は随分若い、女の子といった方が良いような雰囲気ね。たまたま才能に恵まれた田舎の女の子といった感じの女性で、とても信心深い、、。
とにかく、この若々しいというのがポイントで、、、だから一幕でカヴァラドッシに対してみせる嫉妬にも、なるほどな、と思うの。
ファルク(・シュトルックマン)とは、共演するのも初めてなら、会ったのも初めてなのよ。
”ハロー。””初めまして。”と握手を交わした3分ほど後には彼にレイプされそうになってたのよ。ニ幕からリハーサルを始めたから(笑)
OZ:『トスカ』の後には『イル・トロヴァトーレ』への出演も予定されていて、こちらはHD(ライブ・ビューイング)の演目ですね。
SR:HDは、、怖いわ。ついこの間のHD(『西部の娘』)で、ホストを初めて経験したのですが、その時にHDの時の舞台裏はこんなことになっているのかと、、。
たくさんのスタッフ、カメラマンがうろうろしていて、舞台から降りて来た途端にインタビュー。
デビー(・ヴォイト)には、”ハーイ!”なんて言ってインタビューしていたけれど、心の中では”本当にごめんなさいね。”という気持ちで一杯だったわ。
OZ:あなたはこれまで、レパートリーの選択に関して言うとそんなに枠を広げずに、じっくり取り組みながら評価を高めて行くという、
どちらかというとコンサバティブなアプローチをする歌手という印象でしたが、
この一年は、トスカ、アイーダ、アメーリア(『仮面舞踏会』)と一気に三つもの役でロール・デビューを果たされましたね。これはなぜですか?
SR:そうですね、、、、私は今41歳で、声も変わって来ているわ。時期的に丁度良いと判断したのもあるし、
また、周りに丁度、それを実現させる良いサポートシステム~コーチ、私のマネジメントのスタッフ、そして夫~が揃っていたというのもあります。
ただ、一つ言えるのは、三つはやっぱり大変だった!週の間の公演、レッスン、リハーサルを縫って新しい役を勉強して、
それでも足りなくて日曜まで役を覚えるのにきりきり舞い、、というのは、二度とやりたくないわ。
OZ:2009年2月号のオペラ・ニュースに掲載されたインタビュー記事(Chanson Triste 悲しい歌)の中で、
その時点で予定されていた2009-10年シーズンの『イル・トロヴァトーレ』を最後に、メトとの契約がない、と語っていらっしゃいました。
(この思い切った質問にオーディエンス一同驚く。というのも、ヘッズの間では彼女がゲルブ支配人の寵愛がめでたくなく、
メトでの活躍の場をなくしかけた、もしくは、実際に今も失くしている歌手の一人と公然と囁かれていたので。)
SR:私があの時語った言葉は本当で、あの時点では、昨シーズンの『トロヴァトーレ』の後、メトとの契約は一本もありませんでした。
だから嘘を言ったわけではありません。
(少しためらった後)支配人にかろうじてオファーされたのは『こうもり』といった演目で、あの頃、ゲルブ支配人は、私には全く合わない役の中に私の将来を見ているようでした。
そして、昨シーズンの『トロヴァトーレ』、あれが全てを変えることになったのです。
あの公演の後、ゲルブ支配人が私のところに現れて、”自分の考えが間違っていた。申し訳なかった。”と言ったのです。
これはなかなか出来ることではないと思うわ。
メトで歌えるというのは本当に幸せです。なぜなら、ここは私のホーム・グラウンドだから、、。
私はナショナル・カウンシル、そしてリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラム(メトの若手育成プログラム)の出身ですから、
NY、メトこそが、私の歌手としての故郷なんですもの。
ゲルブ支配人には感謝していますし、彼がこの先に与えてくれるどんな機会にも私の出来る限りの力を尽くすつもりです。
OZ: トロントの『アイーダ』の話をうかがえますか?
SR: (メトの演出のような)動物が出てくるスペクタル演出ではなく、まるでストレート・プレイのようなアプローチの演出だったわ。
舞台が水平に幾つかの層に分かれていて、物語が進むにつれて、私たちはどんどん下の階に進んで行くの。
まるで洗濯女のようなコスチュームで、黒人に見せるための顔を黒く塗ったりするようなこともなければ、ピラミッドもなくて、
まるで『マッド・メン』(アメリカで放送中の人気テレビドラマで、
舞台になっている1960年代の服装や家具が今の若者にはお洒落に見えるのも人気の理由の一つになっている。)みたいでもあり、
しまいにはアムネリスが裸に近い状態になっていたりするの。
変わった演出のおかげで、それぞれの相手とどういう風にインタラクトするべきか、ということを改めて考えさせられて、勉強になったわ。
三幕のアモナズロとの二重唱の場面ではバックに椰子の木があったわね。
鑑賞した人全員が演出を好んだわけではないみたいだけれど、私は気に入ったわ。
OZ:あなたは1995年のナショナル・カウンシルで(『アイーダ』の)”勝ちて帰れ Ritorna vincitor"を歌いグランド・ファイナリストになられました。
その時、25歳。それから15年が経ったことになりますね。
SR:ええ、当初はワーグナー作品の作品、それから『サロメ』や『トゥーランドット』を練習していたり、
かと思うと、『ルチア』にトライしてみなさい、と言われたり、なかなか自分のレパートリーを定めることが出来ませんでした。
これはドローラ・ザジックも言っていましたが、大きな声というのは成熟するのにより時間がかかるんです。
多くの歌手が、モーツァルトの作品を喉の薬として挙げられますが、私にとっては、『トロヴァトーレ』がそう。
逆にモーツァルトの作品は私の声にはとても辛くて歌えないの、、。
初役に挑戦する時は、とにかく幕を通してペースを確立することが大事で、さっきも言ったように、それが『トスカ』を全幕で歌うことと、
アリア一本を歌う違いですね。
私は大学では演劇が専攻だったので、演技に関してはそこで培ったことが自然に出ているんじゃないかな、また、出ていればいいな、と思うわ。
今、私をものすごく不安にさせることは、きちんと作品を歌える歌手が少なくなってきているという事実です。
これには色んな理由があるでしょう。若手を育成するプログラムは真っ先に助成金カットの対象になりますから、そういうことも関係していると思うし、
また、優れた声楽の教師がだんだんと亡くなられてしまったこともあり、存命している良い先生がとても少ない。
私は、ダイアナ・ソヴィエロ、そしてマルティアル・サンゲール Martial Singher(メトでも歌ったフランス人バリトン)といった優れたコーチに恵まれて本当に幸せでした。
カリフォルニアに住んでいた頃、3時間車を運転してマルティアルのレッスンに通っていたんですが、
一度、練習をする時間がほとんどないまま、レッスンに向かい、自分ではなんとかつぎはぎして取り繕っているつもりでした。
ところが、彼はぱたんとピアノの蓋を閉めたかと思うと、”ソンドラ、お互いの時間を無駄にするのはやめよう。”と言うの。
私が”でも、三時間も運転して来たんですよ。”と涙ながらに訴えても、”それならちゃんと準備をして来なくちゃ。”
あれ以来、きちんと準備をしないでレッスンに向かったことは一度もないし、いつも過剰と言ってもいいくらい練習する癖がついたわ。
OZ:あなた自身、若い歌手達にレッスンをされていますか?
SR:したことはあるのですが、私は教える側は、コンシスタンシー(一貫性)が求められると思うんです。
今のあちこちのオペラハウスに旅行しながらのスケジュールだと、生徒側がアドバイスを必要としている時に側に居ることが出来ない、ということも起こりえますし、
それは生徒にフェアじゃないと思います。なので今はマスタークラスなどで教えるにとどめています。
今の若い歌手たちは本当に情報とかアドバイスに飢えていますね。これは何でしょう?彼らの先生は何も教えていないのか、、私にはよくわかりません。
例えばNYで若手の歌を聞いたり助言を与えたたこともありますが、20歳代後半から30歳代といった、決してものすごく若いとは言えない歌手の、
本格的なキャリアに向かっての準備の出来てなさ加減は、本当に憂慮すべきものがあります。
OZ:あなたは2003年頃に声帯の手術を受けられたと聞きました。
SR:はい、子供の頃に肺炎にかかり、その対処として小さなチューブが喉に埋め込まれて、そのままずっと歌って来たのですが、
それが歌に与えている影響は明らかでした。
大きな役を連日で歌うことは出来なかったし、公演と公演の間も、友人と会食などをしておしゃべりをすると喉が疲れやすく、
そういった親しい人との大切な時間をカットしなければならない有様でした。
ついに、こんな風に私の人生を支配されるのは嫌だ!と思うようになり、ある非常に有能なお医者さまに相談をしたら、
”チューブを除去する手術は99.99%成功するから!”と言われ、それで決心が付きました。
でも、その残りの0.01%って何、、?と思わないでもありませんでしたが(笑)
手術の3ヶ月後のパリの『シチリアの晩鐘』が復帰第一作でしたが、完全に手術の影響を感じなくなるのにはまる一年くらいかかりましたね。
以前と同じ歌い方では駄目で、もう一度最初から発声の仕方を組み立てる必要がありましたし、
チューブ付きで歌っていた頃を三輪車にたとえると、いよいよ一人で自転車に乗ることを学ぶようなプロセスでしたから。
でも、以前は中古車を運転していたのが、今はロールスロイス、いえ、マセラッティを運転しているような気分です(笑)
OZ:でもその手術のことを話すのは長い間タブーに感じられた?
SR:ええ、とても。手術、というと、多くのファンや同僚が、発声のテクニックの問題を疑うので、手術の話をするのはとても怖かった。
スポーツの選手なら、怪我や手術の話を大っぴらにしても何の問題もならないのに、歌手がそれを出来ないというのは、変えていかなければいけないと思いますね。
歌手の使う喉の筋肉は非常に繊細である点が、その風潮に輪をかけているのかもしれません。
OZ:演出家はどれ位あなたの歌唱内容、パフォーマンスに影響を与えていますか?
SR:私がこれまでで満足しているパフォーマンスには、いつも優れた演出家の力があったように思います。
(2008-9年シーズンの)ロサンゼルス・オペラの(プッチーニの『三部作』からの)『修道女アンジェリカ』は、
ウィリアム・フリードキンの演出で、彼は映画『エクソシスト』、『フレンチ・コネクション』の監督として良く知られていますが、
彼は父の死がもたらした私の中のダーク・サイド、暗い部分を敏感に感じ取って、それを素晴らしい形で舞台にのせてくれました。
また(メトなどで『トロヴァトーレ』の演出を担当した)デイヴィッド・マクヴィカーも素晴らしい演出家です。
彼なんかはおおっぴらにオペラの演出はあまり好きでないと公言したりしているんですが、それでも出来上がった演出を見ると、
まぎれもなく、彼らしさがきちんとある、、。
そういうところが、優れた演出家を他の演出家と差異化する部分だと思いますね。
彼が私に『トロヴァトーレ』のレオノーラを若々しく演じさせたことで、観客の方にはより親近感を持って頂けたのではないかと思います。
そうでなければ、音楽の面以外では、退屈な存在になりかねない役ですが。
OZ:それでは指揮者についてもお話いただけますか?良い指揮者にはどういう要素が不可欠でしょう?
SR:私が『ルイザ・ミラー』に出演した際のマエストロ・レヴァインの指揮は素晴らしかったですね。
良い指揮者というのは、歌手と一緒に息をすることが出来て、こうそれぞれで沸き立っている要素を
(といくつかエネルギーの波が絡まったようなものを手で描きながら)いつの間にか一つに束ねてしまうような、そういう力があります。
他にはファビオ・ルイージもそれが出来る優れた指揮者だと思います。
時に指揮者が理解していないのは、歌手は木管楽器のようなもので、音を作るのに時間がかかるという点です。
たくさんの時間ではなくて、ほんのちょっとの時間で良いのですが、それもなく、息をする時間さえ与えてくれない指揮者には、
”ちょっと待って!”と歌唱の仕組みを説明しなければいけません。
OZ:あなたはプラシド・ドミンゴの指揮でも歌ったことがありますよね。彼の指揮はいかがですか?
SR:(またまたすごい質問をするなと驚き、つい笑いを抑えられないオーディエンスを見て)それはとっても面白い質問ですね(笑)
うーん、プラシドの指揮の一番大きな問題は、歌手に気が利きすぎ、気を遣い過ぎな点でしょうか?
私は彼の指揮を見て、合わせて歌わなきゃ、と思うでしょ?そして、彼は彼で私を見て、私に合わせて指揮をするんですよ。
なので、音楽をリードする人が不在になってしまう。だから思うの。”プラシド、指揮をしている間はそんなに親切でなくていいから!”って。(笑)
OZ:(笑)そして彼とは(メトの2005-6年シーズンの)『シラノ・ド・ベルジュラック』で歌手同士として共演されていますよね。
SR:ええ。私がそもそもオペラ歌手になりたい!と思ったのは11歳の時に見た、彼が出演している『トスカ』の映像がきっかけだったの。
それがその『シラノ』で共演した時、ちょうど私の35歳の誕生日で、彼が私のためにハッピー・バースデーを歌ってくれたの。
もう感激で胸が一杯、”プラシド、これで子供の頃の夢が全部かなっちゃったじゃないの。これから私、どうすればいいの。”と言うと、
あっさりと、”じゃ、別の夢を見つければいいじゃないか。”ですって(笑)
彼は本当に最高の同僚。(ドミンゴが扮するシラノ役の鼻の長さのせいで)キスをするのが大変だった以外は何もかもが信じられないくらい簡単だったわ。
OZ:これから挑戦する役についてお話願えますか?
SR:『ルクレツィア・ボルジア』、それからドニゼッティの女王三作(『マリア・ストゥアルダ』、『ロベルト・デヴリュー』、『アンナ・ボレーナ』)ですね。
女王三作の方でユニークなのは、個別の公演として演じるのですはなく、三つともすべて、同じ一つのオペラハウスで、
数週間の間にまとめて上演が行われる点です。
OZ:へえ、それは面白い企画ですね。どこのオペラハウスかはまだお話出来ないですか?
SR:ええ、残念ながら、今は、、。後、スペインでドローラ・ザジックのアダルジーザに対してノルマを歌います。
『トスカ』を頻繁に歌い続けることは避けるつもりで、いわゆるドラマティックなベル・カント・ロールを中心にスケジュールを組んで行こうと思っています。
『トゥーランドット』はたくさんオファーを頂くのですが、声を軽く保ちたいのでしばらくは歌うつもりはありません。
もちろん、ヴェルディ・ヒロインたちは歌って行きたいです。『ルイザ・ミラー』は非常に過小評価されている作品だと思いますし、
ヴィオレッタもとても歌いたい役の一つです。
『サロメ』は、私はドイツ語をきちんと話せないし、とても会話的な歌唱が求められる役だと思うので、今は歌う気はありません。
プッチーニもとても会話的な作品を書く作曲家ですが、私はイタリア語は大丈夫なので、、。
マクベス夫人、オダベッラ(『アッティラ』)、アビガイッレ(『ナブッコ』)などの、”怒った女性達”もまだ歌うつもりがありません。
私自身は本来はこれらの役はベル・カントの技術を元にして歌う役柄で、必ずしもヘビーな歌い方でなくて良いと思うのですが、
慣例的にオーディエンスや劇場はドラマティックな歌を期待しますし、つい私も役に入りすぎて喉を酷使する可能性がありますから、
それは避けたいんです。
ただ、キャリアが終わる前に、ヴェルディのヒロインを全部歌いたい、という夢はあります。

そして、いつものオーディエンスからの質問タイム。
Q:歌に入られたきっかけをもう少し詳しく話してください。
SR:子供の頃歌っていた教会で、合唱の指導者が私の才能に気づいてくださったのがきっかけです。最初はカレン・カーペンターみたいな歌手になりたい、と思っていました。
最初に声楽のレッスンを受けたのは11歳の時なんですが、こんなに早くレッスンを受け始めるのは必ずしも良いことではないかもしれません。
もともとはメゾと判断されましたが、私のように重たい声は、まず低音域が発達し、それから高音域が出来上がって、中音域が出来るのは一番最後で、
声が成熟するまでに時間がかかります。
13歳の時に初めて『カルメン』を歌って、それ以来、オペラ・オンリーです。
Q:フランスものをレパートリーに入れる予定は?
SR:あ、リストに入れておきましょう(笑)。『タイース』、『ファウスト』なんか歌ってみたいですね。
ただ劇場の方がタイプ・キャストしがちというか、タイースやマルグリートはもっとリリカルな歌手が歌うものという思い込みがあるみたいです。
新役は学ぶのに4~6ヶ月かかるプロセスですので、慎重に選んで行きたいと思っています。


The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Sondra Radvanovsky with Oussama Zahr

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Sondra Radvanovsky シンガーズ・スタジオ ソンドラ・ラドヴァノフスキー  ***

MetTalks: LA TRAVIATA

2010-12-13 | メト レクチャー・シリーズ
ヴィラゾンとネトレプコの共演で大評判を呼んだ2005年のザルツブルクの”赤いハイヒールのラ・トラヴィアータ(椿姫)”。
これをそっくりそのまま2010年の大晦日にメトに!と目論んだゲルブ氏の企みはすっかりあてがはずれて、
2010-11年シーズンの発表前にすでに、もはやヴィラゾンを全幕の公演にキャスティングすることは、
石油がこぼれた絨毯にマッチを近づけるよりも危険な行為になってしまっているわ、
ネトレプコは”あのザルツブルク以上のことを成し遂げられるとは思えないから”という理由で辞退するわ、で、
結局、デッカーの演出という箱だけが当初の予定通りで、『ドン・カルロ』のエリザベッタ役をつとめた
マリーナ・ポプラフスカヤがそのままNY滞在を延長してヴィオレッタ役を、
そして、先月の『ドン・パスクワーレ』のエルネスト役で大活躍だったマシュー・ポレンザーニがアルフレード役を歌うことになりました。
(ちなみに、シーズン発表当時、一部の公演でポレンザーニとのダブル・キャストでアルフレード役を歌う予定だったフランチェスコ・メーリは、
つい先日、『椿姫』から全降板することを発表し、ポレンザーニが全ての日程のアルフレードを歌います。)

デッカーの演出はザルツブルクの後、ネーデルラント・オペラでも上演され、メトは三つ目のロケーションとなります。
ポプラフスカヤはネーデルラント・オペラでの上演時にもヴィオレッタを歌っていますので、この演出に多少慣れているとは思いますが、
ポプラフスカやとポレンザーニには、ネトレプコとヴィラゾンのスター・パワーやパッショネートさがないのも事実で、
大晦日の初日が、どのような結果になるのか、NYのヘッズは固唾を呑んで見守っているところです。

今日はその『ラ・トラヴィアータ』についてのMetTalksで、ポプラフスカヤ(以下、MarP)とポレンザーニ(MatP)のキャスト組、
そして、指揮のジャナンドレア・ノセダ(GN)、演出のウィリー・デッカー(WD)という充実した顔ぶれ。司会はゲルブ支配人(PG)です。
訳はいつも通り、意訳を字数に収まるように再構築したもの。一語一句の対訳ではありませんが、出来る限り、
語られたニュアンスや意味合いを損なわないように訳したつもりですので、ご了承ください。

PG: トラディショナルな演出に拘り、レジー恐怖症気味な従来からのオペラ・ファンの方でも、
ゼッフィレッリによる旧演出の『椿姫』(前回の2006年の日本公演でメトが持っていった演出です。)が
必ずしも彼の最も優れた演出ではないことには同意頂けるかと思います。
心配されている方々のために申し上げますと、『ラ・ボエーム』と『トゥーランドット』に関しましては、
ゼッフィレッリのプロダクションに変えて新演出を導入する予定はありません。
『ラ・ボエーム』は6月の日本公演のために日本に持って行きますが、ちゃんと持って帰って来ますので、ご安心を(笑)。
私は2005年のザルツブルクの公演を、実際に劇場で鑑賞し、これはもう絶対にメトに持ってこなければ!と、
デッカー氏に交渉を持ちかけました。はじめはあまり乗り気でなかったデッカー氏も私のしつこさに折れ、メトでの上演を了承して下さいました。
デッカー氏はドイツ出身、『エレクトラ』、『モーゼとアロン』、『ルル』など、数え切れないほどのオペラの優れた演出により、
ヨーロッパのみならず、アメリカでも活躍されている演出家です。
マリーナ・ポプラフスカヤはメトには2007-8年シーズンの『戦争と平和』でデビューを果たし、先日の『ドン・カルロ』のHDでも素晴らしいパフォーマンスを聴かせてくれました。
マシュー・ポレンザーニは1997-8年シーズンの『ボリス・ゴドゥノフ』のフルシチョフ役でメト・デビューして以来、非常にバラエティに富んだレパートリーで活躍、
2007-8年シーズンにはビヴァリー・シルズ賞の受賞者にもなっています。
ノセダ氏は2001-2年シーズンの『戦争と平和』でメト・デビュー。以降はヴェルディ作品を中心に活躍され、
最近では『イル・トロヴァトーレ』での優れた指揮が記憶に新しい。BBCフィルの首席指揮者でもいらっしゃいます。

WD: メトの観客の”ユーロトラッシュ”への恐怖は良くわかります。私のことを、これまでの自分が好きなオペラの像を
ひっくり返すために送り込まれた刺客ではないか、、?と思われている方もいるかもしれませんが、それが私の意図でないことはぜひ理解頂きたいと思います。
(スライドにザルツブルクからのオリジナルのセットのデザイン画が写される。ヴィオレッタの小さな像の足が弓形に、しかも、普通とは逆の方向に曲がっているのを見て)
MarP:あれは私じゃないわよ。私の足はまっすぐだから(笑)
WD: この演出をメトに持って来るにあたって最も苦労したのは、ザルツブルクの劇場との空間の違いでした。
ザルツブルクで上演した際に使用されたホールは、ヨーロッパでも最も横に長いホールとされていて、
これを、横よりも縦と奥に大きいメトの舞台にフィットさせるのが難しかった。
デザイン画からは少しわかりにくいかもしれませんが、後ろの壁はもっと円を描くようになっていて、
キャストにフィジカリティに富んだ演技を求めるのもこの演出の特徴かと思います。

(注:デッカーの語っている舞台セットなんですが、百聞は一見にしかず!ということで、2005年のザルツブルクの公演の映像を紹介しておきます。
5年前のネトレプコのなんと細いことよ、、、。)




私が最もこの演出で大事にしている側面は、男性と女性の間の葛藤とでもいいますか、
男性によって支配される世界でヴィオレッタという女性が非力になって行く姿を描きたかった。
また、大きな時計がずっと舞台上に存在しているのですが、これはヴィオレッタの”時間のなさ”、
彼女の人生が時間切れになって行く様子を描くためのものです。
ヴェルディの音楽の中に、私は、チクタクという、時計の針の音を感じます。
ヴェルディがヴィオレッタに対して持っている共感、ほとんど脅迫的観念のレベルに達しているような、
細かいレベルに達するヴィオレッタの感情の観察とその表現が、この作品の大きな特徴のひとつだと思います。
ヴェルディはこの作品を書く前に、妻と子を両方失うという悲しい体験をしており、その死という現象へのオブセッションが
この作品のテーマになっているのではないかと思うのです。音楽は最初から既に死の予感に溢れています。
時間の話に戻ると、時計は、1時間経つとまたもとの位置に針が戻って、新しい1時間が始まりますね。
その一連のプロセスは死と同じで、セットにある時計はそれを表現する役割を持っているのです。
『椿姫』のような傑作を演出することの難しさは、あまりに完璧過ぎて、あえてさわってそれを変えることが出来ない、
もしくはしたくない点にあります。
私は、時代を超えて、この物語の中心にあることに近づきたい、精神的な、内なる感覚というか、
ほとんどスピリチャルと言ってもよいでしょうか、、、?そういうことを大事にして演出をしたいと思っています。
また、演出の中に現れるワルツのダンス・シーン、そこで登場人物たちがくるくると回る様子は、
”人生というダンス”を表現していて、ヴィオレッタが最初から死ぬことを知っている、そのことを予感させるものです。
もっと早く踊ったら、少しは長く生きられるかしら?という、彼女の問いですね。
この死の必然性ゆえに、この舞台ではがらがらの空間にたった一つしか出口がなく、
つまり入って来た場所以外、出口がない行き止まりということを表現しているのです。

PG: マシュー、あなたの意見は?
(不意をつかれてすぐに返事ができないポレンザーニに)
MarP: 起きなさい!(笑)
PG: じゃ、マリーナから先に行きましょうか?
MarP: この役を歌ったのは2009年が初めてで、とにかくこの演出はフィジカルな動きが多いので、きちんと体を絞って、
心をクリアにして、ウィリーからの要求にこたえられるよう、どんな表現も恐れない、ということを心がけています。
PG: あなた達、共演をするのは初めてですよね?
MatP: はい、一度ゴルフを一緒にしたことはありますが、、。
ゼッフィレッリのプロダクションとは、まず、ビジュアル的にも全然違うんですが、
(注:ポレンザーニはゼッフィレッリの旧プロダクションでも歌ったことがある。)
僕がびっくりしたのは、ドゥミ・モンドの人々によるアルフレードの扱い方で、とにかく、
合唱のメンバーを中心にして演じられる彼らに、アルフレードがことごとく冷たくあしらわれ、さげすまれるのにショックを受けました。
リハーサルから家に帰ってもぐったりという感じで、慣れるのに6-7日かかりましたね。
また、ゼッフィレッリの演出の時には考えられないような、思わぬ時に、舞台上の思わぬ場所にアルフレードがいたりして、
全然トラディショナルではないのですが、もちろん、それが間違っている、というのではありません。
そこには写実的なセットやビジュアルに頼るだけでなく、演技や歌唱で内容を伝えなければならないという難しさがありますが、
今、こうして、ウィリーから彼がこの演出を作った時の一番最初の原点となっている意図を聞くことが出来て、とても興味深かったです。
GN: ヴェルディはこの作品で、意味のある音しか書いていません。初演されたヴェニスでは大コケして、その原因はいろいろ言われていますが、
私自身は、彼が決して美しくはないものを物語と舞台にのせた、このことが最大の原因ではなかったか、と思っています。
初演の1852年当時は、この作品で描かれているような女性の扱い方が、世の中では普通だった。
それが、オペラの舞台にのる。それは観客にとって、全然ロマンチックなことではないわけですよ。
この作品では、アレグロ・ブリランテ、モルト・ヴィヴァーチェといった指示が多く見られることは忘れてならない点です。
前奏曲はスコアで、アダージョと指示されていますが、同時に、四分音符=66という指示もあり、
これはむしろ、感覚的にはアンダンティーノに近いもので、決して遅すぎてはいけない。(といいながら、前奏曲を鼻歌で歌い始める)
『ラ・トラヴィアータ』はurgency(切迫)の物語です。急いでいるのではなく、切迫している、この感覚が大事なのです。
PG:歌が上手くていらっしゃいますが、いつも歌っていらっしゃるのですか?(注:支配人のおべっかではなく、私も本当に上手い!と思いました。)
GN: ええ、髭を剃るときにはいつも(笑)。上手いですか?髭が生え始めた頃から歌のキャリアがありますんでね(笑)
また、この作品では3/4拍子が多用されていますが、ヴェルディという作曲家はこの拍子をサーキュラリティ(円形、循環性)を
表現するために用いることが多い。
Parigi, o cara(パリを離れて)ではそれをゆっくりと演奏し、ヴィオレッタに命が戻って来たかと思うと、
Prendi, quest'è l'immagine de' miei passati giorni(お取りになって、過ぎた日の私の肖像を)と歌う直前に入る音楽は
彼女の死が近くなった心臓の鼓動を表現するといった具合に、すべての音が、彼女のいる状態を表現しつくしているのです。
それから、前奏曲のすぐ直後の音楽。あれは躁、当時の社会における偽善というものが表現されていると同時に、
”あと、どれ位の時間があるの?”という問いが投げかけられているのです。
(と、下手な歌手よりよっぽど音程・リズムの正確な、見事な鼻歌を取り混ぜながら曲の解説を行うノセダにオーディエンスから拍手。
この調子で、全編解説して欲しいな、、と私なんか思ってしまいました。)

PG: 今回、ヨーロッパにいるあなたと密に連絡を取りながら、実際の準備に関してはアシスタントの方が行って下さって、
あなたがNY入りしたのはついこの週末だったんですよね。
WD: はい、そうです。準備段階で最も時間を取られたのは、先ほども申しました、横長のデザインを縦長の舞台にフィットさせるステップでしたね。
PG: メトの音響についてはいかがでしょう?
WD: 特に不満はありません。良い方なんじゃないでしょうか?ただ、劇場自体が持っている音響の特色そのものだけではなく、
セットに用いられる素材によっても左右されますね。木材なんかが使われている場合は、アコースティックも良くなります。
私は別に舞台の正面に立って歌っているだけがパワフルだとは思いません。シアトリカルな力というのは、音楽と手を取り合って生まれるものですから、、。
なので、私の演出では、舞台のあらゆる場所で歌手に歌ってもらうことになりますので、一概に音響を語るのは難しいかもしれません。

PG: マエストロはオケとリハーサルをしながらどのようなことをお感じになったでしょう?
NG: 私はイタリア人ですが、あまりお世辞を言わない種類の人間です。
けれども、メト・オケは最高のオペラ・オーケストラであるだけでなく、
オペラ・オケやシンフォニー・オケといった枠を取り払っても、最高のオーケストラである、この一言です。
彼らは本当に歌手のサポートの仕方を良く心得ていて、どんな演目を演奏していても、それが底に流れています。
私が思うに、オペラで、歌手が歌を歌っている時に、その歌しか印象に残らないというのは素晴らしい。
それだけオケが自然な演奏をしているということだからです。
セット、演出、オケと、色々な要素が公演に貢献していますが、やはり、最後に残るのは、Viva Verdi!(ヴェルディ万歳)!
それだけ作品自体が素晴らしいということです。

PG: 演出の面での統率者である演出家と音楽面を率いる指揮者、この二者のどちらが本当のボス?という議論がよくあがりますが?
WD: 私は演出家の方が偉い!というつもりはまったくないですし、演出家と指揮者のどちらかが相手を威圧するのではなく、
共存するのは良いことだと思います。
私がひたすら願っているのは、キャストも観客も、オペラハウスに到着した時と比べて、ほんの少しでいいから、
何かが自分の中で変わったな、という気持ちを持って帰ってもらうことです。
また、今回のキャストですが、マシューとマリーナは、もちろんアンナ(・ネトレプコ)とローランド(・ヴィラゾン)の二人とは全然違います。
でも、そのちょっとしたキャストのパーソナリティ、ケミストリーの違いが、演出をより良くしていく事もあるんですよ。
あのザルツブルクの時は、もうこれ以上良いものは出来ないだろう、、と思っていたのに、
”今回(メト)の方がずっと良いじゃないか!”とリハーサルで思ったりする事も結構ありましてね、まあ、そういう楽しみがありますよ。
(この言葉に、ポプラフスカヤがポレンザーニにハイ・ファイブ!)

PG: マリーナ、あなたはつい最近メトで『ドン・カルロ』のエリザベッタを歌ったばかりですが、ヴィオレッタ役との共通点・相違点は何でしょう?
どちらかの方がより歌うのが大変、ということはありますか?
MarP: うーん、、、、ヴェルディの作品で一番歌うのが大変なのは『レクイエム』だと思います。
ヴィオレッタとエリザベッタ、この二人は全く違うタイプの女性で、共通項といえば、愛が彼らを突き動かす力になっているということ、
それ位でしょうか?
舞台というのは、共演者にも左右されますから、その時々で他のキャストと良いものを一緒に生み出せるよう、毎回少しずつ違ったやり方で役に取り組んでいます。
例えば、『椿姫』もアムステルダムの時のアルフレード(おそらくイズマエル・ホルディ Ismael Jordiのことと思われます。)は
子供っぽくてかわいらしいアルフレードでしたが、マシューはもっとエレガントなアルフレードです。
MarT: (観客に向かって冗談めかして)さっき20ドルをこっそり渡して置いたんだ。
MarP: (少しむっとしながら)20ドル程度でおべっかを言ったりする人間じゃないわよ、私。
MarT: ごめん、、50ドルだったね。
(これを聞き、笑いながらも、本当、なんて徹底してチープな男なの!という鋭い目をポレンザーニに向けるポプラフスカヤ。)
MarT: 僕ってほんとせこいよね、、ごめん。
今回のリハーサルでは、二週間かけてこの演出で求められるアルフレード像をつなぎ合わせ、一週間実際にセットの上で稽古、
そして、ウィリーがNYに着いてから、今日のリハーサルも含めて、やっともっと細かい部分を突き詰める作業に入れた。
この演出では、それぞれの登場人物が、それぞれ違った”真実”を見つける、その様子が描かれていると僕は思っています。
アルフレードは、いつまで経っても、決してドゥミ・モンドに受け入れられることはなく、どこまでも”彼らのうちの一人”になることは出来ない。
そして、最後に、ヴィオレッタはこの世から去る、そしてその事実に対して何も出来ない自分を知るのです。
WD: 私達がこの演出で描こうとしているのは、言葉で説明できなくても皆が感じることのできる、そんな真実です。
MarP: そう、自分の存在そのものをかけた真実というか、、
PG:(さらにポレンザーニが付け足そうとするのを遮って)
皆さん、真実探しに努力してくださっているようで何よりですが、ここらで時間になりましたので閉めたいと思います。ありがとうございました。
(口が開いたままぽかん、とするポレンザーニ。)

はあ??!!、、、、
ったく、忙しいメンバーを招いておいて、せっかく演出のコアの部分を一生懸命語ろうとしている彼らに、こんな失礼な閉め方は無かろう、と思います。
以前、『ラ・ボエーム』の記事で書いた、グッドモーニング・アメリカでのグリゴーロの歌唱尻切れカット事件を思い出し、
どうして、実際にクリエイティブな過程に関わらない人というのは、こうもこういう事に無神経なのか?と、本当に腹が立ちます。
しかも、”皆さん、真実探しに努力してくださっているようで何よりですが”って、こういう言葉が支配人の口から出るというのも、本当情けない。
自分が支配人を務めているオペラハウスでスタッフやキャストがこんなに熱心になってくれているのに、こんな人事のような言葉を吐けるというのがすごいな、と思います。
この日は夜にリハーサルが入っていて、時間通りに閉めなければいけなかったのも良くわかりますが、たった数分時間を延ばして何の害があるって言うんでしょう?

それにしても、ポプラフスカヤの”あんたケチな男ね”的態度は、彼女はもうちょっと大人しい感じの人かと思っていた私には衝撃的でした。
私生活でもこんな風な男性観なんだろうか、、、?
ポレンザーニ、本当、かわいそう、、軽く冗談を言っただけなのに、ケチな男にされて。

(トップの写真はネーデルラント・オペラでの公演からのもの。)


MetTalks La Traviata Panel Discussion

Marina Poplavskaya
Matthew Polenzani
Gianandrea Noseda
Willy Decker
Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks La Traviata ラ・トラヴィアータ 椿姫 ***

THE SINGERS’STUDIO: PERSSON, LEONARD & DE NIESE

2010-11-18 | メト レクチャー・シリーズ
今日のシンガーズ・スタジオのゲストはメトで上演中の『コジ・ファン・トゥッテ』からの女性陣で、
ミア・ペルション(フィオルディリージ役)、イザベル・レナード(ドラベッラ役)、ダニエレ・デ・ニース(デスピーナ役)の三人。
ゲストの数は通常(一人)の三倍なのに、オーディエンスは1/3?という感じで、25~30人程度と、とてもこじんまり。
やはりトップ・レベルの人気を誇っている歌手たちと比べると集客率に差があるんですね、、寂しいなあ。
彼らが現れるのを待つ間、私のすぐ後ろに座っている良く喋るじじいのヘッドに
前回のクヴィエーチェンのシンガーズ・スタジオの後、『ドン・パスクワーレ』の出待ちにパパイヤを持って行った話を無理やり聞かされ、
大ファンだというデ・ニースのしわしわになった写真を”いつも持ち歩いているんだ、、。”と言ってかばんから取り出された時は、
あまりの怖さに”このストーカー!!”と叫び声をあげそうになりましたが、そうこうしているうちに3人のギャルたちが現れました!

まず、ペルションのこのありえんぐらいの可愛さ、、!
顔の造作は少しフレミングに似てなくもないのですが、持っている雰囲気の方は全然違い、
ペルションの周囲にはおよそディーヴァ風が吹いておらず、周りを気遣いながら遠慮がちに喋る様子が好感度高し。
笑った表情がまたわざとらしくなく、本物の笑顔でかわいいんです。私が男なら絶対惚れる!
逆にすっごく怖かったのがデ・ニースで、いつも目をかっと見開いているような表情でアグレッシブに語る彼女を可愛いと感じるのは、
私のすぐ後ろにすわっているヘッドのおっさんくらいなもんでしょう。
レナードは三人の中で一番クールで淡々、飄々としたたたずまい。かなり個性の違う3人です。
インタビュアーの名前を失念してしまいましたが、いつも通り、Opera Newsのスタッフなので彼をON、
ペルションをMP、デ・ニースをDD、レナードをILと表記します。

ON: 『コジ』に魅かれる理由を教えてください。
MP: 曲の美しさはもちろんですが、アンサンブルですね。歌と演技、両方でアンサンブルが織り成す妙。
DD: もう単純に歌っていて楽しいの。ダ・ポンテがリブレットを書いたオペラは若い歌手にとって必修、かつ重要なオペラだと思う。
この作品は女性に対して非常にシニカルな作品よね。音楽は美しいのに、言葉がシニカルなのよ。
言葉が音楽を裏切っているように感じられる場面も多いわ。特に私を除いた四人は。
この中で唯一正直なのがデスピーナなの。
デスピーナはデスピーナ自身に加えて、他の公証人や医者になったりする場面もあるから、
一人三役みたいな部分もあるけれど、アンサンブルという面では、他の四人からは少し外れているかもしれない。
シニカルという話に戻ると、このオペラは19~20世紀のウィーンの観客にすら、まだ驚かれ、
上演する側にとってはリスキーとすら考えられていた素材であることも忘れてはいけないわね。
ON: その意味でこれは上演が難しいオペラだと思いますか?
IL: それは演出家次第だと思います。演出によっては、女性の方がもっと積極的であるように描かれる場合もありますね。
”どうして(男性二人が)戦争から帰って来るとわかるの?”という言葉がありますが、
これを引きのばすと、女性側もそれなりの選択をした、ということになると思います。
MP: 他には、女性の側が男性の企みを知っていて、その上で合わせて遊んであげる、という設定のものもあります。
これだと、作品の持つ意味全体が随分変わると思いませんか?
ON: ではここであなたたちお2人(ペルションとレナード)が共演した2009年のザルツブルクの『コジ』の映像を観てみましょう。
(部屋が暗転し、下の映像がスクリーンに映しだされる。)




(映像が終了して元通り明るくなると、ペルションの方は真っ赤になって恥ずかしそうに照れ笑い。
彼女は自分のパフォーマンスをこうして映像で観るのに照れがあるみたいです。
一方のレナードは、まるで他人のパフォーマンスを観ていたかのように、相変わらず淡々、飄々とした表情。)

ON: このザルツブルクのグートの演出は新演出だったと思うのですが、
今回のメトの公演のように、再演プロダクションに出演する場合と新演出でどちらかの方がやり易い、ということはありますか?
MP:今回は私達3人ともそれぞれの役を別の歌劇場で歌ったことがあるので、
役を作り上げる仕事にすぐ取りかかれたという面はあると思います。
再演ものの場合は新演出に比べてリハーサルの時間がとても少ないので、その役を以前に歌ったことがあると、助けにはなりますね。
IL: ただ色んな演出で歌ったことがあるとそれも大変かも。
今回も、リハーサルでいつの間にかザルツブルクの時の解釈で演じてしまっていたことがあって、
”あ、違う違う!これはザルツブルクじゃないの!”と思うことがあったわ(笑)
MP: 舞台というのはギブ&テイクの関係の上になりたっていて、演出が同じでも内容は日々違いますしね。
IL: 本当に。演技の面だけでなく、歌唱の面でもそれは言えると思います。

ON: デスピーナに関しては世慣れしたおばさんのように演じられる場合とまだ若々しい
姉妹の友人のようなタイプとして演じられる場合と両方ありますね?
DD: 私自身は絶対に彼女は若いと思っていて、その点では(『フィガロの結婚』の)スザンナに雰囲気は近いと思っているの。
リブレットのテキストを読んでも、アルフォンゾと同年代でないことは明らかで、
例えば彼に向かって、”私があなたのような年寄りにどんな用があると思うの?”と言う場面とか、
それから”女が15歳にもなったら”と歌う場面がありますよね。
15歳とまでは行かなくても、それとあまり変わらない年齢なんではないかと思うわ。
再演もの、新演出ものの話に少し戻ると、再演というのは基本的には他人が作ったものをもう一度作り直すという作業で、
基本的には(当初の演出家や後の舞台監督が残した)演出メモをもとに、
みんなで持ち寄った色々なアイディアを生かしながら、舞台監督が指示を出すという方法がとられます。
ただ、今回の『コジ』の舞台監督、ロビン・グァリーノは演技の枠を置きながら、
その中では私たちが自由に遊べる余地を残してくれたので、とてもやりやすかったわ。
デスピーナが歌うパートは6/8拍子に表れているような、バウンシーさ(ぴょんぴょん飛び跳ねるような感じ)が大事で、
他の登場人物たちの場合は歌っているメロディーが言葉を裏切っている、
つまり、必ずしも歌っている言葉が感情をそのまま表している場合ではないことがままあるのに対して、
デスピーナの場合は、曲がいつも言葉そのものを反映しているのが特徴だと思うわ。
その分、別の人物(医者や公証人)に扮する場面では思い切り遊ぼうと思っていて、
デスピーナ役に関しては私は過去に別のプロダクションで2回歌っただけなんだけど、
それでも公証人に扮する場面はこうしたら楽しいんじゃないか?と、今回は極端に作った
鼻にかかった声音を利用したりしてみたわ。
それからアルフォンゾとの性的テンション、これも注意して歌っているつもりなの。
とても現実的な彼女が、アルフォンゾと歌う場面のハーモニーでは、
少しだけ自分を忘れて身を任せてしまおうか、、というような、そんな彼女の様子を感じるので、、。

ON: 今回の『コジ』はクリスティーが指揮ということで、それも話題の一つなんですが、
彼との作業はいかがでしたか?
(お互いに顔を見合わせペルションとレナードがなかなか何も言わないのを見て取ったデ・ニースが”じゃ、私が、、”という感じで)
DD:私は以前にも彼と仕事をしたことがありますが、彼の特徴はドラマと音楽のタイミング、
舞台で起こっていることと音楽のタイミングを合わせる上手さにあると私は思っています。
彼は”『コジ』は最後の奇蹟だ。”と言う風にこの作品のことをリハーサル中に語っていました。
それぞれの役の背景に、古楽のバックグラウンドを感じる、ということなんですが、私もその通りだと思います。
マエストロ・マッケラスもそういうところがありましたが(注:マッケラスは彼女のモーツァルト・アルバムを指揮している)、
彼もドラマ的につじつまが合う限り、装飾音のつけ方や音を足すことなどには非常にオープンで、
”僕はバロックのプロなんだから、僕の言う通りにしてもらうよ!”というような威張った風は全然なくて、
とてもコラボレーションを大切にする人よ。
そうそう、今回のリハーサルでは、メトのオーケストラのセクション・リーダーとミーティングも持ったそうなんだけど、
それってとても珍しいことだし、すごくない?
MP: こちらが持っているアイディアに対して非常にオープンなのは確かですね。
彼の指揮は今回の『コジ』の演奏にフレッシュさ、ある種の軽さを持ち込むことに成功していると思います。
ON: あなたが歌う一幕のアリア、”岩のように動かずに Come scoglio"は、
オペラ・セリアに対する一種のパロディだ、とする考え方もありますが。
MP: それはその通りだと思います。私は岩、と歌いながら、実際その時点での彼女の内面はとても動揺していて、
それが音の激しいアップ&ダウンに表れていて、歌う方も休む暇なんて全くありません。
一方、ニ幕のアリア(”恋人よ、どうぞ許して Per pietà, ben mio, perdona")は曲全体のテッシトゥーラが低くて、
私のようにどちらかというと高音域に強みがあるタイプの声には非常に難しい曲です。
IL: モーツァルトの比較的初期の作品、例えば『偽りの女庭師(La finta giardiniera)』などのアリアは非常に複雑で、
それに比べると『コジ』では、私の歌っているドラベッラ役はメゾの声域でも比較的低い部分を使って書かれていて、
一見簡単に見えるんですが、実はとても難しく、歌い込めば歌い込むほど、その分良くなっていきますね。
ニ幕のアリア(”恋は泥棒 È amore un ladroncello")の、段々上に上に上昇して行くあたりも、
時間を経て段々良くなっていくものだと思います。
DD: 私はCDのために、モーツァルトが12歳の頃書いたといわれる作品を録音したことがあります。
12歳であんな曲を書けるということは信じられないことなんですが、たった一箇所だけ、
木管楽器と金管楽器のオーケストレーションがあまりに重厚過ぎて、
歌手にここを効果的に歌うことはまず無理!という場所があって、
あの天才モーツァルトも、まだ12歳の時には学びの途上にあったんだな、
生まれていきなり天才の人なんていないんだ、と思ったわ(笑)
IL: モーツァルトの作品は、若いうちに歌手が絶対に歌っておくべきレパートリーだと思いますね。
声を美しく保つ薬でありながら、年齢を経るに連れて上手く歌えるようになりますから、、。
すごく歌うのが難しかったところが、ある日突然、”あ、楽になった!”と感じる時もあるんですよ。
あとはフォーレの作品なんかもそういう側面があるように思いますね。
DD: モーツァルトの作品は技術の骨、コアを作るのを助けてくれるの。
ニルソンだったかな、、実際にモーツァルトの全幕オペラはレパートリーに入っていないにもかかわらず、
声が迷いに入ると、必ずモーツァルトの作品を歌ってバランスを取ると言っていた歌手もいるわ。

ON: イザベル、あなたはお子さんが産まれた後の復帰第一作目がこのメトでの『コジ』なんですよね。
(注:レナードのだんなさまは『カルメン』のHDで降板になったクヴィエーチェンに変わって
急遽エスカミーリョ役の代役を努めた、テディ・タフ・ローズです。)
IL: はい。テオはついこの間6ヶ月のワクチン接種を終えました。
妊娠の後、自分の声がどういう風に変わるか、すごく興味がありました。
ただ、できるだけ、ゆっくり、慎重に復帰するよう心がけました。
最初はダンベルを使ったトレーニングなどを通じて、体力を元に戻すところから始めましたね。
歌手はそれぞれの人で違った体力のメンテの仕方がありますが、
私の場合、元々ダンスをやっていたことなどもあって、もともとかなりアスレチックなものですから、
そうでないと、歌の方も、以前のようには歌えない感じがするんですね。
トレーニングを始めてすぐは、歌っていても、首の下が震えているような感覚で、
声楽の先生と一緒に行った復帰後の最初のニ、三のレッスンでは以前と同じように歌えなくて少し心配になりました。
でも、十分に時間を与えれば、必ず戻ります。ミアもお2人お子さんがいるのよね。
MP: ええ。(にこにこしながらうなずくペルション)
IL: 実はまた歌い始められるというのは私にはハッピーなことで、
子供が出来たからというもの、自分で何もかも決めて、自分で判断しなければいけないでしょう?
だから、声楽のレッスンに行くと、コーチに”やらなきゃいけないこと、何でも命令して!”って感じで(笑)、
人に言われたことをやる方が楽に感じられて新鮮だったわ!
レッスンが終わった後は、生まれ変わったような気分で爽快になるの。
とにかくテオが産まれてからは本当忙しい!
うちの母は、”ひひひ、、やっとあなたも私の気持ちがわかったわね。”なんて思っているんでしょうね。
子供が生まれる前にもっとあれをやっておけばよかった、これをやっておけばよかった、と思うことが沢山!

ON: イザベルは先ほど話にもあった通り、元々ダンスの方が専攻だったという経歴がありますが、ダニエレ、あなたもですよね?
DD: いえ(笑)、よくそういう風に聞かれるのだけれど、どこでどうしてそういう話になったのか、、。
私はダンスのレッスンは受けたことがあるけど、正式にダンスで舞台に立った経験はないのよ。
演技、ジャズ・バレエ、タップ・ダンス、色んなトレーニングは受けて来たけれど、いつも歌を歌うことがトップ・プライオリティで、
それに必要なものは何でもチャレンジした、という感じに近いの。
ただ、ダンスが歌手にとって非常に勉強する価値のあるものであることは間違いなく、
これから歌手を目指す方の必修科目としてもいいのではないかと私個人的には思ってます。
ダンスをすることの最大の利点は自分の体や体の動きをよく理解できるようになって、ぎこちなさが無くなるという点。
また、どういう風に体を使うことで、役を効果的に演じられるかということもよくわかるようになるわ。
私が出演した(グラインドボーンでの)『ジュリオ・チェーザレ』はボリウッド的ダンスに至るまでてんこ盛りで、
それまで私がダンスで勉強したすべてが実を結んだような気がしたわね。
ただ、ダンスは演技を助ける以上のことは出来なくて、逆に歌唱についていうと、どちらかというと妨げになるように感じます。
というのは、ダンスでは常に体の重心を上に引き上げるようにしますが、歌は、逆に重心を下に、というのが基本なので。
なので、最初の頃は、芝居をする時は重心を上に、歌を歌う時は下、と意識しすぎて余計にわけがわからなくなったりして大変だったわ(笑)
意識せず二つを上手く統合するには一年くらいかかったかな、、。
(言っていること、よくわかるわ、という風に頷くレナード)
MP: (私はダンスの経験がないので)二人の言っていること、良くわからないけど!(笑)
ON: ミアは面白い経歴を持っているんですよね。
MP: スポーツはダンスはおろか、学校の授業でやらされたものくらいしか経験がないですね。
歌はすでに学校にいる頃から歌っていたんですが、フランスに社会学と法律を勉強しに行きましたので、
あのまま行くと弁護士とかになっていたかもしれません。
それがコンクールで入賞して、それで歌の道に入ることになりました。

ON:皆さんのこれからの予定の主なものを聞かせてください。
DD: 来年はメトでパスティッシュ(ペイストリー)・オペラ、
"The Enchanted Island (魅惑の島。但し現段階では仮題。)”に出演する予定です。
ジェレミー・サムズによる演出で、既存のバロック・ピースの音楽に英語のリブレットをつけた
オリジナルのストーリーになるそうで、フランスやイタリアの音楽に英語の言葉がのるというので、
これは私もとても楽しみにしているプロジェクトなの。
出演者がディドナート、ドミンゴ、デ・ニースとDの人ばかりなのもいいでしょ?(笑)
ただ、使われるアリアも決まってないし、あと9ヶ月くらいでリハーサルも始まるかもしれないのに、
私の役は性別も決まってないのよ!!(笑)
まあ、『真夏の夜の夢』のパックみたいな役だから性別は必ずしも必要がないのだけど、
その彼だか彼女だかが、自由を求めてコロラトゥーラで歌い上げる、という役どころらしいわ。
でも、『コジ』のリハーサルの時に、もうリブレットはできてますか?とメトのスタッフの方に聞いたら、
あっけなく”まだ。”と言われたわ。早くリブレットが見たいわ。これじゃ準備も出来やしない!(笑)
IL: この後はサンタフェ・オペラでヴィヴァルディの作品『グリセルダ』に出演します。
それからパリでセスト役(『ジュリオ・チェーザレ』)、、
ほんとあのヘンデルという人はたくさん音符を書く方法を良く知ってて嫌になるわね(笑)
12月から2月まではパリに居る予定なんですが、その間にニュージーランドからテディが合流する予定で、
その後サイトウキネンでマエストロ小澤との『フィガロの結婚』に私が出演するため、一緒に日本に行きます。
日本のあとはテディがまたニュージーランドに戻って、私は同じフィガロのカーネギー・ホールでの公演、
それからその後もミネソタ、パリなどで予定が入っています。
MP: 私はマーラーを歌って、その後は初のアディーナ役(『愛の妙薬』)に挑戦する予定です。
マーラーの4番は歌に関しては比較的軽いので私にも歌えるのですが、
その点ではあまりマーラーらしくないとも言えるのかもしれません。
他のマーラーの作品はかなりドラマチックなものが多く、私の声では無理をせず歌うことは難しいと感じるものもあります。

ON: ではそろそろ時間ですので、オーディエンスの皆さんからの質問をお受けします。

Q: 声楽のコーチにはついていらっしゃいますか?
また、その場合、演奏で旅行に出られている間はどのようにヴォイス・トレーニングされているのでしょう?
IL: はい、私はNYにコーチがいますが、もちろんNYにいない間はレッスンは出来ないですね。
なのでNYにいる間は暇さえあればレッスンに行って、、(笑)
ただ、別の場所にいる時も、やはり声の状態を確認する作業は大事ですから、eメールやスカイプなどを通して助言をもらっています。
DD: 2003年だったかな、、どうしても先生に聴いてもらいたくて、
電話のスピーカーフォン機能を使ってフルのレッスンを受けたこともあるわ(笑)

Q: デ・ニースさんに質問ですが、これから挑戦したい役は?
DD: いつか絶対に挑戦したいのがマスネの『マノン』!あの無垢な少女から大人の女に成長していく過程にはすごく魅かれるの!
でも今の私には難しく、また重過ぎる役だというのは良くわかってる。
しばらくはドニゼッティの作品の諸役、アディーナ(『愛の妙薬』)やノリーナ(『ドン・パスクワーレ』)を歌って、
長い目でキャリアを見ながらプランを練って行きたいと思ってます。

Q: うちの娘がラ・ガーディア・ハイ・スクール
(メトのすぐ側にある音楽などパフォーマンス・アート専門の学校で、レナードの出身高校でもある。)に入学することになりました。
私としては弁護士にでもなってくれた方が良かったのに、、と思わないでもないのですけれども、
そんな彼女に何かアドバイスがありましたらお願いします。
IL: そうですね、、歌だけでなく、きちんといろんな勉強をして欲しいな、と思いますね。
私は両親からプレッシャーを受けたわけでもなく、自分の判断でこの道を進んで来ましたが、
声がしっかり出来ていないうちから過度なトレーニングをして押し過ぎるのは良くないと思います。
意外かもしれませんが、私はその後に進んだジュリアード音楽院でも声楽の先生には特についてなかったんですよ。
歌う時間というのは、まだまだ先にたくさんあります。焦らないで、ということをお伝えしたいですね。
この世界は才能があっても、家庭やパーソナル、多々の事情からキャリアをあきらめなければならなくなる人もたくさんいます。
私は本当に運が良くて、周りからのサポートもあってここまで来れたのだと思います。
お嬢さんにも、これからそのようなサポート・システムがきちんとあるといいですね。

Q: 皆さんの趣味を教えてください。
MP: 今、6歳と3歳の子供とイギリスに住んでいますが、今は彼らのことで手一杯ですね。
DD: うーん、なんだろう、、、あまりないかな、、音楽は聴かないですね。ベッドで音楽のことを考え始めると目が冴えて、、。
IL: 私はジャズとか、オールディーズとか、聴きますよ。
DD: 切手集め(笑)とか、これを趣味!と呼べるものがあればいいな、と思うのですが、
音楽は私にとって仕事ではなくて、人生で関わること全てが歌に反映される、、、
その意味ではまるで、小さな布を使って大きなキルティングを作る作業にも似ています。
先ほどイザベルも言ったように、この道をすすみたくてもすすめない人がいることを考えると、
自分はなんてラッキーなんだろう、と思うので、それは全然辛いことではなくて、喜びなんです。

(写真は左から、ペルション、レナード、デ・ニース)

The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Miah Persson, Isabel Leonard & Danielle de Niese

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Miah Persson, Isabel Leonard & Danielle de Niese
シンガーズ・スタジオ ミア・ペルション イザベル・レナード ダニエレ・デ・ニース  ***

THE SINGERS’ STUDIO: MARIUSZ KWIECIEN 後編

2010-11-03 | メト レクチャー・シリーズ
前編より続く>

OZ: 先ほど演出はトラディショナルな方が好きだ、というお話がありましたね。
MK: 演出というのはロジカルでなきゃいけないと思うんだ。
僕が自分で考えて筋が通らないようだったら、お客さんには絶対に通りっこない。
以前、ミュンヘンで歌った『ドン・ジョヴァンニ』では僕が隠れた部屋でケーキを作っていたりとか
なぜ?と考えても、さあ、、、って感じで、さっぱり意味不明、
さらにはロマンスであるべき話が政治の話になっていたりして、お客さんがすごく混乱しているのが伝わって来た。
あれほどの演出、歌手、観客の間のミスコミュニケーションは悲しいね。
OZ: でもDVDにもなっている『オネーギン』のチェルニアコフの演出はそうトラディショナルでもないですよね?
MK: そう?僕にとってはあの演出はトラディショナルの部類に入るよ。
登場人物の動き、感情それぞれの理由がちゃんと筋が通っているからね。
他の演出のように(注:ワルリコウスキーの演出か?)オネーギンとレンスキーがゲイで猛烈に愛し合っていたはずなのに、
レンスキーが死んだ途端、オネーギンとタチアナが愛の二重唱を歌う、なんていう辻褄の合わなさはこの演出にはないからね。
シカゴで歌った時は、メトと同じカーセンの演出だったけど、
あれは椅子と葉っぱしかなくて、あとはだだっ広い空間だよね。
僕は、別の登場人物がこちらに来ますので(場所を空けるために)あなたは左に動いて、、
というようなドラマ上意味のない演技付けは苦手で、
舞台の右から左に動くという単純なことでも、自分に納得できる理由が必要なんだ。
OZ: あなたは『オネーギン』をボリショイで歌いましたよね。
MK: うん、最初はすごく怖かったよ。
アメリカ人がロシアに行くのに比べたらましかもしれないけど(笑)、
なんといっても(マリウスの出身国である)ポーランドはロシアの近所だからね。
子供の頃、僕らは当時の政治事情から、ロシア語を無理やり習わされたから、
今でもロシア語はちゃんと喋れるんだけど、その頃は、それが本当にいやでいやでたまらなかったんだ。
だって、ロシア語は僕たちの言葉じゃない。僕たちは僕たち自身(=ポーランド人)でありたかったからね。
でも、リハーサルのためにボリショイに着いて、街の歴史と文化を肌で感じで、そのすごさと素晴らしさを実感すると、
そのロシアの文化の頂点といってもよい『オネーギン』のような作品に自分がボリショイで主演させてもらえること、
その重みを一気に感じて、すごいプレッシャーだった。
それに、僕がロシア語をしゃべれると言っても、現在話し言葉で使われるロシア語とは違って、
オネーギンのロシア語は少し古めかしいところがあるから、そのニュアンスを出すため、
普通以上に言葉には神経を尖らせて歌った。
ポーランドの自国のオペラもいつか歌えればいいなと思うけど、
ポーランド語はそもそもあまり歌に乗せるのに適した言語じゃないんだよね。
シュとかハとかスー(全て無声音)という音が多いしね。
イタリア語はその点、言葉そのものに重みがあって、歌っていると声が深くなる感じがする。
(と言って野太い声でイタリア語で歌いだす。)
ドイツ語は駄目だねえ、、、シューベルトの歌曲とかはたまに歌うけど、自分に全く向かない言語だと思う。
一度ドイツでリサイタルに出演した時、一応ドイツ語はきちんと歌えていたようで、
観客の方が、てっきり僕がドイツ語が出来るものと思ってしゃべりかけて来たんだけど、
”すみません、僕はドイツ語、全然駄目なので、、”って言ったら、
そしたら、”あら、そうなの?あなたのドイツ語大丈夫だったわよ。ちょっとしたところを除いては。”だって(笑)
僕たち歌手は各国の言語のリズムやイントネーションを、音楽に接する時と同じようにして拾っていくから、
言語の習得は割りと得意な人が多いんだけど、僕はドイツ語だけはなぜか駄目なんだ!
今、歌曲の話が出たけど、自分は常に歌曲よりもオペラに関わっていたいと思ってるんだ。
それはオペラには演技があるからで、それが僕が一番オペラで楽しめる側面だから。
ナタリー(・デッセイ)も元々演技の勉強をしていて、たまたま役の中で歌を歌う場面があったので歌ってみせたら、
みんなに、”君、歌の方が向いてるよ。”と言われて、(ショックの体で)”ぎゃああああああああ!!”って、、(笑)
僕は当初、オラトリオを歌ったりしてたんだけど、
一旦、僕はオペラで、バリトンとしてやって行くんだ、と固く決意してまじめに歌に取り組むようになってから、
二年のうちにはスカラの舞台に立ってた。
フィガロ役を(他の劇場で)初めて歌った時には、観客の方がココナッツを持って来てくれたりしたなあ。
(注:ココナッツはポーランドでこれからの活躍や繁栄を祈る意味があるそうです。)
OZ:その後、メトのリンデマン・ヤング・アーティストのプログラムに入られますね。それはどのような経緯で?
MK: そう。その後まもなく、ウィーンで歌っていると、コロムビア・アーティスツ・マネジメント(CAMI)のスタッフの一人に、
”君ならメトで歌えるかも知れないよ。”と言われたんだ。もちろん、全く信じなかった。
楽屋に来て”君にエベレストをあげよう。”と言って何もくれないような人がしょっちゅうだったからね。
だけど、そのうち、メトから一通の手紙が来たんだ。
随分かしこまった手紙のようだし、当時英語があまり出来なかった僕は、
英語の出来る同僚のところに行って、これをきっちりと訳して欲しい、
何が書いてあるか、一語一語まで知りたいんだ、って言ったんだ。
彼が、”この手紙は何千人に一人の歌手しかもらえない手紙だよ。”と前置きをするから、”早く中身を読んで!”と言うと、
”我々メトロポリタン・オペラは謹んで貴殿においでいただきたく、、”
それで僕は”おいでいただきたく、って、仕事がもらえるって事か?”と叫ぶと、
”違う。オーディションを受けに来てくださいという内容だ。”と言われたよ。
それまでの仕事で貯めたお金でNYまでのエコノミーの航空券を買って、
それでお金が底をついてしまって、ちゃんとしたホテルの代金は払えなかったから、
あの63丁目(注:メトのすぐ側)にあるYMCAに泊まったんだよ。
NYに着いたらもう本当にエキサイトしてしまって、すぐに母親に電話して叫んだんだ。
”すごいよ、ここは!夜でもすごく明るいんだ!!”って(笑)
当時、若手の育成プログラムについて全く無知だった僕だけど、
結局、サンフランシスコ・オペラ(SFO)のメローラ・プログラム、
リリック・オペラ・オブ・シカゴ(LOC)のライアン・オペラ・センター、
それからメトのヤング・アーティスト・プログラムの三つの試験を受けて、
三つともから合格の通知をもらい、メトのプログラムを選ぶことにしたんだ。
OZ: それはいつのことですか?
MK: 1998年のことだよ。
僕の場合はヤング・アーティスト・プログラムに入る前から、
ヨーロッパでスカラやウィーンの舞台に立っていたから、
メトでも最初からフィガロとか歌わせてもらえるんだろうと思ったら、大きな勘違い!(笑)
最初は『カーチャ・カヴァノヴァ』のクリーギン、それから『リゴレット』のマルッロ、小さい役ばかりだった。
マルッロはソロで歌う場面は少ないけど、アンサンブルで歌う箇所がたくさんあって、
それが全然公演近くになっても覚えられなくて、
このままだとクビにすることになります、と言われて、それから二日のうちに死に物狂いで覚えたんだ。
メトのヤング・アーティスト・プログラムは加入する時に、
むこう二年は基本的にはメト以外の劇場と契約しないこと、
また、専属のマネジメントを雇わないこと、この二つを約束させられるんだ。
僕は最初の方は守ったんだけど、二つ目は守ってなくて(笑)、、、
プログラムにいる間、小さい役とはいえ、毎日のように舞台に立って、
その上に日中にはレッスンもあるから、ある日、これは無理だ、休んで喉を休めなきゃ、と思って、欠席の連絡をしたんだ。
そしたら、先生が”あなた、何考えてるんですか!”って、、(笑)
そうすると、”このプログラムは僕たちのキャリアを助けるためにあるんでしょう?
でもこんなじゃ全然助かってない!”なんて口答えしたりして、
プログラムのスタッフの方は僕にはほとほと手を焼いていたと思うよ。
稀にメト以外の仕事が入ってくることもあって、それもほとんど断らなかったから、
先生に嫌な顔をされたりしたんだけど、、あ、でも、こんなことがあったよ。
グラインドボーン音楽祭で、突然フィガロの伯爵を歌う歌手がキャンセルして、
その公演の演出家だったグレアム・ヴィックが自ら直接にメトに電話をして来たんだ。
”どうしてもマリウスが必要なんで、彼を貸してもらえないか?”
そしたら、いつもの態度はどこへやら、”ははーっ!喜んで!!”だって(笑)!
でも、ウィーンやスカラで歌った経験から、いい気になっていた僕を、
そんなこと関係ありません!って感じで、歌の技術から、ディクションの細かい点まで、
メトのプログラムでは容赦なく厳しく鍛え直されて、常に努力・勉強し続けるという姿勢も教えられたよ。
OZ: その後、メトでは『ラ・ボエーム』のマルチェッロなどをお歌いになったんですよね。
MK: そう、後はレヴァイン指揮の『フィガロの結婚』をメトとタングルウッド両方で歌ったよ。
OZ: その他、『カルメン』のエスカミーリョなど、非常に幅広い役柄をこなしてこられました。
MK: エスカミーリョも歌ったけど、あの役はもう僕の声質に合わないことがはっきりして、
もうレパートリーから落とすことにしたから、この先歌うことはないと思うよ。
将来の(メトでの)予定を言うと、アンナ(・ネトレプコ)と『愛の妙薬』で共演するよ。
注:コメント欄でkeyakiさんが指摘してくださった通り、これが2011-12年シーズンのこととすると、
共演するソプラノはネトレプコではなく、ディアナ・ダムラウの間違いではないかと思われます。
後注(11/8/10現在):と思ったのですが、アンナ・ネトレプコも自身のシンガーズ・スタジオで、『愛の妙薬』に出演すると発言しており
わけがわからなくなって来ました。もしかすると、当初キャスティングされていた『マノン』に代わって、
『愛の妙薬』を歌う案が出てきているのかもしれません。来シーズンの公式演目発表に注目いたしましょう!

テノールは誰だっけな、、思い出せないや、、ま、いっか、、どうでもいいよね、テノールなんか(笑)!
こう言う風に言うと傲慢に聞こえるかもしれないけれど、自分はショート・アリアの人じゃないと思うんだ。
アリアを印象深く一発歌うというようなタイプではなくて、役で何かをクリエイトする、そういうタイプの歌手だと思う。
だから、フィガロなんかの方がやりがいがあるんだ。
ということで、エスカミーリョなんか別にレパートリーになくてもいいよ、
バイバイ、エスカミーリョ!!って感じだね。
OZ:『椿姫』のジェルモンは歌う予定はないですか?
MK: ジェルモンはね、まだ自分には早いと思ってる。
僕は今38歳、理屈で言えば、歌えない歳ではないんだけどね。
例えば、アルフレードが二十歳くらいの時に生まれた、と仮定して、
43歳くらいと言うことであれば、今の僕の年齢とそう違いはないでしょう?
でも、そういう年齢の設定上、事実的に可能か不可能かということより、
ヴェルディの音楽が、ジェルモンがもう少し年老いた重みのある人物であることを描写している、
そのことが今の時点でこの役を歌うことを躊躇させるんだ。
たとえば、ステッキを持って出てきても、マラテスタの時みたいな
(と言って、『ドン・パスクワーレ』の舞台にマラテスタが登場するときに行う、
軽やかにステッキをくるくる!と回す仕草をする。)使い方ではなくて、
ジェルモンの場合は、本当に歩くのにそれが必要な年齢なんだよね。
僕は年寄りの演技をするのも好きだけど、まだ、この役は自分から遠い、そういう風に思ってるよ。
それにジェルモン役は、軽すぎず、リリカルすぎず、いわゆるヴェルディ・バリトンだけが持つリリシズムが必要だと思うんだ。
そして、舞台に彼が登場した瞬間に、物語の流れがすっと変わるのを観客が感じるような、
そういう存在感、インパクトを持った人が必要だと思う。
その点では、本来、リゴレット級の役を歌える人が歌うべき役だと思うんだ。
二年ほど前に、レナート・ブルゾンがこの役を歌うのを聴いたけれど、あれこそ理想のジェルモンだと思ったよ。
OZ: では、あなたが一番好きな作品は?
MK: モーツァルトの作品。音楽はもちろんだけど、ダ・ポンテの書くリブレットも素晴らしい。
あれ以上、美しく、機知に富んだリブレットはないよ。
僕は、他のどの作品よりもモーツァルトの作品を歌った時に、
自分自身のこと、同僚のこと、そして、人生とは何か、ということを知ることが出来るんだ。
それに、モーツァルトの作品を歌って来たおかげで、この20年、声も自分自身もきちんと保つことが出来た。
これから歌ってみたい作品は『ヴォツェック』、
それから『オテロ』のイヤーゴもいつか挑戦したいと思ってるよ。
リゴレットはずっと前からすすめられていて、
ある人に、”ヨーロッパの小さめの劇場で歌えば大丈夫よ!”なんて言われたけど、
そういう問題じゃないんだ、と、僕はその言葉に取り合わなかった。
そして、今、それは正しい選択だったと思ってるよ。
OZ: では、オーディエンスの方からのご質問をうけたまわります。
(ということで質問タイム。)

Q: 私、日本からやってまいりました(注:ちなみに私ではありません。念のため。)
ウィーンで、”真っ黒な『清教徒』”(注:とおっしゃったように聞こえたのですが、
どうやら演出で黒が多用されている、ということなのだと思います。)を見ました。
こういう演出、どのように思われますでしょうか?
MK: どう思うも何も、考えたくもありませんね、そんな演出(笑)!
ウィーンは、、、、演出は革新的なものと非常にトラディショナルなものがごちゃまぜで、
良い歌手を呼んでいるんですが、まあ、とにかくリハーサルが少ないんですよ。
グルベローヴァとウィーンで共演したことがありますが、その時の彼女のスターぶりもすごかったなあ、、。
スターと言えば、以前、サン・パウロで、ジューン・アンダーソンと『ルチア』で共演したことがあるんだ。
僕はまだぺーぺー、彼女はご存知の通り、大スターで、
エンリーコがルチアに家を守るために、アルトゥーロとの結婚を強要するシーンで、
”私を突き飛ばして頂戴”と言われたので、言われるままに、思いっきり突き飛ばしたら、
彼女が”あああああああああああっ!”ってものすごい悲痛な叫び声をあげたので、
もうびっくりしてしまって、ひたすらすみません、すみません、と平謝りしたんだ。
その次のリハーサルでは、気をつけなきゃ、気をつけなきゃ、と、その場面で彼女を軽くポン!と押すと、
彼女が立ったまま、冷ややかな目で僕を見ながら、
”あんた、何やってんのよ。もっと強く突き飛ばさなきゃ駄目じゃないよ。”
そして彼女はメガ・スターだからね、、どれ位一緒に仕事するのが大変だったか、想像できるでしょ?

Q: まず、一日早いですが、お誕生日おめでとう!
MK: ありがとうございます!(注:マリウスの誕生日は1972年11月4日です。)
Q: ロドリーゴ役を歌う予定があると聞きました。メトでは歌わないのですか?
MK: うん、ロドリーゴはまずロンドンで歌って、それから、ミュンヘン、そして、クラカウでも歌う予定だよ。
メトでも、もちろん今年は無理だし(笑 注:今年はキーンリサイドが歌う)、
来年、再来年もないけど、その次あたりで歌うことになるかもしれない。
でもさ、ロンドンはここからたったの6時間だよ!!聴きに来てください!

Q: あなたの名前にはいつも混乱させられます。名前を一シラブルずつ、はっきりと、
ネイティブが発音するように発音してください。
MK: マリウシュ・クヴィエーチェンです。イじゃなくて、エの方を強調する感じで。
(注:クの後のヴィもfとvの中間のような音に私には聴こえます。)
苗字のクヴィエーチェンは、ポーランド語で4月っていう意味なんだ。
(注:というわけで、今後、当ブログでは、マリウシュの名前について、この表記にならいたいと思います。)

Q: 先ほどこれから歌いたい役の話が少し出ましたが、もっと長期的に、将来挑戦してみたい役はありますか?
MK: 『真珠とり』のズルガ、
それから『タンホイザー』のヴォルフラム役はシアトルで歌う予定だったのが、
公演そのものが延期になってしまったので残念で、いつか必ず歌いたいと思ってるよ。
それから後は『ファルスタッフ』のフォード、、、
あ、この辺は今から7年先くらいのことを話してます。
というのは、オペラの世界では、今契約の話をしているものだと、実際の公演はそれくらい先になってしまうので、、。
それから、『シモン(・ボッカネグラ)』!
シモンは実はロドリーゴよりもリリカルだ、というのが僕の考えなんだ。
また同時に、自分のようなリリカルなタイプの声質の歌手が、
どのあたりの演目まで歌えるか、という問いへの答えの探求の助けになると思う。
ヴォータンのような役は絶対無理だって判ってるけど、その間にあるレパートリーのどの辺りまで進んでいけるか、という問いだね。
そういう意味ではトーマス・アレンが僕と声のタイプが似ているので、
彼のキャリア・パスは非常に参考になるんだ。とてもいい先輩だよ。
あと、サイモン・キーンリーサイドのキャリアも参考にしている。
後、自分とタイプが似ているかな、と思うのはトーマス・ハンプソンだけど、
彼は『リゴレット』を歌っているよね。(ぼそっと)あんな背が高いのに。

Q: 演出家と意見が食い違った時にはどうしますか?
MK: 彼がナイスな態度なら、僕もナイスに、
もし彼がナイスでなければ、超やな奴(asshole)になる!!
まじめな話、新聞などに公演評が出るとき、誰も
”演出家某が無理やりクヴィエーチェンに○○をさせた”とは書かないよね?
書かれるのは、”クヴィエーチェンが○○した。”の一文だ。
だから、そう書かれて自分で悔しい思いをするような演技はやらないのが一番なんだよ。
もしあまりにも演出家が聞く耳を持たない時は、もう彼の言うことを聞かないで、自分のやり方で暴走するよ。

Q: HDについてのご意見を聞かせてください。
前回、アンナ・ネトレプコに同じ質問が出た際、彼女は否定的でしたが。
MK: HDで嫌なのは、とにかく人が多いこと!
HDでなければ必要のないメイク係(注:カメラに写る前のタッチアップのためのメイク係)や、
カメラ・クルー、それから照明係、ホスト役の他の歌手など、舞台裏にはぎっしり人がいて、
こちらが一生懸命役に集中しようとしている時にカメラがにじり寄って来て、
カメラの後ろからは、ぴかーっ!とすごい照明が光っているんだ。
インターミッションになったらインターミッションになったで、次から次へとインタビュー、、
これはやっぱりとてもいらだたしいよ。
彼ら(注:これはHDを企画しているメトのマネジメント、それからもしかすると我々観客も含まれるのかもしれませんが)は
”ありがとう”の一言もなく、僕たちからとって、とって、とりまくるばかりで、
それはちょっとどうなんだろう、、?と思うんだ。
でも、もちろん、HDによる恩恵もあるよ。
僕の両親はクラカウで僕が出演している公演を見れるのをとても喜んでいるしね。
両親がNYまで鑑賞しに来ることがあるんだけど、彼らと一緒にいると大変でさ、本当疲れるんだよ!
だから、公演のできるだけ直前にきてもらうようにしてる。
実際、以前、彼らが公演前に余裕をもって到着した時には、公演で調子を崩して、
一幕で降板しなければならなくなったことがあるくらいなんだ!

Q: メトで『エフゲニ・オネーギン』に出演されますね
(注:2012-13年シーズンの公演で、ネトレプコが”歌うわよ!”と宣言していたのと同じ公演)。
テノールはポレンザーニですか?
MK: それが、今日ついさっき知ったんだけど、レンスキーはマシュー(・ポレンザーニ)ではなくて、
ピョートル・ベチャーワに変更になったそうなんだよ。
あなたはベチャーワとポレンザーニ、どっちが好き?(と目の前のヘッドに質問)
ヘッド: ベチャーワ、、、かな?
MK: ベチャーワなんだ。ま、彼はポーランド人だしね。ポーランド人に悪い人はいないよ。
そうだな、レンスキーならベチャーワの方がいいのかもしれないね。
マシューはすごく良いテノールだし、ベル・カントのレパートリーなんかを聴くなら絶対彼だと思うけど!
(と、さりげなく『ドン・パスクワーレ』の宣伝を忘れないマリウシュなのでした。)



The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Mariusz Kwiecien with Oussama Zahr

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Mariusz Kwiecien シンガーズ・スタジオ マリウス・クウィーチェン マリウシュ・クヴィエーチェン  ***

THE SINGERS’ STUDIO: MARIUSZ KWIECIEN 前編

2010-11-03 | メト レクチャー・シリーズ
前回のネトレプコの回に続き、今回のゲストも『ドン・パスクワーレ』のキャストから、
バリトンのマリウス・クウィーチェンです。
私が確保した壁際の座席のすぐ側にはオペラ・ニュースの編集チームがいて、編集長がこっちを見てます。
鉄仮面呼ばわりしているのがばれたかしら、、。
編集長は今回インタビュアーではなく、部下の仕事の監視役。
かわりに聞き手を務めるのはマネージング・エディターのウサマ・ザール氏。
いつもの方法にならい、マリウスをMK、ザール氏をOZと表記させて頂き、語られた内容の意訳をご紹介します。

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MK: 『ドン・パスクワーレ』には、2005-6年シーズンにも同じマラテスタ役で出演したんだけど、
そのリハーサルにやって来た(オットー・)シェンクが、”君、誰?”と言うんで、
”マラテスタ役のマリウス・クウィーチェンです!”と言ったら、
”だけど、君、めちゃくちゃ若いじゃないの!”と言われてしまいました。
彼は最初、マラテスタをもっと歳が上の感じにしたかったみたいで、
演技指導も最初はその線で進んでいたんだけど、僕にはなんかぴんと来なくて、
そのうち、アンナ(・ネトレプコ)と、トランポリン(ドン・パスクワーレの家のセットの中に登場する
ぼろベッドのこと)で飛び跳ねたり、めちゃくちゃやってみたら、
”それ、いいね、もうそれで行っちゃおう!”ということになったんだよ。
この作品は楽しいよ。アンナとの共演が楽しくないわけがないしね!
マシュー・ポレンザーニ、ジョン・デル・カルロを含めた僕ら4人はすごくいいチームで、僕らの性格からも推測がつくと思うけど、
”さあ、お客さんと一緒にこの公演で楽しい時間をすごそう!”って感じで舞台をつとめてるんだ。
僕ら歌手はそれぞれ、悲しみとか恥ずかしさとかの表現の仕方が違って、それがまた面白いところなんだけど、
恥ずかしさといえば、アンナはすごいよ。彼女が恥ずかしそうにしてるところ、見たことがないからね。
今回も胸は出すわ(注:これはマリウスのオーバーな冗談で、そんなシーンはありません)、
生足は見せるわ(これはあります)、の体当たりだけど、全く恥ずかしそうじゃないからね(笑)
OZ: あなたは『ランメルモールのルチア』ではナタリー・デッセイと共演しましたよね。
二人は全然違うタイプの歌手ですか?
MK: 全く違うね。アンナが胸出しの直球タイプだとすると、ナタリーは”暗黒の女王”という感じだね。
(といって、まじめでドラマティックな表情のデッセイを真似る)
OZ: 『ドン・パスクワーレ』で、一番最初の聴き所といってもよい
”Bella siccome un angelo(天使のように美しく)”を歌うのはあなたですね。
MK: この作品だけじゃなくて、ベル・カントの多くの作品、
たとえば、『清教徒』、『ルチア』、どれも最初にバリトンの聴かせどころで始まるから大変なんだよ。
汗だくになりながら、”ハロー、皆さん、マリウスですよー。まだ本調子じゃないですが、これから良くなりますからねー!”(笑)と、
まあ、言ってみれば、名刺を渡すようなものですね。
舞台に上がる前は、ヴォカリーズで出来るだけ、声を軽い状態に保つようにしているよ。
それは、(『ルチア』の)エンリーコのようなドラマティックな役でも同じ。
メトのような大きな劇場では、舞台から客席の一列目までにすでに相当の距離があって、
しかも、それ以外は真っ暗で、ほとんど何も見えない。
だから、僕のように必ずしも声のサイズが大きくない歌手は、声を押してしまいがちなんだ。
ヴォカリーズで声を軽くしておくと、声を押し出さなくなる効果もあるんだ。
そうそう、僕がウェールズでコンクールに出場した時、その時の勝者は僕とアニヤ・ハルテロスだったんだけど、
審査員がジョーン・サザランド、シェリル・ミルンズ、マリリン・ホーンという顔ぶれで、
終了した後にアドバイスをもらいに行ったら、
まず、ジョーンに”あなたは声を押しすぎよ。”と言われたんだ。
すると、シェリルがすかさず僕の腕をつかんで引き寄せて、”だめだめ、もっと押して歌わないと!”って言うんだよ。
”でもたった今ジョーンに押し過ぎだって言われたばかりですよ。僕はどうすりゃいいんですか?”と尋ねると、
”わからないように押さなきゃ!”って言われました(笑)
OZ: この作品は16分音符や三連符など、小気味よい、しかし技術を要する箇所が多いですよね。
MK: 僕はドン・ジョヴァンニとかオネーギンとか、いわゆるバッド・ブラザーズな役を歌うことが多いから、
こういう軽くて楽しい役を歌うのは一年に3日くらいしかないけど、楽しいんだ、とっても。
ところで、昨日(11/2)の『ドン・パスクワーレ』の公演に来た人、この中にいる?
(7、8人の手が挙がる。そっか、、参ったな、、という感じで)
あー、素晴らしいお客さん方でしたよね、昨日の皆様は、、なんちゃって。あはは。
正直に言うと、2006年の公演ではもっともっと笑いが多くて、
客席から転げ落ちそうに笑っている人が一杯いたように思うんだ(注:同感です)。
でも今年はそうでもないんだよ、、なんだろうね?アメリカの経済危機による暗い気分がこんなところにまで押し寄せているのかな(笑)
時に、僕たちがお客さんを喜ばせようと必死になって、アンナが胸を出したりして頑張っても、
それでもお客さんが重いというか、なかなか笑ってくれない時がある。
昨日は、初めてこの作品の公演で、お客さんからそういう手ごわさを感じたかもしれないね。
OZ: あなたが最も得意としている役に、ドン・ジョヴァンニがありますね。
MK: 初めてあの役を舞台で歌ったのは東京で、小澤征爾の指揮だった。
当初予定されていたブリン・ターフェルがキャンセルして、僕が代役に入ることになったんだ。
当時僕はあの役を、元気一杯、若さに溢れ、色気のある、美しい人物として描こうとしていた。
あれから今日までかれこれ約十年、15から17くらいの違った演出でジョヴァンニ役を歌ってきたよ。
台所のキャビネットが地獄になっていて、そこに地獄落ちしていく演出とか、
最後にジョヴァンニが自殺して終わる演出とか、年増の娼婦を次々レイプする演出とか、
阿片を吸うジョヴァンニとか、本当に、いろーんな演出でこの役を演じて来た。
だけど、今は10年前とは全然違う解釈でこの役を演じている。
ドン・ジョヴァンニという人物は、享楽、性的快楽とは何の関係もない、
それは少しはそういうことで気を紛らわすこともあるかもしれないけれど、
基本的には、とても寂しい、孤独のきわみのような人物なんだ。そういう解釈で今はこの役を演じてる。
僕は伝統的で美しい演出が好きなんだけど、『ドン・ジョヴァンニ』には
わけのわからない醜いプロダクションが多くて、そういう演出で歌うと本当に疲れるよ。
来シーズン(2011-12年)、メトで『ドン・ジョヴァンニ』を歌う予定なんだけど、
メトの演出のビジュアルを見せてもらい、少しモダンなところがありつつトラディショナルなのでほっとした。
演出は良さそうで気に入っているよ。
OZ: あなたは以前に、”ドン・ジョヴァンニはけだものじゃない。”という趣旨の発言をされましたね。
MK: それはターフェルのことを言った言葉なんだよ。
彼はすごく声量もあって、演技も体当たりで迫力満点なんだけど、
彼のドン・ジョヴァンニは、作品の中の女性だけじゃなく、
セットも、オケも、演出もすべてをレイプしてしまう感じだ。
僕の考えではそれはドン・ジョヴァンニじゃない。
あの役には、きらきらした輝き(sparkle)というか、そういうものがないと駄目だと思うんだ。
例えば、ジョヴァンニが生きた時代の、彼が属している階層の人間の座り方を思い出してほしい。
(背筋を伸ばして、片足をもう一方の足の前に置き、
ステッキのようなものを持っているのか、それを前に伸ばした手で握りながら)
こういう風な感じであって、
(目の前に座っている老齢ヘッドの姿勢をそっくり真似した、椅子からすべり落ちそうなだらけた座り方に換え)
こんな風では決してないんだよ。
話し声も、(気取った感じでアクセントを強調しながら)こんな風で、
(やはり老齢ヘッドが仲間のヘッドに話かけるような感じのだみ声で)”なあなあ!”みたいな喋り方は決してしない。
この、紳士らしさ、というのかな、クラス(上流階級に備わった上品さ)、そういったものがこの役の表現には絶対必要だと思うんだ。
OZ: あなたはまた『フィガロの結婚』はその当時の様子を出来るだけ再現する
(演出面での)ピリオド方式を採用すべきだ、ともおっしゃっていますね。
MK: 僕が持っている12から14くらいのレパートリーの中で、唯一そう感じる作品が『フィガロ』なんだ。
僕は当時のかつらとか装飾品はロマンチックだと思うし、最近の演出を見ていると、
オペラには美を破壊するために作られているんじゃないか?思うような演出もあるけど、
オペラにおいて、守らなければならない美というものは、絶対あると思う。
特に『フィガロ』は筋がすでに複雑だから、演出で余計なことをする必要は全然ないと思うんだよ。
『フィガロ』には伯爵が自分の妻とスザンナを取り違える場面があるよね。
僕自身、必ずしも身長が高いほうではないけれど、
伯爵夫人役の歌手とスザンナの身長があまりに違うと、ちょっと厄介なんだ。
以前、シカゴでアンネ・シュヴァネヴィルムスの伯爵夫人とダニエル・デニースのスザンナと共演したことがあった。
アンネはすごく背が高いけど、デニースは小さくて、しかも暗がりで手にキスをしようとすると、
(注:デニースは肌の色が褐色なので)スザンナのココア色の手がいつの間にか白くなってる!(笑)
何とか目をつむってキスをする策で切り抜けたけれど、背があれだけ違うと、
さすがにどうしてすぐにわからない?ってことになるよね。
あと一つ、モーツァルトで役の取替えといえば、『ドン・ジョヴァンニ』での
レポレッロとジョヴァンニのそれがあるけど、一度なんか、僕のジョヴァンニに対して、レポレッロ役がアラン・ヘルドでさ、
あの人、何?9フィート11インチ(注:300メートル。9/11事件とひっかけた数字でもある。)
くらいあるんじゃないの?しかも禿げだし、、、(笑)
(注:こちらの記事の三枚目、五枚目の写真を参照。)
OZ: 『ルチア』のエンリーコと『ドン・パスクワーレ』のマラテスタは全く違う役だと思いますか?
MK: 答えはYesとNoの両方かな、、役のキャラクターはもちろん違うけれど、
いずれもベル・カントという点では共通しているから、それほど歌う時に差をつけているわけでもないよ。
ただ、マラテスタの場合、短い音が多いということは常に念頭に置くようにしている。
ベル・カントでは通常、エンリーコなんかもそうだけど、長いレガートのラインをとって、
音を綺麗にホールドするということが大事なんだけど、マラテスタのようなコメディーの役でそれにあまりこだわると、
だらだらとして、おかしみが失われてしまうから、コメディーでは軽く、軽く!が基本だね。
OZ: もう一つの代表的なあなたのレパートリーに『エフゲニ・オネーギン』がありますね。
MK: オネーギンは自分の声にも合っていると思うし、好きな役でたくさん歌っているよ。
ただ、タイトルは『エフゲニ・オネーギン』だけど、
登場場面(注:これは明らかに”歌による”という意味です。)が少ないんだよね。
一幕は、ずっとなんにもなし、なんにもなし、、というのが続いて、
ニ幕も一場は最初は何もなし、、と思ったら、場の最後に突然気がふれたようになって(笑)、
かと思うとまた二場で何にもなし、、、、
で、三幕なんていう最後の最後に、この演目でこの役に必要な最高音が待ってるんだよ。
だから、これはこれで大変な役だよ。
その逆は『ロジェ王』だ。作品自体、1時間20分くらいの長さの作品なんだけど、
僕が歌う時間も1時間20分くらい。つまり、ずっと歌いっぱなしなんだ!
オケは分厚いし、音程の高低の差も大きいし、ドラマティックだし、最後に”太陽のアリア”なんていうのも待ってる。
この作品はすごく面白くて、神、信仰、結婚生活の問題、などなど、色んなアスペクトで斬ることが可能なんだ。
でも、それゆえに演出がやりすぎになってしまう危険性があるんだよね。
パリではワルリコウスキーの演出だったんだけど、非常に複雑で僕自身、
彼が意図した全てを役に投影できたかどうか自信がないし、
もしかすると、彼自身もよくわかってなかった可能性もあるなと思ってるんだ。
むしろ、歌手たちと一緒に仕事をする中から、その答えを見つけよう、というスタンスに近かったんじゃないかな。
終演後には、物凄い歓声と物凄いブーの嵐だったけど、こういう風に観客の受けが分かれるというのは僕は結構好きなんだ。
マドリードで再演も予定されているよ。

-----------------------------------------------------

(実によく喋るマリウス!字数が足りないので、残りは後編へ。
写真はマリウス自身の言葉の中にもある2005-6年シーズンの『ドン・パスクワーレ』より、アンナ・ネトレプコと。)


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MetTalks: DON CARLO 後編

2010-11-01 | メト レクチャー・シリーズ
前編より続く>

ネゼ・セギャン:先ほど、カラーという話が出ましたが、私の場合は心理的カラーを探すことを、
リハーサルの最大の目標にしています。
言葉で歌われるのはたった一言だったとしても、先ほどロベルトが語っていたように、
オーケストラには、もっと多くのことを表現するための機能が与えられているように思います。
『ドン・カルロ』の登場人物のほとんどは、抑圧された側面がありますね。
唯一の例外はロドリーゴでしょうか?彼だけはひたすら突き進む!といった雰囲気があります。
またこの作品は低声歌手にも大きな比重が置かれているのが特徴かと思います。
例えばエボリに与えられた音楽は、もちろんスペイン風なメロディーもありますが、”軽い”とはとても呼べない音楽です。
とにかく、非常に多層的な作品ですね。
歌手たちの場合と同様、オーケストラからも作品にふさわしいカラーを引き出すのが、指揮者の大切な仕事の一つであると思います。
ハイトナー演出の『ドン・カルロ』はROHで二年前に上演された際、パッパーノが指揮したわけですが、
指揮のプロセスというのは、音を構築する中で、音楽が各役を通して伝えたいことは何なのか?ということを探す作業だと思いますので、
私の指揮からは、また彼とは違うものが出てくるでしょう。
私は自分の役目をファシリテーター(人と人の間に入って調節する役目の人間)という風に考えており、
決して、征服し命令するためにそこにいるのではありません。
それは共同作業の中から生まれるものであり、演出家には4年もの準備期間が与えられるわけですから、
指揮者には二日とは言わず、最低でも二ヶ月位の期間は必要なのです(笑)

フルラネット:『エルナーニ』(のシルヴァ)や『シモン・ボッカネグラ』(のフィエスコ)には
非常に美しい音楽が与えられてはいますが、ドラマの面での深さというと、フィリッポの足元にも及びません。
シルヴァは単なる典型的な頑固じじいですし、フィエスコに関しても、最後に贖いが訪れるとはいえ、
実に自分を曲げられない頑なな人間です。

女史:あなたは長い間、モーツァルトの作品を歌って来られましたね。

フルラネット:もう20年以上にもなりますね。
そして、モーツァルト作品が自分のレパートリーにあるというのは最高の幸運です。
2004年(注:おそらく2003-4年シーズンの意で、実際の公演の日時は2003年だと思います)にも、
ここメトの『フィガロの結婚』で、若者であるはずのフィガロの役を歌ってしまいました(笑)
フィガロ役は歌っていて自分が幸せになれる役です。
他の疲れる役、まあ、ヴェルディの作品はその中に入るわけですが(笑)、を歌って、
あまりハッピーでなくなってきたり、なんだか体が疲れて来たぞ、と思ったら、
そろそろモーツァルトに帰らなきゃ、と思います(笑)。
まあ、フィリッポなんかはまだいいですが、『アッティラ』や『オベルト』なんか、
まさに汗と血!という感じの作品ですからね。
モーツァルトは20年を経た今でも、歌っていて非常に楽に感じますし、声の薬と言ってもよいですね。

キーンリーサイド:本当、『フィガロの結婚』という作品には、疲れることも、飽きることもありません。
疲れというのは、舞台上でドラマに漬かりきることから生まれるんです。
モーツァルトの作品を歌う時というのは、それとはちょっと違って、
おもちゃ箱のおもちゃを取り出して遊ぶような感覚があるんですね。
僕は今でもそれが楽しいし、もちろん、今後もモーツァルトの作品は歌って行きたいと思っています。

アラーニャ:そっかー!何で僕がいつも大変で、疲れてばっかりなのかわかったぞ!
モーツァルトの作品がレパートリーにないからだな!!(笑)
僕のレパートリーの話をすると、『愛の妙薬』、『ロミオとジュリエット』、
それから『ランメルモールのルチア』といった作品は、これからも歌い続けていくつもりだよ。
それから、『カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師』も!
後、新しく挑戦する予定の作品は『ル・シッド』と『オテロ』。
(アラーニャがオテロを歌う!というので、会場がざわついたのを見て)
やっぱりクレージー?ま、それが僕の性格だからさ!(笑)

ネゼ=セギャン:モーツァルトに関する皆さんの意見は良くわかります。
モーツァルトもそうですが、あとフランスものもオーケストラの音を健康的に保つのに有効だと個人的には思います。
脂肪がつきすぎた音をそぎ落としてくれるというのか、、。
(メトの)オケは、『ドン・カルロ』の公演が始まる前に、『コジ(・ファン・トゥッテ)』を演奏するんですよね。
コジですっきりした体のオケと『ドン・カルロ』を演奏できるというのはとってもラッキーです。
ま、僕自身も似た作品ばかりを演奏することが出来なくて、
マーラーを指揮して”ああ、自分は何て幸せなんだ!”と感動に震えていたかと思うと、
すぐに”なんだかシューベルトが懐かしい、、、。”なんて思えてきてしまうんですけれども。
まあ、でも、オーケストラをクレンジングする音楽というのはとても大事です。



女史:皆さん、例えば就寝する前とかプライベートな時間に聴かれる音楽は何でしょう?

ネゼ・セギャン:もちろん、ロベルトの最新CDでしょう、それは!!(笑)
オペラやクラシックがやっぱり好きなんですが、最近、怪我を防ぐためと健康管理のためにジョギングを始めまして(笑)、
ジョギングしながら聴く音楽は、それとは違うタイプのものが多いですね。

キーンリーサイド:ジャズ、ブルース、室内楽、ストリング・カルテット、、何でも聴きますよ。
自分が歌ったものの録音は、、、(笑)まあ、オペラなんかは色んな発見があるのでたまに聴きますが、
歌曲なんかで自分が歌っているものをじーっと聴くなんてことは絶対にNo!!(笑)

アラーニャ:この仕事に携わっていると、24時間音楽に浸かってるようなものだからなあ、、。
強いて言えば、ワールド・ミュージックとかかな。
今新しいレパートリーを覚えなきゃって時に、スコアを見ながら違う音楽のCDが流れている、ってこともよくあるよ。
僕の家族は音楽一家だったから、僕が歌の勉強をしている間に周りでギターが鳴ってる、なんていうのは普通の環境だったからね。

フルラネット:オペラこそ、私の命!ですが、リラックスするなら、ルーツに戻って、
ギター・バンドの音楽、オールディーズ、60年代のロック、ビートルズやポール・サイモンの音楽なんかを聴きますね。

女史:ライブ・イン・HDなどの試みについてどう思われますか?
HDのために特に役の演じ方を変えられる、というようなことはありますか?

フルラネット:カメラがあろうとなかろうと、表現すべきドラマは全く同じであり、
よって、演じ方も同じであるべきだと思います。

アラーニャ:僕の場合は大きく変わるよ。カメラのフレームに入っている間に指揮者の方を見たりしたら、
その瞬間、オーディエンスの側からは、僕が役から抜けてしまっているように見えるんじゃないかな。

キーンリーサイド:僕はバリトンですから、そんな風に自分にずっとカメラが回っていないこと位は十分承知してますんで(笑)

女史:あらま!ちょっと待ってくださいよ!よくそんなこと仰るわ!
『ハムレット』の時に、カメラがあなたにずっと張り付いていたのを覚えてらっしゃらないの?

キーンリーサイド:(笑)まあ、HDの場合は、一体どんなショットが取られているかも、
また、どのカメラのショットが実際に上映にのっているかもわからないですからね、、。
ただ、基本的には、僕の場合、一つの役のスーツを身に着けた時、その表現の可能性は100万通りあると思っています。
たとえ、観客の目には判らない範囲のことでも、自分がその可能性の中における、
正しい場所、ポイントにきちんといれば、カメラがあろうとなかろうと、何の問題もないと思います。

女史:マエストロ、あなたの場合は舞台にいる歌手とは少し事情が違いますが、
HDの公演の時は、アドレナリン・ラッシュが起こったり、とか、何か違って感じることはありますか?

ネゼ・セギャン:もし、アドレナリン・ラッシュが起こるとすれば、指揮者としては、
そうならないようにするにはどうすれば良いか、考えなければならないと思います。
私自身は、そういうことは一切ないですね。
ただ、一つ言えるのは、このHDの試みによって、歌手の役の取り組み方、役作りに、
以前とは大きな違いが出て来ている、という点です。
でも、オペラ作品の録音のデジタル化が競って行われ、”一音一音完璧に!”ということを、
レコード会社も聴衆も求めているように感じられた時期がかつてありましたが、それは結局長続きしませんでした。
というのは、オペラの優れた公演というものは、一音一音の完璧さが問題なのではなく、
パッションとかエネルギー、そういったもので成り立っているからです。
HDに関しても、同じことが言えるのではないかな、というのが僕の考えで、
そういうパッションをとらえられたとすれば、そのHDは素晴らしいものになるでしょう。
指揮者としては、いつもと全く同じように!という姿勢を心がけています。

キーンリーサイド:一つ、メトのHDに関して言うと、マイクの設定の仕方や録音の仕方が良いので、
舞台にいる間に、マイクの方に近寄らなきゃ!とか考える必要は全くないですね。

女史:ではオーディエンスの方からの質問を伺いましょう。

質問者:オペラの公演における、ひっぱる側とついて行く側の関係について伺いたいと思うのですが?

ネゼ=セギャン:歌手、指揮者、演出家、本当のボスは誰?というご質問ですね。
一般的に言うと、アンサンブルの度合いが増せば増すほど、
指揮者はより強いリーダーシップをとらねばならない、ということが言えると思います。
逆に個人のアリアなどの場合は、歌手とのより親密な関係・雰囲気を重視しなければなりません。
指揮者に課された仕事のひとつは、音楽の中にパラメータを置き、それを管理することだと思いますが、
その作業の中で、歌手、オーケストラ、合唱全体が共に呼吸し、共にその瞬間を生きることが大事です。
リハーサルとはそのために存在し、それゆえに非常に大事なプロセスなのです。
リハーサルを重ねることで、みんなが私の設定したパラメータに対して、心地よく感じるように、、。
メトのオーケストラのような優れたオケは、指揮者の腕がしっかりしていないと、
歌手の声を聴いてそれに合わせて演奏してしまえる能力があります。
そういうことが起こってしまうようだと、その指揮者はかなりやばい状況に陥っていると言えるでしょうね(笑)

(写真はいずれも、メトで行われたハイトナーの新演出のリハーサルからで、
一枚目はカルロ役のアラーニャ、二枚目はロドリーゴ役のキーンリーサイドとフィリッポ役のフルラネット。)


MetTalks Don Carlo Panel Discussion

Ferruccio Furlanetto
Roberto Alagna
Simon Keenlyside
Yannick Nézet-Séguin
Sarah Billinghurst

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Don Carlo ドン・カルロ ***

MetTalks: DON CARLO 前編

2010-11-01 | メト レクチャー・シリーズ
今回のMetTalksは、これまでのジョン・デクスターの演出に変わり、
今シーズン、ニコラス・ハイトナーによる新演出がメトに登場する『ドン・カルロ』から、
指揮のヤニック・ネゼ=セギャン、カルロ役のロベルト・アラーニャ、
ロドリーゴ(ポーザ)役のキーンリーサイド、そしてフィリッポ役のフェルッチョ・フルラネットを招いてのパネル・ディスカッションとなりました。
司会はもはやMetTalksシリーズではおなじみになりつつあるメトのアーティスティック部門毒舌マネージャーの、ビリングハースト女史です。

注:今シーズンのハイトナーの演出はロイヤル・オペラハウス(ROH)との共同制作で、ロンドンではすでに2008年に初演されています。

豪華なゲストは豪華なゲストで大変よろしいのですが、ここまでゲストの人数が多いと、頭文字の表記はややこしい、、
というわけで、今日に限っては、名前で表記いたします。
ビリングハースト女史は名前が長いので彼女だけ”女史”で。

女史:別に女性キャストをないがしろにしたわけではないのですが、
エリザベッタ役を歌うマリーナ・ポプラフスカヤは12月の新演出の『椿姫』にも登場することですし、
今日は『ドン・カルロ』からオール男性陣メンバーを招いてのディスカッションとなりました。
もう、ここにいるメンバーは現在のオペラ界の第一線で活躍している方たちばかりですので、
詳しいバイオなどは割愛させて頂いて、メトとの絡みからだけ、簡単に紹介させていただきます。
まず、カルロ役のロベルト・アラーニャは1996年(1995-6年)シーズンに『ラ・ボエーム』でデビュー。
以降、『アイーダ』も含めた多くの作品でメトに定期的に出演してくださっています。
今回NYでは、メトでの『ドン・カルロ』の前に、カーネギー・ホールで(OONYの)『ナヴァラの娘』にも出演されました。
この作品のレコーディングもNYでされているんですよね?
(注:ネットでの情報によると、OONYの公演と同じく、ガランチャ共演、ヴェロネージ指揮だそうです。)
そして、フィリッポII世役のフェルッチョ・フルラネット。(ヘッズから熱い拍手!)
メトにデビューしたのは1980年で、奇遇にも演目は『ドン・カルロ』だったんですが、
当時は宗教裁判長の役を歌ってらしたんですよね。
このデビューで、あなたは、当時、メトで同役を歌った最も若い歌手としての記録を塗り替えました。
その後、『ドン・ジョヴァンニ』(注:ジョヴァンニとレポレッロ両方)、
『シモン・ボッカネグラ』のフィエスコ、『エルナーニ』のシルヴァなどの役で登場され、
現在確定している範囲でも、メトとは少なくとも2014-5年シーズンまで契約してくださっていますので、皆様、お喜びください!
それから、ロドリーゴ役を歌うのはサイモン・キーンリーサイド。
昨シーズンの素晴らしい『ハムレット』が記憶に新しいですね。
デビューは(1996-7年シーズンの『愛の妙薬』の)ベルコーレで、『フィガロの結婚』の伯爵役なんかも歌ってらっしゃいますが、
”苦悩と葛藤にさいなまれる魂”的役柄では並ぶ歌手がいません。まさにリゴレットとかハムレットに代表される役柄ですね。
そして、最後にご紹介するゲストは先シーズン『カルメン』の指揮でメト・デビューを果たしたヤニック・ネゼ=セギャン。
2012-3年シーズンからはフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督をつとめることが発表されています。おめでとうございます。
では、まずそのマエストロにお伺いしたいのですが、フィラデルフィア管とは最近マーラーの5番なんかを演奏されていて、
そういう(交響楽の)レパートリーとは違う『ドン・カルロ』を指揮されるというのは、ちょっとした転換だと思いますがどうでしょう?

ネゼ=セギャン:はい、正式に『ドン・カルロ』の全幕を指揮するのは今回のメトの公演が初めてになります。
ただ、僕が21歳だった頃、モントリオールでアシスタント・コンダクターとして手がけた
最初のヴェルディのオペラ作品が『ドン・カルロ』で、正指揮者はアントン・グアダーニョでした。
まあ、大変な作品で、当時のことはちょっとしたトラウマ的体験になってます(笑)

女史:今回演出のハイトナー氏はこのディスカッションに参加されていないのですが、
舞台・衣装デザインのスライドがありますのでご覧ください。(パネラーの後ろにスライドが映し出される)
今回の新演出の前のプロダクションは1979年にプレミアを迎えたジョン・デクスターの演出で、
そのさらに一つ前のプロダクションも、29年間続いた長寿プロダクションでした。
デクスターの演出に関しては、ハイトナーの演出がプレミアを迎えた後も倉庫でずっと保管することになっていて、
来年6月の日本公演では、ハイトナーの演出ではなく、デクスターの演出の方を持っていく予定になっています。
ところで、フルラネットさん、あなたは先ほどの紹介にもあった通り、メトでは最初は宗教裁判長の役を歌っていて、
それからフィリッポ役を歌われました。

フルラネット:フィリッポは歌い始めて29年ですね。
歌う側が今ある年齢の段階ごとに、少しずつ違った関わり方が出来、
また、どの年齢層の人間にも何かしら共感できる部分があるのがこの『ドン・カルロ』という作品だと思います。
例えばフィリッポは、史実からすると作品の中で中心的に描かれているのは38歳頃のことになるはずだと私は考えていますが、
そういった史実の部分を越えて、私は年齢を経てからの方が、この役が持っている多々の感情をより良く表現できると思っています。
私はカラヤンの指揮でもこの役を歌っていますが、その時の経験は大きな糧となっています。
(といきなりネゼ=セギャンにパンチを浴びせるフルラネット!
1986年のザルツブルク音楽祭で急遽フィリッポ役の代役として、そのカラヤン自身に指名され、リハーサルなしで歌ったという、
”もう彼女は私を愛していない Ella giammai m'amò”の映像がYouTubeにあがっていましたのでご紹介します。)




キーンリーサイド:僕が始めてロドリーゴ役を歌ったのは、今から8~10年位前のことです。
この役はそれまでもずっと歌いたい役の一つでした。
というのも、ロンドンで、シラーによる戯曲を何度か観ていましたので、
じっくりリブレットを読む手間が省けるかな、と、、(笑)
歳をとることで良いことのひとつは、みんなに好かれなくてもいいや、という風に思えるようになることです。
オペラの役の解釈についても同じことがあてはまって、
このロドリーゴという役は、つい、色んな色彩を用いて歌い演じたくなってしまうところなんですが、
僕はこの役はそのように書かれているとは思いません。
だから、まず真っ白なパレットから始めることを心がけています。
フィリッポ役の描写にしても、シラーの戯曲とは違い、
オペラの中の彼は、常に、自分をじっと見つめ黙想しているような雰囲気が底に漂っているのが特徴だと思います。

女史:(オーディエンスに向かって)ちなみに、キーンリーサイドさんとフルラネットさんは、
コヴェント・ガーデンでもハイトナー氏のプロダクションで歌っています。

キーンリーサイド:ヴェルディのオペラには、シラーの原作にあるロマンティックであったり、
センチメンタルであったり、という部分がなくなってしまっていて、それは少し僕にとっては残念な部分なんですが、
その分、宗教的かつ神秘的な側面が増していると思います。

アラーニャ:僕は実はこれまで『ドン・カルロ』に関してはフランス語版でしか歌ったことがなかったから、
ゲルブ支配人から今回のメトの上演(イタリア語版)のオファーがあった時には、”僕も忙しいんで。”と一旦断ったんだけどさ、
ゲルブ支配人が、”大丈夫、大丈夫。君は物覚えが速いから。”って、、(笑)
だから頑張って、二日で頭に詰め込んだよ。
そう、『ドン・カルロ』は、フランス語版を42歳の時にコヴェント・ガーデンで歌ってそれ以来なんだよ。
(注:彼はこのレクチャーの時点で47歳ですので、2005年頃の話と思われます。
なお、こちらのNYタイムズの記事ではアラーニャがこれまでに同作品を歌ったことがあるのは
シャトレ座でのプロダクションのみ、という風に記述されているのですが、
1990年代なかばに彼がコヴェント・ガーデンでマッティラと共演したボンディの演出は、
このシャトレ座のプロダクションを持ってきたもののようです。
ただし、2005年に出演した、という話はROHのデータベースでも裏付けがとれず、
また、こちらのガーディアンの記事で、ゲオルギューが2006年12月以前、おそらく2005-6年シーズンに、
『ドン・カルロス』=フランス語版からキャンセルしたことがほのめかされていて、

その際にカルロス役にキャスティングされていたのがアラーニャだったことは十分ありえます。
彼のコメントについては、アラーニャがそのシーズン、実際に歌ったのか、もしくはアラーニャの完全な記憶違いなのか、
どこかよその歌劇場と思い違いをしているのか、私には良くわかりません。)

女史:『ドン・カルロ』はフランス語版で演奏されると、バレエ付きだったりして、
よりグランド・オペラ的な雰囲気になりますね。
今回のメトの公演はイタリア語でフォンテンブローの森のシーンもある五幕版です。

アラーニャ:一言で言うなら、フランス語版はよりロマンティック、イタリア語版はよりドラマティック、と言えるんじゃないかな。

フルラネット:僕は確か1997-8年シーズンにフランス語版でロベルトと共演してますよ。
私は個人的にはイタリア語での上演が好きですが、、

アラーニャ:それはあなたがイタリア人だからですよ!(笑)

フルラネット:いやいや、それだけではなくて、例えば私のアリア(”もう彼女は私を愛していない”)を例にとっても、
言語が変わると、何か違う種類のものになってしまうような気がするんですよ。
イタリア語の方が、よりパワフルな気がします。
ただ、どちらの版がよいか、という問題はプロダクションとの兼ね合いもありますね。
今回のメトの新演出は、フランス語、イタリア語、いずれでも大丈夫だと思いますが、
コヴェント・ガーデンの(ハイトナーのプロダクションの)前の演出(注:ボンディの演出のことか?)は、
フランス語の方により向いていたと思います。

ネゼ=セギャン:モントリオールは公用語がフランス語なので『ドン・カルロ』もフランス語版が主流だろうと思いきや、
実はイタリア語での上演が主流なんですよ。
フランス語でやれば、みんな意味がわかるのに、馬鹿みたいでしょう?(笑)
ヴェルディはこのオペラの中で、原作よりもさらに人物間の政治的なテンションを高めるのに成功しています。
ロドリーゴとフィリッポのシーンなんかも、よりドラマティックなものになっています。
そういえば、コンチェルターテ、あの『レクイエム』(のラクリモサ)と同じメロディー、は、
フランス語版では存在していたのが、イタリア語版ではなくなっていますね。

フルラネット:(何をいい加減なことを言っとんじゃ、この若造は!という風に憤然としながら)イタリア語版にもありますよ!

ネゼ=セギャン:でも、このプロダクションにはないでしょう?

フルラネット:このプロダクションにはないけれども、、。(とまだ納得しかねる!といった風のフルラネット。
”確かに、言いましたよね、ネゼ=セギャン。イタリア語版には、って。”とつい胸の中でフルラネットの肩を持ってしまうMadokakip。)

ネゼ=セギャン:先ほどフェルッチョが、フィリッポの役を歌うに当たっては、
自分が年齢を経たことが役立っているという風に言ってらっしゃいましたが、
ならば、この作品に初めて立ち向かう自分のような若輩者はどうすれば良いか?(笑)
自分は指揮者ですので、歌手のように言葉で表現するということは出来ません。
で、言葉以外の音楽の部分でヴェルディが彼のそれまでの作品からさらにすすんで
この『ドン・カルロ』という作品で成し遂げたかったことを考えると、
アリアとレチタティーヴォ間のよりスムーズな移行、ということではないかと思うのです。
この作品はヴェルディの作品の中でも最も上演時間が長い作品の一つですが、
音楽だけに限っても美しい旋律が絶え間なく溢れるように流れ出ている作品で、
しかも、そこに恋愛模様であったり、政治的な葛藤であったり、人生の苦悩というものが描かれているわけで、、

(と話が長くなりそうなので女史が割って入りながら)
女史:マエストロが初めて(注:おそらく正指揮者として、の意)手がけたオペラ作品はドビュッシーの作品だったそうですね?

ネゼ=セギャン:ええ、自分で決めたわけではないんですけれども、たまたま『ペレアスとメリザンド』を指揮しました。
まあ、こういうのは縁ですね。
ヴェルディの作品は『レクイエム』はそこそこの回数演奏して来ましたが、オペラの全幕作品はほとんど経験がありませんし、
『ドン・カルロ』は私の大好きなオペラで、いつか指揮したい!とずっと思って来ました。
これほどまでにグランドで素晴らしい作品は、ヴェルディだと、他に『オテロ』くらいしか思いつきません。
さすがに指揮の場合は、作品の準備に二日というわけにはいきませんので、二ヶ月位かけました。

アラーニャ:悪かったですね、どうせ僕はテノールですよ!(笑)
『ドン・カルロ』がなぜ特別か、という話に戻ると、僕はこの作品でヴェルディの作曲のスタイルが変わった、
という点が大きいんじゃないかな、と思うんだ。
それから、実在のドン・カルロにはロドリーゴのような親友もなく、不細工でハンディキャップもあって、、という人物だったけど、
ヴェルディのドン・カルロはロマンティックで、父親との葛藤に悩む、非常に魅力的な人物に描かれているね。
このプロダクションでは、カルロは死んじゃうんだよ。
あれ?これって言ってよかったんだっけ?
(と女史に確認するアラーニャ。”あなた、もう言っちゃってるじゃないの。”と、仕方無げに頷く女史。)
大抵の場合、作品の最後でカルロは”どこか”に行っちゃうでしょ?
でも、この演出でははっきりとカルロが死ぬ設定になっているんだ。

フルラネット:当時のスペインといえばまだ強力な存在感を誇っていて、フィリッポは世界の君主とも言える人物でした。
しかし、一方で、彼は二度も国家を破産させ、財政的には完全に金欠状態。
そこにはやがて訪れるスペインの未来、民主主義への足音ともいうべきものがかすかに感じられ、
宗教裁判長の存在も合わせて、とても多重的で興味深い構成になっています。

アラーニャ:ヴェルディは教会というものの存在の大きさと権力をこの宗教裁判長という役に投影させているんだ。

フルラネット:ヴェルディの出身地(注:ブッセート)があるロマーニャ地方は、イタリアの中でも最も”赤い”地域と言われています。
長い間、ヴァチカンの影響下にありましたから、、。
それゆえに、教会の権力に対する反感が絶えなかったのもこの地域なのです。

女史:(キーンリーサイドに)リゴレットなどの役を演じるのに比べて、
ロドリーゴのような役を演じる方があなたにとっては簡単でしょうか?

キーンリーサイド:肉体的に演じるのが大変だからと言って、難しい役だとは限りません。
例えばリゴレットは、身体的特徴の描写を含めた肉体面での表現の方が大変だと思われがちですが、
むしろ、役にふさわしいカラーを見つけて声に乗せることが大切な役だと言えると思います。
逆にビリー・バッドのような役は、舞台で走りまわって、その中からカラーを見つけて行けばよい。
僕にとって、オペラで最も興味深い点は、音楽のついた演劇である、という側面で、
ドラマ上のアーク(弧)がないと、興味を持てません。

フルラネット:『ドン・カルロ』という作品は、声楽的に要求が高いのはもちろんですが、
カルロにしろ、ポーザにしろ、もちろんフィリッポにしろ、優れた演技力なしではこなせない役柄です。
自分がその役の立場にいたなら、どのようなリアクションをとるだろうか、、?
そういうことを常に考えながら歌い演じるべきで、その点で、フィリッポを歌うということは、とてもメンタルなプロセスです。
ただ綺麗に歌っているだけではオーディエンスの心に届きません。

アラーニャ:例えば『イル・トロヴァトーレ』の、ンパパ、ンパパというような伴奏的なオーケストレーションと違って、
『ドン・カルロ』にはオーケストラが奏でる音楽にも多くの感情表現が込められていることも忘れちゃいけないと思うよ。
この作品に関しては、すべてがオーケストラの音楽の中に表現されている、と言ってもいい位だね。

後編に続く>

(冒頭の写真はメトで行われた新演出のリハーサルから。)

MetTalks Don Carlo Panel Discussion

Ferruccio Furlanetto
Roberto Alagna
Simon Keenlyside
Yannick Nézet-Séguin
Sarah Billinghurst

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Don Carlo ドン・カルロ ***

THE SINGERS’ STUDIO: ANNA NETREBKO

2010-10-12 | メト レクチャー・シリーズ
今日のシンガーズ・スタジオのゲストは、『ドン・パスクワーレ』の公演に向けてすでにNY入りしているアンナ・ネトレプコ。
彼女が華奢で可愛らしかったのはそんなに昔のことではないのに、
ブルーのブラウスに、ベージュのロング・カーデをはおって現れた彼女はもはやロシアのおばちゃんのような風格をたたえています。

今日のインタビュアーは、再びオペラ・ニュースの鉄仮面編集長ドリスコル氏。
オペラ・ニュースの最新号(11月号)にも、彼女のインタビュー記事がフィーチャーされていて、
今回の内容と重複する部分もあるのですが、
それ以外にも、非常に興味深い内容が多く、彼女というアーティストを知るのにとても有益なことが含まれていますので、
いつも通り、思い出せる内容をすべて意訳でご紹介したいと思います。
しばしば誤解されやすいところもある、彼女の人となりが伝われば幸いです。
彼女をAN、鉄仮面編集長をFPDと表記します。

FPD: もうすぐメトで『ドン・パスクワーレ』のノリーナを歌われますね。
AN:  ええ、マノンとかヴィオレッタのような死ななくてよい役なのでハッピーよ。
私はコメディーが大好きだし、なかでもこのノリーナのキャラクターが好きなので。
ベル・カントの、特に喜劇的作品は、音楽的演劇とでもいえばいいかしら?
アンサンブルが多く、一人で歌い上げる場面が少ない。でも歌っていて、すっごく楽しいわ。
また、より演技に集中する必要があって、歌詞を(音楽的な)音として発するよりも、
より言葉の意味をきちんとのせて歌うことが大事だと思う。
今回の(シェンクの)プロダクションは、ビジュアル的にもすごく綺麗ですね。
FPD: ドニゼッティとベッリーニの作品の違いについて、どう思われますか?
AN:  (鼻の付け根に皺を寄せて、”げーっ!”という表情)
FPD: (編集長特有のいつもの鉄仮面顔のまま)だから、音楽に関する質問もしますよ、と事前に申し上げたではないですか。
AN:  でも私もその場で、そういう質問、やめて下さいね、って言ったじゃないですか!(会場爆笑)
もちろん、どちらも素晴らしい音楽よ!でも、うーん、そうだな、、、ベッリーニの方が、歌声がより美しく聴こえるような気がするかな。
でも!私、聴くのは、ワーグナーの音楽が一番好きなのよ。(鉄仮面と会場、共にどよめく。) 『ローエングリン』とかね。
FPD: 話を『ドン・パスクワーレ』に戻しましょう。今回、ノリーナをどのように演じるつもりですか?
前回(2005-6年シーズンの公演で、フローレス、アライモ、クウィーチェンと共演)のあなたのノリーナは元気一杯、
フィアース(激しい)といってもよいキャラクターでしたね。
AN:  とにかく、スコアを見て、、直感に頼る!スコアにすべてが書かれているから、そこからあとは自分で色々取り出していくの。
FPD:  今までに歌った役の中で、これは自分に向いた役じゃないな、と感じたものはありますか?
AN:  特にないですね。声の変化のせいで、歌わなくなった、もしくは歌わなくなるだろうと思う役はあるけれど。
FPD: 出産を経験されてから、何か変わったことは?
AN:  声がすんごく大きくなったの!(笑)
FPD:  お子さんが生まれてすぐ?
AN:  初めて歌ったのはティアゴが生まれて数ヵ月後だったはずだけど、
何もしなくても以前の3倍くらいの声量が出るようになっていたの。
FPD:  これから数年で新しく挑戦したいレパートリーについて話していただけますか。
(少し躊躇する様子のネトレプコに)話したくないの?
AN:  (しどろもどろになりつつ)そうじゃないんだけど、、、
たぶんお考えになっているので合っていると思います。(注:『ローエングリン』のエルザのことか?)
これまで歌って来たレパートリーでまだまだ歌い続けたいと思っているのは、マスネの『マノン』ね。
『ロミオとジュリエット』(グノー)なんかもそうですが、作品が長いという意味では大変なんだけど、
私にとっては、無理をしなくても比較的楽に歌えるレパートリーがこのあたりなんです。
ただ、ジュリエットのキャラクターは段々歳をとりつつある自分にはきつくなって来ているかな、とも思うけれど。
FPD: 少しあなたの初期の経歴に目を移しましょうか。声楽の学校に行かれたのですよね?
AN:  音楽学校(musical college)に2年、コンセルヴァトワールに5年通いました。
コンセルヴァトワールでは演技はもちろん、バレエ、舞台上の動き、ファイティングの方法、
それから16世紀、18世紀等、各時代ごとの身のこなしの違い方、といったものまで勉強しました。
FPD:  当時、自分が歌手としてこれほど成功すると思っていましたか?
AN:  全然!! もちろん、そうなればいいな、とは思ってはいましたが、夢の夢だと。
FPD: 以前はモーツァルトのオペラもよく歌ってらっしゃいましたね。
AN: ええ。ただ、今は声の変化のために歌いにくくなって来たので、少しずつ減らしているところです。
FPD: 新演出ものとリバイバルの公演、どちらが好きですか?
AN: 実を言うと、新しいプロダクションで、スタッフや共演者と一緒に時間をかけて公演を作り上げていく方が、
リバイバルの演出にぽん!と入っていきなり歌うよりずっと好きなんです。
でも、子供が出来た今、2、3ヶ月の長期にわたって家を空けるのは辛い。
今はまだいいけれど、ティアゴが学校にあがる頃は、もう少しセーブしなければならなくなるかもしれないな、と思います。
FPD:  現在自宅はオーストリアでいらっしゃって、NYにもアパートメントをお持ちなんですよね。
AN:  ええ。でも、ほとんど家にいることがなくてあちこち飛び回っているような気がするわ。
ただ、ティアゴが旅行好きなのは助かっているの!
FPD: つい最近コヴェント・ガーデンと日本にツアーに出られましたよね?その時ももしかして一緒に?
AN:  ええ。日本にいる間に、ティアゴが日本語を喋り始めたわ。
FPD: ええ??まさか!?(笑)
AN:  もちろんまだ二歳だから、きちんとした意味の通る日本語を喋っているわけではないけれど、
*&^#@)^%^$(と日本語の語感を真似しながら)みたいな音をたてているのよ!
だから、”これは絶対に日本語を喋っているつもりに違いない!”って(笑)
FPD: あなたのパートナーでいらっしゃるアーウィン(・シュロット。ウルグアイ出身のバス・バリトン)の母国語はスペイン語、
あなたはロシア語、それから2人で会話される時は英語、なんですよね?
AN: そう!だから、ティアゴはかなり混乱してるわよ(笑)
FPD: あなたは最初から声楽を勉強したのですか?
AN: いえ、ピアノが最初、でも全然才能がなかった(笑)
音楽理論は右の耳から入ったと思ったら、すぐに左の耳から出て行くような状態だし、、。
オペラの公演を準備する時に、私にとって一番興味があのは物語の背景、歴史を知ることなんです。
FPD: そういえば、あなたは2011-12年シーズンの(オープニング・ナイト演目!)『アンナ・ボレーナ』に出演しますね。
そうすると、その準備も進んでますか?
AN: まだ一回もスコアを見てないわ。
(固まる編集長。)
もちろん、歴史的背景なんかは調べてますけど。
FPD: 2006年にオペラ・ニュースがあなたにインタビューを行った際、あなたはこのような趣旨のことを言っていました。
”大きな声で歌っている方が体がリラックスしている状態になるので楽なんです。
ピアノと指定されている音を歌う方がずっと難しい。”
AN: そんなことを言ってました?
多分、私が言いたかったのは、ピアノのように音の緊張度が高まる場面ではついナーヴァスになってしまう。
リラックスした方が良い音が出る、という程度のことだったんだと思います。
でも、ここ5年くらいかな?自分には経験がある、とやっと思えるようになったの。
今年のザルツブルクで(グノーの)ジュリエットを歌った時、ある日、朝起きてみたら、声が出なくなっていたことがあったの。
でも、主催者側には、どうしても出演してほしい、と言われて、
とりあえず会場に向かう車の中で、アーウィンに”どうしよう、こんなで歌えないわよね。”と囁き声で話していたくらい。
でも、これで地球が滅亡するわけでもあるまいし、今の私には経験があるんだから!
と思い切って舞台に立ってみたら、私が朝にそんな状態だったとは誰も気づかなかったわ。
FPD: 声が出なかった理由はなんだったんでしょうね。
AN: 今でもあれがなんだったのかよくわかりません。
ベッリーニの『カプレーティとモンテッキ』は本当に美しいメロディで、いつも泣いているような感じね。
でも、難しくて、、、多分、もう歌わないと思うわ。
グノーの『ロミオとジュリエット』は対照的に、とても強いキャラクターで、
私の声にも向いていて、声楽的には良いと思うのだけれど。
FPD: 特に思い入れのある役、良くレッスンで歌う役というのはありますか?
AN: ないわね。練習は10分くらいして、後は、、(ぱたん、とスコアを閉じる仕草。)あまり好きじゃないの。
(普段よりも一層鉄仮面状態、歌手としてあるまじき姿勢!とばかりに、憮然とした表情になる編集長。)
大事なのはリハーサル!!すべてはリハーサルの中にあるの。
だから、役を覚えるのは一気にやって、あとはリハーサルで細かい肉付けをしていく感じです。
私の耳は、学ぶのにはあまり向いてなくて、聴いたものをそのまま再現する力の方が強いと思うの。
役を覚えるのは本当に早いわよ。ロシアにはあまり自国のレパートリーが多くない、というのも一因かも、、。
キャリアの初期には、本当にたくさんの非ロシアもののレパートリーをすごい速さで覚えなければならなかったですから。
FPD: かつてメトで合唱のスタッフもつとめていた私の同僚が、バーデン・バーデンで
あなたが出演した、チャイコフスキーの最後のオペラ作品である『イオランタ』(注:2009年7月)を鑑賞したんですが、
私の生涯に聴いた中で、最も記憶に残るオペラの公演の一つ、と言っていました。
彼の経歴からもわかるとおり、ものすごくたくさんのオペラの公演を聴いて来た人ですし、
その彼がそのように言ったというのは、ちょっとしたことだと思います。
AN: ありがとうございます。でも、あの『イオランタ』も一週間で覚えたのよ。
FPD: 一週間?! (また、この女は、、という呆れ顔とまじ驚きと賞嘆が混じったような、
滅多に見ることが出来ない人間的な表情を浮かべる編集長。)
AN: ええ、一週間です。
FPD: 私なら一週間CDを聴き続けても、一緒に歌うことすら出来ないでしょうに、、(会場、笑いと頷き。)
ところで、『エフゲニ・オネーギン』の全幕に出演する予定があると伺いましたが?
AN: ええ、やるわよ、ここメトで!!
『オネーギン』はずっと避けていたんですけど、ピーター(・ゲルブ支配人)に説得されてしまって、、(笑)
『オネーギン』をやるなら、絶対メトでやらなきゃ!と、、。
FPD: 今までNYでは、ガラでディミトリ・ホロフストフスキーと抜粋を歌ったことがあるだけですよね?
AN: これからも、タチアナはそんなに多く歌うつもりのない役です。
タチアナ役は、テッシトゥーラがあまり高くなくて、ほとんどの音がファースト・オクターブの中にあります。
『オネーギン』の主役はオケだと私は思っていて、手紙の場なんかも、
美しい旋律を奏でているのは実はオケで、ソプラノは合いの手みたいなものですから。
FPD: ロシアのオペラで、、
AN: (と質問する編集長を遮って、冗談めかしながらも、もうロシアのオペラに関する質問はやめてほしい、という雰囲気で)
どうしてロシアのオペラの話ばっかりするの?
FPD: わかりました。じゃ、ロシア以外のオペラでは何が好きですか?
AN: ドイツもの!!!なんてね。
まじめな話、『ルル』(作曲家のベルクはオーストリアの人ですが)は大好き。
ただ、私は他の言語に比べてドイツ語の単語を覚えるのが苦手だから、そこが大問題ね。
それでなんでウィーンに住んでいるかって?だってみんなが英語を喋ってくれるんですもの。
私の英語は完璧じゃないけれど、一応生活するに苦労しない程度には話せますから、、。
もちろん、ワーグナーの作品には大きな敬意を持っています。
ワーグナーの作品に出演することになったら、準備も一週間というわけにはいかないわね(笑)。
実際、私になんとか歌えるかもしれない役は『ローエングリン』のエルザだけなんですが、
もし、歌えることになったら、ティーレマンに指揮してほしい!!
それから、めちゃくちゃ厳しいドイツ語の先生も必要だわ。
FPD: あなたはビジュアルも重視されるようになったオペラのトレンドの中で非常に有利な存在で、
あなたを羨ましく思っている同僚もたくさんいると思いますが、
ライブ・イン・HDのような試みについてどう思うかお聞かせください。
AN: HDは嫌い。(あまりにもはっきりとした一言に息を呑む編集長と会場)
だって、あまりにもストレスが大きすぎるんですもの。
HDが好き!なんて本気で思っている歌手や劇場のスタッフは一人もいないわ。
HDの舞台をつとめる歌手は一週間くらい前からみんな胃が痛くなるような緊張に悩まされているのよ。
ストレスは体に余計な緊張を生み出して、一層歌うのが難しくなるし、
舞台裏(HDの司会役の歌手のこと)や客席では他の歌手が見ている、、タフでなきゃ、とてもつとめられないわ。
FPD: そんな状態を解消するのに役立つことはなにかありますか?
AN: ないわ、何も。経験と鉄のような強い神経、それだけが味方。
FPD: 公演がない日にはどんなことをしてますか?
AN: 演奏会に顔を出すこともありますが、あとはショッピングと料理、そう、料理ね!
時間があれば料理をしてます。美術館とかにはあまり行かないわ。
え?何を料理するかって?ロシア風サラダとか、、即席で新しいメニューを作るのが好きなの。
特に家族とか親しい友人のために料理するのは、とてもリラックスできるし楽しいわ。
映画は最近はティアゴの喜ぶものばかりを観ているので、漫画オンリー!頭がどんどん悪くなってるわ!(笑)
FPD: 過去に活躍した歌手、現役の歌手を問わず、ロール・モデル、目標にしている人はいますか?
AN: ええ、それはたくさんいるわ!現役の歌手は全員よ。
現役の歌手の方たちが出演している公演を観にいくと、いつも必ず何か学ぶものがあるもの。
現役以外の人だと、カラス、テバルディ、フレーニ、スコット、、
そして、ジョーン・サザランド!!(注:この日はサザランドの訃報が出た翌日のことでした。)
あの美しい声とコンピューターのように完璧なコロラトゥーラ!
あんなことを今出来る人はいないし、これからもいないと思うわ。
FPD: 今専任のヴォーカル・コーチはいますか?
AN: 今はいません。5年前くらいまでは、とにかく、いつも、もっと勉強しなくちゃ!早く!早く!という感じだった。
やっとこの5年くらいで、自分にもそれなりの経験がついてきた、という自信のようなものが出て来たかな、、。
契約を結ぶときは、マネージャーたちとあまりに違う種類の役の間を行ったり来たりしないように注意しています。
また新しい役については、5年くらいの余裕をみるようにしています。
FPD: 今シーズン登場する、デッカーによる(メトにとっては新演出になる)『椿姫』は、
当初あなたを念頭において企画されたものでしたね。
AN: 2005年にザルツブルクでかかったものと同じ演出ですが、
あのザルツブルクの『椿姫』は私のキャリアで最も大切なパフォーマンスで、
私にとっては、あれで完結してしまったような気がするのです。
あれ以上出来ることは私にはもう何もない、、。
だから、別のソプラノの方にお願いした方がいいな、と思ったのです。
FPD: 良い健康状態と体型を保つためにしていることは?
AN: 私は食べるのも飲むのも好きだし、それをごまかすつもりもありません。
ジムに通ったり、健康的な食事を、たいていの場合は(笑)心がけています。
ただ、脅迫観念のように、”痩せなきゃ!”と自分を追い込むつもりもないの。
もちろん、ある程度、舞台上で魅力的に見えるように自分をきちんとメンテする責任は感じていますが。
FPD: 『ドン・パスクワーレ』で指揮をするのはマエストロ・レヴァインですね。
AN: 彼は非常にクリアな独自の音楽的ビジョンを持った指揮者ですね。
私たちにとって多少歌いにくい部分があったとしても、彼のテンポの設定などはすごくいいな、と思います。
結局、指揮者がボスだと私は思っていて、
時に指揮者たちが望むものが、私の望むものと違っている場合もありますけれど、仕方ありません。
FPD: 指揮者もそうかもしれませんが、演出家でも同じことが言えるかもしれませんね。
あなたの場合は素晴らしい演出家と仕事をしてきていますから、そういうことは少ないかもしれませんが、、
AN: 良い演出家、、、?んー、中にはそういう人もいたかな、、、(笑)
役作りに当たっては、自分なりに”こうしたらいいのにな、、”と思うこともあるけれど、結局、私は演出家じゃないですから。
ただ、一つ、いつも言うのは、ださい衣装は持ってこないでね!ということ。
別にきらきらと私が目立つような衣装、という意味ではなくて、何か、面白さを感じる衣装じゃないと嫌なの。
FPD: いわゆるレジーを含めた、現代的演出についてはどう思いますか?
AN: 全然OKよ。好きです。
例えば先ほど話にあがったデッカー演出の『椿姫』なんか、ミニマリスティックだけど、
ちゃんと物語の要素がパッケージされていて、素晴らしい演出だったわ。
日本にも持っていったロイヤル・オペラのペリーの『マノン』も、私にはきちんと筋が通った演出に感じられる。
ただ、当初のアイディアでは、ペリーはもっとマノンを小さなティーンエイジャーみたいな感じで描こうとしていたの。
それで、私が”それは無理だわ。”と言ったら、彼は快く調節してくれたわ。
FPD: あなたとローランド・ヴィラゾンは長い間、良きオペラの舞台上でのパートナーでした。彼とは今でも話をしますか?
AN: 彼とはコンタクトが途絶えてしまいました。
正直、私が自分で受話器をとって彼に電話をしたわけではないけれど、
私サイドのスタッフの誰が連絡をしても、彼は出て来ないんだそうです。
彼は私にとって、とてもとても特別な人でしたし、ずっと、皆さんと同様に、彼の幸せを願っています。
(この言葉の後に彼女が口をつぐんで流れた数秒の沈黙から、彼女が心からそう願っていることが伝わってくる瞬間でした。)
FPD: 公演当日に気をつけていることは?
AN: 開演までは一切お酒を飲まないこと、外出もしないこと、重いものは食べないこと、
相手役のテノールのために、にんにく厳禁!鶏肉やパスタなど、蛋白質を多く摂れる食事を心がけています。
公演のない日は朝早く起きて、息子と遊んで、ただ母親であることを楽しむようにしています。
ティアゴが生まれるまでの私は、いつも退屈してましたが、今は退屈するということだけははなくなったわ!
FPD: 先ほどボーカル・コーチはいないという話がありましたね。
AN: 自分自身に耳を傾けるようにしています。自分が舞台に立っている様子を収めたDVDは良く見ます。
良い所、悪い所、全てそこに記録されていますから。
ロシア時代のコーチには、オーケストラに流されずにどのように自分の声をきちんとのせるか、など、
今でもとても役に立っている色々なことを教えてもらいました。
CDも聴きますよ。ただ、音に関しては、自分のではなく、過去の優れた歌手のものを聴くようにしています。
あとは出来るだけ早く自分が学んでいる役で舞台に立つこと。
役を本当に自分のものにするためには、実際に舞台に立つことでしか学べないことがあります。

続いて恒例のオーディエンスからの質問タイム。
Q: 舞台で緊張はしますか?
AN: もちろん!舞台裏では猛烈に緊張しています。でも、一旦舞台に立ったら無我夢中で、あまり何も考えないですね。
Q: リサイタルやCD、DVDの発売の予定はありますか?
AN: リサイタルはあまりやらない方向に進んでいます。
というのも、色んなレパートリーからの、違った言語の曲を短時間の間に歌うというのは結構大変なんですよ。
リサイタルとオペラの全幕を行ったり来たりするということが上手く出来ないし、時間もないので、
どちらかを取らなければいけないのなら、私はオペラの全幕公演をとります。
そして、CDですが、作る以上、何か私にしか出来ないものを作らなければいけないと思うのです。
私はCDを生み出す機械じゃありませんし、
今は録音できる段階にあるようなレパートリーも手元にないので、その時期が来るまで待ちたいと思います。
Q: 来シーズン(2011-12年)の予定は?
AN: アンナ・ボレーナ、愛の妙薬といったあたりが決定しています。
Q: 若いオーディエンスにメッセージやしてあげたいことはありますか?
AN: まず、生の舞台に接しましょう!ということ。
CDもいいですが、やはり生には叶いません。私が生まれ育った場所にはオペラハウスさえなかったの。
とにかく、生にふれてほしい、と思いますね。
ただ、オペラのチケットが非常に高価だ、という問題は私も感じています。
ザルツブルクなんて400ユーロですから!主催者、オペラハウス側も、
一公演だけは学生のために安価なチケットを提供するなどの企画を考えてほしいですね。
歌手を目指す若い人たちのために何ができるか、、私はあまりコンクールというコンセプト自体が好きでないので、
私の名前のついたコンクールを作るようなことはないと思うわ。
Q: オペラハウスによってオーディエンスの雰囲気に違いはありますか?
AN: ウィーンが一番スノッブね。”さあ、どれ位歌えるのか見せてごらん。”みたいな(笑)
Q: 相手のテノールによって歌唱が左右されたりしますか?
AN: もちろん!例えば日本で一緒に『マノン』を歌ったマシュー・ポレンザーニとはすごく相性がいいわ。
彼は情熱的で本当に素晴らしいの!
Q: オペラ歌手が実生活のパートナーというのはどういう感じですか?
AN: 色々と大変(笑)。やっと会えない間にたまっていた話を全部し終えた、と思ったら、
またどちらかが別の場所に移動、という感じで、、。
私が長距離電話する時に限って、彼が急がしくて電話を取れなかったりして、
”もう、何してんの!?”って思うことがしょっちゅうよ。

The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Anna Netrebko with F. Paul Driscoll

Kaplan Penthouse, Rose Building

*** The Singers' Studio: Anna Netrebko シンガーズ・スタジオ アンナ・ネトレプコ ***